タブー


今年もあとたった2日となりました。

こんな時になんなのですが、このブログなどでもたびたび使ってきた写真を販売するネットショップを立ち上げました。

Psycross DEPO という名前で、上のメニューバーからもアクセスできます。A4、A3の高品質プリントの領布を中心に販売活動を行っていきます。大儲けをするつもりはなく、ボチボチやっていくつもりでおりますので、ご愛顧いただければと思います。

来年からは額縁入りの完成品の販売も開始する予定です。なお、年明けは、1月6日より初売りです。

ところで、このPsycrossというのは、ギリシャ語のPshyche(プシュケー)とCross(クロス)を合わせて作った私の造語です。

「プシュケ」ーとは、古代ギリシャで、もともとは息(呼吸)を意味していましたが、長い間にはこれが転じて「生きること」すなわち、命や心、魂という意味として使われるようになりました。

ギリシャ哲学ではかなり広範囲の意味を持つ言葉として使われたようです。この当時の古い文献では、一つの箇所ではこのプシュケーが「命」という意味で使われているのに対し、別の場所では「心」あるいは「魂」という意味で使われたり、さらに別の文脈ではどちらとも解釈可能、ということもあるそうです。

ソクラテスは、プシュケーを知と徳を意味する言葉とし、またソクラテスの弟子のプラトンは、滅びる宿命にある人間に宿る「知」を司るものこそがプシュケーであり、プシュケーは不滅であると述べており、ここには輪廻転生の思想が見て取れます。

また、アリストテレスもプシュケーとは命の本質である「自己目的機能」であり、そして命を突き動かす「起動因」であるとし、人間が生きるために不可欠な能力の総合体である、といった意味のことを言っています。

こうしたプシュケーというものを日本語で表現するのは非常にやっかいなのですが、これを仮に「魂」と訳すとするとすれば、Psycross(サイクロス)とは、こうした魂(プシュケー)と魂が交叉する(クロスする)場、という意味になります。

人は一人では生きていけないもので、人との交流なくして人生はない、という意味を込めて私が造語したものなのですが、これを使うようになって、もう2年ほどにもなります。

が、いまだに色褪せない新鮮な響きがあるなと感じており、自分としてはなかなかいい造語だなと思っています(自画自賛)。みなさんの印象はいかがでしょうか

幸いこのブログは、ご好評いただいているようで、日々ほぼ900人近い方がご訪問くださっていて、日によっては1000人以上のアクセスがあるようです。

ブログという一つの場にこれだけの方が集ってくださるというのは、ある意味では、魂と魂のクロスする場になりつつある、ということでもあります。

サイクロスの名に恥じない場所になりつつあるな、と手ごたえを感じつつあるとともに、伊豆に移住してきて、毎日のらりくらりとこうしたものを書かせてもらえている環境にいるということは、大変ありがたいことと感謝しております。

今後ともできうる限り続けていきたいと思いますので、ご愛読いただければと思います。

さて、このプシュケーは、哲学的な用語ではありますが、ギリシア神話に登場する人物の名前でもあります。

このプシュケーは、もともとは神様ではなく、人間の娘で、ギリシャ時代のある国の3人いた王女の一人でした。

この三人の王女はいずれも美しく、中でも末のプシュケーの美しさは美の女神、ヴィーナスへ捧げられるべき人々の敬意をもこちらへ集めてしまうほどだったといいます。

北空の星座に「や座」というのがありますが、この星座は、これは当たった者は誰もが恋の虜になってしまうという、愛の神エロースの「矢」にちなんでつけられたものです。

エロースは人間の王女プシュケーに嫉妬し、矢を放とうとしますが、いざ矢を射ようとしたとき、ついついプシュケーに見とれてしまいます。そして、そのあまりの美しさのために手元が狂ってしまい、放った矢は誤って自分に刺さり、このため、自らプシュケーに恋をしてしまって、一生、その虜になってしまったといわれています。

ちなみに、このエロースは、原語のギリシャ語では「クピードー」であり、これは英語ではCupidと書き、日本語読みでは、「キューピッド」として知られています。

ヴィーナスもまた、美の女神であり、天界の男神たちの憧れの存在でしたが、ある日このプシュケーの噂を聞きつけ、それによれば彼女は自分よりも美しいというではありませんか。

まさか人間の女に負けることなどとは思いもよらないヴィーナスでしたが、自分よりも美しいなどという評判を黙っているわけにもいかず、息子であるエロースにその愛の弓矢を使ってプシュケーに卑しい男と恋をさせるよう命じました。

悪戯好きの愛の神として知られるエロースは、喜んでこの母の命令に従いますが、上で書いたとおり、誤って自分を傷つけてしまい、逆にプシュケーへの愛の虜となってしまいます。

ちょうどこのころ、プシュケーの両親である、王様とお妃は、年ごろになったというのにプシュケーに求婚者が現れないことを憂いていました。そんな中のある日、二人は突然、太陽神アポロの神託を受けます。

その神託とは、娘を遠くに見える山の頂上に置き、「全世界を飛び回り神々や冥府でさえも恐れる蝮のような悪人」と結婚させよ、という恐ろしいものでした。

悲しむ王様とお妃でしたが、プシュケーは健気にもこの神託に従うことを決意します。そして、高台にある城のある岸壁から、遥かかなたに見えるその山に向かって身を投げました。

すわまっさかさまに落ちていくかと思われたプシュケーでしたが、その時、北風の神であるゼピュロスが飛んできてプシュケーを抱きかかえると、そのままその遠く離れた山の頂まで連れて行きました。

ゼピュロスがプシュケーを連れて行った山の上は、地の果てかと思われましたが、実はこの世のものとは思えない素晴らしい宮殿がある美しい場所でした。

おそるおそる宮殿の中に足を踏み入れたプシュケーの耳に最初に飛び込んできたのは、地の底に鳴り響くような恐ろしげな男の声でした。声の持ち主は姿を見せませんでしたが、宮殿の中にまで轟くこの見えない声をよく聞くと、どうやらここにあるものはすべてプシュケーのものだといっているようです。

プシュケーが周囲を見渡すと、驚いたことに食事や寝所もすべて豪華なものが準備されており、美しい衣装や豪華な装飾品も用意されていて、それらを手にとって見とれているうちに、何やら心地よい音楽も聞こえてきました。

こうしてプシュケーは、アポロからあてがわれた夫は、ほんとうは「神々や冥府でさえも恐れる蝮のような悪人」ではないのではないか、と考えるようになりました。

しかし、この夫はその後もやはり姿を見せようとはしません。その日の夜遅くなっても、現れませんでしたが、眠くなったプシュケーが床に入ろうと寝所に向かったそのときです。何やら、寝所の向こうの暗闇から人気がし、その姿をはっきりと見ることはできませんでしたが、どうやら彼女が横になろうとした床の上にその人物も身を横たえたようでした。

しかし、あいかわらずその夫は自分のほうに顔をみせることはなく、プシュケーは身じろぎもせず夫からのリアクションを待っていましたが、そのうちついつい眠くなり、すっかり寝入ってしまいました。

そして目が覚めると朝でしたが、すぐ側にいたはずの夫は姿を消していました。こうして、この最初の日と同じような毎日が過ぎていきました。相変わらず夫は日中には姿を現さず、夜になって寝るころには現れるのですが、決して顔をみせようとはしません。

しかし、プシュケーも次第にこの奇妙な生活に慣れ、宮殿での生活を楽しむゆとりも出てきました。が、それしてもこの宮殿内には姿をみせようとしない夫以外の誰もおらず、日々を重ねていくにつれ、やがてプシュケーは遠く離れた故郷に暮らしている家族が恋しくなってしまいました。

そして、ある日の夜、いつものように寝所に入って来た夫に思い切って声をかけ、泣きながら、国にいる姉妹たちを呼び寄せてほしい、と懇願します。見えない夫は、渋っているようでしたが、やがて「わかった」とひとことだけ言葉を放ちました。

翌朝のこと、プシュケーが起き出すと、そこには懐かしい二人の姉の姿がありました。二人は眠っている間に連れてこられたようで、どうしてここにいるのかわからない、といったふうな顔をしていましたが、プシュケーの姿を見ると、三人は抱き合ってこの再会を喜びあいました。

ところが、この姉二人は、プシュケーのこの宮殿での豪華な暮らしぶりを見て、だんだんと嫉妬心が沸いてきました。そして、プシュケーから姿を見せない夫の話を聞くと、その夫は、きっと大蛇に違いない、プシュケーを太らせてから食うつもりではないかと言いました。

これを聞いたプシュケーは青ざめましたが、二人の姉はここぞとばかりに、さらに、喰われてしまう前に、夫が寝ている隙に剃刀で殺してはどうかと提案します。

こうしてその日の夜、プシュケーは寝ている夫を殺すべく、夫が寝所に入ったのを見計らって、ロウソクを持って近づきます。そして思い切ってその暗闇に沈む寝顔にロウソクの炎を近づけると、そこにはなんと凛とした若くて美しい男神の姿が照らし出されたではありませんか。

驚いたプシュケーは、あわててロウソクを落としてしまいましたが、そのロウソクから滴り落ちたロウが、エロースの顔にかかってしまい、さらにその火は毛布に燃え移ってエロースは大やけどを負ってしまいます。

妻の背信に気付いたエロースは、大声でプシュケーをののしり、怒った彼はその場を飛び去ってアポロのいる天界へ帰って行ってしまいました。

蛇だと思っていた夫が思いがけず美神だと知り、ようやく姉達の姦計に気づいたプシュケーでしたがもう後の祭りです。

しかし、自分をだました姉達のことを許すことはできませんでした。そして姉たちのところへ行き、エロースは自分を見限って天界へ帰ってしまったが、今度は姉達と再び結婚するために帰ってくるだろう、と嘘を教えました。

こうして、三人は、いったん国の両親のもとに帰りました。そして、城に帰った姉二人が両親にも妹の嘘を教えると、喜んだ王様と妃は、早速、妹と同じく断崖から飛び降りるよう二人に勧めました。

プシュケーの時には、風の神のゼピュロスが迎えに来たことを見ていた二人は、今回も彼が助けてくれるだろうと、さっそく、断崖から身を躍らせました。ところが、空を舞う二人に風が起きることはなく、二人は崖からまっさかさまに落ちて、ばらばらに砕け散ってしまいました。

一方、天界に帰ったエロースを見たヴィーナスは、息子からこの醜聞を聞いて激怒しました。そして、「自らの接吻を与える」という懸賞までかけて、息子を裏切ったプシュケーを捕らえようとしました。

美の神、ヴィーナスが自分を捕えようと怒っているという噂は、すぐにプシュケー達の住む国にも伝わりました。プシュケーは、このため地の神である、ケレースに助けを求めましたが、ケレースからは「ヴィーナスとは長い付き合いだから」といってとりなしを拒否されてしまいます。

そこで今度は母性の神である、ユーノーに助けを求めたプシュケーでしたが、ユーノーもまた、「逃亡した奴婢をかくまってはならないことになっている」という天界の掟を理由にこれを拒否しました。

こうして、行場を失ったプシュケーはやがて絶望し、観念してヴィーナスのもとに出頭することにしました。

素直に自分の元にやってきたプシュケーでしたが、ヴィーナスの怒りはそれだけでは収まらず、プシュケーを捕らえて折檻します。しかも、地上に帰って、私のこれからいうことを実行したら赦してやる、と多くの無理難題を押し付けました。

その一つは、地上にある大量の穀物にすべて名前をつけて、選別せよ、というものでした。しかし、これを命じられたときには、どこからともなく蟻がやってきて穀物の選別を手助けしてくれ、なんとかこの難題をクリアーすることができました。

また、あるときには、凶暴な金の羊の毛を取ってくるよう命じられたプシュケーでしたが、このときにも、河辺の葦が羊毛の取り方を助言してくれて、凶暴な羊をなだめることができ、無事、金の羊毛を持ち帰ることができました。

しかし、それでもヴィーナスは赦してくれず、今度は竜の棲む泉から水を汲んでくるようにプシュケーに命じました。ところが、このときもまた、ユーノーの夫で天空神であった、ユーピテルに助けられ、無事に水を汲んで帰ってくることができました。

このユーピテルは、かつてエロースに可愛がられていた神様の一人でした。

実はエロースは一度はプシュケーの行為を怒ったものの、あまりにもヴィーナスから難題を押し付けられるプシュケーを見てかわいそうになり、ユーピテルを大鷲の姿に変え、このときも竜の棲む池から水を汲みださせてくれたのでした。

こうして、今回もプシュケーは、ヴィーナスの難題を乗り越えることができました。

いくら難題を押し付けてもクリアーしてしまうプシュケーを見て業を煮やしたヴィーナスは、更なる難題をふっかけようと考えます。そして、今度は息子エロースの火傷の介抱のせいで自分の美貌が衰えた、とプシュケーに偽り、今度は、美貌を補うために冥府の女王プロセルピナに「美」をわけてもらってくるよう命じました。

しかし、この際もプシュケーに同情するエロースを初めとする神々のとりなしを得て、首尾よくプロセルピナから「美」が入っているという箱を貰うことができました。

しかし、ヴィーナスからあまりにも数々の難題を押し付けられたったプシュケーは、このときにはもうへとへとに疲れ切っていました。このため自分自身の容色もかなり衰えているのではないかと落ち込み、再びエロースの愛を失ってしまうのではないかと不安になりました。

そして、プロセルピナからはヴィーナスに渡すまでは、けっして箱を開けないよう警告されていたにもかかわらず、これを開けてしまいました。

実は、これはプロセルピナの姦計で、この箱の中には「冥府の眠り」が入っていました。プロセルピナは、地上と天上の人々の尊敬を集めているヴィーナスをかねてからねたんでおり、彼女を眠らせて、その地位を奪おうと考えていたのでした。

そんなことを何もしらないプシュケーが、箱を空けてしまったものですから、彼女は、すぐに深い眠りに入ってしまい、冥府のプロセルピナのところへ連れ込まれてしまいそうになりました。

そのとき、傷の癒えたエロースが現れ、昏倒している妻の周囲から彼女を奈落の底に貶めようとしている「眠り」をかき集めてもとの箱に納めることができ、プシュケーを目覚めさせて、なんとか事なきを得ました。

そして、再びユーピテルを呼び、なんとかヴィーナスの魔の手からプシュケーを助ける方法がないかを相談しました。一度はプシュケーを助けたユーピテルでしたが、さすがの彼もヴィーナスは恐ろしい存在であり、協力を渋ります。

しかし、ユーピテルにも弱点があり、それは三度の飯よりも、「女」が好きなことでした。エロースはこの稀代の女たらしであるユーピテルにいい女を見つけたら紹介してやるから、と言い聞かせ、ユーピテルもこれを聞くと目を輝かせてプシュケーを助けることに同意しました。

しかし、それにしてもどうやってヴィーナスを出しぬくか、を色々考えたユーピテルですが、はたと妙案を思いつきます。それは、プシュケーに神の酒であり、不老不死の霊薬でもある「ネクタール」を飲ませることでした。

ネクタールは「愛」の飲み物であり、これを飲むと、人間も神々の仲間入りをさせることができると言い伝えられていました。これをプシュケーに飲ませ、神にしてしまえば、エロースとの結婚ももう身分違いの結婚とはいえず、これを知ったヴィーナスもいじめをやめるに違いない、と思ったのです。

こうして、プシュケーはネクタールを飲み、かくて「魂」は「愛」に満たされることになりました。こうして、エロースと幸せな結婚生活を手に入れたプシュケーは、エロースとの間に「ウォルプタース」という名の子を設けました、

そして、このウォルプタースこそが、人間に持たらされる「喜び」になったと伝えられています。

しかし、この喜びは、時に「悦楽」ともなり、その後永遠に人々を苦しめる根源にもなっていきました……

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─── いかがだったでしょうか。なかなか斬新な物語であり、私もあまり耳にしたことのない話だったので、面白く感じました。

ところで、こういう話は、いわゆるひとつの「見るなのタブー」といわれるものです。

世界各地の神話や民話に見られるモチーフの一つであり、何かをしている所を「見てはいけない」とタブーが課せられたにも拘らず、それを見てしまったために悲劇や離別またはに恐ろしい目に遭うというパターンに陥る、という話です。

プシュケーの場合は、見てはいけないといわれた夫のエロースを好奇心で見てしまうことから、ヴィーナスにつけ狙われるようになりました。

心理学的にはこの様に見てはいけないと言われると余計に見たくなってしまう心理的欲求を「カリギュラ効果」と呼ぶそうで、これは一般には「タブー」ともいわれます。

こうしたギリシア神話だけでなく、日本神話にも多くみられ、その代表的なものは「鶴の恩返し」でしょうか。この場合、恩返しのために身の羽根を抜いて反物を織っていた鶴が、機を織るところを見てはいけないと釘をさしたにも関わらず、老夫妻がこれを見てしまい、夫婦と鶴の別離という悲劇が生まれます。

異類の者と結婚をした人間が、見るなのタブーを犯して異類の者の本当の姿を見てしまい、それが元で離別するという話は、メルシナタイプ(メリュジーヌ・モチーフ)とも呼ばれています。

メリジューヌというのは、フランスの伝説であり、頭部と胴体は中世の衣装をまとった美女の姿をしていますがが、下半身は水蛇の姿をしている怪物です。実はある王国の姫君なのですが、呪いをかけられ、週に一度この姿に変えられてしまう、といったストーリーで、こちらもその姿をみると災いがおこる、という話のようです。

こちらも面白そうなのでもう少し紹介したいところですが、長くなりそうなので、今日はやめておきます。

上述のようなギリシャ神話の中にもこうした「見るなのタブー」は多く、「パンドラの箱」などもその典型です。ただし、原作は「箱」ではなく、「壺」だったようです。

人間に火を使うことをもたらしたプロメーテウスを懲らしめるために、ゼウスはあえて彼の弟であるエピメーテウスの元に、「パンドラ」という女性に壺を持たせ、彼女とともに贈ります。

その時、「この壺だけは決して開けるな」と言い含めていたにもかかわらず、エピメーテウスと結婚したパンドラは、ふとしたときに「この壺は何かしら」と気になり、壺を開けてしまいます。

そして、そこからは、恨み、ねたみ、病気、猜疑心、不安、憎しみ、悪徳など負の感情が溢れ出て、世界中に広まってしまいます。慌てたパンドラはその箱を閉めようとしますがもう後の祭りで、もう既にたった一つのものしか残っていませんでした。

そして、その最後に残ったものこそが、「希望」でした。こうして、これ以来、人類は様々な災厄に見舞われながらも希望だけは失わず生きていくことになった、というオチがつきます。

このほかにも、竪琴の名手オルフェウスが、毒蛇に咬まれて死んだ妻エウリュディケーを生き返らせようと決意して冥界へ行く、という話も「見るなのタブー」として有名です。

オルフェウスは、冥王ハーデースと交渉を試みた末に「地上に戻るまでは決して後ろを振り向いてはいけない。成し遂げたら妻を返そう」と約束させることに成功します。しかし、エウリュディケーが本当に後ろにいるか不安だった彼は、もう少しで地上にたどり着くという所で後ろを振り向いてしまい、エウリュディケーは冥界に引き戻されてしまいます。

この話も有名なので、皆さんご存知だと思いますが、この話には後日談があり、それは、オルペウスは絶望しながら地上をさまよい歩いた末、悲惨な死を遂げてしまうというものです。が、その結果として再び冥界に行くことができ、オルペウスはエウリュディケーと一緒になることができました。まあハッピーエンドといえばハッピーエンドでしょう。

この話にそっくりなのが、日本神話のイザナミとイザナギの話ですが、こちらはハッピーエンドとはいえません。

亡くなった妻のイザナミを追って黄泉の国を訪れたイザナギは、中を見るなとイザナミに言われたにもかかわらず、自らの櫛に火をつけ、これを灯りにしてその正体を見てしまいます。自身の朽ち果てた姿を見られたイザナミは怒り、逃げるイザナギを追いかけますが、黄泉の国の入り口からは外に出れず、ここで二人は離婚してしまう、という話です。

現代でも、ある夜化粧を落としてすっぴんになった嫁の姿を見て「ギャー」と驚き、その結果離婚に至ったといった話は多い?ようですが、あなたのお宅はいかがでしょうか。

このほか、スサノオノミコトの話も有名です。これは、高天原を追放されたスサノオといが。下界へ下る途中でオオゲツヒメの饗応を受けますが、オオゲツヒメが料理を用意している所を覗き見てしまい、そこでオオゲツヒメが口や尻から食物を取り出していたことを知ります。

怒ったスサノオは、オオゲツヒメを斬り殺してしまう、という話ですが、このケースでは、とくに見ることを禁止はされていないものを勝手にみてしまったわけであり、必ずしも見るなのタブーとはいえないかもしれません。が、その変形であるということはいえそうです。

ほかにも日本神話の中には、いまや民話になってしまったものも多くありますが、これとよく似た民話で、山幸彦で有名な「ホオリ」という神様の話もあります。

これはオホリが天上界から下界へ降りる段で、妻となるトヨタマビメに子を産む所を見るなと言われたにもかかわらず、産屋を覗き見てしまい、妻が八尋の和邇というサメに姿を変えているのを目撃してしまうというものです。

これが元で、トヨタマビメは子を産んだ後、海の中へ帰って行ってしまい、このときに産まれた子がウガヤフキアエズで、その子が天皇家の始祖、神武天皇であるというお話なのですが、そうすると、今の天皇家はサメの子孫かい、という話になり、はなはだ不敬な民話でもあります。

さらには、日本書紀にも、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)という女の神様の話があります。この話では、倭迹迹日百襲姫命が大物主(おおものぬし)という男神と結婚しますが、大物主が夜にしか現れないので、姿を見たいと大物主に懇願すると、彼は姿を見ても驚かないようにと言います。

翌朝、蛇に姿を変えて、ちんまりと小さな櫛箱に入っていた大物主を見た倭迹迹日百襲姫命は、びっくりするどころか、大笑いしてしまいます。そしてこれを見た大物主は、それみたことか、わしに恥をかかせたなと怒って山に帰ってしまいます。

この話にはおそろしいオチがあり、これを悔いた倭迹迹日百襲姫命は自らの行いを恥じて女性器を箸で刺して自害したそうです。日本神話の場合、このように結構グロイものも多いようです。

このほか、日本の民話としては、上述の鶴の恩返しのほか、蛤女房、浦島太郎、見るなの座敷、舌切り雀、安達ヶ原の鬼婆、などなど、たくさんの見るなのタブーがあります。

それをひとつひとつ紹介しているとキリがないので、そろそろやめにし、来年の夢でもみる準備をすることにしましょう。

しかし、来年起こることを知りたいのはやまやまですが、見るなのタブーを犯すととんでもない災難がやってくるかもしれません。

夢でも知りたい未来は初夢にとっておくこととして、年末には何も夢見ず、酒を飲んでぐっすり眠ることにしましょう。

みなさんの年末はいかが進行中でしょうか。おそらくは大方の人が大掃除を終え、お節料理の準備に忙しいことでしょう。年末年始はおいしいものをいっぱい食べて英気を養ってください。

良いお年を迎えられるよう、祈っております。