無論、姪の結婚式がメインイベントではあったのですが、行き帰りの久々の飛行機による移動は刺激に満ちたものであり、懐かしい面々との再会、お好み焼きや鮮魚といった広島ならではの食べ物もたらふく食べ、このほかにも久しく訪れていなかった市内各所をぶらつく時間もあって大満足でした。
結婚式当日の日曜日の朝にも、早起きして宿泊していたホテルから2kmほど離れた平和記念公園に出かけました。元安川のほとり沿いで、朝日を浴びて陰影のコントラストでたたずむ原爆ドームはこれまであまりみたことがなく新鮮な姿でした。
今回の旅行ではまた、何度か市内電車にも乗りました。
ご存知の方も多いとは思いますが、広島市内には路面電車がいまだに走っており、しかもその数、種類ともハンパではなく、「動く電車の博物館」と呼ばれています。
この路面電車を運営しているのが、地元の人からは通称「ひろでん(広電)」と呼ばれて親しまれている「広島電鉄」です。日本最大の路面電車事業者であり、中四国地方最大のバス事業者でもあって、電車事業・バス事業・不動産事業の三本が主要事業となっています。
設立当初は、「広島電気軌道株式会社」という名前でした。建設大手の大林組の傘下企業として発足し、同じく大林組が作った「広島瓦斯」はもともとその親会社でした。
この2社は「広島“瓦斯”電軌株式会社」として1つの会社だった時期もありますが、現在では全くの別会社であり、広島瓦斯も「広島ガス」となっています。広島では知る人ぞ知る大会社であり、いずれもが広島を代表する有名企業です。
「広島電気軌道株式会社」としての現在の広島電鉄は、1942年(昭和17年)4月10日に、この広島瓦斯から運輸事業を分離する、という形で設立されています。それ以前にこの広島瓦斯の一事業部門であった時代を含めると、その創立は1910年(明治43年)6月18日にまで遡ることになります。おそらくは広島でも最も古い企業のひとつといえるでしょう。
本社の所在地は中区の千田町というところで、市内の一番賑やかな繁華街ではありませんが、毛利輝元による広島城の築城以降に発達した城下町の中心部であり、広島のみならず、中国地方における中心業務地区 として機能してきた一角です。
1945年(昭和20年)の広島への原子爆弾投下からほんの一時期だけ、市西部の楽々園という場所に移転されていたこともありますが、現在は元に戻っています。
現在のように不動産事業も含めた多角経営を行っている広電の鉄道・軌道事業は、「電車事業本部」というところが担当しています。
さらにその下に電車企画部・電車営業部・電車技術部などがあり、軌道線6路線19.0kmと、鉄道線1路線16.1km、総延長35.1kmの路線を持ち、年間輸送人員は約5500万人で、軌道線と鉄道線を合わせた輸送人員と路線延長は、路面電車としては日本一です。
ちなみに、軌道線というのは、市内を縦横に走る広電のメインの路面電車線のことであり、鉄道線というのは広島市内から、市西部に位置する世界遺産の宮島方面へと向かう路線です。広島にはこの宮島の対岸に佐伯区という巨大なベッドタウンがあり、広島の人口1180万人のおよそ10%にあたる、約13万人がここに暮らしています。
この佐伯区に向かう宮島線は年間の乗客運搬数1719万人と軌道線である市内線での運搬数3780万人に比べてやや少なめですが、これでも地方の一私企業が運営する鉄道が運ぶ員数としてはかなり大きい方でしょう。
市内線と総称される軌道線のほぼ全線は、併用軌道でもあります。併用軌道とは、道路上に敷設された軌道のことで、「軌道」といえどもでは道路上でもあるため、その運行は軌道運転規則だけでなく道路交通法にも準拠して行われています。
広島へ出かけてここでレンタカーを借りたり、あるいは広島へ直接自家用車で乗り入れたことがある人はおわかりでしょうが、市内中心部を縦横に走るこの軌道線上の路面電車の数には本当に驚かされます。
また、どうやってこの路面電車を避けるべきなのか、その前を横切っていいものかどうかドギマギしながら運転をした、という経験をしたことのある人も多いでしょう。私も大学卒業後に免許を取って初めて自分の車で市内を走ったときは、ビビりまくった記憶があります。
この併用軌道上を走る路面電車が、通常の鉄道と違う点は、列車の長さは30m以下に制限されていること、最高速度は40km/h以下に制限されていることなどであり、また進行信号は黄色の矢印、停止信号は赤色×印などが別途用意されていて独特です。
しかし、基本的には道路交通法に従って走ることになっており、自動車用の信号機にも従わなければなりませんから、そうした前知識を持っていさえすれば、それほど恐れる必要もないでしょう。
この路面電車の運賃は、市内線が大人150円・小児80円の均一性ですが、上述の宮島線は区間制であり、運賃系統は別です。
乗車方法は「運賃後払い」方式で、降車時に現金や乗車カード等で運賃箱へ直接支払います。最近は、「PASPY」というICカードも導入されているそうですが、「レトロ電車」としてイベント用に運行されている古い車両にはICカードリーダーは配備されていないとのことで、注意が必要です。
各路線間で直通運転が行われており、合計1番から9番までの8つの運行系統があります。ちなみに、縁起が悪いということなのか、4号線は設定されていません。
この市内を走る軌道線は、そもそも住民の増加による、広島城のお堀の汚水による伝染病問題を解決するために造られることになったという経緯があります。
日清戦争および日露戦争以降、広島市は爆発的に人口増加していき、その中で広島城の堀の悪臭が目立つようになり、そこで城下町時代の運河として使われていた西塔川や平田屋川といった河川とともに外堀も埋め立てられることになったのです。
この埋め立てを契機に4件の軌道建設申請が出され、審査の結果、大阪系資本の会社と東京系資本の会社の二社が残りましたが、最終的には大林芳五郎・片岡直輝らにより設立された大阪系資本の「広島電気軌道」が1910年(明治43年)に認可されました。
同年6月に資本金300万円で会社組織が立ち上げられましたが、上述のとおり、実際には発足当時には広島瓦斯の一部門としてスタートしています。
明治44年にはそのお堀の埋立も完了し、1912年(大正元年)11月に、現在の宇品線の一部となる広島駅前から紙屋町を経由して御幸橋に至る区間が完成。その後も市内に続々と延線を続け、大正4年ころには、「100形」と呼ばれる車両が50両ほども走るようになりました。
その後、前述のとおり、いったんは広島電気軌道として広島瓦斯から独立しましたが、1917年(大正6年)にはまた広島瓦斯と合併し、資本金600万円で「広島“瓦斯”電軌株式会社」になりました。
ただし、この合併は吸収合併ではなく対等のものでした。夏季に売り上げの多い電車部門と、冬季に売り上げの多いガス部門を統合させることにより、双方の経営体質を安定させるための合併であったそうです。
広島瓦斯電軌となってからは、大正から昭和のはじめまで、大阪市電などから数多くの車両を購入するとともに、次々と新型車両を導入していきました。
1929年(昭和4年)には、県によって市中心部の道路整備計画が建てられ、電車道の幅員も13間半(約24.5m)まで拡幅し、橋梁も道路・軌道併用橋として架け替えられたのを契機に、広島瓦斯電軌側も企業努力として軌道の複線化を行うなどして業務拡大し、私企業としての地位を高めていきました。
その後、1942年(昭和17年)になって、当時の国の政策により再度、運輸部門の分離が決められ臨時株主総会でこれを可決。こうして1942年(昭和17年)4月、広島瓦斯電軌の交通事業部門が分離して、現在の「広島電鉄」が誕生しました。
この頃までには、現在も広島市内を縦横に走る路線網がほぼでき上がっていたようです。また、ちょうどこの頃、保有する路面電車を動かすための集電装置についても大きな技術的な進歩があり、架線から電気を取り入れる「ビューゲル」という装置や、「パンタグラフ」が導入されました。
ビューゲルというのはあまり聞き慣れない用語だと思いますが、パンタグラフにも少々似たΩ型の装置で、古い映画などをみるとこれを屋根にとりつけてある路面電車が出てくることもあるので、見ればあーあれか、とお気づきの方も多いでしょう。
鉄道車両の屋根上に設置されて架線に「スライダーシュー」と呼ばれるすり板を圧接し、摺動させて集電する装置の一種です。
それまでは、トロリーポールと呼ばれる集電装置が使われていました。が、架線を押し上げる力の変動が大きく、質量が大きくて剛性も低いため、架線から外れてしまうこともしばしばあり、かつ火花が飛びやすいという欠点がありました。これがパンタグラフやビューゲルに置き換わることで、電車の運用性が大きく向上されることになりました。
1944年(昭和19年)8月までには、火花が飛びやすいトロリーポールのほぼすべてがビューゲルを置き換えられましたが、これは日本国内初のビューゲルの本格的実用化であったといわれています。
実はこのビューゲルの導入は、それまでのトロリーポールが火花を散らしやすく、これがこのころ既に始まっていた太平洋戦争の最中に飛来するアメリカ軍の標的になりやすかったために、急きょ導入が決められたものでした。
そして、その実用化に成功した翌年の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、人類史上初の原子爆弾が広島市に投下されました。
人類が経験したことのない未曾有の被害であり、この原爆投下で広電本社も半壊し、広島市内にあった広電の建物は1棟をのぞき50棟すべてが損壊しました。
当時は1241人の写真が在籍していましたが、このうちの185人が死亡、266人が負傷し、保有していた路面電車車両も、123両のうち108両が被災し、ほぼ壊滅状態となりました。
この原爆が投下された当時、広島市内の人口は約35万人と推定されていますが、その内訳は、居住一般市民約29万人、軍関係約4万人、市外から所用のため市内に入った者約2万人でした。広島は、明治の日清戦争時代に大本営が置かれたこともあり、「軍都」として発展してきた経緯もあり、軍事施設が多かったことも原爆投下の目標とされた理由でした。
この原爆投下により、爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及びました。
さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが死亡していきました。11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡しました。
1945年(昭和20年)の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されています。
火災は市内中心部の半径2キロメートルに集中していた家屋密集地の全域に広がり、大火による大量の熱気は強い上昇気流を生じ、それは周辺部から中心への強風を生み出し、火災旋風を引き起こしました。
風速は次第に強くなり18メートル/秒に達し、さらに旋風が生じて市北部を吹き荒れ、火災は半径2キロメートル以内の全ての家屋、半径3キロメートル以内の9割の家屋を焼失させました。
こうした中で、爆心地から僅か700m付近で脱線し黒焦げ状態で発見された電車があり、これは通称「被爆電車」と呼ばれ、奇跡的に残ったことから、修理改造され今も現役使用されています。
これは、広島電鉄650形という電車で、このころの広電の電車は4輪固定の単車ばかりであった中にあって、エアブレーキ装備を装備し、固定車輪ではなく、走行中に車輪を左右に動かすことのできる「ボギー」と呼ばれる車両であり、この当時は大変近代的な車輌として迎えられたといわれています。
原子爆弾の投下により、この広電が保有していたこの650型も全車が焼損し、全半壊しましたが、このうちの4両が被爆翌年の1946年3月までに原形に近い形で復旧し、そのうちの2両は、いまだ朝夕のラッシュ時に使われ、「被爆電車」として親しまれているということです。
この原爆投下では、爆心地を通過していた広電の車両の一両が、炎上したまま遺骸を乗せて、慣性力で暫く走り続けていたことなどが目撃されており、この電車に乗っていた乗客は吊革を手で持った形のまま発見されています。また運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士もいたそうです。
このころ、広電は、学校事業も営んでおり、「広島電鉄家政女学校」という学校を1943年(昭和18年)4月に開校しています。3年制の全寮制女学校であり、943年第1期生は72人で、この1945年に当時には309人が在学していました。実業校であり、卒業後は広島電鉄に就職することが義務付けられていたようです。
太平洋戦争中には、戦地へと動員されることも多くなった広電職員の代わりとして、ここの生徒が電車・バスの車掌および電車の運転業務を務めていたそうで、上述の電車内で亡くなったという運転手もまたここの生徒であったようです。
実際、広島電鉄家政女学校では、普通の学科の他に電車運行の授業もあり、入学1年目から車掌を務めた後、2年目には電車の運転業務も任されていたそうです。交替制で、午前授業/午後業務と午前業務/午後授業の2グループで運営されていたといいます。
この学校は、市中心部からやや西にある皆実町というところにあり、これは現在の南区皆実町二丁目ゆめタウン広島北側の一角にあたります。
入学対象者は国民学校高等科を卒業した女子に限られ、「電車の運転を手伝えばミシンやタイプライターも教える」が募集の際の謳い文句だったそうで、女学校の卒業資格と運転業務による賃金がもらえ、しかも全寮制のため衣食住が約束されていることから、人気が高かったようです。
生徒のほとんどは県北や島根県・鳥取県の農山村部出身であり、こうした田舎から都会の広島へ出て、広電に就職できるというのは、彼女たちにとっては文字通りのドリームカムトゥルーだったでしょう。
しかし原子爆弾投下によりこの学校も被爆。校舎は爆心地から約2.1キロメートルに位置していたため、全焼を免れませんでした。在校生のほとんどは学生寮の食堂におり朝食途中のことだったようで、このとき教師1名および生徒30名が被爆死しました。この中には前述のように電車運営の業務中に死亡した生徒も含まれています。
無事だった生徒は姉妹校である市西部の鈴峯という高台にあった、実践女学校に避難しました。この実践女学校が救護所となったこともあり、生き残った生徒たちはここに市内からぞくぞくと押し寄せてくる負傷者の看護にも当たったといいます。
広電自体はその後、職員や軍関係者の懸命な復旧作業により、3日後の8月9日には己斐から西天満町間までの単線運転を再開し、この際、家政女学校の生徒も業務に復帰しました。復旧1番電車の車掌はここの生徒であるという記録も残っているそうです。
終戦後、被爆からの復興に加え同年9月枕崎台風による水害により、市内の天満川に架かる広島電鉄の軌道専用橋梁である「広電天満橋」が落橋するなどしたこともあり、路線復旧費用がかさんだため、なかなか家政女学校の校舎復旧の目処はたちませんでした。
またその後終戦を迎えて男性運転士が復員してきたこともあり、この結果広電は運営を続けることを断念し、こうして家政学校は廃校の憂き目を見ることとなりました。
生徒たちはその一報を避難していた実践女学校の講堂で聞いて茫然自失になったといい、級長が島崎藤村が創作した「椰子の実」を歌いだすと皆泣きじゃくったといいます。
この「椰子の実」の歌詞は次のようなものでした。
名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月
旧(もと)の木は生(お)いや茂れる 枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂
海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国(くに)に帰らん
この歌は島根や鳥取の田舎から出てきた者が多かった彼女たちにとっては、心の拠り所のひとつとなる抒情詩だったようです。しかし、その翌日、生徒たちは実践女学校から離れ、散り散りになっていきました。
その後、1976年(昭和51年)には、「広島県動員学徒犠牲者の会」の運動により、被爆死した生徒および教師が「公務死」として厚生省に認められたそうで、現在、広島電鉄の本社内にその被爆死した生徒と教師の慰霊碑が設けられています。広島平和記念公園内にある「戦没学徒慰霊碑」にもここの名前である「広電家政」が刻まれているそうです。
当時、彼女たちが運転をしていた被爆電車は、前述のとおり今も朝夕のラッシュ時に使われていますが、保存されている他の一両については平和学習や原爆記念日などを中心に運行されているそうで、その中で家政女学校の話なども伝えられているということです。
このように原爆投下によって大きなダメージを受けた広電でしたが、宮島線は被爆翌日の7日には運行を始め、翌8日には全線で運行再開しました。
市内線についても、広電社員と軍の東京電信隊40名の協力により、電柱をトラックとロープを使って立て直したりしましたが、この作業を陸軍の船舶司令部に所属していた、通称「暁部隊」も手伝いました。
この暁部隊というのは、海上輸送など「海」にかかわることを担当していた陸軍の部隊であり、市の南部の広島港に隣接する宇品に司令部があり、その隊員の多くは少年兵たちでした。
彼らが所有していたマスト300本も活用され、さらに電線を引き直すなど行い、廿日市変電所から送電を行うことで、早くも8月9日には市西部の己斐から中央部の西天満町(現在の天満町)までの間で折り返し運転を再開することができるようになりました。
しかし、この復旧ではまだ、単線で運営が行われていました。しかもその時使われた車両は、2~3両にすぎなかったそうです。運行再開時に運賃が払えない乗客に無理に請求を行わなかったとも伝えられており、運行再開は途方にくれる市民を大いに勇気付けたとされています。
こうした努力により、終戦直前の8月14日までには、かなりの路線が復旧しました。戦後も復旧は進み、1952年(昭和27年)3月には、道路の付け替えで復旧が遅れていた白島線が復旧したことで、戦前までに運営していた路線のほぼ全部が復旧。
1951年(昭和26年)には800形と呼ばれる新型車両を10両導入したのを皮切りに、1953年(昭和28年)に5両、1955年(昭和30年)にも5両と次々に新型車両を導入してそのラインナップの充実が図られていきました。
また沿線整備も進められ、「楽々園」と呼ばれていた遊園地の内容も充実させて、市民の憩いの場として親しまれるようになりました。
宮島線の延長として、1958年(昭和33年)には、宮島松大観光船(現・宮島松大汽船)に出資して、宮島までのフェリー運営にも参画。その翌年の1959年(昭和34年)には、広島電鉄が大株主の広島観光開発が、「宮島ロープウエー」を開通させています。
ちなみに、この広電が開設した、楽々園は、この当時「電車で楽々行ける遊園地」というキャッチフレーズで広島の人に知られるようになり、1950年代に行われたテコ入れによって新しい遊具が増えると大レジャーランドとなり市民に親しまれました。
私の幼いころには、広島で遊園地といえばこの楽々園と乳製品を製造するチチヤスが運営していたチチヤスハイパークぐらいであり、安い入場料で日がな一日過ごすことのできるこの両者へ連れて行ってもらうのが楽しみで楽しみでしかたがありませんでした。
残念ながら、楽々園もチチヤスハイパークもその後集客数が減少していきました。楽々園のほうは1971年(昭和47年)に閉鎖され、現在はその跡地にショッピングセンターが建設されています。また、チチヤスハイパークのほうもその後中国新聞社に売却されてから規模を縮小され、現在はプールなどが運営されているだけということです。
が、「楽々園」の地名は閉園後も残され、現在でも広島近辺で単に「楽々園」といえば、この遊園地の跡地周辺であると般的には理解されているほど、広島の人には親しまれている場所です。
こうして戦後めざましい復活を果たした広電でしたが、昭和30~40年代には他の都市の路面電車と同様にモータリゼーションの進展に伴う渋滞の増加で定時運行ができなくなったことから利用客の減少により売り上げが減るようになりました。
このため存廃問題に立たされるようになっいった広電ですが、ちょうどこのころ、広島市に地下鉄建設計画が持ち上がり、このために設立された会社に全株式を移行しようと検討された一時期もあったようです。
1963年(昭和38年)には、これまでにはありえないことであった軌道敷内への車両乗り入れが市から許可されるなど、邪魔者扱いを受けるようになったのもちょうどこのころのことです。
しかし、この地下鉄計画は、市中心部が太田川河口部の三角州にあって地下水脈や地質などの問題があるとされたため、結局この当時の技術では大規模な地下鉄建設は難しいと判断されて、見送られることとなりました。
この結果、広電の移設問題も廃止となりました。しかし経営悪化の問題解消の糸口はなかなかつかめず、このため、広電関係者が市や広島県警などにも働きかけて、当時路面電車が多数残っていたヨーロッパに調査団を派遣して共に調査をしようということになりました。
そして彼らがヨーロッパで見たものは、中心地の渋滞緩和のための方法としての新たな役割を任され、進化した新時代の路面電車の姿でした。
こうして1971年(昭和46年)、広電は「電車を守る」宣言を行い、路面電車存続へ方針転換します。そして路面電車の運営形態の見直しを進め、その結果、軌道廃止に伴う代替交通機関が決まらないまま廃止したならば、中心街のさらなる交通環境の悪化を引き起こすという結論に至ります。
こうした検討結果を市や警察にも知らせて彼らにも再度働きかけ、1963年(昭和38年)から8年もの間継続されていた軌道内への自動車進入を、1971年(昭和46年)には再びやめさせることに成功。
さらには、市内の全面駐車禁止、電車優先信号設置、右折レーン設置などの施策などを次々と実現させていきました。また、廃止された全国の鉄道事業者から車両の譲渡を受け、固定車両だった単車をボギー車に置き換えることで機動性を増し、さらには車両の大型化を図った上で、ワンマンカー化と高速化を推進しました。
こうした機構改正や合理化などを行い、1969年(昭和44年)には市中心部を走る白島線でワンマン運転を開始。1976年(昭和51年)に市内線は、ラッシュ時をのぞきほぼ全線でのワンマン運転化を実現。これが奏して経営は安定し、滅亡の危機にあった会社は復活しました。
さらに大阪市電から既に譲り受けていた750形や900形といった大型車両を核とし、1971年(昭和46年)にも神戸市電より比較的新しい車両を購入するなどによって、車両の大型化を進めていき、1973年から1974年にかけては、8両の車両を2両連結車に改造しました。
この750形電車というのは、1965年に大阪市電から譲り受けて登場させたもので、そもそも輸送力の小さい従来の単車を置き換え、大幅な輸送力増強を図るために導入されたものでした。
導入当時は広電の「標準色」としてのクリームとグリーンで彩色されていましたが、その後神戸市電や大阪市電から別の電車を導入した際、大阪市電色のクリームと茶色を経費節減から広電標準色に塗り替えずに使用しました。
この結果、複数色で種類の違う多数の電車が市内を走ることとなり、これが、観光客等の目にとまって「電車博物館」と呼ばれて好評を博す結果となりました。
つまり、この750形電車は、実質的に広電が「動く電車博物館」の異名を持つに至ったルーツといえる車輌になります。
「動く電車の博物館」や「路面電車の博物館」などと異名でファンから呼ばれるようになった当初は、広電はこの名称を嫌い、塗り替え色の公募を行ったそうですが、地元デザイン会議のメンバーの反対により、塗り替えを断念して現在に至っています。
塗り替えの手間が省けるようになった一方で、そのための費用を乗客へのサービスに転換し、方向幕の大型化、冷房改造などを積極的に行いました。
また、広電自らが開発導入した原型の電車にはには必ずしもこだわらず、他の街から購入した移籍車両の側面には、1979年(昭和54年)からは旧在籍事業者・移籍年を記載した「移籍プレート」を取り付けるほどになりました。
こうした、「路面電車の博物館」路線は、更に雑多な電車の導入へと拍車をかけていきました。日本国内だけでなく、外国からも車両の導入が行われるようになり、1977年(昭和52年)の開業65年時には、ドイツのドルトムント市の中古車両を導入が決定されました。
この電車は、1編成に付き車両購入費500万円・輸送費1500万円・改造費2500万円をかけて、1981年(昭和56年)に移籍を果たし、現在も広島市内を走り回っています。
このほかにも広島市とドイツのハノーバー市との姉妹都市提携を記念し、広島市が茶室を送った返礼として、1989年(平成元年)には、通称「ハノーバー電車」と呼ばれる車両も贈られました。1986年(昭和61年)には、逆に広電からサンフランシスコ市に500形の電車が寄贈されています。
外国からの電車導入はその後も続き、1988年(昭和63年)には、西ドイツから、「ピースバーン号」が導入され、その車体にはドイツの画家、ジョー・ブロッケルホフによりスプレー画が描かれ話題になりました。
その後、1980年(昭和55年)には、久方ぶりの新車になる3500形を導入。これは「軽快電車」と呼ばれる省エネタイプの車両で、このほかにも、廃車になった車両の中古モーターを利用した「セミ軽快電車」とよばれるものを次々と導入していきました。
1990年(平成2年)から広電は、欧州視察を行うなど、路面電車が急速に見直される中で新時代の公共交通機関を目指してLRT化に積極的に取り組んでいます。
LRTとは、ライトレールトランジット(Light rail transit, LRT)の略で、和訳としては「軽量軌道交通」になります。「1両ないし数両編成の列車が走行する、誰にも利便性が高く低コストで輸送能力の高い都市鉄道システム」の意であり、低コストな敷設で市の中心部と郊外を結び、高頻度な直通運行を行うことができるシステムです。
軽快電車をさらに進化させた、バリアフリー対応の超低床電車の導入も1990年代から検討しており、この結果、日本の気候に合った100%低床車両を実現したドイツシーメンス製のGREEN MOVER5000形も、1999年(平成11年)より導入されました。
この5000形は完成が遅れ船便で送った場合に、到着時期が政府の補助金給付期限を過ぎてしまうため、大型輸送機で空輸されており、このとき広島空港には多数の鉄道ファンと航空ファンが押しかけ、その様子が多くのマスコミから報道されました。ちなみにこの車両は、バリアフリー化推進功労者表彰・内閣官房長官賞を受賞しています。
しかしその後、広電としては、海外の車両を使うことで、車両を輸入することによる輸送費の増大を問題視するとともに、部品を輸入することでコストが高く時間がかかることや車両構造が日本での運用を考慮してないことなどの問題から、新たに海外からの輸入車両を増やすことは断念したようです。
そのかわりに、日本国産の低床車両の開発を開始しており、2004年(平成16年)には、国産初の100%超低床電車、「Green mover max 5100形」の運用が開始されました。また、既存の車両についても出入口に補助ステップ(踏み台)を設置するなど、高齢社会に相応しい公共交通機関を目指しています。
2013年1月発行の「路面鉄道年鑑2013」によれば、現時点での広電の在籍車両数は、299両におよび、このうち一両編成の「単行車」は13種68両、二両以上の「連接車」は10種62編成にもなります。このほか、上述の被爆電車を含む休車・保存車も3種20両ほど残されているようです。
広電は、2013年(平成25年)12月に、今年4月からの消費税増税に伴う運賃改訂を申請しており、これによれば、現在の市内線運賃は10円の値上げされ、160円になる予定です。
しかし、これだけたくさんの「生きた博物館」をこの値段でみれるなら安いと思いますし、しかも、これに乗って市内各地を見物できるというのは大変お得だと思います。
ちなみに、世界遺産である原爆ドーム前には、市内に9つある路線のうちの5つの路線が停車して、ここから数分の距離にあるドームを見に行くことができます。
原爆ドームをまだ見たことのないあなた、広島の動く博物館もまだ見ていないあなたも、ぜひ今年はこれを見に行ってほしいと思います。