しかも我が家は山の上にあるので、別荘地全体が雲に覆われ、外は霧のなかのようです。その霧に浮かびあがる5分咲きのサクラは墨絵のようで、これはこれでまた美しい。
私は今は絵はやらないのですが、中学生のころには美術部に入っていたこともあり、絵には昔から興味があり、たまに美術館などに行くとハマってしまい、出て来れなくなることもしばしばです。
が、いわゆる水墨画というのは、地味~なかんじがあって、とくに好き、というほどでもありません。
とはいえ、日本人はこうした単純な墨一色で表現され、ぼかしで濃淡・明暗を表す表現が大好きなようで、「なんでも鑑定団」などを見ていても有名な画家さんの絵になるとすごい金額で取引されるようです。
もともとは、中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技として水墨画の製作が行われていたようです。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的な故事や人物画が水墨で制作されるようになり、明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨画が普及しました。
日本には鎌倉時代にこの中国で普及した禅とともに伝わり、その多くは禅の思想を表すものでした。
瓢鮎図(ひょうねんず)という、国宝になっている水墨画がありますが、これは日本の初期水墨画を代表する画僧・「如拙」の作品で、題名の「鮎」は魚のアユではなく、ナマズの意です。
室町幕府将軍足利義持の命により、ひょうたんでナマズを押さえるという禅の公案を描いたもので、1415年(応永22年)以前の作で、京都市の退蔵院に所蔵されています。
美術の教科書などにはたいてい出てくるので、絵をみると、あーあれかと分かる人も多いと思いますが、どんな絵かというと、川の中を泳ぐナマズとヒョウタンを持ってそれを捕らえようとする一人の男を表している絵です。男はヒョウタンをしっかり抱え持っているようには見えず、危なっかしい手つきであり、とてもナマズはつかまりそうもありません。
で、この絵がなぜ禅宗的かというと、普通に考えれば、まるくてとっかかりのないヒョウタンなどでナマズを捕まえることはできません。が、これをどう考えるか、です。
もしかしたら、ヒョウタンに水を入れて叩きつければナマズが気絶するかもしれないし、ヒョウタンから出した水が呼び水になって寄って来たナマズを手でつかめるかもしれません。
あるいはその逆で、ナマズを捕まえるどころか、足を滑らせてヒョウタンを落っことし、仰向けに川へひっくり返って周囲の人に笑われるかもしれず、男はそれでヒョウタンでナマズを獲ることなど所詮は無理だと悟る、というのがオチなのかもしれません。
このように、寓意のある表現によって相手にその意味を深く考えさせるというのが、この絵の目的です。
こうしたものを禅宗では「公案」といい、これは禅の修行者が悟りを開くために、師匠から課題として与えられる問題のことです。
そのほとんどがこの絵と同様に無理難題なもので、普通の解釈では解けるわけはないので、「無理会話(むりえわ)」とも呼ばれています。一般にはアニメの一休さんで有名になった「禅問答」として知られているものです。
一見むちゃくちゃな問答のように思えますが、禅宗においては極めて真面目なもので、江戸時代以降の近世では一定の数の公案を解かないと住職になれないなど、僧侶の経験を表す基準として扱われました。
有名な公案としては、江戸中期の禅僧の白隠が創案した隻手音声(せきしゅおんじょう)というのがあり、これは白隠が修行者たちを前にしてこう言ったというものです。
「隻手声あり、その声を聞け」
これは、両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか、それを報告しろ、というほどのもので、これに対してどう答えるかはなるほど難しそうです。
ほかにも、狗子仏性(くしぶっしょう)というのがあり、これは、一人の僧が趙州(じょうしゅう)という唐の時代の禅の高僧に問いかけたもので、これは、「犬にも仏性があるでしょうか?(狗子に還って仏性有りや無しや)」というものでした。
これに対して、趙州和尚はただ単に、「無」と答えたそうで、これだけだとなーんだ、全然面白くない、ということになります。が、これには別のバージョンがあって、それは「欲しい、惜しい、憎いなどの煩悩がある」と和尚が答えるというものでした。
これを聞いたこの僧が再び趙州和尚に対して、「仏性があるならなぜ犬は畜生の姿のままなのでしょうか?」と聞いたところ、趙州和尚は、「自他ともに仏性があることを知りながら、悪行を為すからだ(他の知って故らに犯すが為なり)」と答えたといいます。
意訳すると、実は仏の心ということをわかっているくせに、欲深いからイヌの姿をしているのだ、といったところでしょうか。
つまり、この「犬に仏性があるかないか」という問には、「無い」という答えと「有る」という二つの答えがあり、これをこの公案を与えられた修行者がどう解釈するか、というところがミソであり、そこをどう捉えるかを試しているわけです。
この公案は、禅問答の典型、東洋思想を代表的するものとして、世界の思想界に知られているそうです。確かにどちらの答えが正しいのかは、自分次第で変わってくる、といわれればなるほどそんな気もしてきます。
このように、禅では必ずしも答えがひとつではなく、いくつかあって、それが何であるかを自分で考えよ、というところがそもそもの思想の根本のようで、言われて見れば確かに物事にはいろんな見方があり、実際に試してみないとわからないことはたくさんあります。
なので、常に見方を変えて考える、というのは確かに大事なことのように思えます。
今見えている墨絵のような桜も、もっと近寄って観察してみるとまた違った美しさが出てくるのかもしれないと思い、ちょっと外へ出て、違うアングルから眺めてみました。
そして撮れたのが下の写真。どうでしょう。角度を違えるとまるで違ったものに見えますよね。
雨の日でしたが、ひょんなことこからまた一つ学んだ今日でした。