ついこの間まで桜が咲いていたと思ったら、もうアジサイの季節かい、ということで、いつも同じことを書くようですが、やたらに時の過ぎるのを速く感じ、最近はとくにその経過速度が加速しているような気さえします。
いっそのこと、時よとまれ!と言いたいところですが、わたしの自己都合で時間を止められると迷惑される向きもさぞかし多かろうと思われ、神様にその実施をお願いすることはさすがに憚られます。
だいいち、神様に時を止めてもらっても、時間のコントロールの仕方を教えてもらえないなら、次に動きだすのはいつだかわからず、永遠にこのまま固まっているんかい、ということにもなりかねません。なので、神様にお願いするならば、もう少し時間が経つのをゆっくりにしてね、というのが妥当な線でしょう。
この時よとまれ!というフレーズは、ゲーテのファウストに出てきます。この物語では、神様ならぬ、悪魔のメフィストが、ファウストの魂を得るために、ファウストにあらゆる人生の快楽・悲哀を経験させます。
そしてしかるのち、ファウストがそれらに満足したらこの言葉を発し、これを合図にファウストの魂はメフィストの手に落ちる、という契約を二人は結びます。
ことのきっかけは、当時主要な学問であった哲学、法学、医学、神学の四学部すべてにおいて学問を究めたファウスト博士が、さらにあらゆる知識をきわめ尽くしたいと願いますが、「自分はそれを学ぶ以前と比べて、これっぽっちも利口になっていない」と、その無限の知識欲求を満たしきれずに歎いていたことに始まります。
人間の有限性に失望し、学問に人生の充実を見出せず、生きることの充実感を得るため、もういちど全人生を体験したいと望んでいるファウストに対し、メフィストは、黒い犬に変身してファウストの書斎に忍び込みます。
そして言葉巧みにファウストに語りかけ、自分と契約を結べば、かつて誰も得る事のなかったほどの享楽を提供しよう、しかしその代りにあの世ではファウストに同じように仕えてもらいたい、つまり魂を自分に寄こして欲しいと提議します。
もとよりあの世に関心のなかったファウストはその提議を二つ返事で承諾し、「時よ止まれ、汝はいかにも美しい!」という言葉を口にしたならば、メフィストに魂を捧げると約束をします。
さらに原文を忠実に訳すと、「その瞬間が来たとき、わたしはその瞬間に対して叫ぶであろう、瞬間よ、とどまれ、お前は最高に美しい」といったわりと長い訳文になるようで、時は時でも、原文では、「瞬間」ということを言っているようです。
おそらくゲーテは、「人生においてどういう時がこの最高の瞬間なのか?」ということをテーマにこの作品を仕上げようとしたと思われますが、作品中は、決して肥沃とは言えない土地を最後に入手し、そこの領主として民衆たちの開墾の槌音を聞きながらこの言葉を口にする、という平凡な設定になっています。
おそらくは、平凡な生活の中にこそ、至福の時が訪れる、というのがゲーテの人生観、世界観であり、こうした結末にしたのだと思いますが、ゲーテのような天才が考える最高の瞬間と我々凡人の考える瞬間には大きな隔たりがあるような気もします。
もし私なら、極上のラーメンを一杯平らげたときか、風呂上りに冷たいビールを一杯あおったとき、あるいは、居並ぶ美人たちに囲まれ、膝枕の上でうとうとと眠りについたとき、といった卑げた瞬間しか想像しかできないのですが、みなさんにとっては最高の瞬間とはどんな瞬間でしょうか。
どんなシチュエーションでもかまいませんが、こうした至福の時に、突然、その幸せが奪われる、というのはこれほど不幸なことはありません。
この作品の中でも、まさにファウストがその瞬間を迎えようとしたとき、その魂を得ようとメフィストが手下を連れて地獄から飛んできますが、このとき天使達が合唱しながら天上より舞い降り、薔薇の花を撒いてメフィスト他の悪魔を撃退し、ファウストの魂を昇天させます。
メフィストは、賭けに勝ったからその魂は俺のものだと言い張りますが、かつての恋人グレートヒェンの祈りによって魂は救済され、そして最後は「永遠にして女性的なるもの、われらを引きて登らしむ」という天使たちの合唱でこの不朽の名作といわれる戯曲は終わります。
グレートヒェンというのは、ファウストがメフィストとの約束のあとに最初に出会う素朴な街娘のことで、ファウストはこの娘に子供を身ごもらせました。そしてファウストの正体など何も知らない彼女は、破滅へとまっしぐらに進んでいくことになります。
ファウストと逢引するため、自分の母親に眠り薬を盛り、分量が多かったためかこの母親は死んでしまい、また兄のヴァレンテインは、ファウストに刺し殺されてしまいました。そして、彼女がファウストの子供を孕んでいるのを知った彼は突然姿を消してしまいます。
当時のドイツにおいて、私生児を産むことは、町中から白い目で見られるような悪徳であり、グレートヒェンはそれに耐え切れず、我が子を川に投げ込んで殺してしまいます。その結果、彼女は、子殺しでつかまり、死刑となりました。
実は、グレートヒェンというのは、ゲーテが14歳の時の初恋の相手の名前で、彼女は近所の料理屋の娘でした。ゲーテよりも年上だったようですが、破局はこうしたファーストラブの常であり、ゲーテの場合のこの初恋も失恋に終わっています。
この初恋の相手の名前を代表作の中の悲劇のヒロインに用いたのは、その後数多くの恋をすることになるゲーテにとっても、このときの失恋ほどつらいものはなかったに違いなく、かつての傷心へのせめてものリベンジだったのでしょう。
さて、グレートヒェンを捨てたファウストは、その後皇帝に仕え、メフィストの助けを借りてこの国の経済再建を果たします。しかし、それだけでは満たされず、更に絶世の美女ヘレネーを求め、人造人間ホムンクルスやメフィストとともにギリシャ神話の世界へと旅立ちます。
ファウストはヘレネーと結婚し、一男をもうけますが、血気にはやるその息子は死んでしまいます。悲嘆したファウストは、現実世界に帰ってきますが、今度は皇帝から外国との戦争に勝たせて欲しいと頼まれ、これをひきうけて戦勝に導き、領地をもらいます。
その領地をさらに広げようと、今度は海を埋め立てる大事業に取り組みますが、灰色の女幽霊「憂い」によって失明させられます。こうして目が見えなくなったファウストを見て、時は近しとメフィストと手下の悪魔たちが墓穴を掘り始めます。
ところが目見えないファウストはこの音を、民衆たちが自分の土地を開墾している鋤鍬の音だと勘違いしてしまいます。そして、自分の領地が壮大なものになっていくことを夢想しつつ、決めゼリフの「この瞬間が止まってほしい」を発するのでした。
ま、だいたいのストーリーはこんなところですが、ファウストを読んだことがある人は、そんな単純な話じゃないし、もっと細かい心理的な描写があるだろう、とお怒りかもしれません。
が、所詮はしがない暇なヒゲオヤジのブログですから、とそのご批判はやんわりと退けさせていただくとし、このまま続けましょう。
この物語の原文を、「時よとまれ、お前は美しい」というふうに日本語に最初に翻訳したのは実は、森鴎外だそうです。明治後期に。森鴎外の本名、森林太郎の名で日本語訳され、それまでも部分引用の翻訳はあったようですが、これは最初の完訳です。
ご存知、森鷗外は、明治期を代表する文豪ですが、評論家、翻訳家でもあり、本業は陸軍軍医でした。ファウストの翻訳はその文筆活動の初期のころの仕事のようで、1889年(明治22年)に戯曲「サラメヤの村長」を翻訳したのを皮切りに、「即興詩人」やこの「ファウスト」などを次々に発表しました。
その後、自らの留学体験をもとに、当時まだ情報の乏しかった欧州ドイツを舞台にした「舞姫」を発表し、日本人と外国人が恋愛関係になるこの「舞姫」は、まだ自由恋愛など認められない明治の時代にあって日本人読者たちを驚かせました。
鴎外は続いて「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表し、これは「ドイツ三部作」といわれていますが、その後も「ヰタ・セクスアリス」のような話題作を発表して世の中をアッと言わせ、その最盛期に書いた「山椒大夫」「高瀬舟」などは、後世に残る傑作と評されました。
この森鴎外も文豪なら、ゲーテもまたドイツを代表する文豪であり、晩年近くに書いた「親和力」「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」「西東詩集」などは知る人ぞ知る名品ですが、25歳のときに自らの経験をもとに書いた小説「若きウェルテルの悩み」は、詩劇「ファウスト」とならんで特に世界的に高い評価を得ています。
ところが、このゲーテは、文学者・劇作家として有名な一方で、自然科学者、政治家、法律家としても一流であり、この点、文学者でありながら、医学者でもあった森鴎外ともどこか似ています。
鴎外は、1907年(明治40年)には、45歳で陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長に就任しており、これは人事権をもつ軍医のトップであり、事実上、その道の最上を極めました。
ゲーテのほうも、のちにドイツの一公国の宰相にまで上り詰めていますが。1792年、43歳のときにフランスが母国ドイツに宣戦布告したときには、ゲーテも従軍しこの戦争に参加するなど、軍人としての一時期を過ごした経験があります。
ドイツの名門といわれるライプツィヒ大学を出ており、ここを出た政治家たちに知人も多かったようですが、しかし若いころには政治の世界にはまったく興味がなく、法学部の学生であった学生学時代には、本来の専門とは異なる自然科学に興味を持ち、晩年になってその専門性をさらに深めました。
生まれたのは、1749年8月28日のことで、実家はドイツ中部フランクフルトの裕福な家庭でした。父方の家系はもとは蹄鉄工を家業としていましたが、ゲーテの祖父はフランスで仕立て職人としての修行を積んだ後、フランクフルトで旅館経営と葡萄酒の取引で成功し大きな財を成しました。
その次男であるゲーテの父は、大学を出たのちにフランクフルト市の要職を志しましたがうまく行かず、枢密顧問官の称号を買い取った後は職に就かず文物の蒐集に没頭していました。母の実家は代々法律家を務める声望ある家系であり、母方の祖父は自由都市フランクフルトの最高の地位である市長も務めたこともありました。
ゲーテは長男であり、下に4人の兄妹がいましたが、そのうち3人が夭折し、ゲーテは2人兄妹で育ちました。ゲーテ家は明るい家庭的な雰囲気であり、少年時代のゲーテも裕福かつ快濶な生活を送り、当時のフランクフルトの多くの家庭と同じく宗派はプロテスタントでした。
父は子供たちの教育に関心を持ち、幼児のときから熱心に学問を教えたといい、家庭教師を呼んで語学や図画、乗馬、ダンス、カリグラフィー、ピアノ、ダンスなどをゲーテに学ばせました。彼は特に語学に長けており、少年時代すでに英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を習得していたそうです。
少年時代のゲーテは読書を好み、「ロビンソン・クルーソー」などの物語を始め手当たり次第に書物を読みましたが、創作意欲も強く、このころ作った詩は既に周囲に絶賛されていたそうです。最も古い詩はゲーテが8歳の時のものということで、これは母方の祖父母に宛てて書いた新年の挨拶でした。
大学を卒業した後は、故郷フランクフルトに戻り、弁護士の資格を取って弁護士事務所を開設しましたが、当初からあまりこの仕事は好きでなかったようで、次第に仕事への興味を失い文学活動に専念するようになっていきます。
文学活動を活発に行い、初期のころの傑作を次々と生み出していきましたが、しかし本業をおいて文学活動に没頭する息子を心配した父により、ゲーテは法学を再修得するために最高裁判所のあったドイツ南西部のヴェッツラーという町へと送られることになりました。
ヴェッツラーに移ったゲーテは、しかしここでも法学には取り組まず、むしろ父から離れて文学に専念できることを喜びました。そんなある日、ゲーテはヴェッツラー郊外で開かれた舞踏会で15歳の少女シャルロッテ・ブッフに出会い熱烈な恋に落ちます。
ゲーテは毎晩彼女の家を訪問するようになりますが、まもなく彼女はなんとゲーテ自身の親友と婚約中の間柄であることを知ります。ゲーテはあきらめきれず彼女に何度も手紙や詩を送り思いのたけを綴りますが、親友との手前、彼女を奪い去ることもできず、誰にも知らせずにヴェッツラーを去り、フランクフルトに戻りました。
フランクフルトに戻ったゲーテは、表向きは再び弁護士となりましたが、シャルロッテのことを忘れられず苦しい日々を送ります。シャルロッテの結婚が近づくと自殺すら考えるようになり、ベッドの下に短剣を忍ばせ毎夜自分の胸につき立てようと試みたといいます。
そんな折、ヴェッツラーで親しくなった別の親友がピストル自殺したという報が届きました。原因は人妻との失恋であったといい、この友人の自殺とシャルロッテへの恋という2つの体験が、ゲーテに「若きウェルテルの悩み」の構想を抱かせることとなりました。
そして1774年25歳のとき、ヴェッツラーでの体験をもとにしたこの小説が出版されると、この物語には若者を中心に熱狂的な読者が集まり、主人公ウェルテル風の服装や話し方が流行し、また作品の影響で青年の自殺者が急増するといった社会現象を起こしました。
こうして、若きゲーテの名はドイツを越えてヨーロッパ中に轟くようになりますが、生涯をかけて書き継がれていくことになる「ファウスト」に着手したのはちょうどこのころのことでした。
1775年、26歳のときに、ゲーテはドイツ中部の都市、ヴァイマール(日本人には「ワイマール」という呼称のほうが親しまれている)に移りました。そのきっかけとなったのは、またしても恋愛であり、ヴァイマールに移り住む直前、フランクフルト屈指の銀行家の娘であるリリー・シェーネマンと恋に落ち、婚約にまでこぎつけました。
しかし、宗派や考え方の違いから両家の親族間のそりが合わず、ゲーテはそのしがらみから逃れるようにして単身でスイス旅行に行き、リリーへの思いを詩に託しましたが、結局この婚約は解消することになりました。
ヴァイマールに移ることにしたのはこの破局のためでもありますが、ちょうどこのころこの地を治めているカール・アウグスト公からの招請を受けたためでもあり、当初はゲーテ自身短い滞在のつもりでいたようですが、その後この地に永住することになります。
当時のヴァイマールは、「公国」として独立した国でしたが、領地は40km四方、人口も6000人程度の小国であり、農民と職人に支えられた貧しい国でした。
本来アウグスト公の住居となるはずの城も火災で焼け落ちたまま廃墟となっており、ゲーテの住まいも公爵に拝領した質素な園亭でした。アウグスト公は当時まだ18歳で、父王は17年前に20歳の若さで死亡し、代りに皇太后アンナ・アマーリア(アウグスト公の母親)が政務を取り仕切っていました。
彼女は国の復興に力を注ぎ、詩人ヴィーラントを息子アウグストの教育係として招いたほか多くの優れた人材を集めており、そんな中、ゲーテに目をつけたのでした。
26歳のゲーテはアウグスト公から兄のように慕われ、彼と共に狩猟や乗馬、ダンスや演劇を楽しみました。王妃からの信頼も厚く、また先輩詩人ヴィーラントを始め多くの理解者に囲まれ、次第にこの地に留まりたいという思いを強くしていったようです。
到着から半年後、ゲーテは公国の閣僚となりこの地に留まることになりましたが、ゲーテをこの地にもっとも強く引き付けたのはまたしても恋であり、そのお相手はシャルロッテ・フォン・シュタインという人妻でした。
ゲーテとシュタイン夫人との出会いは、ゲーテがヴァイマールに到着した数日後のことでした。彼女はヴァイマールの主馬頭(馬の飼育・調教の責任者)の妻で、この時ゲーテよりも7つ上の33歳であり、すでに7人の子供がいました。
しかしゲーテは彼女の調和的な美しさに惹かれ、彼女の元に熱心に通い、また多くの手紙を彼女に向けて書きました。すでに夫との仲が冷め切っていた夫人も青年ゲーテを暖かく迎え入れ、この恋愛はその後12年も続きました。
この恋愛によってゲーテの無数の詩が生まれただけでなく、後年執筆し傑作といわれた文学作品などの多くも彼女からの人格的な影響を受けて書かれたといわれています。しかし、シュタイン夫人との恋愛が続いていた10年は同時にゲーテが政務に没頭した10年でもあり、この間は文学的にはほぼ空白期間でした。
1780年の31歳の時、フランクフルトのロッジにてフリーメイソンに入会。4年後に書かれた「秘密」という叙事詩にはフリーメイソンをモデルとした秘密結社を登場させています。その後もゲーテは着実にヴァイマール公国の政務を果たし、1782年には神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世により貴族に列せられヴァイマール公国の宰相となりました。
以後、姓に貴族を表す「フォン」が名前に付き、「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」と呼ばれるようになります。
政治家としてのゲーテはヴァイマール公国の産業の振興を図るとともに、イェーナ大学の人事を担当して当時の知識人を多数招聘し、ヴァイマール劇場の総監督としてシェイクスピアやカルデロンらの戯曲を上演し、文教政策にも力を注ぎました。
ところが、1786年、37歳のとき、ゲーテは突然、アウグスト公に無期限の休暇を願い出ます。その理由は、もともとゲーテの父がイタリア贔屓であったこともあり、ゲーテにとってイタリアはかねてから訪れてみたい憧れの地であったからでした。
アウグスト公は驚きましたが、それまでには国はかなり安定しており、これを許しました。しかしゲーテはその出発において、アウグスト公にもシュタイン夫人にも行き先を告げずに出かけており、イタリアに入ってからも名前や身分を偽って行動していたそうです。
出発時にイタリア行きを知っていたのは召使ただ一人だったそうで、このことは帰国後シュタイン夫人との仲が断絶する原因ともなりました。ゲーテはまずローマに宿を取り、その後ナポリ、シチリア島を訪れるなどし、結局2年もの間イタリアに滞在しました。
この間、服装もイタリア風のものを着、イタリア語を流暢に操りながらこの地の芸術家と交流し、友人となった画家の案内で美術品を見に各地を訪れ、特に古代の美術品を熱心に鑑賞しました。一方では、それまで中断していた文学活動に精を出し、「ファウスト」原本ともなる短編版などもこのときに書き始めています。
その二年後、39歳でイタリア旅行から帰ったゲーテは、既に政治に対する興味を失っており、芸術に対する思いを新たにしていたため、宮廷の人々との間に距離を感じるようになっていました。
ちょうどこのイタリア旅行から戻ったころ、そんなゲーテのもとにクリスティアーネ・ヴルピウスという23歳になる女性が訪れ、イェーナ大学を出ていた兄の就職の世話を頼みました。
齢が一回り以上も違う彼女に一目ぼれしたゲーテは彼女に猛烈にアタックしたのち、彼女を恋人とし、後に自身の住居に引き取って内縁の妻としました。帰国後まもなく書かれた連詩に「ローマ哀歌」というのがありますが、これも彼女への恋心をもとに書かれたものです。
しかしこのクリスティアーネの家の身分は低く、宰相でもあるゲーテとの身分違いの恋愛は社交界では批判の的となり、これもまたシュタイン夫人との決裂を決定的にする原因となりました。
クリスティアーネとの間には長男も生まれましたが、こうした世間からの中傷のため、ゲーテはその後57歳になるまで彼女と籍を入れませんでした。ゲーテとクリスティアーネの間には4人の子供が生まれましたがいずれも早くに亡くなり、長じたのは最初の子のアウグスト一人でした。
ドイツの隣国のフランス革命が始まったのはちょうどこのころのことです。ゲーテはその自由の精神に共感したものの、この革命によりその後フランスは無政府状態になり、こうした隣国の状況を嫌悪していたといいます。
上述のとおり、1792年にフランスがドイツに宣戦布告して両国間が戦闘状態に突入すると、ゲーテも従軍し、この戦いに参加しました。この戦争は結局ドイツの勝利に終わりましたが、その勝利に際しては「ここから、そしてこの日から、世界史の新たな時代が始まる」という有名な言葉を残しました。
このように、恋に公務に文筆活動に戦争に、と忙しい人生を送っていたゲーテでしたが、文学活動や公務の傍らでは、若いころに興味を持った人体解剖学、植物学、地質学、光学などの自然科学についても数多くの著作・研究成果を残しています。
20代のころから骨相学の研究者ヨハン・カスパール・ラヴァーターと親交のあったゲーテは骨学に造詣が深く、1784年、35歳のときに、それまでヒトにはないと考えられていた前顎骨がヒトでも胎児の時にあることを発見し、その成果は現在の比較解剖学に貢献しています。
自然科学についてゲーテの思想を特徴付けているのは「原型」という概念でした。ゲーテはまず骨学において、すべての骨格器官の基になっている「元器官」という概念を考え出し、脊椎がこれにあたると考えていました。
1790年、41歳のときに著した「植物変態論」ではこの考えを植物に応用し、すべての植物は唯一つの「原植物」から発展したものと考え、また植物の花を構成する花弁や雄しべ等の各器官は様々な形に変化した「葉」が集合してできた結果であるとしました。
このような考えからゲーテは、それまでの「分類学」を批判し、「形態学(Morphologie)」と名づけた新しい学問を提唱しましたが、これは現在広く信じられている「進化論」の先駆けであるとも言われています。
またゲーテは20代半ばのころ、ヴァイマール公国の顧問官としてイルメナウという鉱山を視察したことから鉱山学、地質学を学び、イタリア滞在中を含め生涯にわたって各地の石を蒐集しており、そのコレクションは1万9000点にも及んだといいます。
ちなみに、針鉄鉱(しんてっこう)という貴石がありますが、この英名「ゲータイト(goethite)」はゲーテに名にちなむものであり、ゲーテと親交のあった鉱物学者によって名づけられたものです。
晩年のゲーテは、さらに光学の研究にも力を注ぎました。1810年、61歳のときに執筆された「色彩論」は20年をかけた大著であり、この本でゲーテは青と黄をもっとも根源的な色とし、また色彩は光と闇との相互作用によって生まれるものと考え、ニュートンのスペクトル分析を批判しました。
無論、彼のこの論理は間違っており、この色彩論も発表当時から科学者の間でほとんど省みられることはありませんでしたが、一部の学者はゲーテの学説に賛同しました。
このように晩年には、文学にも力を傾注するかたわら、若いころから好きだった自然科学にも没頭していましたが、1806年、57歳のとき、20年もの間籍を入れずにいたクリスティアーネと正式に結婚することに決めました。
そのきっかけは、一時的攻勢によってナポレオン軍がヴァイマールに侵攻してきた際、酔っ払ったフランス兵がゲーテ宅に侵入して狼藉を働いたことでした。
このとき、まだ内縁の妻であったクリスティアーネは、駐屯していたヴァイマール軍の兵士と力を合わせてゲーテを救ったといい、このときゲーテはその献身的な働きに心を打たれ、また自身の命の不確かさをも感じたといいます。
こうして、カール・アウグスト公が結婚の保証人となり、式は2人だけで厳かに行なわれました。
その二年後の、1808年、ナポレオンの号令によってヨーロッパ諸侯が、ドイツ中央部の町、エアフルトに集められると、アウグスト公に連れ立ってゲーテもこの地に向かい、ナポレオンと歴史的対面を果たしています。
「若きウェルテルの悩み」の愛読者であったナポレオンはゲーテを見るなり「ここに人有り!(Voila un homme!)」と叫んで感動を表したという逸話が残っています。
晩年のゲーテは腎臓を病み、1806年より頻繁にチェコ・ボヘミア西部の温泉地、カールスバートに湯治に出かけるようになります。ここで得た安らぎや様々な交流は晩年の創作の原動力となり、この年、長く書き継がれてきた「ファウスト」の第1部がようやく完成しました。
1807年にはもうすでに58歳であったゲーテですが、この後に及んでもヴィルヘルミーネ・ヘルツリープという18歳の娘に密かに恋をしています。このときの体験から17編のソネット(14行から成るヨーロッパの定型詩)が書かれ、さらにこの恋愛から二組の男女の悲劇的な恋愛を描いた小説「親和力」が生まれています。
またこの年から自叙伝「詩と真実」の執筆を開始し、翌年には色彩の研究をまとめた上述の「色彩論」を刊行するなど、文学おいても科学技術においても、そして恋愛においてもまだまだなお盛んでした。
しかし、1816年、長年連れ添った妻クリスティアーネのほうが先に、尿毒症による長い闘病の末他界してしまいます。わずか51歳でした。
妻の死は彼の思想にも何等かの大きな影響を与えたようで、ちょうどこのころからゲーテは文学は世界的な視野を持たねばならないと考えるようになり、エマーソンなど数多くの国外の作家から訪問を受けるようになりました。
また、イギリスの詩人、バイロンに詩を送り、ユーゴー、スタンダールなどのフランス文学を読むなどしたほか、オリエントの文学にも興味を持ち、コーランなどの経典やイスラム文学の詩を愛読しました。
1821年、ゲーテが71歳のとき書いた、「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」という作品は、「諦念」がテーマです。この作品はあまり日本人には馴染のないようですが、個人としての人間は不十分な存在であり、一つの秀でた職能を身につけることによって社会に参画すべきものであるという作品全体の理念は、世界中で高く評価されました。
この年、なんとゲーテは、最後の恋をしており、この相手はウルリーケ・フォン・レヴェツォーという17歳の少女でした。チェコのマリーエンバートという湯治場で彼女を見初めたといい、その3年後の1823年にはアウグスト公を通じて求婚しましたが断られており、この60歳も年下の少女への失恋から「マリーエンバート悲歌」などの詩が書かれました。
1830年、自分よりも先に一人息子アウグストに先立たれました。しかし、ゲーテ自身はその死の直前まで「ファウスト」第2部の完成に精力を注ぎ、完成の翌1832年3月22日にその多産な生涯を終えました。
満82歳でしたが、それまでの十分すぎる熱い人生には満足だったに違いありません。最後の言葉は、「時よ止まれ!」ではなく、これもまた有名な「もっと光を!」であり、それでもまだ人生の時間が欲しかったのかな、と思わせる文句です。
ゲーテは、同じく詩人・劇作家であった、リードリヒ・フォン・シラーと仲が良く、1805年、ゲーテが56歳のときに、この年下の友人がわずか46歳で亡くなったとき、「自分の存在の半分を失った」と嘆き病に伏せっています。
このため、彼の亡きがらは、ヴァイマール大公家の墓所に埋葬されましたが、その墓は同じ墓地にあったシラーのものと隣り合わせになっているそうです。
ゲーテの作品は、森鴎外のファウストの翻訳以降、他の作品も数多く日本で翻訳・出版され、とくに「若きウェルテルの悩み」は、日本文学に多大な影響を与えました。
明治20年代から30年代にかけては若手作家の間で「ウェルテル熱」が起こり、有名作家の間で熱心に読まれました。特に島崎藤村は晩年までゲーテを愛読しており、外国文学に批判的だった尾崎紅葉も晩年にはゲーテを熱心に読み、「泣いてゆく ヱルテルに会う 朧(おぼろ)かな」を辞世の句として残しました。
「ファウスト」もまた多くの作家の間で熱心に読まれ、国木田独歩もこれを熱心に読み影響を受けたことを随筆の中で繰り返し述べています。他にもゲーテを愛読しゲーテについての著述を残している作家は多く、堀辰雄、亀井勝一郎などもゲーテについてのたくさんの執筆があります。
1931年(昭和6年)には日本ゲーテ協会が創設され、現在に至るまでドイツ文学の研究・紹介を行っているほか、1964年(昭和39年)には実業家粉川忠によって東京都北区に東京ゲーテ記念館が立てられており、翻訳本や原著だけでなく世界中の訳本や研究書、上演時の衣装などを含む関連資料を所蔵する世界的にも類例のない資料館となっています。
ゲーテ (Goethe) のドイツ語での発音は日本人には難しいこともあり、日本語表記は、古くは「ギョエテ」「ゲョエテ」「ギョーツ」「グーテ」「ゲエテ」など数十種類にものぼる表記が存在したそうです。
このことを諷して明治時代の小説化、斎藤緑雨は「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳を詠んだそうですが、たしかにギョエテでは、蛙の首を絞めた時の声のようで、そのままでは日本では定着しなかったかもしれません。
さて、その蛙の声が日に日に高くなり、もうそろそろ梅雨に入りそうな気配です。雨がそぼ降る季節の中、数多くの恋をしたゲーテにちなみ、あなたもまた新しい恋愛をしつつ、人生について考え、ウェルテルやファウストなども読んでみてはいかがでしょうか。