あいにく台風が近づいており、天の川は見えそうもありませんが、今日は七夕です。
本来は旧暦の7月7日行事なので、実際には月遅れの8月7日に行われるべきものですが、この時期には、明治改暦以降、お盆の行事も行われるようになり、行事が重なることになるため、あまり賑やかしいことはやらなくなりました。
一方では、7月にはあまり目立った行事もほかにはないことでもあり、それなら新暦の7月7日にやればいいや、ということになり、以後、梅雨時だというのに毎年のように笹に短冊を吊り下げた笹飾りがあちこちに飾られるようになっていきました。
それにしてもなぜ、短冊をぶら下げるのかというと、そのむかしは、6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に大祓(おおはらえ)という除災行事をやりました。犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)といいます。
この夏越の祓では、多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」という儀式が行われました。これは、氏子たちが茅(かや)の草で作られた人が通れるほどの輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うというものです。
古くは、茅は旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられていたためにこうした行事が行われていたわけですが、このとき同時に茅の輪の左右には笹竹が設置されました。そして、これに願い事を書いた短冊を振下げました。
さらにこの行事が終わったあとちょうど七夕がやってくるため、このとき短冊を下げた笹竹を川に流すと、その願いごとがかなうといわれるようになり、これが江戸期には庶民の間で定着しました。
以後、茅の輪潜りのほうは廃れ、笹竹に短冊という儀式のほうだけ生き残ってきたわけですが、最近は環境問題などもあるため、川には流されなくなり、また笹を立てることも一般家庭ではあまりやらなくなりました。
やるのは学校や商店街などの公共の場所だけ、というところも多くなり、私のところでも子供ができてからは、この息子君が小学校を卒業するまでは毎年恒例行事でしたが、彼が大学生になって家を出てからは、さすがにやらなくなりました。
我が家と同様、街を歩いていても七夕飾りをしているところはあまりなく、学校以外ではもっぱら、地元商店街でみかけるくらいです。こうしたところで何故七夕祭りが廃れないかといえば、これは無論、こうした機会に人を集め、収益を上げたいがためです。
小さな商店街などでは、前日までに七夕飾りの設置を終えれば、当日はとくに人的な駆り出しもやる必要もなく、このときとばかりにバーゲンセールや割引を行えばそれなりに収益も上がり、商店街の機能をたいして低下させることなく買物客を集められるため、商業イベントとしても馴染みやすいということもあるようです。
福引や仮装行列といった何等かのイベントをやるところもあり、多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての催しという組み合わせがほとんどのようですが、さらにこれに花火大会などが加わるところもあります。
ここ伊豆でも、沼津や三島などの大きな街では七夕行事があるようです。昨日は、伊豆長岡の温泉街でも、「あやめ御前パレード」なるものが行われたようで、夜遅くから花火の上がる音が聞こえていました。
この「あやめ御前」というのは、平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した源氏の武将、「源頼政」の奥さんで、伊豆長岡の出身のお姫様です。
ところが、平氏全盛の世の中においてその専横に不満が高まる中、頼政は平氏打倒の挙兵を計画しました。が、計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、宇治平等院の戦いで敗れ自害しました。
このとき、42歳だったあやめ御前は、頼政の遺品、遺髪を携えて長岡へ戻り、出家して名を西妙と改め、その後の一生を念仏を唱えて送り、89で亡くなったそうです。
伊豆にはこうした悲しい話が多く、このほかここ修善寺でも、源頼朝の異母弟の源範頼が誅殺されているほか、頼朝の嫡男で二代将軍の源頼家も北条氏の手の者に修禅寺に幽閉され暗殺されています。
七夕よりも少し時期は遅れますが、今月の21日には、麓の修禅寺温泉街で「頼家まつり」というのもあり、これは、この殺された頼家とその家臣である十三士の霊を慰めるイベントです。仮装行列が修禅寺を出発して、十三士の墓、頼家の墓を詣で供養を行い、桂橋から修禅寺へ戻るそうなので、今年はちょっと行ってみようかと思ったりしています。
哀しいといえば、七夕に降る雨のことは、「催涙雨」というそうです。織姫と彦星が流す涙だと伝えられています。その昔、夏彦という働き者の牛飼いがおり、また、織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。この二人は恋におち、天帝も二人の働きぶりを高く評価していたので、その結婚を認めました。
ところが、めでたく夫婦となった二人は、その夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離してしまいました。しかし、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、このころになると、天の川にどこからかカササギがやってきて橋をかけてくれます。
しかし、七夕の日になると毎年のように雨が降り、天の川の水かさが増すため、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができません。やがて永久の月日が流れ、二人はとうとう彦星と織姫星という星になり、この二つの星の逢引であることから、七夕は星あい(星合)と呼ばれるようになり、そしてこの日に降る雨は催涙雨と呼ぶようになりました。
誰しもがよく知る話なのですが、地方によっては微細に話が異なり、この二人の逢瀬もこのようにかなわないというものが多いようですが、いやこの日だけはめでたくデートができるというものもあります。
元々は中国が発祥の地で、ストーリーとして完成したのは漢の時代だそうです。ということは、紀元前からある物語であるということになり、長い長い悠久の時を感じますが、それにしても同じ話がこの間、ほとんど変わりなく伝えられているというのは考えてみればすごいことなのかもしれません。
日本に伝わったのは、有史以後のことのようで、古事記にはすでに七夕の名が出てくるそうで、紀元600~700年ころには日本全国で定着していた話のようです。
ところが、この話は、日本に伝わると、その内容には大幅な変更が加えられました。織姫彦星の話はこれはこれで残されたのですが、これをヒントとして、日本神話のひとつが作られたのです。それはこういう話です。
その昔、天照大神(あまてらすおおみかみ)らの天上にいた神様たちは、「葦原中国あしは(らのなかつくに)」、つまり、地上の日本国を平定するに当たって、アメノホヒ(天穂日命)という神様を遣わしました。
ところが、このアメノホヒはなかなか帰ってこず、次いでアメノワカヒコ(天若日子)が遣わされましたが、このアメノワカヒコは、地上の日本を代表する大国主(おおくにぬし)の娘である、シタテルヒメ(下照姫命)とくっついて結婚してしまいました。
こうして、二人とも帰還しないのをいぶかしんだ、天照大神は、今度は鳴女(なきめ)というキジを送りました。鳴女は、地上に降り立ち、アメノワカヒコに「おまえは葦原中国に派遣され、荒ぶる神々を帰服しろと命ぜられたが、なぜ、いまだに復命しない」と天照大神の伝言を伝えました。
これをアメノワカヒコの側で聞いていた、側近のアメノサグメ(天探女)はこれを聞いて、「この鳥は不吉だ」と言ったため、アメノワカヒコは弓矢でこのキジを射殺してしまいました。ところが、鳴女の胸を貫きとおした矢はそのまま、天にまで届き、天照大神と一緒にいたタカミムスビ(高木神)という神様のところに落ちました。
そして、これを拾ったタマミムスビは、「アメノワカヒコに悪心があるなら当たれや」といって、矢を投げ返したところ、この矢は地上にいるアメノワカヒコの胸を貫いて、彼は死んでしまいました。
これを知った妻のシタテルヒメは、泣き叫びましたが、そのアメノワカヒコの死を嘆く泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父のアマツクニタマ(天津国玉神)は下界に降りて息子のために葬儀をしてやりました。このとき、シタテルヒメの兄のアヂスキタカヒコネ(味耜高彦根命)もまた父とともに弔いに訪れました。
このアヂスキタカヒコネは、死んだアメノワカヒコに大変よく似ていました。このため、これを見たシタテルヒメが「アメノワカヒコは生きていた」と喜んで抱きつきますが、驚いたアヂスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて葬儀所に建ててあった喪屋(遺体を弔うために建てる小屋)ぶち壊し、蹴り飛ばしました。
と、この話はここで中途半端に終わっています。それにしても、織姫彦星伝説の話はどこへ行ってしまったの?と思えるほどかけらもなく変わってしまっており、似ているのはアメノワカヒコの死によって、男女の仲が引き裂かれる、といった点だけです。
ストーリーとしても、シタテルヒメとの恋に溺れて天命を放棄し、その罪のために、亡くなってしまう、という現代ではありふれたストーリーにすぎに変わってしまっているのですが、これはこれで純粋な大昔の人にはかなり悲劇的に感じられたようです。
また、この当時は朝廷の権威もまだ定着しておらず、中央政権に反発する豪族なども多数いた時代であったため、アメノワカヒコのように反逆的な神は、民間では人気が高かったようです。
このため、この話はその後平安時代になってからも、「うつほ物語」「狭衣物語」などの名で少々形を変えながら語り継がれました。が、室町時代にまで下ると、これだけじゃぁ面白くないと、多少というか、さらにかなりのアレンジが加えられ、しかもオリジナルの織姫と彦星の話も多少盛り込まれました。
この物語は、「御伽草子(おとぎぞうし)」に収録されており、この中では、前の若彦は、「天稚彦」の名で登場し、かなりの美男子として描かれました。それは、こういう話です。
ある長者が三人の美しい娘を持っていました。ある日、この長者の家に大蛇がやってきて、「娘を嫁にくれなければお前を食ってしまうぞ」と脅しました。仕方なく長者は、娘たちを説得しますが、上の姉二人は拒み、末娘だけが了承しました。末娘は心優しい人物で、自分が拒めば父親が大蛇に食われてしまうと悲しんだのでした。
こうして、大蛇が指定した場所で娘が怯えながら待っていると、やがて大蛇がやってきました。そして、何を言い出すかと思うと、いきなり、娘に対して、自分の頭を切るように言うではありませんか。
そんなことはできませんと娘は断りますが、大蛇は、ではお前を食ってしまうぞ、とまで言うので、仕方なく言われたとおりに、蛇の頭を切り落としました。
すると、なんということでしょう。蛇は美しい男の姿になり、そして「自分は天稚彦である」と名乗ったではありませんか。こうして、娘と天稚彦は夫婦となり、その後楽しい日々を送るようになりました。
ところが、ある日天稚彦は用事がある、と娘に告げて、一人天に旅立ってしまいます。その別れ間際、天稚彦はに、娘にひとつの唐櫃(からびつ、中国風のおひつ)を渡して、「これを開けたら帰ってこられなくなるから、帰ってくると約束した日まで絶対開けるな」と告げて旅立っていきました。
こうして娘は来る日も来る日も天稚彦の帰りを待って暮らすようになりまたが、あるとき、かねてよりこの末娘の裕福な暮らしを嫉んだ姉たちが押しかけ、妹の体をくすぐって唐櫃の鍵を奪い取ってしまいました。
そして、唐櫃を力ずくで開けてしまいますが、中には何も入っておらず、ぼっと白い煙が立ちあがっただけでした。がっかりした姉たちはその場を立ち去りましたが、天稚彦が「これを開けたら帰ってこられなくなる」と言ったとおりになり、その後娘が待てども待てども彼は帰ってきません。
月日が経ち、やがて天稚彦が約束した日がやってきましたが、その日がすぎても一向に彼が戻ってこないため、不安になった娘はとうとう、自ら天稚彦を探しに天に旅立つことにします。
こうして天稚彦を探して天に昇った娘は、ゆうづつ(宵の明星・金星)、箒星、昴(すばる)などの星々たちに天稚彦の居場所を聞いて回り、ついに愛する夫と再会を果たします。
ところがなんと、この天稚彦の父親は実は鬼でした。鬼が人間の娘を嫁として認めるはずはありません。このため天稚彦は、この父から娘を隠そうとします。父鬼が娘を隠していた部屋に来る気配を感じると、彼は咄嗟に忍術を使って、娘を「脇息」に変えてしまいました。
ところが、部屋に入って来た父鬼は、あろうことか娘が化けているその脇息に寄り掛かってしまいます。これを見た天稚彦は気が気ではありません。しかも、父鬼は「なんだか人間の臭いがするような気がする」とか言い出しましたが、しばらくすると気が付かずに出ていきました。
ホッと胸を撫でおろした天稚彦でしたが、父鬼はそれからも度々彼のところを訪れてくるので、その度ごとに天稚彦は娘を扇子に変えたり、枕に変えたりして誤魔化していました。ところが、ある日のこと、うっかり昼寝をしている間に父鬼がやってきて、ついに娘を見つけられてしまいました。
これを見た父鬼は怒りましたが、天稚彦が平謝りにあやまるのでやがて落ち着いてきました。が娘に対し、もし「ムカデの蔵」で一晩過ごすことができたら、息子と一緒にさせてやる、と難問をつきつけます。
これに対し、天稚彦は娘に対し、大丈夫だといい、「天稚彦の袖」という袖を娘にこっそりと手渡しました。やがて夜になり、父鬼によってムカデ蔵に押し込められた娘が、この袖を振ると、ムカデは娘を遠巻きにするだけで、刺そうともしません。
翌日のこと、無事な娘の姿を見た父鬼は驚きますが、今度は、牛舎で飼っている1千頭の牛を野に放ち、夜までにこれを再び牛舎に追い込むよう娘に命じます。
「とても、女の私にはムリだわ……」と困惑する娘でしたが、「天稚彦の袖々」と再び天稚彦にもらった袖を唱えながら振ってみると、牛は見事に言う事を聞いてくれ、無事すべてを牛舎に戻すことができました。
次々と難題をクリアーする娘に対し、父鬼は今度こそはと、米倉にある米をすべて別の米倉へ移すよう娘に命じます。が、これも、天稚彦の袖を振ると、どこからともなく、大量のアリが現れて運んでくれました。
こうして、出された難題すべてに答えた娘を父鬼もついに嫁として認めざるを得なくなりました。そして、「月に一度だけなら会ってもよい」と二人に告げます。
ところが、動転していた娘は、「月に一度」を「えっ、年に一度ですか?」と聞き返してしまいます。これを聞いた父鬼が「それでは年に一度だ」と、ひとつのウリを天稚彦と娘の間の地面に打ち付けると、なんとそのウリの破片はバラバラに散らばり、見る間に天の川となりました。
こうして、娘と天稚彦は天の川を隔てて暮らすようになりましたが、年に一度だけ、7月7日の晩には逢瀬を楽しむことができるようになったわけです。が、もし、娘が聞き間違えさえしなければ、ふたりは毎月一度はデートできるようになっていたのに……嗚呼
さてさて、サッカーのワールドカップも4強が決まり、大詰めを迎えようとしています。日本チームは早々に敗退してしまったので興味は半減しているのですが、ニュースやらワイドショーで何かと取り上げられることもあり、何かと結果が気になります。
下馬評ではやはりドイツとブラジルが最有力ということのようですが、エースのネイマールをアクシデントで失ったブラジル危うし、という見方も多いようです。
せっかくの自国開催でもあり、日本人にもゆかりの深い国でもあるため、私的にはできればブラジルに勝たせてあげたいなと、つい思ったりもします。この国に住む約160万人の日系人もまた、母国を熱烈に応援しているでしょう。
ところで、そんな彼らにもまた、七夕を祝う習慣が根付いているといい、とくに仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として1979年から始まった「サンパウロ仙台七夕祭り」には毎年多くの日系人が訪れるそうで、最近では日本からの観光客も多いそうです。
ただ、仙台七夕祭りは、月遅れの8月に行われますが、このブラジルの仙台七夕祭りは、7月に行われるそうで、また、必ずしも7月7日ではなく、7月のうち、休日となる週末の2日を選んで行われるようです。
最近では、日系ブラジル人社会の枠を超えてサンパウロ市のイベントカレンダーに載るほど大規模になっているとのことで、広場や歩行者天国になった通りには出店が並び、仙台市の七夕飾り制作業者から技術指導を受け、くす玉付きの大きな吹流しが多数飾り付けられるなど、本格的なものだとか。
また、和太鼓やエイサー太鼓、日本舞踊やYOSAKOI、空手の演舞やアキバ系のダンスなど様々な日本文化のステージやパレードが繰り広げられ、「ミス七夕浴衣コンクール」も開催されるといいます。さらには、このサンパウロでの七夕祭りが同祭がきっかけとなって、現在、ブラジル国内の30以上の都市でこうした七夕祭りが開催されているといいます。
しかし、国土のほとんどが南半球にあるブラジルにとっては、今は夏ではなく冬です。このため七夕祭りもまた「冬の風物詩」として定着しているのだそうで、そう聞くとなにやら不思議な気がしてきます。
夏の風物詩である日本の七夕は、今日とあとひと月遅れの七夕がありますが、やはり雨に見舞われることの少ない8月の七夕のほうが風情があるもの。おそらく修善寺温泉でも何等かのイベントがあるでしょうが、できれば今年はそうしたお祭りに出かけてみようかなと思ったりもしています。
さてみなさんの七夕はいかがお過ごしでしょうか。笹に短冊を飾り、もう願い事をされたでしょうか。その願いごとがかなうよう、こちらでも願っておきましょう。