キャロル

2014-7-1839今日7月4日は、アメリカの独立記念日です。が、と同時に1865年に「不思議の国のアリス」が刊行された日でもあることから、今日はこの作者である、ルイス・キャロルについて少し書いてみたいと思います。

おいたち

本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン (Charles Lutwidge Dodgson)といい、ルイス・キャロルはペンネームです。

「不思議の国のアリス」の出版で一世を風靡し、作家・詩人としての印象が強い人ですが、実は、数学者、論理学者、写真家としても知られています。

1832年1月27日、ルイスは、教区牧師の長男としてイギリス本土、中西部に位置する、チェシャー州ウォーリントン、ダーズベリの小さな牧師館で生まれました。父親の名も、チャールズ・ドジソンであり、同名ですが、ややこしいので以下は、作家名の「キャロル」で統一しながら、記述していきます。

キャロルには、2人の姉がおり、また下には8人の弟妹がいるなど、ドジソン家は非常に賑やかな家庭でした。

父のチャールズは、もともとは、オックスフォード大学で数学を教えている先生でしたが、結婚したため、教職を離れました。このころのイギリスの大学はキリスト教の色合い強いところが多く、オックスフォードも教会付属学校のような場所であり、このため教師を続けるためには独身が条件だったためです。

敬虔なクリスチャンでもあり、このため大学を離れたあとも多くの説教集の出版や、その他の聖書関連本の翻訳を行うなどの仕事を手掛けました。教会内での地位も高く、リッポン大聖堂の大執事に就き、英国国教会を二分した激しい宗教論争に関わるなど、聖職者としても活躍した人でした。

こうした父に、幼年期のチャールズは、兄弟姉妹とともに家庭内で厳しく教育されましたが、キャロルが11歳の時に、この父がイギリス北部にあるヨークシャー州クロフトに転任することになりました。

このため、キャロルもまた父母や弟妹とともにヨークシャー州に移り住むことになりました。このヨークシャー州というのはイギリスでも最大の州であり、このため教会員も多く、一家が引っ越したのも広々とした教区館でした。以後25年間にわたり一家はこの教区館で生活するようになります。

12歳の時に、キャロルはリッチモンドの小さな私立学校に入学した後、1845年にイングランドで最も古いパブリックスクールの1つである、ラグビー校に転校しました。11歳から18歳までの男女共学の全寮制の寄宿学校であり、スポーツの「ラグビー」が生んだ学校としても有名です。

キャロルは1850年の終りにこの伝統ある学校を卒業し、翌年の1月に父の母校でもあるオックスフォード大学のクライスト・チャーチ・カレッジに入校しました。この学校も伝統あるカレッジとして知られ、全部で13人のイギリス首相を輩出しています。

ハリー・ポッターシリーズの舞台としても知られており、そのイ重厚な建物様式はアイルランド国立大学、シカゴ大学を含む他国の多くの大学に模されています。ニュージーランドの南島にあるクライスト・チャーチも、このカレッジに因んで名づけられたものです。

ラクビー校といい、クライスト・チャージ・カレッジといい、こうしたイギリスでも最も格式の高い学校に入れたというのは、ドジソン家もまた格式の高い家柄であり、キャロルは長男でもあったことから、この家を継ぐべき御曹司という立場でした。

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カレッジ在学中、ルイスは1年目にして文学士号試験に合格しており、このためスチューデントシップ、つまり特別奨学生となり、クライスト・チャーチにおける特別研究員にも指名されました。

しかし、この年、47歳だった母フランシスが脳炎で死去。その悲しみにもめげずキャロルは勉学に励み、4年後の1854年、クライスト・チャーチ・カレッジを最優秀の成績で卒業しました。以後、同校の数学講師となり、26年間にわたりこの職を続けました。

ルイスは、数学の教師を勤める傍ら、詩や物語を執筆して多数の雑誌に寄稿するようになり、それなりの成功を収めるようになっていきました。1854年から1856年の間に、「The Comic Times」や「The Train」のような国民的雑誌や、「Whitby Gazette」「Oxford Critic」といった、小規模な雑誌にも彼の作品が掲載されました。

この頃から既にキャロルの作品はユーモラスなものでしたが、一方では度がすぎ、しばしば風刺的なものになる風潮がありました。しかし、そうした作品にも満足できず、キャロルの目標と志はさらに高いところにありました。

1855年7月に知人に宛てた手紙には、「私はまだ本当に出版に値するものを書いたとは思っていない。いつの日か出版に値するものを書くことを諦めてはいない」と書き記されています。

その夢は数年後に実現に至りますが、既にこの頃からキャロルは子供向けの本を出してヒットさせたいという考えを持ち始めていたようで、月日を重ねるにつけ、このプランはさらに洗練されていきました。が、創作意欲を掻きたてられる題材というよりは、高い金銭的収入を得るための手段として児童書を捉えていたようです。

アリスとの出会い

1856年、キャロルは初めて「ルイス・キャロル」のペンネームを使って作品を発表しました。「The Train」誌に発表された Solitude(孤独)と題された短い詩がそれで、「Lewis Carroll」の筆名は彼の本名「Charles Lutwidge」のラテン語名の「Carolus Ludovicus」を英語化し、前後逆転させたものです。

この年、彼が勤めるクライスト・チャーチ・カレッジに、新しい学寮長として、ヘンリー・リデルという人物が、妻子を伴って転任してきました。この家族との新しい出会いは、その後のキャロルの作家人生に重要な影響を及ぼすことになります。

キャロルはこのヘンリー夫妻もさることながら、その娘たちである、リデル家の三姉妹、ロリーナ(13歳)、アリス(10歳)、イーディス(8歳)ととくに親しく交際しました。そして、この真ん中の子の、アリスこそが、のちの「不思議の国のアリス」のモデルです。

ルイスがこの物語を書こうと思った出来事は、「不思議の国のアリス」が初刊行されるちょうど3年前の1862年7月4日に起こりました。

ルイスは、このリデル三姉妹を連れ、よくボート遊びに出かけており、彼の日常においては一種の習慣のようになっていたようです。この日もキャロルは、三姉妹と、カレッジの同僚ロビンスン・ダックワースとともに、オックスフォード脇を流れるテムズ川をボートで遡るピクニックに出かけていました。

この行程はオックスフォード近郊のフォーリー橋から始まり、5マイル(約8km)離れたゴッドストウ村で終わるというもので、その間キャロルは船上で、「アリス」という名の少女の冒険物語を少女たちに即興で語って聞かせました。

主人公の名前をアリスにしたのは、この姉妹の中でも特に同名のこの娘がお気に入りであったためでもありました。それまでにも彼女たちのために即興で話をつくって聞かせたことが何度かありましたが、この日の話をアリス本人もいたく気に入り、自分のためにこの物語を何かに書き留めておいてくれるようキャロルにせがみました。

キャロルはこれを聞き入れ、ピクニックの翌日からその仕事に取り掛かりましたが、その翌月の8月に再度姉妹たちとピクニックに出かけた際には、さらにこの物語の続きを語って聞かせました。

この続きもまたキャロルによって後日書き留められ、こうして、手書きによる作品「地下の国のアリス」が完成したのは1863年2月10日のことでした。キャロルはさらに自分の手で挿絵や装丁までこれに加え、完成度を高めた上で、翌1864年11月26日にアリスにこの本をプレゼントしました。

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アリスは飛び上がるようにしてこれを喜んだのは言うまでもありませんが、この反応を受け、さらにキャロルは知己であり幻想文学・児童文学の人気作家であったジョージ・マクドナルドの一家にこの原稿を見せました。そうしたところ、後日マクドナルド夫妻から手紙が届き、そこにはこの作品を正式に出版することを勧める一文がありました。

こうしてキャロルは出版を決意します。しかし、「地下の国のアリス」には当事者にしかわからないようなジョークもあっため、これを取り除き、「チェシャ猫」や「狂ったお茶会」などの新たな挿話を書き足して、もとの作品の2倍近いボリュームの作品に仕上げ、タイトルも「不思議の国のアリス」に改めました。

出版そして成功

この本の出版社はロンドンのマクミラン社と決まりました。挿絵は1841年の創刊以降、2005年までも続いたイギリスの伝統ある風刺漫画雑誌「パンチ」の編集者トム・テイラーの紹介によって、同誌の看板画家ジョン・テニエルに依頼されました。

ジョン・テニエルは、イギリス貴族院の面々にも支持者の多かった風刺画家で、その作品の芸術性やユーモアのある観察眼、動物の生態への豊富な知識などが高く評価されていましたが、20歳のとき、フェンシングの教官だった父と試合をしていて右目を失明しており、隻眼の画家でした。

いわゆる「イラストレーター」の走りであり、キャロル「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の挿絵で有名になり、19世紀半ばから約50年間にわたり、前述の「パンチ」で数多くの風刺漫画を手がけ、歴史に名を残しました。

挿絵にこだわりを持っていたキャロルは、このテニエルの採用を喜びましたが、何かと細かい注文をつけてテニエルを閉口させました。しかし、その成果もあり、1864年から1865年にかけて、次々と後に有名になるイラストの数々が製作されました。

こうして、「不思議の国のアリス」は、2000部が刷られ、1865年7月4日に刊行されました。今日からちょうど149年前のことになります。キャロルがこの日を出版日に選んだのは、ちょうど遡ること3年前のこの日が、初めてリデル3姉妹にこの物語の語り聞かせを行った記念すべき日だったためと思われます。

この初版本の「不思議の国のアリス」は、18センチ×13センチの判形に、赤い布地に金箔を押した装丁で、印刷費は無論マクミラン社が出しましたが、挿絵代も含め出版費用はすべてキャロル自身が受け持ちました。

この当時こうしたかたちの出版契約はめずらしくなかったようですが、逆にこのためキャロルは自分が好むままの、こだわりの本作りをすることができました。ところが、挿絵を担当したテニエルは、この初版本の印刷に満足せず、気に入らないとただちに手紙で知らせてきました。

インクの盛り過ぎで字が裏面に透け、挿絵部分に重なっていたためで、このため、キャロルはマクミラン社と相談のうえでいったん、出版の中止を取り決め、初版本をすべて回収し文字組みからやり直しました。

印刷のやり直しは費用を負担しているキャロルにとって痛手でしたが、こうして1865年11月に「初版第二刷」として刊行された「不思議の国のアリス」は着実に売れていき、同年三刷まで刷り上げ、早翌年には第二版が出され、これは1867年までに1万部売れました。その後もさらに版を重ね、1872年には3万5000部、1886年には7万8000部に達しました。

ルイス・キャロルの名は、この初出版からわずか1、2年の間にイギリス中で広く知られるようになりました。気をよくしたキャロルは続編を企画しはじめ、1866年頃より 「鏡の国のアリス」の執筆をはじめました。この続編は1871年のクリスマスに初版が刊行され、こちらも翌年までの間に1万5000部を売り上げるというヒットを飛ばしました。

キャロルにまつわる「神話」

以後、二つの「アリス」の物語は以後途切れることなく版を重ね続け、マクミラン社はキャロルが死去した1898年までに、「不思議の国のアリス」だけでも15万部以上、続編「鏡の国のアリス」も10万部以上を出版しています。

著作権が切れた以降は、世界中で翻訳・刊行され、現在でもその細かい内容は知らないまでも、「不思議の国のアリス」の名を知らない人はいないと思われるほどの人気ぶりです。

そのストーリーは、改めて紹介するまでもありませんが、幼い少女アリスが白ウサギを追いかけて不思議の国に迷い込み、しゃべる動物や動くトランプなどさまざまなキャラクターたちと出会いながらその世界を冒険するさまが描かれています。

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ところが、このルイス・キャロルという人の素顔については、案外と日本では知られていないようです。熱狂的なアリスファンや文学少年・少女といわれる方々を除けば別ですが、キャロルが数学者で、写真家だったといったことを知っている人はおそらくあまりいないと思われます。また、彼の生涯にはいろんな「神話」がつきまといます。

「不思議の国のアリス」の驚異的な成功により、キャロルは金銭的に成功し、作家として有名になりましたが、一方では、こうした奇妙奇天烈な物語を書いた人物としてある種色眼鏡で見られる部分もあり、それがもう一人の別の人格を生み出しました。

キャロルは実は、ロリコンだった、というのがそれであり、さらにはもしかしたら、小児性愛者ではなかったかといった噂もあり、さらには、キャロルは、「不思議の国のアリス」のモデルとなった、リデル・アリスに求婚したという「求婚伝説」があります。

日本では「不思議の国のアリス」は、角川文庫でも出版されましたが、この巻末の解説で、この求婚伝説が紹介されたため、多くの人がこれを事実として信じたようです。

この解説には、「キャロルが30歳の年に13歳のアリスに求婚したが、この求婚はアリスの両親によって拒否されたばかりか、彼らは、アリスに宛てたキャロルのおびただしかったであろう一切の手紙類をすべて焼却した」と書いてあったそうです。

これを読んだ読者の多くが、やっぱりそうだったか、と思ったようですが、確かに「不思議の国のアリス」は、大の大人の男性が書いた物語にしては少々ロリっぽく見え、いかがわしい表現こそは出てきませんが、一般の児童書とはちょっと違う、風変りな本、とうイメージがあります。

この噂の出所は、無論イギリス本土ですが、日本でも古い文献をあさり、そうしたことをわざわざ調べ、キャロルが本当にロリコンだったのかどうかを確認しにかかった人もいるようです。

私もそれらのことを書いたサイトをいろいろ見ましたが、結論としては、キャロルがロリコンだったというのは、やはりありえない虚実のように思えてなりません。そもそもこの角川文庫に記載してある年齢も間違っているようで、キャロルが生まれたのが1832年、アリスが生まれたのが1852年であるため、二人の年齢差はちょうど20歳になります。

従って、上述のように、もしアリスが13歳ならば、キャロルは30歳ではなく33歳であるはずであり、この解説者がきちんとそうした事実関係を掴んでこれを書いたのかどうか、というそもそもの信憑性が疑われます。

また、キャロルが33歳の1865年という年は、ちょうどキャロルが「不思議の国のアリス」の初版本を出した年であり、この時期はまだ売れっ子作家としてのルイス・キャロルは誕生しておらず、キャロルにとって生活のための収入源は大学からの給与だけです。

この項の初めのあたりでも述べたとおり、彼の父のリチャードは、オクスフォード大で教鞭を取っていましたが、その地位は「独身であること」が義務づけられていたため、結婚を機に大学を辞職しています。

キャロルもまた、同じ条件で大学に勤めており、この時期に結婚するということは、大学での職を捨てるということになります。自費出版で本を出さねばならないといような大事な時期に、確実に職を失うことになる結婚を、キャロルが考えるはずはありません。

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さらに色々調べてみると、そもそもこの求婚伝説のもとになったのは、キャロルの死後、1945年に出された彼の伝記がもとになっているようであり、この伝記の執筆者はフロレンス・ベッカー・レノンという雑誌社記者だったようです。

彼女はこの伝記を書くため、キャロルの死後もまだ生存していたリデル・アリス本人に取材を申し込みましたが、これを断られ、アリスの姉ロリーナにインタビューしています。

このロリーナは、レノンに対し、キャロルがアリスに求婚したという事実はないと否定したようですが、伝記では、「キャロルが愛した理想的な少女はアリス」であった、という書き方をしてしまったようです。しかも、アリスに求婚したと受け止められるような表現をも加えたとのことです。

小児性愛者?

かくしてこれが原因となり、キャロルがアリスを溺愛し求婚までした、という求婚伝説が生まれることになるわけですが、ただ、この当時のイギリスでは、結婚の同意年齢として13歳というのは法律的にも認められており、日本においても、13~15歳いで女性が輿入れするのは普通でした。

従って、キャロルが13歳の女性に対して、結婚を申し込んだとしても非常識でもスキャンダラスでもありません。

ところが、このほかにも、ルイス・キャロルはロリコンだったという説を後押しする話があります。

キャロルはオックスフォードで数学の教師を勤めながら、多数の数学論文や著書を発表する数学者でした。不思議の国のアリスが好評を博したのち、ヴィクトリア女王が他の著作も読みたいとキャロルに依頼したところ、「行列式初歩」という数学書が送られてきて面食らったという逸話が残っており、生真面目なキャロルの素顔がこの話から見えてきます。

ところが、キャロルは作家以外にも写真家としても有名な人で、文芸と技芸の才能を併せ持った芸術家でもありました。若いころには、画家として立身したいと考えていたようですが、クライスト・チャーチを卒業して同校の数学教師となりたてのころの24歳のとき、はじめてカメラを購入し、以後写真撮影を趣味とするようになりました。

50歳になる直前になぜか唐突に写真術をやめてしまいましたが、この20年余りのあいだに、キャロルは写真表現の手法を完全に習得し、自宅の中庭には彼自身の写真館を持っていたそうで、この間、約3000枚の写真を撮影していたとされます。

これらの写真の内、およそ1000枚足らずが破損を免れて現存しているそうですが、その半分が少女を撮影したものだそうです。ただしこれらの現存する写真は彼の全作品の三分の一に満たないそうで、従って少女の写真ばかり撮っていたというわけではありません。

これらの写真は、この当時ヨーロッパやその周辺の諸地域で起こったロマン主義の影響を強く受けたもので、ロマン主義の作品としては、例えばスペインの画家、ゴヤが描いた「裸のマハ」に代表されるようなそれです。

彼の死後、モダニズムの時代が到来し、こうした古典的、絵画的な手法によって撮影されていたキャロルの写真は、忘れ去られていました。が、近年その再評価が進んだ結果、現在では近代的な芸術写真に大きな影響を及ぼし人物とみなされるようになり、彼の生きたヴィクトリア期においては、最も優れた写真家の一人と見なされています。

ところが、この彼が残した写真の中には、数々の少女のヌード写真が含まれており、これもまた彼をしてロリコンであったとする噂を後押ししました。

現存するルイスの作品の半分以上は少女を撮影したもので、しかしだからといって、これすべてがヌードというわけではありません。また、カメラを入手した1856年のうちにチャールズは、一連のアリス・シリーズのモデルであるアリス・リデルの撮影を行っていますが、当時4歳だった彼女のヌードは含まれていません。

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チャールズのお気に入りの被写体は、クライスト・チャーチの同僚であり、後にダラム大学の総長を務めたジョージ・ウィリアム・キッチンの娘であった、「クシー(Xie)」という少女で、本名はアレクサンドラ・キッチンといいました。

ルイスは口癖のように、「いい写真を撮りたければ、クシーをカメラの前に置きさえすればいい」と言っていたほど彼女を気に入っていたそうで、クシーが4歳から16歳までの期間にわたり、約50回の撮影を行っています。

ところが、1880年にキャロルは、16歳になったクシーの水着写真を撮影したいと考え、キッチン夫妻にこれを申し込みますが、二人はこれを拒否しました。このとき、ルイスは既にほかの少女たちのヌード写真も多数撮影していたといい、これが夫妻の知るところとなったためと考えられます。

このとき撮影されたヌード写真の大半は、キャロルが生きている間に破棄されたか、モデルに手渡されたのちに散逸したと推測されていますが、その後6枚が発見され、内の4枚が公開されているそうです。

キャロルが少女ヌードを撮影していた理由としては、彼もまたロマン主義の影響を強く受けており、神に最も近い純粋無垢な存在として裸の少女たちを見ていたのではないかとの指摘があります。しかし、現在ではこうした少女ヌードを撮れば、小児性愛者であるとレッテルを張られるのがオチであり、なかなかそう簡単には撮影は許されません。

案の定、1999年になって、イギリスのジャーナリスが自作の中で、キャロルが少女愛者であるという「通説」を披露し、さらには、最終的な結論としてキャロルがアリスの母である、リデル夫人と、一種の愛人関係にあったのではないかとまで推理した文章を掲載しました。

ところが、大人の恋をするような男ではないと「リデル夫人愛人説」については反対意見も多く、このため、もうひとつの主張であるキャロルが少女愛者であったとする説明は十分に説得力もあったことから、その後キャロルの「ロリコン伝説」だけが一人歩きするようになりました。

しかし、キャロル少女のヌード写真を撮っていたことについては、上述のとおり、当時のイギリスではロマン主義が浸透していたことによります。少女のヌードは「純粋さ」の象徴として多くの写真家が好んで題材にしており、同時代の有名写真家ジュリア・マーガレット・カメロンにも少女や少年のヌード写真を数多く残しています。

キャロルの写真もまた「ヌード」と呼ぶにはあまりにも純粋無垢な写真ばかりであり、カメロンのものと比べると少々エロチックなかんじがないではありませんが、十分に芸術といえる範疇のものだと私は思います。

また、キャロルは日記を残しており、その分析によれば、彼は子供よりもむしろ、大人の女性に興味を示すことも多かったようです。一説にはキャロルは、エレン・テリーという女性に恋をしていたという説もあります。

さらに、もうひとつキャロルが女性に関してはノーマルな人物だったことを思わせる逸話があります。キャロルには、ウィルフレッドという弟がおり、この弟はキャロル自身も写真のモデルに使ったことのある少女と恋に陥り、結婚しようとした時、この少女は15歳、ウィルフレッドは28歳で、まだ独立できていませんでした。

このとき、キャロルはこの結婚を反対しておりこれを許し、歓迎したのはアリスが20歳、ウィルフレッドが33歳になって定職を得てからでした。この当時の結婚の同意年齢は13歳であり、15歳というのは法的にも問題はありませんが、少女が大人になり、弟が定職を得るまで結婚に反対していたという事実は、常識的な大人のそれです。

さらに、彼は聖職者ではありませんでしたが、宗教色の強いクライスト・チャーチという大学からは独身であることを条件に職を得ており、聖職者に近い立場にありました。このため、こうした職につく者が、少女や女性と付き合いがある、という噂が広まるのを恐れ、彼女たちは単なる友達にすぎない、というそぶりを取ることも多かったといいます。

だからといって、ロリコンではなかったという証明にはなりませんが、後に「ルイス・キャロルの想い出」という本を書いたキャロルの「子供友達」の少女のひとりは、スキャンダルになるのを畏れ、20歳近くまで彼と交際のあったことを隠していた事実を披露し、「真面目な大学教授」というイメージでキャロルのことを綴っています。

キャロルが少女愛者であったといいう噂が定着したのはまた、彼の死後、甥のスチュワート・コリンウッドが書いた伝記の中で書いた、「少女を愛する、変わり者の聖職者」という表現にも原因があったようです。

その後こうした故人の親族や、旧友・知人が、彼に関する思い出や伝記を色々書くようになるにつれ、そこに出てくる表現をフロイト流の心理学的解釈から勝手に独り歩きし、キャロルのロリコン説が生まれた、というのがほんとうのところのようです。

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方向転換そして死

ところで、写真家としてのキャロルですが、彼が写真を志したのは、そもそもまだ無名の作家だったころ、この写真術が上流の社交サークルへのデビューに役立つと考えたからのようです。

自分自身の写真館を所有していたというのも上で書きましたが、ここに、ミレーのような大画家や、有名女優、写真家、詩人などの数々の有名人を招いて彼等の肖像写真を撮影しており、また多くの風景写真や解剖写真も残しています。

キャロルは非常な野心家であったようで、作家か世間に才能を示すことを切望していたほか、絵画などでも認められたいと考えていたようですが、最終的に写真術に転向したのは、画家としての才能が不十分だと自覚したためと考えられます。

ところが、キャロルは1880年48歳のときに、唐突にこの写真術をやめてしまっています。上述のとおり、この年にキャロルは少女の水着写真を撮影したいと考え、友人夫妻にこれを申し込んで断られていますが、これが写真を止めるきっかけになったとも考えられます。

しかし、このころにキャロルは既に「不思議の国のアリス」やその続編によって有名作家の仲間入りをしており、また、数学者として数々の業績を打ち立てていました。これらの成功は、彼が芸術の分野で達成することを望んでいた成功を十分に埋め合わせるだけのことはあり、写真をやめたのは、そのためだったのかもしれません。

この翌年の1881年には、いったん数学の講師を辞任しており、写真活動を停止したこのころというのは、キャロルにとっても人生の節目だったようです。ただ、大学を退職したわけではなく、クライスト・チャーチ付の「チューター(Tutor)」として勤務は続けました。

チューターというのは、個人教師、家庭教師のことで、クライスト・チャーチなどのイギリスの大学では留学生に対してひとりの職員が指導教官として付くチューター制が定着しており、慣れない生活について個人的な悩みなど、自分ひとりで解決できない問題を相談する役割を果たします。

キャロルはこののちも、こうしたチューターを兼任しつつクライスト・チャーチの「社交室主任」に選ばれるなど、生涯教師としての職を続けました。

51歳のとき(1883年)、なぜかキャロルは「心霊研究協会(心霊現象研究協会)という組織に入会しています。これは、この前年の1882年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの心霊主義に関心のあった3人の学寮長によって設立された非営利団体で、初代会長は哲学者・倫理学者でもあったヘンリー・シジウィック教授です。

一般に、この組織の成立をもって「超心理学元年」と目されており、この協会の目的は、心霊現象や超常現象の真相を究明するための科学的研究を促進することでした。当初、研究は6つの領野に向けられており、これはすなわち、テレパシー、催眠術とそれに類似の現象、霊媒、幽霊、降霊術に関係した心霊現象などです。

キャロルが入会して2年後の1885年にはアメリカ「米国心霊現象研究協会 」が設立されており、1890年にこれは正式に英国心霊研究協会の支部になりました。

支持者には、アルフレッド・テニスン(詩人)、マーク・トウェイン(作家)、カール・ユング(心理学者)、アーサー・コナン・ドイル(作家)、アルフレッド・ラッセル・ウォレス(生物学者)などのそうそうたる面々がおり、この当時の多くの知識人がこの心霊研究に傾倒していたことがわかります。

数学者でもあったキャロルもまた、心霊という現象を科学的に突き詰めたいと考えたと思われ、また写真を辞めたのも、もしかしたら、彼にとっては新境地となるこの分野に没頭するためだったかもしれません。

2014-7-1974

以後、押しも押されもせぬ名声と富を築き上げる中で、キャロルはクライスト・チャーチの教職を続け、死ぬまでそこの住居に留まりました。しかし、作家としてのキャロルの作品は必ずしも多くなく、「アリスシリーズ」以外には、1876年の「スナーク狩り」と最後の作品である1889年「シルヴィーとブルーノ」の各巻だけです。

また、キャロルは自分が書いた手紙について記録を残しているため、膨大な量の手紙を書いた事が知られているほか、数学関係の本を多数書いており、とくに「論理学」に関する本も多く著わしています。「ルイス・キャロルのパラドックス」というのがあり、これは、
「亀がアキレスに言ったこと」として日本でも知られています。

1895年にルイス・キャロルが哲学雑誌「Mind」に書いた短い対話編の中で出てくるパラドックスで、これは、この作品中で「アキレスと亀の対話」という形で描かれています。この対話において、亀はアキレスに対し「論理の力を使って自分を納得させてみろ」と吹っ掛けます。

しかし結局アキレスはそれができません。なぜなら、カメが、アキレスが繰り広げる論理学的な推論規則に対して「なぜそうなのか?」という問いを発し続け、アキレスを無限に追いやってしまうためです。……と口で言えば簡単なのですが、私もこの論理を文章で読んでみたのですが、さっぱりわかりません。

こうした「無益な論理」のやりとりは、「アリス」にも頻繁に出てきますが、こうした事実を知ると、キャロルが作家である以上に、実は数学者・論理学者であったことなどに思い至ると思います。

しかし、66歳の誕生日を間近に控えた1898年1月14日、キャロルはイギリス南部、サリー州・ギルフォードにあった姉妹の家に滞在中に、インフルエンザから併発した肺炎で亡くなりました。死後、同街の「マウント」という場所にある墓所に埋葬されました。

墓碑銘には、作家名のルイス・キャロルと共に、「チャールズ・L・ドジソン牧師(Rev.)」とあるそうです。

生前の性癖

キャロルの死因は肺炎だったようですが、彼は17歳の終りの頃に重い百日咳を患い、右耳の聴力に障害を負っており、この百日咳は、彼の後の人生において慢性的な肺の弱さの原因となりました。

また、キャロルは、いわゆる「どもり」、つまり吃音症でした。彼自身は、この性癖を「ためらい(hesitation)」と名付けていようですが、本人にとっては生涯にわたり悩みの種だったようです。

が、彼と面識のあった多くの大人が彼の吃音に気付かなかったといいます。にもかかわらず彼自身は、自分の吃音を深く気にしており、「アリス」に出てくる「ドードー」は、発音しにくい彼のラスト・ネーム”Dodgson”をもじったもので、自分自身を戯画化したものだといわれています。

もっとも、この吃音癖は、社交生活における彼の他の長所を打ち消すほどひどい物ではなく、また彼の生まれつきの社交性と強い自己顕示欲はこれを打ち消すほどのものでした。

周囲の注目を引きつけ称賛されることに常に喜びを覚えていたといい、娯楽のための詩の朗誦が求められれば喜々としてこれを披露し、物真似やジェスチャーも得意だったそうで、これらを駆使して魅惑的な芸人として振る舞い、聴衆の前で歌うことも恐れず、それなりの歌唱力を持っていたそうです。

キャロルは、さらに最晩年の63歳のときに、「地獄についての宗教的疑義」を表明したEternal Punishmentという論理文を発表しています。

この作品では、彼は論理学者としての本領を発揮し、この「地獄」という宗教的世界の意味を彼独自のロジックを使って説明し、これをもとに逆説的に神の性質と目的について述べました。

1895年、亡くなる3年前のことであり、この時すでに、その死を予感し、死後も永遠に続く輪廻のなかでの、次の作品の構想を練っていたに違いありません。

さて、今日も今日とて長くなりました。アー疲れた。

2014-7-2012