忍者の国から

2014-1438前回、ひさびさにタエさんがこのブログに参戦しました。最近、少し心境の変化があったようで、今後はときどき、私の代わりを務めてくれるつもりのようです。今後とも期待してやってください。

さて、7月中は、天気は良い日が多かったのですが、大気が不安定なのか、富士山が見える日が少なかったように思います。

それが、8月に入ってからは良く見える日が続いており、真夜中に双眼鏡でのぞくと、黒々としたその姿が視野に入ってきます。ただ、真っ黒というわけではなく、そこには、一筋、二筋と、光の列が見えます。夜間登山をする人達が手に持つライトが、麓から頂上まで延々と続いているわけです。

ここへ住むようになって最初のころは、何だろう、と不思議に思っていたものですが、訳を知ってからは驚かなくなり、最近は夏の夜の窓を飾る風物詩になりました。

そんな夏の日のこと、実は先日、山口に住む母方の叔父が亡くなりました。たしか、80を過ぎていたはずですが、長らく認知症を患い、最近はほとんど寝た切り状態で、それでも頑張っていましたが、この夏の暑さのせいか、ついに力尽きたようです。

元自衛官でしたが、それだけに頑強な肉体を持った人で、たしか剣道は七段か八段だったと思います。生粋の長州人で、それだけに幕末の志士たちが大好きだったようです。家業は農業でしたが、自らも武士の末梢だったらしいことをほのめかしていたことがあり、たしか、自宅にあった古い蔵には古い甲冑やら太刀やらがしまってあったかと思います。

この叔父が住まう土地は、「伊賀地」といい、これで「いかじ」と読みます。平成の大合併で今は山口市に編入されましたが、かつては「佐波郡徳地町」に属しており、この徳地町は現在の山口市全域の40%近くをも占めるという、広大なエリアを持っています。

しかし、山川と田畑がほとんどであり、住居地域はほとんどない、はっきり言ってド田舎です。

ところが、ここは太古には朝廷の直轄地だったそうで、徳地県(あがた)が置かれ、伝説では、出雲種族が移民し開発した一帯です。日本に天皇制が定着したころの初期の天皇で、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父である、景行天皇が熊襲(くまそ)を征伐した際には、その征討をここの人達が手助けをしたといいます。

熊襲というのは、日本神話に登場してくる、九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々です。現在の熊本県の球磨川上流域から大隅半島にかけて住んでいたとされる部族で、5世紀ごろまでには大和朝廷によって平定されて臣従するようになり、これがいわゆる「薩摩隼人」といわれる武士集団の先祖という説もあるようです。

この熊襲の首領は、渠師者(イサオ)といい、その下に梟師(タケル)という複数の頭を持つ小集団がたくさんあって武士団を形成していましたが、このころの大和王権にはまだ力がなく、武力では押さえられないので策略で熊襲を成敗しようとしました。

このためまず、イサオの娘に多くの贈り物をしててなづけ、この娘に父に酒を飲ませて酔わせました。そしてイサオが酔いつぶれて眠っている隙に、景行天皇の手のものが弓の弦を切り、無力化たして上で、イサオを殺害したそうです。

このイサオの暗殺に組みしたのが、この徳地に住む人々だったとされるわけですが、このころの朝廷は奈良県の桜井市あたりにあったらしく、ここはその後、忍者の発祥の地とされる「伊賀」の地からは直線距離で50キロほどのほど近くになります。

従って、景行天皇が熊襲の平定の際に派遣した兵の中には、その後「伊賀国」と呼ばれるようになるこの土地の人々も含まれており、その人々が事が成ったあとも徳地に住みつき、やがてその荘を「伊賀地」と呼ぶようになったのではないか、と私は推定しています。

無論、なんの歴史的な証拠もないわけですが、私の叔父のように武術が優れた人達が、江戸時代まではずっと「忍者」としてその武技を伝統として蓄えつつも、現業としては農業に就き、現在に至ったのではないか、という想像は、いかにもロマンを感じさせます。

もっとも、この叔父は私の母の妹が嫁いだ先の主であるため、私に忍者の血は流れていません。が、この家には私よりも二つ年下の従弟がおり、仲がよかったため、夏休みになると、しょっちゅうここに泊まりがけで遊びに行っていたものです。

近くに佐波川という川があり、この川でカニや魚を取ったりしたり泳いだりと、楽しかった思い出がよみがえります。

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実は、この川の上流にこの当時建設中だった「佐波川ダム」には、私の実父が旧建設省の役人として赴任しており、父はここでの勤務がご縁で、この叔父の嫁の姉、つまり私の母と結婚をしました。

母と叔母はこの伊賀地からそう遠く離れていない、仁保という村に住んでおり、ある時にこのダム建設現場の役人とのお見い話を持ってきた村人がおり、それからとんとん拍子にその結婚話が進んだ、ということのようです。

従って、この佐波川が流れる徳地という場所は、私にとっても少なからぬご縁のある土地柄です。古くから良質の木材の産地として知られ、鎌倉時代には、1180年に焼失した華厳宗大本山である東大寺(奈良県奈良市)の復興に使う木材をここから切り出したと言われているそうです。

森林地帯であることから当時この一帯には生業がなく、東大寺の木材調達のために訪れた「重源」という僧侶が村人の貧困を憐れみ、紙や茶の製造を教えたと伝えられています。以降、紙製造はこの地域の産業となり、毛利藩政時代には藩の事業として大いに発展しました。

その後、この徳地紙は名産品として全国に知れ渡ったといい、紙の買い付けに北前船の商人たちが訪れ、街が大いに賑わった時代もあったようです。が、この紙製造業は、明治に入り藩の後ろ盾がなくなるとともに衰退していったようです。

この重源和尚もまた、現在の奈良県の生駒出身の人です。従ってこの伊賀地のある徳地を訪れたのも、近くに住み、熊襲の平定に尽力した伊賀国の人々の紹介であったかもしれません。木材を調達する場所は、熊野を始め、紀州方面にはいくらでもあるのに、わざわざ山口くんだりまで来る必要はなく、この推定はもしかしたらあたっているかもしれません。

このころ東大寺は、治承4年(1180年)の平氏政権による南都焼き討ちによって灰燼に帰しており、後白河法皇は直ちに復興の意思を表し、その責任者として重源を大勧進職に任命しました。

当時、61歳だった重源は勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織して、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者・職人が実際の再建事業に従事しました。

また、重源自身も、京都の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼しており、途中、多くの課題もありましたが、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建されました。

このときの木材のやりとりの中で、伊賀国の人々と徳地の伊賀地の人々の交流があったことは想像に難くなく、もしかしたら、伊賀地の名前はこのころに定着するようになったものかもしれません。

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いわゆる、「伊賀流」の忍者たちは、ちょうどこの鎌倉時代から室町時代にかけての時代に勃興しています。このころの伊賀国は小領主が群雄割拠し争っているような土地柄であり、このため、民は自らを守るためゲリラ戦の技を磨いていきました。これが伊賀の忍者の起こりとされています。

伊賀は古琵琶湖層に由来する粘土質の土壌のため、農耕に苦労する土地柄でした。特に、渇水になると深いひびが入り、水田は壊滅的打撃を受けます。そのため、伊賀の者は傭兵として各地に出稼ぎをするようになったのです。

戦国時代、伊賀には伊賀守護・仁木氏の傘下に属しながらも、「伊賀惣国一揆」と呼ばれる合議制の強い自治共同体が形成されていました。しかし、実力者である上忍三家(服部・百地・藤林)の発言力が強く、合議を開いても彼らの意見に従うことが多かったようです。

ただ、その後伊賀と並んでその後忍者の巣窟とされるようになる「甲賀」には、「惣」と呼ばれる自治共同体を形成しており、各々が対等な立場にありました。これは多数決の原理を重んじる「伊賀惣国一揆」の運営ぶりとは対照的です。

甲賀と伊賀は、現在の新東名高速を隔てて、北に甲賀、南に伊賀、という位置関係にあり、一般的には伊賀と甲賀は互いに相容れない宿敵同士というイメージがあります。しかし、実はこれは誤解であり、両者はいわば一つ山を挟んだ言わば隣人同士です。

争いあっても何の得も無く、むしろ、伊賀の人々と甲賀の人々は常に協力関係にあり、どちらかの土地に敵が攻め込んだ場合は力を合わせて敵を退けるよう約束していたようです。

そんな中、天正7年(1579年)、伊賀忍者の一人・下山甲斐は仲間を裏切り、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)に伊賀の団結力が衰えだしたことを報告し、侵略を進言しました。下山の言葉に乗った信雄は、ただちに国境にあった丸山城を修築し、侵略の拠点とすることにします。

ところが、信雄の企みはいち早く伊賀の人々の耳に届き、放たれた忍者達の奇襲によって信雄は大敗を喫してしまいます。これが「第一次伊賀の乱」です。この結果に激怒した信長は、勝手に軍を動かした信雄を絶縁すると脅して戒しめる一方、2年後の天正9年(1581年)には自ら、およそ4万の兵を率いて伊賀に攻め込みました。

これを「第二次伊賀の乱」といい、驚いた伊賀の人々は、すぐさま総力を挙げて信長と戦うことを決意します。しかし、かねて協力体勢にあったはずの甲賀忍者の一人・多羅尾光俊の手引きにより、伊賀忍者からさらに2人の離反者が発生し、織田方の蒲生氏郷の道案内をおこないました。

これにより、伊賀の人々が立て籠もった城は次々と落ち、最後の砦・柏原城が落ちた時点をもって天正時代の第二次伊賀の乱は終わりを告げました。

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その最後の段には織田方の大倉五郎次という人物が柏原城に入って、和睦の仲介に入り、一方、伊賀方は惣名代として滝野吉政という武将が城を出て信雄に会い、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けました。

こうして伊賀勢の命は保証され、伊賀の地にもようやく平和が訪れたかにみえましたが、やがて本能寺の変がおこります。この政変で信長が死んだことを知った伊賀忍者たちは、ふたたび一斉蜂起し、各地で信長の跡を継いだ秀吉の軍勢と争いを繰り広げるようになります。

この本能寺の変の直後、堺にいた徳川家康は、伊賀の服部正成らに助けられ、護衛されながら三河国へ逃げ戻った話は有名です。この出来事をその後徳川家では「神君伊賀越え」と呼ぶようになりますが、その後徳川の時代になって以後も伊賀忍者たちが徳川に保護されるようになるのは、このときの出来事に起因しています。

一方、甲賀忍者のほうはというと、この地が信長を経て豊臣秀吉の支配下に入ると、家康の監視活動を主な任務に命じられるようになりました。その結果、敵対する徳川方では伊賀忍者を甲賀忍者追討の任に当てがうようになりました。

こうしたことが、のちに江戸時代になって、「伊賀忍軍対甲賀忍軍」という形で講談や読本の題材になるという結果を生みました。が、前述のとおり、もともとはこの両者はよしみの深い、同盟関係にありました。

しかし、はからずも両者は徳川と豊臣との代理戦争の手先となって争うようになり、その結果徳川が勝って、伊賀は上述の「伊賀越え」の功績を認められ、徳川幕府におおいにひきたてられるようになりました。

一方、秀吉側についた甲賀衆は秀吉の家臣中村一氏の支配となりましたが、関ヶ原で豊臣が負け、徳川の世になると、これら甲賀の元侍衆たちは浪人となり没落していくこととなりました。

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徳川家に重用されるようになった服部正成は、一般に「服部半蔵」として知られており、この名はこれ以降、世襲されていきます。また、その配下の忍者集団を率い、これは「伊賀組同心」としてその後幕府に召し抱えられるようになります。

初代服部半蔵である正成自身も忍者であったかのように言われることも多いようですが、正成自身はむしろ普通の戦働きでならした侍であったようです。正成は、伊賀国の土豪で、北部を領する千賀地氏の一門の長であった服部保長の四男として三河国に生まれました。

なぜ、伊賀ではなく、徳川の本拠地であった三河だったのかはよくわかりませんが、もしかしたら人質に出されていたかもしれません。いずれにせよ伊賀と徳川は古くから縁が深かったことがわかり、その後正成は長じてからは父の跡目として服部家の家督を継ぎ、徳川家康に仕えて遠江国掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねました。

16歳のときに、徳川の宿敵今川方の三河宇土城(上ノ郷城)を夜襲し戦功を立て、この際、家康から持槍を拝領したといいます。このときから、徳川には忠誠を誓ってやまない、譜代の臣下となっていったのでしょう。

天正7年(1579年)に家康の嫡男信康が織田信長に疑われて遠江国二俣城で自刃に追いやられたとき、正成が検使につかわされ介錯を命ぜられました。

このとき正成は「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って落涙して介錯をすることが出来ず、この顛末を聞いた家康は「鬼と言われた半蔵でも主君を手にかけることはできなかった」と正成をより一層評価したといいます。

天正18年(1590年)の小田原征伐で家康に従軍し、その功により遠江に8000石の知行を得るところとなり、家康の関東入国後は、与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8,000石を拝領するようになりました。

このように、正成自身は忍者ではなく、武将としての経歴が際立ちます。しかし、父親が伊賀出身であったこともあり、江戸幕府の成立とともに徳川家に召し抱えられることになった故郷の伊賀忍者たちの集団をも統率する立場になっていきました。

伊賀を藤堂家が統治して以後は、伊賀忍者たちは「無足」という士族階級を保障され、扶持米を支給され、支配階級に組み込まれていきました。このため、その後江戸期を通じて勃発した各種の内乱、例えば天草の乱のような乱の討伐戦をはじめ、全国の多くの一揆鎮圧に伊賀衆が派遣され、活躍するようになります。

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その後も伊賀衆は、徳川幕府の親衛隊のような立場を貫いて行き、それは幕末まで続きました。幕末のペリー来航の際、伊賀者の沢村甚三郎という人物が偵察のため黒船に潜入したという話も残っており、正成の子孫で、12代目の「服部半蔵」を称した服部正義は、桑名藩家老となり、慶応4年、鳥羽・伏見の戦いに桑名軍を率いて参戦しています。

が、明治元年には転戦した柏崎の鯨波戦争では破れて降伏。官軍に身柄を拘束され謹慎処分となります。その後、桑名藩の戦後処理の終了と共に謹慎が解かれ自由の身となり、桑名藩の要職を務めたあと明治19年(1886年)に没しています。詳しいことはわかりませんが、おそらくはこの服部家は現在まで続いているのではないでしょうか。

一方では、伊賀国の忍者たちは、その後江戸時代にはその多くが帰農し、農民になっていきました。享和3年(1803年)正月の中瀬村(現伊賀市)の記録によると、村の農民側から無足身分である忍者に対して、農民と同様の「棒役」を務めるよう要請がありましたが、忍者側が士族の身分であることを盾にそれを拒否したところ、村八分にされました。

棒役というのは、祭りの際に出る、山車の前後に一対づつある梶棒を担当して、山車の楫を切る役のことです。それまで子供としてお囃子を担当していた者が15~18歳位で「若者」に仲間入りを果たして、この時初めてもらう役割であり、この棒役になった時点から、懸かり物(=組費)を納める義務が発生します。

つまり、棒役を務めるということは、農民と同様の立場になるということであり、身分上は武士であった伊賀衆はこの棒役になることを不服として村役人に訴え出ました。が、村役人側は、士分としての身分を放棄して帰農するか、あるいは士分のまま棒役を務めるならば仲介には立とうと申し渡したといいます。

このことからわかるように、江戸時代には武士として忍者をやめて帰農しても「抜け忍」のレッテルを押されることはなく、穏便に地域との融合を図りつつ、農民として振る舞えるようになるよう役人たちも尽力していたことがわかります。

つまり伊賀忍者たちは、武士をやめても処罰されることはなく、やがて長い年月の間に武士の立場を維持しつつも帰農していったのです。私の叔父が住まう伊賀地にも、古くからの付き合いによってこの伊賀国から多くの忍者たちが移り住み、その多くは江戸時代の太平の世において、次第に無足の立場を捨てて農民になっていったのでしょう。

そう考えると、叔父の家の倉に甲冑やら刀やらが治めてあった理由もわかります。そうした先祖からの遺物を子供のころから眺めて育った叔父が、お父さんやお爺さんからそうした言い伝えを聞き、やがて武道に励むようになっていったのも自然のことのように思えます。

その叔父も亡くなり、山深いこの家を守るのは叔母一人になってしまいました。二人息子がおり、その一人が私と親しかった従弟ですが、彼は東京に家を持ち、ここを継ぐ気はさらさらないようです。

もう一人の次男も農業を続けるつもりはなさそうで、そうすると、伊賀忍者の住処であったかもしれないこの土地と家も早晩、廃墟になっていくのかもしれません。

今回、この叔父の葬式には仕事の関係もあり出席することはできませんでしたが、いずれ郷里に帰った際には、線香を手向けにこの地を再び訪れたいと思っています。そこには昔と変わらない美しい伊賀の里があるはずであり、今もその美しい風景が目に浮かんできます。

ちなみに、この伊賀地のある徳地には、「重源の郷」という体験型交流公園があります。緑豊かな里山に茅葺き屋根や水車など、昔懐かしい山村風景を再現した、一種の田舎のテーマパークであり、たしか開業してから15年近くが経っているはずですが、いまだに営業を続けていられるというのは、それなりの人気があるからでしょう。

その名の通り、上述の重源和尚にちなんで作られた施設で、昭和初期の山村風景を再現したこの郷では、徳地の豊かな自然や特色ある歴史、文化にふれられると同時に、紙漉きや木工、竹細工、紙細工など、さまざまな体験をすることができます。

もし、山口に行かれることがあれば、こうしたひなびた施設で、時間を忘れてのんびりとした1日を過ごすのもいいかもしれません。

以下にリンクを貼っておきますので、ご興味のある方は一度そのHPも訪れてみてください。

重源の郷」山口県山口市徳地深谷1137

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