アリゾナ、ミズーリ、イノウエ

2014-2562今年も、お盆が近づいています。

しかし伊豆へ引っ越してきてからは、この時期に郷里の山口に帰ることもなくなり、ただでさえ遠い山口が更に遠くなった気がします。

その分、伊豆の風土が体に沁みこんできているようで、ここが新たな故郷になりつつあることを感じさせます。写真撮影のためもあって頻繁に半島内のあちこちにも出かけるようになり、知らない土地がひとつひとつ無くなっていっていることも理由のようです。

しかし、日本中どこに住んだとしても、その土地の隅々まで知り尽くす、というのはおよそ無理であり、例えば伊豆では天城の山奥のほうには、道路さえ整備されておらず、いまだもって分け入ることのできないような場所もあります。

それでふと思い出したのですが、若いころ留学していたハワイのホノルルの町も、住んでいた当時は隅々まで知っていたつもりでしたが、今改めて考えると、あ~あのあたりには実際には行ったことがなかったな、と思いだされます。

とくにホノルル西部のほうは、軍の施設が多く、一般人は立ち入り禁止になっていて入ることができません。ホノルル西部を走るクイーン・リリウオカラニ・ハイウェイから南側は、いわゆるパールハーバーにあたる領域であり、海岸一帯が軍事施設化されていて、この地域に入るには許可が必要になります。

唯一民間人の立ち入りが自由で、一般観光客にも公開されているのが、ホノルル最大のフットボール競技場、アロハ・スタジアムのすぐ西側の海に浮かぶ島、フォード島にある「アリゾナ記念館」です。

この記念館は1945年の日本軍の真珠湾攻撃によって撃沈された戦艦アリゾナ、及びその乗組員を追悼するとともに、真珠湾攻撃自体を記念する施設であり、施設は沈没した戦艦アリゾナの真上に建設されています。

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記念館が建設されたのは1962年で、毎年100万人以上の人々が訪れています。館はボートでのみ入ることができ、アリゾナ本体と交差するような角度で海上に配置されています。

このフォード島の対岸にあるボート発着場付近には、合衆国国立公園局によって1980年に開設され「アリゾナ記念館ビジターセンター」があり、記念館と陸上との往来や真訪問客への対応が行われています。

このアリゾナ記念館、およびビジターセンター内の史料室への入館は無料です。ビジターセンターではアリゾナの錨や鐘のほか、真珠湾攻撃に関する展示がなされており、中にあるミュージアムショップの収入が記念館の維持にあてられています。

ビジターセンターからフォード島の記念館へは米海軍の運航するボートでアクセスしますが、ビジターセンターで番号が振られ出発時刻が記載された整理券を入手する必要があります。毎日多くの観光客が訪れますが、ボートの数は限られているため、入場制限がされており、混雑する日には午前中で整理券が売り切れてしまうこともあるようです。

ボートに乗船する前にはビジターセンターで約20分ほどのドキュメンタリー映像を見せられますが、ここでは真珠湾攻撃に関する映像が流れます。なかなか迫力のある映像です。このあと、記念館自体は各自での見学となりますが、その展示内容はその昔私が学生のころに見たのとさして変わっていないようです。

記念館の内部はエントランス、広間、慰霊所の3つに大きくわけられます。建物中央部にある広間には両側の壁と天井にそれぞれ大きな窓が7つずつ設置されており、これは真珠湾攻撃が行われた日付を表しています。

この広場にはアリゾナの甲板を見下ろすことが出来る穴が開いており、この穴から海中に花を投げ入れることで、戦死した乗組員たちの霊を慰めることができるようになっています。記念館の一番奥は慰霊スペースとなっており、大理石の壁には真珠湾攻撃で戦死したアリゾナの乗組員全員の名前が刻まれています。

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1941年12月2日、択捉島の単冠湾からハワイ近海に進発した南雲忠一中将率いる日本海軍空母機動部隊は、大本営から「ニイタカヤマノボレ」の暗号を受けて準備を開始し、12月8日未明から、第一波空中攻撃隊として艦戦43機、艦爆51機、艦攻89機、計183機を真珠湾に向かわせました。

ハワイ現地では12月7日日曜日の朝のことでした。航空隊はオアフ島北端カフク岬を雲の切れ目に発見し、7時40分に「突撃準備隊形作れ」を意味する「トツレ」が発信され、さらに7時49分、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田美津雄海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」(ト・ト・ト・・・のト連送)を下命しました。

さらに、真珠湾奥深くに侵入した淵田機は7時52分、旗艦赤城に対してトラ連送「トラ・トラ・トラ」を打電しますが、これは世に名高い「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号でした。

航空機による攻撃は現地時間で、8時00分に雷撃により開始される予定でしたが、これより5分早い7時55分に急降下爆撃隊がフォード島ホイラー飛行場へ250kg爆弾による爆撃を開始し、これが初弾となりました。

実は、このときまだ日本はアメリカに対して宣戦布告をしておらず、このことがのちに「騙し打ち」とアメリカが日本を糾弾し、その後の戦線でアメリカ全土を奮い立たせる結果となりました。

本来は、ハワイ時間で午前7時30分までには野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に対して、「宣戦ノ詔書」を手渡す予定でしたが、実際に手渡されたのは、これよりも1時間以上も経った、午前8時50分でした。

この文書の手渡しが遅れたのは、駐ワシントンD.C.日本大使館の事務官や書記官らが翻訳およびタイピングの準備に手間取ったためでした。日本の書記官たちが、どたばたしていたちょうどそのころの7時55分、ハワイではアリゾナの監視員が日本機を発見し、空襲警報が発令されました。

さらにその3分後の7時58分、アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない。」との警報を発しますが、その僅か数分後の8時過ぎ、加賀飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した800kg爆弾がアリゾナの四番砲塔側面に命中。

次いで8時6分、一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中し。8時10分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は轟沈しました。このとき、乗組員1177名のうち1102名が死亡しましたが、すぐ近くに停泊していた戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中し、オクラホマも転覆沈没して将兵415名が死亡しました。

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そのほかのアメリカ側の主な被害としては、戦艦ネバダが擱座、カリフォルニア着底、ウエストバージニア着底、などでしたが、擱座・着底したこれらの戦艦はその後サルベージされ、改修を受けて戦線に復帰しました。

沈没して使えなくなったのは、オクラハマとアリゾナだけでしたが、アリゾナはその後二日間に渡って炎上し、爆発の残骸はフォード島に多数降り注いだといいます。しかし、このときの被害は戦艦ばかりであり、日本側が本命として狙っていた空母群は演習のために港外に出ていて不在でした。

この真珠湾攻撃を引き金に太平洋戦争が開戦され、日米が本格的に第二次世界大戦へと参戦することとなったわけですが、全体的にみればこの攻撃によるアメリカ側の被害は寡少といえ、逆に「だまし討ち」と彼等を思わせ奮い立たせたことは日本の大きなミスでした。

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それから、3年半もの間、日米は太平洋各所で激戦を続けることになりますが、戦況は日本に不利なまま末期に突入し、各種海戦で米軍に敗れた日本は制海権に加えて制空権も失い、やがては日本全土が逆に米軍機による空襲を受ける事態になっていきます。

1945年7月に入ると、米軍は主力艦隊の日本近海へも決め、このとき、かつてアリゾナが沈没したホノルルのフォード島に本部が置かれた第3艦隊をその主力とすることが決定されました。

7月8日、この第3艦隊の旗艦である、戦艦「ミズーリ」は艦隊を率いてに北海道室蘭沖に接近し、7月15日から艦隊によって室蘭市内の製鉄所を砲撃しました。いわゆる「室蘭艦砲射撃」であり、これは日本本土に対する最初の大規模な砲撃でした。

この攻撃は、7月15日午前9時35分ごろから始まり、ミズーリからはおよそ800発の砲弾が撃ち込まれ、この結果日本製鋼所室蘭製鋼所、日本製鐵輪西製鉄所などが破壊され、死者439人を含む多数の死傷者が出ました。

ミズーリは、続く17日、18日には茨城県に移動し、日立市の工業地帯を砲撃しました。さらにその後第3艦隊の各空母からの艦載機による攻撃が行われ、7月25日までこの空襲が継続され、ミズーリはその空母護衛任務あたりました。

日本軍はこのころにはもう戦艦を動かすほどの十分な燃料がなく、駆逐艦や砲艦、潜水艦ばかりの戦力では制海権は殆ど無いに等しく、ミズーリを初めとするアメリカ艦隊の艦艇は日本近海で自由な活動を行っていました。

その後、8月6日には広島に原爆が投下され、その3日後の8月9日には長崎にも原爆が投下されました。この日ミズーリは、北海道および本州北部への攻撃を行っており、翌日10日には、乗組員が非公式ニュースとして「天皇の身分が保障されるならば日本は降伏する準備ができている」という知らせを受けます。

こうして8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、これを受け、ミズーリはトルーマン大統領の命により東京に上陸する占領部隊のため200名の士官及び兵士をアイオワに移乗させたのち、8月29日に降伏調印式準備のため東京湾に入りました。

大日本帝国の降伏文書調印式は9月2日に東京湾の中の瀬水道中央部、千葉県寄りの海域に停泊するミズーリの甲板上で行われ、ここにはアメリカ合衆国をはじめ、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、カナダ、ソビエト、オーストラリア、ニュージーランドの代表が訪れ、各国が調印して日本の降伏を受け入れました。

午前9時過ぎに、にマッカーサー元帥がマイクの前に進み、降伏調印式は23分間にわたって世界中に放送され、この式中ミズーリの甲板は2枚の星条旗で飾られました。

そのうちの1枚は真珠湾攻撃時にホワイトハウスに飾られていた物で、48州の星が描かれた星条旗であり、もう1枚は1853年の黒船来航で江戸湾に現れたマシュー・ペリーの艦隊が掲げていた31州の星が描かれた星条旗でした。ペリーが掲げた星条旗が使われたのは、90年越しに改めて日本を征服した証しとする意図があったと言われています。

このとき、マッカーサー元帥は5本のペンを取り出して交代で文書に調印し、このうち4本はウェストポイント陸軍士官学校、アナポリス海軍兵学校ほかこの戦争で功績があった人物に贈り、残る1本は妻のジェーンに残したという話は有名です。

その後、ミズーリは、1950年に勃発した朝鮮戦争に投入されましたが、1955年に退役。西海岸ワシントン州のブレマートンの太平洋予備役艦隊入りしました。ここでは桟橋に係留されて公開され、1年あたり約180,000人の見学者が訪れるほど人気のある観光名所となり、艦の側には多くの土産物店などが建ち並ぶようになりました。

それから30年近い年月が過ぎた1984年、なんとミズーリのサンフランシスコでの再就役が決定します。このころはまだ冷戦の時代であり、膨張を続けるソビエト海軍に対する優位を維持・確保するため、アメリカが掲げた「600隻艦隊構想」のためでした。

ミズーリにはこのとき最新鋭の武器類が増設され、32発のBGM-109トマホーク・ミサイル、16発のハープーン・ミサイルが発射可能な箱形発射筒、敵の対艦ミサイルを迎撃する4基のファランクスCIWSなどが増設され、最新の電子機器も搭載されました。

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1990年8月2日、中東においてイラク軍がクウェート侵攻を開始しました。これに対し、同月中旬にジョージ・ブッシュ大統領はサウジアラビアおよびペルシャ湾に多国籍軍支援のため数十万に及ぶアメリカ軍の第一陣を派遣します。湾岸戦争の勃発です。

このときミズーリは9月に始める予定であった4ヶ月間の西太平洋巡航に向かう予定でしたが、その直前に出航は取り消され、この中東情勢に対応するため動員されることになりました。イラクのクウェート侵攻の翌年の1991年1月初めにはペルシャ湾に到着し、ここで火災を起こした船を救援し、その後バーレーンに向かいます。

1月17日、ミズーリは、イラク領内に向け、改修後初めてトマホーク・ミサイルを発射し、ここに湾岸戦争が本格的に開始されました。このとき世界中の人々が米軍が発した「クウェートの解放は始まった」という一報に耳を傾けました。この初戦においてミズーリはトマホークを発射し続け、全部で28発をイラク領内に打ち込んでいます。

さらには、カフジ北部のイラク軍司令部および燃料庫に対して、主砲によって1,200kgの砲弾を撃ち込みました。これは1953年3月日本に向けて発して以来、37年ぶりの主砲発射でした。さらにその後もミズーリは何度も艦砲射撃を行い、イラク軍砲台を沈黙させ続けるなど、この戦争では重要な役割を担いました。

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このアメリカ軍の侵攻によってイラク軍は沈黙を強いられ、1991年2月28日、イラクはソ連提案の停戦協定に同意し、湾岸戦争はここに終結しました。この結果ミズーリは3月中旬には中東を離れ、オーストラリアおよびタスマニアを経由して帰国しました。

こうして、太平洋戦争、朝鮮戦争、イラク戦争と三度の戦争に投入されるという極めて稀な経験をすることになったミズーリですが、ついにその退役の日を迎えます。現役最後の活動は、シアトル、バンクーバー、サンフランシスコの訪問を行い、これら各地でイラク戦争での活躍に対する賞賛を受けることでした。

その後1991年の感謝祭の翌日、更に最後の任務に出発しましたが、この任務とは、太平洋を横断しハワイで真珠湾攻撃50周年記念式典に参加し、ここに永久保存されることでした。

ちょうどこの年、1991年12月25日にはソビエト連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、これを受けて各連邦構成共和国が主権国家として独立し、ソビエト連邦は解体されました。このソ連崩壊に伴いアメリカ合衆国に対する脅威は低下し、国防予算の徹底的な削減が行われることとなったのが、ミズーリの退役の直接的な理由でした。

戦艦を運用する高額なコストはもはや効果のない浪費と考えられ、ミズーリは1992年3月31日付をもって、正式にカリフォルニア州ロングビーチで退役しました。

1998年5月4日、海軍長官ジョン・H・ドルトンはホノルルに所在する非営利団体の戦艦ミズーリ保存協会に艦を寄贈する契約書に署名します。艦はワシントン州ブレマートンからオレゴン州アストリアの港に牽引して廻航され、コロンビア川の河口で船体に付着したフジツボや海草を除去し、そののちストリアで2日間公開されました。

ハワイへの航海も自力ではなく牽引によるものであり、太平洋を渡ったのち真珠湾でフォード島のドック入りしました。そして、ここで最終的な化粧を終えたミズーリは1999年1月29日、アリゾナ・メモリアルの後方に係留され、ここで博物館として公開されるようになりました。

この当初真珠湾でミズーリを公開するという動きには多数の抵抗があったといいます。太平洋戦争終結の象徴であるミズーリを、真珠湾攻撃を象徴するアリゾナ記念館と並んで公開することによって、アリゾナの存在意義が薄れるのではないかと危惧する人が多かったためです。

これに対してミズーリ公開時のセレモニーにおいて、ミズーリはアリゾナ記念館の後方に、アリゾナに向けて艦首が向くように係留されました。これにより、その後ミズーリの後部甲板で行われることになる各種セレモニーの際に、その参加者がアリゾナ記念館のほうを直接望むのを妨げるように配置される形になりました。

艦首をアリゾナ記念館に向けるこの決定は、アリゾナ船内に葬られる戦死者が平和の元に眠るのを見守ることができるようにするためだとの公式発表があり、このコメントはミズーリとアリゾナの個々のアイデンティティを保持することを助け、同じ湾内に2つの記念物を保持することに対する市民の賛同を得るのに役立ったといいます。

日本人の我々からすれば、どうでもいいといったら失礼になるかもしれませんが、どちらかといえば理解のしがたい微妙な配慮です。が、彼等にとっては、太平洋戦争の開始の際の屈辱の遺物と、最後における歓喜の象徴それぞれが同じ場所にあって記念館として存在するというのは複雑な気持ちなのでしょう。

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実は、ミズーリはアメリカ海軍が完成させた戦艦としては最後のものとなります。今や電子装置を満載したイージス艦が主力であり、こうした巨大な軍艦は不要なものとされており、世界を見ても新たに戦艦を建造している国はありません。

従って、歴史的にも過去の産物といえ、日本の降伏調印もなされた歴史的な建造物ともみなされるということで、1971年5月には、アメリカの国定歴史「記念史跡」として登録を受けました。

しかし、アメリカ各地にある古い教会や集会所のような国定「歴史建造物」としての資格はありません。その理由は1986年の再就役で近代化されたときにオリジナルの設備の多くが撤去され、新装備を配置するため多くの改造がなされたためです。

一方のアリゾナは、1989年5月5日にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されています。また、その上部に新たに建設された記念館も含めた「アリゾナ・メモリアル」は1966年10月15日に国家歴史登録財に登録されています。

同じ戦艦でありながら、ミズーリは「記念史跡」にすぎず、アリゾナは「歴史建造物」だという仕分け方もまた、我々には理解しがたいところがありますが、もうひとつの違いとしては、ミズーリは艦自体が勲章を受けているのに対し、アリゾナは受けていません。

ミズーリは第二次世界大戦の戦功で3つ、朝鮮戦争の戦功で5つ、湾岸戦争の戦功で3つの従軍星章を受章していますが、アリゾナに受賞経歴はありません。

戦役に投入される前に沈没したということもありますが、ミズーリは記念すべき勝利の象徴であるため賞予に値しますが、アリゾナは、心ならずも敗北を喫した悪夢の記憶にすぎず、勲章を与えるのは違う、ということなのでしょう。

そう考えると、日本の原爆ドームが世界遺産として認定されようとしたとき、アメリカがこれに強く反対した、という理由がよく分かる気がします。

このアメリカの敗北の象徴であり、太平洋戦争の勃発点ともなった、アリゾナからは、現在でもオイルが漏れだしているそうです。近くまでいくと、海面まで上昇しているのを目視できるそうで、このオイルは「アリゾナの涙」または「黒い涙」と言われることもあるといいます。

2001年に発売されたナショナルジオグラフィックス誌では、アリゾナの隔壁の腐食により漏れ出しているオイルが真珠湾の環境悪化に大きな影響を及ぼしているとし、これに対し米海軍はオイル流出や隔壁の腐食を継続的にモニタリングしていくと述べているそうです。

実は、1950年代においてはアリゾナをすべて廃棄処分にするとの議論がなされていました。しかし、保存の声が高まり、このため1958年にアイゼンハワー大統領が記念碑の建設を承諾し、50万ドルの予算が個人の寄付で賄われることになりました。しかし、実際には20万ドルあまりが政府から助成金として支給されたようです。

この記念碑建設への寄付者の中にはハワイ州関係者のほかに、著名なテレビ番組や世界的に有名なミュージシャンのエルヴィス・プレスリーなどのほか、後に日系人初の上院議員となるダニエル・イノウエ、も含まれていました。

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ダニエル・イノウエは、1963年から50年近くにわたって上院議員に在任していた長老議員であり、上院民主党の重鎮議員の1人でした。2010年6月28日に最古参であったロバート・バード上院議員が死去したことで、上院で最も古参の議員となり、またこれに伴い慣例に沿うかたちで上院仮議長に選出、亡くなるまで同職にありました。

上院仮議長は実質名誉職ではあるものの、大統領継承順位第3位の高位であり、アメリカの歴史上アジア系アメリカ人が得た地位としては最上位のものとなります。また第二次世界大戦時はアメリカ陸軍に従軍し、数多くの栄誉を受けました。

祖父は福岡県、祖母・母は広島県の出身で1899年(明治32年)に福岡県八女郡横山村(現広川町・八女市)から渡米しました。1924年(大正13年)にホノルルで生まれ、その後ホノルルの高校を経てハワイ大学マノア校に進学しました。私の母校でもあります。

ハワイ大学在学中の1941年12月に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、これによりアメリカが第二次世界大戦に参戦した後、ハワイでの医療支援活動に志願、その後アメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ前線で戦いました。

第442連隊戦闘団は、日系アメリカ人のみで編成された部隊で、ヨーロッパ戦線に投入されるやいなや枢軸国相手に勇猛果敢な奮闘ぶりを見せました。その激闘ぶりはのべ死傷率314%(のべ死傷者数9,486人)という数字が示しており、アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊としても知られています。

第二次世界大戦中、約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどはこの団のほか、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属されました。

イノウエも第442連隊戦闘団に所属し、イタリアにおけるドイツ国防軍との戦いにおいて激戦を経験しましたが、1945年4月21日にドイツ軍兵士の使用したグレネードランチャーによって右腕を負傷し切断、1年8ヶ月に亘って陸軍病院に入院を余儀なくされます。

しかし、その後多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から英雄としてたたえられるようになっていきます。ミシガン州バトルクリークには、イノウエら負傷兵の名を冠した病院が作られたほどです。

最終軍歴は陸軍大尉であり、戦後1947年名誉除隊されました。しかし右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめ、ハワイ大学に復学して政治学を専攻し、1950年に学位を得て同大学を卒業。

卒業後、ジョージ・ワシントン大学の法科大学院に進学し、1953年に法務分野での博士号を取得。1954年に同じく退役軍人のエルトン・サカモト、サカエ・タカハシらとCentral Pacific Bankを設立しました。

この銀行業で成功し、その後は政界に進出したイノウエは、1954年には準州であったハワイ議会の議員に当選し、1959年には民主党からハワイ州選出の連邦下院議員に立候補し当選、アメリカ初の日系人議員となりました。

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1963年には上院議員となり、戦時補償法の制定などに尽力する傍ら、1973年にはウォータゲート事件、1987年にはイラン・コントラ事件の上院調査特別委委員長となり注目を浴びました。また、1980年代に、日米間の貿易摩擦が政治問題化した際には、対日批判の急先鋒として立ち回りました。

しかし、晩年は日本に対して融和的で、2007年には中華人民共和国や韓国が主張する「慰安婦強制連行説」については、大日本帝国軍人はむしろ慰安婦への暴行を抑制していたと主張し、日本政府がこの問題を謝罪し続けてきたことを取り上げ、あらたに謝罪を求めることに反対したといいます。

カリフォルニア州ロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーにある全米日系人博物館の理事長も務め、2000年6月21日には軍人に贈られる最高位の勲章である名誉勲章を受章したほか、2007年11月、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されました。

2008年アメリカ合衆国大統領選挙においては、ヒラリー・クリントン上院議員を支持しましたが破れ、2010年の中間選挙おいても所属する民主党は上下院共に苦戦を強いられますが、自らは再選を果たしました。

1996年に前妻と死別していましたが、2008年1月29日に「全米日系人博物館」館長 アイリーン・ヒラノと再婚しています。それからわずか4年後の2012年12月、ワシントンD.C.郊外のメリーランド州ベセスダにあるジョージ・ワシントン大学附属病院に入院し、同月17日、呼吸器合併症のため死去。88歳没。

死去の前、「ハワイと国家のために力の限り誠実に勤めた。まあまあ、できたと思うよ。」と語り、最後の言葉は「アロハ(さようなら)」だったそうです。ちなみに、アロハには、こんにちは、の意味もあります。

死去に際して、同じくハワイ出身のオバマ大統領は「真の英雄を失った」「彼が示した勇気は万人の尊敬を集めた」との声明を発表したのに続き、パネッタ国防長官、クリントン国務長官、上下両院の軍事委員長らが相次いで功績を称えました。

同月20日、遺体を納めた棺が合衆国議会議事堂中央にある大広間に安置され、追悼式典が開かれました。大広間に遺体が安置されるのは、エイブラハム・リンカーン、ジョン・F・ケネディなど一部大統領や、ごく少数の議員に限られており、イノウエ議員は全体でも32人目、かつアジア系の人物としては初めてここに遺体が安置された人物となりました。

しかし、その墓所は、ホノルルにあります。国立太平洋記念墓地で、ここは通称、パンチボールと呼ばれており、これはその形がフルーツパンチなどを入れるボールの形に似ているためです。私がハワイ在住中に最も好きだった場所のひとつであり、その頂上付近からは、ホノルル市街はもちろん、ダイヤモンドヘッドなども一望に望めます。

実は元火山であり、その火口部分である約47万平方メートルもある広大な敷地内には、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争などで戦死した3万人以上の兵士らの魂が安らか眠っています。

また、ここには第二次世界大戦のイタリア前線でイノウエ議員と共に戦った第442連隊戦闘団の面々も眠っています。記念墓地正面には国の歴史的建造物に指定された高さ10mほどもある女神像があり、女神像へ登る階段の両側には石の厚板が並び、戦没者の名前が刻まれており、とても厳粛な気持ちになります。

なお、イノウエ議員のような軍人だけでなく、1986年にスペースシャトル「チャレンジャー」号の事故で亡くなったハワイ出身の宇宙飛行士のエリソン・オニヅカ氏など4万人以上の魂が眠っています。

2013年5月、アメリカ海軍の新造アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の艦名が「ダニエル・イノウエ」に決定したと発表されました。戦後、69年。アメリカに敗れた日本人の名前が初めてアメリカの軍艦につけられることになるわけです。時代の流れを感じます。

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