台風11号は過ぎ去りましたが、その台風が日本にちょうど接近し始めた先週の7日は、暦の上では立秋だったようです。
秋風が吹くにはまだ少々早く、風は風でも台風によってもたらされた南風が吹き荒れており、まだまだ暑いさかりです。が、このころを境に暑さが緩むといわれており、これがこのクソ暑いのに「立秋」があるゆえんです。
…と、書いてみたりするのは、私が暑さが苦手なためであり、何か理由をつけてでも早く秋が来ないか来ないか、と期待している証拠です。が、私が何を期待しようがすまいが、くるものは来る、しかし、予定通り来るのであって、いつもより何か月も早く来る、な~んてことはないわけなのであります。
かくして今年もまた、あとしばらくはこの暑さとお付き合いをせざるを得ないわけですが、暦の上とはいえもう秋ではあるわけですから、たとえ暑くても、もう秋だ、秋だと思えば、気持ちの上でも少しは楽になろうかというものです。
つまり、「思い込み」をすればいいわけなのです。しかし、この「思い込み」と「固定観念」は違います。例えば、「鳥は飛ぶものである」という考えは、多くの人が持つ思いこみですが、固定観念ではありません。
ところが、鳥であっても飛ぶことのない鳥もいます。ペンギンやダチョウがそれで、この例を持ち出されると、普通、人は「飛ばない鳥もいる」と考えます。ところが、ペンギンやダチョウの例を持ち出されてもなお、「鳥は飛ぶ」という主張をする人もおり、ペンギンやダチョウのジャンプにすぎないものを飛翔と考えます。これが固定観念です。
色々な理屈を述べたりして、自分の観念を押しとおそうとし、自己の主張をどうしても変えない人のことを、「固定観念に捕えられている」といいます。
未知なことや、よく知らないことについて、実証的な根拠に乏しいのに先入観を持って物事を捉えるのが、「思い込み」ですが、何らかの理由でその思い込みにさらにこだわり、どんな例を出されても説明を受けても、思い込みを変えない場合には、その思い込みは固定観念になっているといっていいでしょう。
今は秋だ、これから涼しくなるんだ、という論理を、自分に思い込ませる程度ならばいいのですが、もう立秋だ、秋なのだからサンマを食ってセーターを出さねば、とまでなるとこれはもう完全に行き過ぎであり、こうした固定観念は往々にして人間生活を送る上においていろんなトラブルを引き起こします。
固定観念において自分の考えを押し通し、他人を受け入れようとする姿勢を失っていくためです。
一方ではまた、固定観念と混同され易いものに、「ステレオタイプ」というヤツがあります。「判で押したような」考え方や類別を意味し、多くの人が同じものを共有している状態を表します。一概に他人の考えを退けているわけでもなく、したがって、固定観念のように排他的な考え方とはいえません。
しかし、ステレオタイプな考えは、だいたい単純で底が浅く、個性に欠け、タブロイド思考の一種だとも云えます。タブロイド思考とは、複雑なものごとを、皮相的に、単純化・類型化して把握しようとする思考法です。
通常の新聞よりもサイズの小さな「タブロイド型新聞」から来ていて、電車のなかなどで読むには、コンパクトな大きさの新聞が都合がよいので、このようなサイズの新聞があるわけですが、こうした新聞は興味本位の記事を売り物にする大衆紙が多いわけです。
何かの社会的事象や事件を伝えても、その詳細や、立ち入った分析は行わず、短い文章で読者が理解しやすいように、類型的な決めつけを行うような新聞が多いことから、これを思考法になぞらえて、「タブロイド型思考」というようになりました。
しかし、タブロイド新聞の記事ばかりを読んでいると、ときに世のなかの複雑な事象が、単純な原理で解明でき説明できるような錯覚にも陥ります。論理の省略、分析の省略によって、ものごとを、上っ面だけで判断して決めつけて答えを出すようになっていき、自分で物事を考えられなくなります。
つまり、ステレオタイプの人とは、単純思考しかできない人のことです。物事を単純化し類型化しているので多くの人に受け入れられやすいわけですが、こういう人たちに限って複雑な思考の努力や反省ができず、流行などに乗って安易に物事を受け入れてしまいます。
これを反証的にみてみましょう。例えばステレオタイプを脱して、実情に則した認識を持とうしようと努力したとします。すると、実際には大きな知的努力や複雑な検証の手順が必要になることがわかり、タブロイド思考しかできない人にとって、このような吟味作業や反省は負担が大きくなります。
そのため一旦受け入れたステレオタイプを考え直そうという気になれず、ますますそれまでの考え方に固執するため、多面的に物事を見るということができなくなっていき、こうしたステレオタイプはやがて、最悪の固定観念になっていきます。
しかし、ステレオタイプから派生しない固定観念のなかには極めて独創的で、他の誰も思いつかないような複雑で知的にも洗練されたものがあります。単純な思い込みから派生したものでも、優れた人の思い込みは非常にパワーを持った固定観念になる場合があります。
例えば芸術家やデザイナーの固定観念は彼等の表現力を強力に推し進めるために非常に大事な原動力になっている場合があります。ピカソのキュービズムの作品を最初に見た観衆はその「醜い作品」を見て衝撃を受け、口々に非難を浴びせたといいますが、この新しい観念への彼の固執は、その後「形態の革命」として受け入れられていきました。
ところが、ステレオタイプはまさに紋切り型で浅薄です。ある思い込みを持つと、その考え方に固着します。固定観念には容易に考えを改めないという欠点でもあり大きな特徴がありますが、ステレオタイプの特徴はというと、考え方が陳腐であり底が浅いといったことです。
こうしたステレオタイプというのは、物語やフィクションなどで造形される人物像にその典型的な形が見られます。水戸黄門や崖っぷち刑事ドラマに代表されるような勧善懲悪の物語では、善役はいかにも善役らしい姿や言動があり、その反対に悪役はいかにも悪役らしい姿や言動で表現されます。
大衆向けの娯楽目的の小説や映画、ドラマなどでは、人物造形がステレオタイプなだけではなく、物語の構成やプロット、展開・結末などもステレオタイプになっているのが一般的です。
よく漫画やアニメに出てくるパターンに「Boy meets girl, and fall in love」というのがありますが、これも典型的なステレオタイプです。
古代の青春恋愛物語である「ダフニスとクロエー」も同じような構成になっています。これは2世紀末から3世紀初め頃の古代ギリシアで書かれた恋愛物語で、エーゲ海に浮かぶレスボス島の牧歌的な情景を舞台に、少年と少女に芽生えた純真な恋とその成就が抒情豊かに描かれていて、何度か映画化されています。
これら神話に見られるパターンは、こうした恋愛物語以外にも様々な神話類型に分類できます。善の神が悪の神を懲らしめる、といった類の分類であり、これがやがて後世に描かれるようになる様々な物語の影響を与えるようになり、これらに即した基本類型が作られるようになりました。
そしてこれらの基本形はやがて人間心理の普遍的・先天的なありようとも関係してくるようになります。ステレオタイプはここから出てきたと考えられます。
さらに時代を経て、近代において大衆社会、マスコミュニケーションが成立するようになると、政治的、経済的、あるいは社会的な目的においても、過剰に単純化され類型化されたイメージが広く一般に浸透するようになります。そしてステレオタイプの特徴である紋切り型な把握や観念や思考となって定着するようになっていきました。
こうした社会に定着したステレオタイプの例を挙げましょう。例えば、職業におけるステレオタイプというのがあります。理系のステレオタイプといえば、白衣を着ていることが多く、理屈っぽいというイメージがありますが、これがまさにがそれです。
このほか科学者のステレオタイプの代表として、アインシュタインをあげる人も多いでしょう。ぼさぼさの白髪頭に白衣を着ているというイメージは多くのフィクションや映画で使われましたが、しかし実際には、彼は白衣は着ていませんでした。
このほか「マッドサイエンティスト」というステレオタイプもあります。異常な知識・技術力と研究意欲と功名心を持つとされ、その一方で、一般的な道徳心や倫理、社会通念を欠くか無視しており、精神的には不安定とされますが、映画バックトゥザフューチャーに出てくる、「ドック」はまさにその典型です。
第二次世界大戦において、大日本帝国陸軍は強烈なイメージを欧米に与えました。カーキ色の薄汚れた軍服を着て軍刀を振り回すなど、横暴かつ残虐な振る舞いをするイメージですが、これは戦後の日本においてもなかば自虐的に継承され、戦争映画などにおいてこうしたステレオタイプが使われるようになりました。
当時日本軍は軍服と戦闘服の区別をしておらず、軍服のまま戦闘任務に就くことが多かったためにこうしたイメージが定着してしたわけですが、欧米ではたとえばアメリカ兵は、ふだんはきちんとした制服を着ていますが、戦闘になると、ヘルメットをかぶり、戦闘服に着替えてから戦いました。
ただ、同じ軍部でも日本帝国海軍は違いました。純白の綺麗な軍服に身を包み、陸軍とは対照的にエリートかつ、人に優しく、優雅な振る舞いのイメージがありますが、これは海軍が若者の勧誘、人員確保に腐心していたことに起因しており、現在の博物館のようなものまで建てて、海軍を美化しようとしていました。
太平洋戦争の主導はこうした海軍ではなく、陸軍の暴走に始まり、玉砕によって終わりましたが、戦後はその反動が強かったため、逆に海軍出身者達のほうの政治的発言力が強くなり、マスコミや知識層で「海軍善玉論」が支持されるようになったこともあって、現在においても海上自衛隊のほうがイメージが良い、といったところもあるようです。
趣味・嗜好や性癖におけるステレオタイプというのもあります。一番良い例が、血液型によるステレオタイプでしょう。日本では、ABO式血液型の性格分析を信じる人は多く、A型は几帳面で、B型は雑、O型はおおらかで、AB型は変人、といった分析がよく言われるようですが、その科学的根拠は希薄です。
逆に欧米諸国ではこういった血液型による偏見は見られないといい、また科学的に立証された例はありません。従って日本におけるこのABO型血液分類は、占いの部類、あるいは迷信の象徴的なものといってよいでしょう。
性癖によるステレオタイプとしてはまた、「ゲイ」のイメージというものがあります。お笑い芸人のレイザーラモンHGの例にもみられるように、こうした感覚の服装をした人が「ゲイのステレオタイプ」と見る向きもあります。
が、彼がゲイであるというのは事実はなく、元グラビアアイドルと結婚し、二子を設けていることからもこれは作られた偶像であることがわかります。
また、同性愛者といえば、すぐにポルノを想起する人が多いようですが、同性愛というと過度に性的観点が重視されがちな傾向があり、こうした点に不快に感じる同性愛者も多いようです。メディアにおいても同性愛者の性を売り物にする傾向が強く、同性愛者=おちゃらけた人々というステレオタイプがまかり通っています。
その他、よく「都会」「田舎」といいますが、これもステレオタイプ的な用語です。都会といえば、東京を指すことが多いようですが、洗練されている、流行の先端を行っている、おしゃれといった良いイメージが先行する反面、人間関係が厳しくクール、教育、健康、育児等において「不健全」な環境というイメージがあります。
大阪や名古屋も都会といえば都会なのですが、東京や横浜、神戸に比べれば少々洗練さに欠けるという見方もあり、こうした見方もステレオタイプです。
一方、田舎はどうかといえば、地味で洗練されていない、訛りがひどい、流行から遅れている、産業は農業もしくは漁業しかないといったマイナスなイメージが先行します。
その一方で、人間性が保たれており、人付き合いが濃密で、生活や子育てにおいて、健全な良い環境が残されているといったイメージがあります。がもっとも、日本の大半がこの田舎のイメージを持った場所なわけなのですが……
外国人からみた「日本人」というステレオタイプもあります。眼鏡を掛け、出っ歯で背が低く、首からカメラを提げているというイメージで、これは戦後、まだ海外渡航者が少なかったころの日本人団体旅行者が彼等に与えた印象がそのまま残ったものです。
今はこうしたイメージを日本人に持つ外国人は少なくなってきているようですが、目が釣りあがっていていつも笑顔、しかし、イエスとノーが曖昧で、集団主義的というイメージが強いようです。
太平洋戦争に起因する、「ハラキリ」や「バンザイ突撃」、「カミカゼ」といった言葉に代表されるように、捕虜になって辱めを受けるよりも潔い死を選ぶ人々、というイメージはまだまだ強く、こうした「恥の文化」を持ちながらも、一方では手先が器用で物作りが得意であり、英語が下手で外国人嫌い、というイメージもあるようです。
一方、治安のまだまだ悪く経済も日本ほど豊かでないことの多い発展途上国では、日本人のことをきれい好きで道徳意識が高く、マナーがよいというイメージを持っているようであり、外国人からみた日本人のステレオタイプも一通りではありません。
さらに日本人男性と女性のステレオタイプもあります。日本人女性の場合は、貞淑で夫を立てる、献身的といった評価がある一方で、性的に奔放で白人男性に弱い「ゲイシャガール」のイメージもあるようです。一方の日本人男性のほうは、仕事中毒で金儲けに熱心といったいわゆる「エコノミック・アニマル」のイメージが強いようです。
このほか、日本人男性には勤勉すぎて過労死が多いというイメージがあり、この過労死は、“Karoshi”として英語で通じるほどです。また、ペニスが小さい、好色、男尊女卑、オタクなどのイメージがあるようですが、こうした印象は日本人だけでなく中国や韓国の男性にも適用されることがあります。
というか、私の海外での生活経験からすると、彼等はそもそも、中国人や韓国人と日本人をごっちゃにしています。欧米人の東洋人に対する一般的な印象としては、挨拶のとき必ず合掌しお辞儀をする(日本人はそんなことはしませんが)、理数系の学科が得意、といったものです。
その一方で、東洋人一般のイメージとしては、物事に対していい加減な部分があり、時間や約束事に対してルーズ、物静か、集団的、クリーニング店を経営している、肉を食べない、小柄で細身、すばしっこい、勤勉、目上の者には絶対服従、などなどです。
これらは日本人としても必ずしも該当するものばかりではなく、時間や約束事にルーズというのは明らかに違います。このほかおそらく中国人やインド人などへの印象でしょうか、瞑想をするので精神が安定しているという印象もあるようであり、空手・柔道・拳法など徒手格闘術の達人である、といった印象もあるようです。
以上が、外国人から見た日本人のステレオタイプですが、これを日本国内で、日本人としての視点からみたステレオタイプとしてまず思い浮かぶのが、関西人や江戸っ子といった、仕分けです。
よく言われるのが、関西人は合理主義で現実主義的、お笑い好きでおしゃべりでいらち(=せっかち)といいう印象です。ほかに、派手好き、食い倒れ、東京人嫌いというのもあり、いわゆる「大阪のおばちゃん」は逞しく、金銭感覚に優れ、豹柄や虎縞の服を好みます。
ただ、これらのステレオタイプは、在京マスコミが長年報道し続けた結果定着したものだともいえ、多分に押し付けの感がないでもありません。
逆に、東京人、すなわち、江戸っ子はどうであるかというと、これは「宵越しの金は持たない」に代表されるように、刹那的で場当たり、意地・見栄を張る、口は悪いが人情に厚い、といったものです。
最近のように東京人と地方人の混淆が進むようになってからは必ずしもそうともばかり言い切れませんが、私の知人にはこうした傾向がある人が多いのは確かです。が、年配者に多く、戦後に生まれた若い世代の中には、こうした江戸っ子気質を持っている人はむしろ少ないように思います。
「ニューヨーク・タイムズ」でも、かつてこうした自国人特有のステレオタイプに関する特集を組んだことがあるそうで、その中で「アメリカ合衆国における代表的なステレオタイプ」として、「貪欲なユダヤ人」、「卑劣な中国人」、「馬鹿なアイルランド人」、「怠惰な黒人」などが挙げられました。
が、おそらく日本人が黒人について持つイメージとして「怠惰」というのはないのではないでしょうか。その代わりに、顔が真っ黒で唇が分厚く、アフリカ原住民のようなイメージを持ち、おおらかな人々といった印象を持つ人が多いと思います。
ところが、日本では近年、こうした黒人に対するステレオタイプを持つことすらも「差別」であると決めつけ、これをなくそうという活動がさかんになりました。
漫画やアニメなどのステレオタイプな黒人の描写が差別的であるとしてさまざまなクレーム活動を行うようになり、その結果、出版社や制作会社が自粛を決定するようになり、黒人自体を漫画などに出すことなどがタブーとなっていきました。
かつて絵本の名作といわれた「ちびくろサンボ」もこの流れで絶版に追い込まれており、このほかにもカルピスの登録商標である、「白い帽子をかぶってカルピスを飲む少年」の使用も差し止められました。藤子プロは「オバケのQ太郎」「ジャングル黒べえ」を絶版。ダッコちゃんも煽りを受け販売停止となり、現在でも絶版状態となっています。
しかし、オバケのQ太郎にそんな黒人蔑視の表現があったかな?と不思議に思ったので調べてみたところ、これは1980年代に「黒人差別をなくす会」という団体が黒人の描写について差別的だと多くの出版社に抗議をした際、本作の一部にその対象となった表現があったことによるようです。
オバケのQ太郎の一連の作品の中に「国際オバケ連合」という話があり、この話の中で登場する「バケ食いオバケ」が問題になったそうで、この中の黒いオバケが人食い人種を思わせると抗議を受けたためだといいます。
オバケのQ太郎といえば、1960年代に爆発的にヒットした作品であり、1965年からテレビ放送されるようになってからは、常に視聴率30%以上を維持し、主題歌の「オバケのQ太郎」400万枚の大ヒットとなり、1966年第8回日本レコード大賞童謡賞を受賞しました。
円谷プロ制作の「ウルトラQ」「ウルトラマン」と共に爆発的な人気番組となり、1967年に終了するまでは他局から「恐怖のQQタイム」と呼ばれるほどであり、町中にはオバQグッズがあふれ、小学生だった私も学校のプリントの裏にしょっちゅうオバQの漫画を描いていました。
本作は作者の藤子不二雄の2人のほかに、石ノ森章太郎や、トキワ荘出身の漫画家らが設立したアニメーション漫画の制作会社、「スタジオ・ゼロ」が関わっており、このため藤子不二雄がコンビを解消したのち、この四者の間で著作権料の割合で揉めていたのが原因で、長期にわたる絶版に至ったのではないかという説もあります。
が、もし、ごく一部の黒人蔑視反対者たちの運動が原因となって絶版となっているのであれば、こうした「軽薄単純で底が浅く、個性に欠ける」ステレオタイプな考え方に陥った人達がおこした運動の犠牲になって、この名作が消えたことになります。
ちびくろサンボも同様であり、いまこそ、こうしたバイアスを取り除き、往年の名作を復活させる時期が来ていると思うのですが、いかがでしょうか。
昨今、同じ藤子不二雄作品の「ドラえもん」が3D映画化されて話題になっていますが、このオバケのQ太郎の3D映画なんてのもまた面白そうです。
夏といえばお化けでる季節。たとえ今年は無理でも、来年こそは、立秋になる前に、ぜひ、復活させて欲しいものです。