客人や神霊をむかえるためにたく火のことであり、古くは神迎えや婚礼、葬式の際にも行った行事ですが、近年では主にお盆の時の先祖の霊を迎え入れる行事になりました。
火を焚くのは、先祖の霊を迎え入れるための目印とするためであるわけですが、お盆期間中はずっと焚き続け、これによって先祖の霊が滞在している証しとする、というのが本来のあり方でもあります。
この迎え火は旧盆として7月13日にやる地方もあるようですが、一般的には月遅れの盆ということで今日8月13日にやるところが多いようです。だいたい夕刻ぐらいから始めますが、その準備もあり、今日のお昼頃からその支度を始めたご家庭も多いかと思います。
その歴史は古く鎌倉時代から行われている行事ですが、年中行事として定着したのは江戸時代と言われています。昔は、野火を焚いたようですが、のちに迎え火の変形としていわゆる「盆提灯」が使われるようになりました。
ただ、地域によってはいまだに家の門口や辻で皮を剥いだ麻の茎(オガラ)を折って積み重ね、着火したりするところもあります。関東地方でも、オガラではなく、麦藁を焚きながら「盆さま盆さまお迎え申す。」と大声で叫び、子供がその火を持ち、再び火を焚くところもあるそうです。
このほか関東地方の一部の地域では、墓から家までの道に108本の白樺の皮を竹につけ、順に火をつけ、墓から山まで先祖の霊を迎えるところもあるといいます。
風情があってみてぜひ見てみたいものですが、しかし、そんなことをやっていると大変だし、第一火事の心配があります。提灯が一般化したのはそのためでしょう。
この提灯による迎え火にももともとは様式があって、これは13日の夕方、墓のある自家の菩提寺まで家紋入り提灯をもって家族ほぼ総出で墓参りに行き、帰路は提灯に灯りを付けて帰り、その火を仏壇に点灯する、というものです。
ただ、こうしたことができるのは田舎だけであり、多数の人が東京(江戸)や大坂などの都会に出るようになり、また墓も集団墓地に集約されて菩提寺参りが現実的でないことから、すべて自宅で済ませる省略形が増え、逆に田舎でもこれが普通になりました。
山口の実家では母がこの時期になると電球式の盆提灯を押入れから引っ張り出して点けているようです。しかし、伊豆の我が家では仏教や神道などの特定の宗教にこだわりはなく、とくにその習慣はありません。が、お盆の時だけでもと、お線香だけはあげて、亡くなった人達のために祈るようにしています。
ところで、この迎え火という言葉を聞くと、毎年、日本航空123便の墜落事故のことを思い出されます。その当時の報道番組などで頻繁に墜落直後の生々しい映像が流れ、そこにはあちこちでまだ火がくすぶって煙がたなびく様子が映し出され、いかにも迎え火を連想させたからでしょうか。
このお盆の時期にまるで合わせたように起きたこの事故を知らない人はいないでしょう。1985年(昭和60年)8月12日の月曜日に起きた事故であり、同日18時56分に、羽田発大阪行の日航の定期便ボーイング747SR-46、通称ジャンボジェットが、群馬県多野郡上野村の高天原山(たかまがはらやま)の尾根、通称「御巣鷹の尾根」に墜落しました。
この事故の原因と経過については、今年で29年にもなることでもあり、これまでも繰り返し繰り返しメディアで報道がなされ、新しい事実はもう出てこないようです。が、昨日の夜、フジテレビが、ボイスレコーダーに記録されていた音から“新たな声”を分析できたとしてその内容を報道していました。
ちなみに、この番組では、今年迎えるこの日のことを、「29年後の今日」ではなく、「30回目の夏」と称してこの特番を組んでいました。事件が起きた年を起年とした数え方ですが、なるほどそう考えれば、今年はひとつの節目ではあります。
フジテレビではこれまでマスコミに公表され、多くの人が耳にしていたものに比べ、より鮮明に記録された、限りなくオリジナルに近い音源のテープを当時の事故調査委員会の関係者から初めて入手したといい、そのボイスレコーダーの音声を最新技術によってより一層のクリア化に成功しました。
分析を行ったのは、アメリカコロラド州にある音響解析の専門会社だそうで、アメリカまでわざわざ出向いてそこの専門家に依頼し、最新のノイズ除去技術を駆使した結果、事故調査委員会が行った調査では聞き取ることがかなわなかったコックピット内のやりとりが聞き取れた、としています。
番組ではさらに123便の航跡データが記録されたフライトレコーダーを再解析し、専門家やOBのパイロットたちの協力を得て、墜落までの32分間の航跡を、最新映像技術によってCG化し、再現していましたが、その合間あいまに、亡くなった乗客たちの遺族の方々のエピソードも交えた内容となっており、涙なくしては見れませんでした。
番組の最後のほうでは、ボイスレコーダーに録音されていた、機体に異常が発生したきっかけとなったとされる、ドーン(バーン?)という爆発音の分析結果も披露されていました。コックピットに備えられていたマイクによって拾われたこの音は、よく聞くとひとつではなく、ドーン、ドーン、ドーンという3つの衝撃音だったことも明らかにされました。
最新音響技術で解析した結果から、この衝撃音には確かに3つの波長があったことも判明し、その最初の音は、圧力隔壁が壊れた際のもの、次いで、機内から急激に噴き出た空気によって垂直尾翼が破壊されたもの、そして最後に、補助エンジンなどの最後尾部にあった部品などが破壊されて飛び散ったもの、と分析されました。
この分析結果は、当時の運輸省空事故調査委員会が行った結果得た結論と一致しており、分析結果から新事実が明らかになった、というほどではないにせよ、改めてこの当時の調査結果が正しかったことが、証明されたことになります。
この当時、同委員会からの派遣メンバーは事故発生の翌日の8月14日には墜落現場に入り、本格的な調査を開始していますが、その後事故機の製造国であるアメリカから、国家運輸安全委員会の事故調査官らも顧問として加わりました。
そして事故から約1ヵ月後の9月6日、事故機の製造者であるボーイング社が声明を発表し、同機が以前起こした「しりもち事故」の際に自らが行った圧力隔壁の修理にミスがあったことを認めました。
事故から2年後の1987年6月には、事故調査委員会は事故調査報告書を公表し、本事故の推定原因を発表しましたが、その結果は上述のとおり、事故機の後部圧力隔壁が損壊し、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に流出したことによって、機体尾部と垂直尾翼の破壊が起こった、というものでした。
さらに、この尾部に集中していた4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出し、同機はこの爆発以降墜落まで全くの操縦不能に陥りました。
圧力隔壁の損壊は、隔壁の接続部の金属疲労によって発生した亀裂により、隔壁の強度が低下し、飛行中の与圧に耐えられなくなったために生じたと推定されましたが、この亀裂の発生は、事故の7年前に起きた「しりもち事故」の際、修理交換した隔壁の下半分と上半分との接続強度が不足した状態であったことに起因していたことが判明しました。
このしりもち事故はというのは、1978年6月2日、羽田発伊丹行の同機が伊丹空港に着陸する際、同機が機体尾部を滑走路面に接触させた事故です。死者はいませんでしたが、不良着陸後機体がバウンドしたことで、3名の負傷者を出しました。
この不良着陸により機体尾部の圧力隔壁が破損。製造元のボーイング社に修理を依頼したわけですが、その修理の際、損傷した隔壁部分の裂傷を一枚の「つなぎ」の接合板を介して接合しようとしたところ、その接合方法に誤りがあり、このため修理箇所に金属疲労が発生、この部分が機内の与圧によって破壊され、垂直尾翼の脱落に至ったものです。
また同機は、このしりもち事故以外にも事故を起こしており、これは1982年8月19日、羽田空港発千歳空港行きが、着陸の際に天候悪化のための視界不良とパイロットの判断ミスにより滑走路の右に逸脱したというものです。
このときは、第4エンジンが地上に接触し、同機は再び離陸して着陸をやり直しましたが、操縦者は副操縦士でした。しかし、こうした視界不良の中の着陸は、通常は機長が行うというのが、当時の日本航空の社内規定であり、規定は守られておらず、副操縦士に操縦を行わせたのは、明らかに社内規定違反でした。
1978年のしりもち事故以後の点検で圧力隔壁の異常を発見できなかったのは、その修理位置が視認しにくい場所であったということなのですが、ボーイング社による修理ミスがあったとはいえ、こうした修理したばかりの重要な部分のチェックを見過ごした日本航空側に全く責任がなかったとはいえないでしょう。
ところが、その後の調査によって日本航空側に落ち度はないとされ、この事故は不起訴になりました。が、遺族の中にはまだ、完全に事故原因は究明されていないとする人がおり、事故原因が究明されるまでは責任を誰がとるかは問えない、とする立場をとり、責任の所在を巡っては満足されていない方も多いようです。
私もこの事故に限っては、日本航空側に責任はない、とする見方に異を唱えるつもりはないのですが、これ以前からも同社がたびたび起こしていた事故による啓発が生かされていなかったことや、日本航空という会社の体質のことを考えると、この大惨事は、その姿勢を戒めるものではなかったか、という気がしてなりません。
事故当時、日本航空はそれまでの半官半民の特殊会社体制から完全民営化へと移行する方針を決定していましたが、この事故によってその安全体制や経営姿勢に対する社会から厳しい批判を受けたこともあってその後著しく経営が悪化し、政府主導により抜本的な体制の刷新が行われました。
事故を起こした同年1985年の12月には、当時カネボウの会長だった伊藤淳二氏が日航副会長に就任し、後には会長へ昇格しました。外部からの新しい風を入れ、経営体質の改革に取り組むことが目的でしたが、同時に事故を教訓に「絶対安全の確立」めざし、その後機付整備士制度の導入や技術研究所の設置などの新施策が導入されました。
旧運輸省はこれらの改革を評価し、その結果、事故から二年後の1987年11月に同社の完全民営化を認めました。民営化後の日本航空は、本業の運輸業以外にもホテル事業などを手掛けるようになり、これに加えて教育事業やIT事業、レストラン事業や出版事業の子会社を次々設立するなど、事業の多角化を進めました。
こうした多角化は、バブル景気にも乗って順調化に見えましたが、しかしその後、湾岸戦争による海外渡航者の減少と燃料の高騰に見舞われ、また1991年にはバブルが崩壊。それまでの海外のホテルなどへの無理な投資や、燃料先物取引の失敗などの経営判断のミスが重なり、1992年度決算で538億円という巨額の経常損失を計上して経営不振に陥りました。
これに対し、国内外ホテルの売却や共同運航便の増加、ヨーロッパ線などの不採算路線の廃止、低コスト運航を行う子会社を設立などによる事業再構築を行った結果、円高による海外渡航者の回復などもあって1990年代半ばには経営状況が回復し、その後2000年代入ってからも業績は順調に推移しました。
しかし、これによって気をよくしたのか、また気を緩めすぎたのか、まだバブル余波による痛手が癒えない段階だというのに、無謀ともいえる国際線の拡充を行い、強い労働組合からの突き上げもあって同業他社に比べ高い給与を社員に与えるなどの放漫経営を続け、ついには3,000億円を超える有利子負債を抱えてしまいます。
そこへきて、日本航空はさらにアメリカ同時多発テロ以降に深刻な経営不振に陥っていた国内線大手の日本エアシステムと2002年には合併を前提とした経営統合を行いました。以後大幅に経営体系が変わり、持株会社である株式会社日本航空を筆頭として、その関係各社の体制が見直され、現在の日本航空グループが確立しました。
しかし、合併以降の元日本航空と元日本エアシステムの社員の間の対立によるサービス上の混乱や、航空機の整備不良、反会社側組合による社内事情の意図的なリークなどの相次ぐ不祥事によって、著しい客離れを起こしました。が、この離反には無論、123便の航空機事故による同社への不信感も影響していたでしょう。
その後も、旧日本エアシステムは高コストの会社であり、これを吸収したがゆえの低効率体制を維持し続けていましたが、そんな中2003年2月に発生したイラク戦争によって再び航空燃料の高騰し、さらにはSARSと呼ばれる新型肺炎が、カナダや中国、ベトナム、シンガポールなどに広まり、国際線の需要を著しく落としました。
さらには2007年後半より起きた新型インフルエンザの発生、世界同時不況と原油高、改善しない人的コストなどを受けて、2008年以降は再び経営状況が悪化。こうした状況を受けて、2009年にはついに再び政府が介入し、日本政策投資銀行の融資に加え、大手都市銀行や国際協力銀行などが合わせて1000億円の協調融資が行われました。
その後は日本貨物航空との貨物事業の統合や、不採算路線の統廃合に対する検討を進め、併せて総合職や客室乗務員数の削減、給与待遇の見直し、退職者に対する企業年金の減額などのコスト削減を進め、さらに政府は、2009年、「JAL再生タスクフォース」を設置してJALグループの再生に取り組ませました。
しかしこのタスクフォースは同年内中にあえなく解散、頓挫し、このためついにその経営は破綻。2010年1月19日、親会社である日本航空、日本航空インターナショナル、ジャルキャピタルの3社はついに、東京地方裁判所に「会社更生法」の手続を申請、受理される事態となりました。
現在、日本航空は「株式会社企業再生支援機構」をスポンサーに、経営再建を図っています。分割・民営化により国営企業はなくなりましたが、いまだにその後ろ盾には日本政府がついており、度重なる融資を国からしてもらって存続していることにはかねてより批判も高く、親方日の丸的体質は、昔から変わらない、と指摘されています。
親方日の丸とは、説明するまでもありませんが、親方が日の丸、つまり胴元が日本政府というわけであり、国の援助がなければ存続しえないダメ事業体を侮蔑してこう呼ぶわけです。いわゆる「お役所仕事」的な業務のいい加減さ、傲慢さ、また、経営破綻や大きな赤字などに対し、責任を認めようとしない体質を揶揄していうことばでもあります。
かつての国営企業であった三公社五現業、とくに膨大な赤字を抱えた上に順法闘争と称するストライキなどを行なっていた国鉄に対して、この言葉はよく用いられたものです。
現在のJRもかなり体質改善されたといわれますが、それでも昨今のJR北海道の例があり、相変わらず高い運賃のせいもあって、体質は改善されていない、という厳しい指摘も多いようです。
ここで、過去における、日本航空と全日空の事故について調べてみました。死亡事故に限ってですが、日本航空の場合、1950年代、2件、1960年代、3件、1970年代、4件、1980年代、2件、1990年代に1件の死亡事故を起こしています。最近は減ってはいるものの、とくに1950年代からは70年代までは各10年毎に一件づつ増えていることになります。
これに対する全日空はというと、1950年代1件、1960年代6件と異常に多くなっていますが、1970年代は1件であり、それ以後は皆無です。
無論、かつて国際線を有していたのは日本航空だけであり、保有する機体の数にも隔たりがあるため、両者を比較する上においては平等とは言えないかもしれません。が、私は、全日空の場合の1970年代以降の死亡事故数がゼロというのは注目するに値すると思います。
しかも、この1970年代の1件というのは、1971年7月30日の「全日空機雫石衝突事故」です。全日空58便ボーイング727-200(JA8329便)が岩手県雫石町上空で、航空自衛隊松島基地所属で訓練生が操縦していたF-86F戦闘機と衝突し墜落した事故で、この事故では乗客155名と乗員7名の計162名全員が死亡し、自衛隊機の乗員は脱出して無事でした。
その後の裁判の結果、訓練生は無罪、教官は禁錮3年(執行猶予3年)の実刑判決を受け、民事訴訟では、全日空機は30秒前から10秒前の間に訓練生機を視認し適切な回避操作をしていれば事故の発生を十分回避できたと認定し、過失割合は自衛隊側が2、全日空側が1とされました。
全日空側にも責任はあったとされたわけですが、民間機の飛行ルートへの自衛隊機への侵入という、いわばあり得ない事故の責任を全日空側に負わせるのは少々行き過ぎだという見方は、この当時もあったようです。
しかし、これ以降、全日空は死亡事故を起こしていません。1960年代に急増した事故による反省とこの一件を教訓に、最悪の事態を避けるべく体質改善するよう努力してきたのではないか、と私は考えます。
一方の日航は、1980年代には2件と死亡事故はそれ以前より減ってはいるものの、この2件の中には、これまで述べてきた123便の事故以外に、日本航空羽田空港沖墜落事故という重要事故が含まれています。
この事故は、1982年2月9日、福岡発羽田行のJAL便が羽田への着陸進入中に突然失速して滑走路沖の東京湾に墜落したもので、搭乗員174名中乗客24名が死亡しました。機長が着陸直前に逆噴射をするなどの異常操作が原因であり、機体の推力を急激に減少させながら機首下げを行ったため、機体は急に下降して滑走路の手前に墜落しました。
機長は、まだ副操縦士であったこの事故の6年前から幻覚を見るようになっていたといい、それ以後、初期の精神分裂病、うつ状態、心身症などと診断をうけ、大学病院の医師や会社の常勤内科医、非常勤精神科医らの診察、治療を受けていましたが改善しませんでした。
事故直前には「ソ連が日本を破壊させるために、二派に日本を分断し、血なまぐさい戦闘をさせている」といった妄想まで抱くようになっていたといい、事故当日の乗務中には、ついには「敵に捕まって残忍な方法で殺されるよりも、自分から先に死んだほうがマシだ」という妄想を抱くに至りました。
しばらく恐怖に震えた後に現実に戻る、といった状態を繰り返すような精神状態にあったといい、羽田への着陸にむけ、高度200フィートに至って、本来は「ランディング」(着陸する)または「ゴー・アラウンド」(復行する)と答えるべきところをこの機長は「チェック」というのみでした。
そして、機体が200フィート以下に降下した後、突然「イネ、イネ……」という言葉が機長の頭全体に響き渡ったといい、これを聞いた?機長はとっさに「死ね、死ね……」との命令と理解し、手動操作に切り替え、操縦桿を押し込み、エンジンを逆噴射させました。
航空機関士はすぐに機長のこの異常操作に気づき、機長の右手を叩いて止めさせ、リバース・レバーを戻しました。副操縦士も機首が急に下がったことに気づき、反射的に操縦桿を引き起こそうとしましたが、機長が操縦桿を押し込む力が強く、引き起こすことができませんでした。
副操縦士が「キャプテン、やめてください!」と叫ぶと、機長は操縦桿への力を緩めましたが、時既に遅しで、日本航空350便は8時44分7秒、滑走路進入端から510メートル手前の東京湾に墜落しました。
その後、機長は業務上過失致死罪により逮捕されましたが、精神鑑定により妄想性精神分裂病と診断され、心神喪失の状態にあったとして検察により不起訴処分となりました。が、こんな精神異常者に、飛行機という高度な操縦操作が必要な乗り物の運転を任せていたこと自体をみても、日本航空の体質が疑われます。
この事故のことを知ってか知らずか、123便事故で亡くなった歌手の坂本九さんは、けっして、日本航空便に乗らなかったといいます。このころ、坂本九人気は少し落ち始めていた時期であり、この年所属する会社を移籍して、事故の3ヶ月前に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して、再び歌手活動を本格化させようとしていた矢先でした。
事故当日はNHK-FM放送での仕事を終えた後に、大阪府のある友人が出る選挙の応援のために駆けつける途中であったといい、坂本さんは本来、国内移動には日航ではなく必ず全日空を使っており、所属プロダクションや奥さんで女優の柏木由紀子さんも「手配は必ず全日空で」と指定していたほどでした。
しかし、当日は全日空便が満席で、飛行機やホテルなどを手配した招待側の側近はチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日本航空123便でした。このため、家族も乗客名簿が発表されるまで日航機に乗っているはずがないと信じていました。
ところが、乗客名簿の中に坂本九の本名「オオシマ・ヒサシ」と彼のマネージャーの「コミヤ・カツヒロ(小宮勝広)」の名が出て、事故に遭遇したことが判明。この事故で運命を共にした小宮さんは早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉しましたが、お盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったといいます。
また同じく123便に乗っていて亡くなった、阪神タイガース取締役社長の中埜肇(なかのはじむ)さんは、63歳で亡くなりました。
事故前日の1985年8月11日には、タイガースが福岡県福岡市の平和台球場で地方主催試合(対中日戦)を行っていたため、中埜さん本人も福岡まで赴き、この日もロッカールームに戻ってきたタイガースの選手一人一人と握手を交わし、選手を労っていたといいます。
翌8月12日は、東京都内で会議があったため、当時阪神電鉄社長でタイガースのオーナーも務めていた久万俊二郎氏の代理で東京に赴いていました。そして会議終了後の帰阪の途でJAL123便墜落事故に遭いました。このとき阪神電鉄常務取締役の石田一雄も同行しており、石田氏もこの事故の犠牲者となりました。
中埜さんの死は、タイガースの21年ぶりの優勝を目前にしての死でした。事故当日、11日の平和台球場での対中日戦を終えたタイガースナインは、13日から行われる後楽園球場での試合(対巨人戦)に備え、中埜さんよりも先に東京入りしました。
実はこの時にナインが搭乗した飛行機こそ、事故機・JA8119の遭難直前のフライトである福岡発羽田行JAL366便でした。そして都内の宿舎に到着して間もなく、一行はテレビでJAL123便墜落事故の緊急報道番組を目の当たりにし、中埜さんがこのJAL123便に搭乗していたことを知りました。
従って、この日にもしこの福岡からの羽田便で先に圧力隔壁が破裂していたら、タイガースのこの年の優勝はなかったかもしれないのです。
この中埜及び石田両氏の事故機搭乗に大阪市の阪神電鉄本社、及び阪神球団関係者は大きな衝撃を受けました。選手達も例外ではなく、翌日の対巨人戦からタイガースは6連敗を喫して一時はセ・リーグ首位から陥落しました。が、亡くなった社長のためにみんなで頑張ろうと、ナイン全員と首脳陣が誓い合った結果が再結束に繫がり、優勝に繋がりました。
1985年10月16日、阪神タイガースが1964年以来、21年ぶりのセ・リーグ優勝を果たした際、渡真利克則が捕球したウイニングボールが、中埜さんの霊前に手向けられたといい、自らの手でボールを届けたナインたちは、社長宅で嗚咽をもらしていたといいます。
中埜さんの事故死は、タイガースにとどまらず、他の11球団の関係者にも多大な衝撃をもたらしました。読売巨人軍は氏の事故機搭乗が報じられた直後に「うちも他人事ではない。今後の航空機利用は十分に考え直す必要がある。」という声明を発表し、これを受けて他球団でも今後の航空機利用に関して検討し直しはじめました。
これによりほとんどの球団はそれまで利用していたJALとの契約を打ち切り、航空機移動する際は必ず全日空を利用させるようにしたそうです。また、国内移動は極力航空機ではなく新幹線で移動させるようにさせました。
野球はこの当時もそうですが、現在でも日本で最も人気のあるスポーツであり、こうした野球人たちが日本航空ボイコットの方向に舵を切ったことは、一般の人々にも影響を与え、日本航空の経営にもまた少なからず影響を及ぼしました。
実は、私も日航には乗らない派です。もう20年以上も前からであり、その理由は、無論、123便のこともありますが、あるきっかけが原因でした。
もう大昔のことなので、どこへのフライトだったのかなど詳しくいことまで覚えていないのですが、大きな委員会が絡むある大事な出張のときに、機体に不具合が見つかったという理由で、搭乗予定のJAL便がキャンセルになったことがありました。
当然、この出張に遅れることは私にとっても大きなダメージでしたので、日本航空側には代替便の割り当てを要求しました。その交渉にあたって、どんな職員だったのかまでは詳しく覚えていないのですが、その横柄な態度に腹を立て、その職員と激しいやりとりをしたのだけ覚えており、以後、もう二度とJALは乗らない、と心に決めました。
その後、上述の坂本九さんのケースと同じように、どうしてもやむを得ない場合を除いてはすべて国内フライトはもちろん、海外へ行く飛行機もJAL以外のものにしてきましたが、いまだにこの「習慣」は続けています。
無論、わたくしごとであり、私のJAL嫌いを人に押し付けようというつもりはさらさらありません。が、それまでも日本航空を利用するたびに、不快な思いをするといったことが何度かあり、客にそこまで不快な思いをさせるというのは、親方日の丸の上にあぐらをかいている、といったどこか体質的な問題があるように思えてなりません。
しかし、日本航空も123便の一件以来、安全には細心の注意を払い、できるだけ事故を起こさないよう努力をしていると思います。それが効を奏してか、この事故以降、乗客の死亡事故は起こっていません。上記の1990年代の死亡事故1件は、乱気流により重傷を負った客室乗務員1名が1年8ヵ月後に多臓器不全で死亡したためのものです。
従って、JALは経営が不安定な中でもよく頑張っているほうだとは思います。それゆえ、もうかつての呪縛からそろそろ自分を解き放ってもいいかな、とは思うのですが、なかなか長く続けた風習を改める気になりません。
いつの日か、JAL便は絶対落ちない、という神話でも構築されるようになれば別ですが、それが私が生きている間に実現するかどうか、です。が、航空運賃が半分になるなら、考えようかな。でもまだまだ死にたくはありません。
さて、今日はこんな悪口を書く予定ではなかったのですが、なりゆきからこんな終わり方になってしまいました。
このお盆からのUターンに飛行機を利用される方もいるでしょうが、JALを使われる方もANAを使われる方も、無事フライトを終えられるよう、祈っている、とだけ書いて罪滅ぼしとさせていただくとし、今日の項は終わりとしましょう。