Oh! 砂嵐

2014-686010月に入ってからというもの、やたらに忙しく、このブログへの投稿も滞りがちです。つまらない内容とはいえ、おつき合いいただいている方が大勢いるのに、大変申し訳ないとは思うのですが、お許しください。

とはいえ、投稿がないときには、過去のブログなどもご覧いただければと思います。自分でも改めて読み直してみて、なかなか力作だなと思うものもあるので、ご興味のある項を探していただければと思います。一方、こんなことを書いたっけ?とほとんど覚えていないものあり、しょーもないことを書いている、なんてのもあって反省しきりです。

が、歴史ものであればなるべく史実に基づいて祖語がないように心掛けているつもりであり、また科学モノではウソは書かないように、自分でもなるべく勉強して書いています。頭の中にない知識は改めて仕入れるしかないわけですが、その導入の過程での情報の整理はかなりの時間を要し、一日がかりになることもあります。

ときにはあーしんどいな~、なんでこんなにまでして続ける必要があるんだろう、とも思うのですが、やはり好きなのでしょう。書くことが。また、情報の整理、ということがどうやら自分の今生のテーマでもあるような気がします。

その昔、自分の前世をある霊能者の方に見ていただいたときに言われたのは、私はある時期、アラブ世界においてスパイ活動をしていたそうです。アラビアンナイトの時代だそうで、敵国に潜入してはその国の情勢を仕入れ、自国に帰っては王様に報告していたといいます。

ある時その旅の途中のどこかで客死したらしく、そのときの死の状況が見えない、とその霊能者の方はおっしゃいましたが、なんとなく思うのは、おそらく砂漠の中で砂嵐か何かにあって、遭難したのではないか、ということです。

私は高所恐怖症なのですが、閉所恐怖症でもあり、狭いところに閉じ込められていると息が詰まって苦しくなります。窓があるのに、窓を開けない隣人に苛立ち、わざわざ自分で開けに行くこともあります。なので、きっとこの前世では砂嵐に出会ったとき、岩屋か何かに逃げ込んで、そのまま閉じ込められて死んだのでしょう。

突飛な想像ですが、どうもそんな気がします。

この砂嵐というヤツですが、当然日本人に経験者は少ないでしょう。最近、大砂嵐というエジプトからの砂嵐は経験していますが、無論、これは相撲の世界の話です。

英語では“sandstorm” または ”duststorm” といいます。Sandは言うまでもなく砂ですが、dustとは塵のことです。が、塵というよりもより細かい砂のことで、これらが強風により激しく吹き上げられ、上空高くに舞い上がる気象現象です。

科学的な定義としては、”duststorm”は、吹き上げられている土壌粒子の多くが粒径1/16ミリメートル以下のもので、いわゆる「シルト」や粘土が乾燥したものです。一方 “sandstorm” は、粒子の多くが大きいものでは2ミリほどもあり、下限が1/16 ミリ程度の砂によります。

“duststorm” は乾燥した土地であればどこでも発生します。つまり砂漠でない場所でも発生しうるのに対し、”sandstorm” は砂漠でしか発生しません。砂が多いところでしか発生しないわけです。

また、”duststorm” は上空数千メートルの高さまで舞い上がり、時には”dust wall” と呼ばれる「砂の壁」を形成するほどに発達します。この点、火山の噴煙と少し似ています。

片や、”sandstorm” はせいぜい数メートルまでしか舞い上がりません。15メートルを超えるようなものは稀と言われます。この現象においては、砂粒が地上をまるで跳躍しながら進むような動きをし、これを“saltation” といいます。

とはいえ、これら2つは複合的に起こることも多く、砂と塵の両方を含んでいることから、”duststorm” “sandstorm” の2つを総称したものもまた「砂塵嵐」と呼び、ややこしいことにこの英訳もsandstormです。

この砂塵嵐こと、砂嵐は、「本場」のアフリカなどで発生するものは、砂分が多いときには当然堆積量や移動する量も多くなり、かなりすさまじいものになります。また、砂と塵のどちらが多く含まれているかによっては、視程が異なります。

「国際気象通報」の決まりでは、「視程障害現象」の程度を表す項があり、例えば、砂嵐の高さが2m未満はDR、2m以上はBLなどと、符合を決めて予報に使います。日本ではまずこうした情報は目にすることはありません。が、最近海外旅行で砂漠地帯に出かける方も多くなっているので、そうした知識も持っているべきなのかもしれません。

なお、さらにややこしいことに、日本では、「塵または砂」が強風により空中高く舞い上がっていて、視程1キロメートル満のときの天気を「砂じんあらし」として気象庁が予報を出しています。「煙霧」ともいい、春先によく起こります。上記の砂塵嵐とは明らかに違うもので、このようにひらがなで表記します。どちらかといえば”duststorm”に近いものです。

昨年の3月10日午後1時半ごろから、東京都心部でも起こり、視程が2~3キロに低下しました。この日は、休日だったので、東京のオフィス街が砂ぼこりに包まれたものの、交通などへの大きな影響はなかったようです。

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一方、「本場」の砂塵嵐は、もっと頻繁に起こります。

世界的にみると北アメリカのグレートプレーンズ、アラビア半島、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠、サハラ砂漠など砂漠地帯で多く発生します。地表の乾燥したこうした地域では珍しい現象ではなく、砂嵐の多い地域では、1日に数回も発生したり、1回の砂嵐が数日間続くといった例もあります。

一般的に砂漠と呼ばれる地域ではほぼ例外なく砂嵐が発生しますが、地表面の状態によっては発生しにくい砂漠もあります。たとえば、地表のほとんどが岩石で覆われていて砂塵の少ない岩石砂漠地帯では、強風が吹いても砂嵐は発生しにくいといいます。

また同様に、土砂漠やサバンナなどで、雨期に入って湿ったり、植生に覆われたりして、土壌が固定されると砂嵐は発生しにくくなります。このように、多くの地域では砂嵐に季節性があり、乾期の特に風の強い時期に、砂嵐が最も多く、激しくなります。

砂嵐の原因には大きく2つあります。1つは地表面の状態であり、乾燥しているほど、土壌粒子が細かいほど、土壌が柔らかく移動性の砂塵層が厚いほど、砂嵐は発生しやすくなります。もう1つは天候の状態です。ある程度の広範囲で一定以上の風速を持つ強風が吹くと、砂嵐が発生します。

地形によっても異なりますが、多くの乾燥地域では、風速約10m/s以上の風が吹き続ける天候下では砂嵐が発生しやすいとされています。一般的に、低気圧の接近や寒冷前線の通過による強風が、砂嵐を発生させることが多く、また、大気が不安定な状況下で局地的に突風が吹いて、砂嵐を発生させることもあります。

大抵の場合、砂嵐の中は周囲よりも高温で乾燥しています。砂嵐の中に含まれる砂塵が空気中の水分を奪うとともに、空気へと熱を放出するためです。しかし、時に雨を伴った砂嵐が発生することもまれにあり、「湿った砂嵐」というものも存在しうるということです。

発生点から砂嵐の発生を見た場合、地表付近からにわかに砂が舞い上がり始めて濃度が増していく様子が観察されます。一方、少し離れた地点からやってくる砂嵐を見た場合、砂嵐の塊、いわゆる「砂の壁」が迫ってくる様子が見て取れます。昔見た映画、「アラビアのロレンス」で確かそうしたシーンがあったのを覚えています。

弱い砂嵐(つまりこれが砂分の多い本来のsandstorm)は地表から上空数十m程度までしか砂塵が舞い上がりませんが、塵を多く含む砂嵐(砂塵嵐)で強いものは上空2,000~5,000m程度まで達します。また弱い砂嵐のなかには粒子が大きくて高く上昇できないため、「濃い砂嵐」になるものもあり、この場合の高さはせいぜい数百m程度です。

しかし、高さと移動距離は別です。濃い砂嵐は、昼間でも視界が数mになりますが、高く上がりません。ところが、低気圧などに伴って強い風が吹くと、その強風帯とともに数百~数千kmを移動して各地に被害をもたらすことがしばしばあります。こうした濃い砂嵐の発生地では砂丘がごっそり数km移動してしまうような場合もあるといいます。

その移動先では、数cmもの砂が積もり、町の景色が一変するような場合さえあります。また、砂嵐が濃いと日光が散乱されるため周囲が赤みを帯びてきて、さらに濃くなると日光が完全に遮られて夜のように暗くなります。

粒子の細かい砂塵は、高く舞い上がって上空の強い気流に乗り、長距離を移動します。アラビア半島やゴビ砂漠、サハラ砂漠などの砂嵐は大規模な長距離移動をすることで知られており、砂嵐とは無縁にも思える温帯や熱帯の湿潤地帯にも届いて砂塵を降らせることがあります。中国大陸から日本に押し寄せる「黄砂」もその一種です。

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砂嵐は、物理的に地形を変えるだけでなく、人体にも影響を及ぼします。屋外で砂嵐に遭遇した場合、砂が体に付着したり吸い込んだりすることで不快感を覚えたり、吸い込んだ砂が気道や肺に達することで健康に影響が及ぶことがあります。

これらに対処するため、砂嵐のときには外出を控えるなどし、やむを得ず外出する場合は、体の広範囲を覆える長袖の衣服を着用したり、帽子やスカーフ、布などで頭を覆って砂の侵入を防ぐといった対策がとられます。砂嵐の常襲地域である中東などでは、砂の侵入が少ない、一枚布や体を広く覆える形状の衣装が一般化しています。

こうした砂嵐が起こる地域では、砂嵐は日常茶飯事のことであり、生活の一環ともいえるでしょう。このため砂嵐や砂嵐を引き起こす原因となる風に愛称をつけるところも多く、イタリアでの「シロッコ(scirocco)」は有名であり、「黄砂」もそうです。

北アフリカ、中東やアメリカでは砂嵐を伴った強風をハブーブ (haboob)と呼び、気象用語としても採用されています。

このほか、ペルシャ湾沿岸ではシャマール、北アフリカ・アラビア半島ではハムシン、北アフリカ、・東ではシムーン、リビアではギブリ、西アフリカではハルマッタン、オーストラリアではブリックフィールダー(brickfielder)などと呼びます。

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過去においては、大規模な砂嵐災害もありました。その代表例としては、1931年から1939年にかけて、北アメリカ大陸の中西部、ロッキー山脈の東側とプレーリーの間を南北に広がる台地状の大平原、グレートプレーンズで起こった砂嵐があります。

これは急速な農地拡大後に大量の耕作放棄地が発生し、乾燥により砂塵嵐が頻発したもので、地元ではダストボウル (Dust Bowl)と呼ばれました。

天災というよりは人災に近く、何十年にもわたる不適当な農地開発が原因となりました。過剰なスキ込みによって草が除去された結果、肥沃土は天日に曝され、日照りが続くと土は乾燥して土埃になりました。そして、それが東方へと吹き飛ばされ、巨大な黒雲となり、この雲ははるばるシカゴの空まで達しました。

さらにはこの雲は東海岸にまで達してその空をも黒くし、海に達した土埃は大西洋へと吸収されて、海洋生態系にも影響を与えたと思われます。

この大規模な砂嵐の発生の背景には、1930年代の世界恐慌の中におけるアメリカの不安定な農業経済がありました。第一次世界大戦の勃発による世情不安の中で、人々は食糧備蓄のために穀物を過剰生産するようになりましたが、一方の農家はこれを好機ととらえ、利益を得るために農地開拓を限界まで行うようになりました。

将来的には不必要になるかもしれないような土地までどんどんと農地として増やしましたが、このためには資本がモノを言い、一部の大規模農業者による農地の寡占化が進みました。結果、小作の農民にはやせ地しか残らなくなり、農業収入がガタ落ちした結果、農業を諦める人も増えるようになりました。

農業でも収入が得られず、かといって新たな仕事を得ることのできない彼らのやせ地と家は支払えない借金で抵当流れ処分になり、多くの農家は土地を捨てるしかなくなり、こうした耕作放棄地が乾燥し、砂嵐の発生源となっていきました。

1933年11月11日、ついに強大な砂塵嵐が、乾燥したサウスダコタ州の農地から表土を剥がし始めました。この砂嵐はたちまち全米に広がり、この年最悪のものとなりました。人々はこれをダストボウルと呼びました。ダストボウルは翌年の1934年5月11日にも発生し、その翌日にも続いたこの大砂嵐は、グレートプレーンズから大量の表土を取り除きました。

土埃でできた雲によって遥か遠くのシカゴでは土のゴミが雪のように降り、一人あたり4ポンド(約6kg)もの埃が空から落ちてきたといい、数日後、同じ嵐はさらに東のバッファロー、ボストン、ニューヨークシティ、ワシントンD.C.に到達しました。

その年の冬にはニューイングランドで赤い雪が降ったといい、これは赤土を含む砂塵が雪に混じったものでした。

さらに翌年の1935年4月14日に発生した砂嵐の日は、「黒い日曜日」とまで呼ばれました。この史上最悪の「黒い吹雪」は20回以上も発生して広い範囲に災害をもたらし、砂嵐に見舞われた地域では、長い間、昼が夜のようになりました。また、ある目撃者によれば、5フィート(約1.5m)前が真っ暗で見えないときもあったといいます。

この災害により、グレートプレーンズに含まれる、テキサス州、アーカンソー州、オクラホマ州などのアメリカ中部の地域では多くの土地で農業が崩壊しました。

小規模農業者から土地を奪った大資本農家もダメージを受けましたが、規模が大きいだけに持ちこたえることができました。しかし、細々と小作で農業を営んでいた人々はすべからく、離農を余儀なくされました。

結果、350万人が移住するという事態となり、多くの農民は職を求めて、カリフォルニア州などの西海岸諸州へと殺到しました。とくにオクラホマ州では15%の人口、少なくとも30万から40万人がカリフォルニア州に移住し、そのほか、テキサス州、カンザス州、ニューメキシコ州へも移住しました。

しかし、移住先のカリフォルニア州などの人々にとっては自分たちの職を奪いに来た彼らは厄介ものでした。このため、彼らを「オーキーズ (Okies)」と呼び、この呼称は現在でもまだ軽蔑的なニュアンスで使用されます。日本語で言う、「田舎者」といった響きに近いものですが、もう少し蔑んだ呼び方であり、「どん百姓」あたりが良い訳かもしれません。

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このダスト・ボウルによる移住者の生き様を描いて有名になったのが、ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄」です。本作は、世界恐慌と重なる1930年代当時の社会状況を背景に、故郷オクラホマを追われた一族の逆境と、不屈の人間像を描いたものです。

アメリカ・オクラホマ州サリソーの農家の息子である主人公のトム・ジョードは、その場の激情で人を殺し、4年間の懲役刑から仮釈放で実家に戻ってきます。しかし、彼の家族の農場はダストボウルで耕作不能となっており、生活に窮した家族はオクラホマを引き払い、仕事があると耳にしたカリフォルニア州に一族あげて引っ越そうとしているところでした。

トムは一族や友人など10人とともに、すべての家財を叩き売って買った中古車でルート66をたどり、カリフォルニアをめざします。しかし、祖父や祖母はアリゾナ砂漠やロッキー山脈を越えてゆく過酷な旅に体力が耐えられず車上で死亡し、従兄弟は逃亡してしまいます。

こうした苦難の旅の末、一家はカリフォルニア州トゥーレリにたどり着き、ここでようやく間らしい生活ができると喜びました。ところが当時のカリフォルニアには、大恐慌と機械化農業のために土地を失った他の多くの農民をも流れついていたため、労働力過剰に陥っていました。

このためジョード家の人々は、希望は満足のいく職にありつくことができず、しかも移住者たちは「オーキー」と呼ばれ蔑まれます。彼等は貧民キャンプを転々し、地主の言い値の低賃金で日雇い労働をするほかなく、カリフォルニアに引越しさえすれば豊かな生活ができると考えた彼等の夢は無残にも打ち砕かれます。

さらにジョード家とともにこの地にやってきた仲間の宣教師のケイシーは、なんとかこの状況から脱しようと、仲間の労働者を集めて組織化しようと活動をはじめますが、地主に雇われた警備員に撲殺されてしまいます。その場に居合わせ、激情にかられたトムはケイシーを殺した警備員に襲い掛かり、再び殺人を犯してしまいます。

そして、家族と別れて地下に潜りますが、こうして家族や友人を次々と失ってゆくジョード一家のキャンプ地にさらに豪雨と洪水が襲います。

小説の最後の部分ではこのときの繊細な描写があり、土砂降りの雨の中で、一家の娘、ローザシャーンの陣痛が始まります。洪水を避けるため男たちは必死で堤防を築きますが、堤防は決壊し、車は水浸しになります。そして彼女の子供は死んで生まれてきます。

失意の中、彼らは雨を避けるため古い小屋に逃げ込みますが、そこには老人と、その息子の少年がおり、老人は飢えのせいで死にかけています。彼女は老人に自分の乳房を含ませ、母乳を与えますが、その時ローザシャーンの口元に、かすかな微笑みが浮かぶのでした……

この小説のエンディングには、その後ジョード家の人々がこれからどうなるのかといった暗示の類は一切なく、スパッとここで終わっています。

しかし、一家には希望はなく、失意や苦難だけが残る、というこの終わり方には、生きるということはどういう意味があるのかをいやが応にも考えさせられてしまう、というところがあり、それが感動にもつながっていきます。世界恐慌でどん底に落ちた感のあったアメリカで、ベストセラーになったというのも分かる気がします。

このように本作は、「社会主義小説」とも評されるような内容であり、世界恐慌化後の1939年に発行された本作品は出版当時、アメリカ全土に絶大な影響を及ぼし、全米で本作をめぐる論争が起こりました。「風と共に去りぬ」の次に売れたといわれ、発表翌年の1940年にはジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演により映画化されました。

その結果、ニューヨーク映画批評家協会賞の作品賞、監督賞を受賞したのみならずアカデミー賞の監督賞を受賞したほか、この作品に出演したジェーン・ダーウェルが助演女優賞を受賞しています。

ちなみに、映画のバージョンでは最後に、ジョード家の人々がまたしてもおんぼろトラックで旅をしながら、自分たちは決して消えない、なぜなら自分たちこそが民衆だから、と独白するところで終わります。

小説の崇高なエンディングが少々スポイルされた感がありますが、エンターテイメントとしては、このほうが良いと判断されたためでしょう。

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このように、このダストボウルは、アメリカの歴史を変えたといわれるほど大きな影響を与えた砂嵐だったわけですが、この砂嵐が発生したときのアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトでした。

彼は、その後自然環境のアンバランスを修復する政府プログラムを決め、この結果として、現在まで続く、土壌保護局と自然資源保護局が設立されました。

そのおかげもあり、これ以降、アメリカではこうした大規模な砂嵐による経済崩壊は怒っていません。2012年3月13日にワシントン州で大規模な砂塵嵐が来襲し、視界がゼロに近い状態になり、交通事故が多発する、といった事態にはなったものの、ダストボウルのような経済に影響を及ぼすような大規模な人災になることはありませんでした。

ところが、このアメリカと敵対ムードの強くなっている中国では最近、これと似たような大規模な砂嵐が起こっています。1993年5月5日 中国北西部の寧夏回族自治区、いわゆる内モンゴルと呼ばれる地域で、「黒風暴」と呼ばれる激しい砂塵嵐が集落を襲い、耕地21万ヘクタール、森林18万haが被災しました。

電柱倒壊による停電、鉄道や道路の埋没も発生し、家畜の死亡・行方不明48万頭、負傷者386人、死者・行方不明者112人に上り、記録が残る中で中国史上最悪の砂塵嵐となりました。その結果、中国経済が崩壊した、というところにまでは至りませんでしたが、少なくないダメージを受けたことは確かでしょう。

今後、アメリカや中国以外でも、こうした大規模な砂嵐が国の行方を変えるほどの威力を持つ、といったことがないとはいえません。とくに最近きな臭い空気が漂っているイランやイラク、シリアなどといった現在の「火薬庫」ともいえる地域には砂漠が多く、あるいはこうした大砂嵐による時代の変革といったことがあるやもしれません。

大規模な砂嵐によって「イスラム国」が崩壊する、などということもあるかもしれず、むしろそれに期待する向きも多いでしょう。

ところで、実は確認されている砂嵐というのは地球上に限りません。火星上では発生時間、面積共に過去に地球で起こったもの以上の大規模な砂嵐が何度も発生したことが確認されており、それらの砂嵐の中には火星全体を覆うような大規模なものもあったといいます。

このように規模が大きくなる原因としては、火星の大気が地球の約1/100と希薄なためであり、巻き上がった砂塵が大気を熱する効果が地球より高く、それが上昇気流を強めて砂嵐を自己増強しているとの仮説があるようです。

この火星の大規模な砂嵐は、観測時の条件が良ければ地球上からも天体望遠鏡で観測できるといいますから、夜空が綺麗に見えるこれからの季節、もしかしたら火星の砂嵐を観測できるチャンスがあるかもしれません。

我々が生きている間に、火星への移住が実現する、ということはないかもしれませんが、あと50年、少なくとも100年先には実現しているでしょう。無論、そのとき私はもう生きていませんが、もしかしたら、その時代にまた生まれ変わり、その世では火星に移住しているかもしれません。

が、そのときは、もしかしたら過去生のように火星の砂嵐に巻き込まれて死ぬのかも。あるいは前世での教訓をもとにこの砂嵐を制御する術を身に着け、逆にこれを利用して火星の王になっているやもしれません。

果てなき秋の世の夢は続きます……

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