山崎・余市・青葉

2014-7076先月末の9月29日から放送されている、NHK の朝の連続テレビ小説「マッサン」は、放送開始と同時に連日視聴率が20%以上を維持し、好調のようです。

私も毎朝かかさずに見ていますが、前作の「花子とアン」以上に面白いのではないかと思います。

主人公、亀山政春を玉山鉄二が演じ、彼が目ざす日本初のウィスキーづくりをスコットランド人の嫁が助け、ともに波乱万丈の人生を歩む、というストーリーです。NHK朝ドラ初となる外国人を主人公の採用、という斬新な設定も人気を呼んでいる理由のようです。

演じるのは、シャーロット・ケイト・フォックスという、ノースカロライナ州在住のアメリカの女優さんで、実際にも結婚されているようです。現在29歳。ニューメキシコ州サンタフェで、ヒッピー世代の両親の元に生まれ、子供時代は家にテレビのない生活を送っていたといい、祖母は「マッサン」で演じる役柄と同じくスコットランド出身だそうです。

ノーザンイリノイ大学で演劇専攻の修士を修了しており、その道一筋の人のようで、女優としては舞台や自主製作映画などを中心に出演しキャリアを積んだそうですが、大きな映画会社の作品には出演しておらず、アメリカでも無名の人のようです。

NHKの朝ドラの白人女性のヒロインを募集していることを、オーディションサイトを見て知り応募したそうですが、それまで日本に行ったこともなく、日本語も全く話せないまま臨んだオーディションだったといいます。

しかし、日本語の演技テストで、台詞の意味を理解した上での演技はズバ抜けていたといい、またコメディのセンスもある、と評価されたことから、日本国内232人、日本国外289人の応募者の中からヒロインに選ばれました。今年3月から家族と離れて東京に滞在し、5月のクランクインまでに日本語の語学特訓を受けて撮影に備えていたといいます。

現在の日本語のレベルはどの程度かはよくわかりませんが、テレビを見ている限りでは少しずつ上達しているような気もすることから、番組が終わるころにはもっと上手な日本語をしゃべれるようになっているのではないでしょうか。

この「マッサン」は、ニッカウヰスキーの創業者である「竹鶴政孝」がモデルですが、その妻ジェシー・ロベルタ・カウンもまた実在の人物で、通称はリタと呼ばれていたようです。ドラマではエリーになっていますが、私の記憶違いでなければ、ドラマのほうの「本名」は明らかでないまま、話は進行しているかと思います。

タイトルの「マッサン」は実在のリタが政孝のことをこう呼んだことにちなんでいるそうで、ドラマのほうも政孝をもじって、政春としています。

「竹鶴政孝」は広島の人です。広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)出身の日本の実業家であり、ニッカウヰスキーを創業し、日本で初めてウイスキー販売を実現したことで、「日本のウイスキーの父」と呼ばれています。

このニッカウヰスキーは、現在アサヒビールに吸収され、完全子会社化されています。これ以前の独立会社であった時代の初代社長ということになりますが、同社の2代目社長の「竹鶴威(たけし)」は養子ですが、彼の実の甥でもあります(後述)。

1929年、現在のサントリーの創業者である「鳥井信治郎」に招かれ、この当時「寿屋」と称していた現在のサントリーの、山崎蒸溜所初代工場長として、日本初の本格スコッチ・ウイスキー製造を指揮しました。が、その後、より本格的なスコッチの製造を指向して独立し、北海道余市郡余市町で「大日本果汁株式会社」を興しました。

現在の社名である、ニッカは「日本果汁」の「日」と「果」を取ったものであり、表記上は、「ニッカウヰスキー」とレトロな文字が当てられています。

竹鶴政孝は、明治27年(1894)年に、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)で酒造業・製塩業を営む竹鶴敬次郎の四男五女の三男として生まれました。竹鶴というおめでたい苗字は、家の裏にあった竹林に鶴が巣を作ったことから由来しているといい、竹鶴家は地元の塩田の大地主として製塩業を営み、その傍ら酒造業も営んでいました。

このため、政孝も幼い頃から酒に触れることが多く、自然と酒に興味を持つようになっていったようです。現在その生家は残っていないようですが、この造り酒屋は現在も「竹鶴酒造株式会社」という名称で今も続いています。が、こちらは竹鶴家の本家筋にあたり、政孝の竹鶴家は分家になります。

忠海中学(現・広島県立忠海高等学校)に進んだ政孝は通学に時間がかかりすぎるため、3年生に進級した際に寮生活を始めました。一学年下には後に総理大臣となる池田勇人がおり、当時の池田少年は政孝の布団の上げ下ろし係だったそうで、二人の関係は池田が亡くなるまで交流が続いたといいます。

池田はのちに政界入りしたのち、正孝の影響もあり、国際的なパーティーなどでは必ず国産ウイスキーを使うように指示していたといいます。

忠海中学を卒業した正孝は、大阪へ出て、大阪高等工業学校に入りました。後の旧制大阪工業大学であり、これは現在の大阪大学工学部に相当します。ここでは「醸造学科」に入り、科学的な観点からの酒造りの基本を学び始めました。

大阪高等工業学校の卒業を春に控えた1916年3月、新しい酒である洋酒に興味をもっていた正孝は、大阪高工の先輩で、大阪市にある摂津酒精醸造所の常務だった岩井喜一郎を頼り、当時洋酒業界の雄であったこの会社に、卒業を待たずに入社。

ちなみに、この摂津酒造は、その後、「宝チューハイ」や「松竹梅」で有名な、宝酒造株式会社に吸収されています。また、こちらはあまり知られていませんが、宝酒造もまた、「キングウイスキー」ブランドでウイスキーを作っています。

政孝が、摂津酒造の入社した時、おりしも日本は第一次世界大戦に巻き込まれており、このため正孝も徴兵検査を受けねばならず、この入社も期間限定だったといいます。そして同年12月を迎えたときに行われた徴兵検査では、幼い頃から柔道などをたしなんでいた正孝は甲種合格を確信していました。

ところが、検査官が竹鶴の履歴書を見た際、「アルコール製造は火薬製造に必要な技術であるので入隊させずに今後も製造に従事させたほうが軍需産業を活性化させる」と判断し、「乙種合格」としました。甲種は、身体頑健で健康、現役に適するという評価であり、甲種になると否応なしに入隊になります。

しかし、乙種は、健康である、という評価ではあるものの、「現役を志願する者」という但し書きがついており、つまり自由意思で入隊を決めてよいということになっています。結果的に正孝は志願せず、そのままこの戦争は終結し、こうして正式に摂津酒造に入社となりました。

勤務を1年延長する希望を社長の阿部喜兵衛に伝えたところ、阿部はこれを快諾し、摂津酒造での勤務を継続することとなりました。

2014-7086

入社後は竹鶴の希望どおりに洋酒の製造部門に配属されます。この頃の正孝は、洋酒づくりに燃えており、ロンドンの出版社が刊行していた「処方書」を手にいつも試験室に篭もっていたといいます。またある時は現場に張り付いて酒づくりのノウハウを学ぶなどして大いに努力し、その甲斐もあって入社間もなくに主任技師に抜擢されました。

この当時、日本で販売されていた葡萄酒は、アルコール殺菌が徹底されずに売り出されることも多く、このため夏などには細菌が発酵してぶどう酒の瓶が店先で破裂する事故が多発していました。

ところが、摂津酒造で製造され、鳥井信治郎が主宰する寿屋(後のサントリー)に卸していた「赤玉ポートワイン」は、正孝の指示もあって、徹底して殺菌されていたため酵母が発生増殖することがなく、割れるものが一つもなかったといいます。このことにより、正孝は酒造職人として一躍この業界の人々の評判に上がるようになっていきます。

この当時の日本では、それ以前の幕末にウイスキーがアメリカから伝わってきていましたが、国産品としては欧米の模造品が作られていただけで純国産のウイスキーは作られていませんでした。そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを画策し始めます。

1918年、正孝は社長の阿部喜兵衛、常務の岩井喜一郎の命を受けて単身イギリス・スコットランドに赴き、スコットランド南西部にあるグラスゴーのグラスゴー大学で有機化学と応用化学を学ぶことになります。

正孝には、二人の兄がいました。この二人は、酒造とは無関係の別々の道に進んでおり、長兄は早稲田大学卒業後に商社マンとなり、マレーシアでゴム栽培に取り組んでいましたが、のちに頓挫したようです。また、次兄は九州帝国大学を卒業後、北海道炭礦汽船のエンジニアとなり、札幌に住んでいました。

また正孝には、延代という姉がおり、この姉と宮野牧太という人物の間にできた、四男が後年ニッカウヰスキーの2代目社長となる威(たけし)です。後年正孝が養子とし、竹鶴姓を名乗るようになりますが、北海道大学の学生であったころには、上述の札幌在住の正孝の次兄が生活面でバックアップしてくれたといいます。

竹鶴酒造を営んでいた、父の敬次郎は、この二人の兄に会社の跡を継がせるつもりでいたそうですが、まったく違う道に進んだことで一時は悲しみに暮れたと言われます。が、三男の正孝がその道を進んだことを大いに喜んだようです。

こうして、留学した正孝は現地で本格的にウイスキーづくりの勉強を始めます。積極的に現地のウイスキー蒸留場を見学し、頼み込んで実習を行わせてもらうこともあったといい、ドラマにも出てくる「ポットスチル」というウイスキー用の蒸留釜の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除を買って出たという逸話も残っています。

スコットランドに滞在中、正孝は同じグラスゴー大学で知り合った女子学生イザベラ・リリアン・カウン(通称エラ)に頼まれてカウン家の末弟のラムゼイ・カウンに柔道を教え始めました。エラは、医学部に籍を置く才女だったようで、かつこの学部唯一の女性だったそうです。

このエラの姉こそが、ジェシー・ロバータ・カウンであり、通称はリタでした。おそらく政孝は弟に柔道を教えていた関係で、ときにはカウン家に食事に誘われることなどもあったと思われ、そうしたきっかけから二人は急速に親交を深めていきました。

医学部生であったリタとこのエラが生まれたのは、グラスゴー郊外のイースト・ダンバートンシャーにある「カーキンティロッチ(Kirkintilloch)」という場所で、父もまた医者でした。4人兄妹であり、長女がリタ、次女がエラ、そしてエラの3歳下に3女ルーシー、その下に弟ラムゼイがいました。

リタは幼少の頃から偏頭痛に悩むことが多かったといい、15歳になっても学校に通えず、個人教授を受けていたそうです。18歳で「グラスゴー学院」に入ったとウィキペディアに書いてあったのですが、Glasgow Instituteという学校はヒットしないことから、現在はもうない学校なのかもしれません。

リタは、この学校で、音楽と、英、仏文学を学んだということなので、芸術関係の学校だったのでしょう。色々調べてみたところ、このグラスゴーには、1845年に創立された、グラスゴーデザイン学校(Glasgow Government School of Design)という有名な美術学校があり、もしかしたらこの学校のことかもしれません。

このグラスゴーデザイン学校は、現在グラスゴー芸術学校と改名しており、スコットランドで唯一の独立した芸術学校です。大学相当の高等教育機関であり、大学として扱われることもあります。

建築、ファインアートとデザインの分野で有名な学校のようですが、しかしHPを見る限りは、ここは現在、音楽を教えていません。が、その当時は音楽も教えていたのかもしれません。

2014-7101

とまれ、リタは、この学校での生活が性に合ったのか、ここへの入学を境に徐々に健康を取り戻していきます。卒業後は自動車の運転を学び、父の往診の手伝いもしたといい、その傍らでピアノを初めとする音楽を趣味としていました。政孝と仲がよくなったのも、二人とも音楽が共通の趣味だったことのようです。

政孝はグラスゴーに鼓(つづみ)を持参していたといい、リタがピアノを弾き、政孝はこれに合わせて鼓を打つ、というお遊びが二人の仲を深めていきました。その仲はやがて男女の間のものとなっていき、ある日政孝はリタにその気持ちを打ち明けます。

このとき、正孝は、日本で本邦初のウイスキーをつくることが夢であると彼女に伝えたといい、これに対してリタはそれをともに手伝いたいと答えました。これはすなわち一緒になって日本に移住するということにほかなりません。

しかし、この時代は、まだ国際結婚などは一般的なものとはいえず、日本もイギリスも外国人との挙婚には抵抗感が強かった時代です。このため、リタの希望は弟や姉なども含め家族のほとんどに反対されたといいます。

それでも二人は結婚の道を進むことを決めましたが、このための結婚式は教会で多くの人に見守られてのものではなく、ただ単に登記所の登記官の前で宣誓するだけという寂しいものでした。とはいえ、1920年(大正9年)年1月8日、二人は晴れて夫婦となりました。

この時政孝はまだ学生だったため、二人の新婚生活は別居のまま進行したと思われます。しかし、同年11月、政孝がグラスゴー大学での学業を終えると、ようやく二人だけの日々を迎えることになります。

二人は船便で日本へ向かいましたが、この当時はまだパナマ運河も完成しておらず、またアムンゼンらが1905年に開拓した、北アメリカの北岸を回る北西航路も一般的でなかったことから、1869年に完成を見ていたスエズ運河を通っての、東進航路だったと思われます。

日本での入港先は、日清戦争後に香港・上海を凌ぐ東洋最大の港となっていた神戸港だったと思われ、ここから二人は政孝の実家の広島へ向かいました。この当時既に山陽本線は開通していましたから列車での移動だったと思われますが、あるいは神戸港から瀬戸内海航路で竹原へ向かうほうがアクセスがしやすかったかもしれません。

こうして、ようやく二人は長旅を終え、政孝の実家である造り酒屋、竹鶴酒造に入ったわけですが、二人の結婚は、ここでも家族の反対に会います。ドラマでは、正孝の父の敬次郎は養子でここに入り、苦労を重ねたこともあって、この結婚には寛容であった、といううふうに描かれていますが、実際そうだったかもしれません。

一方では、この家の跡取りであった母親が二人の結婚に強く反対したとされていますが、これも事実だったのでしょう。最終的には正孝が竹鶴家から分家するという形で一応の決着をみたようですが、国際結婚を認めない冷たい空気の中で二人は逃げるように竹原を離れ、大阪に向かいました。

大阪では元々勤めていた摂津酒造に戻り、ここで勤務を再開することになりましたが、新居としては会社の所在地からも程近い住吉区の帝塚山(てずかやま)選びました。かつて一帯は原野でしたが、明治時代になって住宅地としての開発が進められ、この時代すでに「高級住宅地」の雰囲気がある土地柄だったようです。

摂津酒造のほうも住吉区にあり、場所としては「帝塚山東」という場所のようですが、現在ここは団地が建設されており摂津酒造がそこにあった形跡はまったくありません。ここで政孝はいよいよ純国産ウイスキーの製造を開始しようと、まずは会社に企画書を提出しました。

ところが、ちょうどこのころは第一次世界大戦が終わり、戦時景気も一服して逆に戦後恐慌といわれるような時代に差しかかっていました。このため摂津酒造としても新たな事業を起こすだけの資力がなく、計画はたちまち頓挫してしまいます。

このとき28歳になっていた正孝は失意の中、ウイスキー造りを断念し、この年大正11年(1922年)、摂津酒造を退社します。そして、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えはじめました。

ちょうどそのころ、大阪市西区に「寿屋洋酒店」という酒屋があり、ここから売り出されていた「赤玉ポートワイン」が、爆発的な人気を呼び、国内ワイン市場の60%を占めるまでに成長していました。

創業者は、大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男で、鳥井信治郎といい、13歳で大阪道修町の薬種問屋へ丁稚奉公に出たことがきっかけで、この店が扱っていた洋酒についての知識を得ました。20歳で西区に「鳥井商店」を起こし、のちに「寿屋洋酒店」に改名。これが現在の「サントリー」の前身となります。

鳥居は当初、この寿屋ブランドでスペイン産の葡萄酒を販売を開始しましたが、まったく売れなかったため、日本人の口にあう「赤玉ポートワイン」を思いつき、製造販売したところこの大当たりを得た、というわけです。

当時は米1升が10銭する中で、赤玉ポートワインはその4倍に相当する40銭という高級品でしたが、鳥井は当時の帝国大学医学博士らなどの協力を得て、商品の安全性と滋養などの効能を宣伝しました。また、赤玉ポートワインを売り込むため、当時のプリマドンナである松島栄美子を起用したヌードポスターを張り出したところこれが評判を呼びました。

1923年(大正13年)に完成したこのポスターは日本で初めてヌード写真を用いたことで知られており、またドイツでのコンクールで一位に入賞したといい、この結果、赤玉ポートワインは、驚異的な売り上げを記録するようになります。

また、この年9月1日に起こった関東大震災においても、寿屋は精力的な支援活動をしたこともあって、赤玉ポートワインの存在も全国的に知られるようになり、こうして形成された宣伝広報力は、現在まで長きにわたって続くサントリーの礎ともなっています。

2014-7103

こうして莫大な資金を得た鳥井は、次に興す事業として、本格ウイスキーの国内製造を企画しはじめます。その醸造のためにスコットランドから技術者を呼び寄せようとして、適任者がいないかをイギリスのウイスキー製造会社に問い合わせたところ、「わざわざ呼び寄せなくても、日本には竹鶴という適任者がいるはずだ」という回答を得ました。

鳥井は摂津酒造に赤玉ポートワインのOEM製造を依頼しており、正孝とも数度面会したことがありましたが、彼がスコットランドへ留学していたことは知らなかったようです。が、その事実を知るやいなや、鳥井は正孝に年俸四千円という破格の給与を申し出ます。この年俸は、スコットランドから呼び寄せる技師に払うつもりだった額と同じと言われます。

一度は、日本でのウイスキー製造をあきらめていた正孝ですが、無論この申し出を受け、同年6月、寿屋に正式入社することになりました。ところが、正孝は、日本でのウイスキーの製造工場は北海道に作るべきだと考えていました。

スコットランドに似た風土であるためですが、これに対して鳥井は消費地から遠く輸送コストがかかることと、客に直接工場見学させたいという理由で難色を示しました。このため仕方なく政孝は、大阪近辺の場所を探し始め、この中から約5箇所の候補地を選び、中でも良質の水が使えそう、という条件から「山崎」を候補地に推しました。

この山崎とは、大阪府最北端に位置する町で、正確には現在、大阪府三島郡島本町にあたります。京都府南西部の乙訓郡大山崎町と隣接し、桂川・宇治川・木津川が山崎地峡で合流して淀川となる場所にあり、それぞれの河川の水温が違うため冬には霧が多く発生します。

景色の美しさとたなびく霞で知られ、「万葉集」の時代から歌枕とされた名所で、後鳥羽上皇はこの地をことのほか愛し、何度も行幸をしてついには水無瀬離宮を造営したほどでした。

政孝がこの地を選んだのは、こうした自然豊かな地味が、スコットランドの著名なウイスキーの産地ローゼスの風土に近いことが理由だったようで、ここに政孝は工場を建てることを決め、製造設備は正孝自身が設計しました。

ところが、蒸留の要となるポットスチル技術は当然この当時の日本にはどこにもなく、しかたなく政孝は地元の鉄工会社を採用しましたが、ここに政孝は何度も訪れ、納得がいくまで修正するよう細かい指示を与えたといいます。

昭和4年(1924年)11月、ついにその山崎工場は竣工し、正孝はその初代工場長となりました。ただし、発足当時この工場には政孝以外に社員は1名のみであり、しかもこれは事務員にすぎませんでした。

実際に醸造を行うためには技術的なことが分かる人間が必要でしたが、正孝は寿屋にはその人材がいないことを知っており、このため、わざわざ故郷の広島から杜氏を招いて製造を行うことにしました。杜氏(とうじ)とは、日本酒の醸造工程を行う職人集団の監督者であり、酒蔵の最高製造責任者です。

ウイスキーという洋酒の製造にあたっても、酒造りに勘のある者が欠かせないと考えたためでもありましたが、またこうした杜氏に新しい技術を覚え込ませ、ゆくゆくは正孝の考えるウイスキー製造工場の責任者に育て上げるためでもありました。

また、正孝は製造したウイスキーの販売にあたっても知恵をめぐらしました。この当時の酒は製造開始時の量に応じて課税されていましたが、貯蔵中に蒸発によって分量が減ってしまうウイスキーではせっかく払った課税分が損になってしまいます。このため正孝は当局に掛け合い、出荷時の分量で課税するよう認めさせました。

パートナーである鳥井もまた政孝への援助を惜しみませんでした。ウイスキーの製造にあたっては最大限、彼の好きなようにやらせましたが、金ばかりがかかっていつまでたっても製品を出荷しようとしない山崎工場は出資者らから問題視されるようになります。

鳥井はやむなくそれとなく発売を急ぐよう政孝に指示しましたが、正孝は最初の年に仕込んだ1年分のみの原酒では、ブレンドによって複雑な味の調整をすることができないと難色を示しました。

しかし、それ以上出資者を待たせるわけにもいかないということも承知していたので出荷に同意し、こうして昭和9年(1929年)4月1日、正孝が一から監修して出来上がった山崎工場が製造した最初のウイスキー「サントリー白札」が発売されることになりました。

2014-7137

この「サントリー」という名称は鳥井信治郎自身が名付けたといわれてています。これは当時発売していた赤玉ポートワインの「赤玉」を太陽に見立ててサン(SUN)とし、これに鳥井の姓をつけて「SUN」+「鳥井」=「サントリー」としたものです。

「鳥井さん」(とりい・さん)を逆さにしてサントリーとした、鳥井に三人の男子がいたから「三鳥井」にした、という説もありますが、これは誤りです。

こうして日本人が初めて造ったウイスキーが初めて世に出されたわけですが、しかし、それまでも外国からの輸入ウイスキーを真似て作られた模造ウイスキーなどを飲みなれていた当時の日本人に、このウイスキーは薬臭く感じられ、あまり受け入れられませんでした。

政孝が本場同様にしたいと入れたピートの独特の臭いが受け入れられなかったという説もあります。鳥井は正孝がこのように本場イギリスのスコッチにあまりにもこだわりすぎるのを疑問視していたようです。いずれにせよ、販売は低迷したためウイスキーの製造も進まず、この年、正孝は寿屋が買収した横浜のビール工場工場長兼任を命じられました。

しかし、大阪と横浜は距離がかけ離れており、移動だけでも大変だったうえに、ウイスキー造りに命を賭けていた正孝にとっては、同じ洋酒とはいえ、ビールのような酒の製造に関わることに当初からあまり乗り気ではありませんでした。

しかも、昭和13年(1933年)11月、寿屋は突然、横浜工場を売却することを決定します。購入額よりはるかに高値であったことから、寿屋にとってはよい商談でしたが、この決定は工場長であるはずの正孝には事前に何の断りもなく、このため正孝は寿屋に対して強い不信感を持つようになります。

こうして翌年の昭和14年(1934年)、正孝は、鳥井から任されていた長男・吉太郎への帝王教育にも一通りの区切りがついたことや、後続の技師が育ってきたことを理由とし、寿屋を退職することを決意。この退社はまた、鳥井との当初からの約束である10年が経過したためでもありました。

こうして政孝は、この年の4月、かねてよりの念願であった北海道においてウイスキー製造を開始し始めます。

場所としては、余市を選びました。日本海側に突き出た積丹半島の付け根に位置し、余市川上流部を中心として古くから発展してきた町で、町の中央を北に流れて日本海にそそぐ余市川の下流平野を中心に、その東西の海岸と奥の山地を町域にする街です。

アユの生息する北限と言われ、渓流においてはオショロコマ・ハナカジカが生息し、また中流域は河床がウグイの産卵場となっています。「さけ・ます増殖河川」にも位置付けられており、アユの他サケやマス等の放流が行われていて、水質も良好です。ちなみに余市川ではかつて天然の製氷が行われており、昭和30年代頃まで続けられたといいます。

政孝は資本を集め、ここに「大日本果汁株式会社」を設立し、自らは代表取締役専務に就任しました。筆頭株主は、投資をしてくれた加賀証券の社長、加賀正太郎が就任しましたが、加賀の妻は1924年以来、正孝の妻のリタから英会話を学んでいました。

政孝が事業を始めることを聞いた加賀は、こうしたかねてよりの家族ぐるみの付き合いにより、他の2人の出資者と共に北海道における彼のウイスキー造りを支援することにしたのでした。

しかし、ウイスキー造りはその当初寿屋で始めたのと同様に、製造開始から熟成までに数年がかかり、出荷までは当然ウイスキー製造による収益はありません。そこで正孝は、余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行おうと考えました。

このため農家が持ってきたリンゴは1つ残らず買い取り、しかも重量は農家の自己申告をそのまま信用して買ったといいます。出荷できないような、落ちて傷ついたリンゴでも残らず買ってくれるというので、大日本果汁の工場にはリンゴを積んだ馬車の列ができたといいます。

このような経緯もあって、地元の農家の人たちは当初、政孝が余市でウイスキー製造を企てているとは知らず「ジュース工場の社長がリンゴをたくさん買ってくれる」と、信じていたといいます。

昭和15年(1935年)大日本果汁は、「日果林檎ジュース」の出荷を開始。しかし政孝の品質へのこだわりはジュースにも及び、他社が6銭の果汁入り清涼飲料を作っていたのに対して30銭もする果汁100%ジュースしか販売しなかったため、あまり売れなかったといいます。

混ぜ物をしていないため製品が濁ることがあり、誤解した消費者や小売店からの返品も相次ぎました。しかし、それでも少しずつ収益は上がっていき、この間、大阪にいたリタを余市に呼びよせ、ようやく二人で北海道の生活を始めました。と同時にウイスキーの製造も進め、5年後の1940年にはついに、余市で製造した最初のウイスキーを発売。

社名の「日」「果」をとり、これを「ニッカウヰスキー」と命名します。このころまでには、日本人にもウイスキーの味が親しまれ、正孝が初めて自分の資本だけで製造したこのウイスキーの売り上げも上々でした。

ところが、時代は太平洋戦争に突入していく世相であり、直後、ウイスキーは統制品となってしまいます。日果の工場もまた海軍監督工場となってしまい、その後終戦までは配給用のウイスキーを製造するハメに陥りました。

そんな中、1943年、大日本果汁取締役社長就任。子供ができなかったため、広島工業専門学校(現・広島大学)醗酵工学科在学中の、姉の延代と宮野牧太の息子で、甥にあたる威(たけし)を養子に迎えました。

上述のとおり、この威は戦後に旧制北海道大学工学部応用化学科を卒業し、その後政孝の後を継いでニッカウヰスキーの二代目社長になっています。

1945年、終戦になると他社が相次いで低質のウイスキーを発売。中には原酒を全く使っていないものもあるという時代でしたが、正孝は「わしゃ三級は作らん」とこうした低質の製品を作ることを拒否していました。

が、筆頭株主だった加賀らに説得され、1950年、安価な三級ウイスキーを作ることになりますが、この安酒のブレンドにおいて、はじめて養子の威にこれを担当させています。しかしこのときでさえ、あえて原酒を当時の酒税法上の上限いっぱいの5%まで入れさせてせめてもの抵抗をしていたといいます。

2014-7168

1961年1月17日、北海道・余市に蒸留所を開設した以降も、政孝を献身的に支えてきた妻リタが没。晩年のリタは肝臓や肺を病んでいたことから、政孝がよく滞在する東京に近くて治療にも便利だった神奈川の逗子で過ごすことが多かったといいます。

しかし、1960年(昭和35年)の秋、自身の希望で余市へ戻ったばかりであり、彼女にしてみれば、馴染のない逗子よりもこの地のほうが故郷のスコットランドに似ており、好きだったとのでしょう。

このころリタはイギリスの親族の遺産を受け取っており、これを資金として、この余市に「リタ保育園」を設立しています。現在余市にはこうした彼女の功績を称えた「リタロード」が残されています。

リタの死後の翌年の1962年、このときイギリスの外務大臣であった、チャールズ・アレック・ダグラス=ヒュームが来日しました。戦後の保守党政権下で閣僚職を歴任し、翌年の1963年から1964年にかけては首相も務めたほどの人物です。

スコットランド貴族ヒューム伯爵家の法定推定相続人でもあるダグラス卿チャールズ・ヒュームは、戦中戦後にチャーチルを補佐し、1970年から1974年にはヒース内閣で外務・英連邦大臣をも務めました。

ヒュームは「近い将来の我々の国益は、東ヨーロッパよりも西ヨーロッパとの関係を発展させることにある」と論じ、欧州共同体(EC)への加盟を目指していましたが、フランスと交渉を重ねたすえに1973年に至ってイギリスのEC加盟を達成した人物としても知られています。

1962年のこの来日の目的は日本との貿易交渉か何かだったと思われますが、このときわざわざ北海道の余市まで訪れたのは、正孝が日本で初めてスコッチ・ウイスキーを作ったことを知っていたためでした。

このときの余市で求められたスピーチで、“一人の青年が万年筆とノートでウイスキー製造技術の秘密を全部盗んでいった”という意味の発言をしたといわれており、無論これは正孝に対する賞賛でした。

このとき話題に出たノートは正孝がグラスゴー時代に書き溜めたウイスキー製造のノウハウを書き留めたもので、「竹鶴ノート」と呼ばれていましたが、その後しばらく所在不明になっていました。ところが、その昔政孝が所属していた摂津酒造の関係者の子孫が保存していることが分かり、その後、このノートはニッカウヰスキーに寄贈されたといいます。

1965年、正孝は、余市町の名誉町民に選ばれました。またその2年後の1967年には、新工場を建設することを決め、そのためにあちこちを探していました。あるとき、仙台郊外を視察中、ある川の水でブラックニッカの水割りを作って飲んでみたところ、納得の風味を得ることができました。

調査の結果、仙台市都心部から西に約20kmにあるこの場所は、新川川と広瀬川が合流する峡谷周辺がウイスキー造りに必要な条件を満たしており、さらに両川の温度差により靄がよく発生する場所であるがゆえにウイスキーの貯蔵にも適していることが判明。政孝はこの地に工場を作ることを即決しました。

この工場は、宮城県仙台市青葉に位置し、この地には「青葉区ニッカ1番地」の地名地番が付けられています。宮城峡蒸留所(仙台工場)として1969年に竣工したもので、興味深い逸話として、この川の名前を地元の人に聞いたところ、なんと「新川(にっかわ)」という答えが返ってきたというものがあります。

1969年、勲三等瑞宝章を受章。これ以前に勲四等の打診がありましたが、自分は日本におけるウイスキーづくりのパイオニアであるだけに、もしこれを受け取ると、今後どんなに優れたウイスキー製造者が現れても、最高でも勲四等止まりになってしまうという理由で固辞したことがあるといいます。

1970年、ニッカウヰスキー代表取締役会長に就任し、その後も公務に明け暮れましたが、1979年、没。享年85歳。愛妻リタの死から18年遅れてのことでした。

政孝は晩年までも毎晩のように晩酌をしたと伝えられ、酒量はウイスキー1日1本だったといい、自分がブレンドしたハイニッカを好んで飲んでいたそうです。しかし亡くなる直前には3日で2本に減らしていたといいます。

政孝は豪放磊落な人物でその逸話も数多く残されていますが、商品のウイスキーに関しては非常に繊細な感覚の持ち主だったといいます。品質だけでなく、その容器も「嫁入り道具」としてこだわっていたといい、高級品の瓶にはさりげなく竹や鶴があしらわれていたりと細かい仕事がされており、現在も「鶴」など一部製品にはこの伝統が残されています。

また、こんな話も残っています。ニッカがあるときより効率的にウイスキーを醸造するため、「連続蒸留機」というものをイギリスの会社からの購入を検討していました。このときこの蒸留機の輸入元として白羽の矢が立ったのが、ブレアー社という会社で、ここでは最新式と旧式の2機種の蒸留機を製造していました。

しかし、発注者がニッカの竹鶴だと聞くと、ブレアー社は迷わず旧式蒸留機の製造準備だけを始めたといい、このブレアー社の読みは当たり、実際にニッカが発注したのは旧式のカフェ式連続蒸留機であったといいます。

旧式蒸留機の場合、効率の悪さから穀物由来の香りや成分が蒸溜液の中に僅かに残り、醸造されるウイスキーに個性を持たせます。ブレアー社は、品質にこだわりぬく政孝の性格を知っており、彼もまたそうした狙いから旧式の方を発注するだろうと判断したのでした。

政孝はまた、優れたマスターブレンダーであったことが知られてます。マスターブレンダーとは、ウイスキーのブレンド技術者のことです。熟成したモルトウイスキーは一樽ごとに香りや味わいの個性が違います。

ブレンダーは樽ごとに個性の異なるモルトウイスキーを利き分け、これをバランスよく組み合わせたり、バランスよく配合(ブレンディング)するのを決めるなど、製品化の要の位置にいる人です

ブレンダーには大きくいって三つの役割があります。一つ目は現在あるウイスキー製品の品質の維持・一定化。二つ目は、すでに樽に寝かされている原酒を使った新しいウイスキーの創造・開発。そして三つ目は、将来を見越したウイスキーづくりのために原酒づくりのオーダーを行うことです。

ブレンダーには、さまざまな原酒の味や香りなどの個性を利き分け、ウイスキーのイメージを組み立てる創造力が必要となります。ブレンダーは専門の訓練を受け、研ぎ澄まされた味覚と嗅覚が求められますが、ブレンダーの長をチーフ・ブレンダー、最高責任者をマスター・ブレンダーと呼びます。

そしてニッカウヰスキーには歴代のマスターブレンダーはたった4人しかいません。初代が竹鶴政孝で、第2代は竹鶴威、第3代 佐藤茂生、第4代 山下弘と受け継がれており、この山下弘氏は、親会社のアサヒビール執行役員であるとともに、現在のニッカウヰスキー株式会社代表取締役社長でもあります。

ニッカウヰスキーは、いまやイギリスにも工場を持っています。このベン・ネヴィス蒸留所は、ベン・ネヴィス山の山麓にあります。これはブリテン諸島の最高峰で標高は1,344m。蒸留所は北西麓のフォート・ウィリアムにあり、元からここにあった蒸留所を1989年にニッカウヰスキーが取得したもののようです。

ここで造られたウイスキーは、既に本場イギリスのスコッチを超えたでしょうか。できれれば入手して、本場イギリスのスコッチや日本の内地で作られたものと比較してみたいものです。

2014-7175