手をあげろ!

2014-1020792年末だというのに、解散総選挙だそうで、いったい何を考えているんだ、と巷では非難轟轟です。

なのに、安倍総理は涼しい顔でアベノミクス解散だと、うそぶいています。いっそのこと自民党は大敗して、何年か前のようにまた地獄を見ればいいのに、と私なども思うのですが、選挙に負けるもなにも、これを負かせるほど強い相手もなく、低い投票率のまま選挙は終わり、現状のまま来年になだれ込んでいくのが目に見えるようです。

先日の国会では、間違ったタイミングでの万歳があったそうですが、国民の合意も得ないままの集団的自衛権の閣議決定など国政もフライングばかりだし、解散もまたフライングかいというわけで、不意打ち解散とか色々言われているようですが、「不正スタート解散」とかなんとかのほうが似つかわしいと思うのですが、どんなもんでしょう。

ところで、この万歳とはそもそも何ぞや、ということで、コピッと調べてみたのですが、一般的には「喜びや祝いを表す動作」を指していう言葉ということのようです。「万歳」の語を発しつつ、両腕を上方に向けて伸ばすし、ときには喜びを強調して、これを繰り返します。

万歳三唱ということで、三回繰り返すのが定番のようですが、普通の人が万歳三唱をする機会というのは、一生涯でもそうたびたびはないでしょう。私もほとんど記憶がないのですが、忘年会などの会社の行事か何かで、半分お遊びで万歳三唱をしたことがあるくらいでしょうか。

書き言葉では、「万歳」だけでは喜びが表現しきれないためか、「万々歳(ばんばんざい)」という表現がなされることもしばしばですが、こちらはどちらかといえばあまり良い意味ではなく、なんとかうまくおさまりがついた、という安堵の気持ちを表す時によく使います。

この「万歳」というのは、元々は中国において使われていた言葉のようで、「千秋万歳」から来ているようです。

秋や歳はともに年のことで、千や万は歳月の非常に長いことを表し、ようは千年、万年の非常に長い年月の間、元気でいることを祝う意味です。用例としては、「千秋万歳、君が代の唱歌にもさざれ石の巌となりて苔こけのむすまで、と申してございます」といったふうに使うようです。また「万歳」は「ばんぜい」「まんざい」と読むこともあります。

なお、中国において万歳とは「一万年」の寿命を示す言葉であり、皇帝にしか使わなかったそうで、皇帝より身分の低い臣下が長寿を願うときは「千歳(せんざい)」を使っていたそうです。

このため、明の時代に権勢を誇った宦官(かんがん)の魏忠賢(ぎちゅうけん)という男は、「万歳」は皇帝にしか使えないため自分の長寿を配下の者たちに祝わせるときには「九千歳!」と唱和させていたといいます。また、各地に自らの像を収めた祠を作らせるほどの権勢を誇りました。

が、あまりにも傍若無人の振る舞いが過ぎたために、のちに部下らから弾劾され、24もの罪状で糾弾されると、首を吊って自殺しました。が、それだけでは民衆の怒りは治まらず、その遺体は磔にされ、首は晒し者にされ、彼の一族も皆殺しにされたといいます。

万歳は朝鮮語では「萬歲」と書き、韓国・北朝鮮では「マンセー、マンセ」と叫び、また中国語では「ワンスイ、ワンソェー(wànsùi)」と叫ぶそうです。

従って、もし小笠原沖で珊瑚を密漁している中国船が嵐で沈没しかけているのを見かけたら、ぜひこの言葉を三唱してお見送りしましょう。

さて、上述のとおり、万歳とは、元々は長寿を祝う言葉だったようですが、日本に入ってきてからは、いわゆる「雅楽」の題材ともなり、「「千秋楽」と共に「万歳楽」という曲が作られました。いずれも君主の長久を祝うめでたい曲として作曲されたもので、のちにはこれが民衆へも伝播し、伝統芸能の「萬歳」に発展しました。

めでたい正月のお祝いに芸人さんを呼んで、チャンチキ・どんどんのお囃子とともにお祝いに発する「話芸」として発展したもので、やがては全国で興るようになり、さらに「万才」と略字で示されるようになり、やがてこれがのちの「漫才」につながっていきました。

平安時代頃すでに芸能として成立していましたが、萬歳は日本各地でそれぞれの風土を背景に独自に発展し、これらには、秋田萬歳、会津萬歳、加賀萬歳、越前萬歳、三河萬歳、尾張萬歳、伊勢萬歳、大和萬歳、伊予萬歳などがあって現在まで伝えられています。また、このうち、越前、三河、尾張の各萬歳は、重要無形民俗文化財に指定されています。

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とはいえ、テレビで見る漫才はともかく、こうした文化財にもなるような萬歳を現在の我々が目にすることはめったにありません。いったいどういったものだろう、ということなのですが、この萬歳というものは、基本的には太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の2人が1組となるものが基本となるそうです。

現在の漫才もノリとツッコミをそれぞれが担当するコンビで行われますが、これもこの古き時代の萬歳の名残です。しかし、現在でも3人以上の大勢で取り組む漫才師さんもいるように、この当時にも3人以上から、多いもので十数人の組で行うものもあったようです。

基本的には正月に行うおめでたい行事なのですが、家の中にまで呼び込むとなると演じる側も接待する側も大変なので、「門付け(かどづけ)」といって門前で済ますことも多かったのに対し、3人以上でやるものは、それなりに大がかりになるので座敷などに上げてもらって披露されていたようです。

その演技の多くでは、「中啓」という扇が使われ、これは能楽などで使う扇の一種で、閉じた状態を横から見た時に先がややラッパ状に広がっているものです。また楽器については、基本は才蔵が持つ小鼓だけですが、演目によってはさらに三味線と胡弓を加えたり、太鼓・三味線・拍子木を使用するものもあるようです。

各地の萬歳によって、その演技の内容はかなり異なるようですが、例えば越前萬歳と加賀萬歳は小太鼓を細い竹の撥で擦るように鳴らす「すり太鼓」というものが用いられ、また、尾張萬歳には、「御殿万歳」というのがあり、これは太夫1人に才蔵が4人から6人が付く万歳です。

これは、正月だけでなく例えば新築のときに行われるもので、才蔵らが、鶴と亀を演じるとともに、家の柱一本ごとに各地の神々を呼び込んで回ります。さらには七福神が現れて新しい家の建築を祝うといったもので、厳粛な中にもめでたさと面白さを盛り込んだ内容となっています。

新築であるがゆえに、「御殿が建つ」という意味から「御殿万歳」と呼ぶようになったようで、舞台芸としての華やかさと笑いを強調した祝福芸として、尾張や三河に広まっていきました。尾張は現在の愛知県西部で、三河は愛知県中・東部になりますが、これらの地域の万歳に取り入れられ演じられていき、やがては全国にも広がりました。

さらに、尾張萬歳には、三曲万歳とういのもあり、これは、鼓・三味線・胡弓の三楽器を用いることから三曲万歳と呼ばれるものです。いわゆる歌舞伎などからの演目をも取り入れて芝居を演じる者もおり、この演じ手と楽器の弾き手がそれぞれ舞台上で立ち回るために芝居万歳とも呼ばれました。

また、なぞかけ問答やお笑いで進める「音曲万歳」というものもできるようになり、さらには3人がそれぞれ鼓・三味線・胡弓を持ちながら謡うという形のものも現れましたが、これらは、現在にも伝わる漫才コンビや漫才トリオの元祖であり、また萬歳とは別に発展した「落語」の寄席の席などでも度々演じられるようになりました。

この萬歳の日本におけるはっきりとした起源や発生時期は定かではないようです。が、上述のようにお祝い言葉として我が国に入って来たのち、奈良時代には「踏歌(とうか)」という行事に変化しました。

これは宮中などにおいて春を寿ぐ雅楽の行事で、男女の踏歌の舞人が足を踏み鳴らして舞うという原始的な舞楽であり、男子の踊り手の場合は「万春楽(ばんすらく)」、女性の場合には千春楽(せんずらく)と称しました。

のちにこれらはさらに君主の長久を祝うめでたい音楽として発展し、萬歳楽(まんざいらく)という謡となり、これとは別に千秋楽という謡も作られ、両方を合わせて千秋萬歳(せんずまんざい)となりました。そして、これをのちに略して呼称するようになったのが、「萬歳」だといわれます。

が、このほかにも、新年になると万歳師が庶民の家々を訪れて寿福を授けるという民間信仰より来たものがその由来だとする説もあるようです。これらの萬歳師は、自らを「歳神」として称して自らを「神の依代(よりしろ)」だと唱えて巷の人に祝福を与え歩いていました。

依代とは、「憑代」とも書き、要は神が憑依することによってその言葉を人々に伝える祈祷師の類です。最初は庶民のためだけのものでした。が、やがては宮中にも招き入れられるようになり、高貴な人のために、豊年の秋を千回万回と迎えられるようになると、「千秋萬歳」と長寿を祝う言葉を唱えるようになりました。

天皇や貴族などの身分の高い人のお祝い事があったときにこれらの万歳師が宮中に繰り出してこのお祝いを述べるわけですが、やがてはこれに演奏が入って雅楽の様相を呈するようになり、これらは11世紀には職業として成り立つようになりました。

当時の芸能や世相の一端を書き記した「新猿楽記」には既に、この萬歳師に関する記述があり、平安時代頃すでに芸能として成立していったことがうかがわれます。

ただ、この当時はまだ雅楽の域を出ず、舞楽の装束をした太夫がは鳥兜(とりかぶと)をかぶって演舞を行うだけでした。鳥兜とは、鳳凰の頭部を形どったものとされ、ヘルメットのような形をしています。が、縦に長く、後の首周りには「しころ」と呼ぶ首の後ろを守るパーツが付いていました。

消防士さんがかぶるヘルメットとその首の後ろに垂れている布垂れを想像して貰えばだいたいわかると思いますが、広島の宮島での奉納舞ではいまだにこの古式ゆかしい鳥兜をかぶって舞が行われます。

やがて室町時代になるとこれに代わって侍烏帽子(さむらいえぼし)をかぶるようになり、才蔵役の舞手は、この当時の標準服である直垂(ひたたれ)に平袴姿に、大黒頭巾風のものをかぶり、大袋を背負う、という格好が普通でした。竹取物語のおじいさんが、大黒様の恰好をしたようなものを想像するといいでしょう。

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平安時代の末期には、この千秋萬歳は貴族の間での毎年正月慣習行事となりましたが、鎌倉時代以降貴族の衰退と入れ替わるように武家が権力を持つようになると、萬歳師は寺社や武家など権門勢家を訪れるようになりました。そして、室町時代になると、一般民家にも門付けしてまわるようになりました。

この頃の千秋萬歳の主流はやはり中央政権のある大和(奈良県)でしたが、のちに京の都でも行われるようになり、やがては尾張、三河へと伝わり、さらに全国各地に広まっていきました。が、越前萬歳(野大坪万歳とも呼ぶ)については、約1500年前の皇家に伝わる行事が伝わったとする説もあるようです。

江戸時代に入ると、とくに三河万歳は、同じ三河出身の徳川家によって優遇され、このため萬歳師には武士のように帯刀、大紋の直垂の着用が許されたそうです。また各地に広まった萬歳は、能や歌舞伎などの要素を取り入れてさらに多様化し、とくに衣装については非常にバラエティに富むようになりました。

そして、上述のように全国各地でその地名を冠した万歳が興るようになり、また衣装や歌舞のみでなく、言葉の掛け合いや、小噺、謎かけ問答を芸に加えて滑稽味を出す萬歳師も増えていきました。

この中でもとくに尾張萬歳は娯楽性が高いものとして発展し、中には通年で興行として成立するものも現れました。やがて明治時代になると、大阪では、寄席演芸で行われるこれら尾張萬歳が、「万才」と呼ばれるようになりましたが、これは尾張萬歳の中でも三曲萬歳をベースにしたものでした。

三曲萬歳は胡弓・鼓・三味線による賑やかな萬歳で、初期の万才もこれに倣って楽器伴奏を伴っていました。やがてこれら明治初期の万才の芸人の中からは、喋りだけで場を持たすパイオニア的な万才師も出てくるようになり、今も歴史に名を残す、玉子屋円辰・市川順若や、砂川捨丸・中村春代の万才コンビなどがそれです。

ボケとツッコミというのは、このうちの玉子屋円辰が「曽我物語」を演じた際に、順若の代役の太鼓敲きとアドリブで行ったやり取りが起源といわれているそうで、これが今日の近代漫才の嚆矢のようです。

ただ、これより少し前の江戸時代の寄席演芸は落語が中心であり、まだまだ万才は添え物的な立場でしかありませんでした。その後、万才の演目の中には、「俄(にわか)」というものが増えてきました。宴席や路上などで行われた即興の芝居ことで、またの名を茶番(ちゃばん)といいます。

現在もよく使う「茶番劇」という言葉の原語となったもので、俄とは「俄狂言」の略です。俄とは、つまり「素人」のことであり、一説によればこうした素人が路上で突然、狂言を初めて衆目を集めたために、その素人を指す言葉としてこう呼ばれるようになりました。

やがては、俄かは「にわかに始まる」という意味そのままとなり、こうした突然劇を「俄」とも呼ぶようになっていきましたが、その内容は歌舞伎の演目の内容を再現したものや、滑稽な話を演じるものなど色々でした

江戸時代には遊廓などで、多くは職業的芸人でない素人によって演じられたものですが、明治時代になってからは、さらに「一人俄」から転じて2人で落語を演じる形式の軽口噺に発展し、さらには浪曲の要素が混ざり合うようになりました。

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そして、1912年(明治45年)には、かの有名な「吉本興業」が創立されました。その始まりは吉本吉兵衛という男とその妻、「せい」の夫婦であり、二人が大阪市北区天神橋にあった「第二文芸館」を買収し、寄席経営を始めたのがその始まりでした。

1915年(大正4年)に二人は無名落語家や一門に属さない落語家、色物などの諸派からなる劇団を結成し、「花と咲くか、月と陰るか、全てを賭けて」との思いから、自らのグループを「花月派」と称しました。

1921年(大正10年)ころまでには、主流、非主流の浪花落語寄席のほとんどを買収して上方演芸界全体を掌握し、その後大阪だけでも20あまりの寄席を経営しました。また、京都、神戸、名古屋、横浜、東京等にも展開していきましたが、そんな中、大正末期に横山エンタツ・花菱アチャコのコンビが入社します。

この二人が、万才を会話だけの話芸「しゃべくり漫才」として成立させたといわれており、当時人気のあった東京六大学野球をネタにした「早慶戦」などの「しゃべくり漫才」で人気を博しました。

これは、早稲田側応援席から投げ込まれたリンゴを慶應三塁手・水原茂が投げ返した事に端を発した乱闘事件、「水原茂リンゴ事件」をネタにしたもので、この事件では試合終了と同時に早大応援団は慶大ベンチ・応援席になだれ込んでの大乱闘となり、警官隊が出動する騒ぎとなりましたが、そのプロセスを面白おかしく語ったものでした。

その後二人は「アチャコ劇団」を旗揚げし、全国を巡業するようになり、この当時、絶大な人気を博しましたが、これを契機に万才はさらに全国的なブームとなっていきました。

しかし、昭和初期までは、基本的に「万才」は、「萬才」あるいは「萬歳」の略字という認識が一般的でした。が、このように人気が出てきたことから、新しい時代にふさわしい名前にしようとこの当時の吉本興業の宣伝部門を統括していた橋本鐵彦(のちに社長)が一般公募で呼び方を募集しました。

その結果、「滑稽コント」「ユーモア万歳」「モダン万歳」「ニコニコ問答」などの公募がありましたが、橋本を納得させるものがなく、結局は自らが考案して「漫才」と漢字表記だけを変えました。

そして、1933年(昭和8年)に吉本興業内に宣伝部が創設され、この宣伝部が発行した「吉本演藝通信」の中で、はじめて「漫才」と表記を改称することが公表されました。

エンタツ・アチャコ以降、この漫才は急速に普及して他のスター漫才師を生みだし、秋田實など、漫才のネタを専門に作る作家も活躍するようなりました。東京ではエンタツ・アチャコと懇意にしていた柳家金語楼が触発されて、自らの寄席で門下の「梧楼」と「緑朗」という弟子に高座で掛け合いを演じさせました。

この二人は、のちに「リーガル千太・万吉」と名を改めて東京で漫才を演じるようになり、これが今日の東京漫才の祖とされています。しかしその一方で、東京ではお囃子を取り入れた古典的なスタイルを崩さなかった漫才師もまだこの時代にはたくさんいました。

このため、漫才はやはり西高東低のまま大阪中心に発展していきましたが、その後太平洋戦争が勃発したため、これらの漫才師たちもまた出征を余儀なくされました。戦後は、相方の戦死・病死・消息不明などに見舞われたコンビも多く、このため大打撃を受けた吉本興業は映画会社へ転身を図り、ほとんどの専属芸人を解雇しました。

その後、多くの芸人は千土地興行や新生プロダクション、上方芸能といった新しく結成された興行主の元へ身を寄せましたが、これらは後に合併して「松竹芸能」となり、その後演芸興行を再開した吉本興業と並んで、上方演芸界の二大プロダクションといわれるようになりました。

このころもまだ漫才は寄席で行われる演芸でしたが、落語とは一線を画した演芸として発展していきました。マスメディアとの親和性にも優れており、ラジオ番組やテレビ番組でも多く披露されていき、現在までには、テレビをつけると、どこの番組でも元は漫才芸人さんばかりという時代になりました。

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さて、その一方では、元々年賀のお祝い言葉とされた、「万歳」のほうは、いつからか、公的な場所ではあまり使われることはなくなっていきました。

おそらくは、江戸時代までにも口に出して万歳三唱をする、といったことはなかったと思われます。しかし、明治に入ってからこれは復活しました。記録に残っている限りでは、バンザイと公的な場で発せられたのは、1889年(明治22年)2月11日の日本帝国憲法発布の日、青山練兵場でのことだったようです。

この日、臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが歴史残る「バンザイ」の最初だといいますが、実はこの最初の万歳三唱は完結しませんでした。

というのも、当初の予定では、「万歳、万歳、万々歳」と唱和するはずであったものが、人々の最初の「万歳」の掛け声で天皇が乗った馬車の馬が驚いて立ち止まってしまったのでした。このため二声目の「万歳」は小声となりましたが、三声目の「万々歳」はついに言えずじまいに終わってしまったそうです。

当初は、こうした式典を仕切るのは文部省であり、この当時の文部大臣であった森有礼が、発する語としては「奉賀」を提案していたそうです。が、連呼すると、ホウガ、ホウガ、ホウガとなり、これが聞きようによっては「ア・ホウガ」と聞こえ、これはつまり「阿呆が」につながるという理由から却下されました。

また、奉祝の言葉としての「万歳」は、「バンセイ」あるいは「バンゼー」という発音であり、このため「マンザイ」と読ませる案もあったようです。が、「マ」では「腹に力が入らない」との指摘があったため、バンザイとしてはどうかという意見が出ました。

この意見を述べた人は、謡曲・高砂の「千秋楽」には、「千秋楽は民を撫で、萬歳楽(バンザイラク)には命を延ぶ」というフレーズがあることを引き合いに出してこの案を進めようとしました。が、このバンザイという発音は、漢音と呉音の混用になるとの反対意見もあったようです。

また、「マンザイ」では演芸の萬歳とも混同しやすく、また、バンザイのほうが力強く発せるため、結局は「万歳(バンザイ)」が慣例となりました。以後、「天皇陛下万歳」というように、天皇の永遠の健康、長寿を臣下が祈る言葉として使われるようになり、近年でも即位の礼や在位記念式典において公式に使われます。

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皇居における一般参賀などの場面において、万歳三唱する市民も多いようですが、冒頭で述べたとおり、政治の世界でも国事行為として衆議院を解散する権限を持つ天皇に対しての敬意を表し、議会の解散などでこれを斉唱します。

慣例として、衆議院解散時に議長より詔書が読み上げられ、解散が宣言されたとき、その瞬間失職した衆議院議員たちが「万歳!」と三唱するわけですが、国会においてこれがいつのころから発せられるようになったのかは、はっきりわかっていないようです。

いつのまにか、議院議員たちが選挙戦に「突撃」してゆく気概を表しているのだと言われるようになり、また、万歳三唱をすると次の選挙で落ちないというジンクスもできてきました。ただ「失職するのに何が万歳なんだ」といって万歳三唱をしない議員もいるようで、今回の解散でも小泉新次郎議員や何人かの自民党議員はバンザイしませんでした。

太平洋戦争中の日本軍は、玉砕を覚悟して「バンザイ突撃」を繰り返しましたが、この日本軍兵士の「バンザイ突撃」は「バンザイ・アタック」として、連合国軍将兵に少なからぬ恐怖を与えました。その記憶はまだ欧米人には残っているようで、先日の日銀から金融緩和策が発表された際、欧米人記者の中から、こんな質問が出ました。

それは、「英米の市場関係者の間では、追加緩和による事実上の国債全額買い取りという明確なマネタイゼーションと、増税延期という組合せをバンザイノミクスという国債暴落政策として懸念する見方も出ているが……」というものでした。

この「バンザイノミクス」は、第2次安倍内閣による経済政策の通称である「アベノミクス」に、バンザイ突撃の無謀さを掛けた造語とみられています。

いまの時代にまだ、昔の名残の万歳三唱を国会の場でやる必要があるのかどうかという議論も数々あるようであり、今回この時期の解散もさることながら、二度もやり直してまで万歳三唱をやるなんて無意味だと私自身も思います。

そもそも、万歳三唱をやらなければならないという法律があるわけでもなく、これはあくまで慣習にすぎません。ところが、1990年代には「万歳三唱令」と題した偽書が官庁を中心に広まり、平成22年には、これを信じ込んだ自民党の木村太郎衆議院議員が、この当時の鳩山首相に正式の万歳の作法が違っている、と難クセをつけるという事件がありました。

内閣に対する質問書において、天皇陛下御在位二十年記念式典で行われた鳩山由紀夫内閣総理大臣の所作が「手のひらを天皇陛下側に向け、両腕も真っ直ぐに伸ばしておらず、いわゆる降参を意味するようなジェスチャーのように見られ、正式な万歳の作法とは違うように見受けられた」と難じたものです。

また、木村議員は、「日本国の総理大臣として、万歳の仕方をしっかりと身につけておくべきと考えるが、その作法をご存知なかったのか、伺いたい」と問いましたが、これに対して後日内閣は、「万歳三唱の所作については、公式に定められたものがあるとは承知していない」と答弁しています。

それにしても、この偽の「万歳三唱令」というのはよく出来ていて、これは明治時代に施行された太政官布告の体裁を取っており、「万歳三唱の細部実施要領」なる詳細な作法まで記述された文書でした。が、無論、そのような内容の太政官布告その他の法令が公布・施行された事実はなく、類似の法令や公式文書等もありません。

世間に出回った「万歳三唱令」の文言は以下のような内容になっています。

萬歳三唱ノ細部實施要領

一 萬歳三唱ノ基本姿勢ハ之直立不動ナリ
而シテ兩手指ヲ真直下方ニ伸ハシ身体兩側面ニ完全ニ附著セシメルモノトス
二 萬歳ノ發聲ト共ニ右足ヲ半歩踏出シ同時ニ兩腕ヲ垂直ニ高々ト擧クルヘシ
此際兩手指カ真直ニ伸ヒ且兩掌過チ無ク内側ニ向ク事肝要ナリ
三 萬歳ノ發聲終了ト同時ニ素早ク直立不動ノ姿勢ニ戻ルヘシ
四 以上ノ動作ヲ兩三度繰返シテ行フヘシ
何レノ動作ヲ爲スニモ節度持テ氣迫ヲ込メテ行フ事肝要ナリ

誰が作ったのか知りませんがよくできてます。それにしても、そもそも万歳の仕儀などというモノがあること自体が不可思議で、過去に衆議院などの公式行事で議員さんが行った万歳三唱を行った写真記録などをみても、掌の向きは前であったり内側であったり、はたまた握られていたりとまちまちだそうです。

正式な万歳の所作というようなものは、歴史的にも慣例上も定まっているものは一切なく、バンザイといえば、「おおむね、威勢よく両手を上げる動作」のが所作と解されているだけです。

そんなものにこだわっている人達が国政を操っていることを考えると、ますます今度の選挙には行きたくなくなってきているのですが、さて、みなさんはどうお考えでしょうか。

選挙に行くか、大掃除をするか、それともすべてお手上でおバンザイするか、です。

答えは簡単に出るような気もしますが……

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