数日間、雨模様の日が続きましたが、今日は一転、青空快晴です。
伊豆の各地は紅葉の見ごろとなり、近隣の山々もすっかり色付きました。すぐちかくの修禅寺虹の郷では紅葉の夜間ライトアップをやっているようで、今月末までということなので、終わってしまう前に一度出かけねば、と思っています。
そのほか、麓の修禅寺温泉や、この別荘地の隣の修禅寺自然公園の紅葉などなど、訪れたいところはゴマンとあるのですが、いかんせん、忙しくてなかなか十分な時間がとれません。
高校時代の同窓会を兼ねた忘年会も企画しなくてはなりません。広島の高校時代の卒業生のうち、東京で就職している連中を中心に毎年のように行っているものですが、なぜか私が万年幹事ということになっており、今年もその案内を出すシーズンがやってきました。
しかし、今から募っていては年末はすぐやってきそうで、どうやら新年会にまでずれ込みそうなかんじです。
どうして毎年年末なるとこう忙しいのか、といつも思うのですが、いっそのこと、年賀状もやめ、大掃除もやらない、ということにすれば気も楽になるのでしょう。
が、やめられないんだな、これが。
かくして、いつもいつも12月の別名が師走であることを思い知らされるわけですが、この「師走」の由来は、年末は皆忙しく、普段は走らない師匠さえも走ること、というのはよく言われることです。
その昔は、年末になるとお坊さんが各家で経を読むという習慣もあったそうで、このため師(坊さん)が、馳せ走るため「師馳月(しはせつき)」というようになり、「はせ」がなまって「はす」になり、「しわすつき」になった、という説もあるようです。
ところが、さらに調べてみると、この走り回ることは、「趨走(すうそう)」という難しい言葉を使うようで、「師」が趨走することから、「師趨(しすう)」と呼ぶようになり、これが略式化されて「師走(しはす)」になったとされる説もあるそうです。
さらには、「年果つる月」の意味である、「為果つ月(しはつつき)」という言葉があるそうで、これつづまって「しはす」となり、「師走」はこの宛字だとする説もあるといいます。
このように、単に師走というのはエライ人が走り回るということからだけきているのかと思ったら、いろんな説があることは知りませんでした。
また、英語でのこの12月の呼び方、Decemberは、ラテン語で「第10の」という意味の「decem」の語に由来しており、「10番目の月」の意味だそうです。1月から起算すると10月になってしまいますが、紀元前46年まで使われていたローマ暦では3月が起算だったそうで、3月から数えて10番目の12月が「decem」になります。ご存知でしたか?
その昔はまた、このクソ忙しい12月に、「正月事始め」という行事があったそうです。これは、正月を迎える準備を始めることです。旧暦の12月13日だそうで、その後の改暦されて新暦になっても、この正月事始めは12月13日のまま行う、ということになっているようです。
昔はこの日に門松やお雑煮を炊くための薪など、お正月に必要な木を山へ取りに行く習慣があったそうで、なぜこの日になったかといえば、江戸時代中期まで使われていた「宣明暦(せんみょうれき)」という暦では、12月13日が「鬼」に相当するからだそうです。
宣明暦とは中国暦の一つで、正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言うそうですが、日本に輸入されて以降、中世を通じて823年間も継続して使用され、史上最も長く採用された暦だそうです。
この暦では、ひと月を「二十七宿」に分割し、それぞれに意味を持たせましたが(ほかにも、危、心、角、女、昴など色々ある)、このうちの12月の13日に当たる日が「鬼」になります。この「鬼の日」は婚礼以外は全てのことに吉とされているそうで、このため、正月の年神様を迎えるのに良いとして、この日が選ばれたようです。
今年の12月13日は土曜日であり、週末なので、この日に結婚式を行うカップルもいるかもしれませんが、「婚礼以外」は吉ということのようなので、もう予定を入れているとしたら、今からキャンセルしたほうがよいかもです。
鬼といえば、来年のことを言うと、鬼が笑う、とよく言いますが、これもなんでこういうのかなと調べてみました。そうしたところ、ある用語解説サイトでは、「明日何が起こるかわからないのに、来年のことなどわかるはずはない。将来のことは予測しがたいから、あれこれ言ってもはじまらないということ」と書いてありました。
それなら別に来年のことではなく、来月のことでも、「いいじゃないの~」とツッコミたくなるのですが、年をまたぐ、というのは色々な意味で、大きな境界を越えるという意味を持つわけです。
その昔は、栄養状況もよくなく、医療も整っていなかったため、人の寿命も短かく、ひと昔前には人生50年と言われた時代もあったわけですが、そうした時代では一年一年を無事に過ごすのもやっとでした。
そうした時代において、「鬼」は正に対し邪を意味するものであり、また生に対しての死を象徴するものでした。このため死者の所在のことをさし、鬼籍に入ったと言いますが、来年迎えられるかどうかもわからない、もしかしたらそれまでに死んでいるかもしれない、という思いを込め、この死の象徴である鬼に来年のことを言うと笑われる、というようになったわけです。
年内一杯は来年のことを考えず、一生懸命生き抜かなくては、ダメよダメダメ~というわけです。
また、この鬼は「閻魔大王」の手下だという説もあります。閻魔様は死者を裁く裁判官であり、年内の訪問予定者、つまり死亡者が書き込まれている閻魔帳を持っています。そして、ここに自分の名前があるとも知らずに来年の予定を夢や希望をもって語っていると、その手下の鬼に失笑されてしまう、という話もあるようです。
元々は死霊を意味する中国の鬼(キ)が6世紀後半に日本に入り、日本固有のオニと重なり鬼になったのだという説もあるようですが、「おに」の語は「隠」が転じたものという説があり、これは「おぬ」と読みます。元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味したようで、そうした意味では、死者の霊ということになります。
しかし、古代の人はそこに人知を超えたものを感じるようになり、やがて「隠」は人の力を超えたものの意となりました。目に見えないもの、というものは恐ろしいものであり、これはさらに後に、人に災いをもたらす存在となり、やがてはこれを具象画化する者が現れ、そのひとつとして頭に角の生えたあの強面のオッサンのイメージが定着しました。
さらには、平安時代以降に流行し陰陽思想や浄土思想と習合し、ここで説かれていた地獄における閻魔大王配下の獄卒が、この鬼であるとされるようになったものといわれています。
この鬼は、「おぬ」「おに」と呼ばれる時代以前には、「もの」と読んでいたそうです。奈良時代の記録書の「仏足石歌」では、「四つの蛇(へみ)、五つのモノ、~」という記述があるそうで、また「源氏物語」にも「モノにおそはるる心地して~」という記述があり、これらの「モノ」は怨恨を持った怨霊であり、邪悪な意味で用いられていました。
単なる死霊ではなく、「祟る霊」であり、非常にタチの悪い輩です。この時代には「目1つ」の姿で現されていたということで、「片目」という神印を帯びた神の眷属とみる見方や「一つ目」を山神の姿とする説もあるようです。
いずれにせよ一つ目の鬼は単なる死霊と言うより民族的な「恐ろし神」の姿が想起されます。日本書紀などでは、この「邪しき神」を得体の知れぬ「カミ」や「モノ」として取り扱っていましたが、その後伝来した仏教にに含まれていた獄鬼、怪獣、妖怪などの類の概念が日本人の想像力で変形し、人を食う凶暴な鬼のイメージが成立していきました。
普段は見えない、ということはつまり「闇」の世界の住人であり、平安の都人がいかにこの闇に恐怖を感じていたかが想像されます。鬼とは安定したこちらの世界を侵犯するそうした闇の世界、異界の存在であり、また社会やその時代の法を犯す反逆者はこの闇の世界にいつも逃げ込んで姿をくらましていました。
この異界の住人は、やがて姿を変え、人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪などなどに変わっていき、人々の想像を膨らませて際限なくそのイメージは広がっていきました。
が、考えてみれば、テレビやインターネットがないこの時代においては、その想像そのものが娯楽、といった一面もあったでしょう。現在でもホラー映画を好きな人がいますが、それと同じ感覚かもしれません。
平安から中世になると、この時代の説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身、人を食べる恐ろしい鬼となりました。有名な話としては、大江山の酒呑童子の話があります。酒呑童子は「童子」といいながら鬼の姿をしており、都から姫たちをさらって食べていました。
大江山は異界に接する山として著名ですが、これは京都の北の果てにあります。大江山の位置するこの丹後地方は古くから大陸との交流が深く、帰化人は高度な金属精錬技術により、ここで金工に従事、多くの富を蓄積していたことに由来するといわれます。
これに目を付けた都の勢力は兵を派遣、富を収奪し、彼等を支配下に置きましたが、外国からやってきた彼等は彼等なりに自分たちは優れた技術者だという自負があり、自分達を正当化、美化しようとしました。
そうした思いから、自分たちは鬼退治をやって都の人を守っているんだという酒呑童子の話が出てきたようですが、この地方には似たような話しとしてこのほかにも、「土蜘蛛退治」といった話が残っているようです。
ただ、帰化人が山賊化し非道な行いをしたので鬼と呼ばれたという説もあり、こうした山に接する地域には日本人には受け入れられなかった外国人が住まうことが多く、やがては山賊化して巣くうことも多くなったためか、京都周辺の山間地を中心に鬼伝承は多いようです。
また、京都の町にも鬼の話は数多く残っています。ここを舞台にした貴族の物語である「伊勢物語」には、夜にある男が女をつれて逃げる途中、鬼に見つかって女を一口で食べられる話があり、ここからこの時代には危難にあうことを「鬼一口」と呼んでいた一時期があったということです。
ただ、無論のこと、実際に鬼がいたわけではありません。ある学者さんによれば、これはこの当時京都などの機内を中心に多数発生した戦乱や災害、飢饉などの社会不安の中で頻出する人の死や行方不明を、異界がこの世に現出する現象として解釈したものだといいます。
人の体が消えていくというリアルな体験を、この世に現れた鬼が演じたものとしたわけであり、鬼は異界の来訪者であり、人を向こう側の世界に拉致する悪魔であったわけです。
一方では、福を残して去る神にする例もあり、昔話の一寸法師に出てくる鬼や、瘤取り爺さんの鬼がそれです。一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくし、身長は六尺(182cm)になり、娘と結婚し、さらには金銀財宝も打ち出して、末代まで栄えたといいます。
瘤取り爺さんのほうの話のほうも説明はいらないでしょうが、子供のころに聞いた話を思い出してみてください。
これは頬に大きな瘤のある正直者の爺さんがある日、鬼に遭遇した、という話で、請われるまま踊りを披露すると鬼は感心して酒とご馳走をすすめ、翌晩も来て踊るように命じ、そのとき返してやると翁の大きな瘤を「すぽん」と傷も残さず取ってしまいました。
これを知った隣の業突く張り爺さんも自分の瘤も取ってもらおうと夜更けにその場所に出かけ踊りを踊ります。
が、出鱈目で下手な踊りを披露したので鬼は怒ってしまい、「瘤は返す。もう来るな」と言って昨日の翁から取り上げた瘤を意地悪な翁のあいた頬にくっつけたため、意地悪ジジイはそれから瘤が二つになり、一生難儀するハメになった、という話です。
このほか、鬼の形態の歴史を辿れば、その昔の初期のころの鬼というのはみんな、女性の形をしており、鬼の実体は女であるとする向きも多いようです。
「源氏物語」に登場する鬼も女性の形で出てきます。この中に鬼が渡辺綱という武将に切られた自分の息子の腕を取り返すために女に化け、綱のところへ来て「むすこの片腕があるだろう」と言い、それを見せてくれと言うなり奪い取るくだりがあります。
いわゆる「般若」の面も鬼女を表したものといわれ、一説には、「般若坊」という僧侶が作ったところから名がついたといわれています。が、上の「源氏物語」には、光源氏の最初の正妻の葵の上が、夫の不倫相手の六条御息所の嫉妬心に悩まされ、その生怨霊にとりつかれた、という話が書かれており、こちらが元祖という説もあります。
このとき、葵の上は、般若経を読んで御修法(みずほう)を行いこの怨霊を退治したと源氏物語には書かれており、この故事をもとに、この女の嫉妬の醜い形相を形に表したものが般若面の姿になったともいわれているようです。
以来、「嫉妬や恨みの篭る女の顔」として能などの演芸でよく使われるようになりましたが、このように女性が宿業や怨念によって化したものこそが鬼とされ、中でも若い女性を「鬼女」といい、老婆姿のものを「鬼婆」といいます。
鬼婆の話のひとつとしては、福島県二本松市にある「黒塚」という墓は鬼婆の墓といわれています。これはこの地にある安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆」の墓として伝わっているものです。
この話はその後、土佐に伝わったとのことで、高知県には「土佐お化け草紙」という妖怪譚が伝えられており、この話にも「鬼女」が登場し、これは身長7尺5寸(約230cm)、髪の長さ4尺8寸(約150cm)の鬼女が妊婦の胎児を喰らったというお話です。
ちなみに、背の高い人の多いバレーボール選手でも、女子の平均的な身長は、180~190cmくらいのようで、2mを越える選手はほとんどいないことから、この230cm鬼婆というのはやはりドデカく、本当にいたら大迫力でしょう。
一方の若い女性の鬼、鬼女の話は、源氏物語のような古典以外にも、昔話、伝説、芸能などに頻出し、有名なものとしては、信州戸隠(現・長野市鬼無里)の紅葉伝説、鈴鹿山の鈴鹿御前などがあります。
この紅葉伝説というのは、子供に恵まれなかった夫婦が、魔王に祈った結果、呉葉(くれは)という鬼の女児を得る、というところから始まります。呉葉は、長じて紅葉と名を改め、源経基という貴族に見初められて妾となり、経基の子供を妊娠します。
ところが、あるときのこと、経基の御台所が病懸かり、この病の原因が紅葉の呪いであると比叡山の高僧に看破され、信州戸隠鬼無里の地に追放されてしまいました。
この地で経基の子、」経若丸を生んだ紅葉でしたが、京の文物に通じ、しかも美人である紅葉は村人達に尊ばれはしたものの、都の暮らしを恋しく思うようになります。このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るため一党を率いて戸隠山に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになります。
この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わり、このため平維茂という武将が鬼女討伐を任ぜられ出撃しますが、紅葉の妖術に阻まれさんざんな目にあいます。
しかし、維茂の夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かり、これでの神剣を振るったところ、さすがの紅葉もこれにかなわず、その一撃に首を跳ねられるところとなりました。呉葉、若干33歳の晩秋のことでした……。
一方の鈴鹿御前の方の話というのは、もう少し複雑です。話が長くなるので端折りますが、この話では鈴鹿御前は鬼神に憑りつかれ、都への年貢・御物を奪い取っていた盗賊として登場し、これを憂えた帝から、武将の俊宗という人物にその討伐の命が下ります。ところが、遠征先で2人は夫婦仲になってしまい、娘までもうけます。
その後紆余曲折を経ますが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力によって彼女に憑りついていた鬼神は退治されます。が、その反動で、元鬼だった鈴鹿は25歳で死んでしまいます。しかし、その後俊宗が冥土へ乗り込んで彼女を奪い返すことになっており、俊宗はこの元鬼嫁と2人でその後も幸せに暮らす、というのが大筋です。
この紅葉伝説、鈴鹿御前などの例のように、鬼が女性に化けて、人を襲うという話が伝わる一方で、人の心に巣くう憎しみや嫉妬の念が満ちて人が鬼に変化したとする話も多く、鬼女の話をすればキリがないほどです。有名な能の「鉄輪」や「紅葉狩」といった演目も、こうした嫉妬心から鬼と化した女性の話です。
ただ、一方では、母親が持っている自分の子供を守りたいとする母性が、これを奪い去ろうとする戦や災害に対する憎悪のようなものが鬼の姿に変化したものだとも受け取れ、子孫を残すためには何でもやる、といういわば本能の変化したものとする見方もできるでしょう。
とはいえ、古今東西、鬼のように心の酷い女性は幾多も現れ、彼女たちもまた鬼女ともよく呼称されます。先日来毎日のように報道されている、京都の女性もまた鬼なのかもしれません。夫も含めた複数の男性殺害の疑いが持たれているようですが、事実だとすると、現代における鬼女です。
さて、世の恐妻家たちは、「ウチの鬼嫁が」などとよく言います。そして女の本質が鬼であるとするならば、我が家にもひとり鬼がいることになります。
その嫁は今週末から一人で広島に数日間帰省だそうで、この「鬼のいぬ間」に何をして暮らそうか、というのが目下の私の課題です。
女性といえば、もうひとり我が家にはメス猫のテンちゃんがいます。このテンちゃんと一緒に鬼ごっこをする、というのも一つの手かもしれません。
が、忘れてはなりません。師走です。こんなブログを書いている暇があったら、仕事をしましょう。