ナルトのバルト

2014
気がつくと11月も終わりです。

明日から12月になるわけですが、日本では、年末になると各地で第九のコンサートが開かれます。最近では、単に演奏を聴くだけではなく、演奏に参加する愛好家も増えつつあるということなのですが、一体いつのころからこういうことになったのかな、と気になったので調べてみました。

すると、日本で第九が初めて年末に演奏されたのは、昭和15年(1940年)の大晦日、12月31日午後10時30分のことだそうです。

先日のブログ、「手をあげろ!」でも取り上げた、紀元二千六百年記念行事の一環として行われたのだそうで、このときは、ヨーゼフ・ローゼンシュトックという人が「新交響楽団」、すなわち現在のNHK交響楽団の前身の楽団を指揮し、この模様はラジオ生放送でも流されました。

ローゼンシュトックは、ユダヤ系のポーランド人で、ドイツやアメリカで活動していましたが、昭和11年(1936年)に来日してからは日本での音楽の普及活動にも尽力し、NHK交響楽団の基礎を創り上げた指揮者です。楽員からは「ローゼン」「ロー爺」「ローやん」と呼ばれ親しまれていたようです。

この演奏を企画したのは当時、日本放送協会(NHK)の洋楽課員だった三宅善三という人だったそうですが、彼は「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」とウンチクを語っていたそうです。

実際にドイツでも年末に「第九」を演奏することが今でも多いそうです。が、日本のように大晦日に、しかもこんな深夜遅くから演奏するような慣習はないといい、従って、この三宅氏が何らかの勘違いをしていたのではないか、ということが言われているようです。

このN響ですが、戦前はまだ日本人でもクラッシックを聞く人は少なく、戦後になってもまだそれほど人気があがらなかったため、オーケストラ収入が少ない貧乏楽団でした。

このため、楽団員が年末年始の生活に困ると言ったことも多く、こうした状況を改善するため、合唱団の中からも掛け持ちで演奏に参加する人もいたそうですが、そうした中でも数あるクラシックの演奏の中で、「第九」は「必ず客が入る曲目」であったといいます。

年末に「第九」が演奏されるようになった背景としては、このころ既に大晦日にN響の年末の定期演奏会が行われており、その演奏がラジオの生放送で流されるという慣習が定着していたということがあります。しかしその中でも第九は人気曲であり、その後は年末と言えば、「第九」ということになっていったようです。

さらにこれが定着するようになったきっかけは、1955年(昭和30年には、「群馬交響楽団」をモデルに制作された映画「ここに泉あり」(主演、小林桂樹、ほかに岸惠子などが共演)が公開されたことです。この映画はヒットし、翌年には文部省により群馬県が全国初の「音楽モデル県」に指定されました。

これを受けて、昭和31年(1956年)に群馬交響楽団が高崎で行った第九演奏会は大人気を博し、この成功によって全国でも頻繁に大晦日の演奏会が開かれるようになり、現在に至っています。

群馬県ではさら昭和36年(1961年)に、高崎市民の全面的な支援を受けて同市に群馬音楽センターが建設され、これを拠点としてさらに幅広い活動が展開されています。その後「移動音楽教室」なるものも設立され、多くの児童生徒がこれを鑑賞しているのをはじめ、県内各地で演奏活動が展開されていて、音楽は群馬県文化の象徴になっているそうです。

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この「第九」の作曲者である、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを知らない人はいないでしょう。日本では江戸時代に生まれ、幕末近くの1827年に亡くなっているドイツの作曲家ですが、バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、「楽聖」とも呼ばれるほどの人です。

1770年、現ドイツ領で、当時は神聖ローマ帝国の領土であったケルン大司教領のボンで、生まれました。ベートーヴェン一家は、代々宮廷歌手で、お父さんもまた選定歌手でしたが、類の酒好きであったため収入は途絶えがちでした。このため、元歌手でもあった祖父の支援により一家は生計を立てていました

お父さんが酒癖が悪く収入が少なかったため、ベートーヴェンはこの父からその才能を当てにされていたといい、幼少のころから、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたと伝わっています。

しかしその成果は表れ、めきめきと才能を開花させたベートーヴェンは、22歳のとき、演奏先のロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められました。弟子入りを許可されてすぐにウィーンに移住しその手ほどきを受けるようになりますが、やがてここでもピアノの即興演奏の名手として名声を博すようになりました。

ところが、20歳代後半ごろより持病の難聴が徐々に悪化。この当時は水道管に鉛が使われていて、鉛イオンが溶け出した水道水を長期間飲んだことによる鉛中毒説が有力視されているようですが、ベートーヴェンは28歳の頃には最高度難聴者となってしまいます。

聴覚を失うという音楽家としては死にも等しい絶望感から、32歳の時、遺書まで書いて自殺も考えたといいます。が、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て2年後の1804年に交響曲第3番を発表しました。これを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれました。

が、その後、40歳頃には全聾となり、以後、晩年の約15年間は、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へ移るようになりました。今年の2月、同じく全聾を装っていた佐村河内氏のウソがばれましたが、耳が聞こえないのに作曲ができるというのは、一般人にとってはまことに不思議なことです。

が、それができたというところが、やはり天才ということなのでしょう。しかもベートーヴェンはさらに、40を過ぎてからは神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられるようになったといい、そうした環境の中で傑作を生み出していったというのは、本当にすごい精神力といえます。

加えて、彼が後見人をしていた甥が、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどの問題を起こすようになり、こうした苦悩がつのって一時作曲が停滞した時期もありましたが、そうした中で生まれたのが、世に名高い交響曲第9番でした。

ベートーヴェンが実際に交響曲第9番の作曲が始めたのは、47歳のころだといわれていますが、部分的にはさらに以前までさかのぼることができるといい、現在のような旋律が作られたのは、最晩年であった52歳、1822年頃のことといわれています。

しかし、その後に肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が急激に悪化、病床に臥すようになると、10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌年の1827年に肝硬変によりその56年の生涯を終えました。その葬儀には2万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなり、この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列したそうです。

第10番は断片的なスケッチが残されたのみで完成されなかったことから、この第九は彼の最後の交響曲です。副題として「合唱付き」が付されることも多く、その第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはシラーの詩「歓喜に寄す」が用いられます。そして第4楽章の主題はかの有名な「歓喜の歌」として最も親しまれている部分です。

私はクラシック音楽が苦手なのでよくわかりませんが、「古典派の以前のあらゆる音楽の集大成ともいえるような総合性を備えると同時に、来るべきロマン派音楽の時代の道しるべとなった記念碑的な大作」なのだそうで、第4楽章の「歓喜」の主題は欧州評議会において「欧州の歌」としてヨーロッパ全体を称える歌として採択されています。

また、欧州連合においても連合における統一性を象徴するものとして採択されているほか、ベルリン国立図書館所蔵のベートーヴェンの自筆譜は、2001年にユネスコの「世界記録遺産」リストに登録されたそうです。

このように、まぎれもなくベートーヴェンの最高傑作の一つであるわけですが、そのゆえんは、大規模な編成や1時間を超える長大な演奏時間のほか、それまでの交響曲でほとんど使用されなかった、シンバルやトライアングルなどのティンパニ以外の打楽器を使用した独創性にあるといいます。

また、第3楽章は、「ドイツ・ロマン派の萌芽を思わせる瞑想的で長大な緩徐楽章」だそうで、このほか、従来の交響曲での常識を打ち破るかのような、独唱や混声合唱の導入などの大胆な要素を多く持ち、シューベルトやブラームス、ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチなど、後の交響曲作曲家たちに多大な影響を与えました。

が、日本での圧倒的な人気の一方で、ヨーロッパにおいては、オーケストラに加え独唱者と合唱団を必要とするこの曲の演奏回数は必ずしも多くないそうです。

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日本においても最初に全曲演奏がなされたのは明治を通り越して大正なってからで、大正7年(1918年)の6月1日に、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所でドイツ兵捕虜による演奏が行われたのが最初だといいます。

この事実はこの初演の2ヶ月後に板東収容所でこの「第九」を聴いた徳川頼貞が、戦前の昭和16年(1941年)に書いた「薈庭楽話」という随筆に書かれていたためわかったそうで、それによれば、このとき頼貞が聞いたのは第1楽章のみだったといいます。

徳川頼貞という人は、その名前からもわかるように、徳川御三家の子孫であり、紀州徳川家の第16代当主にあたります。母方の祖父徳川茂承が紀州藩主であり、楽譜や音楽文献、古楽器類の収集家として知られ、生きている間には「音楽の殿様」と称されました。

日本楽壇の進歩発展に尽力するなど、戦前における西洋音楽のパトロンとして果たした役割は大きいとされ、戦前は貴族院議員として、戦後は参議院議員として憲政にも携わり、これによって築いた人脈を駆使して音楽を普及させ、これを外交においても利用しました。

「薈庭楽話」は、そうした自分の歴史を綴った回想録のようですが、その中で明らかにされた板東収容所での演奏の件は、その後戦争に突入してしまったため、その事実は長い間忘れ去られるところとなり、1990年代になってようやく脚光を浴びるようになりました。

この板東俘虜収容所において第九が最初に演奏されたのは1918年ですが、収容所という環境から、これを聞いたの軍関係者だけです。それをこの初演の2か月後に徳川頼貞氏が聞いたということから、同じメンバーより頻繁に演奏されていことがうかがわれ、この時の演奏は徳川頼貞が慰問か何かに訪れていたためのときのものかと思われます。

また、この翌年の1919年12月3日には、福岡県の久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)で演奏会が開かれたという記録が残っています。ただ、坂東収容所のメンバーではなく、別の久留米俘虜収容所のドイツ人オーケストラのメンバーによる出張演奏だったということであり、様々な曲に交じって「第九」が演奏されました。

ただ、第2・第3楽章だけだったといい、聞いたのも女学生達だけでしたが、収容所のスタッフ以外の一般の日本人が「第九」に触れたのはこれが最初だと言われています。さらにその2日後の12月5日には、久留米収容所内で合唱も加えられた演奏が行われており、このときには楽器編成もほぼ原曲どおりで全曲演奏がなされたといいます。

この板東俘虜収容所に代表される捕虜収容所ですが、これらが設置されることになった発端は、第一次世界大戦です。その一局面で日独戦争が勃発し、戦争終結後当時大阪市にありドイツ人捕虜を収容していた「大阪俘虜収容所」が手狭となったことからこれが閉鎖され、捕虜たちは他の場所に移転することになりました。

この「日独戦争」の経緯ですが、そもそもは、日露戦争に先立つ日清戦争で日本が勝利したのち、日本が遼東半島の所有を要求したことに始まります。ところが、同じく中国進出をたくらんでいたフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国は、日本のこの主張に対して猛烈なる異議を唱えました。

これがいわゆる「三国干渉」といわれた事件であり、これにより日本はやむなくこれらの国の勧告を受諾し、遼東半島を放棄する代償に3000万両(4500万円)を獲得しただけで我慢しました。

ところが、この三国干渉で中国に恩を売った形になったドイツは、他のフランスやロシアを差し置いて自分だけは大洋艦隊の寄港地となる軍港を中国沿岸に確保しようと企て、そこで渤海湾の湾口にあたる膠州湾一帯に目をつけました。

そして、1897年に自国の宣教師が山東で殺された事件を口実にここに上陸し、翌1898年(明治31年)には山東半島の南側、黄海に面した膠州湾を99年間の租借地としました。そしてその後この膠澳湾全体をドイツ東洋艦隊の母港とすべく軍港として整備し始めました。

ドイツはこの地を極東における本拠地とし、膠州湾租借地の行政中心地として、湾入り口東側の半島に「青島」を建設し、ここに要塞を建設しました。そして湾内には艦隊を配備し、さらには鉄道敷設権と鉱山採掘権なども確保してその背後の山東半島一帯を勢力下に置くようになりました。

この結果、その中心地となる青島にはドイツのモデル植民地として街並みや街路樹、上下水道が整えられるまでになりましたが、今なお残る西洋風の町並みはこのときに形成されたものです。ドイツ軍撤退後の今も、現地で製造されている「青島ビール」は、このとき彼らがもたらした技術に基づくもので、ドイツがこの町に与えた影響は大きいものでした。

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しかし、遼東半島の領有を反故にされた日本にとっては、そこからそう遠くもないこの地を盗られたというのはトンビにあぶらげ同然の行為です。到底許しがたいものであり、1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、当然のごとく日本はドイツに宣戦布告し、青島の攻略に乗り出しました。

一方、このように日本海を隔ててすぐに大戦力を派遣できる日本に対して、極東の僻地にまで軍隊を派遣するのはドイツにとっては至難のわざです。青島はこのころかなり頑丈な要塞化がなされていましたが、それでも日本軍の猛攻撃をかわす手立てはないと目されたことから、ドイツ東洋艦隊は港内封鎖を恐れて膠澳湾を脱出することになりました。

このとき、マクシミリアン・フォン・シュペー中将指揮するドイツ東洋艦隊の大部分は脱出しましたが、青島には駆逐艦「太沽(タークー)」、水雷艇「S90」、砲艦「イルティス」、「ヤグアール」、「ティーガー」・「ルクス」が残り、膠州湾の湾口はこれを日本海軍の艦船が封鎖しました。

このとき、港内に残されたS90 は、夜間雷撃により果敢に出撃し、日本海軍の防護巡洋艦「高千穂」を撃沈しています。しかし、本国へ向かったドイツ東洋艦隊は、大西洋を越えて帰港を目指す中、1914年12月8日に起こったフォークランド沖海戦において、日本と同盟関係にあったイギリス海軍によって撃破され、多くの艦が海の底に消えました。

一方、この戦争では日本軍としては初めてのこととなる飛行機による空中戦が行われました。第一次世界大戦に参戦した各国軍隊もそうでしたが、日本軍も初めて飛行機を戦闘に投入したわけであり、ただこの当時の日本空軍の規模は極めて小さく、「モ式二型」と呼ばれる複葉機を4機、「ニューポールNG二型単葉1機」に加え、気球1という寂しさでした。

しかし、人員だけは348名も集められて臨時航空隊を編成し、さらには、日本海軍で初めてとなる、「水上機母艦」まで導入しました。「若宮」という船であり、元英貨物船でしたが、日露戦争時にはロシアがバルチック艦隊の輸送船として保有しており、これを日本軍が対馬海峡で拿捕して接収したものです。

のちに、沖ノ島丸と命名されましたが、さらに若宮丸と正式命名され、日本海軍の輸送船として活動していましたが、1913年(大正2年)に臨時に水偵機3機を搭載して演習に参加、翌年水上機母艦への改装工事を受けました。改装ではありますが、一応、日本初の航空母艦ということになり、主として上述の「モ式」を運用しました。

若宮搭載のモ式には、大型1機と小型1機があり、残りの小型2機は分解格納されていました。山崎太郎中佐を指揮官とする海軍航空隊は1914年(大正3年)9月5日に初出撃を行っており、これが日本空軍の史上初の航空隊の出動ということになります。が、この初出撃では大きな成果はあげられなかったようです。

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一方のドイツ軍は「ルンプラー・タウベ」という鳥の形をしたような不思議な飛行機を保有していました。タウベは鳩のことで、その名は、主翼と尾翼の形態が鳩の羽根のような形に由来しています。極めて安定性の高い飛行機で、運動性能は悪かったものの、単葉機だったため、日本軍の複葉機よりは性能は格段に優れていました。

しかし、青島のドイツ軍のタウベはわずか1機のみであったため、偵察任務に投入され、上空から日本軍陣地観察し、これによってもたらされたスケッチによって、ドイツ軍からは30㎝要塞砲によって正確に日本陣地に砲弾が撃ち込まれ、日本軍を悩ませました。

このため、日本軍はタウベが飛来するたびにその陣容を知られないよう、大砲などの兵器を隠すだけでなく人員をも隠れることを余儀なくされました。このため、日本空軍としては何としてもこのタウベを排除したく、「若宮」を出動させましたが、出航してすぐに触雷してしまい、日本への帰投を余儀なくされました。

このため、「モ式」は陸に降ろされ、砂浜からの出撃するハメになるなど大きく機動力を欠くところとなりましたが、1914年(大正3年)10月13日タウベを発見し、ニューポールNGとモ式3機の合計4機が発進し、空中戦を挑みました。

この「日本軍初の空中戦」となる空戦においては、タウベの機動性は日本軍のモ式を圧倒的に上回っていましたが、包囲されかけたため、二時間の空中戦の末に撤退しました。

9日後の10月22日にもニューポールNGとモ式がタウベを追跡しましたが、翻弄されただけで終わっており、その後ゼロ戦を初めとして名機を多数生み出すことになる日本空軍の初期のころの空戦とは、こんなほのぼのとしたものに過ぎませんでした。

その後日本軍は急遽、民間からニューポール機とルンプラー・タウベを1機ずつ徴用して青島に送りましたが、その運用が始まる前に停戦を迎えたため、これらの飛行機が戦果を挙げることはついにありませんでした。

本邦初といわれる空戦はこんな形で終わり、空の上での日独の戦いは、こうしたのんびりとしたものでした。がしかし一方陸地では「神尾の慎重作戦」と揶揄される程に周到な準備の上での作戦が日本軍により実施され、その結果華々しい成果があげられました。

神尾とは、約29,000名にのぼる兵員を有する第18師団と第二艦隊を率いる、「神尾光臣中将(後に大将)」のことで、これに対するドイツ軍兵力は約4,300名でした。

日本陸軍はドイツの青島要塞攻略にあたり、白兵戦で多数の死者を出すという大出血を強いられた日露戦争の旅順攻囲戦を教訓にして、砲撃戦による敵の圧倒を作戦の要としました。このため、最新鋭の攻城砲四五式二十四糎榴弾砲をはじめ、三八式十五糎榴弾砲、三八式十糎加農砲など、多数の重火器を導入して、ドイツ軍要塞を砲撃しました。

この結果、青島要塞は無力化され、その砲台は日本陸軍の砲撃により、ほとんど破壊され尽くされました。11月6日、青島要塞総督ワルデック少将は、タウベに秘密文書の輸送を託し、タウベと2人の飛行士を出発させ、タウベは脱出に成功しました。そして、その翌日7日、ドイツ軍は白旗を掲げ、ドイツ側軍使による降伏状が日本側に手渡されました。

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こうして、両軍は青島開城規約書に調印し、青島要塞は陥落しました。その結果、ドイツ軍兵士約4700人が日本側の捕虜となりました。これに先立つ1904~1905年(明治37~38年)の日露戦争の際、日本は大量に生じたロシア人捕虜に関する規定を定めていました。

日露戦争当時のロシア人捕虜の扱いは極めて人道的なものであったといわれており、これは1899年のハーグ陸戦条約の捕虜規定が適用された最初の例であり、このときの捕虜及び傷者の扱いは、赤十字国際委員会も認める、優良なものでした。

ただ、日露戦争では大量の捕虜が出たため、日本は当初その扱いでかなり手間取りました。この経験により、青島の件ではドイツ側降伏後すぐに東京で政府により対策委員会が設置され、当時の陸軍省内部に、保護供与国と赤十字との関係交渉を担当する“俘虜情報局”が開設されました。

保護供与国とはドイツと国交のある国がドイツ兵士が捕虜になった場合にその援助をするという協定で、この当時はアメリカがそれでした。

ただ、今回の青島では、ドイツ側の降伏は予想以上に早いものであり、このため想定以上の人数を収容する必要が生じ、当初は捕虜受け入れの態勢が不十分で、捕虜たちは仮設収容所に収められることになりました。

捕虜たちは貨物船で同年の11月中に日本に輸送され、北海道を除く全国各地の都市に点在する収容所に振り分けられました。が、劣悪な環境が多く、食料供給も乏しく略奪や逃亡者も発生。将校クラスの者たちも特別待遇を受けることはありませんでした。しかし、新しい俘虜収容所の準備が整い次第、彼らは段階的に仮設収容所から輸送されていきました。

多くのドイツ軍捕虜は日本各地に設けられた14箇所の捕虜収容所に収容されました。俘虜収容所は全国各地につくられましたが、それらは最終的に6つに統合され、これは、似島俘虜収容所(広島)・久留米俘虜収容所(福岡)・板東俘虜収容所(徳島)・青野原俘虜収容所(兵庫)・名古屋俘虜収容所(愛知)・習志野俘虜収容所(千葉)でした。

中でも板東は似島はとともに最終的に整備された俘虜収容所であるため比較的整備が行き届き、1919年(大正8年)のヴェルサイユ条約締結まで長期にわたって運用されました。

ただ、この日独戦争終結後の1915年以降は、捕虜の脱走未遂発生のため戦争俘虜に関する規定が厳格化されており、現行の戦時国際法に反し、日本は脱走者に規則上のみならず刑法上でも処罰を課す方針をとりました。

このため、再捕捉された捕虜が有罪判決を受けることもあり、脱走計画の黙認、幇助も処罰の対象だったため、戦争捕虜を収容所する収容所の職員たちもまた日露戦争のときよりも管理体制を厳しくするようになっていました。

とはいえ、多くの虜収容所は捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行ったとされており、とくに1917年に建設されたこの板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後20年余りの日独関係の友好化に寄与しました。

板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流は、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野にわたっており、その後の両国の友好関係の発展を促したとも評価されています。

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青島で日本軍の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、約1000名がこの坂東に送られ、1917年から1920年まで、約2年10か月間ここで過ごしました。最初の年の1917年には丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から900人あまりが送られ、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、最終的に約1000名の捕虜が収容されました。

捕虜の収容に先立つ、1916年3月には保護供与国であるアメリカの駐日大使は同国の外交官サムナー・ウェルズを派遣し、捕虜らの処遇の調査目的で日本各地の収容所の視察を実施させました。

その争点は主に給食、医療処置であり、ほかに散歩の不足などにも及びましたが、状況は収容所によって様々でした。彼は詳細な報告書を作成し、それを元にアメリカ大使が東京であらゆる問題点に関して検討を重ね、日本側の代表に改善点を通達しました。

これにより、同年12月に行った二度目の収容所視察ツアーで、ほぼ全ての収容所に関して環境が改善したことを確認され、捕虜たちから未だ不満の声はあるものの、日本側も環境改善に尽力したという結論が出されました。

上述のとおり、陸軍省は、ハーグ陸戦条約の捕虜規定にもとづく捕虜に対する人道的な扱いを定めていましたが、一方では地域の駐屯軍の下にいる収容所の指揮官にその処遇の最終的なあり方をゆだねていました。このため、収容する側の日本人の印象とドイツ人捕虜内の待遇の感じ方は場所によって様々に異なっていたようです。

ただ、一次大戦当時の日本以外の他国の捕虜の扱いと比較しても、日本は収容総数がそれ程多くなかったこともあり、総じて日本側の待遇は十分耐えうるものであったとされていたようで、後述するように、その後保護供与国である他国の関係機関の指導などによりさらに環境の改善もなされていきました。

板東俘虜収容所の収容所長は「松江豊寿」陸軍中佐という人で、1917年以後は大佐に昇格しました。現在の会津若松市出身で、元会津藩士だった警察官の父のもとに生まれ、16歳の時に仙台陸軍地方幼年学校入学後は、陸軍一筋に働き、日清・日露戦争にも従軍したのち、1914年(大正3年)に陸軍歩兵中佐となりました。

板東俘虜収容所において、松江はドイツ人の俘虜達に人道に基づいた待遇で彼らに接し、可能な限り自由な様々な活動を許しましたが、その背景には彼が会津出身であり、かつて幕末には賊軍としての悲哀を味わった会津藩士の子弟として生まれたという体験が、こうした良心的な対応に影響したといわれています。

ただ、板東俘虜収容所の宿舎は必ずしも新築ばかりではなく、もともとあった学校や寺院、労働者寮、災害用の質素な住居、元兵舎などで構成されていました。このため、トイレの不足や害虫・ネズミの発生、日本人向け住居ゆえの窮屈さ、寒さなどが問題点として報告されました。が、将校は単独で別個の家に収容され、一般兵より好待遇を受けていました。

また、この紛争当時、民間人として日本に滞在するドイツ人が少なからずおり、彼等は敵国人であるため経済活動は禁じられていたものの、生活の自由は保障されていました。このため、彼らは捕虜となったここのドイツ人兵士らのために援助委員会を組織し、これを介しての物品、金銭援助を行い、本や楽器のための寄付活動も組織しました。

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さらに、捕虜たちに階級差はあるものの、日本兵と同様に給料を受領しており、収容所周辺地での労働による収入もありました。1917年までドイツ政府は将校に月給とクリスマスボーナスも支給しており、これらの金はドイツにいる親類、以前の勤務先などからの振込みなどによって日本に届けられたため、金の調達には不自由しませんでした。

収容所内には日本人が経営する売店まで現れ、彼らは自由に買い物ができました。また収容所を出入りする商人からも同様に買い物ができ、アルコール類も生活必需品と同様に入手可能であり、レストランも完備されていました。捕虜の中には建築の知識を生かして小さな橋を作るものもおり、この「ドイツ橋」は、今でも現地に保存されています。

ただ、手紙や小包は没収、破棄されることもありました。郵便物の発着送は検閲官の管理下にあり、手続きは大変煩雑であったこともあり、発送を許可されたものはわずかで、規則を順守する形で送られるか、もしくは郵送手段が全て禁止されていました。また、使用言語が日本語・ドイツ語以外のもの(ハンガリー語など)は郵送は認められませんでした。

さらには、医学的処置は不十分だったようです。病気や怪我などの身体的苦痛と並んで、多くの入院患者は無為な日々と、閉所恐怖症によって引き起こされた精神障害に悩まされたといい、これは俗にいう“有刺鉄線病”であったといわれています。また、1918年の秋には世界中でスペイン風邪が猛威をふるい、収容所内でも多くの感染者が出ました。

しかし、松江はそんな閉塞空間に暮らす捕虜らを勇気づけるために、自主活動を奨励しました。

このため、板東俘虜収容所内には、多数の運動施設、酪農場を含む農園が造られ、農園では野菜が栽培され、ウイスキー蒸留生成工場までも造られました。また捕虜の多くが志願兵となった元民間人であったため、彼らの中には家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋などがいました。

彼らは自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、文化活動も盛んでヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露しました。中でも同収容所内のオーケストラは高い評価を受け、この中でこれまで述べてきた、ベートーヴェンの交響曲第9番も演奏されたわけです。

音楽に通じた捕虜の何人かは、収容所内外で地元民へ西洋楽器のレッスンを行いましたが、収容所外では徳島市の立木写真館(写真家立木義浩の実家で、NHK朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」のモデル)で開催されました。

さらには、演劇団、人形劇団、オーケストラ、スポーツチームなども結成され、その技術を生かして様々な自治活動を行いました。菜園管理だけでなく、動物の飼育までも行われ、厨房(酒保)やベーカリーを経営する者もあらわれました。

また、捕虜らに向けた授業や講演会が多数行われ、東アジア文化コースと題して日本語や中国語の授業も行われ、収容所内に設けられた印刷所では、“Die Baracke”(ディ・バラッケ、「兵営」や「兵舎」の意味)と呼ばれる新聞が印刷されて刊行され、語学教科書やガイドブック、実用書なども発行されました。

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こうした活動は、板東俘虜収容所だけでなく、全国各地の他の収容所内や外部施設でも同様であり、収容所の外で、俘虜作品展覧会も頻繁に行われました。一部の収容所では、捕虜の持つ技能を日本に移植することを目的に、捕虜を日本人の経営する事業所に派遣して指導をおこなわせるところまでありました。

とくに、名古屋俘虜収容所の捕虜の指導で製パン技術を学んだ半田の敷島製粉所は、これをもとに敷島製パンへと発展することとなりました。1920年に敷島製粉所から敷島製パンが発足する際、元捕虜のハインリヒ・フロインドリーブを技師長として招聘しており、また、現在も鳴門市内にパン店「ドイツ軒」が営業しています。

こうして、あしかけ3年にも及ぶドイツ兵の収容所生活は大きな問題もなく続いていきましたが、1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで、第一次世界大戦における連合国とドイツの間で講和条約締結されました。

この条約の締結により長きに渡って収容されていたドイツ兵たちは解放されるところとなり、1919年12月末より翌20年1月末にかけて、捕虜の本国送還が行われました。

しかし、この解放後も、全国で約170人が日本に残りました。彼等は収容所で培った技術で生計をたて、肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営むようになり、これらの中には上述の敷島パンの例のほか、現在もよく知られている、神戸市の製菓会社、ユーハイムがあります。

これを設立したカール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイムは、広島の似島俘虜収容所のほうに収容されていましたが、その話は、今年3月に掲載した「原爆ドーム」に詳しいので、こちらも参照してみてください。

このほか、栃木県那須塩原市に本社を置く「ローマイヤ」は、元捕虜のアウグスト・ローマイヤーがハムやソーセージなどの製造・販売を中心とする食品会社として設立したもので、また、上述の通り、「フロインドリーブ」はハインリヒ・フロインドリーブが敷島製パン初代技師長を経て神戸市に設立したパン屋です。

敷島製パン初代技師長に就任したのち日本人と結婚し、同社を退職後、大阪のなだ万での勤務を経て、神戸でパン屋を開店して事業を拡大させました。1940年頃には神戸市内にパン屋、洋菓子店、レストランなどおよそ10の店舗を展開させるに至りましたが、第二次世界大戦期の神戸大空襲により店舗を失いました。

1977年(昭和52年)から1978年にかけて放送されたNHK朝の連続テレビ小説「風見鶏」のモデルとして知られ、フロインドリーブ役を蟇目良(ひきめりょう)さんが、妻役を新井春美さんがやったのを覚えている人も多いでしょう。

このように1919年に解放された後も日本に留まった元ドイツ人捕虜は多数にのぼりますが、このほか約150人は青島や他の中国の都市に、そして約230人はインドネシア(オランダ領東インド)に移住しました。一方本国ドイツに帰国した者たちは、荒廃し貧困にあえぐ戦後の状況の中、“青島から帰還した英雄”と歓迎されました。

収容所の中で“極東文化”に興味を持った者が後にドイツで日本学者、中国学者となる事例もあり、日本語や中国語の教科書が出版されドイツで普及するなど、収容所の影響は学問分野にもみられます。

しかし、一方の日本では、ある意味優れた技能職人であると当時に友人でもあった彼等を失うことになりました。ヴェルサイユ条約批准日であった、1920年1月10日には、彼らが住んでいた収容所を失った板東町内がまるで葬式のような雰囲気になったといいます。

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それほどまでにこの街の人々に愛された板東俘虜収容所であっただけに、その後も施設は大切に扱われ、現在もその跡地のうち、東側の約1/3は現在「ドイツ村公園」となっており、当時の収容所の基礎(煉瓦製)や給水塔跡、敷地内にあった二つの池や所内で死去した俘虜の慰霊碑が残されているそうです。

また、近傍には元俘虜たちから寄贈された資料を中心に展示した「鳴門市ドイツ館」があり、当時の板東俘虜収容所での捕虜の生活や地元の人々との交流の様子を知ることができるといいます。

8棟あった兵舎(バラッケ)の建物のうち大半は解体され、民間に払い下げられ、倉庫や牛舎として再利用されていましたが、その後発見され、現在までに同様に再利用された建物は8カ所にのぼることが確認されています。また最初に再発見された2つのバラッケ(安藝家バラッケ・柿本家バラッケ)は2004年に国の登録有形文化財に登録されています。

このうち柿本家バラッケは2006年にドイツ館南側の「道の駅第九の里」に解体・移築され、店舗施設「物産館」として利用されているそうです。

この板東俘虜収容所エピソードは「バルトの楽園」として、松平健さんを主演に2006年映画化されました。「バルト」とはドイツ語で「ひげ」の意味で、板東収容所の所長だった松江豊寿やドイツ人捕虜の生やしていたひげをイメージしているようです。

そのロケセットはドイツ村公園とは別の、鳴門市大麻町桧に建設された「阿波大正浪漫 バルトの庭」に移され、同園は2010年4月25日にオープンしており、この敷地内にも現存する実際のバラッケ1棟が移築・公開されています。

鳴門といえば、鳴門海峡の渦潮が有名ですが、大鳴門橋を跨ぎ、淡路島を通ると神戸・大阪はすぐそこであり、逆に京阪神からは四国の玄関口となっています。「阿波大正浪漫 バルトの庭」のある大麻地区には四国八十八箇所霊場の1番札所である霊山寺もあり、季節を問わず、白衣を着た遍路の姿が絶えないそうで、このように鳴門は四国周遊の入口としても有名です。

が、私としては、そんな大旅行をしなくても、鳴門のうず巻きが語源となった、「ナルト」の乗ったおいしいラーメンが食べれれば今は満足です。今年の大みそかは、第九を聞きながら、年越しそばの代わりにラーメンを食し、新しい年を迎える、というのも良いかもしれません。

今年もあとひと月。さて、どんな師走になるでしょうか。

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