新党立ち上げ?

2014-1寒い夜が続くと、酒が恋しくなります。

飲みすぎは禁物なのですが、この時期になるとやはり忘年会だのクリスマスだのが続き、酒を飲む機会が増えてきます。

今のように誰でも自由に酒が買えて飲める、というのは私のような酒好きにとってはたまらなく良い時代なわけですが、その昔、アメリカにはなぜか、「禁酒法」なるものが施行されていた時代がありました。

この禁酒法が制定された背景には、19世紀末から20世紀前半にかけては欧米諸国で社会改善運動や道徳立て直し運動が起こると同時に「禁酒運動」も盛り上がりを見せたことが背景にあります。

禁酒運動の動機は運動により様々であり、政治的理由や宗教的理由などが考えられますが、政治的理由としてはアルコールによる健康への害を減らそうというものや、人心や家庭や社会の荒廃を防ごうとするもの、家庭や社会の無駄な出費を減らそうというものなどがあり、一方ではキリスト教やイスラム教など宗教上の信念に基づくものなどがあります。

ヨーロッパでは1829年にアイルランドで禁酒運動団体が発足し、1830年代にはスカンジナビア諸国、スコットランド、イングランドでも団体が発足しました。また、英国では1835年に「全国絶対禁酒教会」が発足、プロテスタント教会が集会を開き、アルコールの代替として紅茶が奨励され、紅茶が広まる、といったこともありました。

さらに19世紀後半には、スイスやドイツ、フランス、ロシアなどでもキリスト教の教職者らによる禁酒団体が成立するなど、禁酒運動はそれなりの広がりを見せましたが、アメリカのように「禁酒法」にまで踏み込んだ国はありませんでした。

しかし、なぜかアメリカでは、この禁酒運動が異様な高まりを見せ、これによる相当な圧力の下で、禁酒法が成立し、これが制定された1920年から1933年までの間は、消費のためのアルコールの製造、販売、輸送が全面的に禁止されました。

この期間は、法律制定から失効まで、正確には13年10ヶ月19日7時間32分30秒間にも及んだとされ、「高貴な実験(The Noble Experiment)」とも揶揄された悪法でした。

ただ、アメリカでこの法律が施行される前には、既にいくつかの州議会では州としての禁酒法を既に立法化していました。

このうち、1881年に州憲法でアルコール飲料を禁止した最初の州であるカンザス州では、激烈な禁酒主義活動家、キャリー・ネイションという人物がバーに乱入し、客を叱って、酒のボトルを手斧でたたき割るという事件も起き、このことはアメリカ全土にセンセーションを起こしました。

この事件以前、彼女はチャールズ・グロイド博士という人物と出会い、結婚していました。ところが、このグロイドは疑いようもなく重度のアルコール中毒者であったため、敬虔なクリスチャンであった彼女はこれを理由に離婚しました。グロイドはそれから一年も経たないうちに亡くなったといいます。

彼女は後年、自分が酒との戦いに情熱を傾けるようになったのは、この失敗に終わった第一の結婚を原因だとしており、その反動もあってか、その後は熱烈な禁酒活動家になっていきました。

彼女の禁酒主義活動のやり方は、初めは単なる抗議程度でしたが、だんだんとエスカレートしてゆき、街中の飲み屋見入っていき、そこのバーテンダーに「お早うさん、魂の壊し屋さん」といった、当てつけがましい嫌みを込めた挨拶をするようになりました。

次いで、酒場の常連客に向かって手回しオルガンで賛美歌を奏でるようになっていきましたが、さらには、「天啓に従って行う行為」と称して、石塊を集めてカイオワ郡のある酒場へ赴きました。彼女はこれを「粉砕用具」と呼び、「飲んだくれの末路から皆さんを救うために参りました」と宣言し、石塊を取り出すとこの酒場にあった酒瓶に投げつけました。

こうしてこの酒場の在庫のすべてを破壊しつくし、さらに同様の方法で、彼女の住まうカイオワ郡の酒場二つを完全破壊しました。当然、器物損壊罪に問われることであり、有罪行為であるため、そのたびにシェリフが呼ばれ、彼女は逮捕されました。

が、この過激なオバハン、キャリーはその後もカイオワ郡だけでなく、カンザス州中で破壊活動を続け、そのたびに逮捕され続けた結果、こうした蛮行が実は大好きなアメリカ人の間では評判となり、逮捕記録の伸びと共にその「名声」もうなぎ上りに高まっていきました。

彼女はこうした破壊行為を大っぴらに行うようになる少し前に、デイヴィッド・A・ネイション博士という、弁護士で牧師の男と再婚していました。

ある日、カイオワでのある酒場での襲撃の後この夫が、次回は最大限の損害を与えるためにまさかりを使ってみてはどうか、と冗談を言ったところ、キャリーは「結婚以来で一番まともな助言だわ」と真顔で応えました。

上述のように、バーに乱入し、酒のボトルを手斧でたたき割るという蛮行を実行し、新聞に取り上げられて全米で話題になったのはこれからすぐのことでした。

キャリー・ネイションは大柄な女性で、身長は6フィート(180cm)近く、体重は175ポンド(80kg)近くあったといい、彼女は自らを「キリストの足元を走り、彼が好まないものに対して吠え掛かるブルドッグ」だと述べ、バーの破壊による禁酒主義の推進を「神聖なる儀式」であるとまで主張していました。

さらにキャリーは婦人を集めて「キャリー・ネイション禁酒法グループ」を組織し、他の活動家もバーに入って、歌い、祈り、マスターにアルコールを販売することを停止するよう訴えました。こうして、彼女の「活躍」は徐々に効を奏し、アメリカでは南部の州を中心とした各州および個々の郡で禁酒法が制定されるようになっていきました。

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禁酒法に与するこうした勢力は、その後1840年代から1930年代への州における地方政治の重要な勢力となっていきました。彼等の活動は民俗宗教的な性格も持っており、こうしたローカルな主教を生活の一部のようにして暮らしていた民衆の多くがやがてこの活動に加わるようになっていきました。

とくに茶商や炭酸飲料メーカーといった、アルコールに敵対する製品を販売していた業者にとっては、禁酒運動は彼等自身の販売品の売上高を増加につなげてくれる活動であり、このため、積極的に禁酒法に賛同しました。

この当時、禁酒法は「ドライ(Dry)」と呼ばれる、敬虔なプロテスタントの宗派によって支持されており、これは、飲酒に対して「ドライ」(冷ややか)な態度を示す人々、という意味であり、一方、禁酒法に反対する一部のプロテスタント宗派の人々は「ウェット」と呼ばれました。

彼等の活動はやがて政治にも影響を及ぼすほどになり、アメリカ議会においても、民主党・共和党両党共に「ドライ」・「ウェット」両派閥ができるまでになりました。1917年に前年行われた大統領選挙後に召集された議会では、「ドライ」は民主党で140:64、共和党で138:62とそれぞれ「ウェット」より多かったといい、ドライ派はそこまで勢力を伸ばしました。

このころ、アメリカにおける大手ビール製造会社のほとんどがドイツ系(アンハイザー・ブッシュ、クアーズ、ミラー、それにシュリッツなど)だったせいもあり、こうした禁酒活動の活発化により、「ビール=ドイツ=悪」と言う単純かつ悪意の満ちたイメージがまかり通るようになっていました。

このため、その後第一次世界大戦が勃発し、アメリカが帝政ドイツに宣戦布告すると、反禁酒法の主要勢力であるドイツ系アメリカ人は多くの地域で発言力を失い、抗議活動も無視されました。

また、アルコール業界内でもビール業界がウィスキーを諸悪の根源だと決め付け規制から逃れようとするなど内部での足の引っ張り合いが横行しており、「アルコール業界」として統一した動きが取れなくなるなどの要素があり、これが禁酒派を大いに勢いづかせる原因ともなっていきました。

こうして、1917年2月に米国全土で禁酒法を達成するための憲法修正決議が議会に提出され両院を通過しました。2年後の1919年にこの修正決議は48の州の内36州で批准され、同年10月には「酔いをもたらす飲料」が定義され、0.5%以上アルコールを含有しているものが規制対象となりました。

そして、1920年1月16日に修正第18条が施行され、禁酒法時代が始まり、こうして映画、「アンタッチャブル」で有名な、エリオット・ネスら合計1,520名の連邦禁酒法捜査官が飲酒を取り締まる任務に就くようになりました。

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当時アルコールは治療目的のために医師によって広く処方されていて、禁酒法の問題は医療従事者の間で論争の一つとなったため、議会は1921年にビールの薬としての効能についての公聴会を開きました。米国中の医師が禁酒法撤廃を求めてロビー活動を行ったりもしましたが、禁酒法は撤廃されることもなく、逆に薬用酒にも適用されるまでになりました。

また、禁酒法が施行されたため、アルコールの製造、販売と輸送は基本的には違法となりました。ところが、ニューヨークを例に取っても1万5千にすぎなかった酒場が、禁酒法以降は多数のもぐり酒場を生む事になって3万2千にと倍増し、これらの酒場で飲まれた酒の量も禁酒法以前の10パーセントも増加しました。

また、飲酒運転の摘発数も増え、禁酒法施行後の1年間に較べ、1927年には467パーセントもの増加をみるなど、禁酒法の導入によっていわば、社会反動ともいえる「酒ブーム」が起こりました。

ただし、禁酒法では1年につき最高200ガロン(750リットル)の「酔わない程度の」ワインとリンゴ酒が国内の果物で作ることが許可され、自身の家庭で使用するブドウを栽培するブドウ園作りは許されていました。

また、禁酒法は実はアルコールの摂取そのものは禁止しておらず、アルコールの販売だけが違法となる法律だったため、家庭でこっそり酒を飲むのは違法ではありませんでした。

それにしても販売されていない酒をどうやって入手したかですが、これは法律が施行される少し前に、多くの人が今後の飲用のためにワインと酒を買い溜めしていたためであり、いわゆる闇の酒というのはアメリカ中どこにでも存在していました。

さらに、当然この法律はアメリカ国外では何の影響も持たず、多くのアメリカ人がアルコール飲料を飲むために国境を越えるようになったため、カナダ、メキシコ、それにカリブ海などの近隣諸国の蒸留所と醸造所は大いに栄えたといいます。

そして、後年、「狂騒の20年代」として知られるようになる1920年代に入ると、酒はこれらの国から米国にますます不法に輸入されるようになり、特にシカゴのように、禁酒法をごまかす者のための避難所として有名になった地域もありました。

このシカゴにおいては、1920年までのマフィアの主な活動はギャンブルと窃盗に限られていましたが、禁酒法時代に入ってからは無許可で酒を製造販売することが大きな収入源となり、彼等を大いに繁栄させました。

アルコールのブラック・マーケットはマフィアの重要な資金源となり、彼等のギャンブルの実施などの活動資金ともなりましたが、もともとはヤクザ者であるだけにそのエネルギーを金儲けだけに使うだけでなく、他の組織との抗争にも使うようになり、このため暴力沙汰も頻繁に起こるようになっていきました。

強大なギャングは法執行機関にも取り入って彼等に賄賂を手渡して腐敗させ、最終的には恐喝するまでして、自分たちの商売を邪魔させないようにしました。

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こうしてギャングたちは酒の密輸でますます利益を上げ、と同時に、禁酒法により酒に飢えた人々の需要に答えるべく、さらに強い酒を密輸したため、とくにウィスキーなどの高濃度の酒の人気は高く、その価格は急騰しました。

アル・カポネとその敵対者バグズ・モランなどのシカゴにおいても、最も悪名高いギャングの多くは、こうした違法なアルコールの売り上げを通して何百万ドルもの大金を稼いだといわれており、その過程で他の組織を潰す必要から殺人を含む犯罪の多くが行われ、シカゴの町は荒廃していきました。

このギャング間の抗争はかなり激しいものであり、一説によるとギャングの平均寿命が禁酒法施行前は55歳だったものが、施行後には38歳にまで下がったといいます。またFBIの禁酒局捜査官もギャングとの銃撃戦で500名もの殉職者を生んでおり、この当時ギャングだけでなく市民も含めておよそ二千人以上もの人が死亡したと言われています。

しかし、市民の犠牲者が増えるようになると、さすがにこうしたマフィアをのさばらす原因にもなっている禁酒法に対する反感が広まるようになり、シカゴだけでなくその他の大都市でも次第に禁酒法の撤廃を望む意見が出るようになっていきました。

そして、1932年の大統領選挙では禁酒法が中心的争点となり、失業対策と農家救済が叫ばれる中、フランクリン・ルーズベルトがこれに加えて禁酒法の改正を訴えて勝利しました。

大統領となったルーズベルトは1933年に禁酒法の修正案に署名し、これによって重量にして3.2%、容積にして4%のアルコールを含むビールと軽いワインの製造・販売が許可されるようになりました。修正案に署名をしたルーズベルトは「これで私もビールを飲むという楽しい時間を持つことができるようになった」とひそかに語ったといいます。

さらに、禁酒法に関連していた憲法の条項自体も、世論の高まりにより1933年12月に廃止されることになり、これにより多くの州がこの憲法修正の批准に応じたため、この憲法改正に賛同した州では、禁酒法も違憲状態となってその役目を終えることになりました。

しかし、モルモン教徒の多いユタ州などでは、熱烈な禁酒主義者が多く、この処置への反発も高いままでした。しかし、そのユタ州議会がこの憲法修正に批准し、ユタ州が改憲を成立させた36番目の州になると、その他の禁酒に強硬な州でもこれに順応するようになりました。

ユタ州と同様に禁酒主義活動家の多かったペンシルベニア州やオハイオ州でも憲法修正案が批准され、ほとんどの州で禁酒法が撤廃されていきましたが、しかし、この憲法修正条項では、州にアルコールの輸送を制限するか、「禁止する権利を委ねる」と明記されただけであったため、憲法改定に賛同した後も禁酒法を実施し続ける州もありました。

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とくに1907年に禁酒法を作ったミシシッピ州は、その後も1966年まで禁酒法を廃止せず、最後まで禁酒法が残る州となり、さらにカンザス州では1987年まで、バーの様な屋内の中で酒類を提供することを許可せず、今日でも酒の販売を制限したり禁止する「ドライ」な郡や町が多数残っているといいます。

禁酒法が導入される前には、アルコールの税金で毎年5億ドルの税収があったといい、禁酒法は政府財源に悪影響を及ぼしました。しかし、これが廃止されたことで、再び政府は大きな財源を得ることができるようになり、しかも、マフィアの撲滅に向けての動きが加速されるかのように見えました。

実際、安価なアルコールとの販売競争に敗れ、多くの州で闇市場でのアルコールの売り上げを失った結果、一時はマフィアも鳴りをひそめ、街中での抗争も減った時期もあったようです。

しかし、禁酒法時代に大きな財力を蓄えたマフィアたちはその後も暗躍を続け、アルコール販売に代わって、賭博業、売春業、麻薬取引、などで大きな収入を得るようになり、その後1930年代には労働組合などを食い物にしてさらなる繁栄を続けていきました。

これら、マフィアの歴史については、先月掲載したブログ、「イタリア発アメリカ」に詳しいので、こちらものぞいてみてください。

このように禁酒法の存在はマフィアという勢力を大きく育てましたが、その撤廃によっても彼等の消滅は実現しませんでした。また、禁酒法は、その施行により民間の企業に大きな影響を与えましたが、とくに大きな影響を受けたのは、誰あろう、アルコール醸造業界でした。

長期にわたって、アルコールの販売が禁止された結果、廃業に追い込まれた業者も少なくありませんでしたが、なによりも長期にわたって蔵元が閉鎖されたため、禁酒法の撤廃後もウィスキー造りなどでは酒造りに必要なピートの調達が間に合わず、ブレンド用の酒が不足するなどの影響が出ました。

しかし、禁酒法が廃止された後、かつて存在していた醸造所の半分だけは営業を再開することができ、以後は現在でも米国で主流となっている新たなブランドのビールなども作られるようになりました。

バドワイザーやクアーズなどに見られるようなアメリカンラガースタイルのビールがそれであり、ほかにもバーボンやウィスキーなどの新ブランドが次々と新しく生産されるようになっていきました。

しかし、ビールやウィスキーはともかく、禁酒法以前に未熟ながらも育ちつつあったワイン産業はほとんど壊滅状態になっていました。禁酒法の導入により生産性の高いワイン品質のブドウの木は、家庭醸造用販売のための輸送に適した実の皮の厚い低級品質の品種と取り替えられたためであり、大事な種木の多くが失われる結果になっていたのです。

また、禁酒法時代の間に醸造者は他国に移住したり廃業してしまったため、業界の知識の多くも失われました。いわゆる「ロストテクノロジー」というヤツで、日本でも仏教の影響により、平安時代以前にはあった乳飲料を飲用する習慣がなくなり、このためバターやチーズといったものの製法が絶えるということがあったのと同じです。

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ただ、上述のとおり、禁酒法時代においても、「酔わない程度の」ワインの製造が許可されていたため、とくにカリフォルニアでは、ワインの醸造を細々と続けた結果、その伝統が残った醸造元がありました。

とくにカリフォルニア州の北部は、現在でも極上ワインの生産地として知られる地域ですが、この当時から「ワインカントリー」して知られ、品質の良いぶどう栽培を生み出す農場とワイン醸造所が多数あります。

ワイン用ぶどうは、こうした標高の高いで栽培されるのが常ですが、この地域の生態系や地質はとくにワイン造りには向いているといわれ、その環境がこの高品質を作っているゆえんです。

メキシコの植民地となった19世紀半ば以降、ヨーロッパ人開拓者がこのワインカントリーの地に積極的な形で農業を持ち込み、その中にあったのが、ここでのぶどうの栽培とワイン作りでした。

禁酒法時代にはその醸造元の数は著しく落ち込みましたが、この間にも細々と醸造を続けていた人々の努力により解禁後は復活しました。

現在、サンフランシスコより北のこのワインカントリーには現在400以上のワイン醸造所があり、その大半はナパ郡のナパ・バレーやソノマ郡のソノマ・バレー、アレクサンダー・バレー、ドライクリーク・バレーおよびルシアンリバー・バレーなどバレーと呼ばれる地域に位置しています。

観光客が大勢集まる観光地であり、これらの醸造所ではワインの試飲だけでなく、ハイキング、自転車乗り、熱気球および歴史史跡探求のためにこの地域を訪れる人も多く、また良いワイン造りができることから、アメリカ中から料理人が集まるところとなり、このため様々な料理も楽しめるといいます。

多くの著名なシェフがここでレストラン経営しており、こうした魅力の他にも温泉浴、化石化した樹木といった、この地ならではの自然の資源も豊富にあり、大変美しいところだということです。私もサンフランシスコには行ったことがあるのですが、この地まで足を延ばすことはなかったので、いつかは行ってみたいものです。

さて、選挙も近づいています。

この禁酒法が施行される以前の1869年、アメリカでは政党として禁酒党(Prohibition Party)なるものが結成され、大統領選挙では当選の見込みがないにもかかわらず度々20万票台を集めたといいます。

今度の選挙では野党はからっきし元気がなく、自民党有利というのがもっぱらの下馬評のようです。ならば、年末でもあることから、酒を飲む機会も多いことでもあり、「飲酒促進党」というのを創って立候補者をたくさん出すというのはどうでしょう。

民主党に対抗して、「認酒党」というのもいいかもしれません。

そして、今年忘年会に参加する人は必ずこの党に投票する、というきまりを作って、みんなでここからの立候補者に投票すれば、もしかしたら、一党独裁政治を打破できるかもしれません。

私が立候補したいところですが、今のところ忙しくてそれどころではありません。どなたか、いまからでもいいから創ってくれませんでしょうか。

今晩何の酒を飲もうかと考えているあなた、いかがでしょうか。

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