羊・ひつじ・ヒツジ・・・

2014-7878

あけましておめでとうございます。

正月3ヶ日も今日で終わりです。明日は日曜日で、翌日の5日からはもう出勤という人も多いでしょう。いよいよ新しい年の始動、といった感じですが、みなさんの今年一年の出足はいかがでしょうか。

未(ひつじ)年です。

が、最近、羊をみたことがあるか、と聞かれるとあまりはっきりした記憶がありません。最近は、動物園でも行かない限りはほとんど見ることのなくなってしまった動物のひとつです。しかしそれにしても、ヤギと何が違うのだろう、と疑問に思ったので調べてみました。

すると、ヤギとヒツジは、同じウシ科の動物であり、生物学的にはほぼ兄弟のような関係のようです。その分類をみると、以下のようになります。

ウシ科→ウシ亜科→ヤギ亜科→ヤギ亜族→ この下のヤギ属に属するのがヤギであり、同じくヒツジ属に属するのがヒツジ、ということになります。

古代より家畜として人間の側に留め置かれることの多かった両者ですが、ヤギの乳質はウシに近く、乳量はヒツジよりも多いため、その進化の過程において主に酪農用途としての改良が加えられたようです。しかし、ヤギは貧相な体格であり、ウシや馬のように農耕そのものには役に立ちませんでした。

この点、ウシは農耕用途だけでなく、乳牛としても使え、しかも食用に適すると言った万能家畜であるため、現在では最も重用される家畜となっています。一方のヒツジもまた、農耕には適しませんが、肉や毛皮がヤギよりも良質であったため、現在でも重要な家畜として生き残っています。

この点、近年では、逆に駆逐される運命にあるヤギとはエラい違いです。ヤギとヒツジの違いとして、ヒツジは草だけを食べるのに対し、ヤギは木の芽や皮も食べるなど、幅広い採食特性を持っています。植物が豊富でない場所でも育てることができ、このため日本でも、明治以降数多くのヤギが飼われ、「貧農の乳牛」とも呼ばれた時代がありました。

が、牛や豚が登場すると、本土からは追い出され、南西諸島、小笠原諸島などの周辺の島だけで生き残りました。これらの島々では特に無人島などで数が増えすぎ、この結果、植生破壊や農業被害及び土壌流失による周辺漁場への悪影響等の問題が起こっており、他にも数ある外来種による生態系破壊の中でも最も深刻なケースの一つとなっています。

このため当初は、動物愛護の観点から捕殺ではなく、ヤギを生け捕りにして、ヤギを食べる習慣のある沖縄へ送っていました。が、長旅のストレスにより多くのヤギが死亡することも多かったため、現在では生け捕り後安楽殺(薬殺)という手段に変更しているところが多いようです。

ただし、ヤギはヒツジ同様に宗教上ウシやブタを利用しない文化においても、重要な家畜です。このため日本以外では、現在でも多くの品種のヤギが飼育されています。とはいえ、日本においては、ヒツジと比べるとやっかいものになっている、というのが現状のようです。

一方のヒツジは、ウールを取るためだけでなく、羊毛や肉(ラム、マトン)を目的として世界中で広く飼育され、現在では、全世界で10億頭を超えるといわれています。地球温暖化にも大きく「寄与」しているといわれ、これはヒツジの「げっぷ」に含まれるメタン(CH4)は地球温暖化ガスの一種で、その影響力は二酸化炭素に次いで強いためです。

世界で最もヒツジを多く飼育しているのは、オーストラリアやニュージーランドというイメージがありますが、実は一位は中国で、1億3000万頭以上に上り、2位はインド次いで飼育頭数が多いのがオーストラリアです。

オーストラリアは、かつては長らく世界最大のヒツジ生産国であり、1992年には1億4800万頭以上のヒツジが飼育されていましたが、飼育頭数は急激に減少しており、1996年には中国に抜かれて第2位となりました。

2010年にはインドにも抜かれて3位となりましたが、1992年の半分以下にまで減少しており、現在の飼育頭数は約6800万頭と、中国の半分にすぎません。

ニュージーランドもまた古くからのヒツジの大生産国であり、1834年にヒツジが本格導入されてからすぐに羊毛の大輸出国となりました。が、今は中国やインドに抜かれて現在6位の地位に落ちました。ニュージーランドでは現在でも羊毛専用種の多いオーストラリアとは違い、羊肉・羊毛兼用種が主に飼育されています。

なお、日本のヒツジ飼育頭数は2010年に1万2000頭であり、世界では第158位にすぎません。都道府県別では北海道での飼育数が飛び抜けて多く、他は秋田県、岩手県、福島県などの東北地方、栃木県や千葉県などの関東地方で飼育されています。東日本ではある程度飼育されていますが、西日本ではほとんど羊の飼育は行われていません。

さて、ヒツジの動物的な特徴についてみていきましょう。ヒツジの動物としての能力でとくに特徴適なのは、聴力はよいことです。また視力については、水平に細い瞳孔を持ち、優れた周辺視野をもつ。視野は 270–320°で、頭を動かさずに自分の背後を見ることができます。

しかし、奥行きはあまり知覚できず、影や地面のくぼみにひるんで先に進まなくなることがあるといいます。また、暗いところから明るいところに移動したがる傾向もあります。通常は、妊娠期間150日ぐらいで仔を1頭だけ産みますが、2頭あるいは3頭産むこともあります。

ヒツジは非常に群れたがる性質をもち、群れから引き離されると強いストレスを受けます。
また、先導者に従う傾向が強く、その先導者はしばしば単に最初に動いたヒツジであったりもします。これらの性質は家畜化されるにあたり極めて重要な要素でした。

一方では、捕食者がいない地域の在来種は、強い群れ行動をおこさないといわれ、外敵の存在が群れという行動を促すこともわかっています。この群れの中では、自分と関連あるもの同士が一緒に動く傾向があり、混種の群れの中では同じ品種で小グループができるし、また雌ヒツジとその子孫は大きな群れの中で一緒に動きます。

ヒツジにとって、危険に対する防御行動は単純に集団で危険から逃げ出すことです。ストレスに直面するとすぐに逃げ出しパニックに陥るので、初心者がヒツジの番をするのは難しいといいます。

しかし、野生の種では、追い詰められると逆ギレしてヒツジの側から突撃したり、蹄を踏み鳴らして威嚇することもあるそうです。この行動はとくに新生児を連れた雌にみられるといいます。

ヒツジは非常に愚かな動物であるというイメージがありますが、アメリカのイリノイ大学の研究によりヒツジのIQがブタよりは低くウシと同程度であることが明らかになっています。人や他のヒツジの顔を何年も記憶でき、顔の表情から心理状態を識別することもできるそうです。

非常に食べ物に貪欲で、いつもエサをくれる人の顔を覚えているため、その人だけにエサをねだることも多いといいます。こうした食い意地が張った性格を利用し、羊飼いは牧羊犬などで群れを動かす代わりに、エサのバケツでヒツジを先導することもあるそうです。

また、集団の中では、エサを食べる順序は身体的な優位性により決定されることもわかっています。他のヒツジに対してより攻撃的なヒツジが優勢になる傾向があります。さらに
オスのヒツジは角のサイズが群れでの優位を決める重要な要素となっています。

角のサイズが異なるヒツジの間ではエサを食べる順番をあまり争いませんが、同じような角のサイズを持つもの同士では争いが起こるそうです。

このヒツジの起源ですが、一説では、中国では8,000年以上前から飼育されていたともいいます。新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟がおこなわれていた形跡があり、家畜化が始まったのは古代メソポタミアです。

紀元前7000~6000年ごろの遺跡からは野生ヒツジとは異なる小型のヒツジの骨が大量に出土しており、最古のヒツジの家畜化の証拠と考えられています。家畜化されたヒツジの祖先は、モンゴルからインド、西アジア、地中海にかけて分布していたわずか4種の野生ヒツジに遡ることができるそうです。

人間がなぜこうしたヒツジを家畜化したかについては、脂肪と毛の入手が目的であったという説が有力です。ただし、肉や乳、皮の利用はヤギが優れていたため、家畜化は1000~2000年程度こちらのほうが先行していました。

しかし山岳や砂漠、ステップなど乾燥地帯に暮らす遊牧民にとって、重要な栄養素である脂肪はヤギからは充分に得ることができず、このためより良い脂肪が採れるヒツジのほうへシフトしていきました。

同じくブタも良い脂肪が採れるのですが、こうした厳しい環境下での飼育に適さず、また宗教上の理由から利用されないことも多い動物です。このため、他の地域ではブタが主流となっているのに、ヒツジのほうが優先されることが多い地域もまた多くなりました。

とくに乾燥と酷寒の地域では尾や臀部に脂肪を蓄える品種が重視されるようになり、これらはやがて現在のように脂尾羊、脂臀羊とに分類されるに至ります。

日本には古来より、様々なものが海を越えて伝わりましたが、羊の飼育及び利用の記録は乏しいようです。寒冷な土地も多く、羊毛の需要もあったはずですが、骨の出土などもなく、羊自体の存在や飼育記録は確認できません。

ただ、仏教の影響を色濃く受けた故に肉食があまり推奨されてこなかったことから食肉用はともかく、羊毛製品には全く需要がなかったわけではありません。このため、貿易品としての羊の毛織物が輸入されることもあり、人気は高かったようです。が、いかんせん舶来ものは高額であり、長らく一部の有力者や富裕層のみに珍重されていました。

明治期に入るとお雇い外国人によって様々な品種のヒツジが持ち込まれましたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しませんでした。日本政府はむしろ、牛馬の普及を重視しましたが、お雇い外国人のル・ジャンドルという人が軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説きました。

このため、1875年(明治8年)に大久保利通によって下総に牧羊場が新設され、これが日本での本格的なヒツジの飼育の始まりとなりました。以後、戦前から戦後間もない時期まで、日本製の毛織物は重要な輸出品となるまで成長しました。しかし、のちの化学繊維の普及によってこれにとってかわられました。

現在、日本のヒツジ飼育頭数は2010年に1万2000頭にすぎませんが、その用途は主に食用です。

日本国内では、毛を刈った後で潰したヒツジの大量の肉を消費する方法として新しく考案されたジンギスカン鍋や、ラムしゃぶ、スペアリブの香草焼き、アイリッシュシチューなど特定の料理で使われます。カルニチンを他の食肉よりも豊富に含むことから、体脂肪の消費を助ける食材とされています。

ラムには臭みが少なく、こちらは日本で近年人気が高まりつつあります。羊肉特有の臭みは脂肪に集中するため、マトンの臭みを取り除くには、脂肪をそぎ落とすと良いと言われます。他には、「香りの強い香草と共に炒める」「牛乳に漬けておく」等の方法があります。

漢方では体を温める作用があるとされており、北海道、中国北部、モンゴルといった寒さの厳しい地域で好まれています。

「羊羹」というものがありますが、無論これは本物のヒツジ肉を使ったものではありません。もともとは中国の料理で、読んで字のごとく羊の羹(あつもの)、つまりは羊の肉を煮たスープの類でした。

南北朝時代に北魏の捕虜になった毛脩之が「羊羹」を作ったところ太武帝が喜んだという記事が宋書に見えますが、これは本来の意味の羊のスープであったと思われます。
冷めることで肉のゼラチンによって固まり、自然に煮凝りの状態となります。

鎌倉時代から室町時代に、禅僧によってこの肉料理が日本に伝えられましたが、禅宗では肉食が戒律(五戒)により禁じられていました。このため、精進料理として羊肉の代わりに小豆を用いたものが、日本における羊羹の原型になったとされます。日本の文献における「羊羹」の初出は室町時代に書かれた「庭訓往来」の「点心」の記事と言われています。

一般には小豆を主体とした餡を型(羊羹舟)に流し込み寒天で固めたものであり、日本を代表する和菓子です。初期の羊羹は、小豆を小麦粉または葛粉と混ぜて作る蒸し羊羹でした。この蒸し羊羹からは、芋羊羹やういろうが派生しています。

また、当時は砂糖が国産できなかったために大変貴重であり、一般的な羊羹の味付けには甘葛などが用いられることが多く、砂糖を用いた羊羹は特に「砂糖羊羹」と称していました。

しかし、17世紀以後琉球王国や奄美群島などで黒砂糖の生産が開始されて薩摩藩によって日本本土に持ち込まれると、砂糖が用いられるのが一般的になり、甘葛を用いる製法は廃れていきました。

「練り羊羹」が日本の歴史に登場するのは慶長4年(1599年)で、鶴屋(後に駿河屋と改名)の五代目、善右衛門が寒天の原料であるテングサ・粗糖・小豆あんを用いて炊き上げる煉羊羹を開発。その後も改良を重ね万治元年(1658年)には完成品として市販されています。

ただし、寒天を使用した練羊羹が一般に広く普及したのは江戸時代の中期からであって、それまでは依然として蒸し羊羹が主流を占めていました。

「煉羊羹」は寒天に餡を加え、型(羊羹舟)で固めたものです。棹物として、棹状の練羊羹もつくられました。江戸時代は煉羊羹全盛時代であり、江戸本郷の藤村羊羹をはじめ、多くの名舗が現われました。

一方、伝統的な羊羹は蒸し羊羹といわれ、安価な下物として区別されるようになり、その一部は丁稚羊羹と称したものもあります。また、料理菓子として、煉羊羹を半煉り状にした製法の羊羹もつくられ、後に水分を多くした水羊羹(丁稚羊羹)がつくられるようになり、御節料理として、冬の時季に食されました。

さて、そのおせち料理にもそろそろ飽きました。今晩あたりからは、そろそろ普通食に戻し、来週からのスタートに向けて、こころとからだを新しい年に慣らしていかなくてはなりません。

年末年始に貯めこんだ脂肪を発散し、ロケットスタートを切りましょう。始めよければ終わり良し。新しい年がどんな年になるかは、この一時期にかかっています。

そうそう、今年初めの初詣で私が引いた、おみくじは「大吉」でした。気持ち良いスタートが切れそうです。

さて、みなさんの新しい年のはじまりはいかがだったでしょうか。