玉音

2015-1170784今日は、暦の上では、「六日年越し」というのだそうで、明日の正月七日を「七日正月」として祝うため、これを前日から祝すのだといいます。

じゃあ、そもそも7日は何でお祝いするのよ、ということなのですが、これは、中国から輸入された風習のようです。古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3日を猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていました。

そして、7日目を人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていたといい、これが「人日の節句」として日本に伝わり、五節句のひとつとなりました。

人日の節句を含めた五節句とは、以下のようになります。この日に合わせて食する食べ物も示しました。

人日(じんじつ)1月7日  七草の節句 七草粥
上巳(じょうし)3月3日 桃の節句・雛祭 菱餅や白酒など
端午(たんご)5月5日 菖蒲の節句 菖蒲酒 関東では柏餅、関西ではちまき
七夕(しちせき)7月7日 七夕(たなばた)裁縫の上達を願い素麺が食される
重陽(ちょうよう)9月9日 菊の節句 菊を浮かべた酒など

いずれもが中国から伝来したものですが、9月9日の菊の節句だけは、あまり日本では知られていないようです。陽の数である奇数の極である9が2つ重なることから、中国では「重陽」と呼ばれ、たいへんめでたい日とされます。

邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていました。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣もあったそうです。

明日の七草粥もまた、最近では習慣としてこれをたしなむ家庭もあまり多くないでしょう。本来、中国ではこの日に7種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが日本に伝わって七草がゆとなったものです。

室町時代の汁物が原型ともされており、江戸時代より一般に定着しました。江戸期には人日を含む、上述の五節句が江戸幕府の公式行事となっており、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日の節句を祝ったそうです。

春の七草や餅などを具材とする塩味の粥で、その一年の無病息災を願って食べます。正月の間中、祝膳や祝酒で弱った胃を休める為に普及したとも言われています。

また、この日は新年になって初めて爪を切る日ともされ、七種を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかないと言われているそうなので、風邪をよく引く人は試してみてはいかがでしょうか。

そして、1月7日といえば、忘れてはならないのが、この日が昭和天皇が崩御された日だということです。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)により87歳で身罷られました。歴代の天皇の中では最も長寿でした。

そして同年(平成元年)1月31日、今上天皇が、在位中の元号から採り昭和天皇と追号し、2月24日には、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵にその遺体は埋葬されました。昭和天皇の崩御後は、即日に明仁親王が即位し今上天皇となり、新元号が「平成」と発表されました。

法律的には、元号法に基づき1989年(平成元年)1月8日に改元がなされたことになっており、1月7日までが「昭和64年」ということになります。

このわずか7日間に産まれた人がどのくらいいるか、が気になったので調べてみましたが、正確なところの人数はわからないようです。

ただ、1989年の出生数は「1,246,802」人であることから、これを365日で割り、7掛けすると、およそ2万4千人ほどにすぎず、けっして多い人数ではありません。この年生まれという称号を持つ人は、結構レアものということになります。

崩御時の昭和天皇の全財産は、18億6千900万円、および美術品約5千点で、この美術品は1点で億単位の物も多数だったといいます。また、皇室は不動産のみならず、莫大な有価証券を保有しており、日本銀行をはじめとする大手銀行各社の証券を始め、日本郵船、大阪商船、東京瓦斯、帝国ホテル、富士製紙などの大株主でした。

こうした皇室の財産も課税対象であり、昭和天皇崩御のときには香淳皇后が配偶者控除を受け、長男の今上天皇が4億2800万円の相続税を支払われています。また、皇居のある千代田区には住民税を納めていらっしゃいます。ただ、残された古美術品は相続せずに国庫に納められ、それを基に皇居東御苑内にある「三の丸尚蔵館」が開館しました。

この美術館は、1993年(平成5年)に開館して以来、2014年11月には入館者が500万人を超えました。宮内庁はこうした当館入館者の増加傾向を受け、新館建設により展示スペースを拡充させることを考えているそうですが、具体的な建設計画については今後公表される予定だといいます。

昭和天皇といえば、その長い在位中に太平洋戦争という大きな出来事があり、その激動に巻き込まれた方であるだけに非常に多くの逸話の多い人ですが、やはりその中でも誰しもが一番印象深く思い出すのが、「玉音放送」のことでしょう。

それまで誰も聞いたことない、天皇の肉声、すなわち「玉音」が一般の人向けに放送されたということで、なおさらのこと印象が深かったわけですが、これは1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、その最初の放送が社団法人日本放送協会(当時のNHK)によって流されたものです。

正式には、「終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)」といい、その内容は大東亜戦争(太平洋戦争)における日本の降伏を国民に伝えるものでした。

この放送が行われる前日の8月14日、日本は御前会議において内閣総理大臣・鈴木貫太郎が昭和天皇の判断を仰ぎポツダム宣言の受諾を決定しており、これはいわゆる「聖断」と呼ばれています。ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争において日本が全面降伏することを意味しました。

御前会議での決定を受けて同日夜、詔書案が閣議にかけられ若干の修正を加えて文言が確定し、詔書案はそのまま昭和天皇によって裁可され、「大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書」として正式発布されました。

そして、日本からポツダム宣言受諾に関する詔書が発布されたことは、中立国のスイス及びスウェーデン駐在の日本公使館を通じて連合国側に即刻伝えられました。

こののち、昭和天皇がこの詔書を朗読してレコード盤に録音し、これをラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることになったわけですが、果たしてこれが天皇自らの意思だったのかどうか、については諸説あるようです。

神州不滅などといったスローガンを掲げ、悪化の一途を辿る戦局を無視して戦争続行を鼓舞していた政府にとって、国民に降伏を伝えることはまさに一大事であり、場合によってはクーデターも起こる可能性がありました。

そこで、昭和天皇がこの帰服が自分の意思によって決定されたことを国民に示す必要が生じたわけですが、玉音放送自体は法制上の効力を特に持つものではありません。しかし、この戦争における最高司令官自らが敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたといえます。

そして、この点については、天皇自らがとくにその重要性を強く認識しており、国民の前に立っても良い、とのご発言があった、との説が有力なようです。

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ところが、玉音放送が流される前には、成功こそしませんでしたが、当初心配されたクーデターまがいの事件が実際に起きており、陸軍の一部では徹底抗戦を唱え、放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがありました。これは現在では「宮城事件」として知られています。

8月14日の深夜から15日にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件であり、日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠しました。

しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自殺もしくは逮捕され、日本の降伏表明は当初の予定通り行われました。

前日にはあらかじめ「15日正午より重大発表あり」という旨の報道があり、また当日朝にはそれが天皇自ら行う放送であり、「正午には必ず国民はこれを聴くように」との注意が行われました。

当時は電力事情が悪く間欠送電となっている地域もあったが、特別に全国で送電される措置までとられ、また当日の朝刊は放送終了後の午後に配達される特別措置が採られました。

放送は正午に開始されました。初めに日本放送協会のアナウンサー・和田信賢によるアナウンスがあり、聴衆に起立を求め、続いて情報局総裁・下村宏が天皇自らの勅語朗読であることを説明し、君が代の演奏が放送され、その後4分あまり、天皇による勅語の朗読が放送されました。

この放送はアセテート盤のレコード再生によるものでした。アセテート盤とは、録音において、レコードの生産の前段階に使用される「参照用」のオーディオディスクであり、録音された音が最終的にどのようにレコードに移されるかを決定するかどうかを決めるための試験的なレコード盤でした。

例えばこのアセテート盤で録音したものを再生した上で、低音のボリュームを変更するなどの操作が行われ、最終的なマスターディスク(金型)が作られました。

従って、何度も修正のための再生が必要になるため、安価で製造できる素材が使われました。しかし、音質はそれほど悪くなく、素早く高音質で制作できるため、プロモーション用の盤として宣伝目的のためにも利用されることもありました。

ただし、いかんせん、後に全盛となる塩化ビニール製のレコードよりも強度が弱く、湿度や経年変化により表面剥離などが起きやすい素材でした。アセテートというのは、我々の良く知る塩化ビニール製のレコードとは違って、なかなかイメージがしにくいのですが、現在もたばこのフィルターなどでよく使われているので、なんとなく想像できるでしょう。

熱を加えても嫌な臭いを出さないという性質もあり、たばこの味を変えない素材として利用されているわけですが、原料であるアセチルセルロースが難燃性を持つことから、他の素材と組み合わせて防火カーテンなどにも利用されています。

戦前における日本では、石油を原料とするビニール素材などは入手しがたく、木材パルプ(セルロース)を原料に、酢酸を反応させたアセチルセルロースより作られるアセテート繊維質などが唯一の音声記録媒体でした。

玉音放送をはじめとする有事の放送音源などもアセテート盤で残されており、日本で、ビニール盤が登場するのは敗戦後しばらくたったあとの1950年代の話です。

そして、玉音放送は、1945年8月15日に行われましたが、この放送が一回しか行われなかったと思っている人も多いでしょうが、実際には、下記のように予告も含めて6回も行われるという、念の入れようでした。

午前7時21分(9分間・予告)
正午(37分半、玉音放送を含む)
午後3時(40分間)
午後5時(20分間)
午後7時(40分間)
午後9時(18分間)

なお、午前7時21分の予告放送と同じものは、14日午後9時のニュースでも行われています。

内容としては「このたび詔書が渙発される」「15日正午に天皇自らの放送がある」「国民は一人残らず玉音を拝するように」「昼間送電のない地域にも特別送電を行う」「官公署、事務所、工場、停車場、郵便局などでは手持ち受信機を活用して国民がもれなく放送を聞けるように手配すること」「新聞が午後一時頃に配達される所もあること」などでした。

このように繰り返し放送された玉音放送でしたが、詔書の中に難解な漢語が相当数含まれていたために、「論旨はよくわからなかった」という人が多く、直後のアナウンサーによる終戦詔書の朗読や玉音放送を聴く周囲の人々の雰囲気、玉音放送の後の解説等で事情を把握した人が大半でした。

とはいえ、上述のとおり、アセテート盤で録音されたそもそものレコードの音質そのものはそれほど悪くなかったようです。が、それにしてもこの時代のラジオの放送品質は現在と比べても極めて音質が悪く、天皇の朗読に独特の節回しは、宮中祭祀の祝詞の節回しと同じような悠長なものでした。

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しかしそれにしても、それまではほとんどの国民が「現人神」である昭和天皇の肉声を聴いたことなどありませんせした。このためこの天皇の声の節回しと言い、声の甲高さといい、本当にこれが天皇の声か?と疑った人も多かったといいます。

沖縄で玉音を聞いたアメリカ兵が日本人捕虜に「これは本当に天皇の声か?」と尋ねた際には、答えられる者は誰一人いなかったというエピソードもあるようです。

ただ、「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」の部分だけはよく聞きとることができ、これによって日本が敗戦したのだと察する人は多かったようです。

この国民の大多数にとっては非常にわかりにくい古典的な漢文訓読体の「終戦詔書」の大まかな内容を起草したのは、内閣書記官長・迫水久常という人です。これをさらに内閣嘱託の漢学者・川田瑞穂が手を加え、さらに同じく顧問の陽明学者で思想家の安岡正篤(まさひろ)が監修したものが、14日に天皇に提示され、裁可されました。

その校正は、秘密裡に作業が行われたため、起草、正本の作成に充分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において、戦争継続を求める一部の軍部の者によるクーデターを恐れた陸軍大臣・阿南惟幾が細心の注意を払って最終段階まで字句の修正を加えました。

例えば「戦局日ニ非ニシテ(戦局はかなり悲観的の意)」が、「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、がそれです。このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られ、また通常は天皇の押印のため最終頁は3行までとし7行分を空欄にしておくべきところを、一行多い4行が書かれていました。

このため、文末の印の部分に十分な余白がないまま無理矢理押捺したため、印影が本文にかぶさるという異例な詔勅になってしまっています。

玉音盤への録音作業は宮殿の事故などを想定して、「内廷庁舎」において行われました。天皇がお政務や接見をされるのに省内に設けられた特別室です。ここの拝謁間に予備含む計4台、録音機2組など録音機材が用意され、マイクロホンが隣室の政務室に用意されました。

録音の用意は16時には完了し、18時から録音の予定でしたが、前述のとおり詔書の最終稿の修正もあって録音はずれ込み、詔書裁可後の23時20分頃から録音作業は始められ、2回のテイクにより玉音盤は合計2種4枚が製作されました。

2度目のテイクを録ることとなったのは、試聴した天皇自身の声が低かったためといわれ、さらに接続詞が抜けていたことから天皇から3度目の録音をとの話もありましたが、結局はこれは実施されませんでした。

玉音放送は、のちにDENON(デンオン)とよばれるこの当時の日本電気音響の「DP-17-K可搬型円盤録音機」というもので、同じく日本電気音響製のSP盤に録音されました。この録音盤は1枚で3分間しか録音できず、約5分間分の玉音放送は2枚にわたって録音されました。これが2回繰り返され、ゆえに合計2種4枚ということになります。

この録音は、翌日1時頃までかかって終了。情報局総裁・下村宏及び録音班は坂下門から出ようとしましたが、上述のとおり、陸軍幹部によるクーデター未遂事件がこのとき起こりました。

玉音放送を阻止しようとする近衛歩兵第二連隊第三大隊長・佐藤好弘大尉らによって下村らは拘束・監禁され、録音盤が宮内省内部に存在することを知った師団参謀・古賀秀正少佐の指示によって、宮城内での録音盤の捜索が行われ、のちにこれは「宮城事件」と呼ばれるようになりました。

このとき結局彼等は録音盤を見つけることはできませんでしたが、くだんの録音盤は録音後に侍従の徳川義寛により皇后宮職事務官室の書類入れの軽金庫にほかの書類に紛れ込ませる形で保管されていたのでした。

その後、このときの玉音盤がどうなったかですが、戦後しばらくは所在不明とされ、玉音放送の資料音声は公式には現存していないことになっていました。これについては、真偽のほどは不明ながら、放送を恥辱と考えた宮中筋が、これを隠匿したとする隠匿説などもまことしやかにささやかれました。

本物はその後も長らく発見されていなかったようですが、どうやらそのうちの一組はアメリカ軍がその後押収したようです。ところが、玉音放送から1年後、これを押収したアメリカ軍がこれの複製を製作しようとしました。そしてその際、幸運にも当時の担当のNHKの技師がこのオリジナルから自己用の複製を内密に製作していました。

これにより玉音放送の「原音」が完全に散逸されることは免れるところとなり、その後この複製盤はNHKに寄贈されました。その当時の再生技術で当時の磁気テープに記録された音源が現在でも継続使用されているものであり、我々が現在テレビのニュースや報道番組でよく耳にするものもこのコピー版ということになります。

ただし、現在通常に流布しているこの音源は、複製盤製作時のオリジナルの玉音盤に比べて再生速度と複製盤の回転速度と再生速度、磁気テープの再生速度の誤差などにより一様に遅く、音声が低いとされています。

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一方、NHKに残されたもう一つのオリジナルの玉音盤は、その後発見されたようです。その発見の経緯については、NHKのHPやこの玉音盤が保存されているNHK放送博物館のHPにも何も書かれていません。

が、もしかしたらその昔の発見当時、何等かの新聞報道があったかもしれません。おそらくはアメリカ軍が接収したあとのもう一組をNHK側で極秘に保存していたものが出てきたのだと思われます。

現在は「入念な修復作業を経て現在は保存ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと保管・展示されている」とのことで、窒素ガスを封入したシールドケースに入れ、紫外・赤外線カットのガラスを使い、常時4℃シーを保つ恒温ケースで展示されています。

ただし、完成から1年で劣化するアセテート盤なので状態は悪く、実際の再生は困難であるといいます。

この玉音放送から、44年後の1月7日、昭和の時代が終り、そして現在に至る平成の時代が始まりました。

それから既に今年で27年。大正天皇の在位をはるかに越え、今上天皇は昨年12月23日に81歳の誕生日を迎えられました。

失礼かもしれませんが、平成の世がこの後も20年も30年も続くというのは少々考えがたく、昭和天皇の在位年を越えることはまずありえないでしょう。

しかしまた今年すぐにそのXデーがやってくるとも考えがたく、できればせめて次回の東京オリンピックまではお元気でいていただきたいものです。

今年は、8月6日に広島で8月9日に長崎でともに70回目の原爆の日を迎えるという節目の年でもあります。と同時に8月15日には、 第二次世界大戦終結後70回目の終戦記念日を迎えることにもなります。

日本にとってその節目となるにふさわしい、良き一年でありますように祈り、今日の項を終えます。

なお、玉音放送の、口語訳を以下に示しました。改めてその内容をかみしめてみてください。

終戦の詔勅-玉音放送-(1945.8.15正午) 口語訳

私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。

私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。

そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。

ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。

なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。

私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。

考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。

私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。

ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。

あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。

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