どんと行ってみよう!

2015-8362今日は、「正月事納め」とされています。

正月行事の期間といえば、これを「松の内」とか「注連(しめ)の内」などと呼びますが、この日をもって正月は終わり、と宣言するわけです。その昔は、15日ごろまでが正月期間でしたが、現在は7日までとする家庭や職場が多いようです。

「松の内」や「注連の内」は、「門松」や「注連縄(しめなわ)」が飾られている期間というところからこう呼ばれるようになったものです。門松は元々は神様がこれに宿るとされる「依代(よりしろ)」であり、不老長寿の象徴として常緑の松が選ばれました。が、地方によっては、榊、竹、椿などの場合もあります。

また、注連縄といえば、我々が普段、神社に掛けられたものを見るあれとお同じです。元々は神社などの聖域の範囲を示す「結界」に張られた縄でした。正月の期間に一般家庭でも注連縄をつけるようになったのは、この期間は一般家庭にも神様がやってこられ、家自体が聖域となる、という考え方からです。

従って、まとめると、正月には門松を飾ってこれに神様に宿っていただき、その神様が今はこのうちにいらっしゃる、ということを内外に指し示すための結界として注連縄を飾るわけです。家は元々生活の場ですが、松の内、注連の内の間だけは日常の生活の場が変じ、神聖な場所となっているわけです。

従って、正月事納めの日というのは、この神の依代であった門松を片付け、聖域であることを示す正月飾りを取り外すことによって、家を聖域から普段の生活の場に戻すという意味があります。

その昔はこの松の内の期間は15日まででした。ところが、明暦三年(1657年)に江戸で発生した、「明暦の大火」では、江戸市街の大半が焼き尽くされ、死者は 3~10万人といわれており、これがこの正月期間を短縮する原因となりました。

別名「振袖火事」とも呼ばれます。これは、江戸・麻布の裕福な質屋の娘が、本郷の本妙寺に母と墓参に行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れしてしまった、とされるエピソードから始まる伝承です。

娘は16歳で梅乃といいましたが、この日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か食欲もなくして寝込んでしまいます。娘の身を案じる両親は彼が着ていた服と同じ、荒磯と菊柄の振袖を作りましたが、梅乃はこの振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれ続けました。しかしやがて病は悪化して若くして亡くなりました。

両親はせめてもの供養にと、娘の葬式を本妙寺で行うことにしますが、その葬礼の日、娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやりました。

ところが、この当時こうした遺品は寺男たちがもらっていいことになっており、振袖も娘と共に埋葬されることなく寺男の所有するところとなり、やがては転売されます。そして、別の娘がこの振袖を手にしますが、この娘もしばらくの後に病となって亡くなります。

そしてまた振袖は彼女の棺にかけられて転売されますが、更に別の娘にもらわれたあげく、この娘もほどなく病気になって死去。振袖はまたも棺に掛けられ本妙寺に運び込まれてきました。

さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにしました。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ちあがったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移しました。

たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、炎は湯島へ駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった……というのが、この明暦の大火が「振袖火事」とゆえんです。

梅乃という女性が本当にいたのかどうか、また振袖を手にした少女が次々と怪死していったという事実が実際にあったのかどうかもわかりません。が、おそらくは後年に作られた創作話でしょう。この時代の火事には放火が多かったといわれており、実際のところは大名屋敷からの失火ではなかったかとも言われているようです。

とまれ、この明暦の大火は江戸の大半を破壊しつくすほどの大災害になったことから、江戸幕府はこの教訓から、このときより火事を防ぐための様々な方策を打ち出すようになります。その一つが町火消などの消防組織であり、放火を防ぐための火付け盗賊改めなどの役職の設置もそうした対策のひとつです。

また、正月に江戸の家々の門前に飾る門松を飾る期間を短縮させよう、という対策も取られました。常緑の松とはいえ、門松は年末から半月以上も飾っておくわけですから、正月半ばともなれば、大分枯れて乾燥しています。沢山の油分を含んだ松は枯れてしまうと非常に燃えやすくなります。

そうした危険物が家々の門前に飾られていたら、それこそ放火犯にとっては格好の標的であり、また一旦火災になると、実際にこれが元で延焼拡大となる可能性もあります。

というわけで、明暦の大火から 5年後の寛文二年(1662年)に松飾りは「七日には片づけるように」との町触れ(まちぶれ)がなされ、これ以後江戸の町では松飾りは正月七日までとなりました。

2015-8376

それにしても、それ以前にそもそもなぜ松の内を15日としていたのか、についてですが、これは中国式の太陰太陽暦が導入される以前、望の日、つまり満月の日を月初としていたことの名残りと考えられています。

ご存知のとおり満月は約15日をかけて痩せていって真っ黒になりますが、江戸期より以前は、正月はじめの満月から月夜がなくなるまでの15日を正月の目安としていたわけです。この15日のことをよく小正月(こしょうがつ)といいますが、これに対して、7日までの正月行事が数多く行われる期間のことを大正月(おおしょうがつ)と呼びます。

元日から15日までの小正月までの15日間を正月として祝っていたわけですが、これを明暦の大火以後は、徳川幕府の命により7日の大正月までとされました。ところが、このお触れは江戸では浸透しましたが、関東地方以外には広まりませんでした。

従って、関東を中心とする地方では現在でも正月は7日までというところが多く、多くの会社や役所でも7日を過ぎるともう仕事仕事、といったかんじなのですが、地方へ行けばいくほど、いやいや正月は15日までだから、もう少しのんびりしようや、という気分のところが多いようです。

1999年までは毎年1月15日が「成人の日」でしたが、この日が成人の日とされたのも、この日が小正月であり、かつて元服の儀が小正月に行われていたことによるといわれています。さらには、1月15日は大学の共通一次試験が行われていた時代もありました。

もっとも、15日の共通一次試験はその後廃止され、また成人の日は、2000年からは毎年、1月第2月曜日に行われるようになったこともあり、15日が正月の終わりという感じはさらに薄れつつあり、やはり正月は7日まで、と考える人が現在では多いようです。

この小正月には、小年(こどし)といった呼び方もあり、また二番正月、若年、女正月、花正月といったさまざまな表現があります。

江戸期以前、この日の朝には小豆粥(あずきがゆ)を食べる習慣がありました。米と小豆を炊き込んだ粥であり、小正月に邪気を払い一年の健康を願って食べます。

中国の伝説として、「蚕の精」のために粥を作って祀れば100倍の蚕が得られるというものがあり、冬至の際にこの小豆粥が食せられたといい、これが日本に伝わったと考えられています。江戸時代の太陰太陽暦では、15日ころが満月、「望(もち)の日」であったため、小豆粥に餅を入れて食べる風習もあったといいます。

今日でも地方においては正月や田植、新築祝い、大師講などの際に小豆粥を炊き、これに餅を入れた小豆雑煮で祝う風習のある地方があちこちに存在します。私が知っている限りでは、鳥取県では正月には小豆雑煮が定番です。

なお、逆に、東北地方の一部の農村などでは、元日から小正月の期間中に小豆や獣肉を含む赤い色をした食べものを食することは禁忌だそうです。理由はよくわかりませんが。

年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、小正月は豊作祈願などの農業に関連した行事や家庭的な行事が中心となります。一方、この15日ごろには、火祭りの行事、いわゆる「どんど焼き」が行われます。

私も知らなかったのですが、実はこのどんど焼きには正式名称があり、左義長(さぎちょう、三毬杖)というのだそうです。地方によって呼び方が異なりますが、日本全国で広く見られる習俗です。

単に「とんど」と呼ぶ場合や「とんど焼き」と“焼き”をつける場合、同様に、どんど、どんど焼き、とんど(歳徳)焼き、どんと焼き、さいと焼きなど、様々な呼び様があります。「爆竹」と書いて「とんど」と読ませる古い文献もあるようで、青竹を燃やす際にこれが爆発する音から来ている、という説もあるようです。

歳徳神を祭る慣わしが主体であった地域では、だいたいどこでもどんど、どんとなどと呼ばれ、出雲方面の風習が発祥であろうと考えられています。

歳徳神(としとくじん、とんどさん)というのは、その年の福徳を司る神です。年徳、歳神、正月さまなどとも言いますが、ある年にこの歳徳神のおわす方位を恵方(えほう)といいます。

「恵方巻き」のあれです。吉方、兄方、または明の方(あきのかた)とも言い、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされます。かつては、初詣は自宅から見て恵方の方角の寺社に参る習慣があり、これを「恵方詣り」ともいいました。

歳徳神は姿の美しい姫神さまですが、その由来には諸説あり、牛頭天王の后・八将神の母の頗梨采女(はりさいじょ)であるなどさまざまです。この歳徳神のおわす方角は毎年代わりますが、近年、関西を中心として立春の前日の節分の日にこの恵方を向いて「太巻きの丸かぶり」が行われるようになり、2000年頃から日本各地でも広まりました。

2015-8380

どんど焼きもまた、広く全国で行われることが多い行事ですが、その起源は、現在のような火祭りではなく、蹴鞠(けまり)のようなものだったようです。

平安時代当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」と言う杖で毬をホッケーのように打ち合う遊びがあり、小正月に宮中の清涼殿でこれを行ったとする記録があります。毬杖には、木製の槌がついており、さながら最近のゲートボールのスティックのようなものだったようです。

この木製の杖を振るい、木製の毬を相手陣に打ち込む遊びですが、杖には色糸をまとっていたため玩具の趣もあり、平安時代に童子の遊びとして始まり、後に庶民の間に広まりました。左利きの人が毬杖を左手に持ったことから、「ひだりぎっちょう(ひだりぎっちょ)」の語源とする説もあります。

清涼殿の東庭で青竹を束ねて立てこの毬杖3本を結び、その上に扇子や短冊などを添え、陰陽師が謡いはやしながらこれを焼いたといい、これをもってその年の吉凶などを占いました。

代々内蔵頭を輩出して朝廷財政を運営した公家の中には、公家中の公家といわれる「山科家」という家があります。この山科家などから進献された葉竹を束ねたものが清涼殿東庭に打ちたてられ、そのうえに扇子、短冊、天皇の吉書などを結び付け、陰陽師に謡い囃して焼かせ、これが天覧に供されました。

烏帽子、素襖(すおう・この当時の礼服)を着た複数の陰陽師らが謡い、鬼の面をかぶった童子1人が金銀で巻いた短い棒を持って舞い、面をかぶり赤い頭をかぶった童子が大鼓を持って舞い、小さい鼓を打ち鳴らしながら舞い、さらに笛、小鼓で打ち囃すといった賑やかなものでした。

毬杖3本を結んだオブジェの前で舞い踊ることから「三毬杖(さぎちょう)」とも呼ばれ、吉田兼好の随筆「徒然草」にも記載があることから、鎌倉時代には既に民間に伝わり、広く一般向けの行事としても普及していたようです。

現在では「左義長」という字があてられ、これを「どんど」と呼称することも多いようですが、なぜこの漢字になったのかは、不明だそうです。

この「三毬杖」こそが現在のどんど焼きのルーツだというわけですが、現在では毬杖は供えられなくなり、もっぱら青竹や葉竹などが積み上げられ、これに正月飾りなどを放り込んで燃やします。

昔は、1月15日の成人の日が祝日だったので、この日に行われることが多かったようです。が、その後成人の日が1月15日から1月の第2月曜日に変更されたことに伴い、地域によっては左義長を1月の第2日曜日または第2月曜日に実施する、というふうに変更したところも多いようです。

が、福井県の勝山市にの勝山左義長は毎年2月最終土・日に行われており、これは300年以上前から続いているもっとも古いどんど焼きだといわれます。色とりどりの長襦袢を着て太鼓を打ち浮かれ踊るというもので、「勝山左義長ばやし」と呼ばれているそうです。

このほか、国の指定文化財に認定されるなど有名なものもあります。

例えば滋賀県近江八幡市の左義長まつりでは、担ぎ手の男性が信長の故事によって化粧し、「チョウヤレ、マッセマッセ」のかけ声高く実施されます。三角錐の松明に、ダシと言われるその年の干支にちなんだ飾り物を付けて練り歩き、地区毎に左義長を持ち、町中で左義長同士が出会うと、ぶつけ合う喧嘩が始まるという勇壮なものです。

国選択無形民俗文化財に選択されています。ただなぜかこれも3月14・15日に近い土・日曜日に行われるそうです。

一方、神奈川県大磯町の左義長もまた国指定の重要無形民俗文化財ですが、こちらは毎年1月14日近辺に大磯北浜海岸で行われています。

セエノカミサン(道祖神)の火祭りとして、松の内が過ぎると子どもたちは正月のお飾りを集めて歩き回り、青年たちは、オンベという竹を芯にして「セエト」と云われる松や竹で作った塔をつくります。

集められたお飾りや縁起物とともに浜辺に運ばれ、9つの大きな円錐型のサイトが作られ、日が暮れるとセエノカミサンの宮元や宮世話人が、その年の恵方に火をつけます。

このほか、国の文化財の指定は受けていないものの、仙台の大崎八幡宮のものは20万人以上が訪れるというもっとも盛大なもので、仙台市の無形民俗文化財に指定されています。「裸参り」と称し、男衆がふんどし姿で練り歩く行事も行われ、この裸参りには、女性の参加も増えているといいます。ちなみに女性はさらしを巻くそうです。

2015-8396

その他の多くの地方でも、どんど焼きは毎年恒例の行事ですが、現在では夕方から行うことが多くなっています。しかし、その昔は1月15日の朝、もしくは前日の14日の夜に行っていました。刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼きます。

その火で焼いた餅を食べると風邪をひかない、また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくとその年の病を除くと言われていた、といったことなどは今と同じです。

が、その昔は書き初めを焼いた時に炎が高く上がると字が上達するとも言われていたようです。また、松の燃えさしを持ち帰って屋根に載せておくと火災除けのまじないになる、という地方もあります。

民俗学的な見地からは、道祖神の祭りを起源とする地域が多いとされ、門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされます。お盆にも火を燃やす習俗がありますが、こちらは先祖の霊を迎えたり、そののち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられています。

現在では、多くの地方で小学校などでの子供会の行事として取り込まれる「子供の祭り」となった趣があります。笹などの準備は町内会の大人が行いますが、注連飾りなどの回収や組み立てなどは子供が行うというところが多いようです。

地方によって焼かれるものの違いがあり、その主たる違いは、「だるまを焼くかどうか」です。だるまは縁起物であるため、これを祭りで焼く事により、それを天にかえすのだ、という地方もあれば、だるまを焼くと目がつぶれるとされ、祭りでは一切焼かない、とする地方もあります。

私が住まうこの別荘地では、どんど焼きは行われません。どんど焼きをできるほどの広場はあるのですが、消防法の関係から消防署に来てもらう必要があるから、とのことのようです。従来住んでいた町では、それでも消防署員に御足労願って行うことが多かっただけに少々寂しいかんじはします。

が、今年初詣に出かけた広瀬神社の境内には、こうしたお札を焼くスペースがあり、古い飾り物はおみくじの焼却は既に済んでいます。あとは、松の内が解ける15日ころに、今年の恵方に向かって今年の歳徳神さまに向かってお祈りをすることにしましょう。

ちなみに、今年の歳徳神は、「乙・庚」の方向にいらっしゃるとのことで、これは西南西やや西、方位角としては255°で真西ではないものの、やや南よりの西だそうです。

偶然ですが、先日来、我が家ではこの西側に面した部屋をきれいに片づけ、居室として使えるようにしたばかりであり、きっとこの部屋からは多くの福の神が訪れてくれるに違いありません。

みなさんも松の内明けにどんど焼きでその年の病を除いたら、今度は西側の窓を開け、歳徳神さまに祈ってください。きっと良い一年になること請け合いです。

2015-8436
下田 白濱神社にて