今日は、「初閻魔」だそうで、これは1年で最初の閻魔様の縁日です。
縁日というと、近代以降では、神社仏閣などで露店などが多く出るお祭り、というイメージがありますが、本来は、神仏との縁がとくに深くなる日、~これを有縁(うえん)といいますが~ そうした日です。
神仏と縁が深くなる、というと不思議な感じもしますが、これはその昔は神仏の降誕や何等かの示現があったり、逆に人間側から、例えば災害予防や疫病退治のための誓願などを行ったりすることを「縁がある」、といったものです。従って、こうした神仏と縁(ゆかり)のある日を記念日として選び、祭祀や供養を行ったなごりと考えれば良いでしょう。
この日に神社仏閣に参詣すると、普段以上の御利益があると信じられたものであり、特に、年の最初の縁日を、天神様なら初天神、観音様なら初観音、お不動さまなら初不動などと呼びました。また逆に年の最後の縁日を納め(おさめ)または終い(しまい)といい、納めの天神、終いの観音というふうに呼んでその年の御利益を感謝しました。
明治以前の日本では、現在のようにテレビやインターネットもなく、芸能の種類が少ない中で、こうした縁日が新聞に一覧表で「縁日欄」として載るほどであり、同じく人気のあった娯楽である寄席の情報を指し示す「寄席欄」と共に多くの読者に楽しみにされる情報でした。
そして、閻魔様に関しては、毎月16日が縁日とされており、とくに1月16日と7月16日は、閻魔王の休日とされていました。
この日は奉公人も仕事を休んで実家に帰ることができ、これを「藪入り」といいました。藪入りの語源には諸説ありはっきりしませんが、藪の深い田舎に帰るからという説、「宿入り」(実家へ帰る)からの転訛などの説があります。
また、関東から中部地方にかけては、7月1日は「地獄の定休日」として罪人を煮る釜のふたを開き、亡者を苛む(さいなむ)のを休んだということから「釜蓋朔日」と呼び、この日から盆入りとしました。
一方では、通常の月の16日も閻魔の縁日であることには変わりはなく、その昔はこの日に閻魔様を祀ってある神社仏閣へ行ってお祈りをするとより一層閻魔様の御利益がある、とされました。
エッ?地獄の裁判官である閻魔様に詣でる!?と思われる方も多いでしょうが、一般には延寿、災難除去、病気平癒の御利益があるとされています。また、日本仏教においては閻魔様は、「地蔵菩薩」と同一の存在と解され、地蔵菩薩の化身ともされていますから、閻魔さまというよりも菩薩様に詣でるのだと考えれば、より納得がいきます。
この地蔵菩薩は、仏教の信仰対象である「菩薩」の一尊であり、仏教の発祥の地、インドでは、大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う神様とされていました。
日本に入ってきてからは、民間信仰で道祖神としての性格を強め、また「子供の守り神」として信じられ、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれるようになり、このため、お地蔵さんには、子供が喜ぶお菓子がよく供えられています。
が、元々はお釈迦様のれっきとした弟子であり、毎朝禅定に入って修業に励んだとされています。ところが、お釈迦様の入滅してしまったため、その後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間は、現世に仏が不在となってしまうとされました。
このため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救うために、「菩薩」という存在になったとされています。
その地蔵菩薩がなぜ閻魔様と同じになったか、ですが、これは、元々インドでは、釈迦によって仏教が成立する前に、既にあった古代宗教の中で死者の国の王様だったのが、閻魔であった、ということと関係します。
人間の祖ともされ、閻魔は、サンスクリット語では、「ヤマ(Yama)」と発音されていました。このヤマとその妹ヤミーが兄弟姉妹婚により最初の人類が生まれ、ヤマはその後人間で最初の死者となったゆえに死者の国の王となりました。インドでは、古くは生前によい行いをした人は天界にあるこのヤマの国に行くとされていたといいます。
天界というと、現在の我々はまばゆい光にあふれた天国を想像しますが、この当時のインドでは必ずしも明るいイメージではなく、暗いイメージだったようです。ヤマは時として“死”と同一視され、死者の楽園の王、死んで天界にある祖先を支配する神と考えられていました。
後に赤い衣を着て頭に冠を被り、手に捕縄を持ち、それによって死者の霊魂を縛り、自らの住処・国に連行すると考えられ、またさらに下界をも支配して死者を裁き、地獄に落とす恐るべき神と考えられる様になり、ついには単なる死神としても描かれる様になりました。
ただ、一説によれば、ヤマはこのとき二つに別れ、下界の暗黒世界、すなわち地獄界の王となったのが、すなわち閻魔であり、一方、上界の光明世界である天国では夜摩天、あるいは焔摩天と呼ばれる存在になりました。
閻魔はYamaと発音されたのに対し、夜摩・焔摩はYaamaあるいはYaamaa(ヤーマ、ヤーマー)とされ、本来は別モノですが、発音が似ているため、後の世では混同され、同一視されるようになった、という説もあります。日本においても、閻魔大王のことを焔摩大王と書いたりするのはこのためです。
その後このYamaという存在は、中国にも伝わりましたが、この時には既に天国の神様ではなく、地獄専門の王様になっていました。道教における冥界である「泰山地獄」の主とされ、「泰山府君」と呼ばれましたが、のちに閻魔王、あるいは閻羅王という別名も得ました。
やがては地獄の裁判官の一人とされるようにもなり、数ある裁判官の中でもその中心的存在として、泰山王とともに、「人が死ぬと裁く」という役割を担い、信仰の対象となりました。現在閻魔様の容姿としてよく知られる唐の官人風の衣(道服)を纏った姿は、このあたりで成立したもののようです。
ただし、中国的な発想では、閻魔の尊格は永遠なものではなく、生者が選ばれて任命され、任期が過ぎれば、新たな閻魔と交替するのが当然と考えられていました。このため、唐代や明代に流行った説話には、冥界に召喚されて、閻魔となった人間の話が時々出てきます。
清廉潔白で国家を支えた優秀な官吏が、死後閻魔になったという説話もいくつかあります。例えば、北宋の政治家で能吏であったために生前から庶民に人気があった「包拯(ほうじょう)」という役人がいましたが、没後もその名声・名誉はさらに加速し、死後は閻魔大王になったと信じられていました。
このようにインドから中国に伝わった閻魔は最初から冥界の王として広まりました。ところが、日本では、原作のインドそのままに下界の盟主である閻魔と天界の盟主である焔摩天の二種が伝えられました。中国に伝わったものは最初からこの二つがひとつの閻魔大王に習合されましたが、日本ではそれぞれ別モノとして伝わったわけです。
ただ、これが伝わった奈良時代では、現世利益優先の傾向が強く、天界の存在である焔摩と閻魔のどちらもこの当時の世相のもとではあまりもてはやされませんでした。
しかし、やがて時代が下がって平安時代になると、末法思想が蔓延するようになりました。末法思想というのは、釈迦が生きていた時代と違って、その次の世は最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のことです。
この時代は貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう時期で、また武士が台頭しつつもあり、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつありました。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃しており、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想が蔓延していました。
このため、こうした末法濁世の世では、阿弥陀仏の本願力によってのみ人々は救済される、と各宗派の僧侶たちが説くようになり、仏像の前での念仏の普遍性が強調されるようになりました。このため、平安後期には焔摩や閻魔の存在は、貴族、一般民衆と広く支持されるようになります。
鎌倉初期には「地蔵菩薩発心因縁十王経」(略して「地蔵十王経」)が生み出され、この中ではじめて、焔摩を地蔵菩薩と称して閻魔と同一の尊格であるという考え方が出てきました。
この中では、地蔵菩薩は地獄と浄土を往来出来るとされ、三途の川や奪衣婆が登場し、「別都頓宜寿(ほととぎす)」と鳴く鳥が描写され、いわゆる「あの世」、「他界」についての情報が飛躍的に増えました。それまでは、黄泉国というのは、あいまいな他界観にもとづく死後の世界であり、漠然と死後ただ行く世界でした。
それに対し、この「地蔵十王経」では、中国から伝えられた情報をもとに、死した後の世界を詳細に定義付けており、この地獄の他界観は人々に新鮮に受け止められました。また、道教と儒教の影響を色濃く受けたこの観念は、人一人一人に対し大変に厳しいものでした。
例えば、その後広く信じられるようになった「地獄」という世界では、死後、人間は三途の川を渡り、7日ごとに閻魔をはじめとする十王の7回の裁きを受け、最終的に最も罪の重いものは地獄に落とされます。
地獄にはその罪の重さによって服役すべき場所が決まっており、焦熱地獄、極寒地獄、賽の河原、阿鼻地獄、叫喚地獄などがあります。そして服役期間を終えたものは輪廻転生によって、再びこの世界に生まれ変わるとされました。
閻魔王の法廷には浄玻璃鏡という鏡が設置されていて、死者の生前の善悪の行為をのこらず映し出すとされました。地獄を守護する閻魔が亡者の裁判で亡者の善悪の見極めに使用する水晶製の鏡であり、この鏡には亡者の生前の一挙手一投足が映し出されるため、いかなる隠し事もできません。
もしこれで嘘をついていることが判明した場合、閻魔に舌を抜かれてしまうといい、また、これで映し出されるのは亡者自身の人生のみならず、その人生が他人にどんな影響を及ぼしたか、またその者のことを他人がどんな風に考えていたか、といったことまでがわかるともいわれました。
また、一説によればこの鏡は亡者を罰するためではなく、亡者に自分の罪を見せることで反省を促すためのものともいわれています。
嘘をついた者は、地獄で閻魔に舌を引き抜かれる刑に処されるという俗説はその後も広く浸透しましたが、とくにこの話は聞き分けのない子供には大変効果があり、子供を叱る際によく使われるようになりました。このため、より説得力を持たせるため、和釘を引き抜くのに使われた、やっとこ形の釘抜きを「えんま」と称しました。
このように、末法思想が流行った当時は、地獄という具体的な他界観がクローズアップされ、それまでのあいまい模糊とした冥界とは異なり、明確な情報をもった仏教的他界が示されました。そしてこうした具体的な情報提供により、地獄というものの存在が人々により身近に感じられ、広く受け入れられる結果となっていった、というわけです。
さらに時代が下り、江戸時代になると、地獄の王たちをそれぞれ仏と相対させるようになりました。悪の対辺には必ず良がある、とする考え方に基づくもので、いわゆる勧善懲悪の考え方にも通じるものです。最初は閻魔大王=地蔵菩薩などのわずかでしたが、時代が下るにつれ、その数も増え、「十三仏信仰」なるものが生まれるに至りました。
冥界の審理に関わる13の仏様であり、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩がそれです。
これらの仏様には、それぞれ地獄の裁判官としての役割が定められ、地獄における13王としての名前も決められました。例えば不動明王には地獄の裁判官としては「秦広王」という名前があり、薬師如来は「泰山王」であり、また地蔵菩薩はやはり「閻魔大王」とされています。
現在でも、これらの考えに基づき、十三体の仏が転じて地獄の王となった姿を描いた江戸時代の絵が多くのお寺さんで残されており、法要をはじめあらゆる仏事にはこの掛軸を飾る風習が伝えられています。
そして、これらの仏は地獄と浄土を往来出来るとされ、地蔵菩薩については、天国におわせば菩薩ですが、地獄に行けばこれが閻魔様になると言った具合であり、こうした「あの世の仕組み」が具体的に流布された結果、閻魔様は地蔵菩薩の化身と広く認識されるようになっていきました。
と同時に地蔵菩薩は地獄においては、人々を救う唯一の希望的存在と考えられるようになっていきました。浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まりましたが、地蔵菩薩については、これを地獄における責め苦から救ってくれるヒーローとみなすようになっていったのです。
とくに地蔵菩薩は弱い子供の救済者とされました。例えば、仏画などでは、賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守る姿がよく描かれるようになりました。また、中世に流行ったといわれる「仏教歌謡」でもそうした姿が唄われるようになり、これが幼くして亡くなった子供を祀る「水子供養」に発展し、ここでも地蔵信仰が集まりました。
冒頭で閻魔様の縁日は、16日であると書きましたが、地蔵菩薩の縁日は毎月24日とされています。閻魔様=地蔵菩薩なら同じ日でもよさそうなものですが、縁日というのはいわばお祭りですから、お楽しみごとはそれぞれ別の日にして増やしたほうが良いわけです。
それにしても、こうした縁日の振り分けがどういういわれで取り決められたかはよくわかりませんが、ほかにも薬師如来の縁日は毎月8日、虚空蔵菩薩は、毎月13日といったふうにそれぞれの縁日同士がかぶらないようになっており、仏教界においてある時期、そうした交通整理が行われたのでしょう。
この地蔵菩薩の縁日はまた「地蔵盆」ともいいます。通常の月の地蔵菩薩の縁日の24日は、地蔵会(じぞうえ)、地蔵祭と呼ばれていましたが、旧暦7月24日についてはお盆期間中であり、それにちなんで地蔵盆と呼ばれるようになったことから、通常月の地蔵会も地蔵盆と呼ばれるようになったものです。
ただ、この地蔵盆は一般には寺院に祀られている地蔵菩薩を対象とした祭りではなく、路傍あるいは街角の地蔵が対象となっています。これは地蔵菩薩が道祖神と習合したためです。
習合とは、地元に定着している宗教信仰と新しく来た宗教が接触した場合に、類似する要素がいくつかあったりした時に起こる現象のことです。日本の多くの田舎では地蔵菩薩も道祖神も同じく崇め奉る存在であり、長い年月の間に二つが習合してしまい、このため日本全国の路傍で道祖神の代わりに地蔵像が数多く祀られるようになりました。
とくに、大阪や兵庫、奈良・京都といって近畿地方では、この地蔵様をお祀りする風習が根強く残っており、上述の水子供養とも関連して、地蔵盆は子供の祭りとして扱われ、地蔵盆が盛んに行われるようです。
一方、関東地方や東北地方では地蔵信仰自体が浸透していないため、地蔵盆も行われません。地蔵盆が当たり前の近畿地方出身者にとって、「地蔵盆は全国区ではない」ということは関東などへ移って驚くことの一つだといいます。
この地蔵盆を祝う風習があるためか、地蔵菩薩の対角線上にある閻魔様を祀る有名な神社仏閣も比較的関西に多いようです。例えば、京都府大山崎町の宝積寺には、閻魔・司録・司命が居並ぶ地獄の法廷を再現した鎌倉時代の木像があり、重要文化財に指定されています。
また、大阪市浪速区には、閻魔を祀った西方寺閻魔堂というのがあり、これは正式には「合邦辻閻魔堂西方寺」といいます。創建は聖徳太子であるという説もあります。
一方の関東では、鎌倉に円応寺というお寺があって有名なようです。ここの「初江王坐像」はすなわち閻魔様の姿をしています。笑っているようにみえることから「笑い閻魔」と呼ばれ、円応寺で赤ちゃんの名をつけてもらうと丈夫に育つということから「子育て閻魔」とも呼ばれています。
また、東京・文京区の源覚寺には、こんにゃくを供えれば眼病を治すという「こんにゃくえんま」像があります。鎌倉時代の作といわれ、運慶派の仏師が造立した仏像として文京区指定有形文化財にもなっています。
閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴だそうで、この右側の目が濁っている原因としては、次のような伝承が残っています。
宝暦年間(1751~1764年)に一人の老婆が眼病を患い、この閻魔大王像に日々祈願していました。そうしたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたといいます。
この閻魔大王の満願成就が何だったのかはわかりませんが、その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に供え続けたといわれています。
以来この閻魔大王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めるようになり、現在でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくを供える人が多いそうです。
この伝承からか、閻魔様はコンニャクが大好物であるとされるようになったようで、このため、閻魔様の縁日には各地にある閻魔堂で「こんにゃく炊き」の行事が行われるところも多いようです。
ところで、この閻魔様はこんにゃくが大好きと言われるゆえんとなった源覚寺は、徳川家の崇拝も篤く、とくに徳川秀忠、徳川家光から篤い信仰を得ていたそうです。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848年)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれています。
しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れ、明治時代には再建も果たされましたが、その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れました。そしてこのお寺には、別名「汎太平洋の鐘」といわれる鐘があります。
元禄3年1690年に完成し、元々当寺院所有のものでしたが、昭和12年(1937年)に当時日本領だったサイパンの南洋寺に搬出され、サイパンの人々に時を告げる鐘として使われていました。
しかし、第二次世界大戦が勃発し、サイパンは戦禍に飲み込まれ、この鐘も行方不明になっていました。ところが、戦後の1965年に米国・テキサス州にてこの鐘が発見され、その後、1974年になって当寺院に返還されました。
その返還の模様はマスコミにも取り上げられ話題となりましたが、以後毎年のようにこの鐘は除夜の鐘として用いられ、大晦日に突かれています。
その除夜の鐘から早、半月が過ぎました。今年もまた足早に時間が過ぎていこうとしていますが、今年一年が果たしてどういう年になるのか、今はまだ想像もつきません。
が、どんな一年になろうとも、あちらの世では地獄に落とされ、閻魔様に舌を抜かれるような悪いことはしないよう、むしろ善行を敷いて天上の焔摩天に愛され、どこまでも高く空に上がっていければいいな、と思う次第。
このブログを無償で綴って行くのもその善行のひとつと考え、できるだけ長く続けていきたいとは思います。が、どこまで続くことやら。続けていけるのは読んでくれる方がいつづけること、そして増えること。
ご来訪者は神様です。仏様です。今年もまた、そうした神仏のような皆様のご支持とご加護をお願いしたいと思います。