バックヤード

2015-1020981最近、「バックカントリー」あるいは、「バックヤード」とされる場所でスノボやスキーを行っていた人が遭難する、という事件が相次いでいます。

邦訳すれば「裏庭」ということになりますが、「バック」という言葉自体、なにやら謎めいています。誰も知らない秘密の世界、という響きもあるかんじで、何か楽しそうなことがありそう、と受け取る人も多そうで、それがまた若者を惹きつけるのでしょう。

これはつまりはゲレンデなどの正規のスキー場敷地内ではなく、スキー場よりさらに山奥の場所をさす言葉のようです。子供も含めて誰でもが安全に滑れるように整備してあるスキー場や、スノボヤードのような場所からさらに奥まった場所のことであり、雪がなければ山林、原野といわれ、狐狸しか住まないような場所です。

そうした人里離れた場所にアクセスし、そこでスノボやスキーを楽しむ人がいるわけですが、スキー場内のように避難場所があるわけでもなく、そうした場所へ出かけて行って方向を見失い、遭難する人達が増えている、というわけです。

誰も歩いた事が無い、滑ったことのない新雪のある場所に自分の足跡をつける、というのは確かに快感ではあります。こうした手つかずの場所に魅せられ、普通のスキー場で滑るだけでは満足できなくなった人達がこうしたバックヤードに入るようになったのでしょう。

その昔、スノボが流行り始めたころには、一般のスキー客とぶつかっては危険だから、ということで一般のスキー場ではスノボをやるのはご法度というところが多かったようです。

が、最近はスキーをする人よりも逆にスノボをやる人のほうが増え、スキーだけではスキー場の経営が成り立たないので、スノーボードを認めるところが増えているといいます。

しかし、それにしても一般のスキー客とはトラブルが絶えないので、いっそのこと、スキー客のいない、バックグラウンドならば、いざとなればスキー場へ帰れるし、誰にも気兼ねなく滑れる、という人が増えていると考えられます。

「バックカントリー」「バックヤード」という用語は、おそらく、いわゆる「山スキー」のことを「バックカントリースキー」と呼ぶところから来ているのだと思われます。

バックカントリースキーは、山岳スキー、クロスカントリースキーとも呼ばれ、アルペンスキーのような競技スキーとは違って、雪山登山と同じくらいの装備を持って山に入って行うスキーです。

スキー用具以外には、雪山登山と共通するほどの安全装備が必要とされ、一般には雪崩ビーコン、ショベル、ゾンデ棒、無線機などは不可欠です。

また、装備ではありませが、冬山遭難における捜索へ対応した保険へ加入しておくことが推奨されており、こうしたことを考えると、バックヤード・スノボ(こういう言葉があるのかどうかは知りませんが)もまた、同等の装備を持って山に入ることがしかるべきと思われます。

ところが、そうした装備も持たず、スキー場のすぐ裏山だから安全、と勝手に思い込み、遭難する、というケースが増えているわけです。たとえスキー場に近くても冬山は冬山であり、いったん天気が急変すれば、視界がゼロになり、ときには雪崩も起きうる環境です。

万全の装備を持った上で楽しむべきところをそうした配慮のなさが、事故を生みます。いったんこうした奥山で遭難が発生すると、これを救助するほうも命がけになります。自分の滑りに自信があったとしても、それと雪山におけるサバイバルは別物です。

自信過剰は慎み、他人に迷惑をかけないよう、万全な準備をしたうえで楽しんでほしいと思います。全面的に禁止しろ、などというつもりはありません。が、せめてこうしたバックグラウンドに入る人にも装備を徹底させ、入山届を出させる、といった公的な対応も今後は必要な気がします。

スキー場経営者も、自分の責任範囲外、と知らない顔をするのではなく、バックグラウンドに入ろうとしている人に対しては、注意喚起をする、などの自前措置を取ってほしいと思います。事故が起こったあとは、そのスキー場の名前もメディアで大きくとりあげられるでしょうし、看過した責任が問われることもあるわけですから。

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それにしても、最近は中高年の登山ブームが続いていて、夏山ではいわゆる「トレッキング」と称してあまり高くない山を気軽にあるく人が増えているようです。その延長で、冬山においても、いわゆる「スノートレッキング」を行う人が増えているようで、ここでもスノボと同様に事故の発生をよく耳にするようになりました。

ここでも本格的な冬山登山ではない、として安易な装備で出かけることが事故につながるわけですが、バックカントリーにおけるスノボと同じく、冬山は危険であることをわきまえた上で山に入るべきでしょう。

1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部でもはやりこのスノートレッキングをしていた男女9人が事故で亡くなりました。

ところが、彼等の装備は冬山用のきちんとしたものであり、冬山斜面でのキャンプ経験を積むことが目的だったとされています。

一行10人の最終目的地は事件発生現場から10キロメートル北のオトルテン山という山で、そこまでのルートは、事件当時の季節では踏破の難易度は極めて高いと推定されました。が、一行の全員が長距離のスキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかったといいます。

事件発生から一週間前の、1月25日、彼等は目的地近くの町、イヴデリに列車で到着。トラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80km北方にある最後の有人集落に入り、27日からいよいよオトルテン山へ向け出発しました。しかし翌日この中の一人、ユーリー・ユーディンが急病に侵され途中離脱、一行は9人になりました。

そしてこのユーリーだけがこの事件で助かった唯一の生存者となりました。その後この9人は全員死亡することになりますが、これ以降の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料にのちに推定されました。

それによれば、1月31日、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はついに山麓まで到達し、本格的な登山準備に入る一方で下山するまでに必要と考えられる食料や物資を取り分け、余剰となった分を帰路に備えて周囲に残置しました。

そして、翌2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入り、適した場所で渓谷を北に越え、そこでキャンプを張ろうとしていたようですが、悪天候と吹雪、視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れ、オトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまいました。

やがて彼らはやがて誤りに気づきましたが、1.5キロメートル下って森林地帯に入って風雪を凌ごうとせず、なぜか何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することにしました。

たった一人の生存者であるユーリーはこのことについて、「ディアトロフは既に登っていた地点から降りることを嫌ったか、当初の目的でもあった山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べています。

このディアトロフとは、一行のリーダーで、「イーゴリ・ディアトロフ」といいました。そしてこの遭難事件があった峠は、その後年彼の名をとって、ディアトロフ峠と呼ばれるようになり、事件そのものも、「ディアトロフ峠事件」と呼ばれるようになりました。

ディアトロフは、一行がヴィジャイに戻り次第、速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっていて、クラブの友人たちはおそらく2月12日までには彼から電報が送られてくるだろうと予想していました。

しかし2月12日が過ぎて連絡がなかったにも関わらず誰もこれを不審に思いませんでした。ディアトロフは登山前に一人残してきたユーリーに、場合によっては遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、このことをユーリーから聞いたスポーツクラブの面々の誰もそんなこともあるだろう、と思ったからでした。

こうした冬季の遠征には、天候の悪化などによる数日の遅れはつき物です。しかし、2月20日になってもディアトロフらからの連絡はなく、ようやく、遭難の可能性が取沙汰されるようになり、一行の親族たちの要請で、彼らが所属していた「ウラル科学技術学校」からボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊が送られました。

さらにその後、軍と警察が腰を上げ、救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなっていきました。

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2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で酷く損傷して放棄されたテントを発見しました。テントの第一発見者は学生で、彼はこのとき、テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われており、中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていることを発見しました。

テントは内側から切り裂かれており、8つないし9つの、靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、谷の反対側、1.5キロメートル北東の森に向かって続いていましたが、500メートル進んだところで、雪に覆われて見えなくなりました。

そして、捜索隊はこの森のはずれの大きなヒマラヤスギの下で、下着姿で靴を履いていない2人の男性の遺体、そして焚き火の跡を発見しました。木の枝が5メートルの高さまで折られていたことから、おそらく一行の誰かが木の上に登って、「何か」を見張るためにキャンプの方向を見ていた可能性があることがわかりました。

そして捜索隊はさらに、このヒマラヤスギとキャンプの間で、3人の遺体を発見します。遺体はそれぞれ木から300メートル、480メートル、630メートル離れた位置から別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していました。

残り4人の遺体を探すのには、更に2ヶ月を要しました。その結果、残りの遺体は、ヒマラヤスギの木から更に森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見されました。

4人は他の遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を残りの者たちに譲ったらしいことを示していました。そのうちの一人は先に亡くなった同僚の人工毛皮のコートと帽子を被っており、また足には先に亡くなった5人の男たちの衣服の一部の切れ端が巻かれていました。

最初の5人の遺体が発見された直後、死因審問が始められましたが、検死の結果、5人は死に直接結びつく怪我は負っていなかったことがわかり、全員の死因が低体温症であることが判明しました。

ただ、うち一人は頭蓋骨に小さな亀裂を負っていました。これが何を意味するかは判明しませんでしたが、少なくともこれが致命傷になったとは考えられませんでした。

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ところが、さらに5月になって発見された4人の遺体の検死結果は、事情が違い、明らかに異常でした。彼ら3人のうちの一人は、頭部に大きな怪我を負っており、2人は肋骨をひどく骨折していました。

検視官のボリス・ヴォズロジデンヌイ博士は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、交通事故の衝撃に匹敵するとの検視結果をのちに上梓しています。特筆すべきは、遺体は外傷を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、驚くべきことにこの肋骨を折った男の一人が舌を失っていたことでした。

肋骨の骨折や頭部の負傷は、雪崩によるものとも考えられますが、雪崩によって舌を失う、ということは通常では考えられません。このため、当初は、この地に古くから住まうとされる「マンシ人」と呼ばれる先住民族が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れました。

ところが、さらに細かい現場検証の結果からは現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという結論が得られ、この先住民族襲撃説は否定されました。さらには遭難した彼等の多くが薄着だったことが議論の対象となりました。

気温がマイナス25度から30度と極めて低く、嵐が吹き荒れていたにも関わらず、遺体は下着だけでしかも彼らの内の何人かは片方しか靴を履いておらず、その他の者に至っては、両方とも靴を履いていない者もいました。

上述のとおり、あとで亡くなった4人のうちの何人かの足には、先に亡くなった5人の衣服を引き裂いたらしい衣服の切れ端が巻かれていました。先の5人の死因は、明らかに低体温症によるものと考えられましたが、なぜ衣服を脱いでいたかについては、「矛盾脱衣」と関連があるのではと推察されました。

これは、人が低体温症にかかったとき、失見当識状態、すなわち時間や方向感覚が失われ、相違を区別して認識できなくなるような、認識力を失う状態のことで、いわゆる認知症のような症状に陥ることです。

また、低体温症だけでなく、極度の混乱状態に陥った場合にもこうした症状になることがあるといい、戦争などでアドレナリンが高まり、好戦的な状態になる場合にもみられる症状とされています。

低体温症の場合、中程度から重度の場合こうした症状を呈する場合があるといい、これがおそらく彼らが服を脱いだもっともまともな理由と考えられました。服を脱げば脱ぐほど、身体から熱を失う速度は早まり、極寒のウラル地方では死に至る可能性があるのは当然です。

また、この事故の原因に関して考えられるシナリオのひとつは、押し寄せてきた雪が夜のうちにテントを潰し、キャンプ地を破壊したというものでした。一行はテントを切り裂いて逃げ出しましたが、靴や余分な衣服を雪崩で失った、というわけです。

氷点下の中で湿った雪に覆われると、15分以内に極度の疲労や低体温症による意識喪失が起こり、生存に関わる危機を招きます。

しかし、残る4人の一行の一人が舌を失っていたこと、雪崩の力だけでは説明できないような、強い圧迫力によって死亡したと想像されるような兆候が遺体に見られたことから、別の原因があるのではないか、と取沙汰されるようになっていきました。

ただ、やはり雪崩説が最も有力視され、テントを切り裂いて脱出した面々のうちの4人は、自分たちが人里離れた場所に居るのも構わず、助けを求めて移動しようとし、渓谷に滑落したとも考えられました。

彼らのうち3人の遺体がひどい骨折を負っており、かつ彼らが渓谷の中で4メートルの深さのところに横たわっていたのも、彼らが滑落したことの証左とも見なしうるからです。

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雪の降り積もった山の斜面における雪崩は、特段珍しいものではありません。この一帯は雪崩の起こりやすい地域ではなかったとはいいますが、まったく可能性がないわけではなく、とくに表層雪崩は新雪が積り、人が雪塊を崩したところでよく起こります。

事件のあった夜は雪が降っており、キャンプ地は山の斜面にあって、一行がいたために雪塊は不安定になっていたと考えられました。そして、テントは部分的に切り裂かれ、雪に覆われていたことも、小規模な雪崩がテントを押し流したという説を支持する根拠になります。

とはいえ、捜索隊はキャンプ地から続く足跡を発見しており、この足跡は雪崩によってかき消されてはいなかったという事実があり、この説と矛盾していました。キャンプが発見される以前の25日間に降雨がなかったことが確認されており、彼等が現場に到着したころに雨が降ったとすれば、この足跡は表面が雨で凍ったために保存されたのでしょう。

が、その後大量の雪が降り、これが原因で表層雪崩が起き、雪と彼らだけが流された場合、この積雪前に雨で固く締まった足跡だけが保存される可能性はあります。とはいえ、厳冬期に降雨と降雪の両方が起こるという特殊ケースが成立する、とした仮定の上での話であり、通常ではなかなか考えにくいシチュエーションです。

さらには一行の一人が舌を失っていたというのは異常です。低体温症になり、朦朧とした意識の中であやまって噛み切った、あるいは雪崩に遭った衝撃で思わず噛んでしまった、といった憶測もできます。が、しかしこうした場合には通常、歯を食いしばるものであり、古今東西、雪山で舌を噛んで人が死んだという話は聞いたこともありません。

こうしたことから、この事件は、超常現象から軍の秘密兵器実験、はたまた宇宙人襲撃説などを持ち上げようとする人もでてきました。そしてそうした中で、ジャーナリストらは、入手可能な死因審問の資料の一部を入手して真相を明らかにしようとし、その結果分析を公表しました。

それによれば、一行のメンバーのうち、6人は低体温症で死亡し、3人は致命的な怪我を負って死亡していました。ここまでは既存の事実ですが、このほかにも9人以外に、ホラート・シャフイル山に他の者がいた様子も、その周辺地域に誰かがいた様子もなかったこと、テントは内側から切り開かれていたこと、などが明らかになりました。

さらに一行は、最後に食事を取ってから6時間ないし8時間後に死亡しており、キャンプに残された痕跡は、彼らが自ら進んで徒歩でテントから離れたことを示していました。

検視を行った、ボリス・ヴォズロジデニヤ博士は、3人の遺体が負った致命傷は他の人間によるものではないとし、「非常に強い衝撃によるものであり、その証拠に遺体の軟部組織は何ら損傷を受けていなかった」と報告書に書いていました。

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しかし、このほかにも作られた資料には、メンバーの内臓器官の状態に関する情報があったはずですが、これが含まれていませんでした。

ところが、更に驚くべきことに、何人かの犠牲者の衣服には、高い線量の放射能汚染が認められていた、という事実が当局の捜査資料の中に含まれていたことがわかりました。

これまでの多くの宇宙外生命体との接触物語の中には、頻繁に彼等との接触の後に放射能が検出された例が報告されており、またUFOが着陸した跡地とされる場所からは少量の放射能が測定された、といった例が時折あるようです。

さらには、事件のあった夜、事件の発生地点から南に50キロメートル離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、北(おそらく、ホラート・シャフイル山の方角)の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告している事実が当局の報告書から削除されている、ことなども判明しました。

同様の“光球”は、1959年2月から3月にかけて、この近隣地域で、気象・軍関係者を含むそれぞれ無関係の目撃者によって目撃されています。従って、あぁやっぱりエイリアンの仕業だったか、と誰しもが思うでしょう。が、これは少々短絡的であり、これらは後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが、証明されました。

ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われたことがあり、バイコヌール宇宙基地という場所から、ソビエト連邦内の主要な核実験場だった場所に直接通じる道の途上に位置していたこともわかっており、このことから、彼等の死には軍が何等かの関与をしていたのでないか、とも言われるようなりました。

また、一部の研究者の報告よれば、「大量の金属くず」が、この地域に置かれていたとのことで、これは軍がこの地域を何らかの目的で密かに利用し、これが事実だとすれば軍はそのことの隠蔽のために取り組んできたのではないかという憶測もできます。

ところが、当局の最終的な調査結果は、全員が“抗いがたい自然の力”によって死亡したというものであり、死因審問は1959年5月に公式に終了し、「犯人はいない」と結論づけられました。

事件の資料はその後、機密文書保管庫に送られ長い間書庫に眠っていましたが、ソビエト連邦が崩壊した1990年代になってようやくコピーが公開されるようになりました。

ところが、この公開にあたっては、さらに幾つかの資料が失われている、という指摘が出てきました。公開に先立ち、1967年には、ジャーナリストのユーリー・ヤロヴォイという人物が集めていた資料などです。彼は、この事件後、これにインスピレーションを受けた小説「最高次の複雑性」を出版していました。

ヤロヴォイはディアトロフ一行の捜索活動や、捜査の初期段階において公式カメラマンとして関与しており、事件に対する見識を有していました。しかし、この小説は事件の詳細が秘匿され、現実の事件と比較すると美化されており、一行のリーダーだけが死亡する結末など、よりハッピーエンドになるよう書かれていました。

ヤロヴォイの知人によればと、彼はこの小説の別バージョンを幾つか書いたようですが、いずれも検閲で出版を拒否され、1980年に彼が亡くなって以降は、なぜか彼の持っていた写真や原稿などの資料は全て失われてしまっていたとのことです。

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このため、1990年代のソビエト当局によるこの事件資料の公表後、この中に含まれていなかった事件はどこへ行ったのかを改めてジャーナリストたちが詮索し始め、具体的な捜索を始めました。そしてその結果、ヤロヴォイが保存していた資料などの詳細の一部が見つかり、これらは地元メディアなどで、公にされるようになりました。

それらの中には、ヤロヴォイが集めていた資料のほか、アナトリー・グシュインという作家が、警察当局が死因審問のオリジナルの資料を調査し、それらを出版物に使うことを認める特別許可を出させて得た資料などもありました。

さらには同じ頃、いくつかの資料のコピーが、他の熱心な研究者の間に出回り始めていました。グシュインは、彼の著書「国家機密の価値は、9人の生命」の中で、そうした彼我の資料をまとめた結果を公表しました。

が、この本の内容は「ソビエト軍の秘密兵器実験」説に入れ込み過ぎているものになっていました。このため、事実と反するとして一部の研究者が批判をし始めたため、公の議論は軍関与説からむしろ超常現象への方へと向かっていきました。

この結果、事件後、30年間口を閉ざしていた人々が、事件に関する新たな事実を公表するようになり、そうした中の一人に、1959年に公式の死因審問を率いていた警察関係者がいました。

彼は、当時の捜査チームは事件を合理的に説明することが出来なかった上、地域の高級官僚から、死因審問を中止して、捜査チームが見た“飛行する球体”に関する資料を機密にするよう、直接指示を受けた、と自著の中で公表しました。そして、UFOであるとは断定しませんでしたが、今も何等かの超常現象であったと信じている、とも述べました。

こうした証言もあり、残された資料の再分析がさらに進められるようになりました。現在ではロシア内でも言論の自由化がかなり進んだことから、その後もこの事件に関して多くのジャーナリストやメディアが興味を持ち、たくさんの報告書が出されるようになりました。

そして2000年には、地元テレビ局が、ドキュメンタリー番組「ディアトロフ峠の謎」を制作しました。制作にあたっては、事件をモデルにドキュメンタリー仕立てのフィクション小説を執筆したアンナ・マトヴェーエワという作家が協力しました。

この小説の大部分は事件の公式の資料や、犠牲者たちの日記、捜索に携わった者からのインタビューや、映画製作者が集めたその他の資料の引用から成っていました。

これらの資料は、現在においてもこの事件に関して公表されてきた情報源の中としては一級品として扱われ続けており、その資料やその他の文書のコピーや写しが、熱心な研究者に向けて、徐々にWebフォーラムで公開されはじめているといいます。

さらに、事件の起きた、ウラル地域の工業・文化・教育の中心地で、交通の要衝でもある「エカテリンブルク」では、ここの最高学府のひとつであるウラル工科大学の助けを借りて、「ディアトロフ財団」なるものまで設立されています。

そして、この財団の理事長である、ユーリー・クンツェヴィチは、事件当時に12歳であり、一行のメンバーたちの葬式に出席しており、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想しているそうで、事件の直接の目撃者の一人とされています。

財団の目的は、ロシア当局に対して事件の再調査を開始するよう求めることと、亡くなった者たちの記憶を保存するディアトロフ記念館を維持していくことだそうです。が、果たしてこうした資料や記憶の中から真相は究明されるのでしょうか。

バックヤードでスノボやスキーを楽しむあなた。遭難や雪崩の心配だけでなく、正体不明の地球外生命体に襲われる危険性も考えておいたほうがよいのかもしれません。

明日は太平洋側でも寒気が入り込み、ここ伊豆でも久しぶりに雪になりそうな気配です。

この別荘地も「バックヤード」になるやもしれません。私自身も宇宙人に狙われる心配をしておきましょう。

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