春よフク

2015-8959今日は、2月9日ということで、29(ふく)の語呂合わせにより、「河豚(フグ)の日」ということになっているようです。

山口県の下関市は、“ふく”の本場とされ、多くのフグを扱う業者が集積しており、このため、「下関ふく連盟」という協同組合が存在しており、ここが1980年に制定した記念日だそうです。

この“ふく”という呼び方ですが、山口では、フグの事を濁らずにこう呼ぶ場合が多いとされ、これは、フグが「不遇」に繋がり、フクが「福」につながるからだとまことしやかによくいわれます。

が、私が知る限りでは、最近はフクなどとわざわざ言い換える人は山口県人にはほとんどおらず、お年寄りはともかく、一般にはフグと普通に発音する人のほうが多いように思います。

フグの本場、といわれるゆえんは、下関には、日本で水揚げされる天然のフグの8割近くが集まり、また長崎県や熊本県で、主に生産される養殖トラフグも大部分が集まる一大集積地であるためです。下関に集まったフグはここで売買され、毒を持つ内臓部分などを除去する加工が成されたあと、東京や大阪の消費地へと運ばれます。

特に下関の「唐戸魚市場」は、1933年(昭和8年)に開設された老舗のフグの取引所として知られていました。が、様々の変遷の後、平成13年にリニューアルされ、現在は食の人気観光スポットとして多くの観光客が訪れる場所としてのほうが有名です。

従って、現在ではフグのセリのほとんどは唐戸市場から分離した「南風泊(はえどまり)市場」で行われています。唐戸よりも大型船が接岸できるためであり、日本最大のフグ取り扱い市場として知られています。

一方、この唐戸と呼ばれるこの土地は、下関市役所のある市中心部に古くからある港町・宿場町であり、その昔「赤間関」と呼ばれていた関門海峡に面しており、現在でも同市の中心地です。

下関市の中心地であるだけでなく、九州方面への海の玄関口として発展した町ですが、1970年代に入ってからは、山陽新幹線や関門橋の開通によって下関の通過都市化が進んだこともあって、一時期はかなりさびれた時代もありました。

平成に入ったころには、海岸沿いでは老朽化した倉庫や建物が立ち並び、さらに下関駅東側の地区では旧国鉄貨物ヤード跡地が広がっていて、いかにも殺伐としていました。が、その後再開発が進み、海峡沿いにおいて「あるかぽーと」および「海峡あいらんど21」と呼ばれる商業地区が形成されました。

倉庫群が一掃され、埋立地であるこの「あるかぽーと」の一角には、市立水族館でもある「海響館」がオープンするとともに、新たな「唐戸市場」が改築されて利用されるようになり、さらには複合飲食施設である「カモンワーフ」がオープンすると、一大観光地として脚光を浴びるようになりました。

この海響館は、この唐戸地区から7~8kmほど東の「長府地区」にあった「下関市立水族館」の施設を移転してきたもので、フグの町下関を代表する施設ということで、ここにある大小の水槽には、100種類以上の世界各地のフグが展示されています。関門海峡を見渡せる風光明媚な場所に立地しており、私も大好きな水族館のひとつです。

このように、山口といえば、フグ、といわれるほど山口はフグの名産地とされているわけで、山口県はこのフグ「県魚」と指定しているほどです。また、山口県警のマスコットは「ふくまるくん」といい、フグが警察官の帽子をかぶり、ベルトをしている、というユーモラスなもので、県内のあちこちでこのキャラクターをみかけます。

このように山口、とくに下関とフグは切っても切り離せない、といった印象がありますが下関がフグの集積地となった背景としては、やはり山口沿岸ではフグがたくさん採れる、ということがあります。

私が子供のころにも、海釣りに行くとやたらに釣れたのが、フグでした。が、もっともこのフグは「クサフグ」といい、一応食用といわれて美味とされますが、調理師免許がないと調理できないもので、日がな一日釣りをしていても、こればかり釣れてほかのものが釣れずに辟易した思い出があります。

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ほかにも食用に適したフグとされるものは多数あるようですが、中でもトラフグは高級魚とされ、これもまた下関沖の玄界灘沖から瀬戸内海西部沿岸に近い海で捕獲されます。下関は、東シナ海、日本海と瀬戸内海を結ぶ交通の要衝の地であり、瀬戸内海以外にも東シナ海、日本海などの漁場も近く、フグのような魚介類の集積地としても最適です。

下関はこの豊かな漁場を足場に発展した漁業の町といえ、さらに明治期に入ると西洋の漁法が取り入れられ、トロール船による遠洋漁業やノルウェー式捕鯨の一大拠点ともなりました。

後の日本水産、現在の「ニッスイ」の前身である、田村汽船漁業部が下関に設立されたのが1911年(明治44年)、また、後の大洋漁業、現在の「マルハ」の前身である林兼商店が創業されたのが1913年(大正2年)であり、日本の水産業の曙はここから始まったといっても過言ではないでしょう。

下関はまた、日本海、瀬戸内海、太平洋(豊後灘)の交点に位置しているという関係から、早くから鉄道も敷設され、交通の要衝となりました。そしてこれらのさまざまな要因が、この町を日本一の漁業の町といわれるまでに発展させた理由でもあります。

しかし、1961年に28万トンという過去最大の漁獲高をあげて以降、年々漁獲高は低下していきました。これは、単に漁獲高が減ったためだけではなく、冷凍輸送やトラック輸送が発達し、他の地域の漁港が近代化したため、下関以外を経由して大都市圏への輸送が可能となったという社会インフラの変化があったためです。

ただ、乱獲による漁業資源の低下、捕鯨の禁止なども理由としてあげられないわけではなく、下関は捕鯨の町という側面もありましたから、やはり捕鯨をやめたことによる凋落の影響は大きかったでしょう。

このため、下関は従来の漁獲物に加え、より付加価値の高い漁業への転換をせまられるところとなり、そのなか着目されたのが「フグ」というわけです。

この魚で町を活性化させようと考えた人が多数現れ、彼等はフグを取引するための新しい市場を開き、フグ関連のイベントなども行って下関ブランドのフグの大衆化に尽力するとともに、フグの養殖化にも取り組みました。

こうした活動を県や市などの行政も積極的に後押ししたこともあり、その後下関はフグの一大集積地として成功をおさめるようになり、フグといえば山口、その中でも下関、といわれるほどの成功をおさめるほどになりました。現在も、フグのなかでもとくに高級とされる天然トラフグは、全国の7割から8割が下関で取引されています。

こうしたフグの集積はまたフグをさばく「加工業」の発展を促し、フグの加工に必須である「身かき」「皮むき」などの加工場が下関付近に多数集積するという結果を生みました。

ご存知のとおり、フグは毒を持つため、その加工技術においては他の魚と異なる技術が必要であり、一朝一夕で習得できるような単純な技能ではありません。こうした技術を持った職人さんは、他地域では多数確保できないことも、ここにフグ専門の加工業者が集積する一因です。

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しかし、近年は漁獲不振により山口県近海で獲れるフグの漁獲高は全体的に少なくなっています。

トラフグは、黄海から東シナ海、日本海の能登半島付近まで広く分布しており、夏から冬にかけて黄海および東シナ海は餌を求めて回遊し、1月から3月にかけて産卵のため、九州の長崎や熊本、山口県などの瀬戸内海、玄界灘や若狭湾へとやってきます。

また、瀬戸内海系のトラフグは、夏から冬にかけて伊予灘、紀伊水道、豊後水道辺りを回遊し、春になると産卵のため瀬戸内海の浅瀬にやってきますが、上述の東シナ海、日本海系群との交流もあるといわれています。

これらのフグを、漁師さん達は主に一本釣や延縄(はえなわ、一本の糸に多数の枝別れした針をつける)によって釣りますが、底曳網や定置網、刺網を使ったやや大規模な網漁により行われるころもあります。特に高級とされるトラフグは、延縄を海底に垂らして引く、という「底延縄」をもちいて捕獲されることが多いようです。

これらフグ延縄漁は、1965年に日韓漁業協定が締結されると、フグの魚場は東シナ海、黄海へと大きく広がり、これとともに下関に水揚げされる天然のトラフグの漁獲高は急激に伸びました。

しかし、1977年に北朝鮮が200海里の排他的経済水域を宣言すると北緯38度以北への出漁ができなくなり、漁獲高は減少傾向をみせるようになりました。さらにはフグの産卵場である瀬戸内海沿岸の埋め立て、乱獲や韓国漁船や中国漁船によるフグ漁の活発化によっても減少し、1990年代に入った以後も漁獲高は低迷を続けています。

フグ延縄漁を行う漁船の数も年々減少し、下関沿岸で1988年には200隻以上が操業していたものが、2000年には29隻にまで減少したといい、多数操業していた小型船は、フグ漁専門では採算が合わず、他の漁と平行して行う状況に置かれています。また、冬場はフグ漁を行うものの、他の時期はアマダイに切り替えるなどの措置を行っているようです。

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ただ最近ではこうした天然ものに代わって、養殖フグが盛んに行われようになっており、年々増減を繰り返していますが、全国のフグ取引量およそ10万トンのうちの、だいたい4~5割ぐらいが養殖フグです。

1979年に唐戸魚市場に初めて養殖フグが上場されたときはまだ天然フグが圧倒的に多かったようですが、1990年代には一時、天然トラフグと養殖トラフグの水揚げ高が逆転したこともありました。

また、輸入物も増えており、この10万トンの取引量のおよそ半分は、海外からのものです。輸入先の99%は中国であり、残りは韓国で、2002年、初めてフグの輸入量が国内生産量を上回りました。近年はこれらの国でも養殖技術が向上しており、国内産の養殖フグも押され気味のようです。

ただ、下関がフグの一大集積地であるということは今も変わらず、前述のように、東シナ海、黄海、日本海の遠洋や瀬戸内海など近海で取れたフグが漁船で直接運び込まれるほか、韓国や中国からの輸入物もここに船で運び込まれます。日本国内ではこれ以外には、若狭湾や伊勢湾、遠州灘などで捕獲されたフグも陸路トラックにより運び込まれます。

冷凍技術の発達により、漁獲されたフグを直ぐに絞めて冷凍保存されて運ばれる場合もあるようですが、高級とされるトラフグなどではこれをやると味が落ちてしまうため、生きたまま、水槽に入れられて搬送されるケースが多いようです。

こうして集められたフグは、「袋せり」という独特の方法で競りにかけられます。これは、仲介者と買い手が、「ええか、ええか」の掛け声とともに、他者から見えないように服の袖から下を互いに筒状の布袋の中に入れて、仲介者の指を買い手が握ることで値段をつける取引です。

指の握り方によって仲介者に値段を伝えるわけですが、袋の中で行われるため、どの買い手がどのような値段をつけたかは分からないようになっています。競りのスピードは速く、トロ箱一つがわずか数十秒で競り落とされるため、買い手はフグの善し悪しを素早く判断し、その値段を決めねばならず、かなりの熟練を要する取引方法です。

このように、下関には内外から多数のフグが集積され取引されているわけですが、これほど多くのフグが扱われる理由はただひとつ、フグは魚の中でもとくに美味、とされるほどの高級魚であり、高値で売れるからです。

その食用の歴史は古く、2000年前の貝塚からはフグの骨が発見されており、縄文時代から食べられていたと考えられています。豊臣政権下の時代に行われた朝鮮出兵の際、兵士にフグによる中毒が続出した、という記録が残っており、このため秀吉はフグ食禁止令を出したそうです。

徳川氏に政権が変わった後にも、武家では「主家に捧げなければならない命を、己の食い意地で落とした輩」として、当主がフグ毒で死んだ場合には家名断絶等の厳しい対応がなされたといいます。とくに長州藩は厳しく、家禄没収などの厳しい処罰が定められていたそうで、また吉田松陰は自身の文筆のなかで武士のフグ食を批判しています。

こうしたことから、そもそも山口県ではフグを積極的に食べる、という風習は昔からなかったようです。現在日本最大のフグの集積地である下関を擁しているのに意外なことです。

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その後、明治になり、この新政府も1882年(明治15年)に河豚を食べた者を拘置・科料に処する法令を出しています。フグ中毒の増加したためで、「河豚食う者は拘置科料に処する」とした項目を含む違警罪即決令でした。

ところが、この明治政府の重鎮で、しかも長州出身の伊藤博文は、地元の下関でこれをこっそり食べたといいます。

現在、関門海峡には関門橋がかかっていますが、この下関側のやや南側に、源平の合戦の際に亡くなった安徳天皇の御陵がある「赤間神宮」というお宮があります。海峡を望む高台に位置し、眺めがよく、気持ちのいい神社ですが、この神社に隣接して、「春帆楼」という割烹料亭店があります。

ここにはもともと、「阿弥陀寺」という寺があり、このためこの一帯は現在も阿弥陀町という名称を冠しています。この寺をその後、九州の中津藩からこの地に移り住んできた医者が買収し、ここに「月波楼医院」という眼科を開院しました。ところがこの医者は早くに亡くなり、その未亡人が一人残されました。

眼科医は、藤野玄洋、未亡人は、ミチといいますが、この藤野玄洋は生前、伊藤博文と仲がよかったといいます。そして、この「春帆楼」という名は、伊藤が春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様子を見て、命名したと言われます。

夫の亡きあと、旅館兼料亭を創業したらどうか、と提案したのも伊藤のようで、おそらくその建設資金もかなり伊藤が援助したものと考えられ、その完成は、1884年(明治17年)のころのようです。

この春帆楼で伊藤がフグを食べたという経緯ですが、上述の通り、このころ明治政府が発布した禁食令が出ており、長州でもこれが遵守されていました。が、これは表向きだけで、下関の庶民は昔から手料理でフグを食べていたようです。

おそらくはこの春帆楼でも裏メニューとして客に提供していたと思われますが、そんななかの1887年(明治20年)暮れ、伊藤博文公がふらりと春帆楼に顔を出しました。ところが、おりしも海は時化続きで魚がまるで捕れない日が続いており、困り果てた女将のミチは、お手討ち覚悟でご禁制のフグを伊藤の前に出しました。

伊藤は無論、政府の重鎮ですから当然それが政府が禁止している食材であることは百も承知でした。しかも、彼は若いころから親友である井上薫や親分的存在の高杉晋作らのワルとつるんで、フグを何度となく食していたため、その味は知りつくしていました。

しかし、伊藤はこのとき、ジロリ、とミチを一瞥しただけで何も言わず、まるで初めてのように何食わぬ顔でフグを食したといいます。

この春帆楼で出されたフグがどんなふうに調理されたものだったかはよくわかりません。が、通常のフグ刺しなどのほかに、絶品とされる白子などもあったのでしょう。伊藤はそれらを残さずたいらげたあと、その味を絶賛したといいます。

そして、翌年1888年(明治21年)には、当時の山口県令(知事)であった原保太郎に命じ、山口県内だけでもフグを解禁しろ、と命じたといわれており、こうして春帆楼は「ふく料理公許第1号」として広く知られるようになります。

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その後、東京帝国大学医科大学の初代薬物学教授で、日本における薬理学的研究の草分けともいわれる「高橋順太郎」医学博士らが、フグ毒の化学的、薬理学的研究を推し進め、1889年(明治22年)にフグ毒の組成をほぼ特定しました。

そして、この毒が生魚の体内にあること、水に解けやすいことなども解明したことから、フグ中毒にかかった場合の対処法なども周知されるようになり、毒性のある部位などを安全に取り除く調理法などの研究も進みました。

その結果、明治政府もフグを解禁するようになり、フグ食の文化は山口県だけでなく全国にも普及するようになり、今日に至っています。

ちなみにこの、春帆楼は、ふぐ料理公許第一号店として名が知れ渡ったあとも、日清戦争後、1895年(明治28年)に締結された日清講和条約(下関条約)の締結会場ともなり、さらに全国的に有名になりました。が、1945年、空襲で家屋焼失。戦後は東京の不動産会社がその跡地を取得して、現在の建物が再建されました。

が、この会社はその後会社更生法の適用を受けて倒産。今はオリックス関連の不動産会社が経営しているということです。

往時には、昭和天皇・香淳皇后ご夫妻が、山口国体開催の時などに2度に渡ってここに宿泊するほど格式の高い旅館であり、敷地内には現在も日清講和記念館(登録有文化財)、伊藤博文・陸奥宗光の胸像など、講和条約時の記念物が鎮座しています。

こうして全国で食されるようになったフグですが、今もフグに当たって死亡する、という事故が時々あります。高級食材とされ、フグ調理の許可を持たない人にしか調理できないがゆえに高価になりがちであり、このため素人が自分で調理しようとするためと考えられます。

しかし、所詮は素人であり、うまく毒を取り除けず食中毒をおこすわけですが、1996年から2005年の10年間だけでも全国でフグによる食中毒は315件発生しており、31名が死亡しています。

フグの毒の部分を取り除くためには、ふぐ調理師免許という各都府県が発行する免許が必要となる、とされています。この資格は、各都府県の「ふぐ条例」により定められていますが、すべての県が定めているわけではなく、例えば北海道にはこうした条例はありません。

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ところが、このふぐ条例は、あくまで「条例」にすぎず、法律ではありません。従って、ふぐ料理についての営業施設・処理施設・調理師等を管理については、各都道府県の裁量に任されており、調理師の試験もある県とない県があり、ある県でもその試験制度に細かな違いが存在します。

大阪府の条例を例に取ると、ふぐ販売営業を許可制とし、専任のふぐ取扱登録者、ふぐ調理師によるフグ毒を除去する調理と有毒部分の適切な処理を義務付けています。が、こうした条例がない県では、単に「ふぐ取扱指導要綱」という形で規定しているだけのところもあります。

また、「ふぐ調理師」というのも俗称であり、都道府県によっては、ふぐ包丁師、ふぐ取扱者、ふぐ処理師、ふぐ調理士、ふぐ取扱登録者、ふぐ調理者とその呼び方が違います。

国家資格ではないわけで、ふぐ調理師の免許や資格は各都道府県が個別に定めているため、せっかく資格をとっても特段の定めのない限り当該都道府県内のみでしか通用しません。

従って、大阪の調理士さんが、東京へ出て行って、大阪の条例に定められた方法でフグを調理して客に提供すると、東京の条例に違反しているとされて、罰せられる可能性があります。

こうしたことから、「全国ふぐ連盟」は日本全国で統一した制度を求めているようですが、いまだ実現せず、都道府県によって免許や講習受講による「資格」取得の条件や難易度は異なるばかりか、いまもって講習において受講資格を定めていない自治体や、受講後の試験のない自治体もある、というのが現状です。

山口県には無論、フグ条例はありますが、面白いことに、フグのメッカであるこの県が条例を定めたのは、全国の都府県の中で最も遅い1981年であったといいます。最初に制定したのは、大阪府で1948年ですから、33年もあとのことになります。

この間、どうしていたのかと思うのですが、伊藤公のころと変わらず、どこか曖昧なままに中毒を起こすかもしれないフグを客に出し続けていたのでしょう。

総理大臣を8人も出したように(菅元総理を入れれば9人)、組織の力をフルに活用する派閥名手が多く、理論的でクールな現実主義者が多いといわれる県民性であるにもかかわらず、どこかこうしたおおらかなところがある長州人らしい、と私などは思ってしまいます。

いずれにせよ、こうした条例がない、または専門の調理師さんの養成が行われていない県では、フグは食べない方が無難かもしれません。条例がないというのは、そもそもあまりフグの流通のないところに多く、例えば北海道や山形県を除く東北のすべての県では、ふぐ調理師制度はありません。

従って、こうした地域でもし「フグ刺し」がメニューに上がっている料理店があったら、ちょっと考えた方が良いかもしれません。

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フグを食べて死んだ人の中には歌舞伎役者で、人間国宝だった「八代目坂東三津五郎」のような有名な人もいます。

昭和50年(1975年)1月、京都で公演中に、近くの料亭で肝を四人前食べて中毒死されたもので、食通として知られていた三津五郎はこのとき、渋る板前に「もう一皿、もう一皿」とねだったそうです。

ところが、この事故は思わず余波を呼び、危険を承知の上で毒性の高い肝を四人前もたいらげた三津五郎さんがいけなかったのか、フグ調理師免許を持っている板前の包丁さばきがいけなかったのかで、かつてなかった大論争を引き起こしました。

結局裁判沙汰まで発展し、その公判では板前の情状を酌量しつつもその「中毒死の予見可能性」における過失は覆いがたいとして、業務上過失致死罪及び京都府条例違反で執行猶予付きの禁固刑という有罪判決がでました。

それまではフグ中毒事件を起こした調理師に刑事裁判で有罪判決が下ることは稀だったことから、この判決は世間を驚かせ、以後「フグ中毒」といえば「三津五郎」の名が必ず引き合いに出されるほどになったといいます。

関西では「当たれば死ぬ」ことから、フグは、「テッポウ」(鉄砲)とも呼ばれているそうで、またはこれを短くした「テツ」と呼ぶそうです。ほかに隠語として、長崎県島原地方では「ガンバ」と呼ばれています。「ガンバ」とは島原では棺桶の方言です。美味なフグを食す際は傍らに棺桶を用意せよというわけです。

また明治時代の文明開化期には、当時精度の低かった天気予報に引っ掛けた洒落で、「測候所」とも呼ばれたそうです。あまり当たらないが、たまに当たる、の意味です。

その天気予報によれば、ここ伊豆では、今週から来週に至ってはしばらく晴天が続くようです。去年の今ごろは、大雪で悩まされたわけですが、果たしてこの天気予報、当たっているでしょうか。

2015-9086伊豆、達磨山にて

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