神代の国から

2015-8657今日は、建国記念日ということで、祝日です。

改めてこの「建国」の意味を振り返ってみると、これは、「神武天皇」が、紀元前660年にはじめて皇室における初代天皇として即位した日、とされています。

紀元前?と改めて驚いてしまうのですが、歴史的にはこの時代はまだ弥生時代であり、縄文時代に続き、紀元後3世紀中頃までにあたる時代です。弥生時代自体も、紀元前3世紀ごろが始まりだという説もあるくらいで、だとすれば極めて縄文時代に近い時代の天皇ということにもなります。こののちの古墳時代にもなっていない時代です。

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まったとされます。この時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となりましたが、社会構造の根本は旧石器時代と大して変わらず、実力社会でした。

このため、水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われ、やがて開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行するなかで各地に小さなクニが生まれました。

しかし、大型化したこれら集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが絶えず、争いを通じた集団の統合・上下関係の淘汰の中で3世紀前半に「邪馬台国」が誕生し、ここにかの有名な女王「卑弥呼」が君臨したとされます。

従って、この神武天皇の即位は、これより1000年近い前になることになり、卑弥呼の存在さえ神話に近いといわれるぐらいですから、さらに古い、古神話といれてもおかしくないお話になります。

事実、古事記、日本書紀でも「神話」として扱われており、古事記では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)と称され、日本書紀では神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)という神名になっています。

では誰がいつから「神武天皇」と呼ぶようになったかといえば、これは奈良時代後期の文人である淡海三船という人がその才能を認められて抜擢されたことに始まります。朝廷は彼に歴代天皇の諡号(おくりな)、つまり貴人の死後に生前の事績への評価に基づく名をつけるよう依頼したとされ、このときこの初代天皇に「神武」の名を付したといいます。

その即位は「辛酉」1月1日とされています。辛酉というのは、中国から伝わってきた、全部で60ある「干支」の組み合わせのうちの58番目の年であり、この日が即位日であることから、この年は「神武天皇元年」ともいわれます。

当然、旧暦のことでもあり、のちに明治期に暦が新暦に変わった時には、換算されて2月11日となりました。そして、戦前まではこの日のことを「紀元節」と呼んでいました、

その後、1889年(明治22年)には、この日を期して大日本帝国憲法が発布され、これ以降、憲法発布を記念する日にもなりました。1891年(明治24年)には「小学校祝日大祭儀式規程」なるものが定められ、各地の小学校では天皇皇后の御真影(写真)に対する最敬礼と万歳奉祝、校長による教育勅語の奉読などの行事が慣例となるに至ります。

さらに1914年(大正3年)からは全国の神社で紀元節祭を行うようにもなり、その後日本の軍国主義化に伴ってより天皇が神格化されたため、1926年(大正15年)からは青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典が各地で開催されるようになりました。

戦後も、この紀元節は継続しましたが、そのままの名前ではまずいだろうということで、1947年(昭和22年)までは「建国の日」として実施される法案が国会に提出されました。ところがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が、これをあっさりと拒否、法案は削除されてしまいました。

しかし、日本が独立を回復した1952年(昭和27年)ごろから復活運動がおき、1958年(昭和33年)に再び国会へこの議案が提出されました。

その際も、この旧「紀元節」の復活には賛否両論がありましたが、国民の中には後押しする声も高く、1966年(昭和41年)になってようやく、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨の「建国記念の日」を定める「国民の祝日に関する法律」の改正が成立しました。

こうして、以後、祝日のない2月においては唯一の休日となり、正月が終わって以降、初仕事をひた走りに励む国民のみなさまがたにとっては、ひさびさにホッとできる一日となっているわけです。

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しかしそれにしても、弥生時代の人が天皇に即位した日が建国の日というのは、あまりにも神話的であり、神武天皇その人の実在も疑われる中、このまま祝日にしておいていいのか、という議論は、主として歴史学者の間で過去から現在に至るまでいろいろあるようです。

実際、現在の歴史学では、そのままの史実であるとは考えられない、という考え方が主流だそうで、古事記や日本書紀に書かれている神武天皇による「東征」というのもかなり怪しいのでは、ということがいわれているようです。

この「東征」ですが、読んで字のごとし、これは西から東へ豪族をたしなめながら、徐々に東へ進んだことを意味します。ところが、天皇といわれるくらいですから、神武天皇は生まれながらにして京の都にいてここで即位したと思っている人が多いと思われます。しかし、これがそもそも違います。

神武天皇は即位前は、その神話名にもある「神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)」と呼ばれていました。そして、生まれ育ったのは、日向国の地「高千穂宮」だったとされています。渓谷美で有名な高千穂峡のある彼の場所ですが、ご存知の方も多いでしょう。

ここで、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)という神様?の四男として生まれたとされますが、三男という説もあります。生まれながらにして明達で、強い意志を持っていたといい、15歳のときに皇太子となり、長じて吾平津姫(あひらつひめ)という妃を貰い、一人息子を得たとされます。

45歳のとき、兄弟や皇子を集めてこう宣言します。「天孫降臨以来、179万2470余年が経ったが、未だに我らは西辺の地にあり、日本全土の王化に成功してない。ここより東には美しい土地があるといい、そこに大業を広げて、天下を治め、この地を都とすべきだ」と。

こうして、磐余彦(いわれひこ)、のちの神武天皇は兄らほか一党を引き連れて船で東征に出ます。そして、まずは筑紫国宇佐(現大分県)に至り、さらには安芸国(広島)、吉備国(岡山)と軍を進め、4年後にようやく、現在の大阪である浪速国に至りました。

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さらにこの年、大阪と奈良の境にある生駒山を経て先へ進もうとしましたが、このときこの東征ではじめて大規模な地元民の反抗に遭います。

反抗勢力の親分は、この地を支配する長髄彦(ながすねひこ)といい、彼は軍衆を集めて磐余彦軍に立ち向かいました。このため、東征軍はいったん大阪にまで退いて体制を整え、改めて長髄彦孔軍に挑みますが、その中で磐余彦は数々の忠臣を亡くし、また土地の神の毒気を受け軍衆は次々と倒れていきました。

これを天上からみていた天照大御神は、磐余彦の東征がはかばかしくないことを憂え、「布都御魂(ふつのみたま)」という霊剣を熊野の住民で高倉下(たかくらじ)という男に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上しました。

こうして磐余彦がその剣を手にすると、あら不思議、軍衆は起き上がり、磐余彦らは進軍を再開することができました。が、さらに山路は険しく、その進軍は苦難を極めました。

そこで、天照大御神が今度は、手飼いの鳥を磐余彦に送り、先導させることにしました。

そして、この鳥こそが、現在、日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている、三本足の「八咫烏(やたがらす)」です。熊野三山においては、カラスは死霊が鎮められたものとされ、「ミサキ神」と呼ばれる神使とされており、現在も熊野大神の主として信仰されています。

熊野のシンボルともされる存在ですが、咫(あた)というのは長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、これが8つ、すなわち八咫ということは、144cmもの大ガラスということになります。

が、神話にしてもこれは大きすぎますから、ここでいう八咫はただ単に「大きい」という意味だけです。

こうしてこの大ガラスである八咫烏に案内されて、無事難路を通って先へ進むことができた磐余彦は再び長髄彦に挑み決戦にまで持ち込みました。

が、連戦するもなかなか決定的な勝利を得ることができず(このあたりが歴代日本のサッカー代表チームに似ていますが)、勝てずにいた中、今度はそこへ天が曇り、雹が敵の陣地に降ってきました。さらにはそこへ鵄(とび)があらわれ、そして磐余彦の弓の先にとまりました。

すると、あらまた不思議、電撃のごとき金色の煌きがこの弓から発し、この光に目がくらんだ長髄彦の軍は混乱し、そこへ磐余彦の軍が攻めかかったところ、敵は総崩れになりました。

こうして、長髄彦は誅され、磐余彦はようやくこの地を平定することができました。そして奈良盆地の南西部にあったこの地を「葛城」と称し、さらに近くにあったる畝傍山(うねび山)の東南の「橿原」と呼ばれる地を都と定めました。

こうしておよそ7年の歳月をかけ、九州は日向の国からはるばるこの地まで東征してきた磐余彦は、年が改まった、「辛酉」の年の正月、自らを始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称し、ここに後に神武天皇と呼ばれる初代天皇が誕生しました。52歳のときのことでした。

以後はこの東征で功のあった者たちを新政府の中枢に据え、才のあるものたちを周囲に集めて国づくりにいそしみましたが、併せてこの戦いで最も戦功があったとして、かの大ガラス、八咫烏をも「幸を運ぶ鳥」として褒賞したといいます

そして、4年後には天下を平定し、のちには皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めました。これは第2代天皇の「綏靖天皇(すいぜいてんのう)」と呼ばれる人物です。

そして、その後も長く都の地を治められましたが、神武天皇年の76年、127歳にして崩御されました。とはいえ、これ以後2700年近い長い年月、第二次世界大戦という存亡の危機はあったものの、皇室そのものは存続し、現代に続く日本という国の繁栄が続いている、というわけです。

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めでたしめでたし……と、いうことなのですが、それにしても、まてよ亡くなったのが127歳?いくらなんでも高齢すぎるだろう、と誰しもが思うでしょう。

実際、その昔明治時代に入ったころにも、これについては、疑問視する学者が多数出ました。

明治になって以後は、科学的な視点から物事をみる、という欧米流の考え方が浸透していき、この中では、「歴史は、同時代史料や、同時代史料に基づくと推定される良質の編纂史料に根拠を持つものによってのみ叙述されるべきだ」という、近代歴史論が展開されるようになりました。

そして、こうした天皇家の歴史の編纂においても、同様な原則が適用されるべきだろう、という意見が多数だされるようにもなりました。

古代史の記述も、他の史料や考古学的知見などに照らして、客観的、批判的視点で厳密に検証される必要が生じるとされ、その作業を経てなお残った記述のみが「史実」として認識されるのが妥当なわけです。

しかし、明治政府としては、ようやく徳川幕府を打倒して天皇をトップに頂く政治体制を築いたというのに、国民に顕示したところのこの「皇室の歴史」に疑義をはさまれてはたまらない、という事情もあります。

このため、こうした全うな意見は多数あったものの、それらに基づく本格的な史料批判は封鎖され、その後も表向きには長い間行われないままでした。

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それにしても、この初期の天皇が異常に長命であることや、その即位の紀年が古すぎることに疑問を持つ者は後を絶たず、たとえば明治の歴史学者で「那珂通世」という人などはひそかに日本書紀の記述を批判しました。

そして、この神武天皇の即位の年というのは、それから1200年ほど経ったのちの、第33代天皇である「推古天皇」の治世のときの絶頂期が601年ころであったことから、この年からさらに1260年遡った紀元前660年あたりを神武即位年にしたのだろう、と推測したといいます。

この英明な女帝、推古天皇が最も寵愛したのが、かの聖徳太子です。彼はその才能を十分に発揮し、冠位十二階や十七条憲法といった、日本の歴史残るような数々の制度を確立し、法令・組織の整備を進めたほか、小野妹子を隋に派遣するなど、優れた外交手腕を発揮しました。

那珂通世は、そうした改革が最も集中して行われたのが、601年ころと推定したわけです。この年から1260年前は、ちょうど紀元前660年であり、この1260という数字は干支と同じ60で割り切れることも何かと都合がよいと推古天皇は考えたのでしょう。

しかし、同じ割り切れるならば、1330年前としておけば、神武天皇が亡くなったのも127-60で、67歳となり、ちょうどいいのにな、と私などは思うわけです。

が、推古天皇の時代、そこまで時代考証は進んでいなかったのかもしれず、あるいは神格化された初代天皇ならばそのくらいの年齢まで生きたとしてもおかしいと思う人はいないだろう、と思ったのかもしれません。いずれにせよ、そこのところの事情はよくわかりません。

が、現代的な感覚では、江戸や明治のころに人は50~60くらいまでしか生きることはできませんでしたし、127歳で亡くなったというのは不可能ではないとしても、やはりおかしい、ということで、この疑義は延々と波乱を呼びました。

その後大正期にも、「神武天皇の存在は、皇室による日本の統治に対して「正統性」を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」とする批判などをする学者が出ました。

津田左右吉(つだ そうきち)という史学者で、このため津田は「皇室の尊厳を冒涜した」として起訴され、有罪判決を受けています。この事件は、「津田事件」として名を残すところとなり、津田は、1942年(昭和17年)に禁錮3ヶ月、執行猶予2年の判決を受けました。

しかしこの裁判については、津田自身は「弾圧ではない」と後に述べており、こうした真摯な態度が戦後も評価され、その戦前における弾圧の経験とあいまって、殆ど熱狂的に学界に迎えられました。そしてこうした神話を否定する“津田史観”は第二次世界大戦後の歴史学の主流となり、敗戦による価値観の転換を体現する歴史学者の代表となりました。

戦前、彼の著書は不敬であるとして発禁処分とされましたが、戦後には多くの歴史学者によって彼の考え方はおおむね妥当な推論であるとして支持されるようになりました。

こうして、この津田ら戦後の学者の研究成果が評価されるようになった結果、以後は、神武天皇だけでなく、さらには初期のころの天皇は本当にいたのかどかさえあやしい、という意見が主流を占めるようになりました。

津田左右吉は当時、神武天皇から第14代の「仲哀天皇」までの実在性に疑義をとなえていたそうですが、さらに研究が進んだ結果、実在可能性に乏しいのは第9代の「開化天皇」までであり、第10代の「崇神天皇」からが実在の人物であるとする考え方が、現代の歴史学会において主流となっているそうです。

そしてそれ以前の天皇については、弥生時代末期から古墳時代にかけての種々の出来事をベースに、実在した複数の人物の功績や人物像を重ねあわせて創作されたものではないか、とする説が出されるようになりました。古事記や日本書紀における神武天皇の説話はその集大成だった、というわけです。

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ただ、神武天皇を実在とする論者もいないわけではなく、神武天皇の東征物語は、九州にあった「邪馬台国」が畿内へ移動したという伝説のもととなっているものだ、という説もあるそうです。神武天皇が開いた大和朝廷そのものも、実は邪馬台国/九州王朝の分家にすぎず、本家は九州だ、とする説もあるといいます。

このように、その存在すらも疑われる神武天皇ですが、その陵(みささぎ)は、一応、奈良県橿原市大久保町にある畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)とされています。

この神武天皇陵は、平安の初め頃の記録で、東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであったというものが残されているそうですが、中世以後はその所在も分からなくなっていました。

しかし、江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起こり、幕府はその権威をより一層高めるため、元禄時代に陵墓の調査をし、歴代の天皇の墓を決めて修理する事業が行われる一環で、この神武天皇陵をもその場所を探し始めました。

そしてその結果探し当てたとされる御陵は、現在の御陵よりも東北へ約700mの所にあった小さな円墳だったといいます。

しかし、ここは神武天皇ゆかりの畝傍山からいかにも遠かったため、再調査が行われ、その結果、幕末の文久3年(1863年)になってようやく神武陵は現在の場所であると結論付けられ、この古い墳墓を幕府が15000両を出して修復しました。徳川幕府はまた、同時期に神武天皇陵だけでなく、百余りの天皇陵全体の修復を行ったといいます。

現陵は橿原市大久保町洞に所在し、畝傍山からほぼ東北に300m離れており、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めています。毎年、4月3日には宮中およびいくつかの神社で神武天皇祭が行なわれ、山陵には勅使が参向し、奉幣を行なっているそうです。

このように、神武天皇は実はいなかったといわれる説が有力ではあるものの、江戸時代には墓まで創出?することまで行われて敬われてきており、現在の我々も今日の建国記念日をあえて否定もせず、神武天皇の即位日として祝い、これを国民の祝日としているわけです。

ところが、往時の自民党はこの日を建国記念日に制定するに先立ち、こうした根拠に乏しい日を祝日にすると国民の間から文句が出たら困る、と思ったのか、これを制定する直前の昭和41年に「建国記念の日に関する世論調査」を行っており、全国の20歳以上の男女1万人を対象に、国民の祝日に関する面接調査を行いました。

結果、有効回収票8,700が得られ、「建国記念日はいつがいいか」という質問に対して、47.4%にあたる4,124人が、もとの紀元節である2月11日で良い、と答えました。また12.1%の1,053人は、いつでも良いと答え、また憲法記念日が良い、と答えた人が10.4% (909人)でした。

圧倒的多数というほどではないものの、国民のほぼ半数が、国民の祝日として建国記念日を設けても良い、とした結果であり、「建国記念の日を設けることに反対」などとした人は2.1%(186人)にすぎませんでした。

その理由は今となってはよくわかりませんが、戦後まもないことでもあり、多くの人の頭の中に、戦前の学校で教えられたままに紀元節こそ我が国のルーツとする、という考え方が沁みついていた、ということはあるでしょう。

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しかし、これから50年近くが経った現在、建国記念日がいつがいいか、と問われても、そもそも「紀元節」の意味を知っている人もそれほど多くはなくなっていると考えられ、しかも建国の日が、神武天皇の即位の日、と教えられてもピンとくるひとも多くはないでしょう。

行動成長期には、休みを返上で働きバチのように忙しくしていた日本人も、長い不況を経験して疲れ切っており、休みは多ければ多いほどよい、と思っている人もまた多いことでしょう。おそらくは誰しもが疑義をはさんで休日が減らされては困る、と思っていると思われ、建国の日が何の日であれ存続を望むのではないでしょうか。

が、50年前と同じアンケートをとったら果たしてどんな結果が出るか興味はあります。

とはいえ、山の日や海の日、といったわけのわからん休日がどんどん増えています。そしてその名を変えてはいるものの、これらは歴代の天皇ゆかりの日であるものが多いようです。例えば、天皇誕生日もしかりですが、7月の第3月曜日の祝日、「海の日」はもとは、「海の記念日」とされるものです。

これは、1876年(明治9年)の明治天皇の東北地方巡幸の際の横浜港への帰着にちなみます。また、昭和の日は、昭和天皇の誕生日に由来し、勤労感謝の日は、天皇が五穀の新穀を天神にお供えし、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝するという、「新嘗祭」に由来しています。

これらの祝日の意味すらも知らない人が増えていると考えられ、その休日の意味やその存在意義を問うこと自体が現代ではナンセンスのような気もします。

それなら、いっそのこと、初代・神武天皇から今上天皇まで、全部の天皇誕生日か即位の日を祝日にして、125日分の休日を制定したらどうか、などとも思ったりもします。

一年のうち、三分の一が国民の祝日、というのは世界にはどこにもなく、よくぞやった日本、と世界から賞賛を浴びるかもしれません。

が、やはり日本は平和ボケの国だったわい、と馬鹿にされるのがオチのような気もします。なので、やはり建国記念日は今日一日だけでいいのかもしれません。

いずれにせよ、今日は休日。本来はお休みの日です。私としても多少のお休みはいただきたく、これ以上長いブログを書くのはご勘弁頂くとして、ここらあたりで終了のお許しを願います。

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