夜間飛行

2015-6833桜の季節だというのに、天気が悪く、この状態はしばらく続くようです。

天気予報によれば、明日も曇りがちだということで、この分だと、明日の夜に見ることができるという皆既月食のチャンスも空振りに終わりそうです。

今回の月食は、月のすべての部分が地球の影によって隠される皆既月食だそうで、一部分だけが影に入る部分月食よりもよりダイナミックな天文ショーになる予定なのに、残念なことです。

再来年の2017年には部分月食があるそうですが、次の皆既月食みられるのは2018年の1月と7月だということで、3年待たなくてはなりません。

石の上にも3年……ということで天文ファンにとっては我慢の月日となるわけです。が、何もこの間他の天文ショーがないわけではなく、今年も4月23日には、こと座流星群が極大になり、8月13日にもペルセウス座流星群が極大になるそうです。

このほか、10月22日~オリオン座流星群極大、11月18日 しし座流星群極大、12月15日 ふたご座流星群もあり、流れ星が好きな人はそれなりに堪能できることでしょう。

それにしても、最近は夜になると光々とした灯りが町中を覆いつくすため、星空が見えにくくてしょうがない、とぼやいている人も多いことでしょう。今や日本で天の川が見える場所というのはほとんどなくなっているようで、気象条件にもよるのでしょうが、東京近郊ではまず不可能なのではないでしょうか。

この「光害」の原因となる光は、家庭や会社、工場、街灯、パチンコ店のライトなどなど、色々ですが、星空観測においてとくに有害となるのは、光があらゆる方向に発されるむき出しの電球や、光源の周りをただのガラス球などで覆ったような街灯などが主なものです。

これらをすべて上に光が行かないように上半分を覆ってしまう、というのが対策のひとつなのでしょうが、一説によると、こうした不適切な街灯を減らすことで電気代に換算して少なくとも200億円相当が節約できるともいわれます。

また、自動販売機などの光も光害の中での大きなパートを占めているとも言われ、夜間明るい光を放っています。日本全国の自動販売機設置台数がどのくらいあるかを調べてみたところ、2000年(平成12年)に560万台だったという統計が見つかりました。今はもっと増えているのではないでしょうか。

また、大規模な照明施設が設置されることの多い、スポーツ施設も光害の源泉であり、夜通し灯りをつけっぱなしの防犯灯や、数あまたある工業団地、ビル群の灯りもまたしかりです。

こうした光害を少しでも減らそうと、環境省(旧環境庁)は、1998年に「光害対策ガイドライン」を策定しており、以後、全国各地の自治体でも、パチンコ店などから発せられる無駄なサーチライトを禁止する条例が制定されるようになりました。

また自治体ぐるみで町おこしの一環として光害対策に取り組みところが出てきており、岡山県美星町(現井原市)では、1989年から、美しい星空を守るための「光害防止条例」が制定されました。

具体的な取り組みとしては、屋外照明は水平以上に光が漏れない設計したものを使用するように推奨しており、建築物、看板等を照明する場合は、下から上に向けて投光することを禁止しているほか、サーチライト、スポットライト、レーザー等の野外灯光器は継続的なものでない場合には、原則として禁止しています。

このほか、事業所等の屋内照明で、大量の光を使用する場合は、カーテン、ブラインド、雨戸等の遮蔽物により、できるだけ屋外に光を漏らさないよう配慮することなどを定めており、これにより、この街の夜空はかなり暗くなったといいます。

それにしても、「美星町」という名前はまさに光害防止の町として相応しいものですが、この光害対策のために新たに町名を付け直したのかと思ったらそうでもないようです。元々この町の中に源流を持つ美山川と星田川という川があり、ここから一文字ずつ取ったものだということです。

また、この星田川の地名は、かつて美星町に三つの流れ星が落ちたという星伝説に由来するものだそうで、この星が落ちたといわれる3カ所にはそれぞれ神社があるということです。なんともロマンチックなお話ですが、美星町では、こうしてきれいになった星空を売りにして色々な町おこしにも取り組んでいるそうです。

このほか、岡山県としても、サーチライト禁止条例を制定しており、同様の条例は佐賀県や熊本県にもあり、群馬県の高山村でも、「高山村の美しい星空を守る光環境条例」を1998年に制定しています。

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こうした町がどんどん出てくれば日本の夜空ももっと暗くなるのではないかと思うのですが、最近監視カメラが全国のあちこちに取り付けられるようになり、その視程確保のためには街灯やその他の灯りが不可欠だということで、夜間の無駄な点灯を自粛するという動きも阻害されがちです。

いっそのこと、毎日とはいいませんから、日にちを決めて、灯火管制などひいたら、夜空のありがたみがみんなわかると思うのですが、どうでしょう。

灯火管制とは、第二次世界大戦などの戦時において民間施設および軍事施設・部隊の灯火を管制し、電灯、ローソク等の照明の使用を制限することです。これにより、夜間空襲もしくは夜間砲撃などの目標となることを防げると考えたわけです。

大戦中は日本だけでなく、イギリス、ドイツ、なども灯火管制をしていたといい、これにより、敵機から都市の位置がはっきりと視認できないようにし、精度の高い空襲を防ごうとしました。

具体的な方法として、窓を塞いだり、照明に覆いをつけたりしたようですが、本当に効果があったかというと、灯火管制下にある中で、明かりが漏れてしまったためにその家が標的になったという証言や記録も残されているそうです。

しかし、その効果は低かったのではというのがもっぱらの評価であり、例えば日本を爆撃したアメリカの爆撃機B-29は高性能のレーダーを搭載していたので、それを頼りに都市の市街地や目標物を爆撃することができたといいます。

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また、イギリスを爆撃したドイツの爆撃機He111やドイツを爆撃したイギリスの爆撃機ランカスターはレーダーの発達していない時期から無線方位測定機器を用いて夜間爆撃を行っていました。ただ、精度に欠けていたため、アメリカ製のレーダーを搭載した戦闘機をパスファインダーとして運用しました。

パスファインダーとは、「開拓者」「先駆者」の意ですが、ちょっと前にNASAの火星探査機でマーズ・パスファインダーというのがあったのを覚えている人も多いでしょう。が、この爆撃に用いられたパスファインダーは、「先導者」の意味であり、最初に爆弾を投下して後続機に目標を示す先導機のことです。

難しい言葉では、嚮導機(きょうどうき)ともいうそうです。イギリスは、この戦闘機として、デ・ハビランド社の「モスキート」という飛行機を使いました。

驚くなかれ、木製でつくられた飛行機であり、このため「The Wooden Wonder(木造機の奇跡)」と呼ばれ、爆撃機を誘う夜間戦闘型以外にも、爆撃型や偵察機型、さらには旅客機型なども作られるなど、幅広い運用が行われました。

このモスキートという飛行機は、イギリスのロールス・ロイスが開発、生産したロールス・マーリンエンジンを両翼に1基ずつ搭載した双発機であり、コクピットには操縦士と航法士が並んで座る並列複座機でした。

エンジンやプロペラなどを除けばほとんど木材を使うという変わった構造で、当時でさえ時代遅れだと考える向きもありました。が、生産にあたって家具など木工分野の工場も動員できる上、木製ゆえレーダーに察知されにくい、表面を平滑にできるため空気抵抗では金属製よりも優れる、といった副次的なメリットもありました。

この当時の金属製の飛行機は板と板の接続を鋲で行いましたが、この突起により飛行機全体としては空力特性が落ちていました。木製であれば内部で接続が可能であるため、こうした突起が外に出ることはありません。

3つの異なる種類の試作機が製作され、爆撃機の試作機が1940年に初飛行を行い、翌年には夜間戦闘機型と写真偵察機型がそれぞれ初飛行を行い、それぞれ成功させました。こうして量産化が決まり、戦術爆撃機のほか、上述のパスファインダー、昼間及び夜間戦闘機、攻撃機、写真偵察機など、幅広い任務に投入されるようになりました。

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この機体を創ったのは、デ・ハビランド社という会社で、1930年代から既に合成木材を使った高速機の開発に実績がありました。イギリス航空省(Air Ministry)は、長引く戦争の中において鉄とアルミニウムが不足していることを憂慮し、使用されていない家具業界の資源とデ・ハビランド社の技術力を利用した木製の航空機が有用であると判断したのです。

その開発においては、当初3基の機関銃砲塔と機関銃要員6名を搭載することを前提に機体が設計され、これにマーリンエンジン2基を搭載しました。しかし平凡な性能しか発揮しなかったため、設計構想を何度かやり直し、エンジンを3基にする案も出されました。

しかし、同社の技術者たちは研究を進めていくうちにまったく別の方向性に気づきました。それは、必要のない重量がかさむものを思い切って全て取り除く、ということでした。機関銃砲塔を1つ1つ撤去していくうちに、性能は次第に改善されていき、なーんだ、防御火器を必要としないほど高速じゃないか、ということになりました。

重いものを減らせばスピードが出るようになるのは、当たり前のことではあるのですが、この結果、より効率的な機体の設計がなされ、小型エンジン2基搭載で乗員2名しか乗れないものの、いかにも高速な爆撃機が考え出されました。

それでも、計算上は、1,000ポンド (454kg) 爆弾を搭載することができ、2,500kmの距離を650km/hで飛行できるはずで、その性能は、鉄やアルミで出きた飛行機にはない性能であり、この特性を活用することで従来機と比肩できるものができると考えられました。

しかし、デ・ハビランド社の提示したこの案に対して航空省は、木製で武装を持たない爆撃機に疑問を拭いきれず、一度はこの構想を却下しました。が、同社はこの構想に不安な点はないと確信し、自社で開発を続けたいと考えました。しかし、資金調達は自腹を切ることになり、その開発には大きなリスクが伴うことになります。

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ところが、思わぬところに助っ人が現れます。既に退役寸前の老体でしたが、大将の肩書を持つウィルフリッド・フリーマンという人で、従来の数々の実績から空軍には幅が効きました。彼は木製機であるがゆえに高速で飛ぶという点に興味を惹かれ、同社を支援することにし、こうして、「フリーマンの道楽」と呼ばれる開発計画が始動しました。

陰口を叩かれながらも、社内呼称 D.H.98というプロジェクトがスタートしましたが、軍当局も「貴重なアルミ資源を浪費しない」という説得に折れ、渋々と貴重なマーリン・エンジンを回してくれました。このため一応、英軍側にも「B.1/40」というプロジェクト名が付けられました。が、実質は一企業による民間開発です。

しかし、誰も期待していないプロジェクトだけに高性能機開発にありがちな横槍も入らず、これが功を奏し、デ・ハビランド社の技術者たちは自分たちが培ってきた技術をのびのびと使うことができました。

軍への計画書が提出されてから2年後の、1940 年11月には早くも初飛行を迎えることができましたが、このとき、その試作機はいきなり 632Km/h という速度を叩き出し、「木製機など」と鼻で笑っていた空軍当局者達の度肝を抜きました。

この当時は、500Km/h程度の爆撃機が、「高速」と呼ばれていたわけですから、632Km/hははるかにこれを凌いでいます。軍は早速、これを偵察機として採用することとし、1940年3月に試作機のB.1/40を含む50機が同社に正式発注されました。

こうして、同機の製造が開始されましたが、ちょうどこのころ、イギリス軍は、フランスにおける西部戦線においてドイツ軍の猛攻の前に屈し、1940年5~6月には、ダンケルクの撤退という史上最大の撤退作戦を余儀なくされるなど、戦況はかなり不利な状態になっていました。

とくにイギリス空軍では戦闘機の不足などが深刻となっており、爆撃機の開発においてもその内容が見直され、航空省は先の爆撃機50機のうちの30機を重戦闘機に変更するように命令を出しました。これに加え、飛行に必要ないものを全て取り除いた専門の写真偵察機も試作するよう注文されました。

この偵察機は、1941年9月20日に初任務に就き、これがその後のこのモスキートの短くも華々しい活躍の嚆矢となりました。

その後の開発により、爆撃機型にも改良が加えられ、227kg(500ポンド)爆弾を胴体内爆弾倉に4個搭載することができるようになり、このタイプは1942年5月に第105飛行隊へ引き渡されました。

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以後、戦中を通じて実に1200機が以上の爆撃機型が生産されるようになりましたが、その過程においてさらに改良を重ねた結果、4,000ポンド(1,816kg)爆弾を爆弾倉に搭載できるようにまでなり、500ポンド爆弾なら最大で6個まで搭載できるようにもなりました。

また、この爆撃機型には、フル・オートマチックで射撃できるように改造した57mm対戦車砲と7.7mm機関銃2門を搭載するという重装備が施されました。航空省は、このような重厚な装備が有効利用できるわけがないと考えていましたが、実際に配備してみるとこれまでのロケット弾を上回る対艦攻撃力を発揮することが、後に分かりました。

このころから、モスキートはパスファインダー・フォース(嚮導飛行隊)にも配備され、夜間戦略爆撃の目標に目印をつける役(パスファインダー)を演じるようになりました。しかし悲しいかな木製であるため、当初の損耗率は高かったようです。

ただ、その後高性能レーダーなどを積載したものは、敵機をより効率的に避けることができるようになったため、同じ任務を実行した際の他の航空機に比べればその損耗率は最も低く、この爆撃機型モスキートは大戦終結まで投入されました。

一方、戦闘機型は、最初に夜間戦闘機型が実戦に就き、1942年1月に第157飛行隊に投入されたのを皮切りに、終戦までに466機が生産されました。

この戦闘機には、20 mm機関砲4門と、7.7 mm機銃4挺が積まれ、最新の機上レーダーを機首に搭載していました。しかし、当時のイギリス軍は、夜間戦闘の戦果がレーダーによるものであることをドイツ軍に知られるのを嫌い、これを隠蔽するため、夜間迎撃部隊のパイロットは優れた夜間視力を持っている、と喧伝していました。

そのために、パイロットたちは、毎日ニンジンを食べている、とPRしていたといいます。

現在、ニンジンに含まれるアントシアニンやカロテノイドが網膜の保護に効く、ということは医学的にも証明されているようですが、視力との因果関係は証明されておらず、ニンジンのために目が良くなったというのは、イギリス情報部による全く根拠の無い捏造話でした。

こうして、戦闘に投入された戦闘機型モスキートもまた、優れた性能を示しました。高性能レーダーを積んだ「パスファインダー・モスキート」は正確な爆撃コースへと重爆隊を誘導しましたが、これを墜とすため血眼になったドイツの夜間戦闘機の多くは随伴したこの高速な夜間戦闘機型モスキートの返り討ちに遭いました。

ドイツの空を我が物顔で飛び回るモスキートはドイツ軍にとって実にいまいましい「蚊」であったわけですが、それを撃墜できるドイツ機は新鋭ジェット戦闘機も含めて数機種しかなかったことから、夜空では圧倒的にイギリス軍が優位に立つことができました。

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このように爆撃と偵察、そして戦闘の全ての任務で常にトップクラスの性能を誇ったことで、これには敵ばかりか味方も驚き、これがこの航空機に「木製の驚異(Wooden Wonder)」という渾名が付けられ理由でした。

また、高性能レーダーを積んだ爆撃機型モスキートは、ドイツの海上輸送網を寸断しました。ドイツ自慢の潜水艦Uボートは、浮上中を狙われ、上述の57mm対戦車砲の餌食になりました。

一方では、モスキートは、人口密集地内でも重要軍事目標だけに正確なピンポイント爆撃を行うことができるという繊細な面も見せ、大馬力エンジンを積んだアメリカの四発重爆が絨毯爆撃によってドイツの街を見境なく瓦礫化していったのとは全く対照的な活躍をみせました。

モスキートはその高速を活かして戦時下の要人輸送にも使われました。この旅客機型は、爆弾倉部分に改造を施し、1名の乗客と貨物を搭載できるようにしたものであり、乗客だけでなく、新聞や雑誌などの反ナチス宣伝物を運ぶためにも活躍しました。

要人や重要書類を中立国スウェーデンに運んだ帰りの便にはお土産代わりに貴重なボール・ベアリングを満載したので、この高速便は「ボール・ベアリング・ラン」の異名で呼ばれました。500 回以上を数えたボール・ベアリング・ランの中で失われたモスキートは4機、しかも人命はわずか2名に過ぎなかったそうです。

こうして、モスキートは連合軍の作戦に欠かせない存在として戦争を戦い抜きましたが、極東でも対日本軍対策に使われました。ビルマ方面に投入されたモスキートがそれで、その高速性能ゆえに日本機に撃墜されることは少なかったようです。

しかし、アジアの高温多湿の気候が最大の敵となり、一部の機体を組み上げるのに使用したカゼイン系接着剤が劣化、ひび割れて機体外板が剥離して墜落事故をおこす、ということが頻繁に起きました。このため、1944年11月に全機を飛行停止にして調査した結果、使用する接着材の使用量が少なすぎたり、接着剤が高温で融けたりする欠陥機などが発見されました。

このため、これらの機体は直ちに廃棄処分され、その対策として迷彩塗装を止め、太陽光を反射する銀色塗装に変更されたことで、主翼内の温度を15度下げることに成功しました。もっともこれにより、低空飛行時の被発見率は高まってしまったといいます。

このようにたかが木製の飛行機と揶揄されたモスキートは、逆に多大なる成果を上げた航空機としえ大いに評価されるようになりましたが、戦時中は伝説的な働きをしたモスキートも、戦後はジェット化の波には逆らえず、第一線を引いていきました。

この飛行機は、全木製という構造化が災いして老朽化が激しく、長期にわたって飛行可能な状態を維持するのが困難です。戦後、内戦状態になった中国では、劣勢の国民党軍が安価な対地攻撃機を大量に必要としており、1948年にカナダ製モスキート180機が導入されました。

しかしその多くは機体寿命の短い木製機の中古であり、しかも船積みで輸送中に海水や高温で機体やエンジンにダメージを受けたため、この段階で28機が使用不能となりました。また一定以上の操縦技量も必要で、機体の不調や事故により実戦投入前に50機以上が失われてしまったそうです。

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その後昼間爆撃を中心とする実戦投入されたものの、移動の多くを夜間に行うゲリラ的な共産党軍に対してはあまり活躍できず、革命成立後も残った機は廃棄されました。現存するものとしては、イギリスのコスフォード王立空軍博物館にある1機などの数機のようです。

このモスキートのような、夜間戦闘機や爆撃機が夜空を飛んでいた時代には、灯火管制がしかれ、さぞかし夜空の星が良く見えたことでしょう。

現在ではさらに高性能なレーダー照準器や暗視装置のような光学機器が開発されてたため、仮に灯火管制を敷いても効果はないといいます。

1992年の湾岸戦争の際のバグダード市内では、厳重な灯火管制が敷かれましたが、アメリカ軍の高性能暗視装置や、GPS誘導技術などによる精密爆撃は著しく精度が高く、ほとんど無意味なものだったといいます。この教訓のためか、2003年のイラク戦争時には、積極的な灯火管制は行われなかったそうです。

戦争が終わって平和になった日本でも灯火管制が行われることはなくなりましたが、夜空をみんがための灯火管制を実施する制度といったものが、導入されてもいいのでは、と個人的には思ったりもします。

福島原発の事故によって計画停電が実施されたときの東京の夜空は実に綺麗だったといいます。皆既月食などの天文ショーが見られる夜くらいは、計画停電ならぬ、計画灯火管制などを行うことなどをぜひ制度化していただきたいと思うのですが、いかがなものでしょうか。

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