お伊勢講と無尽蔵


一昨日、伊勢神宮の内宮で20年に一度の式年遷宮が行われ、テレビや新聞等でも大きくとりあげられました。

さらに先の5月には、島根の出雲大社でも60年に一度の遷宮(正確には修造遷宮)が行われており、今年は日本中が「遷宮フィーバー」で盛り上がった年でもあります。

伊勢神宮の遷宮は、明日5日に外宮の遷御(せんぎょ)も行われ終了しますが、巷ではさらに引き続きこのニュースで盛り上がるに違いありません。

ところで、この伊勢神宮というのを、「内宮(ないくう)」と「外宮(げくう)」の2つのお宮の総称、と思っている人も多いようですが、「伊勢神宮」というのは、この二つを含め、紀州を中心に125も存在する関連神社の総称です。

内宮、外宮のほかに、14所の「別宮」、43所の「摂社」、24所の「末社」、42所の「所管社」があって、合計125社であり、これらは伊勢神宮のある伊勢市を中心とした周囲の4市2郡に位置しています。

これらの神社をすべて合わせた総敷地面積は、約5,500万平方メートルもあるそうで、これは東京の世田谷区の大きさにも匹敵します。

ただ、これらすべての遷宮をするとさすがに大変なので、引越しをするのは、この内宮と外宮のほかに、14の別宮と、宝殿、外幣殿、鳥居、御垣、御饌殿など計65棟の殿舎だけです。「だけ」、といってもかなりの規模なのですが、このほかにも、神官の装束や神宝も新調し、宇治橋等も造り替えられているそうです。

神宝(かむだから)というのは、元々は、剣、玉、鏡といった神器のことをさします。ただ、こうしたものを造りかえるのはさすがに大変なので、神様が使う日用品、すなわち手箱、碗、化粧用具、衣服といったより身近なものを新しくするようです。

「内宮」の正式名称は「皇大神宮(こうたいじんぐう)」、「外宮」の正式名称は「豊受大神宮(とようけだいじんぐう)」で、それぞれに違う神様が祀られています。

内宮には、日本の総氏神である「天照大御神」が、外宮には五穀豊穣の神「豊受大御神(とようけのおおみかみ)」がお祀りされていて、これは日本中の神社の中の神社、つまり、
“Mr.&Mrs 神社”ともいえる存在です。

式年遷宮が行われる理由は、ニュースなのでさんざん流されているのでご存知だと思いますが、これはこうした古式ゆかしい神殿や神宝の「造り」の技術を正しく伝承していくためだと言われています。

しかし、古くなった神殿を新しくしてお祭りすることで、祀られている神様も永遠に若々しく光り輝く存在であり続けてほしい、という思想も受け継がれてきており、これは「常若(とこわか)」という言葉で説明されています。20年ごとに生まれ変わることで、日本という国が新しい命を得て永遠に発展することを祈るわけです。

ちなみに今回の遷宮にかかる総工費は約570億円だそうで、これはこの付近だと小田原市や富士市などの中堅都市の年度予算に匹敵します。莫大な金額ではありますが、1300年も続く伝統を途絶えさせないためには必要な金額なのかもしれません。

そのお金をどう工面するかですが、当然税金などはあてにできません。なので、資金獲得のためには、神宮の信者を増やし、この信者さんたちからの寄付によってまかなうことになります。

仏教の場合はこの寄付のことをお布施といいますが、神道ではこれを「奉幣」といいます。
奉幣の対象となるのは、現在のようにお金ばかりではなく、古くは布や衣服、武具、神酒、神饌(供物)などでした。

そもそも伊勢神宮は、もともとは皇室の氏神として造られたものであるということはご存知だと思いますが、このため伊勢神宮では、当初は天皇以外の奉幣は禁止されていました。これを「私幣禁断」といいます。

中世になり、朝廷への、そして皇室とその氏神への崇拝から、伊勢神宮は日本全体の鎮守として全国の武士から崇敬されるようになり、神道においては最高神とされるようになりました。

こうして全国的にも知名度が高まったのは、外宮で度々行われていた一種の勉強会である「講」で奉じられた「伊勢神道(度会神道)」という教えのためでもあり、これは度重なる戦乱によって荒廃した古代の日本人にとっては心の拠り所となっていきました。

お陰参り

こうした戦乱は、やがて神宮側にも及ぶようになり、その神宮領が侵略され、経済的基盤を失ったため、式年遷宮が行えない時代もありました。このため、伊勢神宮としてはその存続の資金獲得のため、私幣禁断を捨て、神宮の信者を増やして彼らから奉幣を募るようになりました。

そのためには各地の講を組織する指導者が必要であり、このために「御師(おし)」という人達が台頭し始めます。

こうした御師たちの努力もあり、伊勢神宮の人気は高まる一方となり、近世になると、いわゆる「お伊勢参り」も流行するようになります。このお伊勢参りは、「おかげ様」を文字って「お蔭参り」ともいいます。

また、伊勢神宮そのものも、庶民らは親しみを込めて「お伊勢さん」と呼ぶようになり、江戸時代には、弥次さん、喜多さんの「東海道中膝栗毛」でも語られるように、多くの民衆が全国から参拝するようになりました。

このお蔭参りは、無論毎年のように行われていましたが、年によっては、その規模が数百万人にも及ぶこともあり、これはほぼ60年周期毎に発生し、こうした年は「おかげ年」と呼ばれていました。江戸時代には都合、5回ほど発生しています。

その5回とは、元和3年(1617年)、慶安年間(1648年~1652年)、宝永2年(1705年)、明和8年(1771年)、文政13年・天保元年(1830年)であり、これらの間隔はほぼ等間隔で60年周年です。

このうちの1705年(宝永2年)のお蔭参りはとくに大きく、これが本格的なお蔭参りの発端となったといわれており、「宝永のおかげ参り」とも呼ばれています。

主な発生地域は京都といわれ、たった2ヶ月間に330万~370万人もの人が伊勢神宮に参詣しています。このことを本居宣長が書き残しており、それによると、4月上旬から1日に平均で2~3千人が松阪を通ったといい、最高はなんと1日23万人もの人がここを通過したとか。

当時の日本総人口が2770万人ほどだったといいますから、全人口の一割以上の人がお伊勢参りをしたことになります。

明和8年(1771年)のお陰参りの参拝者数も比較的多く、このときの主な発生地域は山城の宇治でしたが、およそ200万人もの参詣者が伊勢に殺到しました。このときには、宇治から女・子供ばかりの集団の参加も多かったといい、彼女たちは仕事場であった宇治の茶山から無断で仕事を離れ、着の身着のままやってきたといいます。

このときのピーク時には、地元松坂では自分の家から道路を横切って向かいの家に行くことすら困難なほど大量の参詣者が町中を通ったといい、参詣者らは口々に「おかげでさ、ぬけたとさ」と囃しながら歩いていったそうです。

集団ごとに幟を立てる者も多く、最初はこの幟に出身地や参加者を書いていただけでしたが、段々とこれがエスカレートして滑稽なものや卑猥なものを描いたものすら増えてきました。

「おかげでさ、ぬけたとさ」というお囃子も、これにつれて卑猥なものに変わっていったそうで、これを若い人達だけでなく、老人や女性たちも口にするようになり、文字通り老若男女がこれを声高に叫ぶようにして通っていくさまは、滑稽を通り越してちょっと不気味にさえ見えたことでしょう。

このとき、この人出による経済効果もまた大きく、人々が通る街道沿いの物価はかなり高騰したそうで、白米1升が50文が相場のこの時代に、これが4月18日には58文に上昇し、5月19日には66文、6月19日には70文まではね上がったそうです。

お伊勢参りの必需品でもあった、わらじの値段も高騰し、5月3日で8文だったものが、5月7日には13~15文になり、5月9日には18~24文に急上昇しました。

このときは、街道沿いの富豪による「施行」も盛んに行なわれたといい、これが市中への大量の金の流通を促し物価が上昇したわけですが、そのおかげで無一文で出かけた子供が、逆に銀を貰って帰ってきたといった事もあったそうです。

初めは与える方も宗教的な思いもあって寄付をしていたようですが、さらには徐々にもらう方ももらって当然と考えるようになり、感謝もしなくなって中にはただ金をもらう目的で参詣に加わる者も出てきたといいます。

そして、三度目のピークの1830年(文政13年/天保元年)の「文政のお蔭参りでは」この過去の2回を上回る最大のフィーバーが起き、このときはたった3箇月の間で、約430万人もの人が伊勢に押し掛けました。

このときには既に過去の経験から、人々は60年周期の「おかげ年」を意識していたといい、それがこの騒動を後押しした形となりました。それにしてもこの当時の日本総人口は約3200万人ほどだったといいますから、全人口の13%もの人が殺到したことになります。

現在の日本ならば1600万人以上に匹敵しますから、これは東京と名古屋を合わせた人口にほぼ等しいことになります。すごいことです。

この文政のお蔭参りの特徴としては、大商人がこの参詣に賛助したことで、彼らは参詣者に対して店舗や屋敷を解放し、弁当・草鞋の配布を行ったそうです。

発生地は、四国の阿波が中心だったようで、その伝播地域は、明和のときよりも狭かったようですが、参加人数は逆に大幅に増えました。

前回の明和8年のときのフィーバーでも幟を立てたり、卑猥なことばを口にしながら行進するというヘンなことが流行りましたが、今回の参拝者たちは、なぜか参詣するときに、手に手にひしゃくを持って行き、しかも伊勢神宮の外宮の北門にこれを置いていくということが流行ったそうです。

これは、巡礼の際に柄杓を持って出かけるという風習がこの当時の阿波にはあり、阿波の人達が始めたことを、ほかの地域の人達も真似るようになったためのようです。

このときのお蔭参りによる経済効果も大きく、その額はおよそ86万両以上だったといわれています。これは現在の貨幣価値に換算すると200億円近い数字になります。このときも著しい物価上昇が起こっており、大坂で13文のわらじが200文に、京都で16文のひしゃくが300文に値上がりしたと記録されています。

以後、幕末に至るまでこれほど大きなお蔭参りは発生していませんが、1867年(慶応3年)には、有名な「ええじゃないか」が起こっています。

これは、近畿、四国、東海地方などで発生した騒動で、「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ」という話が広まるとともに、民衆たちが仮装するなどして囃子言葉の「ええじゃないか」等を連呼しながら集団で町々を巡って熱狂的に踊るというものでした。

人々が向かう先はとくにお伊勢さんとは限らなかったため、歴史的にはお蔭参りとは考えられていませんが、それまでのお蔭参りの影響を受けていることは確かのようです。

なお、近畿や四国などの西日本圏では、ええじゃないか、という掛け声が見られたものの、東海地方ではそうした掛け声はなく、「御札降り」を巡って民衆が踊り狂っただけでした。

こうした、江戸時代に流行したお蔭参りの最大の特徴としては、奉公人などが主人に無断で参詣する、といった一種の「掟破り」が横行したことであり、このほか子供であっても親に無断で参詣したというケースも多かったようです。

このため、お蔭参りは「抜け参り」とも呼ばれ、子供であっても旅ができたのは、大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しをうけることができたためでした。

伊勢神宮へは、江戸からは片道15日間、大阪からでも5日間、名古屋からでも3日間かかり、しかも東北や九州からも参宮者があり、無論彼らは歩いて参拝しました。

岩手の釜石からは徒歩で100日もかかったと言われており、そこまでして全国的にお蔭参りが流行ったのは、伊勢神宮が、天照大神の神社として全国に公家・寺家・武家が加持祈祷を行っていたためです。

前述したとおり、中世の伊勢神宮では、戦乱の影響で領地を荒らされ、式年遷宮が行えないほど荒廃しましたが、その伊勢神宮を建て直すため、もともとは神宮で祭司を執り行っていた御師が活躍しました。

御師たちは、外宮に祀られていた「豊受大御神」を全国にアピールし、伊勢へ足を運んでもらえるようにするため、神宮の「伊勢暦」を各地の農民にタダで配ったといいます。

度重なる戦乱によって現世に失望していた人達は、はじめのころは来世の幸福を願って近所の寺院へばかり巡礼していましたが、やがてこれらの御師たちの活躍によって「神社」が強烈にアピールされるようになり、とくにその総本山である伊勢神宮への注目度がアップしました。

また、秀吉によって天下が統一されると街道の関所なども撤廃されたことから、参詣への障害が取り除かれ、他国の神社仏閣への巡礼も可能となり、中でも農民たちに配られていた伊勢暦の出所である伊勢神宮まで足を延ばす人も増えました。

さらに江戸時代になると、五街道を初めとする交通網が発達し、この参詣はさらに以前より容易となります。

そして世の中が落ち着いてきたため、巡礼の目的も来世の救済から現世利益が中心となり、伊勢への参拝の目的には観光も含まれるようになります。

加えて、米の品種改良や農業技術の進歩に伴い農作物の収穫量が増え、農民でも現金収入を得ることが容易になり、商品経済の発達により現代の旅行ガイドブックや旅行記に相当する本も発売されるようになりました。

当時、幕府は庶民の移動、特に農民の移動には厳しい制限を課していましたが、伊勢神宮参詣に関してはほとんどが許される風潮がありました。特に商家の間では、伊勢神宮に祭られている天照大神は商売繁盛の守り神でもあったため、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていました。

また、たとえ親や主人に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣をしてきた証拠の品物であるお守りやお札などを持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていました。

庶民の移動には厳しい制限があったといっても、伊勢神宮参詣の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参詣をすませた後には京や大坂などの見物を楽しむ者も多かったといいます。

ただ、このお伊勢参りは本州、四国、九州などのおおむね全域に広がりましたが、北陸などでは広まりにくかった傾向があります。これはこの地では真宗がさかんであり、仏教徒が神宗の風習であるお伊勢参りに出かけることがはばかられたためです。

このため、巡礼を拒んだ真宗教徒が神罰を受けたといった話がこの地には多く残っており、それらの中で一番多いのは、「おふだふり」です。村の家々に神宮大麻と呼ばれるお札が天から降ってきたといい、これは伊勢信仰を民衆に布教した御師たちが、真宗門徒をけん制する目的でばら撒いたものだと考えられています。

しかし、全国的にみれば北陸のようなケースはむしろ稀であり、他国の庶民にとってはたとえ仏教徒であっても伊勢神宮参詣は一生に一度とも言える大きな夢でした。

お伊勢講

それにしても、遠路はるばる伊勢まで出かけるのには、徒歩とはいえその旅費は相当な負担であったはずです。無論、沿道からの施しもあったでしょうが、お伊勢参りする人の全部が全部をまかなうことはできなかったはずであり、一般人の日常生活ではそれだけの大金を用意するのはかなりの困難だったと思われます。

いったいどうやってそのお金を工面したのでしょうか。

ここで考え出されたのが「お伊勢講」という仕組みであり、この講には次のようなしくみがありました。

まず、「講」の所属者は定期的に集まってお金を出し合います。そして長い間には、それらのお金の合計は、伊勢に一人分を派遣することができるほどの旅費として貯まります。

こうして一人もしくは複数の人が旅行できるほどの金額が貯まったら、その「講」の中で誰が代表者となって伊勢に行くかを「くじ引き」で決めます。

ただ、何度もこのくじ引きに参加すると、複数回伊勢に行くことができる人ができてしまうため、一度このくじに当たった人は、次回からはくじを引けなくなるようにしました。こうして、「講」の所属者は順番にこのくじに当たることとなり、全員がいつかはお伊勢参りが当たるように工夫がなされていたわけです。

くじ引きの結果、選ばれた者は「講」の代表者として伊勢へ旅立つことになります。その旅の時期は、農閑期が多かったようです。また、「講」の代表者は道中の安全のために2~3人程度のグループで行くのが通常でした。

出発にあたっては盛大な見送りの儀式が行われました。また地元においても道中の安全が祈願されます。参拝者は道中観光しつつ、伊勢では代参者として皆の事を祈り、土産として御祓いや新品種の農作物の種、松阪や京都の織物などの伊勢近隣や道中の名産品や最新の物産を購入して帰ります。

この物産品としては、長い道中に邪魔にならないよう、軽くてかさばらず、壊れないものがよく買われたといいます。

無事に帰ると、講をあげて帰還の祝いが行われ、その席でお土産を渡してみんなで盛り上がります。規模にもよりますが講に集まる人の数には限りがあり、貯まるお金にも限度があったでしょうから、そうそう度々あるお祝いではなかったでしょう。しかし、それだけに、さぞかし賑やかなお祝いだったに違いありません。

このように、江戸時代の人々が貧しくとも一生に一度は旅行できたのは、こうした「講」の仕組みによるところが大きかったわけです。

またこの「お伊勢講」は平時においては、神社の氏子の協同体としても役立っていました。お伊勢様に近い、畿内では室町中期ごろから普通に見られた集いだったようですが、全国的になったのは、街道が整備され、日本中が安全になった江戸以降からのことのようです。

一方では、「お伊勢講」が無かった地域でも、周囲からの餞別(せんべつ)を集める、という形で旅費を集めるということが流行っていたようです。

無論、タダで餞別を貰うのは心苦しいことですから、手ぶらで帰ってくる事がはばかられ、この場合には、それ相応のお土産を持って帰ることが必須でした。しかし、これにより、講だけでなく、講に入っていない一般人もお伊勢様に行くことができ、これがときにブームとなると、60周年に一度という大規模な「お蔭年」が発生したのでした。

また、お蔭参りの実施は、この当時、最新情報の発信地であったお伊勢さんで知識や技術、流行などを知りことにもつながり、これを持ち帰ることは地域にとって大きなメリットとなり、また本人にとっても見聞を広げるために大いに役立ちました。

お蔭参りから帰ってきた者によって、最新のファッション、といってもこの時代のことですから、最新の織物の柄などが伝えられ、ほかにも最新の農具や、新しい品種の農作物のタネや苗がもたらされました。とくに、伊勢神宮の神田には全国から稲穂の種が集まり、参宮した農民は品種改良された新種の種を持ち帰ることができました。

箕(みの)は、脱穀などで不要な小片を吹き飛ばす平坦なバスケット状の選別用農具ですが、これに代わって、手動式風車でおこした風で籾を選別する「唐箕」という器械が全国的に広まったのもこのお伊勢参りのお陰だといわれています。このほかにも、音楽や芸能情報も伝えられ、「伊勢音頭」に起源を持つ歌舞も各地に広まりました。

御師の活躍

こうしたお伊勢講を広めるのにとくに活躍したのは、前述の御師たちです。御師は当初、数名ずつのグループに分かれて各地に散らばり、農村部で伊勢暦を配ったり、豊作祈願を行ったりして、その年に収穫された米を初穂料として受け取る事だけで生計を立てていました。

江戸時代も中頃になると、農業技術の進歩により、農家の中に現金収入を得られる者が増え、単にお伊勢参りに出かけるだけでなく、これを機会として新たな知識や見聞、物品を求めて旅をしようと思い立つ者が現れるようになりました。

しかし、農民の移動に規制があった江戸時代に旅をするにはそれなりの理由が必要であり、その口実としては、「伊勢神宮参詣」というのは非常にもっともらしい名目でした。

当時、他藩の領地を通るために必要不可欠な通行手形の発行には厳しい制限がありましたが、伊勢神宮参詣を目的とする旅についてはほぼ無条件で通行手形を発行してもらえたのです。

ちなみにこの当時、伊勢神宮参拝だけでなく、善光寺参詣や日光東照宮参詣など、寺社参詣目的の旅についてはおおむね通行手形の発行が認められていました。

通行手形の発行は、在住地の町役人・村役人など集落の代表者または菩提寺に申請していましたが、これらの中でも伊勢神宮参拝を口実にした人がとくに多かったのは、伊勢講の御師たちが各地の農民に対して熱心な伊勢神宮参詣の勧誘活動を行っていたことと無関係ではありません。

このため、伊勢に向かい、伊勢神宮でお参りした人達の多くは、この伊勢滞在時にはたいてい、自分達の集落を担当している御師のお世話になっていました。御師の中には伊勢参拝に来る人をもてなすため、自分の家で宿屋を経営している人も多かったといいます。

これは、今年世界遺産になった富士山を信仰する「富士講」の御師たちの家が宿屋も兼ねていたことと同じです。この富士講の御師たちも自宅を講の人達に提供しており、現在まで残されたそれらの住宅のうちの「旧外川家」や「小佐野家住宅」が、今回の世界遺産登録ではその対象となりました。

こうした御師の宿屋では、盛装した御師によって豪華な食器に載った伊勢や松坂の山海の珍味などの豪勢な料理や歌舞でもてなし、農民が住んでいる所では使ったことがないような絹の布団に寝かせる、など、参拝者を飽きさせないもてなしを行ったといいます。

また、伊勢神宮や伊勢観光のガイドも勤め、参拝の作法を教えたり、伊勢の名所や歓楽街を案内して回りました。この時には、豊受大御神が祀られている外宮を先に参拝し天照大御神が祀られている本殿の内宮へ向かうしきたりだったといい、こうした作法をとくに「外宮先祭」と呼んでいたそうです。

こうして、最初は豊作祈願に対する対価や初穂料だけで生計を立てていた御師たちは、宿屋の主あるいは観光ガイドとしての収入を増やし、かなり裕福な暮らしをするものも増えていきました。

無尽講から現代へ

こうした御師たちによって支えられていたお伊勢講は、江戸時代が過ぎてもその仕組みが残り、これは「無尽講」という名称に変わりました。

しかし戦後は講を賭博行為とみなしたGHQにより、その多くは解散させられました。とはいえ、地域によってはそれまでと同様の活動を続けていた伊勢講もあり、伊勢神宮参拝は数年に一度行うのみとして、簡素な宴席のみを毎年行う習慣が残存しながら、その組織を維持している講も多かったようです。

一方のお伊勢参りに関しては、民衆の神宮への参拝熱は冷めてしまっており、今ではもうお伊勢参りに行くことが一生一代の大事というような風潮はありません。

これは明治に入り、明治天皇が伊勢神宮へ行幸したのをきっかけに伊勢神宮の性質が変容し、大昔の「私幣禁断」の時代にさえ遡るような風潮が出てきたためであり、さらには明治政府が御師の活動を禁じたためでもあります。

このようにお伊勢参りが衰退する一方で無尽講だけは根強く生き残るかたちとなり、明治時代のおわりごろにはまだ、大規模で営業を目的とする無尽業者がまだたくさんありました。

中には会社組織として営業無尽をするものも現われ、これらの事業者には脆弱な経営、詐欺的経営や利用者に不利な契約をさせる者も出てきました。

が、当時は、これを規制する法令がなかったため、大正になってから1915年(大正4年)にはこれを取り締まる旧「無尽業法」が制定され、こうした業者は免許制となり、悪質業者は排除されていきました(現在の「無尽業法」は1931年に改めて制定)。

ただ、この法律は住民や職場などで、業者を関与させずに無尽をする行為を禁止するものではなかったので、その後も裏社会では無尽は続けられ、現在に至っています。このことは後述します。

こうして一応法律ができ、取締りは厳しくなったものの、戦前には、世界恐慌が起こったことなどから、こうした無尽会社の勢いが復活してかなり発展した時代もありました。銀行に相当するほどの規模を持つものまで現れ、やがてこの当時の日本の経済を担う金融機関の一つとなっていきました。

しかし、太平洋戦争終結後、GHQは、無尽を賭博的でギャンブル性の強いものであると見ており、これを廃絶しようとしました。ところが、戦災復興のために各方面から無尽会社を残したいとの声が政治家の間からあがるようになり、GHQと対立し始めました。

このため、政府は当時の銀行並の業務を可能としつつも、無尽の取扱が可能とし、そのかわりこれを制度・監督上で厳しく制御できる金融機関制度を企画し、その規模も比較的小さいものに限定したものだけを設立可能としました。

こうして1951年(昭和26年)に誕生したのが、「相互銀行法」です。そしてこの法律を受け、現在も残る「日本住宅無尽株式会社」の一社を除く、無尽会社の全社が「相互銀行」へと転換しました。

ちなみに、日本住宅無尽株式会社というのは、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県・茨城県・山梨県を対象に土地や建物の給付を行っている会社です。現在は三菱東京UFJ銀行系列の会社として知られていますが、「無尽」の名前を残しているのは全国広しといえども、ここだけです。

このように、かつて我々が「下町の金融機関」として親しんでいた「相互銀行」とは、実はその歴史を遡れば伊勢神宮にお参りする人々が作った「お伊勢講」の名残だったというわけです。

無論、相互銀行と呼ばれていたものがすべてお伊勢講の名残である無尽会社の流れを汲むものであったかといえばそうではありません。

相互銀行法の成立に伴い、新たに相互銀行として設立された株式会社も含まれており、例えば現在の神奈川銀行がそうであり、かつて長野相互銀行と呼ばれていた現長野銀行、そして、りそな銀行もまたその当時は三栄相互銀行と言っていました。

こうした相互銀行は、主に中小企業などを対象にしていて、無尽から発展した「相互掛金」を主な商品として取り扱うことができました。また、長い間一社当たりの営業範囲が、ほぼ一都道府県内に限定されていました。

しかし、その後、「金融機関の合併及び転換に関する法律」が成立し、その後ほとんど全ての相互銀行が普通銀行に転換し、現在では「第二地方銀行」と呼ばれるようになりました。

ただ、一部の相互銀行は既存普通銀行へ吸収合併されており、例えばかつて日本本相互銀行と呼ばれていた銀行は、このとき太陽銀行へと名前を変えており、これはその後太陽神戸銀行~太陽神戸三井銀行~さくら銀行を経て、現在の三井住友銀行となっています。

そして、最後の1行であった東邦相互銀行が1992年4月1日に伊予銀行へと吸収合併されたことで消滅し、その直後に相互銀行法も廃止され、相互銀行は法的にも消滅した企業形態となりました。

こうして、かつての無尽講の名残であった相互銀行は完全に消滅し、現在も昔のような賭博性の強い商品を扱っている銀行は皆無となりました。その業務はこれより大規模な普通銀行と変わりはありません。その多くはまっとうな商売をしており、世間の批判を浴びるような銀行はそう多くはないでしょう。

一方では、こうしたまっとうな組織に形を変えた銀行を横目でみつつ、21世紀となった現在でも、日本各地に、「無尽」の名をそのままとし、あるいはその名を「頼母子」とか「模合」に変えた非合法の小さな会や組織が存在しています。

これらはとくに農村・漁村地域に多いそうで、これらの組織では、メンバーが毎月金を出し合い、積み立てられた金で宴会や旅行を催す場合もあれば、くじに当たった者が金額を総取りする形態のものもあるといいます。

多くは実質的な目的よりも職場や友人、地縁的な付き合いの延長としての色彩が強く、中には一人で複数の無尽に入っている人もいるそうで、とくに沖縄県では県民の過半数が参加していると言われるほか、九州各地や山梨県、福島県会津地方などでもよく行われているといいます。

民間においては、現在でも親しい仲などが集まり小規模で行われていて、近所付き合いや職場での無尽、同窓会内で行われる無尽などもあります。

毎月飲み会を主催する「飲み無尽」や定期的な親睦旅行を目的とした無尽など、本来の金融以外の目的で行われているものも多いそうで、そうしたものは一見、ご近所のご老人の寄合いとあまり変わりがありません。

甲府市にはいまだに「無尽会承ります」などの看板が掲げられ、まるで老人介護サービスのような無尽向けサービスまで行っているところもあるそうです。

これらについては、ご近所づきあいの域を出ないと思われ、多少の賭博性があるからといって、そうそう目くじらを立てる必要もないかもしれません。

しかし、同じ山梨県では「地縁血縁選挙」が今もさかんであり、昨年の衆議院議員総選挙で当選した、同県選出のある女性代議士さんの最大支持基盤は無尽であると言われています(現在は、自民党山梨県第1選挙区支部長)。

会費の扱いなど政治資金規正法上グレーな部分が多く、政治と無尽の関係が近年は問題視されているそうで、本当だとするとあまり好ましいことではありません。

とはいえ、「無尽」の行為自体に関する法律は現在までいまだに存在しません。このため、例えば石川県加賀市の特に山中温泉地区、山代温泉地区では預金講(「よきんこ」と呼ばれる)という無尽が今も盛んだそうで、これは見方を変えれば一種の消費者金融です。

この預金講がそうだとはいいませんが、その他の無尽の中には金融機関から融資を受けられなかった社会的マイノリティー層に今も利用されている民間金融もあり、ときにこれらは暴力団などの犯罪組織とリンクする可能性もあります。

時々街中の看板で「ローンが借りれなかった人」向けの融資を語る看板をみかけることがありますが、こうした融資金の出所はこのような民間無尽にプールされたお金であることも多いようです。

一方では、こうした金が町内会や商店会などで運用される場合もあるそうで、これは平時には宴会、旅行目的の会と称してお金を集めており、メンバー本人あるいはその身内に不幸があった場合は葬儀を業者に頼らず、預金講仲間が取り仕切ります。

こうした風習は、1990年代までは地域の「常識」であったようですが、現在では地区の高齢化率の高さと地区住民の多くが従事する地場産業の疲弊ゆえにこうした葬儀の際の互助組織という役割は廃れつつあります。

とはいえ、地域の人々のためとはいえ、現在においてもこうしたグレーな金が巷で流通しているという現実をみると、いかにも日本ではまだまだ昔ながらのムラ社会続いているのだなと思ってしまいます。

ちなみに、無尽講の無尽は、「無尽蔵」に由来します。もともとは、中国唐代に長安にあった「無尽蔵院」という名前の寺院の名称であり、ここでは民衆から集められた財貨が、広く中国全土の寺院の修築に供されたそうです。

その後この無尽蔵院は、唐の時代の玄宗皇帝の勅命によって破壊されましたが、この「無尽」という考え方はその他の仏教宗派に広まって、お布施等で集められた財産を広く民間に貸し出して利潤を得るシステムとなりました。

これが、日本でも大勢で小額の金銭を出し合い、必要な時やくじ引き順で一定量の金銭を構成員各員が受け取る無尽、無尽講の用語として使われることになったわけですが、それ以前の歴史としては、これまで述べてきたようにその背景にお伊勢講があったわけです。

このように、仏の世界では無尽蔵であったはずの功徳を施すはずのシステムは、いまや神式のしきたりであった伊勢講をいわば乗っ取るような形で取って代わり、現代社会に至るまでにグレーな金融システムに変化し、今の日本社会にも大きな影響を与えています。

戦前の日本で発達した悪しき金融システムの名残ではありますが、だからといって、その前身であったお伊勢講もまた古き時代の悪しき風習だったかといえばそうではなく、ましてやこ今行われようとしている伊勢神宮の式年遷宮の価値を卑しめるものでもありません。

これはこれ、日本の伝統を守るよき習慣としてこれからも続けていってほしいものです。

次の20年後には私ももう、70ウン才です。多分まだ生きているとは思うので、次回の遷宮はぜひ見物に行きたいものです。

皆さんもご一緒にいかがでしょうか。

手旗信号


10月になりました。

夜空を見るには絶好の季節でもあります。中秋の名月の旧暦8月15夜は終わってしまいましたが、今月では引き続いて9月13夜の満月があり、これは今年は10月17日です。

家に望遠鏡や双眼鏡がある人は、これを使ってのお月見もまた楽しいでしょう。

この望遠鏡ですが、イタリアのナポリの「ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ」という人が、発明したとの記述が、1589年の「博学史」という歴史書に掲載されており、文献上はこれが最古ということになるようです。

1611年に出版されたヨハネス・ケプラーの「屈折光学」にもデラ・ポルタが20年前に望遠鏡を発明したと記述されていることから、この記述が正しければその発明は、1591年ころということになります。

また、オランダ南西部の都市、ミデルブルフの眼鏡職人ツァハリアス・ヤンセンがこの、デラ・ポルタが作ったと思われる望遠鏡を真似て、1604年に2枚のレンズを組合わせた「顕微鏡」の原型を発明したとされています。

ご存知のとおり、顕微鏡はさかさまにすれば望遠鏡として使えます。当人もおそらくはこれを知っていたでしょう。この顕微鏡は筒の両端にレンズがついただけのものでしたが、倍率は9倍ほどはあったようです。

そしてさらにその後の1608年、同じくオランダのミデルブルフの職人、ハンス・リッペルスハイが、このヤンセンの望遠鏡のアイデアを流用して、望遠鏡を製作し、これを「発明」したとして、オランダ総督に特許申請を出しました。

この日が10月2日、すなわち今日であったことから、この日が「望遠鏡記念日」ということになっているようです。

さらに、ガリレオ・ガリレイはハンス・リッペルスハイの発明を知った後、自らも望遠鏡を製作し、1609年の5月に1日に、世界で初めて天体観測を行った、とされています。このときの望遠鏡では正立像を得ることができましたが、倍率はかなり低く、10倍程度だったようです。

しかし、その後はさらにこれを改良して20倍のものも製作しており、これを使って月を観測し、月面に凹凸やそして黒い部分、すなわち現代ではクレーターや月の海として知られるものを発見しています。また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれています。

その後望遠鏡は、各種の光学の要素技術開発にともない、屈折式望遠鏡に加えて反射望遠鏡などの様々な種類の天体望遠鏡が開発され、これらに加えて、地上で使うフィールドスコープ、双眼鏡等なども開発されていきました。

この望遠鏡が日本にもたらされたのは意外に早く、ハンス・リッペルスハイの特許申請からわずか5年後の1613年(慶長18年)には、イギリスのジェームズ1世の使いのジョン・セーリスが徳川家康に献上しており、これは現在、愛知県名古屋市にある徳川美術館に所蔵されています。

以後、望遠鏡は軍事用にも重要な役割を果たすと考えられるようになり、平戸や長崎などから競って輸入されるようになり、やがて国内でも生産されるようになります。

このころ日本で製作された望遠鏡は屈折望遠鏡がほとんどで、「遠眼鏡」と呼ばれていましたが、最初にこれを製作したのは長崎の浜田弥兵衛という人物だと言われています。

江戸時代初期の寛永の頃までは、日本では朱印船貿易が盛んでした。このため長崎の貿易商・末次平蔵の朱印船の船長として雇われた弥兵衛は、幕府の後援をうけて、高砂(台湾)を朱印船貿易の基地としようとしました。

この頃の高砂は、オランダ東インド会社が進出してこれを占領(1624年)しており、ゼーランディア城という城を建てこの地を経由する交易には一律10%の関税をかけはじめていました。

日本にとって高砂は、日本の交易先の一つであった明国との貿易を円滑に行うための拠点として重要な土地であり、このため浜田弥兵衛らは、高砂を急襲してここのオランダ総督ピーテル・ノイツを人質にしました。そして、オランダに関税撤回を要求。オランダはこれをのみ、高砂を自由貿易地にすることに成功しました。

浜田弥兵衛が眼鏡製作技術を習得したのはちょうどこのころのことであり、「長崎夜話草」という歴史書には、彼が、「眼鏡細工、鼻眼鏡、遠眼鏡、虫眼鏡、数眼鏡、磯眼鏡、透眼鏡、近視眼鏡」などの製作技術を「蛮国」へ渡って習得したと書かれています。

弥兵衛には新蔵という弟がおり、この「長崎夜話草」には、「共に蛮船に乗て世界を周覧せし折節、日本の東南海なる大人国に至り」と書いてあるため、どうやらオランダ船か、このころオランダに敵対していたポルトガル船にでも乗ってヨーロッパまで行き、ここで望遠鏡などの製作技術を学んだものと考えらえます。

が、長崎夜話草以外にこれらの渡航について詳しく記した記録がないため、どこまでが真実かはわかりません。

とまれ、この浜田弥兵衛が習得した技術はその後日本国内に伝えられ、次いで大阪の岩橋善兵衛という商人がこの技術を習得しました。

岩橋善兵衛は、1756年に現大阪府貝塚市脇浜新町の商人(魚屋)の家に生まれました。眼鏡の玉磨きを家業として独立し、その後自然科学に興味を持ったことから、渡来品の研究を行うようになり、この中で遠眼鏡の技術を知ったようです。

寛政2年(1790年)、34歳になったときに、これを自作しましたが、この遠眼鏡はたちまち高い評判を得るようになります。この時造った望遠鏡は、八角筒で直径八・九寸(30cm程度)であり、彼はこれを「窺天鏡」と名づけ、自らが時の知識人たちに太陽、月、木星、アンドロメダ銀河、ミザール等を披露したといいます。

善兵衛の造った「窺天鏡」には天体の姿が鮮明に映し出され、その評価はかなり高いものであったといい、これを追い風として彼はその後は望遠鏡の大量生産に着手しました。

善兵衛自らがレンズを磨いて製作したといい、これらの望遠鏡は当時の日本の天文学者・高橋至時や間重富に用いられたほか、若年寄堀田正敦摂津守をはじめ多くの大名たちにも用いられました。

自らも太陽、月、星の運行を観測しており、その後も干満を計算する「平天儀」などを製作しました。精密な日本地図を製作した伊能忠敬の望遠鏡もまた善兵衛により作られたものです。

「平天儀」に関しては「平天儀圖解」などの著述もあり、これを製作していたころには学者としても高名で、多くの知識人とも交流していたようです。

その後善兵衛は55歳で没しまたが、その没後も岩橋家は四代にわたって望遠鏡の製作・販売を続け、この商売は維新後までも継続し、明治38年には大阪の心斎橋に店を構えていたという記録が残っています。

現在でも、岩橋家の銘のある望遠鏡は現在も多数残っており、千葉県香取市の伊能記念館、善兵衛ランド(大阪府貝塚市)、高樹文庫(富山県射水市)、彦根城博物館(滋賀県彦根市)および、新潟県柏崎市の「とんちン館」などに現存します。

ところで、日本にもたらされたこの望遠鏡は、江戸時代には、「旗振り通信」という米相場などを遠方に伝える技術にも応用されて使われていました。

「旗振り通信」とは、旗などを用いた通信システムであり、大型手旗信号の一種ともいえ、この当時は「気色見(けしきみ)」、「米相場早移(こめそうばはやうつし)」、「遠見(とおみ)」などとも呼ばれました。

旗振り通信は江戸時代中期以降、全国の米価の基準であった大坂の米相場をいち早く他の地域に伝達するため、また逆に地方の相場を大坂に伝えるために考案されたもので、この旗振り通信の補助用具として望遠鏡も利用されました。

その起源は紀伊国屋文左衛門が江戸で米相場を伝達するために色のついた旗を用いたことにあるといわれており、旗振り通信に関する記述として最も古いものは、1743年(寛保3年)の戯曲「大門口鎧襲」とされています。

岩橋善兵衛が望遠鏡を初めて製作したのが、1790年(寛政2年)ですから、これよりも50年以上も前であり、このころにはまだ望遠鏡は使われていなかったか、これに先立って輸入されていたオランダ製のものが使われていたのかもしれません。あるいは浜田弥兵衛が初めて製作したものの派生形がこのころ既に流通していた可能性もあります。

従来米相場の伝達には飛脚(米飛脚)・挙手信号・狼煙などが利用されていましたが、江戸時代末期ころまでには、この旗振り通信がさかんに行われるようになり、この旗の視認には望遠鏡が大変役にたちました。最初は単眼の望遠鏡だけでしたが、のちには双眼鏡も開発され、江戸末期ごろにはこれも用いられていたようです。

旗の大きさはその視認が天候によって左右されるため、晴天時は横60cm×縦105cmか、これよりやや大ぶりの横100cm×縦150cmが用いられ、これは「小旗」と呼ばれました。

また、曇天時は横90cm×縦170cmまたは横120cm×縦200cmと大きくなり、これは「大旗」と呼ばれました。この大旗については、さらに大きな180cm×180cmのものが用いられていたという記録もあります。

ちなみに、これらの旗をとりつける竿の長さは、240cmないし300cmほどもあったといいますから、大旗を振るためにはかなりの力を要したことでしょう。

旗振りを行う場所のことは「旗振り場」といい、この間隔は、長いもので3里半(14km程度)から5里半(22km程度)もあったそうです。当然天候が悪く見通しの低い時には見えにくくなるため、この中間の低地にも臨時の旗振り場が設けられることがありました。

旗振り場が平地の場合には櫓(やぐら)が建てられ、また山頂や山腹では丸太や石で造った旗振り台や小屋が設けられ、こうした場所では旗を差し込むための穴が岩などに穿かれました。畿内の山間部には、現在でもこうした岩に開いた穴や、通信方向の目印をつけた岩などが残されているそうです。

また、旗振り場となった山は旗振山、相場振山、相場取山、相場山、旗山、高旗山、相場ヶ裏山、相場の峰などの名称がつけられ、これらはそのまま現在も地名または山の名前として残っています。

とくに、「相場」という呼称が含まれる山はかつての正式な旗振り場であったことの証明だということです。また「旗」が含まれていない場合でも、「旗」が「畑」に転じている場合もあり、これらは「畑山」、「高畑山」などになっている可能性もあるということです。

近隣にもしこうした名前がつけられた山があれば、その歴史を探ってみてください。

さて、その通信方法ですが、これは旗を振る位置・回数・順序に意味を込め、情報を伝達するというものでした。単純なデータならば、旗を振る向き(前後左右)だけで示すことができ、桁数、回数などはこの方法によって数字を伝えることができます。

しかし、米相場というのはその利ザヤで飯を食っている商売人にとっては重要情報であり、その内容を第三者に知られてしまうというのは死活問題となるため、この単純な情報をより複雑化して送る必要がありました。

このため、例えば「上げ相場」を伝えるのに旗を上下させるのではなく、「左横上で二振」とし、これに対して「下げ相場」は「右横下で二振」とするなどの手が加えられました。

このほか、「1銭」ならば、「右横斜下」、2銭ならば、「右横」、10銭は「直立二振」、50銭「直立前倒、直立上下二振」、そして、1円は「直立、大きく左右に振る」などなどです。
無論、これは一例であり、相場師によってはこれらのパターンも種類も異なります。

さらに通信方法に間違いがないかどうかを確認するためには、あらかじめ通信者どうしで申し合わせて決めていた数字などをあわせて通信しました。これを「合い印」といいます。例えば、これからパターン3の方法でデータを送るから、そのように理解せよ、という意味を送るために、本番のデータを送る前に、「パターン3」を示す信号を送るわけです。

その後に送られてきた本番の信号は、あらかじめ決められていた暗号表によって解読されますから、他人がこの通信を盗み見ることへの対策となります。

このほかにも旗で通信する数字を実際よりも増減させることをあらかじめ決めておき、他人が盗み見ても役に立たないようにするということも行われ、これは「台付」と呼ばれていました。

つまり、例えば送られたデータが6であったとしても、これからあらかじめ2を指しいた4が本当の値であると両者で暗黙に取り決めておけば、データ泥棒には、これは6としてしか伝わらず、本当の数字はわからないわけです。

このように、この時代にすでに暗号による情報伝達技術が確立されていたこと自体が驚くべきことですが、こうした技術は、明治以後も帝国陸海軍などの「手旗信号」などへの応用として伝承されていきました。

しかし、こうして米相場を送る場所は、山頂などの山合いが多く、このためたとえ望遠鏡を使ったとしても、雨やガスの出現などにより視界不良によって旗が見えなくなることもしばしばでした。

このため、雨天時など視界が悪く旗振り通信が使えない場合は、視界が回復するまで待つしかなく、どうしても情報を伝達したい場合には、時間がかかっても飛脚を使うしかありませんでした。

ただ、天候の良い場合には、例えば大阪の米相場は、数時間を待たずして畿内から江戸などへ伝えられていたといいます。

気になるその伝達速度ですが、熟練した者によってスムーズに旗振りが行われた場合、1回の旗振りを約1分で行うことができたと考えられるそうです。

このため、旗振り場の間隔を3里(約12km)とした場合、通信速度は60×12で時速720kmということになります。これをもとに計算すると、大阪から和歌山までは、十三峠経由でおよそ3分、天保山経由で6分で情報が伝達できたことになります。

また、京都までは4分、大津まで5分、神戸まで3分ないし5分または7分、桑名まで10分、三木まで10分、岡山まで15分、広島まで27分で通信できたともいわれています。

ただし、江戸までは箱根の剣を超える必要があり、この際に飛脚を用いても登り際にはやはりロスが多く、結局1時間40分前後かかったといいます。

なお、現代の1981年(昭和56年)には、旧来の旗振り通信を真似た情報伝達実験が行われており、このときには大阪・岡山間での情報伝達に2時間あまりを要しています。

この実験は、1981年(昭和56年)12月、西宮市在住の会社員たちが中心となって行われたもので、大阪市堂島と岡山市京橋との間に25の中継点を設定し、旗振り通信が再現されました。

このときの実験では、スモッグによる視界不良を原因とする中断を挟みつつ、この間の約167kmもの距離の情報伝達に2時間17分もかかりましたが、なんとか通信でき、通信内容が正確に伝えられたといいます。

この実験ではあまり視界がよくなかったために、中継点の数を増やさざるを得なかったといいますが、そのことを割り引いたとしても、この江戸時代当時の大阪・岡山間の伝達速度15分はたいしたものであり、当時の相場師がすぐれた情報伝達技能を有していたことがうかがえます。

こうした旗振り通信は、明治の初めころまで実用技術として続けられており、明治になってからは政府公認の仕事となり、これに携わる職業人は相場師、めがね屋などと呼ばれていました。しかし、1893年(明治26年)3月に大阪に電話が開通すると、以降は次第に電話にとって代わられるようになり、1918年(大正7年)ころまでには完全に廃れました。

じつはこの電話が開通するまでには、このころヨーロッパで発達していた、「腕木通信」という技術の導入が一度検討されたことがありました。

「腕木通信(semaphore)」というのは、文字コードを表示する信号機を遠方から望遠鏡で読み取る方法で、その技術は、日本で発達した旗振り通信とも似ています。

これは、18世紀末から19世紀半ばにかけて主にフランスで使用されていた視覚による通信機であり、あるいはその通信機を用いた通信網のことをさし、その視認に望遠鏡を用いる点は旗振り通信と同じです。

が、読み取るのは旗ではなく、「腕木」のあらわす文字コードや制御コードであり、これをバケツリレー式に情報伝達するというものでした。

フランス式のこの腕木通信に触発され、欧米各国ではそれぞれの形式の通信機が用いられるようになり、これら各種通信機を用いたシステム全体は、”optical telegraphy”と呼ばれていましたが、腕木通信そのものは「テレグラフ(telegraph)」と呼ばれていました。

どこかで聞いたことがあるような……と誰もが思うでしょう。これはもともと、ギリシャ語のテレ・グラーフェン(遠くに書くこと)という言葉に由来しており、当初腕木通信を指す固有名詞だったわけですが、後に一般名詞化して「電信」を表すことばになりました。

また、一般の人は余りご存知ないでしょうが、現代のコンピュータプログラムなどで使われる用語に「セマフォまたはセマフォア(semaphore)」というのがあります。これはこのテレグラフの類似品として作られた視覚通信機の固有名詞だったものが、のちの世にコンピュータ用語として使われるようになったものです。

その内容はややこしくなるのでここでは説明しません。

ちなみにこの視覚通信機は、その後さらに鉄道の信号機の名称となり(後述)、これらをかつての大日本帝国海軍が「セマホア」と表記しており、後代においても、セマフォではなく「セマホア」と表記されることもあります。が、無論、「スマホ」とは全く関係がありません。

さらには、かつて使われた国際的な手旗信号には、「セマフォア信号」というのがあり、これもまた腕木通信のころの用語の名残です。

さて、余談がすぎましたが、この腕木通信は、1793年にフランス人のクロード・シャップという人によって発明されました。

その原理は大型の手旗信号とも言えるもので、木などで作った腕木と呼ばれる数メートルの3本の棒を組み合わせた構造物をロープ操作で動かし、この腕木を別の基地局から望遠鏡を用いて確認することで情報を伝達するというものでした。

旗と同様、原始的な方式ながらも伝達速度は意外に速く、一分間に80km以上の速度で信号伝達さたといいます。

また、腕木の組み合わせによって手旗信号よりも精密かつ多彩なパターンの信号を送信できるため、短い文書を送れるだけの通信能力があり、基地局整備によって数百km先まで情報伝達することができました。夜間には腕木の端部や関節部に灯りをともして信号を送ることも試みられたといいます。

フランス革命期からナポレオン時代にかけ、フランス国内ではこれが総延長600kmにわたって整備されました。とくにナポレオンはこの腕木通信の活用に熱心で、国内を中心とする幹線通信網の整備に取り組みました。

この結果、フランス国内を縦断する550kmのルートを通じ、8分間で情報伝達することを可能にしたといいます。この当時、フランスでは政府の公用通信業務のほか、余裕があれば民間からの通信需要にも応えており、通信料金は極めて高価でしたが、日本の旗振り通信の利用目的と同様、特に迅速性の求められる相場情報などにしばしば活用されました。

ちなみに、ナポレオンが総裁政府を倒した軍事クーデターである、「ブリュメールのクーデター」が起こった1799年11月9日には、この腕木通信網によってその成功が、ナポレオン・ボナパルトに伝えられました。

また、その後ナポレオンがイタリアを支配するようになると、リヨン~ヴェネツィア間の通信網もこの腕木通信で行うようになり、そのための設備が整備されました。このとき、このアルプス山脈を超える通信網を確立するための工事は難航し、工事担当者は、何度もナポレオンから催促を受けながら二年余りを費やしてこれを完成させたといいます。

さらに後年、ナポレオンが最初の退位後に追放されたエルバ島を脱出し、フランスへ上陸したときの行動もまたこの腕木通信で即日パリへ通報されたといいます。

このようにフランスを中心として腕木通信はその利便性が注目され、最盛期にはヨーロッパのみならず世界中で総延長1万4000kmにも達しました。近代的な電気通信網が発明されるまでは、情報伝送量、通信速度と通信可能距離の3点において、最も優れた通信手段でもありました。

フランス通信社の創業者であるシャルル=ルイ・アヴァスはこの軍事用の腕木通信のメッセージを解読してどこよりも早い新聞の速報記事を出すことでフランス通信社を発展させました。どのような手段で解読していたのかは謎ですが、何らかの手段で軍事関係者から解読表を入手していたのではないかと言われています。

しかし、腕木通信は、要員を常駐させねばならないこと、悪天候時は使用できないことなどの欠点があり、より迅速性と確実性に富んだ、モールス信号を利用した有線電信の登場により、1840年代以降は先進国から急速に衰退しました。1880年代にスウェーデンの離島で運用されていたのが最後の使用例とされています。

こうして優れた通信技術として当時着目され、欧米では一定の発達を見せた腕木通信システムでしたが、日本でもまた導入されることはありませんでした。

前述のとおり、日本では江戸時代中期から米相場などの情報を伝えるために、大型手旗信号である「旗振り通信」が存在していました。

その後、幕末から明治維新期にかけて徐々にヨーロッパの通信技術導入が始まりましたが、この腕木通信技術が伝えられるころには、すでにこれは前時代の技術となっており、日本では腕木通信を飛び越して電信技術を導入することになったのです。

また明治初期に始まった電信・電話通信はそのコストが高く、これを嫌った民間の相場師の通信需要は伝統的な旗振り通信で十分に満たされており、電信通話よりも安価とされながらも固定設備設置・維持の手間が掛かる腕木通信は用いられませんでした。

結局、日本の通信手段は、長距離電報・電話の通信料金が下がって需要がそちらに移行することになる大正7年(1918年)頃までは、視覚通信である旗振り通信が中心でした。

しかし、この腕木を用いて情報を伝送する方式は、意外な形で後世まで残りました。

それは、鉄道用の腕木式信号機です。

この鉄道用の腕木式信号機は1840年代に従来の腕木通信の技術を使って発明され、すぐに広範囲で使われる鉄道用の機械式信号機として普及しました。

鉄道用の機械式信号機は、鉄道の線路脇に設置されて前方の状況を運転士に伝える装置です。信号機は、運転士に列車が安全に進行できる速度を指示し、または停止を指示し、運転士は信号機の現示を確認してそれに従って運転を行います。

夜間に列車を運転できるようにするために、その後この機械式腕木信号機にもオイルランプなどによるライトが備えられるようになり、腕木による情報伝達以外にも点灯している色つきランプのとの組み合わせで、信号が伝えられるようになりました。

運転士は、これらの昼間の現示と夜間の現示を組み合わせて覚える必要がありましたが、色や腕の形で情報を伝達できるこの信号機は重宝がられました。

初期には、腕木式信号機は「リンク機構」により制御されていました。信号扱所に「てこ」が設置されており、てこからリンク機構により繋がっている線路の分岐器と信号機を動かしており、また電動機や油圧によって駆動されるものもありました。

この信号機はフェイルセーフになるよう設計されており、駆動する動力が失われたりリンク機構が破損したりすると、例えば重力により腕が水平の位置に移動するようになり、この信号下では列車はストップするように決められていました。

しかし、やがて電球が発明されると、純粋的な機械的な信号機は色灯式信号機に置き換えられたり、場合によっては路側に信号機を必要としない信号システムに置き換えられたりして、次第に消滅していきました。

日本でも古くは腕木式信号機がたくさん用いられていましたが、日本国内で現存するものはわずかであり、現在ではほとんどが色灯式信号機に移行しています。

なお、現代の色灯式信号機の多くは、コンピュータ制御の自動信号機となっており、これは閉塞や連動装置、列車の現在位置などの状況に応じて人間の手を介さずに自動的に信号現示を表示できるもので、これによって格段に安全性が向上しています。

2005年6月には、JRで最後まで腕木式信号機が残っていた八戸線陸中八木駅の腕木式信号機が色灯式に置き換えられJRのすべての駅から腕木式信号機が消滅しました。

しかし、腕木式信号機はわずかに残存しており、それは津軽鉄道、福島臨海鉄道、黒山駅分岐新潟東港専用線などの数駅です。大手私鉄の大都市近郊にある路線でも近鉄長野線などが1960年代中頃まで使用していましたが、同線の腕木式信号機はATS化までに色灯式に置き換えられ消滅しています。

しかし、わずかとはいえ、日本やヨーロッパでかつて使われていたアナログな信号伝達装置がいまだ残っているというのも驚きです。

今後こられの器械が復活するということはありえないでしょうが、太陽フレアの暴走による地球規模の通信障害などが起こる可能性なども指摘されており、こうした大災害の場合には、案外とこうした旧式の通信手段が生かされることもあるかもしれません。

かつて江戸時代に使われた「旗振り通信」の技術もまた、かなりその形態は変わってしまっていますが、「手旗信号」として現在も使われています。

日本で手旗信号が最初に考案されたのは海軍においてであり、既に旗振り通信が過去のものになりつつあった1893年(明治26年)頃、のちの海軍中将となる釜屋忠道という人が、その部下とともに考案したとされています。

カタカナの裏文字を両手を使って書いて見せ、ほぼ誤りなく読み取ることができたことから、近距離の通信では実用信号として使えると判断した釜屋忠道がこれを海軍に進言し、正式に採用されたもので、これは「海軍手旗信号法」に呼ばれていました。

その後、海軍で覚えた信号法を商船でも海軍手旗信号法を準用して使うようになり、1936年に海軍と統一した「日本船舶手旗信号法」として定められました。

戦後になり、海軍が消滅したことなどもあり、海軍が規定していた発光信号とまとめる形で1952年(昭和27年)に運輸省告示により「日本船舶信号法」が制定され、手旗信号は引き続き採用されることになりました。

もともとは旧帝国海軍で発祥したことから、主に海上自衛隊や海上保安庁など、船上で通信を行う際に用いられることが多く、現在では商船で使われることはほとんどないようです。

また、日本には「海洋少年団」というのがあり、これは元国土交通省及び文部科学省の共管により、少年少女に対して海洋に親しむ機会を与え、健全な育成を図る活動を行う団体です。

海におけるボーイスカウトのようなものですが、ここに入団すると、海上生活に必要な技術を教えてくれ、この中には手旗信号を不自由なく使えるよう訓練も含まれています。

習得した手旗信号技術は、全国大会などの大会競技で競われるといったことも行われており、また陸上のボーイスカウトでも手旗信号技術の習得は必須とされ、その携帯品の一つに信号用の紅白旗が含まれています。

しかし、これらの手旗信号は、あくまで日本でだけしか通用しません。国際的に通用するのは、モールス符号を旗手または徒手にて送信する「欧文手旗信号」だけです。

1961年に政府間海事協議機関(現在の国際海事機関)により国際信号書の改定計画が立案、承認され、1968年からは、モールス符号を旗手または徒手にて送信する方法が定められました。

ただし、緊急時にこの手旗信号で悠長に信号を送っていたのでは、急な海難事故などのときには間に合いません。

このため、船舶用には、「国際信号旗」というのがあり、国際信号旗によって発せられる信号のことを「旗りゅう信号(旗旒信号、Flag Signalling)」と呼びます。

旗りゅう信号旗は、中世のヨーロッパで船舶間の通信を行うために発達し、トラファルガーの海戦でも通信に使用されるなどの歴史をもち、1857年に定められた国際信号書の中でもこの国際信号旗が採用されています。

が、通信技術の発達により、現在はモールス信号のほうが正式な信号とされており、こちらは廃止はされていないものの、その利用範囲が限定されています。

とはいえ、昔からあるこの旗りゅう信号は、船乗りならば知っておくべき必須の知識であり、現在も電気通信が行えないような場合にはこちらが使われることも多いようです。

1つの旗が一つのアルファベット、数字(またはひらがな)に対応していて、さらに符字として、1つの旗にある特定の意味をもたせている点が特徴であり、例としては、ダイビング支援船は“A旗”を掲げて、自船が現在潜水作業を実施している旨を他船に知らせる、といった具合です。

このほか、D旗は、「注意せよ。本船は操縦が困難である」であり、J旗は、「本船を十分に避けよ。本船は火災中で、積荷に危険物がある」、O旗は「海中への転落者あり」W旗は「医療の助力を求む」などなどです。

通信技術が発達し、どこへ行っても携帯電話が通じるこの世の中ですが、海上や極地、はたまた山奥では必ずしもこうした文明の利器の恩恵を享受できるとは限りません。東北の津波大震災では、通信がズタズタにされ、現場での被害状況などの情報伝達が回復するまでにかなりの時間がかかったことなども記憶に新しいところです。

ここはあなたもひとつ、手旗信号を習っておくのも良いかもしれません。

さて、いつものことですが、今日も長くなりました。終りにしたいと思います。

ドッペルゲンガー

今日で、9月も終わりです。

だというのに、未だ富士山の初冠雪はありません。それだけ今年の残暑は厳しかったということなのでしょうか。

さて、今日9月30日というのは、その数字から、「く(9)」る「み(3)」は「まるい(0)」という語呂合せができるということで、「くるみの日」になっており、これはくるみの名産地、長野県のくるみ愛好家達が制定したそうです。

クルミの原産地はヨーロッパ南西部からアジア西部とされ、北半球の温帯地域に広く分布しますが、日本に自生している胡桃の大半はオニグルミといい、長野県東御市がクルミの生産量日本一です。

ご存知の方も多いと思いますが、その殻はゴツゴツとして非常に硬く、中にあるナッツは非常に取り出しにくいのが特徴です。

このため、かなり昔から様々な形状のくるみ割り器が考案されてきましたが、1735年にドイツのテューリンゲン州ゾンネベルクというところで、「クルミ噛み器」が考案されました。

しかし、現在知られているような兵隊さんのような形に変化し、「くるみ割り人形」と呼ばれるようになったのはその後100年以上も経った1870年代頃のことのようで、ドイツ、ザクセン州のエルツ山地地方のザイフェンという小さな村の木材加工の工房の主が、これを考案しました。

最初のモデルは軽騎兵(兵隊)、消防士、山林監視官であったそうですが、その後、王様、警官なども造られ、その他にも、夜警、キノコ採り、サンタクロースといったものもあるそうです。

そもそもこういうモデルが生まれた背景には、一般庶民達の支配者階級に対する反発心や、ささやかな抵抗によるうっぷん晴らしという側面もあったのではないかという説もあるといいます。

このためか、最初のころは、堅い木の実の殻を口(歯)で砕く苦々しい顔をした男性を形どったものがほとんどだったそうですが、時代と共に、昔のようないかめしい怖い表情のものは少なくなり、現在は優しい表情のデザインのものが多くなっているそうです。

この「くるみ割り人形」は、ロシアの大作曲家、ピョートル・チャイコフスキーの作曲したバレエ音楽としても有名です。

これに「白鳥の湖」、「眠れる森の美女」を加えてチャイコフスキー作の三大バレエともいわれ、初演から100年以上もの間、愛されてきましたがいまだに数多くの改訂版が作られているといいます。

その筋立てはもともと、ドイツ人のE.T.A.ホフマン(エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン)という人の童話に基づいており、これをもとにクラシック・バレエの基礎を築いたことでも知られる、フランス人バレエダンサーのマリウス・プティパが台本を手掛けて創作されました。

その初演は1892年(明治25年)、ロシアのサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で行われました。このときの観客の反応はまずまずであったものの、主題が弱いと考えられたためか大成功とまでは言えず、現在のようなポピュラーな作品となるまでにはやや時間を要したそうです。

全曲の演奏時間の約1時間25分は昔からほとんどかわらず、これは2幕に分かれていますが、バレエの演技を抜きにして録音されたり、演奏会だけのために組曲にしたり、抜粋して演奏されるといったことも多いようです。

その内容はというと、ドイツのある裕福な家庭に生まれた少女クララが、クリスマスにプレゼントされたくるみ割り人形が、彼女の夢の世界に現われ、彼女をはつかねずみの大群から守るために奮戦し、勝利した人形は、凛々しい王子になって二人はお菓子の国で楽しく暮らす……というもの。

この物語の原作者のホフマンは、1776年生まれで、1822年に56歳で没した人です。この人ももともとは作曲家で、音楽評論家として知られていたようですが、その後画家や文学作家としても活躍し、多彩な分野で才能を発揮しました。が、とくに後期ロマン派を代表する幻想文学の奇才として知られているということです。

このホフマン原作のクルミ割り人形のストーリーを知らない方も多いと思いますので、ここで紹介しておきましょう。

物語は、医務参事官である、シュタールバウム家のあるクリスマスの情景からはじまります。

この家には上からルイーゼ、フリッツ、マリーの3人の子供がいました。一番下の娘マリーが7歳の時のクリスマスの日のこと、彼女はたくさんのクリスマスプレゼントのなかから不恰好なくるみ割り人形をみつけ、何を思ったのかこれがすっかり気に入ります。

ところが、これを使って兄のフリッツが大きな胡桃を無理に割ろうとして故障させてしまいます。人形を気の毒に思ったマリーは、その夜、戸棚に飾ってある他の人形のベッドを借りて、このくるみ割り人形を休ませようとします。

するとあたりの様子がもやもやと俄かに変化し、地面から7つの首をもつネズミの王様が軍勢をともなって現われました。そうしたところ、マリーが寝かせたばかりのくるみ割り人形が、むっくりと起き出したではありませんか。しかも人形は立って動き出し、戸棚にあったほかの人形たちを率いて、このネズミの軍を相手に戦争を始めました。

しかし、ねずみ軍団の力は強く、次第に人形たちが劣勢になっていきました。これをみていたマリーは、人形たちの窮地をなんとか救おうとしたのですが、その際中にふっと気を失ってしまいます。

気がつくと彼女は右腕に包帯を巻かれてベッドに寝かされていました。マリーが彼女の母親たちから聞かされた話によれば、マリーは夜中まで人形遊びをしているうちにガラス戸棚に腕を突っ込んで怪我をしてしまい、その拍子に気を失ったのだといいます。

マリーには、叔父が一人おり、彼女の名付け親となってくれたのもこの人でした。ドロッセルマイヤーおじさんといい、彼女は彼のことが大好きでいつも何かと相談に乗ってもらっていました。

なので、このときもおじさんにこの「夢」の中のことを話したところ、おじさんは、ニコニコしながら、彼女に似たような話がある、と言って「ピルリパート姫」というおとぎ話を彼女に話して聞かせ始めました。無論、これはおじさんの即興による物語でした。

この物語は、あるお姫様とねずみの戦いの話でした。姫はネズミの呪いを受けて醜くされてしまうのですが、王室のお抱えの時計師ドロッセルマイヤーとその甥の活躍によってもとの美しさを取り戻すことに成功します。しかしその身代わりに、時計師の甥は醜い姿に変えられてしまうことになったのでした。

この話を聞いたマリーは、それからのこと、彼女のくるみ割りこそがドロッセルマイヤーの甥なのだと妄想しはじめます。そして、それ以降、夜な夜なマリーのもとには、ねずみの王様が現われるようになり、くるみ割り人形の安全と引き換えにマリーのお菓子を要求するようになります。

マリーは仕方なく戸棚の敷居に菓子を置いておくようになりましたが、翌朝になるとネズミによって食い荒らされているのでした。しかもネズミの行為はだんだんとエスカレートし、はさらにマリーの絵本や洋服まで要求するようになります。

マリーはすっかり困ってしまい、くるみ割り人形のドッセルマイヤーに相談したところ、彼は一振りの剣を与えてほしいと答えました。翌朝、マリーは兄フリッツに頼んで兵隊人形のためのおもちゃの剣を一振りもらうことにし、これをそっとくるみ割り人形に持たせました。

こうしてその夜、剣を貰ったくるみ割り人形は、みごとにネズミの王様に打ち勝つことができました。そしてその姿をマリーのもとに現わすと、助けてもらったお礼にマリーを美しい人形の国へ招待したいと申し出ますが、その夜の「夢」はそこで終わってしまいました。

翌朝、自分のベッドで目覚めたマリーは、その夜の夢のような人形の国の情景が忘れられず、家族にそのことを話してまわりますがが、誰からも取り合ってもらえません。

ちょうどその日のこと、ドロッセルマイヤーおじさんが一人の青年を伴ってマリーの家を訪ねてきました。叔父さんによれば彼の隣にいるこの男性こそが、彼の甥だということでした。

叔父さんが「ピルリパート姫」の中でねずみの魔法によって醜くされてしまったと語ったこの甥は、醜いどころかとても感じの良い美青年でした。

叔父さんは、マリーの両親に用事があるからと一人奥の部屋に入っていきました。すると、マリーと二人きりになった途端にその青年がマリーのところに近寄ってきて、耳元でささやくようにこう言いました。

「僕があのとき君に救われたくるみ割り人形だよ。」

そして、彼女がくれた剣のおかげでねずみを退治できたことで、もとの姿に戻れたのだと話しました。彼は今や人形の国の王様となり、マリーを王妃として迎えに来たのでした……。

……と、このくるみわり人形の原作は、現実と夢物語が交錯する、複雑な構成になっています。もともと、作者ホフマンが友人の子供のために即興で作ったものであったそうで、自分の娘を幼くして亡くしていたホフマンはこの子供たちのひとり……これがマリーという名前でしたが……をとくに可愛がっていたということです。

この話はマリーのためのクリスマスプレゼントとして作られたものであったそうで、作中でも不気味な雰囲気を漂わせている、話好きで手先の器用な「ドロッセルマイヤーおじさん」は実はホフマン自身だったともいわれています。

ホフマンの自画像が残っているので見るとわかるのですが、かなりのブ男であり、不気味な小説ばかり書くこの当時彼のことを評して「お化けのホフマン」などと揶揄するひともいたということです。

こうして、この童話はその後、バレエの「くるみ割り人形」の原題にもなりましたが、バレエ版の中では、主人公の少女の名前が違うことをはじめ(マリーではなくクララ)、ホフマンの作品とはかなりその雰囲気には隔たりがあるようです。

このホフマンという人は、ドイツのケーニヒスベルクの法律家の家に生まれ、もともとは自らも法律を学んでおり、のちには裁判官にもなっています。

その傍らで芸術を愛好し詩作や作曲、絵画制作を行なっていったわけですが、1806年にナポレオンの進軍によって官職を失うとバンベルクで劇場監督の職に就くようになり、舞台を手がける傍らで音楽雑誌に小説、音楽評論の寄稿を開始しました。

1814年には判事に復職し、裁判官と作家との二重生活を送り始めましたが、病に倒れるまで旺盛な作家活動を続けました。

このとき彼が書き遺した小説には、上述のような童話風のもののほか、「自動人形」や「ドッペルゲンガー」といった「不気味」の代表ともいえるようなモチーフを用いたものも多く、現実と幻想とが入り混じる特異な文学世界が作り出されました。

自動人形というのは、オートマタ(Automata)とも呼ばれ、主に18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで作られた機械人形のことをさします。

ギリシャ語の「automatos」から来たもので、もともとは「自らの意志で動くもの」という意味合いを持ち、必ずしも機械を指す言葉ではありません。

が、その後18世紀から19世紀にかけてのドイツやスイスの時計技術の革新と、ルネサンス以降のフランスで流行したディレッタンティズム(道楽化・道楽主義)の複合によって、オートマタとはこの「自動機械」のことを指すようになりました。

この自動機械の動力は基本的にはぜんまいばねでした。人形状の形をしていましたが、娯楽のためだけではなく宗教的な儀式などに用いられることもあり、人形や仮面のなかには部分的に可動するものもあります。これは、宗教上の事件を伝承する際、これを操作することにより、よりドラマチックに見せる効果などがあったのではないかといわれています。

つまり、機械的な仕掛けにより自動で動くという演出を付加することで、人形(ひとがた)信仰においてあたかも人形に魂が入っているかのように見せることができるわけです。

人形を作り、それが動く、動かすというテーマはユダヤ教のゴーレム(自分で動く泥人形)やギリシア神話のタロース(クレタ島を守っていた自動人形)の例にもみられ、古代の人々にとっては根源的なテーマでもあり、また創造主としての神への挑戦といった面もあったようです。

こうした自動人形は、単に人形の稼動部分を人間が直接動かすという段階を経た後、古代ギリシアにおいてより洗練されるようになり、その技術はその後のアルキメデスの螺旋、や同時期に発明されたといわれる歯車、サイフォン、水力、滑車などが発明されるきっかけにもなりました。

伊豆にも、伊東市の伊豆高原に、「野坂オートマタ美術館」というオートマタ専門の美術館があり、ここに18世紀から20世紀にかけてのオートマタが60体以上展示されているそうです。私もまだ中に入ったことはないのですが、実際にオートマタがどういう動きをするか説明つきでの実演が行われているといいますから、ご興味のある方は行ってみてください。

一方、「ドッペルゲンガー」というのはドイツ語で、自分とそっくりの姿をした分身のことを指し、または同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象そのものを指す用語です。

自分がもうひとりの自分を見る現象であって、「自己像幻視」や「復体」とも訳されますが、ドイツ語の Doppelgängerを忠実に訳すと、「二重の歩く者」と言う意味だそうです。

自分の姿を第三者が違うところで見る、または、自分が異なった自分自身を見る現象であり、ドッペルゲンガー現象の特徴としては、ドッペルゲンガーとして現れる人物は周囲の人間と会話をせず、必ずその元の本人に関係のある場所だけに出現するのだそうです。

同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象としては、このほかにも「バイロケーション」というのがあります。が、バイロケーションのほうは自分の意思でひき起こされる現象であり、「ドッペルゲンガー」のほうは本人の意思とは無関係におきるという点が違います。

“Bilocation”とは、意思によって一身二ヶ所存在を実現することであり、複所在、同時両所存在、バイロケーション現象ともいわれます。

また、遠隔透視(リモートビューイング)の際に意識が体を離れ、透視対象の傍にあるように感じられるという現象もバイロケーションといわれますが、ドッペルゲンガーと決定的に違うのは、バイロケーションの場合は本人の意思によって分身が図られるため、その分身と本人がじかに接触できる場合もあり、またはかなりの接近が起きうる点です。

その際、本人の間近でお互いに同じような行動をすることが多く、また、場合によっては、ドッペルゲンガーと違い、会話さえも可能であるといいます。ただ、ドッペルゲンガーもバイロケーションも、相手の身体は触ることができず皮膚が突き抜けてしまうといったことなどが特徴として挙げられます。

かつては、「自分のドッペルゲンガーを見ると、しばらくして死ぬ」などと語られることもあって恐れられた現象であり、これは今でも多くの国で信じられています。

超常現象といわれるもののひとつであるわけなのですが、あまりにも頻繁に起こってきたことから、近年では医学的な説明を試みようとした例もあるようです。が、これまでに発生したものの多くは科学によっては説明不能でした。

有名な人に起こったドッペルゲンガー現象の実例としては、アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンや、日本の芥川龍之介、帝政ロシアのエカテリーナ2世などがあり、この中の芥川龍之介の例は本人が自身のドッペルゲンガーを見たというものです。

またこれらより古い時代でも、古代の哲学者ピュタゴラスは、ある時の同じ日の同じ時刻にイタリア半島のメタポンティオンとクロトンの両所で大勢の人々に目撃されていたといいます。

さらに、19世紀のフランス人でエミリー・サジェという女性が経験した現象は、ドッペルゲンガーとしては最も有名で、この事例では同時に40人以上もの人々によってドッペルゲンガーが目撃されたといわれます。

江戸時代の日本でもドッペルゲンガー現象の記録は割とたくさん残っているようです。日本ではこれは、影の病い、影のわずらいと言われ、「離魂病」と称されていました。近年になってこれらの事例を集めて研究した人がおり、その著述「日本古文献の精神病学的考察」には、離魂病のある事例として次のようなことが記述されています。

北勇治という人が外から帰って来て、居間の戸を開くと、机に向かっている人がいました。自分の留守の間に誰だろう?と見ると、髪の結いよう、衣類、帯に至るまで、自分が常に着ているものと同じではありませんか。

自分の後姿を鏡を使わずに見た事はなかったのですが、その姿は自分と寸分違いないと思われたので、顔をよく見ようと近づいていったところ、その人物は向こうを向いたまま障子の細く開いた所から縁先に出て行ってしまいました。

あわてて後を追ったのですが、外に出るともうその姿は見えません。おかしなこともあるものだと、家族にその話をすると、彼の母親はものもいわず、顔をひそめたといいます。

その後、勇治は病気となり、その年の内に死んでしまいました。実は勇治の祖父・父もともに、この「影の病」により亡くなっており、あまりにも忌しいことであったので、母や家来はその事を言えずにいたのでした。結果として、この家では3代ともこの影の病にて病没してしまったということです。

日本の文芸評論家で、日本文化や日本美術、中国美術の評論を多く書いた吉村貞司という人は、こうしたドッペルゲンガー現象は、古代の日本神話の中にもその名残が見られると主張しています。

その例として、「味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)」をあげ、これは天若日子(アメノワカヒコ)という別の神様のドッペルゲンガーと見ていい、と彼は主張しています。

アヂスキタカヒコネというのは、農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されている古代の神様で、「古事記」にも登場してきます。

一方、アメノワカヒコは大国主の娘の下照姫命と結婚した神様でしたが、葦原中国(天上の高天原に対する地上の国のこと)を得ようと企んでいたため、寝所で寝ていたところを矢で射ぬかれて死んでしまいました。

その夫はアメノワカヒコの夫人はシタテルヒメという女神でしたが、アメノワカヒコが死んでしまったので悲しみ、葬儀を行いました。その葬儀に訪れたのが彼女の父のアマツクニタマでした。

アマツクニタマが葬儀に訪れると、そこにはアヂスキタカヒコネも既に来ていましたが、その姿をみるとアメノワカヒコとそっくりであったため、アマツクニタマは、彼が生きていたものと勘違いしてアヂスキタカヒコネに抱きついてきました。

これに驚いたアヂスキタカヒコネは、穢わしい死人と一緒にするなと怒り、剣を抜いてアマツクニタマを蹴り飛ばしてしまった、というのがこの古事記の中の記述です。

このように、ドッペルゲンガーと近似する記述は古代から見られ、現在でもドッペルゲンガーと関連するものを見つけてきては比較研究する学者もいるといいます。

最近のテレビ番組でも新たな実例が紹介されることがあり、フジテレビ系列の「奇跡体験アンビリーバボー」でも海外のドッペルゲンガーの最近の事例を紹介したことがあります。これは母と娘が同時にドッペルゲンガーを経験した例でした。ただ、上述のように死んでしまうということもなく、この二人は現象があった後も問題なく生きていたそうです。

一方、医学においては、自分の姿を見る現象(症状)は「オートスコピー(autoscopy)」と呼んでおり、これは脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域に脳腫瘍ができた患者が引き起こす症状であり、彼らの多くが自己像幻視を見るといいます。

この脳の領域は、ボディーイメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあるのだそうです。

その昔放映された、テレビ番組「特命リサーチ200X」ではこのオートスコピーに関する特集が組まれました。

このときには、カナダ・マギル大学の医師がおこなった実験が紹介され、正常な人でもボディーイメージを司る脳の領域に刺激を与えると、肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するように感じられることが確認されている、といった内容が放送されたそうです。

またドイツ・アーヘン大学の医者も、自己像幻視は脳腫瘍に限らず、偏頭痛が発生する原因となる脳内血流の変動によって、脳の一部の機能が低下することでも引き起こされうるとしているそうです。

前述のリンカーンや芥川龍之介も偏頭痛を患っていたそうで、このドイツ人医師は彼らがドッペルゲンガー現象として本人を目撃したとされる事例の多くはこの解釈でもってある程度説明しうる、という見解を示したそうです。つまり、芥川龍之介は脳腫瘍をかこっていたということになります。

しかし、ドッペルゲンガーには、上述の医学上の仮説や解釈で説明のつくものとつかないものがあり、「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」、たとえば数十名によって繰り返し目撃された上述のエミリー・サジェなどの事例は、脳機能障害では説明できないケースのひとつです。

エミリー・サジェは、1800年代のフランス人で、幽体離脱またはドッペルゲンガー現象を起こしたといわれる人物です。1845年、当時32歳のサジェは、ラトビアのリヴォニアにある名門校に教師として赴任しましたが、まもなく生徒たちが「サジェ先生が2人いるように見える」と言い出しました。

教師たちは生徒の空想として取り合わなかったものの、10人以上の生徒がそう言い出したため、集団幻覚か、それとも本当にサジェが2人いるのかと判断しかねる事態になっていきました。

生徒たちの証言によれば、あるときサジェが黒板に字を書いていると分身が現れ、黒板に書く仕草をしていたといい、また別の日にはある生徒がサジェと並んで鏡の前に立つと、鏡にはサジェが2人映っており、この生徒は恐怖のあまり卒倒しました。

後には生徒たち以外の目撃者も現れるようになり、給仕の少女が、食事中のサジェのそばで分身が食事の仕草をしている光景を目の当たりにし、悲鳴を上げたといいます。

この分身はやがてサジェのそばのみならず、サジェから離れた場所でも目撃されるようになっていきます。あるときには、42人もの生徒が同時に分身を目撃する事件も発生しました。

ある日生徒たちのいる教室にサジェがおり、すぐ窓の外の花壇にもサジェがいるという現象も起きました。このときは勇気のある生徒が、どちらが本物のサジェか確かめようとしました。そして室内にいるほうのサジェに触れたところ、柔らかい布のようでまるで手ごたえがなかったといいます。

このとき、花壇にいるサジェはぼんやりとした様子だったといい、しばらくすると室内のサジェは消えてしまい、花壇のサジェは普段通り動き始めたため、花壇のほうがサジェ本人だとわかったといいます。

このような分身の事件は、1年以上にもわたって続いたといい、生徒たちの噂話に困惑した学校の理事たちは、サジェを問いただしましたが、サジェ自身にはまったく分身の自覚がありません。学校側同様に本人もこの現象に悩むばかりで一向に事態は改善しませんでした。

多くの生徒はこの分身の現象をむしろ面白がっていたものの、彼らの父兄は決してそうではなく、このような奇妙な教師のいない別の学校へ転校させる親が続出しました。サジェは教師としては優秀な人物でしたが、学校側としてはこの事態を看過できず、やむなくサジェを解雇することにしました。

その後もサジェの赴任先では同じことが起き、20回近くも職場を転々としたそうですが、そのあげく、とうとう赴任先がなくなったサジェは、義妹のもとへ身を寄せました。そこでも分身は現れ、子供たちが「おばさんが2人いる」と面白がっていたといいます。

前述の芥川龍之介は、その自らの短編「二つの手紙」にドッペルゲンガーのことを書いています。

大学教師の佐々木信一郎を名乗る男が、自身と妻のドッペルゲンガーを三度も目撃してしまい、その苦悩を語る警察署長宛ての二通の手紙が紹介される、という形式の短編です。

芥川龍之介自身がドッペルゲンガーを経験していたらしいとされる記録もあり、芥川はある座談会の場で、ドッペルゲンガーの経験があるかと問われると、「あります。私の二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現れました」と答えたといいます。

錯覚か人違いではないか?との問いに対しては、「そういってもらえれば一番解決がつき易いですがね、なかなかそう言い切れない事があるのです」と述べたといいます。

このように、ドッペルゲンガー現象は、古くから事例は多く、ホフマンや芥川龍之介のようにこれを小説に取り込む試みはかなり多くみられるようです。

ちょっと前の、といっても40年以上も前ですが、「ウルトラQ」という特撮番組の第25話にも「悪魔ッ子リリー」という話があり、これは肉体を離れ、精神体が悪事をするという内容でした。

最近では、杉浦日向子の漫画作品「百物語」にも「死の予兆」を反映させて、なりすました人物を殺害して、周囲の人に知られずにすりかわるというキャラクターが出てきます。

このほか、近年の日本のサイエンス・フィクションやファンタジー小説などにもよく登場し、そこでは、不埒な目的のために、特定の人や生き物になりすます「シェイプシフター“shapeshifter”」なるものもあり、これもドッペルゲンガーの派生と考えることができるでしょう。

この変化妖怪については日本だけでなく、世界中、古今東西広くに分布しており、その正体とされるものは、幽霊であったり、悪魔であったりと地域によっていろいろです。近年では、遺伝子組み換えによって生まれたバイオモンスター、なんてのもあります。

このように、ドッペルゲンガーは、日本においては江戸時代以前では離魂病として恐れられてきましたが、現代では小説やゲームなどの創作物においてはもその存在が脈々と継承されているわけです。

こうした、ドッペルゲンガーは、体外離脱または幽体離脱の一種ではないかという人も多いようです。

芸人さんの「ザ・タッチ」などがネタとして有名になって幽体離脱ですが、これは自分の肉体から抜け出す感覚の体験のことです。

私自身は経験はありませんが、国籍・文化圏にかかわらずこのような感覚はよく見られるようです。根拠はよくわかりませんが、10人に1人程度は生涯に一度は経験はしているのではないかとする人もいるようです。

体外離脱の典型は、自分が肉体の外に「浮かんで」いる、あるいは自分の物理的な肉体を外から見るといったもののようです。ただし、「体外に引っぱり出される」感覚とともに体外離脱体験をする人もいれば、突然体外に出ている状態を体験をする人もおり、その形態はさまざまです。

また、これもよく言われることのようですが、幽体離脱をしているときには、かなり具体的なイメージを持つことができ、かつ明確な自我もあって、鮮明な五感等もあることが多いといいます。あまりにも五感が鮮明なため、体外離脱している事に気づかず、そのまま日常を過ごしてしまったという例もあるといいます。

ただ、体外離脱を体験する時間はさほど長くなく、分単位であることが多いといいますが、体験者の中には、主観的な感覚としては、実際の経過時間よりもはるかに長い時間を過ごしているように思われることを指摘する人もいます。

体外離脱が起こるのは、主に、何かしら危険に遭遇した時、臨死体験をしている最中、あるいは向精神性の薬物を使っている場合などに多いようですが、人によっては、平常時、ごく普通の睡眠中や明晰夢の最中にも起こるようです。

また、こういうときには、いわゆる「金縛り」が起きている場合が多いといいます。

一方では、自らの意思で体外離脱体験をコントロールできるとする人も多く、一部には訓練によって体外離脱体験を起こそうとする試みもなされています。この場合瞑想に近い方法がとられているようです。とくにヨーガの行者などは修行中に体外離脱を起こすことはよく知られています。

こうした体外離脱体験なども含んだ霊界との交わりを体系的にとりまとめようとした人達も昔から多く、近代ヨーロッパでは神智学、人智学といった「学問」が形成されており、その一方では「近代西洋儀式魔術」や「神秘学」に代表されるようなオカルティックなものもあり、さまざまです。

スピリチュアリズムを主張する人達の間では、こうした現象を異次元世界、霊界とコンタクトする為にあるスイッチと考えている人もおり、これを本格的に研究した人としてとくに有名なのがロバート・モンローという人です。

もうこの項もかなり長くなっているので、今日はこれ以上述べませんが、彼が設立したのがロバート・モンロー研究所であり、体外離脱能力者でもあったロバート・モンローは、ヘミシンクと呼ばれる音響技術を開発して、たびたびあちらの世界の人々と交信しています。

ヘミシンクとは左右耳から波長がわずかに異なる音を聞くと右脳と左脳の脳波が同調することであり、ヘッドフォンから聞こえてくる音と瞑想の誘導を使うことでバイロケーション型の体外離脱が達成されるしくみだといいます。

原理はバイノーラルビートという確固たる音響技術に基づいているそうで、この音響技術を使用し、適切な訓練をするとバイロケーション型の体外離脱を体験できるといいます。

これらのことについては、日本では坂本政道さんという人が第一人者といわれています。

東大理学部の物理学科を卒業後、カナダで電子工学の修士をとり、ソニーで半導体素子の開発にあたったほどの俊英ですが、その後アメリカの半導体素子メーカーに引き抜かれて半導体レーザーの研究をしている最中に、「変性意識状態」ということに興味を持つようになります。

やがて、モンロー研究所のヘミシンク技術というものがあることを知り、この技術を使って自らも体外離脱経験をするようになり、それらの体験をつづった「死後体験」と呼ばれる本などを多数出版するようになりました。

この人の話をし始めるとまた長くなりそうなのでやめますが、ウチのタエさんがファン?で、私よりも彼の多数の著書を読んでいるとだけ、今日は書いておきましょう。

さて、今日はクルミの話題に端を発して、なぜか幽体離脱の話にまで飛んできてしまいました。

ここまでの話を信じるか信じないかはご自由ですが、いつもいうように、この世は不思議なことで満ち溢れており、科学的に説明できないからといってすべて否定できるような、この世はそんな単純なものではありません。

救急救命医として大勢の生死の狭間にある患者を診てきた矢作直樹というお医者さんは、臨死体験で幽体離脱した患者の体験を聞いた結果、「見た」出来事と実際の出来事と一致するという事実があることから、幽体離脱は「脳内現象」とは言えないだろうといっています。

そして、「人には、見える部分と見えない部分がある」とも語り、この見える部分というのは、実際にわれわれが見たり触れたりすることができる肉体であり、一方では目には見えないが恐らく肉体よりも大きな何らかの存在があるのだろうとも語っています。

そして、それこそが霊体ともいえるものだろうとし、物質的神経の仕組みを解明しても根本的因果関係を説明しているとは言えず、その背後にある霊的エネルギー体によってそれらの説明ができる、といった意味のことをおっしゃっています。

私自身も元は技術者であり、こういった優れた科学者すらも認める世界があることに疑いの余地はなく、ドッペルゲンガー現象も幽体離脱も実際にある現象だと思います。

また、ヘミシンクについても大変興味があります。なので機会あれば、またこのブログの中でもそのことついて詳しく書いてみましょう。

あなたも幽体離脱してみませんか?

タイタニックの姉妹


その昔、どういうタイミングでだったのかよく覚えていないのですが、都内の映画館で映画「タイタニック」を見ました。

おそらく仕事が早く終わったために余った時間を使ったのだと思いますが、改めて公開された年を調べてみると、1997年といいますから、もう16年も前ということになります。

ジェームズ・キャメロン監督・脚本によるアメリカ映画であり、1912年に実際に起きたタイタニック号沈没事故を基に、貧しい青年と上流階級の娘の悲恋を描いて大ヒットした作品です。

主にSFアクション映画を手掛けてきたキャメロン監督が、一転して挑んだラブロマンス大作ですが、ほぼ実物大のセットまで作って撮影に臨んだということから、細部に至るまでかなりリアリティのある映画で、とくに後半ではパニック映画さながらの緊迫感のある展開で、見る人をぐいぐいと引き込んでいきます。

ラストシーンもまた感動的であり、驚いたのは、周囲の多くの女性のすすり泣きの声が聞こえてきたこと。私もいろんな映画をみていますが、こういうことはめったになく、それほど力のある作品だったということなのでしょう。

それもそのはず、この映画は全米で6億ドル、日本で興収記録262億円、全世界で18億3500万ドルの売り上げを記録し、同監督の「アバター」に抜かれるまで映画史上最高の世界興行収入を記録し、ギネスブックに登録されていたほどの映画でもあります。

また、1998年のアカデミー賞において、作品賞、監督賞、撮影賞、主題歌賞、音楽賞、衣裳デザイン賞、視覚効果賞、音響効果賞、音響賞、編集賞の11部門で受賞するなど、ほとんどを総なめしました。

また、セリーヌ・ディオンが歌う主題歌“My heart will go on”も大ヒットしましたが、私はいまだに毎朝のジョギングに出るときに持って出るウォークマンにこの曲を入れています。

このタイタニック号については、おそらく知らない人はいないでしょう。20世紀初頭に建造された豪華客船であり、処女航海中の1912年(明治45年)4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没しました。

犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人であり、当時世界最悪の海難事故であったことから、この映画だけでなく、何度か映画化され、世界的にその名を知られています。

ところで、この沈没したタイタニックには、これ以外にも、北大西洋航路用に計画された2隻の姉妹船があったということをご存知でしょうか。

意外に知られていないことのようなので、今日はそのことについて少し書いてみようと思います。

タイタニックは、イギリスのホワイト・スター・ライン社(White Star Line)という会社によって建造された3隻のうちの2番船であり、これらの船は総じて「オリンピック級」と呼ばれていました。残る姉妹船とは、一番最初に建造された「オリンピック」と最後に完成した「ブリタニック」の2隻です。

ホワイト・スター・ライン社は、これらの船の建造に遡ること60年以上前の1845年に創業した、イギリスの老舗の海運企業です。「オーシャン・ライナー」といわれる数々の客船を運航させ、同じイギリスの海運企業であるキュナード・ライン社と19世紀後半から20世紀初頭にかけ激しい競争を繰り広げたことでよく知られています。

しかし、タイタニックの沈没を契機として、経営は次第に悪化していき、1934年、ライバルのキュナード・ラインに吸収合併され、その社名も「キュナード・ホワイト・スター・ライン」に変更されました。

その後、これも世に名高い豪華客船として知られる「クイーン・メリー」や「クイーン・エリザベス」などを就航させましたが、1945年には解散、同時にキュナード・ホワイト・スター・ラインはキュナード・ラインに社名を戻したため、「ホワイト・スター」の名前は消滅し、現在その企業的な名残はこの世に存在しません。

タイタニックなどを造船していた当時のホワイト・スター・ラインは、当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、ゆったりと快適な船旅を売り物としていた会社でした。したがって、タイタニックもスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計された船です。

ちなみに、ブルーリボン賞(Blue Riband)とは、大西洋を最速で横断した船舶に与えられる賞であり、大西洋航路の最速船の所有を広報することを目的として、1830年代に複数の大西洋横断航路運航会社の協賛によって設けられた賞です。

東回りと西回りに分かれた2種類の賞があり、当初、ブルーリボン賞を受賞した船舶は細長いブルーのリボンをトップマストに掲揚する栄誉に浴することができました。

「スピードの時代」と呼ばれた1930年代、同賞は各国の海運会社の威信を賭けた競争となり、各船は国の資金や技術協力を得て記録更新に挑みました。ブルーリボンを獲得することは受賞した国や船舶会社にとっての栄誉であるだけでなく、それに乗船する船客にとってもステータスとなったためです。

1935年にイギリスの政治家でありヘイルス・ブラザーズ社のオーナーでもあるハロルド・ケーテス・ヘイルス卿という人が自費でトロフィーを製作し、これはハレス・トロフィー(Hales Trophy)と呼ばれ、以降、世界最速記録を3ヶ月の間保持できた船にはこのトロフィーが贈られました。

しかし、大西洋横断といっても、海上に線が引いてあるわけではなく、その距離は航路によりかなり異なります。

このため、ブルーリボン賞は横断航海の平均速力に基づいて与えられることとなり、基本的には、西側の終着点はカナダ、アメリカ東海岸各港のいずれでも良く、東側の終着点はアイルランド、イギリス、西ヨーロッパのどこでも良いというきまりとなりました。

しかし伝統的に、大西洋横断の記録はニューヨークを出発もしくは目的地とした航海によるものが多く、そのほとんどがニューヨーク港を出発点または帰着点としています。

現在までのところ、西回り航路ではアメリカのユナイテッド・ステーツ・ラインの保有船で、その名も「ユナイテッド・ステーツ」という船が、61年も前の1952年に、3日と12時間12分で達成した34.5ノットが最高です。

一方の東回り航路では、1998年7月20日にオーストラリアのインキャット社によって建造された「キャットリンク5(Cat-Link V)」という船が達成した、2日と20時間9分という記録が最高で、このときの平均速度はなんと41.3 ノットでした。

これは、時速に換算すると、76.5km/hであり、波の荒い外洋をこの速度で運行したというのは天候にも恵まれたということなのでしょうが、驚異的な数字です。この数字は西回り航路でユナイテッド・ステーツが残した記録を優に上回るため、事実情この船が客船としては世界最速ということになります。

しかし、ユナイテッド・ステーツは、試験運転で40ノット以上を出したという記録もあるようで、やはりユナイテッド・ステーツが本当の保持船舶なのではないかという意見もあるようです。が、このあたりのことは本日のこの項にはあまり関係がないので、これ以上触れるのはやめておきましょう。

さて、先述の通り、タイタニックには姉妹船として、オリンピックとブリタニックという二隻の船が存在しましたが、これらの三隻もの大型客船が建造されたのは、この大西洋路線がホワイト・スター・ライン社にとってはドル箱航路だったためです。

キュナード・ラインなどの他社との激しい競争を制するためには、一隻では賄いきれず、最低二隻を常に交互に運行させる必要があったためでもあり、予備船を入れての三隻体制は実に合理的な運行体制でした。

こうして三隻体制の先駆けとして、まず最初に「オリンピック」の造船が開始され、ほぼ同時期に二番船タイタニックの建造も開始され、そして最後に少し遅れて三番船ブリタニックの造船が開始されました。

タイタニックとオリンピックはほぼ同時期に造船が開始されたこともあって、大階段やダイニングルームの装飾、食事のメニューや客室のサービスなど、その外観のみならず全てにおいて瓜二つでした。

しかし、キャメロン監督の映画「タイタニック」では、まるでこの当時の巨大船はタイタニックのみであるような脚色がなされていました。

が、実はタイタニックと同じ船が三隻もあり、これらを総称して「オリンピック級」と呼んでおり、またこの三隻の中では最初に建造された「オリンピック」こそがその代表であり、タイタニックは二番艦にすぎない、という印象でこの時代の人々は受け止めていたようです。

このため、ホワイト・スター・ライン社もその宣伝にはオリンピックのほうを前面に出すことが多く、タイタニックの写真としてもオリンピックのほうの写真が使われるということも度々行われていました。この当時タイタニックはオリンピックの陰に隠れた存在であったというわけです。

とはいえ、オリンピックとタイタニックは姉妹船であるがゆえに、その構造上の差違点はほんの少しでした。

しかし、タイタニックの建造が始まったとき、オリンピックは既に先立って運航されていたため、このオリンピックの問題面や改善点を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックのときから多少変更が加えられました。

その代表としては、海に面してベランダ状に設けられていた一等専用のプロムナードデッキ(遊歩道)が、オリンピックでは吹きさらしになっていたのに対し、タイタニックでは、中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取り付けられ、サンルーム状の半室内にされていたことでした。

このことは映画「タイタニック」をご覧になった方は覚えておられるでしょう。主演のレオナルド・ディカプリオが、映画ではローズ役だったケイト・ウィンスレッドの母親と初めて対峙する場面がこのサンルーム内のプロムナードデッキ上でした。

これは北大西洋の強風や波しぶきから乗客を守るためでしたが、この結果としてタイタニック号はオリンピック号よりも少々すっきりとしたスマートな印象になり、外観上で2つの姉妹船を判断する決定的な要素となりました。

このほかにも、オリンピックではBデッキ(オリンピック級では最上階のAデッキから最低部のEデッキまでのデッキがあった)の窓際全体にもプロムナードデッキが設けられていましたが、タイタニックでこれが廃止され、代わりに窓際全体に一等船室が新たに設けられ、この結果、一等船室の数がオリンピックに比べ大幅に増加しました。

映画の「タイタニック」では、ローズとその婚約者の豪華な居住船室が映し出されていましたが、これはここに増設された一等船室のうちの2部屋あったスイートルームのひとつです。

このほかにも、外観上からはその違いがわかりませんが、タイタニックでは、船体後部に豪華絢爛な一等船客専用レストラン、「アラカルト」が設けられており、オリンピックにはこの部分にはレストランはありません。

こうした違いから、当初両姉妹船の総トン数は同じになるはずでしたが、とくに一等客室の数が増えたために最終的にタイタニックはオリンピックの総トン数45324トンよりも1004総トン大きい46328トンになりました。

従って、厳密な意味で言えば、タイタニックはオリンピックの規模を超えており、またオリンピックには存在しないスイートルームの増設など、当時世界最大で豪華な設備を有した客船であったことになります。しかし、陰に隠れていたタイタニックの知名度が上がるのは皮肉なことにその沈没によってのことでした。

ブリタニック

一方、タイタニックよりも更に後に建造されたブリタニックはタイタニックの沈没によりその悲劇を繰り返してはならないと、安全面が大きく見直され、その再設計のため大幅に造船が遅れました。その結果としてタイタニックが沈没した1912年からおよそ3年後の1915年に就航しています。

建造が遅れた理由のもうひとつは、建造ドックが二つしかなかったためでもあります

この二つのドックでは、オリンピックとタイタニックの建造が先に行われ、1908年に一番船オリンピックの建造が始まり、その1年後の1909年には二番船タイタニックの造船が開始され、そしてオリンピックが進水した1911年になってようやくドックが空いたため、三番船のブリタニックの造船が開始されました。

前述のオリンピックとタイタニックとの違いでも述べたとおり、構造的にはこの二つには大きな相違はなく、これはブリタニックも同様であり、これら三姉妹の最初の基本的な図面は全く同じでした。

しかし、実際先立って乗客を乗せて航海を始めた一番船オリンピックの問題面や改善点を受け、二番船であるタイタニックは若干の仕様が変更されたように、ブリタニックでも運営上の理由から同様の変更が加えられました。

しかもブリタニックでは、タイタニックの沈没を受けて、構造的には大幅な設計変更が加えられることになりました。底部のみだった2重船底を側面まで延長し、さらにはタイタニックではEデッキにしかなかった防水隔壁をBデッキまでかさ上げする処置がとられました。

また、最上部のボート甲板、船尾楼甲板にはクレーン式のボートつり柱の取り付けが行われ、3等船客用の遊歩甲板は標準型救命ボート12隻で埋め尽くされました。

これは、タイタニックの沈没の際、救命ボートが足らず、これが原因で多くの人が海上に投げ出されて死亡する原因となったことを受けての処置でした。

タイタニックの沈没当時、イギリス商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要がなく、このためタイタニックには乗員乗客合わせて2200人以上もの人が乗っていたのにもかかわらず、1178人分のボートしかありませんでした。

このようにタイタニックに少ない数のボートしか搭載されていなかった理由としては、タイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船「リパブリック号」沈没事故も影響していたといわれています。

リパブリック号沈没事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方がこの当時は支配的になっていたのです。

しかし、タイタニックの教訓からブリタニックではこのように多数のボートが搭載されることとなり、しかもクレーンによって短時間で多数のボートを下ろすことが出来るよう改良されていました。

さらに、ホワイト・スター・ライン社はこの新型船の船長の選定にもかなりの気を配りました。

タイタニックの船長であった、エドワード・ジョン・スミスはこの当時、世界で最も経験豊かな船長の一人という名声を築き上げており、このためこの当時世界最大の船であったオリンピック級客船のネームシップでもある、オリンピックの最初の船長としてもその就任を請われることになりました。

その処女航海は、リバプールからニューヨークに向けて行われ、1911年6月に無事終了しましたが、ニューヨーク港に接岸する際、オリンピックは12隻のタグボートのうち1隻を右舷スクリューが発生させた後流によって衝突させてしまいました。タグボートは反転し、巨大なオリンピックの船体に衝突しましたが、この時は大きな事故にはなりませんでした。

ところが、この三か月後の9月、スミス船長が操船するオリンピックは初めて大きな事故を起こします。イギリス海軍の防護巡洋艦ホークと衝突し、この事故でホークは船首を破損し、オリンピックもまた防水区画のうち2つが破壊され、プロペラシャフト1つが折れ曲がりました。

しかし、このとき、オリンピックは幸いにも自力でサウサンプトン港に戻ることができました。

このように、オリンピック、タイタニックの船長を務めたエドワード・ジョン・スミスは、船長としての経験は長かったものの、巨大船に充分慣れていなかったといわれており、ホワイト・スター・ライン社としても、タイタニックの沈没によってそのことを遅まきながら認識したのでした。

このため、ブリタニアの就航にあたっては、当時オリンピック級に匹敵する巨大船、ルシタニア・モーリタニア・アキタニアといった船を保有していたキュナード・ライン社から、こうした大きな船の扱いに熟練したチャールズ・バートレットを引き抜き、彼の指導のもとにブリタニックの艤装工事を完成させました。

そして、ブリタニックが進水すると、そのまま彼を横滑りで船長に就任させました。

このとき、タイタニック沈没以前に内定していた船名ガイガンティック(Gigantic)をブリタニックと改名していますが、実はこのブリタニックという名前の船には先代がありました。

同じくホワイト・スター・ライン社が1874年に建造した客船であり、蒸気船でしたが補助用の帆も備え付けられていたため、快速を誇り、1876年にブルーリボン賞を受賞、その後も30年もの長きに渡って客船として活躍しました。

この船も進水直前に当初の船名「ヘレニック」から「ブリタニック」と改名されており、過去に同社が保有した数々の船の中でも特に優れた船として名を残していることから、どうやらこの二代目の名称変更もそのゲンを担ごうとしたのでしょう。

こうして1914年に進水式を迎えたブリタニックですが、ちょうどこの年に第一次世界大戦が勃発しており、その就航は翌年の1915年に延ばされました。しかし、竣工直後の1915年12月、イギリス海軍省の命により病院船として徴用されることになりました。

このとき、ブリタニックの黒い船体は純白に塗りかえられ、船体には緑のラインと赤十字が描かれることとなりました。

ちなみに、この時、姉妹船のオリンピックもまた軍に徴用され、軍事物質輸送船として戦場に狩り出されており、この船もまた船体に迷彩色が加えられるなどその外見に手が加えられています。

こうして、1916年11月12日14時23分、ブリタニックはギリシアのレムノス島へ向けてサウサンプトンから出航ました。この航海は、ブリタニックにとっては地中海での6度目の航海であり、その航路は馴染のものでもありました。

11月15日夜中にジブラルタル海峡を通過し、11月17日朝には石炭と水の補給のため、イタリアのナポリに到着。しかし、折悪しく嵐が発生しており、このためブリタニックは19日午後までナポリに滞在していました。

が、その後一時的に天候が回復したため、ブリタニックは出航します。心配されていたように、出航後すぐに再び海は荒れ始めましたが、翌朝には嵐は収まり、ブリタニックは、イタリア最南部にあるシチリア島とイタリア本土との間にあるメッシーナ海峡付近を無事に通過しました。

ところが、翌21日の朝、ギリシャ南部の島々のひとつ、ケア島付近にあるケア海峡に入ったところ、突如ブリタニックの船底付近で大きな爆発が生じました。

のちにこれはドイツ軍が敷設した機雷に触雷したためとわかりましたが、このとき、船長チャールズ・バートレットはエンジンを停止し、防水扉を閉じるよう命じました。ところが、なぜか浸水は止まらず、船体はどんどん傾いでいきます。

しかたなくエンジンを再起動してケア島に乗り上げようとその方向に向かおうとしましたが、船体への浸水の勢いは止まらず、たったの50分ほどで沈没することとなりました。

こうしてタイタニックの沈没を教訓として厳重に施された防水対策は何の効果も果たさず、ブリタニックは、ケア海峡付近の海面下120m下に永遠に沈むことになったのでした。

氷山に衝突して沈没したタイタニックは、防水壁の改良などが行われたブリタニックよりも長く浮き続け、2時間40分ほども持ちこたえましたが、このブリタニックの沈没までの時間はその3分の1にも満たないものでした。

しかし、この沈没では死傷者は少なく、死者の21名の大半は、船尾が持ち上がり始めた際にスクリューに巻き込まれた2隻のボートに乗っていた人員でした。

この2隻のボートの唯一の生存者は、タイタニックでも女性客室係を務めていたヴァイオレット・ジェソップという女性でした。このとき彼女は救急看護隊として、たまたまブリタニックに乗船していたもので、この事故のときも看護婦の制服を着ていたといいます。

救命ボートがブリタニックの巨大なスクリューに破壊され始めたとき、幸運なことに彼女はちょうどボートの下に潜りこむ位置にいたため、頭蓋骨折の重傷を負いながらも生き延びることができたのでした。

この2隻のボート以外でブリタニックに乗船していた人たちは、沈没までの時間が少なかったにもかかわらず、タイタニック以降増やされた救命ボートのおかげで、ほとんど救助されています。沈没した場所がギリシャ南部の地中海であり、海水温もそれほど低くなかったことも犠牲者が少なかった理由でした。

オリンピック

一方のオリンピックは、タイタニックの沈没後、未だブリタニックの造船も進んでいない当時、一船体制で大西洋を駆け巡っていました。タイタニックの沈没を受けて、ホワイト・スター・ライン社はオリンピックの船体側面を二重構造化し、救命ボートの数を倍以上に増やすなどの措置を施し、タイタニックの沈没後の乗客の信頼を取り戻すのに必死でした。

就航当時は、タイタニック同様、世界で最も巨大な船であり、それゆえに“絶対に沈没しない”という不沈伝説まで生まれましたが、タイタニックの沈没によってその伝説も海の底に沈んでしまっていました。

前述したとおり、オリンピック自身も、その処女航海で船長を務めたエドワード・ジョン・スミスの不慣れな操船から、タグボートを巻き込みそうになったり、イギリス海軍のエドガー級防護巡洋艦「ホーク」と衝突事故を起したりと、その先行きはタイタニックの悲劇を暗示しているかのようでした。

実は、タイタニックが沈没したとき、このオリンピックもタイタニックからのSOSを受信し救難に向かった船の一隻であったというのは、あまり知られていない事実です。

しかし、このとき、両船は800kmも離れており、沈没現場に到着したのは先に到着したカルパチアが遭難者を救助した後であり、姉妹船を助けることはついにできませんでした。

その後、1914年に勃発した第一次世界大戦において、その当初オリンピックは軍からの徴用を免れていました。ところが、1914年10月、アイルランド北方でイギリスの戦艦オーディシャスがドイツ軍が敷設した機雷に触雷したため、軍からこの曳航を要請されることとなり、初めて軍務につくことになりました。

このとき、既にブリタニアは病院船として軍に徴用されており、オリンピックもまた戦争から逃げることはできなかったのです。

このオーディシャス号の救助ですが、その現場にオリンピックは駆けつけ、牽引ロープを取り付けて曳航を始めたものの、直後の荒天のためにこの曳航綱が切れ、結局、オーディシャスは沈没してしまいました。

この翌年の1915年9月には、オリンピックはイギリス海軍省の命を受け、正式に軍用輸送船として徴用されることになりました。

こうして12ポンド砲と4.7インチ機関銃を取り付け、1915年9月24日に「輸送船2410」と軍艦らしい名前を付けられたオリンピックは、リバプールからトルコ西北部に位置するガリポリに向けて部隊を輸送する任務につき、その後も主に東地中海を中心として輸送任務を続けることになりました。

そんな中、病院船としての徴用を命じられていた姉妹船のブリタニックが、1916年11月にドイツ軍の機雷に触れて沈没してしまいます。このころオリンピックは、カナダ政府の要請に答え、北米カナダ東岸のハリファクスからイギリスへの部隊輸送を行っていました。

ブリタニックの沈没の報に接したことから、1917年からは更に軍備を増強することになり、それまでの装備に加えて6インチ機関銃が装備されるとともに、船体には迷彩塗装が施されました。また、この年にアメリカが参戦すると、オリンピックにはカナダに加えてアメリカからもイギリスへの大量の部隊輸送を行うことが命じられました。

こうして黙々と北米とイギリスの間を往復しながら多くの兵士を運んでいたオリンピックですが、1918年の5月2日、オリンピックは、突如ドイツ潜水艦Uボートから雷撃を受けました。

ドイツ語の「U-Boot(ウーボート)」は「Unterseeboot(ウンターゼーボート、水の下の船)」の略語であり、潜水艦を意味します。第一次世界大戦勃発当時、イギリス海軍の装甲巡洋艦3隻を立て続けに撃沈したのを皮切りに、その後もイギリス戦艦「トライアンフ」と「マジェスティック」を撃沈しており、Uボートの勇名は世界に轟いていました。

これらの戦果に自信を付けたドイツ海軍は、イギリス周辺の海域を交戦海域に指定し、イギリスに向かう商船に対する無制限潜水艦作戦を開始していたのでした。

このときオリンピックを攻撃したのはU-103というコードネームを持ち、この船もまた5回の任務をこなし、8隻の船舶を撃沈した実績を持っていました。

一方のオリンピックのこの時の船長は、バートラム・フォックス・ヘイズという人物で、ホワイト・スター・ライン社の先任船長を長らく勤めた民間人でした。

しかし、のちにイギリス海軍の志願予備員にも登録していることなどからもわかるように、かなり勇猛な男だったようで、このとき、ヘイズ船長はこともあろうに、この巨大船を用いてUボートに反撃を加えようとしました。

Uボートは魚雷を発射してオリンピックを仕留めようとしましたが、この雷撃を回避したオリンピックは、その高速を生かして回頭してUボートの側面につけ、衝角攻撃を試みました。

オリンピックの最大速力は21ノットであり、これに対してUボートの速度は、浮上時でも17ノット程度、潜航時には9ノットにすぎません。

このとき、Uボートは魚雷発射のために半潜航状態であり、速力を出してオリンピックを回避することができなかったのでしょう。このため、このオリンピックの反撃は功を奏し、巨大な船体を体当たりさせて乗り上げたため、U-103はその船体を真っ二つに破断されて沈没しました。

第一次世界大戦中において、商船が軍艦を撃沈したのはこの事例が唯一のことだったそうです。

輸送船が戦闘艦に反撃を加えるというも無謀なこの行為にはこの当時批判もあったといいますが、艦長のヘイズは、この戦績により、アメリカ政府から殊勲十字勲章を授与されています。

その後、第一次世界大戦を通して、オリンピックは34万7千トンもの石炭を消費して、12万人の兵員を輸送し、18万4千マイルを走り、無事に終戦を迎えました。

戦後は再び、客船として就役し、その後20年近く現役の客船として栄光を保ち続け、500回もの大西洋横断をこなし、晩年には「Old Reliable」という愛称で親しまれ、1935年に引退しました。

このオールド・リライアブルという愛称は、「頼もしいおばあちゃん」というような意味合いでしょうが、私はこれを「肝っ玉バアさん」と訳したいと思います。Uボートを撃退し、多くの軍務をこなした上に、長年客船としての実績も積んだこの船には、勲章さえもあげたいほどです。

オリンピックは戦後の民間復帰にあたって、点検を受けたそうです。その際、喫水線の下にへこみが見つかったといい、これを詳しく調査をした結果、この痕跡は不発の魚雷が衝突した痕であることが確認されたといい、これがもし爆発していれば、沈没は免れなかったと考えられます。

おそらくは、Uボートと格闘したときに放たれた魚雷だったと思われ、不運に見舞われたタイタニックやブリタニックとは対照的に、オリンピックには守り神がついていたとしか考えられません。

不幸で短命だった姉妹船のタイタニック、ブリタニックとは異なり、24年におよぶ長い就航期間と、「軍艦」としてのその輝かしい活躍ぶりから、その引退は惜しまれましたが、1935年(昭和10年)には現役を退き、解体されることが決まりました。

ところが、豪華な内装を持つこの船を廃棄するのは惜しいという声があがり、その内装の一部はオークションにかけられました。そしてそのダイニングの内装一式は、イギリスの裕福な夫人によって買い取られ、この人物はこれを屋敷で再利用して使用していたといいます。

夫人の死後、その屋敷もまたオークションに出されていましたが、世界有数の船会社であるロイヤル・カリビアン社が落札。かつてのオリンピックのダイニング内装は再び、この会社の保有船である「ミレニアム」という2000年竣工の豪華客船のレストランに使用されることが決定されました。

この船は現在も現役で就航しており、そのレストランは今も「オリンピック・レストラン」という名で呼ばれ、当時のオリンピックのダイニングがそのまま再現されて利用されているといいます。

オリンピックで使われていた食器類も飾られており、タイタニックとほとんど同じ内装であることから、かつて映画「タイタニック」がヒットして以降、今もこのレストランは連日の人気だということです。

80年目の真実

1985年9月1日、海洋地質学者ロバート・バラードの率いるアメリカのウッズホール海洋研究所とフランス海洋探査協会の調査団は、海底3650mに沈没したタイタニックを発見しました。

この時の調査では、海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでおり、4本あった煙突のうちの第3煙突の真下当たりで引き千切れており、これまでも沈没に際しては海上で船体が2つに折れたのではないかという説が主張されていましたが、これが初めて確実に立証されました。

深海に沈んだタイタニックの船首部分にはいまだ手摺が残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っており、また船内にはシャンデリアを始め多くの備品が未だ存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓が未だ割れずに何枚も輝いているそうです。

客室の一室の洗面台に備え付けられていた水差しとコップ、また別の客室の暖炉に置かれていた置時計は沈没時の衝撃に耐え、現在でも沈没前と全く同じ場所に置かれていることなどから、船首部分は海底に叩きつけられたのではなく、船首の先端から滑る様に海底に接地したと考えられています。

しかし、深海では通常バクテリアの活動が弱いために船体の保存状況は良いのではないかと当初いわれていましたが、運悪くこの地点は他の深海に比べ水温が高い為にバクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上でした。

このため、現在のタイタニックはこれらの鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が酸化されており、2100年頃までに自重に耐え切れず崩壊する見込みだといいます。

一方、病院船として徴用されたまま触雷して沈没したブリタニアも、沈没から80年ぶりの1996年にケア海峡で本格的な探査が行われました。

タイタニックより改良を加えたはずの船がなぜ短時間で沈んだのかは、最近まで謎であり、第一次世界大戦後にも英海軍が調査を行いましたが、その原因については結論がでていませんでした。

沈没当時のチャールズ・バートレット船長は、Uボートの魚雷によるものと考えていたといいますが、戦後のドイツ側の調査で、ブリタニックが触雷する3週間前にUボートの一隻である、U-73がケア海峡に12個の機雷を敷設したという記録が発見されました。

そして、このときのUボート艦長であったグスタフ・ジースもまた戦後にこれが事実であったことを証言しています。

しかし、それにしても厳重な防水対策を施した巨船がたった一発の機雷だけで沈没するとは考えにくく、何等かの別の要因があったのではないかと専門家たちは首をかしげていました。

この時の調査では、120メートルの海底に沈むブリタニアの船体内部に潜水士が入り、機関室やボイラー室なども詳しい調査が行われ、その結果、閉じたはずの防水扉が何箇所か開いていることがわかりました。

ブリタニックの就航当時、敵潜水艦が出没する海域では防水扉を全て閉じることになっていました。が、それでは日々の運行上、不便極まりないため、万一のときには扉の横にある手動レバーで閉じればいいという理由がつけられ、一部の防水扉は開けっぱなしになっていたといいます。

しかし、その他の大部分の防水扉は電動で開閉できるようになっており、これは被雷時には閉まっていたはずでした。ところが、調査によればこれらの自動扉も一部が解放されていました。このため、触雷したときのショックかなにかで電気系統が故障し、開いたままになってしまったのではないかと推定されました。

さらには、規則により全て閉じられていたはずの舷窓が多数開いていたことも分かりました。

ブリタニック号はもともと北大西洋航路用の船であり、冷房はありませんでした。このため、温暖な地中海航路では、ボイラー室の真上にあり、海面にも程近い底部のEデッキなどでは相当蒸し暑かったに違いなく、これはそのために乗員たちが規則違反であることを知りながら、多数の窓を開いていたものと推定されました。

このほか、船腹の鋼鉄を留めているリベットの当時の施工技術にも問題があったのではないかといわれていました。

これを裏付けるように、ボイラーを守っていた2重の外板のうちの一部の鋼板が内側から外へ向かってめくり上がっているのもみつかりました。

これはブリタニアの建造にあたり、現在ではまず使われることのない燃鉄製などの低い品質のリベットが使用されていたこともあり、爆発の衝撃でこれが抜け落ち、結果としてこうした部分から大量の海水の浸水を許す結果となったものとわかりました。

ブリタニアの沈没原因としては長年、その石炭庫で粉塵爆発があったのではないかということも取りざたされていましたが、結局、調査の結果、船体にはそうした痕跡もみとめられませんでした。

これらの結果、ブリタニックは、触雷時にあちこちの扉や船腹に穴が空いたザルのような状態にあったことがわかり、これにより多量の海水が船内に流れ込み、沈没を早めてしまったのだろうと推測されました。

このほかにも、沈没地点の南の海底域に、機雷の基部と思われる物体や本体の破片がソナーで確認され、敷設海域がドイツ側の記録と一致したことから、この沈没はバートレット船長が主張したような魚雷ではなく機雷が起因となったことも明白になりました。

こうして、タイタニックの教訓により大きな改良が施されながらも、その機能が十分に発揮されなかったブリタニアが短時間で沈没した原因は突き止められ、オリンピック級として造られた三姉妹のすべての最後が明らかになりました。

それにしても三隻のうち、沈没を免れ、戦後まで長く生きぬいたのは最後に建造され、数々の改良が加えられたブリタニアではなく、最初に建造されたオリンピックだけであったというのは皮肉なものです。

タイタニックよ永遠に

2013年の今年、オーストラリアの資産家によりタイタニック号のレプリカのタイタニック2号の建造計画が公表されました。タイタニック2号(Titanic II)と言う名称になる予定だといい、これは、沈没したタイタニックのレプリカとして考案・計画されている遠洋定期船です。

この建造プロジェクトは、2012年4月に、オーストラリアの資産家であるクライブ・パーマー氏によって発表されたもので、タイタニック2号は、パーマー氏が所有するクルーズ会社のフラッグシップ客船として位置付けられることも決定されました。

この会社名は、その名も「ブルー・スター・ライン」というそうで、無論、かつての「ホワイト・スター・ライン」を文字ったものでしょう。

設計については、フィンランドのデルタマリン社が担当し、中国の国営造船会社である長江航運集団金陵造船所が建造を請け負うことで、同年に契約締結がなされました。処女航海は、タイタニック号が沈没してから104年後にあたる2016年で、サウサンプトンからニューヨーク間のルートを予定しているといいます。

既にオリンピック級の三姉妹の豪華客船はこの世から姿を消していますが、レプリカとはいえ、我々がまだ生きているうちに再びまたその雄姿を見ることができるということで、船好きの私としてはワクワクしてしまいます。

一方、海底に沈み、朽ちゆくタイタニックは、現在もバクテリアに蝕まれ、徐々にその姿を消していっています。

しかし、最初の発見後には、度々潜水探査船による調査が行われており、特に映画「タイタニック」の製作時には、キャメロン監督によって2台の潜水調査船やリモートコントロール探査機が使用され、詳細な画像が収録されており、このときの記録は永久に残されていくでしょう。

ただ、その一方で、無断で海底の遺品を収拾する行為も広く行われているといい、一部の遺品は利益目的に販売されていることなども発覚しており、非難を集めています。

このため、2004年6月、タイタニックを発見した海洋地質学者ロバート・バラードとNOAAはタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行い、その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまりました。

そして、同年6月18日、アメリカ合衆国がこの条約に正式に署名しました。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることを内容としています。

タイタニックよ永遠にあれ、は現実的には難しそうです。が、だとしても、違法な収集による遺物の散逸を防ぎ、その一方では合法的に遺品を回収して、少しでもその当時の美しい姿を後世に残していってほしいものです。

さて、今日はお気に入りのテーマでもあり、いつもにもまして更に長くなってしまいました。終りにしたいと思います。

斬!


先日、昼寝起きに、ぼんやりとテレビを見ていたら、NHKで過去の大河ドラマのテーマ音楽集を流していました。

あぁこれは懐かしい、とついつい見とれてしまいましたが、惜しむらくは、各テーマとも短くカットされていて、全部を聞くことができないのが残念でした。

しかし、何十年ぶりかに聞いた曲もあり、例えば、その昔大好きだった「国取り物語」などは、ぁーこんな曲だったかな、と今聞くと、かなり記憶とは違った印象であったのには少々驚きました。

改めて時の流れというものは、記憶を曖昧にするものだと気付いたわけなのですが、これが魂レベルになると、何世代も前の前世の記憶が薄いというのも、なんとなくわかるような気がします。

ところで、この番組ではテーマ音楽とともに出演者や製作関係者などのキャストの字幕などもそのまま流れており、今はもう亡くなってしまった有名な俳優さんなどの名前も軒並み出てきました。

例えば、国取り物語では、斎藤道三の愛人のお万阿役をやった池内淳子さんとか(2010年に76歳で死去)、2009年に80歳で没した、金田龍之介さん(道三に国を盗られる土岐頼芸役)、羽柴秀吉の夫人の寧々役の太地喜和子さん(1992年、48歳で事故死)、足利義昭役の伊丹十三さん(1997年64歳没。自殺といわれている)、などなどです。

また、このころはまだ新進気鋭の役者さんたちも多数出演しており、中でも、徳川家康役を寺尾聡さんが演じており、羽柴秀吉役は火野正平さんがやっていたりしていて、改めてこの番組の豪華キャストぶりに目を見張る気がしました。

この国取り物語もそうなのですが、NHKの大河ドラマのオープニングではNHK交響楽団の演奏によるテーマ音楽をバックに出演者などのキャストが文字で紹介されるのが恒例です。このオープニング映像もなかなか毎年趣向が凝らされていて、かなり昔のものであってもそのデザイン性は秀逸です。

この字幕で紹介されるキャストの中には、出演者は無論のこと、演出や舞台装置、撮影や協力者といった人達も含まれており、このほか、「殺陣」というのもあります。そして、この殺陣の担当者として毎年の大河ドラマのオープニングで常連のように名前が現れるのが、「林邦史朗」という人です。

もともとは役者志望だったそうで、都立の向島工業高等学校卒業後に劇団ひまわりに入団し、そのとき講師に来ていた殺陣師の「大内竜生」の影響を受けました。すぐに劇団ひまわりを退団して大内氏の運営していた大内剣友会の門下生となったそうで、このことがその後の殺陣師人生の皮切りでした。

ここで殺陣の技能をマスターしていった林さんは、その後数々のドラマに切られ役とし出演していました。ところが、あるとき、とある番組のディレクターに「斬られ役ばかりやっていると、そういう根性が染み付いて役者として、見てもらえなくなるぞ」というアドバイスを受けます。

これにショックを受けた林さんは、やがて大内剣友会を去り、フリーになりました。

そしてフリーで仕事をしていくうちにNHKのプロデューサー・広江均から「今までの、歌舞伎のような舞踊めいた立ち廻りではなく、リアルな殺陣を林に付けてほしい」との依頼があり、その要望に応えるために1963年、日本初のスタントマングループ「若駒冒険グループ」(現・若駒)を創設します。

その後1965年、大河ドラマ「太閤記」のオープニングから殺陣師として林の名前が初めてクレジットされるようになり、以後、NHKの大河ドラマは無論のこと、多数の民放番組や映画、舞台などで殺陣を振り付けていきました。と同時に数多くの弟子を育て、過去に殺陣を教えた役者は100人以上にのぼり、現在でも80人以上の弟子がいるといいます。

また、大河ドラマの幾つかの作品では殺陣指導だけでなく、自らもゲスト出演することがあり、とくに「竜馬がゆく」「花神」「翔ぶが如く」などの幕末を題材にした司馬遼太郎原作の大河ドラマでは3度にわたり坂本竜馬を暗殺する刺客を演じたそうです。そういえば、私もその昔よく見ていた「花神」で、彼の雄姿を見たような記憶があります。

林さんが20代で殺陣師となった当時、「殺陣師なら本当の武術を学ぼう」との思いから、全国各地の武術家に入門し、柳生新陰流などの剣術の各流派、柔術や琉球古武術、合気道などの日本の武術全般の修行を重ねたそうです。そして、彼はこれらの修行を通じて「強くなることより、自分に勝つことの大切さを学んだ」と語っています。

しかし、殺陣師は、剣術や武術に長けている者だけが就ける仕事だと誤解をされている面がありますが、実際には殺陣師で武術を修めている者は少ないそうで、しかも自分の道場まで持って弟子を育てている殺陣師は、現在でも林さんを含め2人しかいないそうです。

こうした林さんの道場では独自の段位を定め、10年程度で一人前の殺陣師となれるように弟子達に指導を行っているといいます。

ところで、この殺陣は、「たて」と読みますが、もとはそのまま「さつじん」」と呼んでいたようです。かつて、歌舞伎よりもリアルな立ち回りを多用した時代物で一世を風靡した、「新国劇」の座長で、沢田正二郎という人が、ある公演の演目を決める際に冗談で「殺人」という名前にしてほしいと、座付きの作家に相談したそうです。

ところがこの演劇作家さんは、「殺人」というのはさすがに穏やかでないので、「陣」という字を当てることを提案したといい、これが「殺陣」の語源となりました。

この演目は1921年(大正10年)に初めて演じられましたが、このときの読みは「さつじん」でした。その後、この沢田正二郎座長が亡くなり、その七回忌記念公演が1936年(昭和11年)に行われたときから、「殺陣」の読みとして「たて」が使われるようになったということです。

「たて」のもともとの語源としては、目立つようにする、引き立てるという意味の「立てる」ではなかったかという意見や、いやそうではない、「太刀打ち」の太刀が変化したのだという説もあり、さまざまです。が、歌舞伎でも「立ち回り」という言葉があり、これを略した「立ち」が変化したのではないか、という説が有力だそうです。

本来この意味を表すのは、「擬闘」ですが、「ぎとう」では何のことかわからないので「たち」または「たて」と呼ぶようになり、この沢田氏の記念公演以降、「殺陣」と書くようになって、その読み方も「たて」ということで定着していったようです。

その定義はといえば、舞台、映画、テレビドラマなどで披露される、「俳優の肉体または武器を用いた格闘場面ならびに、それにまつわる動作」ということになるでしょうか。ただ、一般的には時代劇において日本刀や槍などの武器を用いた剣戟(けんげき)を指すことが多いようで、広義には、現代劇も含めた格闘場面全般を指すこともあるようです。

この振り付けや指導を行う人を殺陣師(たてし)と呼び、ときには擬闘スタッフなどと難しい呼び方もすることもあるようですが、ハリウッド映画などでは、「アクションスーパーバイザー」などがこれに相当するようです。

それにしても殺陣とはいかにもおどろおどろしい名称です。しかしあくまでも「演技」にすぎず、このため、本当に当たっている、あるいは当てられている「ように見せる」ことが肝要であり、実際には怪我をしない、させない配慮が不可欠です。

これを怠ると殺陣の場面を軸とした作品全体の評価の低下を招いたり、傷害及び死亡事故に発展する場合もあり、そうした意味でも高い技術が必要とされ、であるからこそ、NHKの大河ドラマなどでも、林邦史朗さんのような実力も実績もある人を長年抜擢し続けているのでしょう。

実際、過去には殺陣がうまくいかなかったための事故も起きており、1989年(平成元年)公開の勝新太郎の監督・主演映画「座頭市」の撮影中、俳優が振り回した真剣が殺陣師の首に刺さり死亡する事故が起きました。

これにより、以後は、同じような事故を防止する目的から、日本俳優連合に「殺陣対策委員会」(後のアクション部会)が設立され、この委員会が撮影現場での安全対策や傷害保険加入などの問題解決を図るようになりました。

また、この委員会の肝いりにより、2005年には、「アクションライセンス制度」が設立され、現在では俳優の殺陣技能は段位制になっているそうで、段位の低い役者は難しい殺陣はできないきまりになっているということです。

ところで、多少飛躍するかもしれませんが、こうした実際の演劇にまで使われる「日本刀」というものはいったいどういったものなんだろう、と改めて興味が沸いたので、調べてみることにしました。

そもそも、「日本刀」という呼称が正式にあるのか、ということから調べてみたのですが、すると、平安時代以前の古い時代には「刀(かたな)」、もしくは「剣(つるぎ)」と呼び、「日本刀」という呼称は使われていなかったそうです。

「日本刀」という呼称は、中国の北宋の時代(960~1127年)の政治家で、詩人だった欧陽脩(おうようしゅう)という人が、「日本刀歌」という詩の中でこれを使ったのが最も古い記述だといい、この詩の中では、越(華南)の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行く、といったことが描かれているそうです。

この日本刀の姿かたちの美しさなどの美術的な観点もまたこの詩の中で歌われているといい、従って「日本刀」という言葉が定着しはじめたのは、このころからのことのようであり、この当時既にその美しさが海外の好事家などにも認められ、日本の重要な輸出品の1つになっていたのでしょう。

この北宋の時代というのは、日本では、794~1185(もしくは1192年内外)の平安時代とギャップしています。しかし、中国ではそう呼ばれていたものの、日本国内ではこのころまだその呼称は「刀」、もしくは「剣」であり、「日本刀」という名称は一般的に使われていません。これが一般的名称として広まったのは幕末以降のことだそうです。

「刀」、「剣」以外にも「打刀(うちがたな)」や「太刀(たち)」といった呼び方もありますが、実はこれは「刀を」更に小分類する呼び方です。これについては後述します。

以上のことから、平安時代より以前の例えば古墳時代などに製作されていたものを日本刀と呼べるかというとそうではないことがわかります。また、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった「反り」があり片刃の刀剣のことを指すようです。

その美しい反りと、日本固有の鍛冶製法によって作られた荘厳ともいえるような表情ゆえに、中国でも美術品として扱われたものであり、平安時代以前の直刀や両刃の鉄剣もしくは青銅製の剣などは、一般的には日本刀とは呼びません。

従って、日本刀は、武器としての役割を持つと共に、美術品としても評価の高いその美しい姿を持つものを指します。そして、その象徴的な美により、平安の昔から続く血統では権威の証としても尊ばれました。また、のちの、鎌倉時代以降の武家政権を背景とする時代に至っては、「武士の魂」として精神文化の支柱ともされるようになりました。

その大きな特徴をあげると、「折り返し鍛錬法」で鍛え上げられた鋼を素材とするという点と、刀身と茎(なかご、中心。刀身の柄に被われる部分)が一体となった構造であるということです。

茎は、いわゆる「柄」の部分に相当する部位であり、「砥ぎ」の対象にはなりません。なかごには、刀身を目釘で柄に固定する目的で、孔(目釘孔)が設けられていますが、奉納用の刀などで目釘孔がないものもあります。

諸外国の刀剣類と根本的に異なるのは、外国の剣などでは鞘などの外装(日本では拵え(こしらえ)という)なども珍重されますが、日本では、刀身自体が最大の美術的価値を持っている点が特徴です。

著名な日本刀としては、国宝の「大包平(おおかねひら)」を初めとして、妖刀「村正」、「雷切」などのほか、豊臣秀吉の愛刀の「一期一振」、佐々木小次郎の愛刀「備前長船長光」などがあります。

このほかにも、「天下五剣」と称される5つの名刀があり、これは同じく国宝「童子切」、「三日月宗近」、「大典太」の三点と、重要文化財の「数珠丸」、および御物「鬼丸国綱」です。

……と書いたところで、文章ではその美しさはなかなか伝わってきません。

では、貨幣価値にすれば多少はその良し悪しが分かるだろうということで調べてみたところ、例えば国宝の「大包平」は、江戸時代に岡山藩主の池田家に代々伝わっていたもので、1967年(昭和42年)に文部省(当時)がこれを池田家から6500万円で買い上げており、現在であれば、優に億を超える値段がつくでしょう。

この「大包平」は現在も東京国立博物館に収蔵されていて、時々公開されているそうなので、実際に目で見てその価値を確かめてみたいという方は東京までお越しください。

また、豊臣秀吉の愛刀の「一期一振」は、尾張藩主・徳川茂徳より孝明天皇に献上され、以後、皇室に伝えられて皇室御物となっているほか、その他の名刀も徳川幕府所蔵の品々であるなど、いずれもその価値は莫大なものと考えられます。

国宝の「童子切」は、平安時代の伯耆国の名刀工・安綱作の作品であり、また「三日月宗近」、「大典太」なども平安時代後期から伝えられているもので、これらの名作には平安時代に造られたものが多く、かなり大きな「反り」があるのが特徴です。

平安時代後期からこうした刀が作られるようになった背景には、ちょうどこのころから武家の勢力が増大してきたことがあげられ、このころ戦は馬上決戦を中心に考えられていたため、振り回しやすいように反りを持たせた片刃の太刀が発達したものです。

その生産地としては、良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域(現・鳥取県米子市と島根県安来市一帯)や備前国(現・岡山県南部)と、政治文化の中心である山城国・大和国(現・京都~奈良)などが有名であり、これらの地に刀工の各流派が現れました。

そもそも、日本刀は、寸法により刀(太刀・打刀)と、脇差(脇指)、短刀に分類されますが、広義には、長巻、薙刀、剣、槍なども含まれます。

室町時代中期以降、日本刀は刃を下向きにして腰に佩(は)く「太刀」から、刃を上向きにして腰に差す「打刀(うちがたな)」に変わってきますが、この平安時代にはまだ下向きの「太刀」が主流でした。

なお、太刀・打刀とも、身に付けた時に外側になる面が刀身の「表」だそうで、その面に刀工銘を切るのが普通だといいます。したがって、銘を切る位置によって太刀と打刀の区別がつく場合が多いそうです(ただし、ときには裏に銘に切る刀工もいるとか)。

その後時代が下って、鎌倉時代になっても日本刀の姿は平安時代末期とあまりかわらない姿をしていましたが、鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、「刀剣界」といえるほどの創作集団が確立されるようになっていきます。

後鳥羽上皇は「御番鍛冶」を設置し、月ごとに刀工を召して鍛刀させ、上皇自らも焼刃を施したといわれ、積極的に作刀を奨励しました。また、鎌倉幕府では、作刀研究推進のため、各地から名工を招聘しており、これらは主に山城国や備前国からの刀工です。

鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、日本刀も身幅が広く元幅と先幅の差も少なくなり、平肉がよくついたゴツイものに代わってきます。「鋒」と呼ばれる背の部分も幅が広くなり、刀身もやや短くなって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がでてきました。また、この頃から太刀ばかりではなく、短刀の制作も活発になってきます。

さらに鎌倉時代末期になると、2度の元寇や政治体制の崩壊などの動乱により、作刀はさらに活気づいていきます。この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をさらに豪快にしたものに変わっていき、身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒幅もさらに増えます。短刀やその他の刀剣も太刀と同じような傾向です。

その後、室町時代(南北朝時代)の刀剣は、大振りなものが多く造られるようになります。またこの時代の太刀の中には、元来長寸の大太刀(刃が下向き)であったものを磨上げてスリムにするとともに長さを調整し、刃が上向きの打刀に造り直されているものが多くなってきました。

天正年間に織田信長などの戦国武将が、秘蔵の太刀を多く磨上させており、これらの中には後世で名刀と言われるものも多いということです。

また、この時代には小太刀も多く造られるようになり、播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した、嘉吉の乱(かきつのらん)などが勃発すると、
室内戦闘用に短い刀が求められるようになり、この時代から「脇差」の製作がさかんに行われるようになりました。

それまでの太刀だけ一本を腰に差すというスタイルから、打刀・脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期です。この時代に作られた備前の2尺3寸(約66cm)前後の打刀や、1尺5寸(約45cm)前後の脇差は非常に姿が良く、のちの江戸時代に大名が美しい拵えを作る参考にするために珍重したといいます。

また、この室町時代には、製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置である、鞴(ふいご)を使った製鉄技術が発達し、ふいごは、別名「たたら(踏鞴)」と呼ばれていたため、こうした製法を「たたら製鉄」と呼ぶようになり、製刀のための鉄を得るための大規模なたたら製鉄場も造られるようになっていきました。

しかし、室町幕府の統制により平和な時代となったため、刀剣の国内需要は一時的に低下しました。とはいえ、このころにも日本刀は明などの諸外国への重要な貿易品として生産されつづけおり、廃れるということはありませんでした。

そして、8代将軍足利義政の継嗣争いなどによって有力守護大名が争い、全国的な内乱となった応仁の乱が勃発し、やがて戦乱の世が始まると、膨大な需要に応えるために再び刀剣製造はさかんになっていきます。

足軽など農民兵用に貸し出す「お貸し刀」と呼ばれる粗悪な刀が大量に出回るようになり、再び刀剣生産が各地で活発に行われるようになりました。

また備前(現岡山県)の長船派(おさふねは)という刀工の流派の鍛えた刀がもてはやされるようになり、この中から多数の名匠が生み出されました。長船派を名乗る刀工だけでもこの当時60名もいたといい、このほかでは、美濃国(現岐阜県)が生産拠点の双璧でした。

この時代、合戦に明け暮れる武将は、己が命運を託する刀剣をこれら諸国の名工に特注することも多く、これら「注文打ち」の中には、のちの世にも名刀として伝えられたものも少なくありません。

やがて、戦国末期になると、南蛮貿易によって鉄砲が伝来します。これによって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていき、鉄砲に対抗するため甲冑が強化されるようになり、このためより強靭な日本刀が求められるようになります。

また、大規模な合戦が増えたため、長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、これらのことから身幅が広くて重ね(刀の厚みのこと)も厚いものが増え、また切先も大きいというのがこの時代の日本刀の特徴です。

この姿は豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、これら豪壮な刀はのちの江戸時代の慶長年間にまで引き継がれたことから「慶長新刀」と呼ばれるようになりました。

ところが、安土桃山時代がちょうど終りに近づくころ、長らく名刀工を数多く生み出していた備前の長船一派の製造所が、度重なる吉井川の氾濫で壊滅状態になります。これによって備前鍛冶の伝統は一時休眠状態となり、このため各地の大名は量産体制のある美濃の鍛冶をこぞってお抱え刀工に採用しました。

刀剣史では、江戸初期の慶長年間(徳川家康、秀忠の時代)以降の作刀を「新刀」として、それ以前を「古刀」として区別していますが、この新刀と古刀の区別の違いには、この備前の長船一派の衰退による影響によるところが大きいそうです。

しかも江戸時代に入ってからは、刀を鍛えるために使用する「地鉄(じがね)」の品質も変わってきました。日本刀は折返し鍛錬の結果、刀身の表面に美しい地紋が現われますが、この鉄の肌模様を地肌と称し、その下地となる素地の様子を「地鉄」といいます。

従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われていたのですが、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったのです。

このため、この時代以降の「新刀」と呼ばれるものに使われている地鉄は基本的に「綺麗」だといいます。

また、江戸時代に入り、朱子学の発想に基づく風紀取締りを目的として、武家の大小差し(打刀、脇差)の差し料の寸法、町人などの差し料の寸法などが制定されました。

特に江戸時代に入ってすぐのころは、この寸法設定に伴う武家の大小差しの新規需要が多く、寛永から寛文、延宝にかけて各地の刀鍛冶は繁栄し、これに伴って技術水準も向上しました。一方でこれ以降の幕末までの間、脇差よりもさらに短い短刀の作刀は急激に減りました。

江戸初期には島原の乱などの大規模な内乱も起きましたが、その後は平和な時代が続き、剣術も竹刀稽古中心となった影響で、まっすぐな竹刀に近い、反りが浅くて切先も小さい刀のほうが人気が出るようになりました。

こうした刀が、ちょうど1661年から1672年までの寛文年間ころから流行るようになったことから、この姿を「寛文新刀」と呼び、江戸時代の刀剣の代表的なものといわれています。

一方、商業の中心地となった大坂では、紀州などの近郊から刀工が次第に集まってきており、これらの刀工集団の作は「大坂新刀」と呼ばれ、新刀の中でも特に区別されています。

その特徴は地鉄の美しさであり、しかも地鉄の上の華やかな刃文の美しさは数ある新刀の内でも群を抜くといいます。その背景には大坂の商業力によって優れた刀工が集まったことと、古来より鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨が近かったことがあげられます。

一方、江戸時代では全体的にみれば平和になった分、刀剣の需要は衰退する一方であり、これに対して、刀等の付属品である、鐔(つば)や小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)といった刀装具の装飾が発達しました。

装剣金工の分野では熊本の肥後鐔工のほか、京都の京透かし鐔工、愛知の尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工などが有名であり、多くの金工職人の中から独創的な名品が生まれました。

これら刀装具は各々時代の流行に合わせて変化していきましたが、片や刀装具の繁栄に対して、鍛刀界は反比例するかのように衰退していきました。

幕末動乱期になると、度重なる飢饉、貨幣社会の台頭による商人の肥大化などにより、武家の衰退が顕著となり、また黒船の来航もあって、社会の変革の風を人々は感じ始めます。

この幕末の時期に、出羽国(現秋田・山形)から江戸へ上り、鍛刀技術を磨いた優れた刀工が現れ、これは藤原正秀、または水心子正秀(すいしんしまさひで)という人物でした。

この藤原正秀の鍛えた刀の特徴としては、地鉄がほとんど無地に見えることであり、これは製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったためでもありました。その作風の後期には洋鉄精錬技術も取り入れられてさらに無地風の地鉄が作られるようになり、これらは総称して「新々刀」と区分されています。

正秀の弟子は全国各地へ散り、新々刀期の刀工のうち、正秀の影響を受けていないものは皆無と言って良いほどだそうで、著名な弟子たちは正秀と同様、さらに多くの門人を育てました。

また、幕末には、姿は各国でまちまちですが、総じて身幅が広くて切先を伸ばし、反りの大きい古作の写しものともいわれるようなものも造られました。

実用刀剣の復古、即ち鎌倉時代・南北朝時代の刀剣への復古を唱えた刀工も多くなり、こうした復古運動は、後の勤王思想が盛んになりつつある社会情勢と響きあい、こうした復古主義者たちが各地の鍛冶と交流することが、勤皇思想が全国に広がるきっかけともなりました。

やがて幕末の動乱はピークを迎え、水戸勤皇派による天狗党の乱が起き、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変が勃発し、諸国でも佐幕派と倒幕派が入り乱れて闘争が行われるようになると、時代環境に合わせてこれまであまり作られることのなかった短刀の需要が増え、また長大な刀を好む武士も増えました。

こうして、日本刀の作刀が再び繁栄を始めたかと思われたところで、時代は一気に明治維新へと突入していきました。新たな刀の需要は殆どなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失い、また、多くの名刀が海外に流出しました。

このため、明治政府は「帝室技芸員」の職を設け、伝統的な作刀技術の保存に努めるとともに、明治6年(1873年)には、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品することなどで、国際社会に日本人の技術と精神を示そうとします。

しかしこの年には、同時に「仇討ち禁止令」が出され、明治9年(1876年)には廃刀令が発布されるともに、大礼服着用者・軍人・警察官以外は帯刀を禁止されたことにより、日本刀の作刀は急速に衰退してしまいました。

一方、新生大日本帝国の国軍として創建された日本軍(陸軍・海軍)は1875年(明治8年)の太政官布告において将校准士官の軍装品として「軍刀」を採用し、またこの軍刀とは別に、正装時に用いる「正剣」を採用しました。

「正剣」のほうはのちに廃止されましたが、軍刀のほうは以後、第二次世界大戦に至るまでの将校准士官の標準装具となりました。しかし、明治初期のその様式は日本刀ではなく、「サーベル」であり、拵え・刀身ともに洋式のものでした。

ところが、その後勃発した西南戦争において、警視隊の中から選抜して臨時に編成された白兵戦部隊である「抜刀隊」が活躍したことなどから、次第に外見はサーベル様式ながらも、中身には日本刀を仕込むことが普通となりました。

さらには日露戦争における白兵戦で、近代戦の武器としての刀剣類の有効性が再評価され、こうした軍刀需要の中で日本刀は復権をとげます。

さらに昭和時代には国粋主義的気運が高まったことと、満州事変や第一次上海事変において日本刀が国威の象徴として使われるといったことなどもあり、陸海軍ともにサーベル様式に代わって、鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、「将校軍刀拵え」が登場しました。これはより江戸時代以前の昔の日本刀の拵えに近いものです。

また、同時期には下士官兵用の官給軍刀でも太刀拵え・日本刀々身が採用され、これは「九五式軍刀」と称されました。しかしこの官給刀はあまり人気がなく、それぞれの家に伝わる個人所有の日本刀のほうが使われることが多かったため、軍刀として出陣した古今の数多くの日本刀の名品が戦地で失われることにもなりました。

大正時代以降では、日本軍における下士官兵(騎兵・輜重兵・憲兵など帯刀本分者)は軍刀を所持するように義務付けられるようになりましたが、こうした軍刀そのものは1875年の太政官布告以降、一貫して「服装」の扱いであり、「兵器」ではなくあくまで軍服などと同じ「軍装品」ともいえるものでした。

しかも、軍刀を含む将校准士官が使用する大半の軍装品は自弁調達が原則であり、たとえ官製のものを購入していても「私物」という規定でした。

こうして多くの古来からの日本刀が戦場に持ち込まれ、戦闘が勃発するたびに失われていきました。が、その喪失の理由は戦闘によるもののみではなく、従来の日本刀は中国や朝鮮といった北方の極寒の中では簡単に折れやすいという性質を持っていたためでした。

このためこうした実用品としての軍刀の強度が問題となり、官製のものに対してはとくに改良の要望があがり、とくに海軍では海上で使うことも多いことから、錆の問題に対しての対処の声が高まっていました。

これに対して、陸海軍の造兵廠(工廠)は帝国大学など各機関の研究者の助力も得ながら、拵えだけでなく刀身においても実戦装備としてさらに優秀な日本刀の可能性を求めるようになり、とくに昭和に入っての満州事変以後はその改良が加速しました。

こうして、官給軍刀の刀身をベースにした陸軍造兵廠の「造兵刀」や、満州産出の鋼を用いた南満州鉄道の「興亜一心刀(満鉄刀)」、北支・北満や北方方面の厳寒に対応した「振武刀」、海軍が主に使用した塩害に強いステンレス鋼使用の「不錆刀」などなど、各種の刀身が研究開発されました。

日本刀の材料・製法を一部変更したものから、日本刀の形態を模した工業刀に至るまで様々な刀身が試作・量産され、「昭和刀」「昭和新刀」「新村田刀」「新日本刀」などと呼称されたものが製作されました。

これら特殊軍刀々身は、近代科学技術の力をもって開発されたものであるため、物によっては従来の日本刀よりも武器としての資質においてはるかに勝るものも数多くあったといいます。

そしてこれらの日本刀は、従来の日本刀に比べて手入れが少なく切れ味が持続するという圧倒的に優れた性能を持ち、安価で惜しげなく使える刀身として重宝されました。

あいかわらず軍刀は私物という規定は変わっていませんでしたが、下士官兵には事実上官給の軍刀の刀身が支給されて実戦投入されるようになり、第二次大戦終戦まで大量に使用されました。

ただし、これらの各特殊軍刀々身は、実用性に於いては究められたものの、刃紋を有しないなど見た目の美的要素は二の次な物が多く、今日では製造方法の上からも、狭義の意味での日本刀の範疇には含まれないことにはなっています。

従ってこれらの工業刀や満鉄刀は日本刀、鑑賞用の美術品としては「所有」登録することもできず、登録が取れなかった場合は銃刀法にも違反するということで切断するしかない、といったケースも多々あるそうです。

しかし、近年では刀剣界では今まで見向きもされなかったこれらの軍刀にも人気が出てきており、同時に研究家や収集家の中では再評価の声が高くなってきています。

昨今の軍刀人気は中国にも飛火し、軍刀を所有することが一種のステータスとなっているそうで、中国人ブローカーが日本国内の軍刀を買い漁るという現象まで起きているそうで、日本の刀剣愛好家の間では、これら中国人バイヤーから軍刀海外流出を防ぐことが今後の課題になっているといいます。

また、このように戦中には大量生産された工業刀を含む日本刀は、太平洋戦争終結後、日本刀を武器であると見なした連合国軍司令部(GHQ)により「刀狩」が行われた結果、数多くの刀が遺棄・散逸の憂き目にあいました。

「刀があるとGHQが金属探知機で探しに来る」との流言まで飛び交ったそうで、土中に隠匿して、その結果刀を朽ちさせて駄目にしてしまったり、回収基準の長さ以下になるように折って小刀としたり、日常生活に使えるよう鍛冶屋に持ち込み鉈や鎌、その他日常用の刃物に改造したりと日本刀の価値をおとしめた例は枚挙にいとまがないそうです。

GHQに没収された刀の多くは赤羽にあった米軍の倉庫に保管され、占領の解除と共に日本政府に返還されましたが、元の所有者が殆ど不明のため、所有権は政府に移り、刀剣愛好家の間でこれらの刀剣は「赤羽刀」と呼ばれています。

一時は日本刀そのものの存続が危ぶまれましたが、日本側の必死の努力により、GHQ支配下でも登録制による所有が可能となりました。この制度は現在までも引き継がれていますが、日本刀自体に登録を義務付ける制度であり、登録がなされていない刀は、警察に届け出た後審査を受ける必要があります。

また、その「所持(携帯、持ち歩き)」に関しては銃刀法による制限を受けます。ただ、自宅に保管し眺めて楽しむだけの「所有」については許可などは必要なく、誰でも保有が可能です。ただし、購入などの際には、登録証記載の各都道府県教育委員会への名義変更届が必要だそうです。

今日、新しく日本刀を作る場合の規定ですが、憲法に武器放棄までうたっている今日では日本刀は「武器ではなく」、居合道・抜刀道といった武道用の道具、絵画や陶器と同格の「美術品」であり、その目的でのみ製作・所有が認められています。

ただし、現代刀に関しては、刀匠1人当たり年に生産してよい本数の割り当てを決めているそうで、これにより粗製濫造による作品の質の低下を防いでいるといいます。

しかしその一方で、作刀需要が少ないため、一部の刀匠を除き多くの刀匠は本業(刀鍛冶)だけでは生活が難しく、かと言って上述の本数制限もあり無銘刀は作刀できず、武道家向けに数を多く安く作って、その分の利ザヤを稼ぐといったこともできません。

このため、他の伝統工芸の職人と同じくその存続の危機の問題を抱えており、こうした状況下でも現代の刀匠たちは、美術品としての日本刀の作刀技術を極め、古来から伝わるもの以上の逸品を創作しようと努力しているのです。

現在でもそこまでして造られる日本刀は、世界の刀剣の中でも美術品としての価値が高く、前述のように、国内の古いものでは国宝、重要文化財、重要美術品に指定されたものもあります。が、新しいものの評価はむしろ海外で高いようです。

日本刀の鑑賞の歴史は千年以上の歴史があり、その評価基準もまた外国人に理解できる形で伝えられるようになっているためであり、新しいものももちろん、千年以上の時を経ても健全な形で残っている名刀などは、これをひと目みようとそれだけで日本にやってくる愛好家も多いということです。

ちなみに、「折れず、曲がらず、よく切れる」といった3つの相反する性質を同時に達成したこの優れた武器としての性能もまた、外国人を魅了するようです。

「折れず、曲がらず」というのは材料工学においては強度と靭性の両立であり、両者の均衡を保つためには極めて高度な技術が必要です。また「よく切れる」と「折れず」の両立も極めて難しいといわれ、とりわけこの日本刀の「切れ味」については、様々なところで語られます。

その昔、放映されていた「トリビアの泉」では、2004年(平成16年)の夏頃、日本刀に向けて拳銃から垂直に弾丸を撃ち込むという乱暴な実験を行ったそうですが、このとき弾丸は両断され、全く刃こぼれしなかったといいます。

また、日本刀に垂直に、水圧の刃ともいわれる「ウォータージェット」を吹き付けたときも、キズ一つ無く通過したといい、同じ条件下では通常の包丁は両断されたといいます。

さらには、日本刀に向けて、重機関銃を使用して一般的な自動小銃弾の10倍以上の質量を持つ対機械車両用の大口径弾を撃ち込んだところ、6発まではこの銃弾を切断したそうです。

ただ、弾丸が当たるにつれ刃こぼれが深くなり、7発目で耐え切れずに折れたそうですが、このとき、安全のため後ろに置かれていたコンクリートの壁はほとんど完全に粉砕されていたといいます。

このように、金属の結晶の理論や相変化の理論が解明されていない時代において、刀工たちが連綿と工夫を重ねた結果が、科学的にも優れた刃物の到達点ともいえる日本刀を生み出したのであり、その工学的な性質については、現在も世界中の科学者によって関心がもたれているといいます。

いわんや、その美しさの秘密にもまた科学のメスが入ろうとしているといわれおり、理論や言語にならない、見た目の変化、手触り、においなどといった、この美しい武器の「ブラックボックス」をいかに解明するかが今後の課題ともいわれます。

すべてが、欧米社会から導入された技術で出来上がってしまったような現在の日本において、こうした武器を超えた美術的かつ工学的な価値を持つ古来からの宝物を今一度見直してみる時期かもしれません。

さて、かなり長くなりました。今日の項はこれで終わりにしたいと思います。