黒と黄


先月の初めごろ、「黒潮と伊豆の関係」というタイトル記事で、伊豆の気候が黒潮によってかなり左右されている、といったことを書きました。

この黒潮は、通常の年であれば、四国・本州南岸をほぼ海岸線に沿って一直線に東に向かって流れていますが、この大蛇行しない通常の年のパターンを「非大蛇行流」と呼び、これが普通の状態です。

ところが、記録がとられるようになってから過去には5回ほど、紀伊半島・遠州灘沖で南へ大きく蛇行して流れたことがあり、これは「大蛇行流」といい、「黒潮大蛇行」とも呼ばれています。

直近では2005年がこの大蛇行の年だったのですが、先日の気象庁の報道によると、今年の黒潮は7月下旬ごろから紀伊半島~伊豆半島付近で大きく南に蛇行し、陸地から最大数百キロ離れるまでになっているそうで、これは明らかに黒潮大蛇行での兆候です。

これまでも小さな蛇行は時折ありましたが、定着しなかったようで、これに比べると今回の蛇行はかなりの長い間続いていて、どうやら「本物」となりそうです。が、気象庁としては、大蛇行に発展するかどうかはもうしばらく監視する必要がある、と慎重な姿勢を崩していません。

黒潮がいったん大蛇行流路となると、多くの場合1年以上持続します。このため、この間の日本列島全体の気候に与える影響は甚大です。

というのも、黒潮の幅は、日本近海では100km程もあり、その最大流速は最大で4ノットにもなります。また、600~700mの深さでも1~2ノットにもなります。

4ノットというのは、時速に換算すると、だいたい7km/hちょっとほどで、自転車よりも少々遅いくらいの速度です。が、この速度の潮流が幅100km、深さ600m以上にもわたって流れるわけであり、黒潮全体で考えるとものすごいエネルギー量になります。

従って、黒潮が大蛇行するときには、例年とは違ってこの膨大なエネルギーの量の向かう方向が変化することになり、気候変動にも大きな影響があるわけです。

黒潮は南方洋にその起源があります。従って典型的な暖流であり、海面から水深数百メートルまで、その北側の海に比べて水温が5度以上も高い領域が帯状に広がっています。このため、黒潮付近では温められた空気が常に温められて上昇気流が起きており、黒潮の上空には高温の気流塊が帯状に維持された状態となっています。

この黒潮上空の帯状の大気は、熱帯の海の上の大気と同じで、常に不安定な状態です。この不安定な大気の場所に前線が近づいてくると、さらに暖かく湿った空気が倍化されることとなり、周囲に比べて積乱雲が発達しやすくなります。

この積乱雲の下には当然雨が降りやすくなります。これが黒潮に沿って連続して発生すると、これはいわば「レイン・バンド」ともいえるものになります。黒潮大蛇行が起これば、当然このレインバンドも移動しますから、日本本土に降る雨域もこれによる影響を大きく受けることになります。

どのような影響を受けるかは、前線の種類によっても異なり、前線といっても夏の梅雨前線や秋雨前線、また通常の前線などいろいろなものがあるため、一概にはいえません。

が、今年のように日本海側で激しい雨が降ることが多かったのは、この黒潮大蛇行によって南側のほうへこのレインバンドが移動したため、梅雨前線や秋雨前線に影響を与えたのではなかったか、と考える向きもあるようです。

無論、まだ専門家の間でも結論づけられたわけではなさそうですが、これだけ今年の豪雨が顕著に日本海側に集中したのは、黒潮大蛇行と無関係ではない、と多くの人が考えるのは当然であり、しかもこの大蛇行がまだまだ続くとすれば、今後はどんな影響があるか、ということもまた気になるところです。

今朝のニュースでは、岩手県沖で例年はたくさん獲れるサンマやサケがさっぱりとれず、南洋種のカツオが大量に揚がり、これにシイラといった暖かい海の魚なども多数混じっているという報道がなされていましたが、これも黒潮大蛇行と何等かの関係があるかもしれません。

また、先日の日経新聞に載っていた記事によれば、鹿児島大学の先生が、1969年から2007年までの冬の低気圧の経路を詳しく調べ、大蛇行との関係を分析したところ、大蛇行があった年には東京で雪が降りやすくなることをつきとめたそうです。

大蛇行発生の年には、一日に30ミリ以上の比較的強い降水が58回もあり、その21%にあたる12回には降雪があったといいます。また、黒潮が蛇行せずに直進している通常の年は、一日30ミリ以上の降水は25回しかなく、しかも雪はゼロだったそうです。

黒潮大蛇行のときに雪が降りやすくなるのは、南岸を通る低気圧の経路が直進時に比べて100キロメートル程度南にずれるからであり、関東地方に換気を伴う北寄りの風が入りやすくなり、気温が下がるためです。蛇行した黒潮に取り囲まれた部分に冷水が溜まりやすいこともあり、海からの風が温まりにくいことも一因のようです。

従って今年の冬は関東地方では大雪になるのではないか、と予想されますし、ここ伊豆でも雪が降りやすくなるかもしれません。今年の1月、ここ伊豆でも珍しくまとまった降雪があり、私も真っ白になった達磨山の雪景色の向こうに富士山が見えるという珍しい写真を撮ることができました。

たった一日のことでしたが、だとすると、今度の冬はもっとこうした風景を見ることができるのでしょうか。

こうした気象変動を巻き起こす黒潮大蛇行の発生メカニズムはまだ未解明な点が多いそうですが、気象を左右する上空の偏西風や海上を吹く風、太平洋の海流・海面水温の10年程度の周期変動と関係があるのではないか、ということが言われているようです。

90年代以降は、大蛇行の発生することが少ない時期が続いていただけに、今年のような発生が今後は頻繁になるようであれば、地球全体の気象が大きく変わる兆候になるかもしれないという観測もあります。黒潮が流れている場所にごくごく近いところに住んでいる我々だけでなく、日本中の誰もが今後のその動向が気になるところでしょう。

さて、この黒潮は、その昔、紀州以西では上り潮(のぼりしお)、以東では下り潮(くだりしお)と呼ばれており、これは京都を中心にして流向を表現したものでした。このほかにも、西日本の沿岸漁民の間では、真潮(ましお)、本潮(ほんじお)などと呼ばれ、これは漁における黒潮の重要性を端的に表現したものです。

このほかにも東北地方で桔梗水(ききようみず)、上紺水(じょうこんすい)、宮崎で日の本潮(ひのもとしお)、上の沖潮(うえのおきしお)、三陸地方で北沖潮(きたのおきしお)、伊豆七島で落潮(おとしお)などと呼ばれ、それぞれの地域での呼名が存在していました。

このように黒潮の存在自体は古くから知られていたわけですが、その科学的調査が行われたのはごくごく最近であり、これを最初に行ったのは、黒船によって鎖国を終わらせたアメリカであり、またほぼ同時期に極東に活路を求めてきた帝政ロシアによっても観測が行われました。

日本が独自に海洋観測にのり出し始めたのはさらにその後であり、これは明治も中頃になってからのことです。しかしその後は、海軍を中心として軍備を拡張していく中、黒潮は艦隊の運営に影響を与えるため重要な調査対象となり、大規模な観測網がしかれるようになりました。

とくに昭和の初めの1930年頃から第二次世界大戦までには、当時の農林省水産試験場を中心として一斉観測が行われ、黒潮の大要と変動を把握するのに大いに貢献しました。

その後、1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)には、「海軍水路部」が頻繁に観測し、この観測は1935年から10年間も続き、当時も話題となった黒潮大蛇行の状況をよく捉えることができ、また、このころには艦船の航海のために海流予報まで行っていました。

この海軍水路部の役割は、第二次大戦後は長崎海洋気象台、神戸海洋気象台などが引き継ぎ、現在は気象庁と海上保安庁水路部の共同によって観測が継続され、現在、その業務は海上保安庁海洋情報部が掌握しています。

ところで、この海軍水路部というのは、旧日本海軍の組織の一つで、明治に創設された海軍省の外局であり、海図製作・海洋測量・海象気象天体観測を所掌していた部局です。

明治2年(1869年)7月、兵部省の兵部大丞であった川村純義(のち海軍大将)は、柳楢悦(やなぎならよし)と伊藤雋吉(いとうとしよし)を兵部省御用掛とし水路事業を進めるよう命じました。

柳楢悦は、江戸生まれの津藩の下級武士であり、若き日より和算に熟達し、長崎海軍伝習所でオランダ式の航海術と測量術を習得し、明治になってからはイギリス海軍と共同で海洋測量の経験を積み、海洋測量術の技術向上を目指しました。

柳は海軍での測量事業の創業当時より、日本人による測量を強く念頭に置き、他国の援助やお雇い外国人などを極力用いない方針を貫いたといい、日本における海洋測量の第一人者として測量体制を整備・統率し、日本各地の沿岸・港を測量し、海図を作成しました。その功績から「日本水路測量の父」「海の伊能忠敬」と称されています。

また、伊藤雋吉は、丹後田辺藩の藩士の嫡男として現京都府舞鶴市に生まれました。幼児から和漢書を読み解き、特に数学に堪能だったといい、やがて藩命により江戸へ出て、長州の軍学者、大村益次郎の門下で蘭学・兵学・数学を学びました。

明治になってからは、海軍で活躍し、「春日」、「日進」、「筑波」等の艦長を歴任した後、1878年(明治11年)には回航されたばかりの最新鋭艦「金剛」の艦長に就任。この間、水路測量でも大きな功績をあげ、その結果、海軍兵学校長、海軍次官、海軍参謀部長などを歴任。最後は海軍中将まで昇進し、その後は政界に転じて貴族院勅選議員にもなりました。

こうした二人の努力によって、海軍省内部に測量部隊が立ちあげられ、まず手始めに、イギリス海軍からも指導を得ながら、「シルビア号」(HMS Sylvia、750トン、150馬力)というイギリス艦とともに「第一丁卯(だいいちていぼう)」という艦を用いて協同測量を開始しました。これが、明治3年(1870年)のことです。

そしてその翌年の明治4年(1871年)、兵部省に海軍部が設置され、「海軍部水路局」が設けられました。

その所管事業は、水路測量、浮桶(浮標)、瀬印(立標)、灯明台(灯台)に関するものでした。そして明治5年(1872年)、海軍省が設置されると、兵部省にあった水路局はそのまま海軍省に横滑りし、「海軍“省”水路局」となり、正式に海軍卿直轄、海軍省の外局となりました。

水路局が海軍の直轄になった当初も、海洋測量の主役は、「第一丁卯」でしたが、この軍艦は、もともとは、長州藩がイギリスに発注して購入した三檣(マスト)を持つ、スクーナー型木造汽船でした。

その発注は幕末の慶応3年(1867年)のことであり、このときイギリスで建造されたのはこの「第一丁卯」のほかにももうひとつあり、これはのちに「第二丁卯」と呼ばれました。同一年の建造の姉妹艦だったため、第一と第二を付加して区別したようです。

「丁卯」というのはヘンな名前ですが、これは、干支(えと)の組み合わせの4番目の年
のことで、西暦年を60で割って7が余る年が丁卯の年となります。建造された1867年を60で割ると7となるため、こうしたネーミングがなされたのでしょう。「ていぼう」と読みますが、「ひのとう」と読むこともできます。

第一丁卯のほうは、もともとはその艦名を「丁卯丸」と呼ばれており、幕末の慶応5年には、寺泊沖海戦で旧幕府輸送艦「順動丸」を自沈に追い込むなどの活躍をし、また翌年の箱館湾海戦に参加しており、数々の戦績をあげています。

明治になってからは、長州から新政府に譲渡され兵部省所管となり、このとき「第一丁卯」と改名されました。測量業務には1873年(明治6年)の1月から従事するようになり、その後しばらくは海洋測量をこなす測量船として徴用されていました。

しかし、その後は海洋監視船として使われるようになり、1875年(明治8年)にラッコの密漁取り締まりの為に択捉島に派遣されていたところ、濃霧のため針路を誤り、同島西岬に座礁して沈没しました。

一方の第二丁卯艦のほうも、明治政府に引き取られ、これにより兵部省所管となりました。建造時には仮称で「アソンタ」と呼ばれていましたが、このとき「第二丁卯艦」と改名され、こちらも明治5年の2月ごろから翌年1月まで測量任務に従事していました。

明治3年になって日本に廻航されてきたことから、第一丁卯のように、幕末の動乱に駆り出されることはありませんでしたが、1877年(明治10年)に勃発した西南戦争では下関の警備などにも従事しました。1885年(明治18年)に明治天皇の福岡行幸の護衛艦として神戸港に回航中、三重県安乗崎で座礁し、その後廃棄処分されました。

第二丁卯 第一丁卯もほぼ同型

この第二丁卯の歴代艦長の中には、のちの元帥で、日露戦争当時の連合艦隊司令長官だった東郷平八郎も含まれており、東郷は1883年(明治16年)の3月から約1年あまりをこの船の上で過ごしています。

また、第一丁卯のほうの艦長も、有名な軍人が艦長を務めています。測量艦として活躍を始める前この艦長だったのが、「伊東祐亨(すけゆき)」です。東郷平八郎ほど有名ではありませんが、初代連合艦隊司令長官を務めた人であり、日清戦争での功が認められてのちに海軍大将となり、華族にも列せられた人物です。

元薩摩藩士であり、実家は日向飫肥の藩主、伊東氏に連なる名門の出身です。

ちなみに、この日向飫肥藩の伊東氏は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、ここ伊豆国の田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本拠地としていた豪族を先祖とする一族です。この伊東一族の中に、のちに鎌倉幕府の御家人になった工藤祐経(すけつね)という人物がおり、その子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・飫肥藩藩主となりました。

伊豆国の伊東氏は、ほかにも源頼朝と敵対していた、伊東祐親(すけちか)がおり、その子孫もまた尾張国岩倉に移り住んで備中岡田藩主となって伊東姓をこの地に残しています。

この伊東祐親は、平清盛からの信頼を受け、平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任されていた人物として知られています。このブログでも、以前取り上げて詳しく書いたと思うので、あまり繰り返しませんが、その後頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、頼朝の敵方に回り、石橋山の戦いなどで散々頼朝を苦しめています。

しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、後に捕えられました。が、頼朝の妻・北条政子らの北条一族による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されます。しかし、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害しています。

この伊東氏は、もともとは、伊豆国の大見・宇佐見・伊東からなる久須見荘を所領としていた工藤氏の一族から出た家であり、このため、この両家は古くは平安時代にまでその発祥を遡ることのできる、全国的にも名門の家系といえます。

伊東祐亨は、こうした名家の流れを汲む、薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれました。

長じてからは、江戸幕府の洋学教育研究機関である、「開成所」において、イギリスの学問を学びましたが、この当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このとき、祐亨は海軍に興味を持ったと言われています。

さらには、ここ伊豆韮山の代官で、この当時の幕府における軍学の第一人者、江川英龍(太郎左衛門)のもとでは砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学んでいます。

江川英龍のこともまたこのブログでも何度も取り上げていますので、ご存知のことと思います。

伊東祐亨はその後、薩英戦争にも従軍し、戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍しましたが、明治維新後は、海軍に入り、明治4年(1871年)に海軍大尉に任官。明治10年(1877年)には「日進」の艦長に補せられました。

その後、明治15年(1882年)には海軍大佐に任官、「龍驤」、「扶桑」、「比叡」などの明治海軍の第一線級の軍艦の艦長を歴任後、明治18年(1885年)には、横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長に補せられ、明治19年(1886年)に海軍少将に進みます。

のち、海軍省第一局長兼海軍大学校校長を経て、明治25年(1892年)には海軍中将に任官、横須賀鎮守府長官を拝命後、明治26年(1893年)に常備艦隊長官を拝命。そして、明治27年(1894年)に勃発した日清戦争の最中には、初代連合艦隊司令長官に任命されました。

やがて朝鮮の覇権を巡って中国側との関係が悪化していく中、1894年(明治27年)、朝鮮国内の甲午農民戦争をきっかけとして朝鮮に出兵した清国に対抗して日本も出兵し、日清両国は交戦状態に入ります。

その結果として、近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍に対し、陸上では終始優勢に戦局を進め、遼東半島などを占領しました。

一方、海の上においても戦闘が勃発しており、日本の連合艦隊と清国の北洋水師(中国北洋艦隊)との間で、海戦が行われたのは、明治27年(1894年)9月17日のことでした。この場所が黄海上で行われたことから、この海戦はのちに「黄海海戦」と呼ばれるようになります。

黄海(こうかい)とは、朝鮮半島の西側に広がる水域で、そのさらに西にある中国大陸との間にある海のことです。黄河から運ばれる黄土により黄濁している部分があることから黄海と呼ばれています。

この当時、清軍が保有していた「北洋艦隊」は、アジア最強といわれ、装甲艦である「定遠」「鎮遠」といった大型艦をはじめとし、装甲巡洋艦2隻、防護巡洋艦6隻、巡洋艦3隻、砲艦6隻からなる大艦隊でした。

中でも巡洋艦としてイギリスのアームストロング社に発注していた「超勇」「揚威」などは最新鋭の艦であり、日本海軍にとっては大きな脅威となっていました。

また装甲艦でも、日本側の旗艦「松島」の4217トンに対し、清国側の旗艦「定遠」は7220トンと倍近い差があり、このころはまだ、のちの日露戦争時代ほどの軍備の拡張が終わっていない日本にとってはこの海戦は大変不利なものであるといわれていました。

ところが、蓋をあけると、戦前の予想を覆し、日本海軍は清国側の大型主力艦を撃破し、黄海の制海権を確保しました。

9月17日午前10時過ぎ、索敵中の連合艦隊は、北洋艦隊の煙を発見。即座に連合艦隊は、第一遊撃隊司令官坪井航三海軍少将率いる4隻が前に出、連合艦隊司令長官となっていた伊東祐亨海軍中将率いる本隊6隻が後ろになる「単縦陣」をとります。

12時50分、横陣をとる北洋艦隊の旗艦「定遠」の30.5センチ砲が火を噴き、距離6,000mで、戦端が開かれました。この交戦の結果、連合艦隊は無装甲艦が多く、全艦が被弾したほか、旗艦「松島」など4隻が大・中破しました。

また、「赤城」の艦長坂元八郎太海軍少佐をはじめ戦死90人、197人が負傷するなど多くの犠牲者を出しました。これはのちの日本海海戦のときの戦死117名にも匹敵する被害でした。

ただ、全艦隊の被弾数は134発にもおよんだものの、船体を貫通しただけの命中弾が多く、被弾数の割には少ないダメージで済みました。これは北洋艦隊の使用していた砲弾が旧式のものであったのに加え、清国海軍の砲手の錬度が日本海軍のそれよりも低かったためだといわれています。

一方の北洋艦隊のほうはといえば、装甲艦を主力としていたにもかかわらず、連合艦隊の6倍以上の艦船が被弾し、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「揚威」「広甲」が擱座しました。また、この時「済遠」と「広甲」が戦場から遁走し、旅順に帰還しており、これは近代の海戦において唯一の軍艦敵前逃亡事件といわれています。

この海戦は、およそ4時間ほどで終了しましたが、この敵前逃亡の例にもみられるように清国海軍の士気はかなり低かったと思われ、これが短時間の間で圧倒的な勝利を日本海軍にもたらした理由のひとつのようです。

このあと、旅順港に逃げた北洋艦隊は、陸側から旅順を攻囲される形勢となり、更にそこを撤退し、近くの威海衛湾に逃げ込みましたが、日本軍の水雷艇による攻撃と地上からの攻撃とにより全軍降伏しました。

この戦闘の結果、北洋艦隊側の戦死者は700名以上にものぼり、日本側の被害を大きく上回りました。また日本の連合艦隊司令長官に該当する提督で最高責任者であった、丁汝昌(ていじょしょう)は要員の助命を条件に降伏に応じ、自身は「鎮遠」の艦内でそのまま服毒自決を遂げました。

この日本海軍の圧勝には、清国海軍の兵士の士気の低さや砲術の錬度の低さが大きく影響したことは間違いないようですが、一方、戦術面において、日本側がこの海戦に用いた、「単縦陣」による戦闘態勢もまたその勝利の一因であったといわれています。

この単縦陣という戦法は、速射砲を多数有することを特徴としていた連合艦隊に最も適していた砲撃戦術であったともいわれており、黄海海戦以降、この戦法の有効性が世界にも広まり、海戦の基本として定着していくようになりました。

実は、この戦法を考え出したのもまた、第一丁卯の艦長を務めたことのある人物でした。

連合艦隊の第一遊撃隊司令官であった、「坪井航三」という人であり、彼が第一丁卯の艦長を務めたのは、この船が択捉島に派遣されて擱座沈没したときであり、つまり最後の艦長ということになります。

坪井航三は、周防国三田尻(山口県防府市)の出身であり、長州人です。医師の二男として生まれ、藩医・坪井信道の養子となり、この家を継ぐ予定でしたが、ちょうど物心つくころに幕末の動乱に巻き込まれ、20歳のとき、長州藩が自力で建造した西洋帆船、庚申丸に乗り、外国船の砲撃に参加しました。

その後も遊撃隊士として戊辰戦争に従軍し、明治維新後の日本海軍の発足後には、このころ最新かつ最強といわれた最新鋭艦「甲鉄」の副長をも務めています。

1871年(明治4年)には、米国海軍アジア艦隊司令長官ジョン・ロジャーズの下で、旗艦コロラドに乗艦して実習を積み、その後も離任し帰国するロジェーズ少将に従い渡米し、ワシントンD.C.にあるコロンビアン・カレッジ付属中学校(現在のジョージ・ワシントン大学)に進んでいいます。

1873年(明治6年)12月の官費海外留学生の一斉帰国命令に従い、1874年(明治7年)7月、帰国。そして帰国後初めて就いた任務が、第一丁卯艦長でした。

前述のように、第一丁卯は択捉島西沖で、濃霧のため座礁していますが、初めての任務でこの失態は坪井の自尊心を大きく傷つけたことでしょう。しかし、その後はそれ以前にもまして軍務に励むようになり、日清戦争に至るころまでには、第一遊撃隊司令官を務めるまでになります。

そして司令官を務めるかたわら、過去における各国の海戦を研究しはじめ、その中で単縦陣戦法が機動力のある日本海軍には最も適しているという結論を得ます。

単縦陣とは言うまでもなく、艦隊の各艦が縦一列に並ぶ陣形のことですが、基本的に2番目以降の艦は前の艦の後について動けばいいため、艦隊運動がやりやすいという利点があります。

また、砲撃戦にも有利な戦法ですが、一方では相手が単縦陣形に対して直角に突入してきたときには不利になりますし、敵に横腹を見せる形になるため、砲撃を受けやすくなります。。

このため、この当時、世界的にみても海戦のセオリーは各艦が並列に並んで進行する、横陣のほうが有利とさており、単縦陣で実戦に挑むのは大変勇気がいることでした。しかし、坪井は単縦陣にこだわり、率いる第一遊撃隊では戦闘のみでなく偵察、航行の時も単縦陣の陣系を崩さなかったそうです。

また、日清戦争が始まるまでは、日本海軍は来たる海戦に備えて連日訓練を繰り返しており、時には二手に分かれて模擬海戦をすることもありましたが、この単縦陣と横陣の二手に分けての模擬海戦では、坪井の主張する単縦陣がいつも勝ったといいます。

こうして、黄海海戦でも坪井は、実際に単縦陣戦法で望み、黄海海戦の前哨戦であった豊島沖海戦(日清戦争の嚆矢となった海戦。宣戦布告直前に遭遇して起き、朝鮮半島西岸沖の豊島沖で日本海軍が圧勝した)でも勝利し、その後の黄海海戦においてもこの単縦陣で勝利したのでした。

とくに黄海海戦では単縦陣の先頭に立って指揮し、優速を利して北洋艦隊の背後に回りこみ、海戦の主導権を握ることに成功しており、このときの様子を清国海軍の軍艦に乗って観戦していたアメリカのマッギフィン少佐は「日本海軍は終始整然と単縦陣を守り、快速を利して有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に値する」と伝えています。

以後、単縦陣は海戦のセオリーとなり、日本海軍の単縦陣が高く評価されるとともに、坪井の名もまた世界に知られるようになり、「ミスター単縦陣」のあだ名で呼ばれるほどになりました。

その後、日本海軍では高速・速射主体の部隊(第一遊撃隊)と低速・重火力主体の部隊(連合艦隊本隊)とに分けて運用する形がこの海戦以降の基本形となりました。

そして、この陣形は日本帝国海軍が消滅する1945年まで受け継がれ、海外でも第一次世界大戦で英独両国が戦艦部隊と高速の巡洋戦艦部隊とに分けて運用したりするなど、その影響は世界に及びました。

黄海海戦の日本海軍の勝利により、日本は制海権をほぼ掌握することができ、その後の大陸への派兵がスムーズに進むようになり、以後の作戦行動も順調に進むところとなりました。

従って、この黄海海戦は日清戦争の展開を日本に有利にする重大な転回点であったといえ、その連合艦隊司令長官を務めた伊東祐亨の名声もまたいやがおうにも上がりました。

北洋艦隊提督の丁汝昌が服毒死を遂げたとき、伊東は没収した艦船の中からわざわざ商船「康済号」を外し、丁汝昌の遺体を送らせたといい、こうした伊東の礼節もまた世界中をも驚嘆せしめ、畏敬を集めた要因でもありました。

こうした功もあり、伊東はこの戦後、子爵に叙せられ、軍令部長を務め、明治31年(1898年)には海軍大将に進みました。しかし、その後勃発した日露戦争では出陣せず、軍令部長として大本営で裏方に徹しています。

明治38年(1905年)の終戦の後は元帥に任じられましたが、明治時代に海軍出身で元帥まで登りつめたのは、伊東祐亨以外には、西郷従道と井上良馨だけです(東郷平八郎は、大正2年叙勲)。

政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うしたといい、明治40年(1907年)には伯爵に叙せられ、従一位、功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章を授与されましたが、大正3年(1914年)、72歳で死去しました。

同じくかつて第一丁卯の艦長を務めた坪井航三もまた、死ぬまで軍人でした。明治31年(1898年)に55歳で亡くなっており、その前年に横須賀鎮守府司令長官に就任したばかりのときでした。さらにその前年の明治29年(1896年)には、海軍中将にまで上り詰めていますが、これが最後の階級となりました。

それぞれが薩摩と長州という明治維新を牽引したこの二つの藩出身の二人が、黄海海戦という同じ場において活躍したというのもまた、何か因縁めいたものを感じますし、ましてやかつて同じ艦の艦長をも勤めていたというのも、単なる偶然を通して魂レベルでの何らかのつながりを感じさせます。

もしかしたら、墓地が一緒?などとたわいもないことを考えて調べてみましたが、坪井航三氏の墓所は、港区白金台の瑞聖寺、伊東祐亨のほうは、品川区の海晏寺ということでした。同じ東京という以外は共通点はないようです。

が、おそらくはあの世において、二人してまた同じ船に乗っているに違いありません。

さて、今日は黒潮の話に端を発し、妙な方向に来てしまいましたが、このブログを読みなれている方には別に珍しいことではないかもしれません。

また、次回の更新でも突拍子もない方向へ行くかもしれませんが、また読んでいただけることを願いつつ、今日のところは終わりにしたいと思います。

疏水

先日、世界文化遺産の2015年登録に向けた今年の政府推薦候補が、「日本の近代化産業遺産群−−九州・山口及び関連地域(産業遺産群)」に決まったとの報道がありました。

これは、内閣官房が中心となって検討していたものであり、実は、これとは別に文化庁が推していた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産(教会群)」という案もあり、2件がせめぎ合った結果、「産業遺産群」のほうが採用されるという結果になりました。

いずれも長崎県が保有する遺産群が含まれており、例えば「産業遺産群」のほうには軍艦島や長崎造船所が、また「教会群」のほうはほとんどが長崎県の案件ですが、熊本の天草の教会集落が1件含まれています。

このため、長崎県の関係者は、当初からどちらを推薦する側に付くか悩んだようですが、結果的にはキリスト教関連遺産のほうを優先する姿勢を明確にしていたようです。

文化庁は今年の4月、世界文化遺産への登録を待つ10候補の準備状況などを評価した結果を文化審議会に報告し、その中でも教会群が最も「推薦可能」と判定しており、一方、これとは別に内閣官房も別途の観点から産業遺産群を選定し、こちらもこのほうがより推薦に向いていると政府に報告して、それぞれが争う形になっていました。

これまで、こうした世界遺産の推薦案件は、事実上、文化庁のみでその候補を決めていたのですが、昨年5月の閣議決定で、産業遺産群のように稼働中の工場や港湾などを含む場合、内閣官房が事務局を務める有識者会議で推薦できるようになりました。

しかしこの閣議決定では、今回のように文化庁や内閣官房などの異なる政府機関が違った候補を推薦した場合対立が避けられないため、こういう場合には関係閣僚会議で調整するという決まりも定められていました。

そして今回がその初の適用となり、閣議決定による調整が行われ、近代産業遺産群のほうに軍配が上がったというわけです。

長崎県が教会群の登録を強く推していたのは、2015年という年が、潜伏キリシタンが大浦天主堂で信仰を告白した「信徒発見」の年から数えてちょうど150周年という節目の年だったからだそうです。しかも、この教会群は、昨年2012年の登録に向けた政府推薦を巡って「富岡製糸場」(群馬県)に競り負けた経緯があります。

今回はこの2015年に向け、時間的余裕がない再挑戦だけに「今年の政府推薦は譲れない」と長崎県幹部はずいぶんと力を入れこんでいたそうなので、その落胆は尋常ではないでしょう。

しかし、前述のとおり、同県は長崎市の軍艦島(端島)などを含む産業遺産群の推薦書にも名を連ねており、今回もまた教会群が推薦から漏れたとはいえ、「負けてもなおおいしい」といったところはあるはずであり、今後新たな観光遺産が増えると、ひそかに喜んでいるに違いありません。

また、世界遺産への政府推薦はこれで終わりというわけではないはずなので、今後の頑張り具合によってはいずれ日の目を見る機会もあることでしょう。世界遺産になる案件が増えるというのは国民にとってもうれしいことには違いないので、これに懲りずに引き続き頑張っていってもらいたいものです。

政府は、このあと、14年2月までに国連教育科学文化機関(ユネスコ)にこの産業遺産群を推薦し、最終審査は2015年にユネスコで実施されるそうです。ただし、今回の政府推薦は、あくまで世界遺産の認定にさきだつユネスコの「暫定リスト」に掲載されるだけのことで、まだ世界遺産の認定は先のことです。

とはいえ、このリストに掲載されない限りは審査は行われない決まりになっているため、そこまでこぎつけたということは大きな前進になります。ちなみに、既に政府推薦が終り、リストに掲載されている「富岡製糸場と絹産業遺産群」のユネスコ本部による登録審査は、来年2014年の夏だそうです。

この「九州・山口の近代化産業遺産群」は、広範囲に点在する複数の物件をまとめて一つの遺産としており、これらは9つのエリア、全30資産により構成されています。

タイトルにあるとおり、主には九州と山口を主体として9つのテーマ別にストーリー構成されているのですが、このほかにも、佐賀県佐賀市の「三重津海軍所跡」や岩手県釜石市の「橋野高炉跡」などが追加されており、我が静岡県の伊豆の国市にある「韮山反射炉」もその対象です。

この韮山反射炉については、このブログにおける「伊豆の人物と歴史」→「人物」→「江川英龍(太郎左衛門)」の項でも多少詳しく述べているので、ご興味があればそちらものぞいてみてください。

ところで、この「九州・山口の近代化産業遺産群」は、経済産業省が認定している文化遺産の近代化産業遺産のごく一部に過ぎません。経産省は、2007年11月に33件の「近代化産業遺産群」と575件の個々の認定遺産を公表し、さらに2009年2月にもこの「続編」として「近代化産業遺産群・続33」を発表しており、新たに33件の近代化産業遺産群と540件の認定遺産が追加されています。

従って現時点においては、66のカテゴリー1115件もの膨大な産業遺産群が認定されていることになります。

これらの産業遺産には、幕末・明治維新から戦前にかけての工場跡や炭鉱跡等の建造物、画期的製造品、製造品の製造に用いられた機器や教育マニュアル等が含まれており、そのすべてが日本の産業近代化に貢献した産業遺産としての大きな価値を持っています。

また、中には従来その価値が理解されにくく、単なる一昔前の産業設備として破却されてしまう可能性があったものもあり、これらを保護し、まさに構成への「遺産」として保護することがこの産業遺産群への登録の目的のひとつでもあるようです。

「九州・山口の近代化産業遺産群」はこれらの中でもとりわけ貴重と内閣官房が考えたものを抽出し、これらをうまく組み合わせて世界遺産候補として練り上げたものということになります。が、しかしこのほかにも世界遺産クラスの貴重なものもまだまだ多数あります。

例えば「赤煉瓦建造物」にカテゴライズされている東京駅や、横浜赤レンガ倉庫・横浜税関・氷川丸といった一連の横浜における産業遺産群、黒部ダム・大井ダムなどの電源開発に関する遺産群、といった土木建築物があり、このほか個々には、トヨダ・AA型乗用車、零式艦上戦闘機・三式戦闘機(飛燕)、松下二股ソケットなんてのもあります。

こうしたものが世界遺産として認められるということは、すなわち日本がかつて歩んで来た産業化の道が世界に認められるほどに素晴らしかったと認めてもらうということにほかならず、日本人そのものの評価が世界で高まることでもあります。

それゆえに、これらをいかにまとめてユネスコへの推薦に値するような世界遺産にするか、できるかが、文化庁や内閣府で高給を食んでいる役人に求められている力量であるといえます。

が、今回はその結果として二つの官僚組織が争う形で一方が登録されたというのは、一般の我々からみるとまた縦割り行政の弊害か、と少々乱雑にみえてしまいます。

最初から調整し、一本化した上で政府推薦に至るというのが本来望ましい形であり、もしその調整がなされていたならば、「教会群」のほうも取り込んだ形でもっと広範囲の産業遺産群を世界遺産登録リストに送りこめたかもしれません。

当然その場合の推薦内容や推薦名も変わってくることになりますが、それをどういったものにするかを考えるのが役人の仕事です。2015年以降の推薦枠については、ぜひとも官僚組織の垣根を越えた共闘で望み、できるだけ多くの国民の遺産を世界登録していってほしいものです。

ところで、こうした近代化産業遺産といわれるものの中にほかにどんなものがあるのだろうと調べていたとき、東京駅や黒部ダムのようなかなり有名なものに並んで、これらにも匹敵するような優れた遺産であるにもかかわらず、あまり知られていないものをいくつか見つけました。

琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた琵琶湖疏水(びわこそすい)もその一つであり、これは明治の中期に造られたものです。

なぜ水路といわずに「疏水」というかというと、疏水とはそもそも我が国の二千年にわたる歴史において営々と各地に築かれてきた農業用水路のことをさします。水源から水を引く、という意味もあり、舟運のために造られる運河とは区別するためにこの用語が作られたようです。

琵琶湖疏水は、1890年(明治23年)に完成した第1疏水と、これに並行して建設され、1912年(明治45年)に完成した第2疏水を総称したものです。

現在では両疏水を合わせ、毎秒24トンを琵琶湖で取水しており、その内訳は、水道用水約13トン(毎秒)、それ以外の11トンを水力発電、灌漑、工業用水などに使っています。

水力発電は第1疏水の通水の翌年に運転が開始され、これは営業用として日本初のものです。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献しました。

また、疏水を利用した水運も行なわれ、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見・宇治川を結びました。しかし、疏水の途中には落差の大きい箇所が何ヶ所かあり、そのうちの最大の難所であった蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動されました。

水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されましたが、蹴上では一部の設備が静態保存されており、これも遺構としては重要なものです。

このほか、山縣有朋の別邸で名庭師として知られた小川治兵衛が作庭したという「無鄰菴(京都市左京区)」にも疏水の水が引かれており、平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園にも利用されるなど、疏水は現在の京都観光にも一役買っています。

なお、無鄰菴が水を引いているのは、京都市の左京区にある南禅寺境内にある琵琶湖疏水の一部である「水路閣」からであり、この煉瓦造りの美しい水道橋は、テレビドラマの撮影舞台として使われることも多く、京都の新名所としても定着しています。

しかし、建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあがったといい、その一方で、建設が決まると、南禅寺の三門にはこれをひと目見ようと見物人が殺到したといいます。

ちなみに、この南禅寺では、先日の台風18号による大雨の影響で、三門(重要文化財)や参道周辺に土砂や泥水があふれ、その撤去作業のため拝観を停止するなどの被害が出ていますが、水路閣とともにその構造自体に大きな被害はなかったようです。

さらに、疏水の水は京都御所や東本願寺の防火用水としても使われており、一部の区間は国の史跡に指定されていて、琵琶湖疏水全体は、日本に数ある疏水の中でも「疏水百選」の一つに選ばれています。

このように、飲料水や電力の供給といった今や京都市民にとってはなくてはならないライフラインを提供してくれている琵琶湖疏水ですが、その第一疏水の工事は、明治の初期の工事ということもあり、現在のような優れた建設機械もなく、その多くが手作業によったため、著しい難工事でした。

とくに比叡山の下をくりぬいて作られた、第一トンネルはその延長が2436メートルもあり、これをくり抜くには長い時間と労力がかかりました。

このため工期を短縮するため、トンネルの中央部に竪穴を開け、ここから垂直に穴を掘って水路位置まで達し、ここから両サイドに掘り進めるという工法がとられました。これによりトンネルの出入り口とここからの合計4カ所からの掘削が行われ、かなり工期が短縮できました。しかし、片やこの竪穴を掘るためだけに17人もの犠牲者を出しました。

しかし、難工事はこれだけでなく、トンネルのほか開水路も含めた総延長は、19307mにもおよび、この延長距離の中には、上述の第1トンネルを含めたトンネル3、船溜り6、橋梁28、暗渠10、閘門2、水越場(越流堰)5、放水場4という大規模なものでした。

そもそもなぜこうした大規模な疏水が作られるようになったかといえば、その背景には明治維新にともなう、東京遷都がありました。

東京遷都とは、明治維新のとき江戸が東京とされ、都として定められたことで、慶応4年7月14日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同時に都が京都から東京に移されたことをいいます。同年9月に元号が明治に改められ、同年10月に天皇が東京に入り、明治2年(1869年)から東京は正式に日本の国都になりました。

そもそも東京遷都の話は、慶応4年(1868年)大木喬任(軍務官判事)と江藤新平(東征大総督府監軍)が、京都と東京の両方を都とする「東西両都」の建白書を岩倉に提出したことに始まります。

これは、数千年もの間、王化の行き届かない東日本を治めるためには江戸を東京とし、ここを拠点にして人心を捉えることが重要であると主張したもので、江藤らはゆくゆくは東京と京都の東西両京を鉄道で結び、これにより安定した国政を実現できると考えたのでした。

その結果この案は採用され、天皇は、政情の激しい移り変わりにより遅れていた即位の礼を執り行うという理由で、明治元年9月に京都を出発して、その年の暮れまで東京に行幸しました。これがいわゆる「東幸」といわれるものです。

このときの行幸は、副総裁・岩倉具視を初めとし、議定・中山忠能、外国官知事・伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の兵隊を含め、その総数は3300人にも及んだといいます。

こうして天皇の江戸城到着後、ここはその日のうちに東幸の皇居と定められ東京城と改称されましたが、このとき、東京の市民はこの東幸を盛大に祝ったといいます。

その後、天皇はひとまず京都に再び帰りましたが、この還幸にあたり、東京市民に不安を与えないよう再び東京に行幸することと、旧本丸跡に宮殿を造営することが発表されました。

天皇が京都に帰ったのは明治2年(1869年)3月のことでしたが、この翌年の3月に天皇はここで大嘗祭(おおにえのまつり、天皇が即位の礼の後、初めて行う大祭)を行うことが予定されており、その前に、天皇の再びの東幸が行われることが決まりました。

こうして、翌年の明治3年3月28日、天皇は再び東京城に入り、このとき、ここに滞在した東京城を「皇城」と称することが発表されました。

このとき「天皇は東京滞在中」という名目で「太政官」も東京に移され、京都には留守官が設置されました。太政官(だいじょうかん)とは、内閣制度が発足する前の司法・行政・立法を司る最高国家機関を指し、これを移すということは、たとえ一時期であったとしても都が東京に移ったことを示します。

同年10月には皇后も東京に移り、こうしてこれ以降、天皇は東京を拠点に活動することになりました。

このころ天皇・皇后の東京への行幸啓のたびに、公卿・諸藩主・京都の政府役人・京都市民などから行幸啓の中止・反対の声があがりました。

このため政府は「これからも四方へ天皇陛下の行幸があるだろうが、京都は千有余年の帝城で大切に思っておられるから心配はいらない」とする諭告(告諭大意)を京都府から出させ、人心の動揺を鎮めることに努めたといいます。

ところが、その後京都では、東北の平定が未だに行き届かないこと、諸国の凶作、国費の欠乏など諸々の理由で京都への還幸を延期することが京都市民に発表されました。

やがて京都御所を後に残して、明治4年(1871年)までに刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が次々に廃され、中央行政機関が消えていきました。また留守官も京都府から宮中に移され、京都の宮内省に合併、完全に廃され、こうして東京への首都機能の移転は完了しました。

こうしてこの年、とうとう大嘗祭は東京で行うことが発表され、京都で実施されるはずであったこの大祭も東京で行なわれました。

こうして、東京に天皇と都という地位を奪われた京都は、その後活気を失い、多くの産業もまた東京へ転出していったため産業の地盤沈下を起こしました。また皇居出入りの多くの伝統産業もまた大きな打撃を受け、一時はその人口も四分の三ほどにまで低下しました。

ちょうどこのころ第3代京都府知事となった北垣国道は、明治維新による東京遷都のため沈みきった京都になんとか活力を呼び戻そうと考え、そこで考えだされたのが琵琶湖疏水の建設でした。

北垣知事は灌漑、上水道を目的とした琵琶湖疏水を計画し、また水車などの導入による水力で新しい工場を興し、さらには舟で物資の行き来を盛んにしようと考えました。

実は京都には、こうしたことを実現するために江戸時代から琵琶湖から水を引く試みは何度かあり、その実現は昔からの夢でした。しかし、なにぶん古い時代のことであり、十分な土木技術も計画もなく、実現したものはありませんでした。

しかし、明治になり、欧米の優れた科学技術が導入されると同時に、これらを教える場が数多くでき、そのひとつに、工部省が管轄した教育機関で工部大学校というものがありました。

この学校は、現在の東京大学工学部の前身のひとつであり、予科、専門科、実地科(いずれも2年)の3期6年制を採用し、土木、機械、造家(建築)、電信、化学、冶金、鉱山、造船の各科を持っていました。

同時代の理工系高等教育機関には、これとは別に東京大学工芸学部があり、こちらは学術理論に重きが置かれていました。一方、この工部大学校では実地教育が重点視され、そのため工部大は実務応用に秀で、東大と争うように各分野や業界における実践的な先覚者を多数輩出しました。

その一人が「田邉朔郎」であり、1861年(万延元年)、高島秋帆門下の洋式砲術家である田辺孫次郎の長男として江戸に生まれ、1883年に21歳で工部大学校を卒業しました。卒業論文は、「隧道建築編」であったそうで、これからもわかるようにその専門はトンネル掘削でした。

しかもこの卒業論文にはもうひとつ、「琵琶湖疏水工事編」というものもあり、これを見た北垣国道京都府知事が、わずか21歳にすぎなかった彼を抜擢したといわれており、こうして田邉は請われて京都府御用掛となり、琵琶湖疏水工事に主任技術者として従事することになったのです。

こうして、田邉の監督指導のもと、第1疏水は1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成しました。

第1疏水(大津-鴨川合流点間)と疏水分線の建設には総額125万円の費用を要し、その財源には産業基立金、京都府、国費、市債や寄付金などのほか、市民に対しての目的税も充てられました。

この琵琶湖疏水の工事は、安積疏水など先行する近代水路がオランダ人などのお雇い外国人の指導に依ったのに対し、設計から施工まですべて日本人のみで完成されたのが特徴的であり、まさに日本が世界に誇ることのできる産業遺産といっても良いでしょう。

日本で初めての技術も多数取り入れられており、それらは近代化遺産としても非常に価値が高く、例えば前述した完成当時日本最長の第1トンネルに用いられた、竪坑(シャフト)工法もまた鉱山以外のトンネルとしては日本初のものでした。

これによって切羽の数を増やし工期短縮と完成後の通風も兼ねることができましたが、第1竪坑の工事は乏しい光源の下で、竪坑の大きさ故に2~3人しか人が入れなかったといい、しかも小規模ながらダイナマイトも使用されたものの、ほとんどの工事は手掘りのみで進められました。

しかし、想定以上の岩盤の硬さと、たびたびの出水にも悩まされ、この湧水をも人力で汲み上げねばならず、ほとんどの工事を人力に頼らざるを得ませんでした。このため、こうした過酷な重労働と出水事故などにより、犠牲者が続出しました。のみならず、ポンプ主任の自殺などもあったそうで、結局、殉職者の合計は17人もおよびました。

しかし、この数字の中には病死者や、下請けの人足の数は含まれておらず、おそらくは20人以上の人がこの工事で命を失ったと考えられています。しかし、これらの尊い犠牲の甲斐もあり竪坑はようやく完成しました。しかし、その深さはわずか47mに過ぎなかったのに対し、費やされた日数は196日という膨大なものでした。

工事主任であった田邉朔郎は、自分が計画した実行に移されたこの工事で、多数の命が失われたことを生涯気に病んでいたそうで、現在も残る琵琶湖疏水の蹴上の舟溜場横の公園には、田邉自身の私費で建てられた殉職者への慰霊碑が立てられています。

琵琶湖疏水では、水力発電は当初は計画されなかったそうです。しかし工事が完了する2年前の1888年、田邉は渡米して水力発電所などを視察しています。その結果、この視察結果に基づくアイデアを取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設することが決定されました。

こうして疏水完成翌年の1891年(明治24年)には蹴上発電所が完成し、11月からは京都市内に送電が開始されました。この電力を用いて、1895年(明治28年)には京都・伏見間で日本初となる電気鉄道である京都電気鉄道(京電)の運転が始まり、以来、1942年(昭和17年)まで市営の発電所として機能し続けました。

これらの施設は戦後、関西電力に譲渡され、現在も同電力所有の無人発電所となって発電をつづけており、京都の街並みを明るく照らし続けています。

一方、舟運についても、開通から十数年は客貨とも大いに利用されました。貨物では、大津からの下りは米・砂利・薪炭・木材・煉瓦など、伏見からの上りは薪炭などでしたが、鉄道などの競合陸運の発展により衰退し、伏見行き下りは1935年にゼロとなり、大津行き上り貨物は1936年以降なくなりました。

その当時は旅客便もあったそうで、1891年(明治24年)に大津-蹴上の下りが1時間22分30秒で4銭、上りが2時間20分で5銭でした。1銭は現在の貨幣価値で100円ほどですから、だいたい4~500円といったところです。

これと並行する鉄道の京都~馬場間の運賃が、上等50銭、中等30銭、下等15銭だったといいますから、これよりはるかに安く、このためこの争いには馬車も参戦し、8銭を6銭に値下げして船便と競争したという話も残っています。

1911年(明治44年)には、渡航数もおよそ13万人を数えたそうですが、翌年の京津電気軌道(現京阪京津線)の開業でおよそ4万7千人に減少しました。

さらに1915年(大正4年)の京阪本線五条~三条の延長により電車で大津~京都市内~伏見が直結されると3万人台になり、このころには唯一の渡航船会社であった、「京近曳船」もついに廃業しました。

戦後1951年(昭和26年)に新会社が設立され屋形船が姿を現しましたが、同年冬の第1疏水取入口改造工事のため運航を停止。さらに1959年(昭和34年)に伏見インクラインが、また翌年には蹴上インクラインから電気設備が撤去され、水運の機能は実質的に失われました。

以後は生洲船や屋形船をつかった料亭が見られましたが、現在は観光目的の船が時折水面に浮かぶのみとなっています。

上水道としての利用のほうですが、現在、琵琶湖疏水を通して、上水利用に年間2億トンの琵琶湖の湖水が滋賀県側から京都に流れています。このため、京都市から「疏水感謝金」として年間およそ2億2千万円が滋賀県へ支払われているそうですが、これは大正時代までは「発電用水利使用料」として徴収されていたそうです。

しかし、国から「収入の少ない地方公共団体から使用料を徴収しないように」との通達が滋賀県にあり、このため、使用料が寄付金となったものです。この「疏水感謝金」という名前になったのは1947年からのことからであり、この年その名目での契約が滋賀県と京都市の間で結ばれました。

ただ、これは法的な根拠のない、あくまでも感謝金であり、滋賀県も「山の植林・間伐・林道整備など、水源地となる山の保護事業に使っている」としています。感謝金額の査定は10年ごとに物価変動を考慮して滋賀県と京都市が相談して決定されているそうで、現行契約は消費税が8パーセントに上る予定の2014年までとなっているとのことです。

こうした一見善意のやりとりとも見えるような金の流れにも「消費税」なるものが関わってくること自体が不思議でしょうがないのですが、このあたりのことにも本音と建て前をうまく使い分ける関西人の特質がよく出ていて、面白いなと思います。

さて、今日は伊豆から遥かに遠い滋賀・京都の産業以降の話になってしまいました。

振り返ってみると、ここ静岡でも冒頭で書いた韮山反射炉(江川代官所による事業の関連遺産)を初めとして、戸田村のヘダ号設計図 ディアナ号模型(幕末の戸田村における事業の関連遺産)、清水灯台などが産業遺産として認定されています。

そうしたことについてももう少し書こうかと思ったのですが、今日もやはり度が過ぎているようなので、またの機会にしたいと思います。

今日から三連休という方も多いと思います。今、韮山の反射炉周辺は曼珠沙華で一杯のはずです。ぜひ見に来てください。

メランコリー

今日は中秋の名月です。みなさん、お月見の準備はできたでしょうか。

さて、まったく月とは関係ありませんが、私以上の年配の方なら、おそらくは誰でも知っていると思いますが、その昔、「こんにちは赤ちゃん」という歌がはやりました。

東京オリンピックが開催された1964年の前年の、1963年にNHKの番組、「夢であいましょう」のテーマ曲として歌われた歌であり、同年11月に発売されたレコードは100万枚を超える大ヒットとなりました。

歌っていたのは、福岡出身の歌手、「梓みちよ」さんで、この「こんにちは赤ちゃん」は、この年の第5回日本レコード大賞受賞曲ともなり、翌年の1964年センバツ高校野球の開会式行進曲にもなったそうです。

私はこのころまだ小学校入学前であり、物心つくかどうかの年頃でしたが、大ヒットしたこの歌はよく覚えており、これを幼稚園かどこかで歌っていたような覚えもあります。

その後も梓みちよさんは、「二人でお酒を」という大ヒットを飛ばし(1974年3月)、この曲で5年ぶりに「NHK紅白歌合戦」にもカムバック出場するなどして人気を維持し続け、さらには1971年から1978年まで桂三枝さんの「新婚さんいらっしゃい」の名アシスタントとしてお茶の間の人気を集め続けました。

1943年生まれといいますから、今年でも御年70歳になっておられるはずです。が、現在でもコンスタントに歌謡番組に出演されているそうで、あいかわらず意欲的な芸能活動を行っておられるようです。聞くところによると、実業家としても活躍しているとのことで、最近、「梓プラチナローズジェル」という化粧剤をご自身で監修して発売されたとか。

ところで、この、梓みちよさんのもうひとつのヒット曲に「メランコリー」というのがあります。1976年の作品であり、これも翌1977年にかけてロングヒットました。

歌の歌詞はというと、

秋だというのに 恋もできない
メランコリー♪ メランコリー♪

というもので、私もその昔よく歌ったものですが、このサビの部分は良く覚えているのですが、その前のほうの歌詞のほうはほとんど覚えていません。

ただ、このあとに続く歌詞は、次のようなものでした。

それでも 乃木坂あたりでは 私は いい女なんだってね
腕から時計を はずすように 男とさよなら 出来るんだって
淋しい 淋しいもんだね

一転して軽いテンポに転調し、まるで自笑するような詩の内容もなかなかしゃれていて、とても30年以上も前の歌とは思えません。

しかし、この歌が流行っていたころは、まだ子供だったため、「メランコリー」という言葉もよくわからず、国語辞典を引いても、「〈憂鬱(ゆううつ)〉または〈悲哀〉にあたる感情」といったまたわけのわからない説明が書いてあって、じゃぁ憂鬱ってなんなのよ、と思ったりしたものです。

その後、長じるにつけ、どうやら暗い気分になったときの感情を指すものらしい、となんとなく理解したつもりになっていました。が、この「メランコリー」という言葉の深い意味については考えてみたこともありませんでした。

ところが、最近、ようやく暑い夏が終り、秋風が吹き始めるようになると、妙に物思いにふけることが多くなり、そんなときふと口について出たのがこの歌です。しかし、これを口づさみながら、あれ、まてよ、メランコリーっていったいなんだっけ、と思ったのです。

そういうわけで、改めてこの言葉を調べてみる気になったのですが、色々検索してみると、これはなかなか面白いそうな用語である、ということがわかりました。

英語では“melancholia”と書き、これはギリシア語の“melagcholia”に由来するのだそうで、もともとはキリスト教の教義に出てくる、「七つの大罪」のひとつ「憂鬱」のことを指すようです。

七つの大罪とはいうものの、もともとはもう一つ多くて八つあり、厳しさの順序によると「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」でした。

しかし、6世紀後半に八つから現在の七つに改正され、「虚飾」は「傲慢」に含まれるようになり、「怠惰」と「憂鬱」は一つの大罪となり、「嫉妬」が追加されました。従って、現在でいう七つの大罪とは、「傲慢 嫉妬 憤怒 怠惰 強欲 暴食 色欲」であり、実際には「憂鬱」という言葉は抜け落ちています。

ちなみに、この七つの大罪には、それぞれ対応する悪魔とその悪魔がかわいがっている動物があてがわれており、「傲慢」は、グリフォン(鷲の上半身とライオンの下半身をもつ伝説上の生物)、ライオン、孔雀であり、「嫉妬」には蛇や犬、「憤怒」はユニコーン、ドラゴン、狼、「強欲」は狐、針鼠、「暴食」豚、蝿、「色欲」蠍、山羊、だそうです。

で、メランコリーが含まれる「怠惰」には、熊と驢馬(ロバ)が割り当てられていて、これはこの二つに怠け者のイメージがある、ということからきているのだと思われます。が、怠け者という意味では、四六時中寝ているネコのほうがよっぽどふさわしいと思うのですが、猫はなんで割り当てられなかったのでしょう。

それはともかく、キリスト教上で、これらの七つの罪は、悪魔とその手下のこれらの動物が司っていたと考えられており、「罪」そのものというよりは、人間を罪に導く可能性があると見做されてきた欲望や感情のことを指し、人は死ぬと、この罪をあの世で清めなくてはならない、ということになっているそうです。

無論、キリスト教という一宗教の教義として教えられていることであり、あの世にいったらこれらの罪を償うために、何等かの制裁を加えられるなどということはあるわけはありません。

人は死ぬと、その生前に修業した魂のレベル毎に、それにふさわしい階層に行って、そこでまた新たな修業を積む、ということを繰り返すだけです。が、生前の行いが正しくない場合には低い階層に行くということなので、これをペナルティーと考えるべきかもしれません。

さて、このように、メランコリーとは、そもそもはキリスト教の教義の中での「罪」として登場してきた用語でしたが、その後これは、医学や哲学の世界においても研究されるようになりました。

ギリシアに発祥を持つ古代医学においては、「四体液説」というものがありました。古代ギリシアの医者だったヒポクラテスが提唱したものといわれており、この説では人間の身体の構成要素として四種類の体液があげられており、それは、血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁です。

四体液説ではこれらの体液のバランスによって健康状態などが決まっていると考えられ、この四つの液体を重要視しながら、古代の医学は築きあげられたといわれています。

なぜ四つなのかというと、この当時には、これとは別途、「四大元素説」というのがあり、これは地球上にあるすべてのものが、四つの元素、すなわち、空気・火・土・水の4つからなるとされる考え方で、四体液説もこれに準じて考え出されたものです。

この説においては、体液は人間の気質にも影響を与えると説明しており、例えば、血液が多い人は楽天的で、粘液が多い人は鈍重、黄胆汁が多い人は気むずかしい気質を持つとされ、さらに黒胆汁が多い人は憂鬱となっています。つまり、「メランコリー」の性癖を持つ人は、黒胆汁が多い人ということになります。

左から、黄胆汁質(短気)、黒胆汁質(陰鬱)、粘液質(鈍重)、多血質(楽天的)各々の表情

それにしても、血液や粘液はなんとなくわかるのですが、「胆汁(たんじゅう)」っていったい何なのよ、ということなのですが、これは現代医学的には人の「肝臓」で生成される黄褐色でアルカリ性の液体のことをさします。

肝臓を形成する肝細胞で絶えず生成され、総肝管を通って「胆のう」に一時貯蔵・濃縮される物質であり、食事をとると、胆のうから十二指腸に排出され、その効果を発揮します。実際には、近代医学では、胆汁は3つに分類されることがわかっており、これは、「胆管胆汁(A胆汁)」「胆のう胆汁(B胆汁)」「肝胆汁(C胆汁)」の三つです。

それぞれ意味があり、その組み合わせと十二指腸の中にあるその他の物質との反応によって、いろいろな効果を出しますが、例えば食物中の脂肪を乳化して脂肪の消化吸収を促すとか、酸脂肪を乳化して消化酵素の働きを助け、消化をしやすくする、といった具合です。

こうした近代的な知識をこの当時の人が持っていたとは思えず、胆汁を黄胆汁と黒胆汁の二つに分類したのは、前述のとおり四大元素説とつじつまを合わせたかったからにほかなりません。が、もしかしたら人の解剖実験などから、胆汁にも何種類かある、ぐらいは理解していたのかもしれません。

とまれ、ヒポクラテスら古代の医学者は、「憂鬱」というものは、黒胆汁が作りだすものだと考え、これが多い人は、「黒胆汁質」という気質を持ち、憂鬱な気分になることの多い人、というふうに分類しました。

もちろん、胆嚢の働きと、憂鬱との間などに因果関係などあるはずもありません。が、現在においてもドイツや日本では「うつ病が起こりやすい性格」が研究される中で、こうした「循環器質」との関連の研究がなされることもあるということで、あながち無関係とばかりはいえないようです。

ただ、現在医学ではうつ病と、こうした特定の体液の多い少ないなどの個人差を関連付ける研究は少ないようで、うつ病は、体液などによって規定されるその人の性格(例えばA型人間とか)とは無関係で、特定の出来事との関連により起こる、と考える立場をとる学者の方が多いようです。

しかし、そうした現代に至るまでの医学の進歩の過程においては、憂鬱な精神状態というものが、胆汁などの体内分泌物と関連があるのではないか、という考え方が支持される時代が長く続き、その結果、こうした風潮は、「西洋思想」としてその中に「メランコリー」という概念を定着させるのに役立ちました。

このため、もともととは宗教、さらには医学的な発想から出てきた概念であったものが、やがて「哲学」の世界でもさかんに研究されるようになり、現在の我々が使っている「メランコリー」というものの意味は、ボードレール、キルケゴール、サルトルといった名だたる哲学者によって概念化されるようになっていきました。

すなわち、哲学用語としての、メランコリーな精神状態というのは、それを引き起こす要因となるのが、個人的な性格ないしは身体的特徴であり、さらにはこれを基調としてその延長にある「存在論」から導き出される、という考えです。

だんだんと難しくなってくるので、あまりこれ以上は突っ込みませんが、「存在論」というのは、哲学の一部門です。

分かりやすく言うと、存在論では、例えばあなたや私、つまり「存在者」の個別の性格や身体的特徴を議論するのではなく、あなたや私という人間が、存在する「意味」や根本的に、いったい「何者か」、なぜそこに存在しているのか、ということを考える学問ということになります。

なーんだそんなの簡単じゃん。精子と卵子がくっついて、誕生してくるに決まってんじゃん、と誰しも思うでしょうが、そうではなく、それでは精子や卵子はなぜ、存在しているのか、というのを議論するのが、「存在論」です。

これを真剣に考えているとだんだんと頭がおかしくなってしまいそうですし、哲学というとどうも理屈っぽいものというイメージが私にもあって、こうした話をするのは本来あまり好きではありません。

がしかし、この存在論というのは、現在でも多くの大学でも教えられている学問体系を生み出す礎となったものであり、現在の文化を形作るのに役立っているのだ、といわれればそうはいきません。

その考え方を初めて明確にして、体系化したのは、古代ギリシアの哲学者「アリストテレス」です。

彼は「存在論」という学問を体系化し、「論理学」をあらゆる学問成果を手に入れるための「道具」とした上で、「理論」、「実践」、「制作」に三分し、理論学を「自然学」と「形而上学」、実践学を「政治学」と「倫理学」、制作学を「詩学」に分類しました。

難しい話はもうやめますが、もうお分かりのとおり、文科系の大学に進んだ人は、これらの一つや二つの講義を、単位取得のためにとったご経験がおありでしょう。

「存在論」というのはそれほど現代の人文系の学問に影響を及ぼした思想であり、現在の人類の文化を形作った基礎として大変重要な思想なのです。そしてそうした学問体系を生み出したのがほかならぬ「メランコリー」というわけです。

とはいえ、「憂鬱」という人の状態を哲学的に追及する、ということはあまりにも難しく、こうした頭の良い哲学者たちならまだしも、一般の人には難しすぎて馴染みがたい、ということもあり、結局哲学はその「普及」にあまり貢献しませんでした。

メランコリーという言葉を世に浸透させていったのは、やはり医学であり、前述のヒポクラテス(紀元前5世紀から4世紀にかけて活躍)は、黒胆汁が過剰になることで憂鬱室が引き起こされると考え、精神および身体にある種の症状を起こす「病気」である、とその著書で記述しました。

「恐怖感と落胆が、長く続く場合」と具体的な憂鬱質の症状を示したのもヒポクラテスであり、この考え方は多くの医学者たちに支持されていきました。

その後、2世紀のギリシアの医学者ガレノスは、このヒポクラテスの医学的知識や学説を強く支持し、ヒポクラテスの説をもとに四体液説をさらに発展させました。彼は、憂鬱質は脾臓と精巣で作られる黒胆汁の過剰により引き起こされるとし、さらにこれらの四体液を人間の四つの気質や四大元素と結びつけて説明し始めました。

もともと、四大元素説から発生した四体液説ですが、それまではその関連はあまり研究されていなかったものが、ここで初めて体系化されます。ガレノスの説では憂鬱は、四大元素のうちの「土」の元素と結び付いているとされており、彼はここから、四体液説をさらに「季節」や「気象」「時間」といったアイテムと無理やり結びつけようとしました。

「土」は四季のうちの「秋」と最も関連深いとし、また人生のうちの成人期と、一日のうちの午後と結び付けました。その理由は明瞭で、秋や人生の晩年、そして午後には人々は憂い悩みます。この時期になると黒胆汁が増え、憂鬱質になりやすい、と考えたわけです。

ガレノスは人間のさまざまな改質を説明するものとして冷熱乾湿の4つの性質があると考え、これを季節と関連づけました。それを整理すると、以下のようになります。

血液:春  熱・湿・・・多血質:楽天的
黄胆汁:夏 熱・乾・・・黄胆汁質:短気
黒胆汁:秋 冷・乾・・・黒胆汁質:陰鬱
粘液:冬  冷・湿・・・粘液質:鈍重

こうして、この世を構成する「元素」と結びつけらえた四体液説は、やがてその後中世になると、宇宙にある天体の運行を予測することから生まれた「占星術」と結びつくようになります。

ご存知のとおり、占星術では、木星や火星、水星、土星といった元素名がついた惑星の運行が重視されており、これが四体液説と結びつくことになったというわけです。

ちなみに、占星術では、「土星」が憂鬱質と関連付けられており、土星を守護星とする、やぎ座や、みずがめ座の人達がこの気質を強く持っている、とされました。この星座の方、憂鬱に心当たりはありませんか?

ところで、現在日本語でよく使われている「メランコリー」は正しくは「メランコリア」であり、その語源からもこちらが正しい使い方のようです。

が、現在では「メランコリア」というのは、その分野の表現やその由来などについての「研究」を表す用語として別途使われるようになっており、英語でも精神医学的な研究テーマの中での用語はmelancolia、一般的な話し言葉などで憂鬱、などの精神状態を表現するときにはmelancholyと使い分けているようです。

どちらも正しい用法なのですが、ややこしいのでここでもメランコリーとしたまま、続けたいと思います。

さて、占星術と結び付けられるなど、少々拡大解釈されるようになった「メランコリー」ですが、その後時代が下っても、依然、基本的には医学用語としてそのまま継承されていきました。

そうした中、医学も次第に、神経医学、精神医学的なども含めて次第に裾野が広くなっていくようになり、メランコリーもまたそうした精神神経医学的な分野の中で研究されるようになりました。

西暦980年ころのペルシアでは、この国の医師で心理学者だったアル=マジュシという人が、その著書で「精神病」についても触れ、その中で、メランコリーは、「狼化妄想症」という精神の病であると述べています。

そこには、「その患者は雄鶏のようにふるまい犬のように鳴く。夜に墓場をさまよい、目は暗くなり、口は乾き、こうなるとその患者は回復することは難しくなり病気が子へと遺伝する」と書かれており、これではまるで狂人です。しかも、遺伝するとまで書いており、ひどい扱いようになっています。

同じくペルシアを代表する知識人で、哲学者・医者・科学者であったイブン・スィーナー(980~1037)という人も、メランコリーは、「気分障害」であると述べ、「患者は疑い深くなることがあり、ある種の恐怖症を悪化させることもある」としています。

こうしたペルシア人医師たちが書いた著書は、12世紀にラテン語に翻訳され、近世までヨーロッパでも広く読まれるようになり、西ヨーロッパでもメランコリーが研究されるように至ります。

中でも、こうしたメランコリーの治療について最も幅広く述べたのは、イギリスの学者ロバート・バートンという医者でした。1621年に書いた著書の中で彼は、音楽とダンスによる治療法が、精神病、特にメランコリーの治療にとって有効であるという内容の記述を残しています。

しかし、このように、精神医学上で研究されるようになったとはいえ、このころにはまだ、メランコリーは、四体液説に基づく、血液の病の一種と考えられていました。

ところが、このバートンの著書が出版された7年後の1628年になると、ウィリアム・ハーヴェイというイギリスの解剖学者が「血液循環説」を唱えました。

血液循環説というのは、「血液は心臓から出て、動脈経由で身体の各部を経て、静脈経由で再び心臓へ戻る」という、現在ではごく当たり前で、小学生でも知っていることです。しかし、この仕組みは長きにわたって人類に知られておらず、これがこの学者によってようやく明らかになったのです。

かつて古代ギリシアのガレノスが、四体液説という、現在とは全く異なる内容の生理学理論まとめあげ、これが浸透した影響で、これに先立つ1600年代初頭の段階でも、例えば血液は肝臓で作られ、人体各部まで移動し、そこで消費されると考えられていました。

ところが、ハーヴェイが提唱した循環説によって、こうした考え方は完全に否定されました。

ハーヴェイは、血管を流れる大量の血液が肝臓で作られるわけはないとし、「血液の系統は一つで、血液は循環している」との仮説を立てました。そしてこの仮説が正しければ、血管のある部分では血液はもっぱら一方向に流れるはずであると考え、腕を固く縛る実験でそれを確認しました。

腕や足を縛れば、当然血流は止まりますから、血液が循環しているということは誰にでも理解できます。同様に他の部位の一部を止めれば、血流は悪くなることが確認され、これによって血液が体中を循環していることが証明できるようになった、というわけです。

ところが、この発表は、血液肝臓発生説をとなえる四体液説信奉者の間で強い反発を生み、当時この理論は激しい論争の的となっていきました。

しかし、ハーヴェイは、その後もこれらの古い考え方に反論に対する冊子を発行しつづけました。その結果としてその後血液循環説は多くの人々によって様々に実験・検証されるようになり、その正しさは次第に受け入れられていき、またこの血液循環説が後に心臓や血圧、静脈と動脈の存在などの正しい理解へと繋がっていきました。

こうして、血液循環説が正しいと信じられるようになっていったことから、古代の医学説は次第に否定され、メランコリーを引き起こす憂鬱質を説明する四体液説ももはや医学分野では顧みられることはなくなっていきました。

しかし、あまりにも長い間信じられていた説であったため、前述の哲学はもとより、哲学から派生した分野ともいえる、文学や芸術など他の知的分野にはなお大きな影響を与え続けていきました。

一方、その後の14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった「ルネッサンス」は、古代ギリシアのガレノスが提唱した占星術を広めるのに役立ち、これによって広く受け入れられるようになり、メランコリーは土星の影響下によって発生するという説が広く信じられるようになっていました。

前述のとおり、土星はやぎ座やみずがめ座の人の守護星ですが、星占いでは、この土星の運行と自分の守護星(例えば木星や火星)の運行との関連からその人の運命を占います。

従って、占星術上で、土星が自分の守護星に強い影響を与えるような位置関係になった場合には、あなたはやがて憂鬱な気分になりやすくなるだろう、といった占い結果を占星術師は告げるわけです。

こうした占星術は、コペルニクスが地動説を提唱するまでは、天動説を中心としてそのロジックが形成されていました。ところが、やがて天文学の発展によりこの天動説が覆され、地動説が主流になると、四体液説が血液循環説によって大打撃を受けたように、占星術界にも大きな震撼が走りました。

しかし、幸いなことに占星術はこのころまでに天文学とも深く結びつくようになっており、やがて占星術にも理解のあった天文学者、ヨハネス・ケプラーがこの問題に取り組み、地動説下においても非合理のない占星術を考え出し、従来の占星術の矛盾を取り除いて構成しなおしました。

このため、占星術は、再び息を吹き返しました。さらにケプラーは占星術を数学的なものに純化しようとする試みも含めて、様々な改革を試みており、こうして体系化された新占星術の概念はその後多くの占星術師に受け入れられるようになり、現代に到っています。

こうしてより「科学的」になった占星術は16世紀には、フランスが「先進国」でしたが、このあとの17世紀半ばにはそれはイギリスで主流になりました。

こうして、ヨーロッパ諸国では、フランスやイギリスを中心としてこの新占星術が流行するようになり、これに伴って占星術は「星座」のデザインにもみられるように、芸術としてのテーマとしてもよく選ばれるようになり、その影響はとくに絵画において色濃く出るようになりました。

そして、芸術家たちが腕をふるう上で恰好なテーマとなったのが、四体液説が滅びたあとも芸術テーマとして根強く生き残っていた「メランコリー」であり、占星術においても土星の影響下で人々がかかるとされていた、この「憂鬱」という症状は数多くの絵画作品で描かれるようになっていきます。

例えば、ドイツの画家で、アルブレヒト・デューラーという人が描いた寓意画に、その名もズバリ、「メランコリアI」と題されたものがあります。

1514年に制作されたこの版画で、メランコリアは霊感の訪れを待つ状態として描かれ、この寓意画には右上のほうに魔方陣や、角を切り落とした菱面体や、砂時計、太陽などとともに描かれており、これらはいずれもこの当時の占星術と関連したオブジェです。

ちなみに、魔方陣(注:「魔法」ではない)とは、正方形の方陣に数字を配置し、縦・横・斜めのいずれの列についても、その列の数字の合計が同じになるものです。

また、右上、右下、左上、左下のそれぞれ2×2の四マスも、中央の2×2の四マスも、いずれも和が34になっていることを下のマトリックスで確認してみてください。さらにこの魔方陣の中には、作者がこの絵を制作した、1514の数字も埋め込まれている点も驚きです。

16 3 2 13
5 10 11 8
9 6 7 12
4 15 14 1

こうして、ルネサンス以後の中世ヨーロッパにおいては、憂鬱質(メランコリー)は「芸術・創造の能力の根源をなす気質」とまで位置づけされるようになります。

芸術家たるもの憂鬱であるべき、ともいえるような風潮まで現れ、やがては、「メランコリスト」を自称する芸術家らが肖像画、寓意画において盛んにメランコリーをテーマにした絵が描くようになり、作家や音楽家、学者までがその作品の中でメランコリーを扱うようになりました。

とくに、17世紀初頭のイギリスでは、メランコリーという状態をまるで宗教として崇拝するかのような文化的現象すら起こっており、ここでもやはり絵画にとどまらず、文学や音楽などのあらゆる芸術においてメランコリーな作品が主役でした。

これは、ヘンリー8世時代に始まったイングランド宗教改革によって、罪・破滅・救済といった問題への関心の高くなったのが原因ともいわれていますが、ケプラーによって息を吹き返した占星術とも無関係とはいえず、イギリス人は現在でもそうですが、幽霊や霊といったオカルト的なものは大好きで、占星術も根強い人気がありました。

このため、星の運行によってもたらされる「憂鬱」という状態に対してもオカルティックな対象として見るような兆候があり、多くの人がなぜ憂鬱になるか、ということに対して強い関心を寄せていました。

音楽においてもその影響がみられ、イギリスの作曲家、ジョン・ダウランドなどの曲などがもてはやされました。彼は1612年に国王付きのリュート奏者となった人ですが、自分自身を “semper dolens”(常に嘆いている)と標榜し、悲しみやメランコリーを題材とした通俗作品を得意としました。

こうした風潮は、ケプラーを生んだドイツにおいても同じであり、ドイツ文学においても、この時代の「憂鬱」を表すような文化的なムードを示す文学作品が多数造られ、例えばドイツの詩人、で劇作家、小説家のゲーテ(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ)の「若きウェルテルの悩み」はその中でもとくに有名なものです。

その内容はというと、青年ウェルテルが婚約者のいる身である女性シャルロッテに恋をし、叶わぬ思いに絶望して自殺する、というストーリーですが、日本でも翻訳されて親しまれているので、一度読んだことのある人もいるのではないでしょうか。

このほか、この時代にはヨーロッパ各国で「メメント・モリ(memento mori)」というラテン語が流行り、これは「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句ですが、これもまたメランコリーの流行から派生したものです。

「死を記憶せよ」などと訳され、日本語直訳では「死を思え」、意訳では「死生観」とも訳すことができるもので、現在でもヨーロッパのお墓ではこのメメント・モリをモチーフにした意匠が施されるものを多く目にします。

髑髏や智天使、王冠、骨壷、墓掘り人のつるはしやシャベルといったものであり、お墓だけでなく、その他の芸術作品のモチーフとしてもヨーロッパではこのメメント・モリは広く使われる……といったことは、先日のブログでも書きました。

そもそもメメント・モリは、「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われる言葉や意匠ですが、これもまたメランコリーからきたものとわかると、この時代のヨーロッパ人のこれへの傾倒ぶりがよくわかります。

こうした、ヨーロッパ諸国においてかつて浸透した「メランコリー」は、その後開国した日本にも持ち込まれるようになり、明治時代以降、その言葉がごく普通に使われるようになりました。

ただし「憂鬱」という言葉は、中国の古典にもあり、日本へもそのまま輸入されようですから、明治期以降にメランコリーを翻訳したものではなさそうです。であるとすれば、中国でもその昔から憂鬱という心理状況が認識されていたのでしょうし、当然、日本人もその意味を古くから理解していたはずです。

従って、メランコリーという新しい言葉が入ってきても、その意味がわかると、憂鬱のことであると理解し、あまり混乱はなかったようです。また、メランコリーであるという状態に対して、ヨーロッパ人ほどのめり込むこともありませんでした。

その理由はやはり、ヨーロッパのように四体液説や占星術の流行といったメランコリーが浸透しやすいような時代背景がなかったためでしょう。

それにしても、日本語の「憂鬱」という漢字は、こうしてワープロで書いている分には問題ありませんが、筆数も多くかなり難しい部類に入る言葉なので、いざ手書きで書こうとするとなかなか書けません。

むしろ「今日、私ちょっとメランコリーなの」といった表現のほうが粋なかんじがし、冒頭の梓みちよさんの曲などで使われたのもそうした理由からでしょう。

さて、このようにヨーロッパでは、芸術のあらゆる分野に影響を与えたメランコリーですが、医学分野では研究の対象として消滅した感があります。

しかし、「心理学」としてはまだまだ研究し続けられており、かつてその第一人者として名を馳せたのが、精神分析学者のフロイト(ジークムント・フロイト)です。

彼は、その著書で「悲しみ」(悲哀、喪)と「憂鬱」(メランコリー)を明確に区別しており、愛する者や対象を失って起こる「悲哀」の場合は、時間をかけて悲哀(喪)の仕事を行うことで、再び別の対象へ愛を向けられるようになると書いています。

これに対しメランコリーは、「苦痛にみちた深い不機嫌さ・外界にたいする関心の放棄、愛する能力の喪失、あらゆる行動の制止と、自責や自嘲の形をとる自我感情の低下が起こる」ようになり、引いては妄想的に処罰を期待するほどになる、としています。

メランコリーの場合、愛するものを失った悲しみは悲哀と共通しますが、「愛するもの」が具体的なものではなく観念的なものである点が違います。

また、対象を失った愛は「自己愛」に退行し、失った対象と自我との同一化が進みます。

この過程で愛ははついに「憎しみ」に変わり、失った対象およびこれと同一化された自我に対して激しい憎悪が起こります。やがてこの感情がさらに高まり、自責や自嘲が起こる点が単なる「悲しみ」と異なるとしており、フロイトはここにこそ、自殺の原因がある、と言っています。

そしてフロイトのこうした研究成果を踏まえた現代の心理学では、憂鬱(メランコリー)の概念はうつ病(デプレッション)とほぼすべて置き換えられ、同一のものとみなされているそうです。

2008年3月、ローマ法王庁は新たな7つの大罪を発表しました。それは、遺伝子改造・人体実験・環境汚染・社会的不公正・貧困・過度な裕福さ・麻薬中毒です。

この中に、自殺は含まれていませんが、年間3万人もの自殺者を出している日本では、これに太古のギリシアと同じように「憂鬱」を加え、「八つの大罪」としても良いのではないでしょうか。

災害による後遺症と不況に悩まされる現代社会において、多くのストレスと憂鬱をかかえる多くの日本人にとって、その解消こそが明るい未来を作る鍵になっていくに違いありません。

彼岸すぎまで……


台風一過、伊豆は快晴です。

が、伊豆だけでなく、全国的にもスカッ晴れのところが多いようです。気温もぐっと下がったようで、いよいよ秋本番を感じさせますし、そろそろお彼岸も近づいてきました。

お彼岸については説明するまでもなくご存知のことと思いますが、あえて定義しておくと、春分の日と秋分の日を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間のあいだに行う仏事のことであり、彼岸会(ひがんえ)とも呼ばれます。

彼岸会の「会」は言うまでもなく、亡くなった人々とこの日に「会いまみえる」の意であり、また、「彼岸」とは涅槃、すなわちあの世のことです。

ではなぜ、春分と秋分かというと、この日には太陽が真東から昇り、真西に沈みます。古来、仏教では真西にあの世があると考えられていたため、この日に真西に沈む太陽を礼拝し、遙かその先にある極楽浄土へ行った人々への思いをはせたのが彼岸の始まりである、といわれています。

このように彼岸会は、もともとは仏教行事としてお寺さんが行なう法要だったのですが、それに合わせて一般民衆も仕事を休んで集まるようになり、個人個人で先祖の供養として墓参りや会食をする風習となって広まりました。

今や国民的な習慣となり、春分の日と秋分の日は、国民の祝日として休みになっているのもこの伝統的な風習を守るためにほかなりません。

法律的には、1948年(昭和23年)に公布・施行された「国民の祝日に関する法律」によって定められており、同法第2条によれば、秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ことを趣旨としています。

一方の春分の日もまた同法によって規定されていますが、こちらは「自然をたたえ、生物をいつくしむ」と書いてあります。従って、戦後の法律では秋分の日のほうが、先祖供養の日としてオーソライズされているオフィシャルデイということになります。

とはいえ、最初に法令化されたのは明治時代であり、これは1878年(明治11年)改正の「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」という太政官布告令に基づいており、「春季皇靈祭 春分日」「秋季皇靈祭 秋分日」として両者は同格に扱われていました。

ま、俺は仏教徒でないからどっちでもいいや、という人にとっては別にどうでもいい話であり、休日なのだから合法的に休めるし、こういう日は多ければ多いほどいい、という人も多いでしょう。

私も別に秋分や春分だからお墓参りに行かなけばならない、という義務感や使命感は持っていません。亡くなった人々への礼を取るのはいつでもできることですから。

とはいえ、一年に二回、こうした日を定めておけば、家族や親戚も集まりやすく、集まったひとたちで一心同体、気持ちを合わせて祈れば、その思いは、ご先祖や亡くなった方により伝わりやすいでしょう。なので、古くからあるこの習慣を無下に捨て去ってもいい、などとも思いません。

なので、人並みに秋分や春分のころには、たとえ親戚一同が集まれなくても、一応お墓参りやそれができなければ仏壇に手を合わせるようにしています。

日本では、このお彼岸のときには、「ぼたもち」や「おはぎ」をよくお供えものとして捧げます。別ものと思っている人も多いかもしれませんが、実はこのふたつは同じもので、炊いた米を軽くついてまとめ、分厚く餡で包んだお菓子です。

名前の由来は、彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)から来ているといわれています。

昔は親戚一同が集まれば、お墓参りのあとに、お寺や自宅の一室に集まり、このおはぎやら他の料理をほおばりながら故人のことなどを話題にして酒などを酌み交わしたものですが、最近はもうあまりこういう風習は流行らなくなっているようです。

我が家でも両親や祖母が健在だった子供のころには毎年やっていたような記憶がありますが、長じて東京へ出てしまって以降はお彼岸に合わせて郷里の山口に帰ることもなくなり、風習としては完全に途絶えてしまっています。と同時にお彼岸だからといってお墓参りに行くということもなくなってしまいました。

ところで、このお墓ですが、そもそも日本ではいつのころからこういうものを作り、これを崇めるようになったのだろう、と気になったので調べてみることにしました。

しかし、お墓の起源は古く、いつのころから墓を作るようになったのか、を遡ると縄文時代や弥生時代、下手をすると有史以前の太古の時代にまで遡るためこれを調べるのはナンセンスです。

ただ、仏教が伝来する前は、遺体を埋葬する墓所はあったようですが、墓参りなどの習慣などはなかったようで、大昔の日本人の一般的な感覚としては、墓というものはまったくといっていいほど重視されていなかったといいます。

お墓お墓といいますが、そもそもその形態も問題です。一般には次の三つの分類に基づいて規定できると考えられています。

1. 遺体の処理形態(遺体か遺骨か)
2. 処理方法(埋葬か非埋葬か)
3. 二次的装置(石塔の建立、非建立)

2.の処理方法ですが、非埋葬という形があるのか、ということなのですが、昔は、遺体を風にさらし風化を待「風葬」という葬制が沖縄、奄美などで見られたそうです。無論、現在は行われていません。

日本以外の例えばチベットなどでは、現在でも遺体を鳥についばませる「鳥葬」というのもあるそうで、どこだか忘れましたが、日本でもこの風習があった場所があると記憶しています。

また、1.の遺体の処理方法ですが、現在の日本では防疫の観点からも遺体を直接埋める土葬はあまり奨励されていません(法律的に禁止されているわけではありません)。がしかし、江戸時代までは土葬が一般的でした。

そして、3.の石塔を建てるかどうか、です。石塔、つまり墓石のことですが、墓に石塔ができてきたのは仏教の影響と関係の強い近世の江戸時代あたりからだそうで、それ以前は遺体は燃やされずに埋葬され、石塔もないのが普通だったそうです。

また、浄土真宗を信仰している北陸などの地域および日本海側では、伝統的に火葬が行われ、石塔は建立されなかったといいます。

墓石を造るようになったのは、江戸時代になってからのことで、これは檀家制度が確立し、お寺を中心としたコミュニティができるようになったことから、人々に先祖に対する供養や葬儀に加えて、墓を建立することなどの仏事が生活の中に定着するようになったためです。

これにより、それまでは身分の高い人達しか墓石を建てなかったものが、庶民まで墓石を建てるようになり、この墓石に家紋を入れるようになったのもこの頃からのことです。

しかも、はじめのころの庶民の墓石は個人や夫婦のためだけのものでした。従って、人が亡くなればその人の数だけ墓石を建てるということがごく普通に行われていました。当然数が多くなるため、こうした場合の一般人のお墓は小さな墓石ひとつといった本当に素朴なものでした。

ただ、例えば商売人などで、ある程度成功した人達や庄屋などの村の有力者などは、その財を使って一家のための立派なお墓を造るということはありました。私の先祖も比較的裕福だったためか、現在も金沢市内に残る立派なお墓には、たくさんのお骨が入れられる納骨スペースが設けられています。

ところが、明治中期以降になると、「家制度」の確立により、家単位で立派なお墓が普通に建立されるようになっていきます。家制度とは、1898年(明治31年)に制定された民法で規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、「戸主」と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度です。

そもそもは、江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしているものであり、明治になって何もかもが近代化されましたが、この制度だけは逆戻りして残存した格好です。

このため、明治以前のお墓では、その墓石の正面に故人の戒名(法名)だけを彫っていたものが、このころからは「○○家先祖代々之墓」などのような形に変わっていきました。

その他、正面には宗派の梵字や名号、「倶会一処」などの文字が刻まれていることがありますが、この倶会一処(くえいっしょ)とは、浄土教の用語のひとつであり、阿弥陀仏がいらっしゃる極楽浄土に往生した者は、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味です。

一処を省略して「倶会」とだけ記したものもあり、金沢にある私の先祖の墓もこれです。が、この墓は、江戸時代後期に建てられたものです。従って、「倶会」とか「倶会一処」と彫られたものは江戸時代より以前の比較的古いもの、「○○家先祖代々之墓」と書かれたものは明治時代以後のものが多いようです。

こうした墓石の側面には建之日・建之者・故人の命日・俗名などを刻み、文字の所に墨を入れる場合もありました。墨色は、石の色や地域により異なり、白・黒・金・銀などが多かったようですが、当然年月が経つとこれは色あせてしまいます。

ちなみに、明治時代以降は、東京などに代表されるように都市に人口が集中するようになり、都市部では土葬で埋葬するために必要な土地を確保することができなくなりました。このため、それまで普通に行われていた土葬に代わって火葬が多くなっていきました。

火葬は、近代になって開発された埋葬方法だと思っている人も多いと思いますが、これは違います。実は火葬は仏教と共に伝わったという説が有力であり、仏教の祖である釈迦もまた火葬されています。

現代でも「火葬にする」の意味で用いられる言葉として「荼毘に付す」といいますが、この荼毘(だび。荼毗とも)は火葬を意味する梵語Jhpetaに由来する仏教用語です。

「続日本紀」によると、日本で最初に火葬された人は、文武天皇4年(700年)に火葬された僧で「道昭」という人のようです。また最初に火葬された天皇は、702年に火葬された持統天皇です。8世紀ごろには普及し、天皇に倣って上級の役人、公家、武士などの間でも火葬が広まったといいます。

ただ、これより以前の古墳時代にも火葬が行なわれていた証拠も残っていて、古墳の様式のひとつには「かまど塚」「横穴式木芯粘土室」などと呼ばれる様式のものがあり、その中には火葬が行なわれた痕跡があるものが認められるそうです。これらの墓は6世紀後半から出現しており、このことから日本における火葬史は1400年以上あることになります。

とはいえ、火葬が流行るようになったために、土葬が廃れていったわけではなく、火葬が広まった後も、日本では土葬が広く用いられていました。むしろ、近世までの主流は火葬よりも棺桶を使った土葬でした。

これは仏教とは別に中国から日本に伝来してきた儒教の影響です。儒教の価値観では、身体を傷つけるのは大きな罪であったためであり、このほかにも、実質的な問題として火葬は燃料代がかかるという問題があり、土葬の方が安上がりであると考えられていました。

遺体という大量の水分を含んだ物質を焼骨に変えるには、大量の薪と、効率よく焼くための技術が求められ、このため火葬は費用がかかる葬儀様式であったというわけです。

しかも、明治になってからの新政府は神仏分離令に関連して、神道では土葬が一般的であったことから、火葬禁止令を布告しました(明治6年(1873年))。ところが、仏教徒からの反発があり、また都市部での埋葬地不足の問題から衛生面からも問題があるとされ、このため二年後の明治8年(1875年)にはこの禁止令を撤回しています。

その後火葬技術が進歩したこともあり、近現代の日本では火葬が飛躍的に普及し、ほぼ100%の火葬率となっています。

現在も法律的には土葬など火葬以外の埋葬方法が禁じられているわけではありません。が、環境衛生面から行政は火葬を奨励しており、特に東京都(島嶼部以外では八王子市、町田市、国立市など10市2町1村を除く)や大阪府などでは、条例で土葬は禁じられています。

公衆衛生の観点から土葬よりも衛生的であり、伝染病等で死んだ場合はもちろんですが、通常の死亡原因による埋葬であっても、土中の微生物による腐敗では、埋葬地周辺域に長期に亘って腐敗菌が残存するため、衛生上広域な土地を必要とするという問題があります。

都市に人口が集中する現代ではそうした土葬で埋葬するために必要な土地を確保することができない上、明治時代に導入された「家制度」の影響により、現在でも墓は「家」を単位として考える人が多く、このため、先祖と同じ墓に入れやすくするためには、火葬のほうが容量の少ないお骨だけになるため効率的というわけです。

ただし、神道家の一部の宗派には、今でも火葬を仏教徒の残虐な葬儀法として禁忌する思想もあり、葬を忌む場合があるそうです。ただ、家内のタエさんの父方の家も神道ですが、お墓は火葬にしているそうです。

なお、天皇などの皇族方は、明治以降も長年に渡って土葬を通常の埋葬方法としてきましたが、現在の今上天皇は、崩御の際は火葬を希望するとの意向を示しておられ、2012年4月にこのことを宮内庁が発表しています。

さて、お墓の話に戻りましょう。こうして、明治以降、一つの墓に火葬されたお墓に一族が入るという形式が一般化し、第二次世界大戦後の現在までこの風習は続いています。

が、墓石の形状は、従来ながらの縦型の和式から、最近の霊園型墓地によく見られるような洋型の墓石に変わってきており、「デザイン墓石」といわれるような従来からみれば奇抜ともいえるような墓も登場するなど多様化してきています。

現在、建立される墓石の形状は大きく和型・洋型・デザイン墓石に分けられます。

和型は、今でも一番多い型でしょう。基本的には台石を2つ重ねた上に細長い石(棹石)を縦にして載せる「三段墓」が多く、全体的に縦に長く背が高いのが特徴です。

仏式と神式があり、仏式は、各柱塔が三段積み重なっている典型的な三段墓であり、一般的には「和型三段墓」と呼ばれています。和型三段墓は上から「竿石(棹石)」「上台石」「中台石」「下台石」の四つの墓石で構成され、一番上の竿石だけを「仏石」と呼ぶこともあります。

石の種類は白御影石や黒御影石が使われる事が多く、和型の墓石は仏舎利塔や五輪塔を簡略化したものだといわれています。

上三つの石を天地人に見立て、最上位の竿石は、事業や金銭など動産を示す「天の石」、その下の上台石は寿命や家庭など人間を示す「人の石」、中台石を財産や家など不動産を示す「地の石」と呼ぶこともあるそうです。知っていましたか?

一方の神式は、仏式に比べれば少なく、あまり目にすることも多くないでしょう。これは、江戸時代以前には仏式の墓が主流であり、こうした神式の墓は、明治時代の神仏分離政策により神葬祭専用の墓が建てられることが多くなったためです。

明治以降、政府がこの政策を推進するため公営墓地を急造したことにより、一般の民営墓地以外のこうした公営墓地では、比較的こうした神道の墓をたくさん見ることができます。

神式の墓は仏式の和型三段墓とよく似てはいるものの、一般に「奥津城(おくつき)」と呼ばれる神道式の三段墓で、仏式のお墓と違うのは、お墓の最上部がとがったピラミッドのような形をしている点です。

この神道独自のお墓は、「トキン型」ともいわれ、トキン型以外にも、ドーム型やお社型のお墓もみられます。また左右に狛犬が配置するなど一般的なお墓とは違った形のものも多いようです。比較的新しい公営墓地へ行くとみることができると思いますので、見つけてみてください。

なお、神道ではもともと死は穢れとされていることから、通常は神社の敷地内に墓地はありません。ただ、最近は神社が事業主体となった神道専用の墓地も見られるそうです。

一方、洋型のお墓は、最近急増しています。基本的には台石の上に横長の石が乗る形であり、全体的に横に長く背が低いものが多いようです。日本における洋型墓石の主流は「ストレート型」と「オルガン型」に分けられ、各々の形状において二段型と三段型の違いがあります。

ストレート型というのは、上述の仏式の竿石部分を立てるのではなく、横に倒したようなものでかも短く、前面・後面とも垂直になっています。一方のオルガン型は、その名の通り、前面が斜めにカットされていて、竿石全体が台形になっているものです。

が、いずれも特に伝統的なものというわけでもないようで、どちらかを選ぶのに宗教的な意味合いもなく、単に好みで選ばれているようです。

最近は、この様式墓をさらに発展させた、独特の「デザイン墓」と呼ばれる形式が増えているようです。固定観念にとらわれず、故人への想い入れを反映した現代的なお墓といえるでしょう。

形式は様々であり、というか自由で何でもアリです。和型と洋型を融合させたような比較的落ち着いた形から、故人の個性を偲ばせる突飛で斬新な形まで多種にわたります。依頼人が遺族だけではなく、生前に個性的な墓石をデザインし注文することも珍しくないようです。

デザインの要素としては墓石の形状、色、表面の加工、石材、彫刻、碑文、付属品など色々ですが、従来のような御影石のみでデザインされたものに代わり、アートガラスやステンレス、銅板などの金属類をデザインに取り入れたものもあります。

これまでの和式の墓と比べると、一転してお墓を明るい雰囲気にする要素があることから、人気が出ており、墓石業界としてもデザイン墓石を推進する動きが見られます。

「全国優良石材店の会(全優石)」では「お墓デザインコンテスト」なるものを毎年実施しているそうで、仏事関連出版社である六月書房という出版社は、デザイン墓石コンテスト墓石大賞を毎年催し、デザイン墓石の写真集まで出版しています。

デザイン墓石は、個人がオリジナルで制作するものから、メーカーによりデザインされたものまで幅広く、これまでのお墓のように石の種類以外の選択肢がないといったこともなく、自由なものを選べるため幅広い人気を得ているようです。

こうした墓が日本で流行っているのは、当然のことながら英米圏の影響であり、欧米の墓石には、基部が直方体状のもの以外にも半円状や球状などがあり、さらに頭頂部は楕円形や錐形等があるなど自由自在です。

この諸外国の墓の話をし始めると、それだけで一冊の本ができてしまいそうです。ただ、ヨーロッパのお墓のひとつの特徴として、18世紀ころから墓石に、髑髏や智天使、王冠、骨壷、墓掘り人のつるはしやシャベル等のいわゆる「メメントモリ」の意を含む装飾がよく彫られるようになりました。

メメント・モリ(memento mori)とは、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句であり、日本語としては「死を記憶せよ」などと訳されています。上にあげた髑髏や骨壺といったモチーフはその象徴であり、「自分が死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるために使われたのです。

「メメントモリ」の日本語の意訳としては「死生観」に近いものだという人もいるようです。

欧米ではその後、19世紀ころから墓の形の多様化が進み、現在では簡素なものから豪奢な装飾を施したものなどさまざまであり、簡素な十字架や天使などの装飾よりもより高度な加工が求められる場合も多いようです。

一方では、古くからある簡素な形状の墓石のほうが人気がある国もあり、さまざまです。が、外国の墓の話はエンドレスですから、このあたりでやめにしておきましょう。

さて、日本の墓石です。戦前までは、自分の所有地の一角や、隣組などが一緒になって共同で墓地を作り、墓を建てるケースも多かったようですが、戦後は、地方自治体による大規模な公園墓地が作られるようになり、これ以外では、寺院や教会が保有・管理しているものが多いようです。

基本的に「○○霊園」などの名前が付いた墓地が増えています。前述の洋式の墓石やデザイン墓はこうした比較的新しい霊園にたくさんみられます。

しかし、最近では都市部を中心として墓地用地が不足しており、このため、墓石を郊外に建てるよりも、霊廟や納骨堂内のロッカーに骨壷を安置した形の、いわゆるマンション式の共同墓地も数多く造られています。

地方自治体や寺院などの霊園や地域の共同墓地に墓を立てる場合は、使用権(永代使用権)に基づく使用料(永代使用料)や管理費などの費用が結構かかることがほとんどであり、こうしたマンション式の墓地も永代使用料を求められることも多いようですが、一般霊園よりも安く、また何よりも墓石の建立などに多額の費用を必要としません。

しかし、それでもやっぱりお墓が欲しいという人は多く、人によっては生前に自らの墓を購入することもあります。これを仏教用語では、寿陵墓(じゅりょうぼ)または、逆修墓(ぎゃくしゅぼ)といいます。

仏教の教えにおいて「逆修」とはすわなち「生前、自分のために仏事をいとなみ、冥福をいのること」をさします。

生前にお墓を建てると「早死にする」、「縁起が悪い」という人がいますが、実際の仏教では「逆修」によって功徳がもたらされるとされ、その功徳はさらに、子から孫へと残すことができ、未来の繁栄と幸福につながるといわれているそうです。

私としては、墓などはいらないと思っており、ましてや生前にそんなものを作ったからといって子や孫が幸せになるなどとも思ってもいません。が、お墓信奉者の方々にはこうした教えはありがたいものとして目に写るのでしょう。

また、お墓だけでなく、生前に戒名を授かる人もおり、こうした人達は、自らの預かり知らないところで付与される名前がお嫌いなようです。自らの意思で受戒し、戒名を授かるほうが功徳があると考えていらっしゃるのでしょう。が、無論、どう考えようと自由です。

ただ、この場合は、墓石に彫られた戒名は、朱字で記され、没後の戒名と区別されるといいます。自分の意思で選択した方法とはいえ、結局は死後も仏教という宗教の規則に縛られるわけであり、私としてはまったく無意味だと思います。

私のように、無宗教を奉じる人達は最近増えているようです。遺灰を海や墓地公園のようなところで散骨するというやり方が広がっているといい、気に入った樹の下にお骨をばらまいてもらう樹木葬というのもあるそうです。

私もそういうやり方でいいかな、と思っており、お墓は作らない予定です。ただし、こうした散骨による自然葬は、メディアなどによって大々的に報道もされて多くの人が賛同を示していますが、法的にはグレーだそうです。

大々的にやると、死体(遺骨)遺棄罪、死体損壊罪、廃棄物処理法違反に問われる可能性はゼロではないといい、何事もひっそり静かにやるというのが暗黙の了解のようです。従って豪華客船を雇い、そこで大々的なパーティをやった上で散骨、などというド派手なことはやめておきましょう。何ごとも質素で謙虚が肝要です。

最近ではさらに、インターネットの普及に伴い、ウェブサイト上に仮想的な墓を造り、そこで墓参や記帳ができるようにするというネット墓というサービスまでもが、専門業者、寺院により運営されるようにもなっているといいます。

そこまでいくと逆にちょっとやりすぎではないかという気もしますが、人は死んだら土に帰り無に帰すと考えているならば、それもまた良しとしましょう。

ただ、インターネット上にデータが残っていた場合、死後にそれが改ざんされ、実は地球の反対側では生きていることになっている、なんてのも嫌です。

死んだら、この世ではまったくの無になる。それでいいと思います。無論、魂は残り、未来永劫続いていくのですが……

さて、そんな先祖や故人の魂に今年もお彼岸になったら祈りを捧げることにしましょう。

あなたはどうされますか?

飛行艇!

先日、宮崎駿監督の映画、「風立ちぬ」に関連して主人公の堀越二郎の設計した飛行機についての記事を書きました。

しかし、この中で書き切れなかった話があり、それはこの映画の中で出てきた三枚もの羽根を持つ複葉機のことでした。映画の中では堀越二郎が夢の中で見た飛行機という設定でしたが、これは実在の飛行機です。

イタリアの「カプローニ Ca.60 トランスアエロ」という飛行艇で、100名もの乗客を乗せて大西洋を横断する計画の下に、イタリアのカプローニ社という飛行機製造メーカーによって造られたものです。

飛行艇というだけあって、水上から離発着します。この当時としては他に類をみないほど巨大であり、8基のエンジンと、前後三列に三葉の主翼を持ち、合計9葉もある主翼のあるその姿は飛行機とは思えないほどで、大きなな櫓(やぐら)を並べたその下に列車を取り付けたような不思議な形をしています。

こんなものが本当に飛んだのかな、と思ったのですが、案の定、実用化には至らず、試作機が造られ試験飛行が行われたものの、ごく短い飛行をするにとどまりました。

1921年3月4日のことであり、イタリアのマッジョーレ湖という場所で乗客60人分に相当する重量を積載したこの飛行機は、離水には成功したものの、機体はわずか60フィート(約18メートル)の高さまで上昇しただけで、その後すぐに墜落してしまいました。

機体は衝撃で破壊され急速に浸水し、数分で湖の底に沈みましたが、幸いなことにパイロットは脱出に成功したため死傷者は出なかったそうです。試作機だったため、同型機はなく、この沈んだものが世界で唯一の機体でした。

しかし、失敗はしたものの、まだ航空機の黎明期に近い時代に、100人もの乗客とともに大西洋を横断することのできる飛行機を開発するという野心的な試みは、世界中の飛行機開発者に夢を与え、その後の長距離旅客機の開発のための礎となっていきました。

宮崎駿監督もまた、その壮大なプロジェクトに惹かれ、この飛行機とこれを造った技術者を映画の中で登場させたのでしょう。

この飛行機を作ったのは、風立ちぬの中にも出てくる、その名も「カプローニ」という実在の人物であり、第一次世界大戦において、たくさんの発動機を持つ大型爆撃機で成功した経験を持っていました。第一次大戦は、カプローニ Ca.60の試験飛行の三年前に終結しており、彼は今度はこの大戦での経験を活かして、民間の大型機を作ろうとしたのです。

しかし、初飛行は失敗に終わったため、カプローニは機体を回収し、これを修理して試験続行をしようとしたようです。が、実際に修理に着手する前に火災が発生しこの世界唯一の試作機は焼失してしまったといいます。

従って残っているのは写真と設計図だけということになります。しかし、カプローニ社はこうした爆撃機や民間航空機開発で蓄えた技術力を活用してその後は大躍進し、1930年頃には、自動車・船舶用エンジンの生産など事業の多角化に成功し、イタリア有数の企業に発展していきました。

第二次世界大戦時にも、イタリア軍や枢軸国向けの中型・大型機の生産を行いましたが、この頃になるとカプローニ社の中核となる航空機部門は、フィアットやマッキなどの国内他社と比較しても、すでに時代遅れの感は否めないようになり、次第に競争力を欠いていきました。

このため、戦後には劇的に進歩した航空機業界の中で販路を失い、これに伴って多くの部門は1950年ころ閉鎖されてしまいました。

しかし、その一部のグループは生き残り、戦後はオートバイの開発・製造などを行っていましたが、やがては資金不足に陥り、1983年に同国の航空機メーカーである「アグスタ社」という会社に吸収されました。

ちなみに、現在日本の警察庁や多くの県警が導入している、タービンエンジン双発のヘリコプター「A109」はこのイタリアのアグスタ社の製品です。

救助用に警察庁が導入しているほか、富山県警、静岡県警、新潟県警、広島県警、福島県警、三重県警、兵庫県警、北海道警、宮城県警、島根県警などなどに導入され、現在日本の警察で最も多く運用されている外国製ヘリコプターです。

カプローニ社は消滅してしまいましたが、その技術力は継承され、それが今も日本の空を守ってくれているわけであり、その会社がかつて開発した飛行機を日本の映画監督の宮崎駿さんが取り上げたということに、不思議な縁(えにし)を感じます。

このカプローニ社による、大西洋をも渡れるような巨大な旅客機を開発するという夢は、こうして潰えてしまいましたが、その後も同様に大型の飛行艇を造る試みはヨーロッパ各国で続けられ、その一つがドイツで具現化しました。

「ドルニエDo X」という巨大な飛行艇が1929年(昭和4年)に完成しており、これはドイツのドルニエ社が製造した旅客用飛行艇であり、このころ流行っていた飛行船による大西洋航路の旅客輸送に代わる、「空の豪華客船」として鳴物入りで登場したものです。

この当時世界最大の重航空機で、設計はツェッペリン飛行船も担当したクラウディウス・ドルニエという人物で、ドルニエ社の創業者でもあります。このドルニエ社は、大戦前には大型の旅客機製造で成功し、その機体はルフトハンザ等、多くのヨーロッパの航空会社で用いられました。

また、戦争中には爆撃機の製造にも従事し、そのひとつの「バトル・オブ・ブリテン」は、大戦後期にイギリス空軍の夜間爆撃に対抗する夜間戦闘機として活躍しました。

戦後、ドイツの航空機生産は禁じられてしまいましたが、ドルニエはスペインやスイスに拠点を移しながら、航空コンサルティングサービスなどを提供することで苦境をしのぎ、1954年に禁が解かれると、小型の輸送機を製造してこれを成功させ、のちにはフランスのメーカーとの合弁でジェット戦闘機の開発も行いました。

しかし、1985年、ダイムラー・ベンツグループに統合され、現在はその航空機部門となっています。

このドルニエ社が製作したDo Xは、都合3機が製造され、うち2機はイタリアからの発注だったといいます。機内にはダイニングルーム、寝室、喫煙ラウンジ、バーを備え、高級カーペットを敷きつめ中央サロンまである豪華仕様を誇ったそうです。

600馬力のカーチス社製のエンジンを12基をも搭載し、各エンジンは2基一組で流線型のカプセルに収められ、下の写真を見てわかるように各エンジンは補助翼で結ばれていました。

このため機関士は飛行中でもエンジン関係の作業を行うことができたそうですが、実はこのエンジンは冷却や点火のばらつきが多く、12基のエンジンの調子をそろえることが難しかったため、こうした工夫により飛行中も付きっきりで調整を行う必要があったのでした。

こうしたエンジンの出力不足等から、試験飛行当初から500m以上への上昇は困難なことがわかり、このため低高度飛行を余儀なくされ、期せずして世界最初の「地面効果翼機」となりました。

地面効果翼機というのは、地表ないしは水面から数十センチ~数メートルほどの高度で航行し、これによってこれより高い位置を航行するよりも高い揚力を得ることができる飛行機のことです。プロペラで発生させた気流を分流して機体下部へ噴出して浮揚力を得る、ホバークラフトと同じようなものといってよいでしょう。

高い場所を飛ぶことはできませんが、その翼と地面もしくは水面との間の「圧力」が揚力に変換されるため、翼が小さくても高い揚力を得ることができ、また機体が重くなっても航空機に準じる速度で航行することができます。

余り知られていない飛行機ですが、普及はしなかったものの、第二次世界大戦頃から現在に至るまでも研究・開発が行われており、民間用・軍用として少なくない数の機体が製造されているそうです。

こうした飛行機の開発にとくに熱心だったのが、ロシアであり、「エクラノプラン」という実用機が作られ、冷戦時代には、大型かつ高速展開可能な輸送戦力として長期にわたってカスピ海沿岸部に配備されていたそうです。

西側諸国では、「カスピ海の怪物」という俗称で呼ばれており、外側の翼を切り落とされた航空機のようにしか見えないこの機体は、アメリカの諜報機関によって発見され、その昔かなり話題になりました。

このエクラノプランは、数百km/hの高速が出せ、最大100t以上の貨物を積載できたといい、約120「隻」がソ連海軍に導入される計画が立てられたそうですが、重量が大きい割には強度がそれほどでもない船舶用アルミ合金で造られていたため、強度不足が指摘されていました。

このため、試験機では度重なる補強工事が行なわれたといい、試験飛行にこぎつけた段階からも事故が多かったそうです。

しかし、こうした困難を経ながらも、一応この飛行機は艦隊配備までこぎつけました。

ところが、専用の浮きドックなどの特殊施設も用意する必要があり、運用コストが莫大になる事が予想されたため、結局、稼動可能なものは4隻ほど建造されただけで終わり、一応軍用輸送機として使われたことはあったようですが、すぐに廃役となり、現在使われているものはありません。

ただ、重量物を運べる高速機というアイデアには、ロシアだけではなく各国とも未だに固執しており、日本においても1990年代に船舶技術研究所(現海上技術安全研究所)が研究を行っていたということです。もしかしたら将来的にはもっと研究が進み、東京オリンピックごろには案外と東京湾を飛んでいるかもしれません。

さて、ドイツで開発されたドルニエDo Xのほうですが、乗員10名、正規の乗客150名、そして、なぜだかよくわかりませんが、密航者9名を合わせて169名を乗せたそのデモフライトは、1929年に実施され、大評判を呼んだといいます。

その後、この飛行艇は、当時通常の飛行機でも困難といわれた大西洋横断飛行も成功させましたが、やはりエンジントラブルなどの問題点が多く、結局イタリア以外の航空会社から注文を受けることは無く、完成した3機以外には造られることはありませんでした。

その後、そのうちの一機がベルリンの航空輸送博物館に収蔵されましたが、第二次世界大戦中、1945年のドイツ空襲によって破壊され、ドイツ国内には現存する機体は一つも残っていません。

イタリアから注文のあった2機は、予定通り納入され、イタリアの民間航空会社がこの2機を使った運用を開始する予定であり、投入予定の航路も決まっていたといいます。

が、やはりエンジントラブルなどの問題があっためか実際には運行されませんでした。このため、イタリア空軍によって実験的な任務を与えられましたが、その結果からも実用性が低いと判断され、実験が終了すると、2機とも解体されてしまいました。

このため、現存するドルニエDo Xはひとつも残っていません。が、北海道の新千歳空港ターミナルビル一階に復元模型が展示されているそうです。そういえば昔出張でよく北海道へ行ったときに見たような覚えがあります。

こうしてイタリアもドイツも大型の飛行艇の実用化には失敗してしまいました。ただ、第一次世界大戦において、機動力の高い飛行機は実戦に用いられて大活躍し、海上だけの運用しかできない艦船に代わって大躍進を遂げていきました。

とはいえ、その活動範囲は陸の上空や陸地周辺に限られており、このためカプローニやドルニエのような航続能力の高い飛行機によって太平洋や大西洋を横断することには、依然各国とも大きな魅力を感じていました

このため、このイタリアやドイツで培われた技術を流用して、1930年代初め頃からは新たな飛行艇開発が各国で始まるようになりました。

こうして、多くの飛行艇の開発が成功するようになり、1930年代の中ごろには、まず地中海横断路線が実現し、その後北米から南米に向かう航路も開発され、ここに旅客機として飛行艇が投入されるようになりました。

まさに1930年代は飛行艇の黄金時代の幕開けであり、飛行艇こそがこの時代の大型機の主役でした。その最大の理由のひとつは、この当時にはまだ、大型機を滑走路で運用する際の着陸の衝撃に耐えうる強度の降着装置、つまり脚とタイヤの製造に関して高い技術がなかったためです。

そもそも、機体の大型化に対して複数の降着装置でもって対処するという思想がなく、この点、飛行艇であれば、着水時の衝撃は機体底部の全面で受け止めることができ、降着装置は不要でした。

こうして、アメリカではパンアメリカン航空が、南米路線用に「シコルスキー S-42」という飛行艇を導入して成功させ、やがて太平洋路線に対してもマーチン社が「マーチン M130チャイナクリッパー」という飛行機を開発したため、これが採用され、実用路線へ投入されました。

初めて大西洋路線に進出したのは、ボーイング社であり、「ボーイング314」という4発の大型飛行艇を就航させましたが、この飛行機の内装もまた豪華なことで有名であり、誰もがアメリカ・ヨーロッパ間の快適な空路の旅を満喫できたといいます。

一方、ヨーロッパにおいても、イギリスが「ショート・エンパイア」という飛行艇の初飛行に1936年成功し、この機体を使ってイギリス本国からエジプトを経由してアフリカやインド、香港までの路線を開設し、「日の沈むことが無い」大英帝国を築き上げるために貢献しました。

ハリソンフォード主演のアドベンチャー映画、「インディージョーンズ」にはこうしたこの当時の飛行艇がいくつか登場したかと思います。ご記憶の方も多いのではないでしょうか。

このころになると、日本でも「九七式飛行艇」という飛行艇が開発されていますが、この飛行艇は、軍用だけでなく民間用にも転用され、当時の統治領であったサイパン島などへの空路に使用されていました。

そのほかの各国海軍も飛行艇の利点に着目し、連絡・偵察・哨戒・救難・爆撃などの目的で単発から4発の各種の飛行艇を開発するようになり、これらはその後第二次世界大戦においても有用な輸送能力として活用されていくようになっていきました。

九七式飛行艇

戦時中に、日本海軍が開発した飛行艇に、「二式飛行艇」というのがありましたが、これは「九七式飛行艇」の後継機であり、当時の列強の飛行艇の水準を越えた優秀機だったといいます。

長い翼を持った4発飛行艇で、速度200ノット(370km/h)という高速時でも魚雷2発を搭載することができ、攻撃過加重状態(爆弾・弾薬などを積んで重くなる)でさえも航続距離は約5000kmに達したといいます。

それまで国内にあったどの飛行艇よりもすぐれ、当時諸外国が有した飛行艇の水準をはるかに上回る性能を持っていました。通称は「二式大艇」でしたが、輸送型は「晴空」と呼ばれていました。

この飛行艇を開発した「川西航空機」は、九四式水上偵察機、九七式飛行艇、二式飛行艇、紫電改などの数々の海軍用航空機を製造し、特に水上機や飛行艇の機種に定評を持っていました。

創設者の川西清兵衛は、明治29年(1896年)神戸の実業家27人を発起人として毛織会社を設立(日本毛織)。加古川沿岸に工場を建設して毛布製造をはじめたところ、戦時景気で軍用毛布等の売上が伸び、巨利を得ました。

この資金を元手に明治40年(1907年)、兵庫電気軌道(山陽電気鉄道の前身)を創業し、神戸と明石、姫路を結ぶ電気鉄道を開業。さらに大正に入ると、日本毛糸紡績会社を設立し、その後も昭和毛糸紡績、共立モスリン、山陽皮革、神戸生糸など多数の関連企業を創設して、いわゆる「川西財閥」を形成しました。

当初、川西財閥は中島飛行機に出資していましたが、やがて中島の技術者を引き抜く形で、1920年に川西機械製作所(神戸市・兵庫)を発足させ、飛行機部を設置。8年後の1928年(昭和3年)に飛行機部が川西航空機株式会社として独立しました。

当初はイギリスのショート・ブラザーズ社と提携し、同社設計の飛行艇、もしくはその改良型を生産していましたが、その後独自の努力によって、川西製飛行艇の決定版とも呼べる二式飛行艇を開発したのでした。

第二次世界大戦終結にともない、GHQ指令によって航空機の製造が中止になったため、川西航空機も航空機を製造できなくなりましたが、1949年(昭和24年)に「新明和興業株式会社」へ社名を変更しました。

その後は航空機で培った技術で民需転換に成功し、天突きダンプ、じん芥車、水中ポンプ、機械式駐車場、理美容機器などの、航空機以外の分野でユニークかつ多彩な製品を持つメーカーとして現在も存続しつづけています。

さらにその後、「新明和工業株式会社」に再度名称変更しており、名高い初の国産旅客機「YS-11」を製造したのもこの会社です。このほか現在も自衛隊の飛行艇、PS-1、US-1、US-2などの航空機を製造しています。

この新明和工業の前身の川西航空機が開発した二式大艇は、最高速度240ノット(444km/h)以上の速度を持ち、これはこの当時の海軍の主力戦闘機、九六式艦上戦闘機(堀越二郎が開発)と同等の速度であり、同時期のイギリスの4発飛行艇サンダーランドの最高速度336km/時と比べると100km/時以上速いものでした。

航続距離もまたすごく、偵察時7400km以上、攻撃時6500km以上であり、いずれも陸軍の大型機であった一式陸上攻撃機やB-17爆撃機の5割増の距離になります。

B-29爆撃機と比べても、航続距離は30%近く長かったといい、無論B-29ほど大型ではありませんでしたが、その技術を流用すれば、日本は十分にアメリカ本土を空爆できるほどの性能を持った大型爆撃機を保有していたことでしょう。

ちなみに、日本帝国陸軍は、「富嶽」という超大型爆撃機の設計製造を川西飛行機のライバル、中島飛行機に命じましたが、戦況が悪化する中、この飛行機の開発は途中でとん挫しています。

二式大艇はさらに、20mm機関砲多数を装備した強力な防御砲火と防弾装甲を持っており、雷撃を容易にするための小型機並の良好な操縦性をも兼ねそろえていたといい、加えて1t爆弾または800kg魚雷2発の搭載が可能であり、中型爆撃機としても使えました。

飛行艇は、陸上機に比べると水面からの離着水のために「船」と「飛行機」の性質を併せ持たねばならず、機体は大きくなりがちで艇底の形状も空気抵抗が大きく、速度において陸上機より不利になりがちです。

しかし、その開発にあたっての海軍側からの要求は、陸上機なみの攻撃力を備え、大航続力をもった高速機という、当時の飛行艇の水準をはるかに超える過酷なものでした。

が、製作担当の川西航空機には、堀越二郎と同じく、東京帝国大学工学部航空学科卒の「菊原静男」という俊英技師がおり、彼が設計主務者に任命され、彼を中心としたプロジェクトチームが設計制作を開始しました。

そして、1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦が勃発、日米の緊張も高まる中1941年(昭和16年)3月に試作1号機が完成し、翌年の1942年(昭和17年)2月に「二式飛行艇11型H8K1」として海軍での制式採用が決定しました。

二式飛行艇には、当時最強といわれた三菱の「火星シリーズ」と呼ばれるエンジンが搭載され、適切なプロペラ設計と細長い主翼に狭い胴体が特徴でした。一般の飛行艇の胴体は、着水時の安定性を考慮し幅広に作られていましたが、本機では空気抵抗を減らすためスリムになり、幅を抑える一方で背の高い独特な形状となりました。

軽量化と強度を両立するため波板構造や零式艦上戦闘機と同じ超々ジュラルミンが採用され、操縦性を良くする親子フラップの採用や、胴体前部下面の波消し装置(通称かつおぶし)が採用され、滑走中に生じる波飛沫を大幅に抑えることに成功しました。

このほかの機内設備としては機体前後部や上部の銃座は大型の20mm機銃に合わせて動力銃座を採用。胴体や主翼に搭載された全14個、合計17080(ℓ)の燃料タンクには、他の海軍機には見られないような防弾カバーが施されました。

索敵や哨戒では24時間近い長距離飛行を行うことから便所や仮眠用のベッド、食品を保管する冷蔵庫も設けられていたといい、無線室も胴体前部と後部の2か所にありました。

唯一の欠点は、防水塗料の粗悪さから水密が不完全だったことで、事故予防のためにも底に溜まった水をバケツで汲み出す作業は欠かせなかったといい、戦争終盤になると機体疲労が進み、水漏れの傾向に拍車をかけたといいます。

太平洋戦争直前に開発が間に合ったことから、戦争に突入するやいなすぐさま各地の戦線に投入されるようになり、大型でありながら高速で充分な防御火器を装備した本機は連合国パイロットから「フォーミダブル(恐るべき)」機体と呼ばれるようになりました。

制式採用直後の1942年(昭和17年)3月4日には、大航続力を生かして3機で真珠湾を再空襲した「K作戦」が実施され、これが二式大艇の初の実戦となりました

しかし、この作戦では、上空の視界の悪さや急遽の灯火管制の為もあり、爆弾は真珠湾内のドックや燃料タンク、停泊中の船舶などの目標を外れて周辺の道路などに落下し、アメリカ側の被害は軽微でした。

その後も高速と航続力を生かしてエスピリッツサント島やオーストラリア本土、セイロン島、カルカッタといった長距離の偵察・爆撃に活躍しました。1944年以降は、既に有効な編隊を組む事すら難しくなっていた日本軍の他の多くの軍用機の中にあって、防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに連合軍にとって危険な相手であり、これ一機で十分な脅威でした。

B-25ミッチェルやB-17といった米軍大型爆撃機を積極的に追撃して撃墜したという逸話も残っており、その攻撃力から「空の戦艦」などとも呼ばれました。

1943年11月にはP-38ライトニング双発戦闘機3機と40分交戦した玉利義男大尉機が米軍機1機を撃退したものの、その後エンジン2基が停止し、230箇所被弾・1名負傷という状態ながらも無事に帰還したという記録が残っています。

このように頑丈な本機でしたが、戦況が悪化して制空権が奪われ、敵戦闘機の攻撃が増えると、さすがに米軍の最新鋭の戦闘機の速度にはついていけず、足の遅さに加え敵の圧倒的な火力に対して重防御も耐え切れず、消耗していきました。

比較的大型であったため、機体を短時間で退避、隠蔽させることも難しく、基地や水上に置かれたまま空襲で破壊されたものもあったといいます。

さらに川西航空機の生産力が局地戦闘機紫電改に集中したこともあって1943年末の時点で生産数が低下、1944年は二式大艇12型33機・輸送型「晴空」24機、1945年はわずか2機の生産でした。製造に大量の資材を使い、航空燃料の消費も多かったことも、生産打ち切りの一因とされています。

また二式大艇は、長距離の索敵・誘導任務、トラックやラバウルといった孤立した基地への強行輸送・搭乗員救出などを行ったこともあって、成果を挙げると同時に大きな損害も出しています。

補充も望めない中、第五航空艦隊(宇垣纏司令長官)所属の二式大艇はレーダーを搭載して夜間索敵に活躍したそうで、五航艦に所属していた二式大艇隊は、1945年の2月から終戦まで27機・約250名を失っています。

終戦時に完全な状態で残っていたのは二式大艇5機、晴空6機のわずか11機であり、うち8機は終戦から数日で処分、もしくは移動中の事故で失われたため、米軍から機体の引き渡しが通達されたときは、香川県三豊郡詫間の詫間基地に残されていた3機を残すのみとなっていたそうです。

ちなみに、ラバウルからブーゲンビル島へ向かっていたとき、米軍機に発見されて撃墜され、戦死した山本五十六連合艦隊司令長官が最後に搭乗していたのは、この二式大艇ではなく、陸軍の一式陸上攻撃機でした(海軍甲事件)。

そしてこの山本大将のあとを継いで連合艦隊司令長官となったのは古賀峯一海軍大将でしたが、この古賀大将が最後に搭乗したのが、この二式飛行艇の輸送機型「晴空」であり、古賀大将はこれに乗っていて殉職しました(海軍乙事件)。

この飛行の直前、古賀長官の搭乗機は燃料給油中だったそうで、7割方の給油が終わったとき、突然空襲警報があったため、急きょ離陸することになりました。が、折悪しく、熱帯低気圧が付近を通過しており、古賀大将の搭乗機はこの低気圧による擾乱に巻き込まれて墜落しました。

ところが、この空襲警報は誤報であったといいますから、運が悪かったとしかいいようがありません。しかも、このとき通信科・暗号・気象関係員などが搭乗した別の二式大艇も同行していましたが、この僚機もまた熱帯低気圧に巻き込まれてセブ島沖に不時着しました。

搭乗していた乗員は9名は泳いで上陸しましたが、ゲリラの捕虜となりました。このとき彼らは、作成されたばかりの連合艦隊の機密作戦計画書や司令部用信号書、暗号書といった数々の書類を所持していたといい、これらの最重要軍事機密のすべてをゲリラに奪われてしまいました。

この文書はその後、オーストラリアのダーウィンにあるアメリカ海軍基地に運ばれ、そこからブリスベーンに空輸され、ブリスベーン郊外にある連合国軍翻訳通訳部においてアメリカ陸軍情報部より派遣された5人の主席翻訳要員によって翻訳されました。

文書は暗号ではなくプレーンテキストの形態であったといい、翻訳された文書は、ダグラス・マッカーサーのもとへ急送され、マッカーサー通じてチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官まで直ちに送り届けられました。

これによって、帝国海軍による陽動作戦はアメリカに筒抜けとなり、その後のマリアナ沖海戦でアメリカ側に勝利を奪われた原因になったといわれています。

さて、終戦になったとき、二式大艇は、全タイプ合計167機以上生産されたうち、残っていたのは3機だけでしたが、そのうちの一機は移動中に不具合を起こして不時着し、島根県中海に海没処理されました。また別の一機の行方はよくわかっていませんが、ほかに残っていた機体同様、解体処理されたと思われます。

ただ、残る一機はアメリカに引き取られ、本土まで送られて性能確認試験が実施されたそうです。その試験飛行においては圧倒的な高性能を見せ、アメリカ側を驚かせたといい、米軍のある指揮官に「飛行艇技術では日本が世界に勝利した」と言わしめたといいます。

その後この機体は試験終了後、長らくバージニア州にあるノーフォーク海軍基地で厳重に保管されていたそうです。が、1959年(昭和34年)に一度返還話がもちあがりました。しかし、このときは日本へ輸送する良い手段が見つからなかったため、米海軍は合衆国内で永久保存の方針を日本側へ伝えたといいます。

しかし、その後、1978年(昭和53年)6月にアメリカ海軍の経費削減で保管終了が決定になり、「日本で引き取る」もしくは「スクラップ」を日本側で選択することになりました。その結果、今はもう営業をしていませんが、お台場にある「船の科学館」が引き取りを表明。この結果、1979年(昭和54年)に日本に返還されることになりました。

整備を経て1980年(昭和55年)7月から展示が開始され、その後も長らく野外展示されていましたが、2011年に船の科学館の休館が決まったことなどから、2004年(平成16年)からは鹿児島県鹿屋市にある海上自衛隊鹿屋航空基地資料館で保管されることとなり、現在もここで野外展示されているそうです。

前述のとおり、この優れた飛行艇に投入された技術は、その後これを製作した川西航空機の後身会社である新明和工業に受け継がれ、新明和はYS-11や飛行艇、PS-1、US-1などの傑作機を作り続けています。

現在、新明和工業の最新鋭機は、US-2という飛行艇ですが、防衛省は2011年、このUS-2について民間転用で必要となる技術情報を開示する方針を固め、これにより新明和は同機をインドやブルネイなどの諸外国への販売を計画するようになっています。

防衛省・自衛隊は、仕様が民間機と変わらないため武器輸出三原則には抵触しないと判断しており、また、武器輸出三原則の定義そのものが2011年12月27日に変更されたため、武器であっても特定の条件および取り決めを満たした国には輸出可能となりました。

それらのことや、この新明和工業が戦後に造りだした優れた飛行艇のことについても書いて行こうかと思いましたが、今日は例によってまた度をすぎた分量を書いてしまっているので、とりあえず、やめにしたいと思います。またの機会をご期待ください。