月見か月旅行か

だんだんと涼しくなってきました。

ここ伊豆での日中の最高気温は、ほとんど30度を上回ることもなくなり、我が家のあるこの山の上の夜間気温は22度程度まで下がります。

今日から一週間のちの来週の19日は、もう中秋の名月だそうで、これは「八月十五夜の月」といい、旧暦の8月15日から16日の夜にお月見をする風習です。

かつては8月14日~15日、16日~17日の夜をそれぞれ「待宵(まつよい)」「十六夜(いざよい)」と称して、名月の前後の月を愛でていましたが、新暦に変わった今ではこれらは9月のことになりました。

平安時代頃には、仲秋の十五夜に月見の祭事が伝わると、貴族などの間で観月の宴や、舟遊び(直接月を見るのではなく船などに乗り、水面に揺れる月を楽しみながら歌を詠み、宴を催すのが流行ったそうです。

最近の日本でも、ちょっと前までは、月が見える場所などに、薄(すすき)を飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、御酒を供えて月を眺めることなども行われていたようですが、現代社会ではもうそこまでやる家庭もほとんどないでしょう。

私も月見は好きですが、焼酎を飲みながらスルメをかじるのがもっぱらであり、団子などお供えしたことはありません。また、別に満月に限る必要はありません。月夜の晩に空を見上げながら酒を飲むのもまた風流です。

しかも、当たり前のことですが、満月はこの「十五夜の月」で終わりというわけではなく、旧暦の9月には、さらに「九月十三夜」というのがあり、これは八月十五夜の月に対して「後(のち)の月」と呼ばれます。このころには秋も更に深まり、ちょうど食べ頃の大豆や栗などを供えることから、この夜の月を「豆名月」または「栗名月」とも呼ぶようです。

江戸時代の遊里では、十五夜と十三夜の両方を祝い、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見」または「片見月」と呼んで縁起が悪い客として遊女らに嫌われたそうです。

遊女にしてみれば客にはできるだけたくさん来て欲しいものですが、最初の十五夜に来る客を歓迎したそうで、それは十五夜に誘われた相手は、遊女に嫌われたくないため、次の十三夜にも来る確率が高い、という理由だったようです。

更にお月見はこれで終わりではなく、旧暦の10月にはもう一度「十月十夜の月」というのもあり、これは、「中秋の名月」と「後の月」に対しては「三の月」ともいい、この夜にみる月はその年の収獲の終わりを告げるとされていたそうです。

現在では11月のことであり、この名月が終わればいよいよ冬支度ということで、今年ももう終わりか、という気分にそろそろなってくるころのことです。

この三度目のお月見を含め、年内にはまだあと3回もお月見ができるとなれば、一回くらいは雨にたたられてもいいか、という気にもなります。実際、9月には秋雨前線が残っていることもあり、来週のお月見が果たして実現できるかも微妙なところでしょう。

ま、来週月見酒が飲めなくても、そのあと二回まだ名月を見るチャンスが残っているというのは、なんというか安心感があります。長い人生、楽しみはたくさんあるに越したことはありません。

ところで、先日の新聞に、Googleが主宰する「Xプライズ」という財団が、民間による最初の月面無人探査を競うGoogle Lunar X Prize(GLXP)というコンテストを提唱しているという記事が載っていました。

この財団は、2004年にもAnsari X Prizeという賞を設けたコンテストを実施しており、これは民間初の有人宇宙飛行を競うというものでした。

このときには、世界中の各地から26チームが参加し、2004年10月4日に規定の条件を最初にクリアして高度100kmの有人宇宙飛行に初成功した、アメリカのスペースシップワン (SpaceShipOne) が賞金の1,000万ドルを見事に獲得しました。

この次なる目標としてXプライズ財団が提案したのが、上述のGLXPであり、民間が開発した無人探査機で月面を探査することを提案し、2007年9月にアメリカでコンテストがスタート。2015年12月31日が締め切り予定で行われ、規定の条件をクリアしたチームに最高賞金2000万ドルが与えられるそうです。

この優勝賞金2000万ドルは、2015年12月31日までに月面に純民間開発の無人探査機を着陸させ、着陸地点から500m以上走行し、指定された高解像度の画像、動画、データを地球に送信したチームに贈られます。

ただし、政府または国家主導の月面探査機が先に着陸した場合、賞金は1500万ドルに減額されるそうです。このほか、優勝チームの次に同様の指定ミッションを成功させた場合でも準優勝として500万ドルに贈られるといいます。

さらに、以下のミッションを達成したチームにそれぞれ特別賞金が加算されます。ただし、複数成功させた場合でも上限は400万ドルだそうです。

・アポロ計画で月面に残した機器を撮影する(賞金400万ドル)。
・アポロ計画以外の過去の宇宙開発で月面に残した痕跡を発見する(賞金100万ドル)。
・着陸地点から5000m以上走行する(賞金200万ドル)。
・月面の夜を乗り切る(月面は14日昼間が続いた後、14日間太陽が当たらない夜の期間になり温度は-170℃の厳しい環境になる。賞金200万ドル)。
・月面で水または氷を発見する(賞金400万ドル)。
・個性的な設計を行ったチーム(賞金100万ドル)。

既に世界中から参加を表明したチームが前回のAnsari X Prize のときと同じ26チームもあり、その国籍はアメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、デンマーク、ルーマニア、マレーシア、中国など様々ですが、各団体のバックボーンは、企業、大学などさまざまです。

日本からも唯一、White Label Spaceという日欧混合のチームが参加を表明しましたが、ランダー(月面探査車)の開発を担当していた欧州チームが撤退したため、現在は日本単独のチームとなり、今年の7月に「白兎」に由来する「ハクト」という名前にチーム名が変更されました。

新聞で私が読んだのはこの「ハクト」に関する記事であり、現在開発中の月面探査車の写真とともにその奮闘ぶりが記載されていました。ホームページを作り、さかんにスポンサーの募集や、新聞等メディアへの呼びかけを行っているようですが、2015年といえばあとたったの2年です。間に合うのでしょうか。

ま、もっとも、関係者たちは、実現しなかったとしても、その開発の過程で得るものは大きいと考えていらっしゃるようです。

ホームページにも、「宇宙ビジネスを飛躍的に活性化し、ワクワクする宇宙開発への道を切り拓きます。(中略)多くの人々が自分の想像の枠を取りはらい、 宇宙開発に限らず夢に向かって行動を起こすためのキッカケを与えることができると信じています。」と書かれています。

このチームも含め、世界各国のチームが、2015年の締切を前にして奮闘していることかと思いますが、果たして、2004年のスペースシップワンのように民間の団体が高いハードルを乗り越え、月探査を実現できるかどうか注目されるところです。

ところで、民間の団体ではなく、国家レベルの月探査計画はどうなっているかというと、まずアメリカは、ジョージ・W・ブッシュ大統領が2020年までに再び月に人類を送り込む計画を発表し、NASAにより「コンステレーション計画」というものを発表しましたが、結局予算の圧迫などを理由に中止されています。

アメリカの目標はその後火星のほうに向いており、当面は月面探査のほうへは行きそうにありません。

このほかでは、欧州宇宙機関 (ESA)、中国国家航天局 (CNSA) 、インド宇宙研究機関 (ISRO) などが一応、月探査計画を持っており、日本の宇宙航空研究開発機構 (JAXA)も計画があるようですが、アメリカのアポロ計画のように人を月に送り込む、というのはかなり遠い将来計画のようです。

ただ、中国は月面探査にかなり積極的な姿勢をとっており、近いうちに月面へ人を送り込み、ヘリウムの同位体であるヘリウム3の発掘を行って、将来的にはこれを地球に持ち帰り、エネルギー資源として用いることを狙っていると言われています。

日本ではLUNAR-AとSELENE(かぐや)の2つの無人探査計画がかつてあり、このうちの月探査計画LUNAR-Aでは「ペネトレータ」と呼ばれる槍状の探査機器を月面に打ち込み、月の内部構造を探る計画でしたが、5年前の2007年に計画中止が決まりました。

しかし、月探査周回衛星計画であるSELENEのほうは、月の起源と進化の解明のためのデータを取得することを目的に2007年9月14日に実際に探査機が打ち上げられ、2009年6月11日まで月を周回してデータを集め、詳細な月のマップを完成させたのは記憶に新しいところです。

現在のところ、日本はこのSELENE 計画の後継として、SELENE-2(Selenological and Engineering Explorer-2、セレーネ2)という計画を持っており、これは2010年代半ばに月着陸探査機の打ち上げを実現しようとするものです。

SELENE計画で打ちあげられた月周回衛星が「かぐや」と呼ばれたことから、この月着陸探査機は「かぐや2」と称される予定のようです。

実は日本は、探査機を一度月に到着させており、これは「ひてん」という衛星でした。1992年1月に打ち上げられ、その後11回をも月に接近して観測を行った後、1993年4月10日に月のステヴィヌス・クレーターとフレネリウス・クレーターという二つのクレーターの間に衝突させ、計画は終了しました。

この衝突は意図的なものであり、当然「ひてん」はバラバラになってしまったため、月面からのデータなどは何も得られていません。が、この月突入の際に得られた技術は、この後打上げられた磁気圏観測衛星GEOTAIL(ジオテイル)や、火星探査機のぞみ、またかの有名な小惑星探査機「はやぶさ」等の運用に活かされました。

この「ひてん」の「月面着陸」は、いわば「硬着陸」でしたが、今度の「かぐや2」では、日本初の月面軟着陸が行われる計画であり、誤差100mという高精度での軟着陸を目指しているそうです。

この計画では、着陸機やここから放出されるローバー(月面探査車)による地質学的、惑星物理学的なその場観測を行い、月の表層や内部構造について調査を行う予定だといいます。

この探査車ですが、現在までのところ車輪使用型と無限軌道使用型(クローラまたはキャタピラーとも)の2つの候補が検討されていて、超音波モータを用いたマニピュレータや分光カメラ等が搭載される予定だといいます。JAXAの宇宙科学研究所のある、相模原市のキャンパスの一般公開日には、このモデル機が展示されることもあるそうです。

一方、つくば市にあるJAXAの研究開発本部でも別のローバーの開発が進められており、こちらは4つのクローラを装備した雪上車によく似た駆駆動系をもっています。ステンレス製の板バネをふんだんに使用することで軽量化に成功し、月面での低圧走行を可能としているといいます。

さらにはJAXAの宇宙科学研究所が明治大学や中央大学と共同で開発を進めているMicro5という5輪の小型探査車もあるそうで、これは、2分割の機体を持ち、5つの車輪によって十数cmの壁を乗り越えることが可能な高い走破性能を有しているといいます。

これら開発中の探査車のうちのどれが実際に月に行くのかはまだ決まっていないようですが、いずれにせよかなり開発は進んでいるようなので、その候補者が一般に公表されるのもそう遠くないでしょう。

一方、この探査ローバーを搭載する着陸機ですが、この着陸機自体にも観測装置が搭載されるということです。LUNAR-A計画はボツになりましたが、この計画が検討されていたときに開発された地震計を搭載し、「月震」などを観測する予定であるといい、月面の採掘による土壌調査も計画されているそうです。

このように、巷では日本は月探査計画とは無縁のように思われているようですが、計画だけは着々と進んでいます。

ただ、有人探査ということになると、かなりまだ先の話のようです。JAXAは2006年の「月周回衛星(SELENE)シンポジウム」において、2020年前後の有人月面着陸と、2030年前後の月面基地建設構想を明らかにしています。この月面基地は定員が2~3人で、居住棟、発電・蓄電システム、研究施設などから構成されるとしています。

しかし、2020年といえば先日東京オリンピックの開催が決まったばかりであり、この開催地の整備のために多額の資金が必要とされる中で、果たして実現が可能なものかどうか、あやしいところです。2030年のほうが現実的といったところでしょう。

アメリカは既にアポロ計画で月の有人探査を実現していますが、これに次いで最も早くに有人探査を実現させるのではないかといわれているのがロシアであり、ロシア連邦宇宙局は2007年8月、2025年までの有人月面着陸と、2028年~2032年の月面基地建設を柱とした長期計画を発表しました。

2028年といえば15年先です。私もかなり高齢になっているでしょうが、まだまだ達者なはずです。ロシアはこれまでも何人もの日本人を宇宙へ運んでいますから、もしかしたらこの月面探査のときに日本人宇宙飛行士が便乗するといったこともあるかもしれません。

そのころにまだ日本とロシアとの関係が友好的であったらという条件付きですが。

ただ、月の表面というのは、我々が考えている以上に過酷な環境のようです。宇宙線や太陽風なども大気や磁場にさえぎられることなく月面に到達するため、月面の有人探査や月面基地建設、月の植民に際しては、これらを阻止する必要があります。

また、大気や水(海)などの熱を対流させて均衡化するものがないため、月の一昼夜が長く、およそ29.5地球日、つまり約15日間昼が続き、その後夜が約15日間続きます。このため、表面温度は、赤道付近で最高およそ110℃、最低およそ-170℃となっており、温度の変化が大きいのが特徴です。

こうした月の表面に基地を作るのは容易ではありません。このため、月の「地下」にコロニーを建設し、放射線や微小隕石からの保護を得るのが有力な案と考えられています。

そのためには、居住棟を掘るための遠隔操作のボーリングマシンといったものが必要になり、また月の表面に存在する利用可能な資源からコンクリートのような物質を作り出すための特殊な硬化剤のようなものの開発が必要と考えられているようです。

掘る以外の手段としては、月に存在するかもしれない地下の枯れた巨大な溶岩洞が考えられているそうで、2009年に日本のかぐやが観測した月面データでは、その分析により、こうした基地に適した溶岩洞のような縦穴の存在が確認されているといいます。

その他にも、生命の維持のための水の確保、エネルギーの調達、輸送手段などなど問題は山積みですが、それらすべてがクリアーになるのはいったいいつのことやら。

現在、有人宇宙飛行で月に到達するだけでも莫大な費用がかかり、それに対する成果も少ないため、月探査は無人探査機を用いることが主流となっています。が、それでもやはり有人探査の方が成果は高いと考えられているようです。

その理由は、こうして苦労して作られる月面基地の建設によって、その有人探査を阻む問題が解決され、費用対効果が明らかになるためです。要するに作ってみて初めて色々な問題がわかり、そのためにかかる費用もわかり、費用がわかるからこそその将来も見えてくるというわけです。

また、月面に有人の基地があれば、月に関する詳細なデータを収集することができ、さらには他の惑星への有人探査の足がかりとすることもできる可能性があります。

さらに、月面基地が完成し本格的な稼働を始めれば、月への人類の移住の可能性も見えてきますし、それに伴う新たな資源採掘が進めば人類のエネルギー問題にも明るい兆しが見えくるでしょう。

また、月の重力は地球の約6分の1であるため、宇宙ステーションなどの無重量状態とはまた違った実験が出来る可能性があり、思いもよらないような発見により人類の科学技術は飛躍的に高まる可能性だってあるのです。

……といったところで、これらのことが実現するまでには私も、おそらくこれを読んでいる方々も生きてはいないでしょう。

すべては来世に生まれ変わったころのことでしょうし、しかも来世にまた再び地球に戻ってこれれば……の話です。

いっそのこと、地球になど生まれ変わらずに、別の星で次の一生を迎えれば、また別の面白い「宇宙体験」ができるかもしれません。そしてその世界は我々が現在「宇宙人」と考えている生物が住んでいる世界かもしれません。

そう考えると、苦労して宇宙旅行をしようとしている現在の人類の試みもなんだかちっぽけに思えてきました。宇宙は広い。月もまた、その宇宙のほんの一角にすぎない衛星です。

でも、中秋に見えるそんな丸い月は、宇宙一美しいものかもしれません。別の星に生まれかわったとき、ふとその前世で見た月のことを思い出し、あぁやっぱり地球の月のほうが美しかったと思うかも。

なので、生きている間は、この星の月見をせいぜい楽しむことにしましょう。さて、今年の月見にはどんな酒を飲もうかしら。今から楽しみです。

7年後……


東京オリンピックの開催が決まりました。

ひねくれ者の私ですら、喜んでいるくらいですから、おそらくは、国民の大多数が喜んでいると思います。が、大震災と津波の大被害にあった東北地方では、これから急ピッチで始まるであろう東京でのインフラ整備によって、復興の歩みが遅れるのではないかという懸念が広がっているようです。

福島原発の問題もまだ解決されていない中、いつまでも浮かれていてはいけません。東北の復興があってこそ、楽しく迎えられるオリンピックだと思います。

それにしても、これからの7年間、東北の復興に加えてオリンピックという新たな課題を抱えた日本はいったいどこへ行くのでしょうか。

おそらくは東北の再整備と東京での新規基盤づくりで、ありとあらゆるものが新しくなり、そうした「建設」をキーワードとした一時代になっていくに違いありません。東京オリンピックが開催される2020年までにはいろんな事業が加速していき、直前までそのバタバタは続くに違いありません。

そこで、ちょっと気になり、1964年にはオリンピックの直前までにどんなことがあったのだろうかを調べてみることにしました。以下は、必ずしも「建設」にこだわらず、その時代を反映したものを、私なりに抽出してみたものです。

1月
・森永製菓が日本初の高級チョコレート「ハイクラウン」を発売し、大ヒット商品となる。
・日本政府、公共料金値上げの1年間凍結を発表(景気高揚のため?)。
・第9回冬季オリンピック・インスブルック大会(オーストリア)開幕。
・連続殺人犯西口彰を逮捕(「復讐するは我にあり」で有名。5人を殺傷し、のち死刑)

2月
・ビートルズが初訪米(初来日は2年後の1966年)。
・日本国有鉄道で、新幹線以外の列車指定席のコンピュータでの予約が可能となる。

3月
・花王石鹸が「花王スターチ」を発売(2年後に「キーピング」に改称)。
・本田技研工業が「S600」を発売。
・早川電機(現 シャープ)が、日本初の電卓、世界初のオールトランジスタ・ダイオードの電卓(電子式卓上計算機)を発表(レジ並の大きさで重量25kg。価格は自動車並み)
・ライシャワー米大使が日本人少年に刺され負傷(ライシャワー事件)。

4月
・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き。
・IBM、汎用コンピューター「System/360」を発表。
・東京12チャンネル(現在のテレビ東京)が開局。
・富士航空ら3社が合併して、日本国内航空(のちの日本エアシステム)を設立。
・東洋工業が「ファミリア」ワゴンを発売して好評(10月には4ドアセダンも発売)
・週刊誌「平凡パンチ」が創刊。

5月
・ライオン歯磨が「デンター」を発売。
・東京都世田谷区で竜巻が発生。家屋450戸以上が被害を受ける。
・富士スバルライン開通。
・パレスチナ解放機構 (PLO) 設立。

6月
・三菱系3社の合併により三菱重工業発足。
・山形空港開港。
・太平洋横断海底ケーブル完成。池田勇人首相とリンドン・ジョンソン米大統領が初通話。

7月
・外務省、パスポート発給業務を都道府県に移管。
・「全国子供電話相談室」放送開始
・名神高速道路尼崎-栗東間開業。

8月
・大島空港開港。
・トンキン湾事件発生(北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍駆逐艦を攻撃。これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した)。
・東京・羽田に羽田東急ホテル開業(羽田エクセルホテル東急の前身)。
・俳優の高島忠夫の長男が家政婦に殺害される(「高島忠夫長男殺害事件」)。
・営団地下鉄日比谷線全線開業。
・日本人初のメジャーリーガー誕生(サンフランシスコ・ジャイアンツの村上雅則)。

9月
・ホテルニューオータニ、東京プリンスホテル開業。
・アジアで初となる国際通貨基金及び世界銀行総会が東京で開催される。
・道路交通に関するジュネーブ条約に加盟、日本人の国際運転免許証の利用が可能となる。
・福岡県粕屋町で自衛隊のヘリが墜落、愛知県犬山市上空で航空自衛隊の戦闘機が衝突、埼玉県岩槻市で、航空自衛隊リコが墜落するなど自衛隊機の墜落相次ぐ。述べ14人死亡。
・気象庁富士山レーダー完成。
・東京モノレール開業(片道250円)。
・大阪市営地下鉄御堂筋線の新大阪駅 – 梅田駅間が開業。

10月
・東海道新幹線開業(東京~新大阪間。運賃はひかり2480円、こだま2280円)。
・伊豆スカイライン開通(1日)。
・日本武道館開館(3日)。
・九州やまなみハイウェイ開通(4日)。
・第18回夏季オリンピック(東京オリンピック)開催、開会式(10日、24日閉会)。
・コスイギンがソ連閣僚会議議長、ソビエト連邦共産党第1書記にはブレジネフが就任
・池田勇人首相、東京オリンピック閉会式の翌日に退陣を表明。

11月
・公明党が正式発足。
・アメリカ合衆国大統領選挙で、民主党のリンドン・ジョンソン大統領が再選される。
・仙台空港開港。
・東京パラリンピック開催(8日)。
・自由民主党第5代総裁に佐藤榮作が指名され、首班指名を経て佐藤政権発足。
・アメリカ、火星探査のためにマリナー4号を打ち上げる。

12月
・東京都立駒沢オリンピック公園開園
・帯広空港開港。
・世界貿易センタービルディング設立(浜松町)。

こうしてみると、1964年というのは、年明け早々から結構重要事件の多い年であり、連続殺人犯の逮捕や、高島忠夫長男殺害事件、相次ぐ自衛隊機の墜落や竜巻などの災害など暗い事件もそれなりに多かったようです。

その一方で、その後の高度成長時代の先駆けを思わせるような新しい時代の工業製品の発売も相次いでおり、この時代を代表する新鋭の自動車や電卓などの発売が相次ぎ、ようやく戦後の復興が軌道に乗った感があり、国民の誰もがその足取りの軽快さを感じ始めていたことでしょう。

ただ、海外に目を向けると、アメリカは泥沼のベトナム戦争へと突入し、ソ連ではブレジネフが登場するなど、両国は冷戦時代へと確実に足を向けはじめています。

そんな中で、日本人の海外観光渡航自由化となり、これを受けてパスポート発給業務が都道府県に移管されたり、国際運転免許証の利用が可能になったりと、戦後になって日本人がようやく海外へ飛び立とうとする機運も高まり始めています。オリンピックの開催は日本人の国際化にさらに拍車をかける出来事だったでしょう。

冒頭で述べた「建設」についても、直前になって東急ホテルやニューオータニ、プリンスといったホテルが開設され、各地で地下鉄やモノレール、高速道路の開通のほか、外国からの観光客を見越してか、「伊豆スカイライン」や「やまなみハイウェイ」などといった観光道路も開通しています。

しかし、やはり大きかったのは東海道新幹線の開業でしょう。この開通によって、いよいよオリンピックの準備が整い、あとは待つだけ、という気分になったに違いありません。

ちなみに私はこのころまだ小学校へ入学前であり、オリンピックをテレビで見たかどうかも記憶が定かではありません。

調べてみるとこのころまだカラーテレビは一般化していませんでしたが(1967年から放映開始)、白黒テレビの普及率は90%近くになっており、建設省で電気関係の仕事をしていた父のことですから、おそらくは早々とテレビを入手していたはずです。

そこでさらに調べてみると、この年にはNHKの「ひょっこりひょうたん島」の放映が始まっており(1964年4月6日~1969年4月4日まで)、このほかにもテレビアニメとしては、「0戦はやと(1月)」「少年忍者風のフジ丸(6月)」などが次々と放映開始され、また8月には手塚治虫原作の「ビッグX」の放映も始まっています。

このほかにも「忍者部隊月光」なんてのも放映されており、これらの番組はいつも毎回欠かさず見ていたことは覚えていますから、オリンピックもおそらくは見ていたはずです。

さらにこの年のNHK大河ドラマは、「赤穂浪士」であり主演は長谷川一夫とあって、きっと高い、視聴率を得ていたことでしょう。このほか「木島則夫モーニングショー」などが人気があったようで、現在も放映されている「ミュージックフェア」(フジテレビ)などもこの時すでに放送されていました。

こうした大人向けの番組もなんとなく見たことがあるような気がするのに、オリンピックの放送だけははっきりと見たような記憶がないのは、ひとえにこうしたスポーツ競技にはあまり興味を持っていなかったということなのでしょう。

考えてみれば、大の大人が走ったり跳んだりするようなものを、小学生にもなっていない私が面白がってみるわけはなく、おそらくは興味を持って見ていたとすれば、華々しい開会式ぐらいだったのではないかと思われます。

そういえば、延々と大名行列のごとく各国の選手団が国立競技場に入場してくる様子をテレビで見たような気がしてきました。後年の記録放送を見たのを思い出しているにすぎないのかもしれませんが。

が、悲しいかな、ほかの本番の競技ではどんなシーンがあったかなどもほとんど思いだせず、この当時に記録されたバレーボールの試合映像などを最近になってみて、あぁそういえば東洋の魔女ってあんなだったかな~とおぼろげながらな記憶を辿る始末です。

おそらく私と同世代の人達もまた似たりよったりでしょう。ちなみに同い年のタエさんにもそのことを聞いてみましたが、彼女もまったくといっていいほど覚えていませんでした。

ちなみに、この年には、1月にオーストリアのインスブルックで冬季オリンピック開催されており、この様子もテレビで放映されていたはずですが、これに至っては、まるで私の記憶からは抜け落ちています。

このオリンピックでは日本は一つもメダルをとっておらず、前評判も低かったためにもしかしたら放映すらされなかったのかも、とも思いましたが、無論そんなわけはありません。

調べてみると、このときには、早稲田大学1年生の福原美和選手が、フィギアスケートシングルで5位に入賞したのと、同じく大学生で明治大学に所属していた21歳の鈴木恵一選手も500mスピードスケートで5位に入ったのが最高位だったようです。

ちなみに後年の金メダリストの笠谷幸生選手はこのとき明治大学在学中の20歳であり、90m級ジャンプで11位に入っていますが、日本のジャンプ陣ではこれが最高位でした。

このほか、野球では日本シリーズで南海ホークスが優勝し、大相撲では初場所と、秋場所、九州場所で大鵬幸喜関が優勝するなど、大活躍をしており、競馬ではシンザンが史上2頭目の三冠馬を達成しています。

残念ながら力道山はこの年の前年の暮れに喧嘩沙汰から刺殺されて亡くなっていましたが、これに代わってジャイアント馬場やアントニオ猪木が台頭し始め、テレビを賑やかせていました。

このプロレスは父が好きだったためか、私も釣られてよく見ていたような記憶があるのですが、いかんせん、ほかのスポーツについてはほとんど記憶がなく、何度も言うようですがようするにオリンピックも含めて興味がなかったのでしょう。

さらにちなみに、ですが、この1964年には石森章太郎の「サイボーグ009」が週刊少年キングで連載開始されており、また藤子不二雄の「オバケのQ太郎」も週刊少年サンデーで連載が始まっていて、このほか週刊少年マガジンとも併せ、私もよく漫画を読んでいました。

スポーツなどよりもこうしたもののほうがよっぽど面白かったのでしょう。子供向けの映画としても「モスラ対ゴジラ」「宇宙大怪獣ドゴラ」「三大怪獣 地球最大の決戦」などがこの年に封切られており、モスラ対……は見に行った覚えがあります。

さらに、歌謡曲としては、美空ひばりの「柔」や坂本九の「明日があるさ」、村田英雄の「皆の衆」、都はるみ「アンコ椿は恋の花」、ペギー葉山「学生時代」、ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」、園まり「何も云わないで」などなどがこの年のヒット曲です。

これらの曲の中には今でも歌詞を諳んじられるものもありますから、こうした歌手が出る歌番組もよく見ていたに違いありません。西田佐知子の「東京ブルース」なども流行り、この年は、タイトルに “東京” のつく楽曲が目立ったといい、これは東京オリンピックと無関係ではないでしょう。

こうしたことを書き連ねていると、不思議なことにこの当時のことがあざあざと蘇ってくるから不思議です。関連して、あそこで遊んだとか、どこへ行った、連れて行ってもらったはずだ、といったことも思い出され、まるで記憶の玉手箱のようです。

おそらくは私と同年代以上の方も同じではないでしょうか。


……さて、7年後です。この世がどうなっているかについては、想像がなかなか難しいところですが、これらの記憶を呼び覚ましてくれるのは、やはりこの当時既にあったテレビのおかげにほかなりません。

そこで、今後このテレビがどういう風に進化していくのか、について調べてみることにしました。

これについては、いろんな観測があるようですが、プレイステーション生みの親で、ソニー・コンピュータエンタテインメントの名誉会長だった久夛良木健(くたらぎけん)さんなどは、「みんなが想像するような“未来のテレビ”は、近い将来に実現できる」と語っています。

氏によれば、テレビはその配信先の端末の解像度や環境、ユーザーニーズに合わせ、超高精細な画像から低解像度の画像まで自在にエンコードして配信できるようになり、「壁面いっぱいのテレビからクレジットカードのように小さな有機EL端末まで、ありとあらゆるものが動画のインタフェース、という時代になる」ということです。

さらにはテレビから「枠」がなくなるといいます。未来のテレビでは、さらに没入感のある映像を楽しみたいという要望が増え、テレビが壁と一体化するようになるかもしれないとのことで、これを実現するための多視点からの映像撮影の実験はソニーなどではすでに行われているということです。

この技術を使えば、例えばサッカースタジアムにカメラを並べ、シュートの瞬間は、ゴール周辺のカメラからの映像をつなげて臨場感ある映像を楽しめるといったことも実現できるそうで、実験上は「夢の世界が、すでに実現している」といいます。

また、現在も既にパソコンとインターネットはつながっていますが、今後ネット上には、よりリッチな動画コンテンツが無限に増えていくと考えられます。

HD動画を撮影・ネット公開するハードルは現在よりもどんどん下がり、個人の気軽なホームビデオからプロ・セミプロの作品、放送局の制作した番組まで、あらゆる動画がネット上に蓄積され、こうしたものもテレビで自由に観れるようになるかもしれません。

映像の修復技術の研究も進んでおり、過去にVHSや8ミリビデオなどで保存しておいた古い映像をネットに上げ、修復・高画質化して保存するといったことも可能になってくるかもしれないといいます。

そうして世界中のあらゆる動画がネットに載り、動画の“クラウド化”が進んでさまざまなハードから閲覧でき、テキスト検索するように動画を検索できる時代が来るかもしれず、このころにはもしかしたら、テレビとコンピュータは完全に一体化し、現在でいう「テレビ」という概念はなくなっているかもしれません。

最終的にはワイヤレス化でケーブルがなくなり、脳波などでこうした「テレビ」を思った通りに操作できるようになる時代がくるかもしれず、リモコンがなくなり、本体は壁に埋め込まれて壁と同化しているかもしれず、「壁」になった未来のテレビはフレームがなく、壁全体がディスプレイになっているでしょう。

ただ、わずか7年先の時代にそこまで完成された技術があるかどうかはよくわかりません。日本でのテレビの普及率は現在97%を超えているそうなので、この現在のテレビの形態そのものが消滅しているということもまず考えにくいでしょう。

が、壁と一体化したテレビで大迫力の東京オリンピックを見ている家庭……というのは案外と多数あるかもしれません。

とはいえ、生きているうちにもう一度オリンピックを見る機会ができるわけですから、私もそうですが、もし可能ならば次回の東京オリンピックはじかに見てみたい、誰もがそう思うでしょう。

伊豆には2011年に完成したばかりの「伊豆ベロドローム」という立派な自転車競技用のトラックがあるので、もしかしたら東京オリンピックの室内自転車競技もここで行われるのでは……と期待していたのですが、どうもここでの開催はないようです。

はっきりしたことはまだ決まっていないようですが、自転車競技用のベロドロームは、東京オリンピックの関連施設が集中する東京都江東区有明に、木製自転車トラックと5000人収容のスタンドを備えた仮設のものを建設して開催する予定だそうです。

あくまで「仮設」なので大会終了後は、木製資材のリユースや、施設の移設を検討しているといい、仮設施設の工事費は、BMX会場とあわせて計65億円ほどだとか。

伊豆のベロドロームの建設費用が30億円程度だったといいますから、その倍以上かかるのは、ケイリン種目以外のBMXなどの競技も行うことを念頭に置かれているためでしょう。

せっかく、東京にも近い伊豆ですから、ここにそうした施設を現在の伊豆ベロドロームの隣にでも増設すればいいのに……と思うのですが、コンパクトな競技運営を売りにして勝ち取った開催ですから、さすがにそういうわけにはいかないのかもしれません。

ま、伊豆に来ないならば、こちらから見に行くしかありませんが、各種競技のチケットは今からもうかなり入手が困難だろうといわれているようなので、直接見ることのできる競技といえば、マラソンぐらいになってしまうのかもしれません。

だとすれば、高い費用を払って東京へ行くよりは、臨場感あふれる未来型テレビを買って自宅でオリンピックを見るほうが現実的かも……

まぁそれよりもまず、7年後まで生き延びることが大事です。たぶん生きているとは思うのですが、何があるかもわかりません。せいぜい現在の健康を保つことにしましょう。

皆さんも体に気を付けて7年後をお迎えください。

辛い物はお好き?

我が家では、週末になると買い出しに出ます。

一週間分の食料を買うことが主な目的ですが、半分気晴らしも兼ねています。その先は様々なのですが、その一つに伊豆市の中岩というところにある「農の駅」という農協が経営しているお店があり、ここでの主な販売品は野菜です。

伊豆のあちこちにはこうした農産物の販売所があり、観光客の中でも「伊豆通」の人はこうした場所で野菜を買って帰るようです。

ここで販売している野菜の特徴はなんといっても安さです。大きな大根やキャベツひとつが100円とか80円であることも多く、時にはアイスプラントなどの東京都内では高級野菜で知られるようなものもかなりの格安で販売しています。

ほかにも東京ではみられないようなめずらしい野菜も時折見られ(例えば空芯菜とか)、そうしたものにはお店の人が食べ方などのメモを添えてくれていて親切です。

この店では、静岡ならではのワサビは無論のこと、生姜やニンニクといった香辛料も安く手に入り、付近の農家さんが栽培した様々な種類のものが並んでいて、どれにしようかとこれを選ぶのもまた楽しいものがあります。

そんな香辛料の中に、先日「世界一辛い唐辛子」なるものも販売されており、このほかにも、お隣の国、韓国で一番辛いとされる唐辛子なども売っていました。

辛い物好きな私は、この両方を買ってみようかと思い、値段を見たら、それぞれたったの100円でした。しかも20本ほども唐辛子が入っていて、かなりの格安です。が、安いから傷物なのかというとそんなこともなく、それどころか新鮮そのものであり、家に帰って早速料理に使ってみましたが、プリプリでした。

が、さすがに世界一、韓国一というだけあって、その辛さは通常の唐辛子のそれをはるかに超えており、とくに世界一と称するもののほうは、たった一本を使うだけで、ほっぺたが腫れ上がるほどの辛さで、思わず水を5~6杯もがぶ飲みしてしまいました。

そこで、こういう香辛料というものはいったい世界にはいくつぐらいあるのだろうと思い、調べてみたのですが、あまりにも数が多くて数字での統計などはなさそうです。

が、香辛料は辛いものばかりとは限らず、カレーに使うスパイスなどでは、辛くないものなどもあります。加熱することで辛みがなくなるニンニクなどはその代表でしょう。

香辛料の歴史

この香辛料ですが、インドにおいては紀元前3000年頃からすでに黒胡椒やクローブ等の多くの香辛料が使われていたそうです。 ヨーロッパの人々の多くは、古くから肉や魚を多く食べていましたが、内陸まで食材を運んだり冬期に備えたりするためには、肉や魚を長期保存する必要がありました。

このためクローブや胡椒などに高い防腐作用があると考えたヨーロッパ人は、これらの香辛料を食材の保存のために使うようになり、やがてはその生活に欠かせないものになっていきました。

実際には胡椒などの防腐作用は小さいそうですが、ある程度の腐敗防止の効能はあり、また何よりもその香りが病魔を退治すると信じられ、食糧の保存剤として以外にも香として焚いて用いられることも多かったといいます。

さらには、ヨーロッパなどの水がそれほど豊富でない地域では、風呂に入るという習慣がそもそもなく、このため体の洗浄不足と肉食が相まって体臭が問題になり、香の強い香辛料はこのためにも役立ちました。

とくに、クローブ、ナツメグなどの香辛料はインドネシアのモルッカ諸島でのみで産出されたため、貴重なものでし。また胡椒はインド東海岸やスマトラ島で多く生産され、このため、これらの地域と交易を行なって香辛料を手に入れることが、ヨーロッパ人にとっては、重大な関心事となりました。

その欲求は、やがてヨーロッパの人々を世界進出に駆り立てていくことになり、造船技術や天文学などの科学技術の発達させ、これによって長期の航海が可能となったことで、大航海時代の幕が開けます。

やがてヨーロッパ人は大挙して新大陸やアジアに進出するようになり、これらの地域に植民し、現地住民に対して略奪、虐殺を行うようになるとともに、キリスト教への改宗をも強制するようになっていきました。

古代ローマ時代には既に、東洋の香辛料がインド経由でヨーロッパに輸出されており、その後の中世では、東洋とヨーロッパの中間地点にある中近東出身のムスリム商人がこの香辛料貿易を独占するようになりました。

ヨーロッパ諸国の中ではとくにヴェネツィア共和国が、エジプトのマムルーク朝やオスマン帝国の仲買人からの輸入を独占しました。

一方、ポルトガルはヴェネツィアに対抗しようと、香辛料貿易独占を打破するために喜望峰経由のインド航路を発見し、貿易を独占しようとしました。こうして全世界の海を駆け巡るようになってポルトガルはやがて日本を発見し、日本だけでなく中国との交易にも精を出すようになっていきました。

のちの新大陸発見後はメキシコ、ペルーにおける領域支配を中心としたスペインとともに世界を二分するようになり、こうして成し得た世界的なネットワークは、やがて「ポルトガル海上帝国」とまで呼ばれるようになりました。

また後年、同じく世界へ進出していったオランダもまた「オランダ海上帝国」といわれるような植民地支配と交易体制を敷いており、香辛料はこれらの国による世界の未開の地の発見のために大きく貢献したといえます。

ポルトガルは、当初は東側に向けて香辛料を求める進出を通づけていましたが、やがてスペインなどの他国との貿易の主導権の争いは熾烈なものとなっていったため、一部の人たちは西側にも目を向けるようになりました。クリストファー・コロンブスもその一人で、1492年にスペインから西に出帆しました。

コロンブスは、もともとはイタリア人だったという説もあるようですが、育ったのはポルトガルのリスボンであり、この地の貴族と結婚して財をなし、航海術や地図製作の技能もここで学んでいます。

しかし、その後スペイン王室に近づき、西回り航路の開拓を申し出たところ、イサベル一世がこれに興味を持ち、援助を受けることができるようになったため、コロンブスはスペイン国内で船と食料を調達し、西南部アンダルシアのパロス港から大航海に出発したのでした。

結局のところ、彼は香辛料の主産地であるインドやインドネシアには到達できませんでしたが、アメリカ大陸に到達し、その存在をヨーロッパ人に知らしめる結果になりました。

彼の本来の目的地はインドでしたが、このアメリカ大陸発見当初、彼はこことインドと勘違いしており、そこに住む先住民を「インディオ」と呼びました。このため、アメリカ大陸の先住民は現在に至るまでこの間違ったままの呼称で呼ばれるハメになりました。

やがて17世紀に入ると、オランダもアジアに進出してポルトガルと争うようになり、モルッカ諸島やスマトラ島を直接支配下に置きました。その後18世紀にもなると、香辛料はヨーロッパでも栽培されるようになり、やがて貿易における重要性は次第に薄れていきました。

日本における香辛料

このころにはもうありとあらゆる香辛料が格安に手に入るようになり、世界中の人々がこれらを使ってさまざまな料理を生み出していきました。

さて、それでは、日本における香辛料の輸入はいつこのころのことからだったのでしょうか。

日本が原産の古来からある香辛料といえば、ショウガやサンショウが代表的なものであり、古くは古事記中に「波士加美」、「波之加美」という記述が見られ、これは「はじかみ」と読みますが、これはショウガやサンショウといった当時の日本にあった香辛料類の総称です。

一方、輸入品はというと、756年に書かれた、大寺正倉院に遺る献納目録である「種々薬帳」には既に舶来生薬類の名が多く記載されており、中には「胡椒」や「畢撥(ヒハツ)」「桂心(=桂皮(ケイヒ))」などの名も見られるということです。

ヒハツというのはあまり聞き慣れない香辛料ですが、その果実はコショウに似た風味を持っており、ヨーロッパでは、コショウと同様にスパイスとして利用されていました。現代のヨーロッパの料理にはほとんど使われませんが、インドやインドネシア、マレーシアといった国ではいまだに料理によく使われています。

また、ケイヒというのは、シナニッケイというクスノキの仲間の樹木の皮を剥いで作った香辛料であり、この根っこからは、肉桂(シナモン)も採れます。

「種々薬帳」というタイトルからもわかるとおり、これらの香辛料類はまず薬品として日本にもたらされ、種類によってはその後長期にわたって漢方薬の材料などに使われました。

しかし、ヨーロッパ人のようにこれらを料理に用い、さかんに輸入・消費していくような気運は、結局日本では生まれず、その理由は昔の日本人は肉食をほとんど行わなかったためです。日本人は、こうした薬臭い香辛料よりも発酵調味料を積極的に利用したため、その後も長い間、香辛料への潜在的需要は低いままでした。

ただ、中世期になると、より身近な地産の草菜類を利用した、「薬味」「加薬(かやく)」などの概念が発展しはじめ、江戸時代には日本料理においては、この薬味が重要な立場を占めていくようになります。

当時の料理書には、大根・葱・紫蘇・芥子・生姜・山葵といった香辛料が特に薬味として好まれ多用されたことが書かれており、特にネギはやがて日本料理に欠かせない存在となり、ダイコンは大根おろしなどの形で大量に用いられました。

そのほかにも山椒、ゆずなどの日本古来の薬味が使われましたが、ヨーロッパの香辛料とも共通する唯一の例外は、前述の肉桂(シナモン)などでした。

胡椒も一時期、うどんの薬味として使われた事があるようですが、唐辛子の普及により結局廃れ、江戸時代にはほとんど使われませんでした。ただ、近畿などでは比較的使われることも多かったそうで、その名残で、現在でも関西では日本料理に胡椒が用いられることがあるそうです。

このように胡椒はあまり使われませんでしたが、唐辛子はそこそこ普及し、その後、日本独自のブレンド香辛料である七味唐辛子も登場しました。ただ、これらはいずれも風味付け程度の少量の利用にとどまったため、大量に出回ることはありませんでした。

やがて明治維新がおき、大正時代の頃になるとカレーライスを食べさせる店などが少しずつ創業するようになり、刺激の強いカレーの味覚も少しずつ日本人の知るものとなっていっていきまし。

おそらくは、カレー粉が日本の家庭に一番最初に普及した香辛料でしょう。が、これは各種の香辛料を混合したブレンド香辛料であることはみなさんもご存知でしょう。

やがて第二次世界大戦後は生活の洋風化がすすみ、さまざまな香辛料の輸入量も増加の一途をたどっていくようになります。経済成長を経て社会が豊かになると、本格的な欧風料理やいわゆるエスニック料理などを広くたのしむようになり、現在では様々な香辛料類が家庭内にも常備されるようになっています。

胡椒と唐辛子

そんな中でも、香辛料の王者ともいえるものはやはり、胡椒でしょう。

インドへの航路が見つかるまでは、ヨーロッパではあまり流通しておらう、かなり貴重なものでした。前述のとおり、大航海時代の幕開けのきっかけとなった香辛料の中でも最も重宝されたものであり、その取引における価値のほどは、1世紀のローマにおいて金や銀と胡椒が同重量で交換されていたことからもわかります。

ゲルマン部族のリーダーであったアラリック1世はローマ帝国に侵略を控える代わりに金、銀のほかに胡椒を貢物として要求したとも伝えられています。

さらに時代が下った中世ヨーロッパにおいても、香辛料の中で最も高価であり、このころには金や銀ほどの価値はなくなっていたものの、貨幣の代用として用いられる国もあったそうです。ヴェネチア人は胡椒をさして「天国の種子」と呼び、珍重していました。

ただ、現代に至ってはさすがに貨幣として使われるほどの価値はなくなり、原産地であるインドのほか、インドネシア、マレーシア、ブラジルでも栽培されていて、価格もかなり安くなっています。ただ、カメルーンのペンジャ産の胡椒は最高級品とされていて、20~30グラムが1000円内外もするそうです。

どんな味がするのか私は使ったことがないのでよくわからないのですが、コショウ自体がおいしいと感じられるほどだそうで、ある販売店でのキャッチによれば「エレガントで独特な風味が脳裏に突き刺さるほど衝撃的」だそうです。フランスの有名シェフが競って使っているという話もあり、やはり普通の胡椒よりは一味違うようです。

こうした胡椒には、中枢神経系に作用し、生物の精神活動に何らかの影響を与える、いわゆる向精神薬であるアルカロイド性の物質が含まれているそうで、薬効を期待した薬膳料理にも使われています。消化不良、嘔吐、下痢、腹痛などの症状に対して効くそうで、また、抗がん作用、抗酸化作用[もあるといいます。

一緒に摂取した医薬品の作用を増強することも報告されていて、他の成分の吸収率を高めるなどの効果があるとして健康食品にも使用されることもあり、さらにはダイエット用などのサプリメントとしても最近注目を集めているそうです。

が、ダイエットに効く香辛料として最近よく耳にするのは、やはり唐辛子でしょう。

唐辛子にはカプサイシンという辛味成分が含まれていて、このカプサイシンには、血行を促進したり、ホルモン分泌を促進する効果などがあるといわれています。

ホルモンの分泌が促進されると、アドレナリンが出やすくなるのだそうで、このためエネルギーの代謝が盛んになり、脂肪をエネルギーに変えて燃焼するようになる、という理屈のようです。が、ただ食べるだけではあまり効果がなく、唐辛子を食べた後は脂肪が燃焼しやすい状態にあるため、ここでしっかりと運動をするとより脂肪が燃えるのだとか。

また、カプサイシンには、血糖値を下げる効果もあるそうで、運動によるエネルギー代謝とともに血糖値の上昇が抑えられ、このため糖代謝が促進されることになり、体内に新たに脂肪が蓄積を防ぐ効果もあるということです。

ただ、唐辛子は辛いので、逆に食欲増進効果も絶大であり、逆にごはんが進みすぎてダイエット効果が出ない、なんてこともあるようです。せっかくダイエットをしようとして唐辛子を摂取しても、食べ過ぎてしまっては、効果は現れにくくなってしまうので注意が必要です。

また、唐辛子の食べ過ぎは、胃腸に負担をかけてしまいます。カプサイシンは辛み成分なので、粘膜を傷つけることがあり、適量を超えて過剰に摂取すれば胃腸などの壁に問題を起こすこともあるそうです。過剰摂取にならないように、適量を心がけましょう。

唐辛子の過剰摂取は発癌を促すという指摘もあるようで、唐辛子を多く摂る国は胃癌や食道癌の発癌率が高いそうです。ただ、国際がん研究機関(IARC)の研究では、唐辛子は発がん性の可能性がある物質とは認められなかったそうで、カプサイシン単体が発がん性を有するということは、今では迷信と考えられています。

むしろ唐辛子は、他の特定の物質を発がん性物質に導く体内の酵素の働きを抑制する、いわば抗がん効果があるとする研究結果などもあるようです。ただし、カプサイシンの単独摂取には問題はないものの、他の物質と同時に摂取すると癌発生を促進する場合もあるということです。

ま、何かと何かを合わせると発癌性のあるものに変化するという例はゴマンとあるでしょうから、あまり気にしすぎる必要もないと思いますが。

さて、先日私が農の駅で買った、世界一辛いという唐辛子ですが、どうやら「ハバネロ」という名前のようです。「世界一」というのは、お店の人が書いた説明書きに書いてあったのですが、実際にはもっと辛いものもあるのだろう、と思ったので調べてみました。

この唐辛子の辛さを量る単位というものがあり、これをスコヴィル値(Scoville scale)といいます。トウガラシにはカプサイシンという辛み成分が含まれていると書きましたが、スコヴィル値は実質このカプサイシンの割合を示す値だそうです。

ちなみに、この「辛い」と感じるのは、味覚というよりも「痛み」に近い感覚なのだそうで、実際、人の体がカプサイシンを「感じる」ために使われる口の粘膜にある「受容体」は、生化学的には痛み関連の受容体に分類されています。従って、唐辛子を「辛い」と感じるのは実は、口内で「痛覚」を感じているのに他ならないのだそうです。

ところが、インドやタイ、韓国などの人は、これを痛い!とも思わず平気で食べれるのは何故なのでしょうか。

実はこうした国では、小さい子供の頃から徐々に辛い味に慣れていっているため、胃腸や口の粘膜が刺激に対して強くなっているためだそうで、これがやがて大人になるにつれて、痛みを味覚として好む、つまり「快感」に変化していったのだと考えられています。

ようするに辛さに関してはこうした国の人は、完全に「M」なわけであり、これはこられの国の「社会文化」といっても良いでしょう。こうした国は、ほかにもメキシコや西アフリカなどがあり、このほかには、中国の四川省・湖南省などがあります。

これらの国、地域の共通点としては、「夏が暑い」であり、唐辛子のような辛い物を積極的に食べて「痛み」を感じ、発汗を促すことで暑さ対策をしているという見方が一般的です。

ただ、同じように夏の暑いベトナムや沖縄などでは、さほど唐辛子を好まないようで、一方では韓国やブータンなどの夏がそれほど暑くない国では唐辛子を好む食文化あります。

こうしたことから、唐辛子の嗜好は単に気候的要因ではなく文化的要因によるものが強いのではないかということが言われているようです。韓国の人が辛いものを好きなのは、日本や中国との間にあってこれらの国と争うことの多かった歴史があり、このために我慢強くなったからかもしれません。

それはさておき、私が買ったハバネロのスコヴィル値は、どれくらいかを調べてみたところ、これは10万~35万程度だそうです。……といってもわかりにくいので、他と比較してみると、例えばパスタなどによくかけて使う、タバスコ・ソースのスコヴィル値はせいぜい2500~5000だそうです。

また、一般的な催涙スプレーに使われている唐辛子成分のスコヴィル値は1万5000~9万だそうで、鷹のツメやチリ・ペッパーがだいたい4万~5万くらいといいます。

ということは、ハバネロの辛さはタバスコの40倍以上の辛さであり、また鷹のツメと比べても倍以上辛いことになります。なるほど辛いはずです。

ところが、上には上があって、「SBカプマックス」という唐辛子品種のスコヴィル値は65万もあり、これはハバネロの2~6倍の辛さとなり、2006年12月には世界一辛いトウガラシとしてギネス・ワールド・レコーズに認定されたということです。

ところが、3ヶ月後の2007年2月にはSBカプマックスの2倍近い100万ものスコヴィル値を持つインド・バングラデシュ原産の「ブート・ジョロキア」という品種がギネス認定されました。

ブート・ジョロキアはその後しばらく王座を占めていましたが、その後もギネス記録は塗り替えられ続け、2011年段階での最高峰は、「トリニダード・スコーピオン・ブッチ・T」という長ったらしい名前の唐辛子で、そのスコヴィル値はなんと146万3700です。

その名の通り、中南米のトリニダード・トバコ原産の唐辛子ですが、新たに品種改良されたとかいうわけではなく、土着の品種だそうで、世界にはまだまだ探せば辛い唐辛子が発見されるのではないかと思わせます。

純粋な植物品種として最も高いスコヴィル値を持つのは、このスコーピオン・ブッチですが、さらに人工的に辛みを濃縮したものには、痴漢や暴漢などの撃退のための唐辛子スプレーの200万というのがあり、このほか警察官などが使っている唐辛子スプレーの中には530万というものもあるようです。

ところが、食品としてこれ以上のスコヴィル値を持つものもあり、そのひとつは「ザ・ソース(The Source)」といい、アメリカのカンザスシティに本社を置く会社が実際に発売している「ホットソース」です。

ほとんどカプサイシンの抽出物のみで作られているそうで、その辛さはなんと、710万スコヴィルとされ、2002年に発売された当時は世界一辛いソースとされていましたが、現在ではこれよりもさらに辛い商品が発売され、16ミリオン・リザーブ(16 Million Reserce)というのが今、世界一といわれています。

その名のとおり、1600万スコヴィルを誇り、厳然と他を寄せ付けていません。実は、この商品は、「デスソース(Death Sauce)」という一連のホットソースシリーズの一つであり、これを売りに出しているは、アメリカのニュージャージー州ハイランズ(ニューヨーク・スタテン島の南)に本社を置く、ブレア社がという会社です。

「シリーズ」ということは他にも辛いソースがあるとうことなのですが、さすがに1600万スコヴィルを超えるものはなく、これに次ぐものが「ハロウィーン07リザーブ」という商品で、約1350万、以下、「5 AMリザーブ」が、550万、「4 AMリザーブ」400万といった具合です。

こんなものばっかり売っていて商売になるんかい、と思いきやもっとスコヴィル値の低い真面目な商品もあるようです。

「オリジナルデスソース」という商品は、完熟赤ハバネロとカイエンペッパーを使用し、隠し味にライム果汁を加えたソースということで、アメリカの人気激辛ソースウェブサイトで売り上げ人気トップ10に入賞したといい、スコヴィル値は約10000です。

なんでも、ここの社長「ブレア・ラザー」という人は、1990年代にレストランを経営しており、ここでチキンウィングに激辛ソースを塗りたくり、「これを完食できたら、飲み代は無料」として客に出したのだとか。

しかし、チャレンジしても脱落者が出るばかりだったといい、このあとにも改良を加えて更に辛いソースを作り出し、チャレンジ度の高いものを出し続けていたところ、次第にこれが評判となっていきました。これをみた社長は、このソースは商売になると確信し、1994年にはレストランをたたんで、ソース工場を設立。

このとき限定版として発売された「ブレア氏の午前2時」は瞬く間に完売したといい、さらに普及版が欲しいという激辛ファンの要望に応え、こうして「デスソース」シリーズが発売されるようになったのです。

それぞれの商品には髑髏のキーチェーンがおまけでついているそうで、これは実際にこの会社のソースを使った人の中に心臓発作で死んだ人がいるそうで、それを記念?しておまけをつけることになったといいます。

日本ならすぐにでも公正取引委員会か何かのお役所からお咎めを受けそうですが、そこは何事もおおらかでジョーク好きのアメリカのこと、いまだお取潰しになるどころか、大いに商売繁盛しているようです。

ちなみに、この会社にはデスレイン(Death rain)というシリーズがあり、これはポテトチップスなどの激辛スナック菓子などであり、こちらもデスソースと同様に、買うと髑髏のキーチェーンが付いてくるそうです。

こんな辛いものばかりで商売が成り立つなんてすごいことだと思いませんか?

世にはいろんな商売がありますが、普通は人が嫌がるような味覚で商売する……これもなかなか発想の転換で面白いかもしれません。

人が嫌がりそうなものには、辛い物、刺激味以外にも、酸味、塩味、苦味、渋味などいろいろありそうです。ほかにも金属味、電気の味なんてのもあるようですが、案外と「無味」なんてのが商売のネタになるかも。

ここはひとつ、あなたも考えてみてはいかがでしょうか。

ガル

先日のこと、以前このブログでも紹介したことのある宮崎駿監督のアニメ作品、「風立ちぬ」を見に行ってきました。

そろそろ興行も終わりになろうかというこの時期になんでいまさら、と思われるでしょうが、学校が夏休みである8月中では観覧する人も多かろうということで、人ごみの嫌いな私としてはこの時期に見に行くのは敬遠したかったのです。

ちょうどつい先日には宮崎駿さんの引退宣言があったばかりであり、タイミング的にもぴったりですが、これが宮崎アニメの見納めかと思うと、少々寂しくもありました。

が、宮崎監督が作り上げたスタジオジブリそのものがなくなってしまうわけでもなく、ご子息の宮崎吾朗や高畑勲といった実力者もまだ控えていて、ジブリ作品そのものはこれからもまだまだ楽しんでいけるでしょう。

宮崎駿さん自身も、長編映画からは手は引いたものの、おそらくは短編ものなどは手掛けられるのではないでしょうか。まだまだお若い……といってももう御年72ですが……まあ日本人男性の平均年齢にはまだまだ程遠いわけですから、引退などといわずにこれからも何等かの活動をしていってほしいものです。

さて、この「風立ちぬ」の出来栄えについての感想については、またのちほど述べるとして、この劇中に出てきたいくつかの飛行機について、映画の中では何ら詳しい説明がなかったので、改めて調べてみました。

まず、主人公である堀越二郎が、作品中で設計した新鋭の飛行機のことですが、これは左右の翼が途中から「跳ね上がる」というちょっと変わった形をしており、いかにも新しい時代の飛行機、というかんじのものです。

いったいどういう経緯で造られたものなのかな、と調べてみたところ、これは「九試単座戦闘機」と呼ばれる飛行機であり、後に海軍によって「九六式艦上戦闘機」として採用された単座戦闘機の試作機だったようです。

いかにも軍事オタクの宮崎監督が登場させそうな飛行機ですが、設計者の堀越二郎の代表作としてはこれよりも「零式艦上戦闘機」つまり、ゼロ戦のほうが有名です。

なのに、なぜこの飛行機のほうをクローズアップさせたのかな、思ったのですが、映画のストーリーをみると、そのわけがわかります。

映画を見た人はご存知かと思いますが、この飛行機は、堀越二郎がその設計技師としての長い人生の中で、最初にヒットを飛ばした会心作ともいって良い飛行機であり、宮崎監督も堀越二郎のその「最初の成功」の喜びをこの作品の中で描きたかったのでしょう。

この飛行機は、1934年(昭和9年)、海軍から三菱航空機と中島飛行機の両社に試作指示が出され、1935年(昭和10年)に試作機が完成。審査の結果から、この三菱機が正式採用されることとなり、「九試単座戦闘機」と名付けらました。

このひとつ前のタイプ海軍の主力戦闘機、「九五式艦上戦闘機」などの戦闘機はまだ大正時代の色濃く、そのほとんどが翼が二段になっている複葉機であったのに対し、この「九試単座戦闘機」は単葉戦闘機でした。単葉の採用は日本海軍初であり、しかも九五式が機体の一部に木材を使うなどしていたのに対して、全金属製となり、これも日本初でした。

その性能も九五式と比較すると、速度は50km/hほども速く、平面での旋回性能は同等でしたが、垂直面での旋回性能はとくに良好だったといい、高速で運動性の良い機体だったといいます。

この「九試単座戦闘機」は試作品にすぎませんでしたが、その性能の素晴らしさが認められ、のちに「九六式艦上戦闘機」として量産されるようになり、その後に勃発した日中戦争で中国に送られた機体は、アメリカ製のボーイングやカーチスホークなどを主力としていた中国軍戦闘機を空中戦で圧倒しました。

「風立ちぬ」の中ではこの傑作機の成功に先立ち、堀越二郎が設計した別の飛行機が失速し、墜落することで、堀越二郎が思い悩むというシーンが描かれていますが、この飛行機は「七試艦上戦闘機」といいました。

1933年から1934年ころにかけて、欧米各国では軍用・民間用を問わず 単葉の高速機が順次開発されていましたが、日本海軍では航空母艦への着艦と空戦時の旋回性を重視し、単葉への切り替えが遅れていました。

1935年に制式採用された九五式艦上戦闘機も複葉で、速度は352km/時という低速でした。このため、この性能では将来の戦闘は戦えないと判断した海軍当局は、このころの国内における二大軍用飛行機メーカー、三菱内燃機製造と中島飛行機に新しい次世代型の飛行機の試作を命じました。

ちょうどこのころ、三菱内燃機製造の名古屋工場に入社したのが堀越二郎でした。堀越二郎のことは以前にもこのブログで少し触れましたが、群馬県藤岡市出身で、地元の藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科のそれぞれ首席で卒業するという英才であり、のちの三菱重工業となるこのころの三菱内燃機製造にも鳴物入りで入社してきました。

この堀越二郎が、三菱内燃機に入って最初に手掛けた本格的な戦闘機が、前述の「七試艦上戦闘機」でしたが、完成したその機体は海軍が要求する高水準には達せず、結局同じく海軍より試作を命じられていた中島飛行機の試作機とともにボツとなりました。

このため、海軍は1934年の次期艦上戦闘機の設計から方針を変え、あえて艦上機としての性能を要求せず、近代的高速機を求めることにしました。後述しますがこの方針を定めたのは世に名高い、のちの山本五十六少将です。

要求仕様の性能を抑え気味に変更したのは、これに先立って堀越二郎が設計した七試艦上戦闘機などが、高性能を要求し過ぎて失敗に終わった事への反省もあったためと思われます。

こうして、新たな戦闘機の試作の指示が再び中島飛行機と三菱内燃機に下り、再度その設計に携わることになったのも堀越でした。彼は、従前の失敗に終わった七試艦上戦闘機の反省も踏まえて技術革新を促すため、海軍からの要求事項のうちでも、さらに速度や上昇力など戦闘機に不可欠なもののみに重点を絞った設計を行うことを決意します。

この設計方針は、当時航空本部部長だった、のちの山本五十六海軍少将も支持し、その他の条件は極力緩和するから自分の考えを貫け、と後押ししたといい、艦上戦闘機としての性能すらも要求もしないから、自由な発想を試せ、とまで言ったといわれています。

それゆえに、のちに完成した試作機の名称も「単座」戦闘機であり、「艦上」戦闘機ではなく、この試作機をもとに、のちに大量生産された九六式艦上戦闘機で初めて艦載機としての機能が付加されました。

戦闘機としての飛行機の性能は、速度や上昇力などの機動力がやはり最優先されるべきであり、軍機としての性能はこの基本性能を満足してから追加すればいい、という山本五十六の合理的な思考から実現した方針であり、のちの世にも優れた指導者としてその先進性なども含めて高い評価を得た山本の人柄を見るようなエピソードです。

この、まずは基本性能を重視するという設計方針は、結果的に見事に功を奏し、堀越二郎が設計したこの機体は、競争相手の中島飛行機が制作した試作機を大きく上回る高性能を示し、関係者を驚かせることになります。

その性能試験においてこの九試単戦は、海軍の要求を20ノット上回る243ノットを発揮したといい、このとき試験の臨検として立ち会った横須賀海軍航空隊の士官達は、試験が行われた岐阜県の各務ヶ原の空は「空気の密度が小さいのではないか」と疑ったという逸話まで残っています。

ところで、この飛行機は特徴的な翼の形状をもっており、これは「逆ガル翼」と呼ばれています。

「逆ギレ」ではありません……

「ガル」とはカモメのことであり、その飛ぶ姿を見たことがある人は分かると思いますが、カモメはその翼を下へ折り曲げたような恰好で飛びます。「ガルウィング」つまりガル翼とはこれからつけられた名称であり、堀越二郎が設計した飛行機はその翼の形状が逆形状であったためにこう呼ばれたわけです。

この試作機第一号は、エンジン出力増加を活かせるよう直径の大きなプロペラを採用しており、このためある程度座高の高い機体を作る必要がありました。

しかし一方では爆弾取り付の作業性を向上させるためには胴体を地面から離しつつ、主脚を短く設計する必要などもあり、これらの理由から、翼をいったん下へ向けて伸ばし、途中からは逆に上へ折り曲げる「逆ガル」を採用することで、機体中央部の座高を高くすることができ、かつ爆弾の取り付けもしやすい形状が実現したのです。

従って、翼を上に折り曲げることによってなんとなく近代的なカッコよい雰囲気が醸し出されているように見えますが、この形状は空力的な性能の向上にはあまり関係がなかったようです。

機動性を最優先していい、とはいわれたものの、結局軍用機である以上、その使用目的を無視した飛行機を作ることは無意味です。軍おかかえの三菱内燃機という軍事産業に勤務していた堀越もそうしたことをさすがに考慮しないわけにはいかなかったのでしょう。

しかし、この九試の試作機は都合6機製作されましたが、この逆ガル型の主翼を持っていたのは、最初の試作一号機だけだったそうです。その後の試作機やのちに量産された九六式艦上戦闘機ではそれほど翼が反り返っていません。つまり、実質的にその後の九六艦戦の原型となったのは逆ガル翼を廃した、試作二号機ということになります。

宮崎アニメで悠々と空を飛び回った逆ガル翼の九試は、実はたった一機だけだったということになるわけですが、宮崎監督は、この二号機よりも逆ガルウィングの一号機のほうが格好エーと思ったのでしょう。

ただ、この飛行機の素晴らしさはそうした外見だけにあったわけではなく、日本初の単葉全金属製の機体を初めとする数々の技術革新にありました。例えば、この九試では、日本で初めて全面的に「沈頭鋲」と呼ばれるものが採用されました。

現在ではごく普通の技術ですが、これは、それまで金属板の締結に使っていた従来のリベット(鋲)を廃し、リベットでは金属板表面に頭が突出していたものを無くし、鋲の頭を機体の中に埋め込む、つまり「枕頭」させるという技術でした。

リベットは、それまで高速で飛ぶ航空機における重大な空気抵抗の原因となっており、これに対して沈頭鋲は加締めの際に皿頭が金属板を凹ませながら締結するという施行方法をとるため、機体表面を平滑に仕上げることが可能となります。

ただ、最初の九試単戦では、職工たちもこの作業に慣れておらず、鋲打ち作業で出来た表面には刺子様の窪みができていたそうで、これをパテで埋めて灰緑色塗料を厚めに塗った後に磨きを掛けたといいます。

ちなみに、この沈頭鋲の原型を取り付けて世界に先駆けて空を飛んだのは、ドイツの「ハインケルHe70」という飛行機で、この飛行機はドイツのハインケル社で開発、製造された郵便、旅客、連絡、練習、爆撃などの多用途目的で開発されたものでした。

要求される速度性能を満たすために、機体表面を滑らかに仕上げる皿リベットを世界で初めて採用し、これが沈頭鋲の元となりました。1933年初めに8つの世界速度記録を樹立するなど素晴らしい飛行機だったといいますが、戦闘用の機体としては早々と時代遅れになったために大きな成功は収めなかったそうです。

その初飛行は、九試の初飛行のわずか3ヶ月前のことだったといい、もし開発がもう少し急ピッチに進められていれば、沈頭鋲を用いた飛行機としては世界初の栄誉を勝ち取っていたことでしょう。

映画の風立ちぬでも描かれていますが、堀越二郎はこの九試の設計の前に、ドイツなどのヨーロッパの飛行機メーカーの視察を三菱から命じられており、この沈頭鋲のアイデアなども、この視察旅行の際にドイツなどで仕入れたものでしょう。

こうして、のちに九六式艦上戦闘機として量産されることになる九試でしたが、最初のころにはその性能を疑問視する声もあったようです。

1935年(昭和10年)6月に試作二号機のテストをおこなった横須賀航空隊の源田実海軍大尉(のちの自衛隊の初代航空総隊司令、ブルーインパルス創設者として知られ、参議院議員を4期24年務めた政治家としても知られる)もそのひとりでした。

源田は、九試の上昇力・速力に問題はないとしつつも、射撃性能・着艦性能は「特に勝れているとも感ぜられなかった」とし、さらに舵の効きも問題視して格闘性能に疑問があるとしました。

さらには、その後の採用会議で源田は単葉機の旋回性能の悪さを指摘し、「複葉機の九五式艦上戦闘機の方が優秀ではないか」といい、この意見を横須賀空教頭であった大西瀧治郎も支持し、中央当局は単に机上の空論に頼ることなく、もっと実際に身をもって飛ぶ人の披見を尊重して方針を定められたい」とまで言い放ちました。

このため海軍上層部では、再試験によって源田らの意見の真否を問うこととし、さっそくその翌日に九試と、九五式などの従来機による模擬空戦が行われ、源田自らもその判定を任されることになりました。

その結果、九試は他の僚機の性能を圧倒し、この模擬戦によって格闘性能にも優れていることが証明され、源田は三菱側に自身の発言を詫びたといいます。

源田実は、その後は堀越二郎の熱烈な支持者になったといい、山本五十六といい源田実といい、こうしたエピソードからもこのころの海軍の現場には自らの不明をすぐに正すことのできる優れた人材が数多くいたことがうかがわれます。

ただ、このように軍部に高性能を示すことのできた九試でしたが、着陸時のバルーニング(バウンドしながら着地する性能)や、大きく回転飛行する場合などの不安定性、大型の発動機を利用することからその選定などに手間取り、その後の九六式艦上戦闘機部隊への配備までには試作開始から丸3年という日時を要することとなりました。

しかし、逆に開発に時間をかけたこともあって制式後には大きな不具合は発生しておらず、その優れた性能はそのまま後継機である、零式艦上戦闘機に引き継がれていくことになります。

こうしてこの九試は、欧米各国の模倣を脱して、日本独自で確立された設計思想の下に制作された最初の機体ながらも優れた性能を持つものとして広く知られるようになり、その設計者である堀越二郎の名声も否が応でも高まっていきました。

この九試の設計に際し、堀越はとくに高速と空戦時の運動性に重点を置いていたといい、そのためには高い空気力学的に洗練されと形状と、重量軽減が追求されました。

「風立ちぬ」では、堀越二郎が昼飯時にいつも「サバ定食」を食べるというシーンがありますが、そのサバの中からでてくる「骨」を堀越技師は「美しい」と思い、その形状を飛行機の設計にも応用した、というふうに描かれています。

こうした発想は、この当時、それまでの複葉機を中心に主流となっていた「張り線」を多用した構造様式を採らず、高速時の空気抵抗減少のために構造材を金属板で覆う形式の翼を採用することに反映されました。これによって主翼外形は曲線を繋いだ美しい楕円翼となり、かつ重量軽減にも大きく貢献しました。

また、国産実用機として初めてフラップを採用することでさらに運動性能がアップしました。

サバの骨を参考にしたというのが事実なのかどうかはよくわかりませんが、そうした流線型の形状を持つ合理的な機体を求めた結果が九試の美しい形状と性能に反映されたわけであり、堀越二郎自身も戦後の談話の中で、この九試は後の零式艦上戦闘機よりも快心の作であったと語っています。

この飛行機には、枕頭鋲のほかにも数々の「日本初」が採用されていました。例えば、主脚は構造重量の増大や未舗装の飛行場での運用想定を勘案して引き込み式とはせずにできる限り小形とした固定脚とし、空気抵抗を抑えるため流線型の「スパッツ」で覆ってあります。

これらの技術を盛り込んだ結果、量産型の九六式艦上戦闘機では、海軍が課した高度3,200m、正規重量での正式飛行試験において、当時の固定脚機の水準をはるかに超える、最高速度450km/hもの速度を発揮するに至りました。

この結果、旧型の九五式艦上戦闘機と比較すると、その速度は50km/hも速くなり、平面での旋回性能に優れ、垂直面での宙返りでさえも軽々とこなし、高速で運動性の良いこの戦闘機は、日中戦争においてアメリカ機を主力としていた中国軍戦闘機を圧倒しました。

その初戦は、日華事変初期のころの1937年(昭和12年)9月4日に、空母加賀が上海方面へ派遣された際に搭載された、九六式一号艦戦による戦闘でした。加賀飛行分隊長の中島正海軍大尉指揮による、九六式艦戦2機がカーチスホーク3機を撃墜し、これが96式艦戦の初戦果となりました。

この戦いは艦上戦闘機が陸上戦闘機と同等以上の性能を有するといわれるようになった発端となり、その後もこの九六式艦戦は、日本軍の上海近郊への進出の足がかりをつくり、さらに南京方面の中国空軍を駆逐するようになりました。

ただ、この過程で、九六式艦戦の行動半径400kmという距離は、重慶他の中国奥地への長距離爆撃行に用いるには少々無理があることが明らかになり、この結果としてより航続距離の長い機体が求められるようになります。

この問題はその後、後継機の零式艦上戦闘機の開発によって実現し、更なる航続距離が獲得できるようになり、これがさらに後年、航空母艦から発艦して長距離を飛びハワイを奇襲するという、零戦を主体として実施された真珠湾攻撃にもつながっていくことになります。

九六式艦戦は、その後の活躍を同じく堀越二郎が設計したこの零戦に譲っていくことになりますが、太平洋戦争序盤の1942年(昭和17年)ころにはまだ、後継の零戦の配備が間に合わず、鳳翔・龍驤・祥鳳・瑞鳳・大鷹などの各空母に搭載されていました。

また内南洋や後方の基地航空隊に配備されていましたが、1942年末ころからは第一線から退き、以降は練習機として終戦まで運用されていました。

しかし、零戦が活躍するようになるまでは、海軍の主力戦闘機であり、多くの派生型も造られ、「九六式二号一型艦上戦闘機」と呼ばれた型では、プロペラを3翅としたものも造られました。

一番たくさん生産されたのは、「九六式四号艦戦」という機体であり、名古屋の三菱工場の他に佐世保工廠、九州飛行機などでも生産され、その総数は合計約 1,000機にもなりました。

大戦中の連合軍による九六式のコードネームは「クロード(Claude)」だったそうで、調べてみたのですが、これが何を意味するのかよくわかりません。ただ、大画家のモネは、本名Claude Monet といいますから、もしかしたらこの画家名を冠したのかもしれません。

モネは印象画家として有名な画家であり、美しい形状を持つ九六式艦上戦闘機を、その美しい作品になぞらえたのかもしれません。

現存する機体があるかどうかも調べてみたのですが、戦争の初期に使われたためか、現存物はないようで、残っているのは写真ばかりのようです。が、堀越二郎の設計した飛行機は、零銭のほか雷電などが、主にアメリカ各地の博物館で保存されているようです。

その堀越二郎の若かりしころを描いた宮崎駿監督の最後の作品、「風立ちぬ」をみた感想ですが、正直なところ、私としては以前の作品ほどの感銘は受けませんでした。

その前半部分にはファンタジーの要素が多く取り入れられ、その背景描写の美しさもあいまって、さすが宮崎駿!と思わせるものがあったのですが、後半になるとこれが、主人公と婚約者の悲恋物語に様変わりし、主役のはずであった「飛行機」がどこかへ「飛んで行ってしまった」感があるのが、私としては不満でした。

ラブストーリーとして完成させるなら、もっと別の造りこみをしてほしかったな、と思い、また従来の宮崎監督のファンタジー作品に見られたような、次にどんなことが起こるのだろう、というワクワク感も感じられなかったのが残念です。とくにその後半戦では、ワクワク感が次第に失望感へと変わっていきました。

無論、私の主観であり、この映画を推奨する人も多いでしょう。専門家の間では評価が高いといいます。が、私個人としての評価は低い部類に入る映画です。

とはいえ、設計技師、堀越二郎の若き日の姿を描いた作品としてはそれなりの魅力があり、国産の九試単座戦闘機や九六式艦上戦闘機の描写はもとより、ドイツやその他の国の飛行機、さらに夢の中の創造の乗り物の描き方も、さすが宮崎駿だと思わせるものがありました。

映画作品の完成度としての不満はあるものの、そうした「オタク少年」宮崎駿の最後の作品としては、記憶にとどめておくべきものである、とだけ付け加えておくことにしましょう。

ちなみに、作品中には世界的に著名な飛行機製作者として、イタリア人の「カプローニ」という人物が夢の中で堀越二郎と邂逅するシーンが出てきます。このカプローニが設計したという巨大な飛行機が映画の中で登場するのですが、これも宮崎監督の創作だと思っていたら、実在した飛行機があったことを知り、びっくりしました。

そのことについても今日書いて行こうかと思ったのですが、もうすでにかなり度を超しているのでまた今度の機会にしたいと思います。

皆さんは「風立ちぬ」ご覧になりましたか?

ダウンフォール作戦

9月になりました…… いや、なってしまいました。

8月中には諸問題を片づけて、9月からは仕事に邁進しようと考えていたのですが、あいかわらず暑いこともあり、思うようになかなか作業がはかどりません。

9月もまだまだ暑い日が続きそうですが、今週末ぐらいから徐々に空気は入れ替わってくるようで、その秋の風に期待したいところです。

さて、このたび新規一転ブログの装丁を変えました。……といっても大幅にコンテンツが変わったわけではなく、気分に応じて背景やヘッダー画像を自由に変えやすくできるタイプに変更しただけです。

ご覧いただいている方にはあまり大幅な変更をしたような印象を与えないようなるべく配慮したつもりですが、改めて見ると……やっぱ変わっていますよね。

ま、これまで通り毎日見て頂いていればそのうち、次第に慣れて頂けると信じ、とりあえずはこの装丁のまま続けさせてください。

ところで、このブログの外観を変える過程で、過去の記述のバックアップを取る必要があり、その際、一部の画像などが化けてしまうという不具合があったため、この際と思い、これまでのブログを手間暇かけてひとつひとつチェックしました。

そしてこれら過去のブログをみているなかで、昨年の富士山の初冠雪は9月の12日だったことに気がつきました。朝起きて、いつもと富士山の様子が違うな……と思っていたら、その日のうちに気象庁からも初冠雪を確認した旨の報道があったことなども思い出しました。

12日といえばもうあと10日ほどです。今年は暑いのでどうなのかなとは思うのですが、初冠雪の平均発生日は、14日なのだそうで、だとすればそれほど遠い先ではなさそうです。

ただ、富士山の初冠雪は、おととしの2011年は24日、また2年前は25日、さらに3年前の2009年には10月7日までずれ込んでおり、その他過去には10月になってからでないと見られなかった年も結構あるようです。

ま、初冠雪があったからといって、何を得するわけでもないのですが、やはり夏の終わりを感じさえる一番わかりやすい指標でもあります。夏の暑さが苦手な私としては、できるだけ早く夏が終わったと証明するものが欲しいと思う次第。

ならばいっそのこと、人工的に雪でも降らしてしまえばいいのに、とまでも思ったりするのですが、仮に可能だとしても一般の賛同や公の許可が下りないでしょうね。

もっとも、雪を降らせるのにも多大なお金がかかるでしょうから、本気でそんなことをしようと思う人はいないでしょう。降らせたところでそこでスキーができるわけではないし……

ところが、戦争ともなればこれぐらいの規模のことはもし成果があるのならばやってみようか、と考える輩が出てくるようで、太平洋戦争でも、この富士山に雪……ならず、なんとペンキをぶっかけようという計画があったそうです。

アメリカのCIA(アメリカ中央情報局)の前身であるOSS(戦略情報局)には「神経戦部」という部局があり、ここのスタッフが考えた作戦だそうで、彼らは戦争末期の時期において“何をしたら日本人がへコむのか”ということを本気で研究していたといいます。

その結果として、米軍は「武力抵抗は無駄だ」というようなことを書いたビラなどを飛行機で散布していますが、いまひとつパッとした効果が出ず、「このまま戦っても無駄だ」と日本国民の士気を落とすためにもっと効果的な方法はないか、ということで考えだされたのが、この「赤ペンキ作戦」だそうです。

その主旨としては、日本人はこの山を大変愛しており、その理由はやはりあの美しさからゆえであり、これをペンキで塗って汚したら、さぞかし士気が落ちるに違いない、というもので、なんだか子供の喧嘩でガキ大将にいつもいじめられているひ弱っこが考えそうな発想です。

誰しもが馬鹿げていると思うに違いありませんが、ところが、驚くなかれこの作戦は、基礎提案の段階で、おおむね了承を得たということで、さらに具体的な実施方法を検討するよう指示が出たといいます。

この結果に喜んだ神経戦部のスタッフが早速検討しましたが、その結果としては、この作戦の実行は現実的でないことがわかりました。

実際に富士山を真っ赤にするためにどれほどのペンキがいるのかを試算したところ、表面積から考えて、必要とされるペンキはおよそ12万トンも必要だということがわかり、これを一斗缶18リットルに換算すると、およそ670万缶が必要になるという計算になります。

さらに仮にこの量が用意できたとしても、それを運ぶにはB29が約3万機いることがわかり、このB29をマリアナ諸島から飛ばすとすれば、富士山まではおよそ2500キロ。このために必要燃料は現在のお金に換算すると1機200万円くらいになり、すなわち燃料代だけでも600億円の費用がかかる計算になるそうです。

無論、その結果として日本人の戦意が本当に落ちるかどうかもわからず、逆に「やったぁ、赤富士だ~」といって喜ぶかもしれず、ということで、結局このプランが実行に移されることはありませんでした。

しかし、実際にこれだけのペンキが放出されたなら、これを除去するには相当な年月がかかったことでしょう。とはいえ、冬の間にはこの赤く染まった富士にも雪が降って白くなるでしょうから、夏の間は赤富士が楽しめ、冬には白富士とひとつで倍おいしいということにもなり、富士山鑑賞の楽しみが増えていたかも。考えようによっては残念です。

……とばかなことを書いていると富士山信仰をいまだに持っている団体さんなどからお叱りがくるかもしれないので冗談はこれくらいにしておきましょう。

ところが、この赤ペンキ大作戦はさすがに見送られたものの、米軍としては実際に日本に上陸した場合、自軍の部隊にどういう展開をさせるかということを別途真剣に検討しており、この作戦全体は、「ダウンフォール作戦(Operation Downfall)」と呼ばれていました。

いわゆる「日本本土上陸作戦」の作戦名であり、実際には発動前に日本が降伏したために、この計画は中止されましたが、この降伏がなければこの作戦は実際に間違いなく実行に移されていたでしょう。

ダウンフォール (Downfall) とは英語で「失墜」「滅亡」などといった意味であり、太平洋やアジア各地で大敗を続けても頑なに抵抗を行い続けていた日本に対し、その本土での陸上作戦を行い戦争を終結させるために検討された作戦、という意味も持ちます。

その具体的な内容ですが、「オリンピック作戦」と「コロネル作戦」というふたつの作戦から構成されており、両作戦では、徹底的な海上封鎖を実施して資源の乏しい日本を兵糧攻めにすることなどに主眼が置かれていたそうです。

この作戦の序盤には広島と長崎への原爆投下が含まれていましたが、実際に実行に移された原爆投下に引き続き、日本本土に大規模な部隊を上陸させる予定だったといい、この舞台はその後、生物兵器、核兵器、放射能兵器などのいわゆる大量破壊兵器(NBC兵器)による無差別攻撃や、マスタードガス、サリン攻撃などの化学兵器を用いる予定だったといいます。

まるで今、シリアがやっているようなことをまさにこの当時の米軍は考えていたわけであり、このほかにも、農地への薬剤散布によって食料生産を不可能にする事までも考えていたそうです。

オリンピック作戦とコロネル作戦の違いは、オリンピック作戦は、日本の中枢である東京のある関東を占拠することを目的とする最終決戦であり、コロネット作戦のほうはこれを実現する前の前哨戦という位置づけでした。

つまり、オリンピック作戦では、まず九州南部への上陸し、九州全体を占領したあと、ここを足掛かりとして最終的には関東を占拠するオリンピック作戦が実施される予定でした。

このため、前哨戦であるコロネット作戦では、まず関東空襲を実施するための飛行場を九州に確保することが重視されました。

具体的なXデーまで決まっていたそうで、それは1945年11月1日だったそうです。九州へ投入される予定の海上部隊は空前の規模であり、空母42隻を始め、戦艦24隻と400隻以上の駆逐艦が投入される予定であり、さらに陸上部隊は14個師団の参加が予定されていました。

これらの部隊は占領した沖縄を経由して投入され、また、直前の陽動作戦として、10月23日~30日ごろには高知県沖でもって、一師団8万人規模の陽動上陸行動を行うことも計画されていました。

この九州主要戦略目標地域に対して、マスタードガスを主体とする毒ガス攻撃も検討されていたといい、さらに米統合参謀本部は、神経ガス(サリン)を使用すれば、日本に侵攻してもほとんど死者を出さずにすむと信じ、この毒ガス戦を展開できるよう、マスコミと協力して世論づくりまでしていたという極秘資料が近年暴露されています。

この当時は既に、ジュネーブ協定で毒ガスの使用は国際的に禁止されていましたが、これより以前に日本軍が中国でサリンを用いたという事実を米軍は把握しており、これが米国側の罪悪感を軽減したともいわれています。

上陸予定地点は、宮崎、大隅半島、薩摩半島などで、動員される兵力は25万2千人の歩兵と8万7千人の海兵隊から成る16個師団だったそうで、この上陸作戦を支援するため、アメリカ海軍は太平洋に散開していた艦隊のほぼ全部を投入する予定だったといいます。

もしこのものすごい勢力が九州に上陸していたら、このとき既にかなり疲弊していた日本はそう長いあいだ持ちこたえることはできず、おそらくは一週間も持たずしてここは占領されていたに違いありません。

その後、この九州を足場にして関東への上陸が実施される予定であったコロネット作戦についても、その「Yデー」までもが決まっており、これは1946年3月1日だったといいます。

コロネット作戦は、オリンピック作戦に続く最終決戦であったことから、その規模もさらに大幅にアップし、洋上予備も含めるとオリンピック作戦での18個師団を上回る25個師団の参加が予定されていたといいます。

こちらの上陸予定地点は湘南海岸であり、ここから相模川沿いを中心に北進し、現相模原市・町田市域辺りより進路を東へ向けて東京都区部へ進行する予定でした。また、これと並行して九十九里浜から鹿島灘沿岸にかけてにも侵攻をかけ、この両方から首都を挟撃することが予定されていました。

さらには、このYデーの3ヶ月前から、艦砲射撃と空襲によって関東地方に大規模な破壊活動を行なう予定だったといい、その攻撃の中にはミサイル、ジェット戦闘機のほか、九州と同様に化学兵器の使用も含まれていました。

計画では湘南海岸に30万人、九十九里海岸に24万人、予備兵力合わせて107万人の兵士と1,900機の航空機というノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ規模の兵力が投入される予定であり、これらの作戦によってだいたい10日くらいで東京を包囲を完成させる予定でした。

ところが、このアメリカの大規模な侵攻計画を実は日本側では事前にキャッチしていたといい、コロネット作戦における侵攻地が南九州と南四国であることも知り、その侵攻の時期・規模をほぼ正確に予想していたそうです。

そしてこれに対して、「決号作戦」と呼ばれる作戦を用意していましたが、これは大本営の提唱する「一億玉砕」のプロパガンダ通り、男子15歳から60歳、女子17歳から40歳まで根こそぎ徴兵した国民2600万人を主力の陸海軍500万人と共に本土決戦に投入するという作戦でした。

まさに名前を変えた集団自殺であり、こうした狂気の発想を普通のことのように考えていた日本帝国陸海軍の指導者たちが、その後東京裁判で厳しく弾劾されたのはあたりまえといえばあたりまえです。

アメリカは、このダウンフォール作戦全体の連合軍側の損害予測としては、死傷者約27万人程度とみなしていたようですが、その後占領軍司令官として日本に赴任してくることになるマッカーサーはフィリピン戦などの経験に基づき、この死傷者約5万人程度と少なめに見積もっていたといいます。

が、実際にはどうだったでしょう。おそらく実施に移されていればこれだけの軍隊と大量破壊兵器よって、これを上回る大規模な被害が出ていたのではないでしょうか。

広島の原爆による被害は死者だけでも約24万、長崎は13万人といわれており、死傷者ということになるとその倍以上とも言われていますから、これと同等以上の被害が出ていたとしても不思議ではありません。

しかもサリンなどの化学兵器や生物兵器が使われたことによる後遺症にも悩まされたと思われ、戦後70年近くたってもなお、原爆の後遺症に苦しむ人達に加えて、日本はこうした障害者も抱え込むことになっていたかもしれません。

しかし、このダウンフォール作戦は、トルーマン大統領がポツダムでの会議中に原爆実験の成功の報を聞き、中止を命じたことで実際に実施されることはありませんでした。

大統領が中止を決断した最大の理由は、原爆の成功でした。この成功がアメリカよりもいち早く日本侵攻をしようと考えていたソ連をけん制することになり、満州まで接近していたソ連はついに日本上陸にまで至りませんでした。

アメリカにすれば、ソ連に対して、ワシの獲物だ手出しするな、と規制事実をつきつけたことになったわけです。

そしてその目論見どおり躊躇するソ連をみて、これで日本をソ連の助力なしに英米のみで屈服させることが可能になったと判断し、指揮者であったトルーマン大統領もまた、とりあえずこの原爆の成功によって今後日本がどのような行動をとるか、降伏するかどうかを様子見しようと考えたのです。

従って、もし広島と長崎への原爆投下が失敗していたら、まず間違いなくこのダウンフォール作戦は実施に移されていたと思われ、そのあかつきには、日本全土がサリンガスや生物兵器の行使によって汚染されるというおぞましい結果になっていたことでしょう。

原爆は確かにこれ以上の悲惨な結末を招きましたが、その投下の成功がダウンフォール作戦の実施の抑止力となったというのは皮肉な結果ではあります。

そしてそれから70年近くが過ぎ去りました。

そのアメリカが今は大量破壊兵器を持っているとされたイラクを攻撃し、またサリンなどの科学兵器を使ったとしてシリアを攻撃しようとしています。

時が経てば立場も変わるのさ、といいたげなアメリカ軍部の連中の声が聞こえてきそうですが、いつの世にも自分の都合の良い立場で軍事力を使いたいほうだい使ってきたこの国に、はたしていつまでも日本は寄り添っていていいのか、とついつい考えてしまいます。

国益のためにシリアを攻撃する、とまことしやかに述べているようですが、太平洋戦争後70年近く経つ中、ベトナム戦争やイラク戦争を経験してきた現在の一般アメリカ国民も、この国益とは何ぞやというところは、さすがに疑問視しているようです。

もうそろそろ他国へのおせっかいはやめて、独自の文化の熟成のほうに力を注ぐべき時代だと思います。日本もまたしかり。自分より大きな魚にくっついて暮らす小判ザメのような行為はやめにして、無駄な軍事費を削減すれば、消費税のアップもしなくて済むかもしれません。

皆さんはいかがお思いでしょうか。