7年後……


東京オリンピックの開催が決まりました。

ひねくれ者の私ですら、喜んでいるくらいですから、おそらくは、国民の大多数が喜んでいると思います。が、大震災と津波の大被害にあった東北地方では、これから急ピッチで始まるであろう東京でのインフラ整備によって、復興の歩みが遅れるのではないかという懸念が広がっているようです。

福島原発の問題もまだ解決されていない中、いつまでも浮かれていてはいけません。東北の復興があってこそ、楽しく迎えられるオリンピックだと思います。

それにしても、これからの7年間、東北の復興に加えてオリンピックという新たな課題を抱えた日本はいったいどこへ行くのでしょうか。

おそらくは東北の再整備と東京での新規基盤づくりで、ありとあらゆるものが新しくなり、そうした「建設」をキーワードとした一時代になっていくに違いありません。東京オリンピックが開催される2020年までにはいろんな事業が加速していき、直前までそのバタバタは続くに違いありません。

そこで、ちょっと気になり、1964年にはオリンピックの直前までにどんなことがあったのだろうかを調べてみることにしました。以下は、必ずしも「建設」にこだわらず、その時代を反映したものを、私なりに抽出してみたものです。

1月
・森永製菓が日本初の高級チョコレート「ハイクラウン」を発売し、大ヒット商品となる。
・日本政府、公共料金値上げの1年間凍結を発表(景気高揚のため?)。
・第9回冬季オリンピック・インスブルック大会(オーストリア)開幕。
・連続殺人犯西口彰を逮捕(「復讐するは我にあり」で有名。5人を殺傷し、のち死刑)

2月
・ビートルズが初訪米(初来日は2年後の1966年)。
・日本国有鉄道で、新幹線以外の列車指定席のコンピュータでの予約が可能となる。

3月
・花王石鹸が「花王スターチ」を発売(2年後に「キーピング」に改称)。
・本田技研工業が「S600」を発売。
・早川電機(現 シャープ)が、日本初の電卓、世界初のオールトランジスタ・ダイオードの電卓(電子式卓上計算機)を発表(レジ並の大きさで重量25kg。価格は自動車並み)
・ライシャワー米大使が日本人少年に刺され負傷(ライシャワー事件)。

4月
・日本人の海外観光渡航自由化。ただし年1度、所持金500USドルまでの制限付き。
・IBM、汎用コンピューター「System/360」を発表。
・東京12チャンネル(現在のテレビ東京)が開局。
・富士航空ら3社が合併して、日本国内航空(のちの日本エアシステム)を設立。
・東洋工業が「ファミリア」ワゴンを発売して好評(10月には4ドアセダンも発売)
・週刊誌「平凡パンチ」が創刊。

5月
・ライオン歯磨が「デンター」を発売。
・東京都世田谷区で竜巻が発生。家屋450戸以上が被害を受ける。
・富士スバルライン開通。
・パレスチナ解放機構 (PLO) 設立。

6月
・三菱系3社の合併により三菱重工業発足。
・山形空港開港。
・太平洋横断海底ケーブル完成。池田勇人首相とリンドン・ジョンソン米大統領が初通話。

7月
・外務省、パスポート発給業務を都道府県に移管。
・「全国子供電話相談室」放送開始
・名神高速道路尼崎-栗東間開業。

8月
・大島空港開港。
・トンキン湾事件発生(北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍駆逐艦を攻撃。これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した)。
・東京・羽田に羽田東急ホテル開業(羽田エクセルホテル東急の前身)。
・俳優の高島忠夫の長男が家政婦に殺害される(「高島忠夫長男殺害事件」)。
・営団地下鉄日比谷線全線開業。
・日本人初のメジャーリーガー誕生(サンフランシスコ・ジャイアンツの村上雅則)。

9月
・ホテルニューオータニ、東京プリンスホテル開業。
・アジアで初となる国際通貨基金及び世界銀行総会が東京で開催される。
・道路交通に関するジュネーブ条約に加盟、日本人の国際運転免許証の利用が可能となる。
・福岡県粕屋町で自衛隊のヘリが墜落、愛知県犬山市上空で航空自衛隊の戦闘機が衝突、埼玉県岩槻市で、航空自衛隊リコが墜落するなど自衛隊機の墜落相次ぐ。述べ14人死亡。
・気象庁富士山レーダー完成。
・東京モノレール開業(片道250円)。
・大阪市営地下鉄御堂筋線の新大阪駅 – 梅田駅間が開業。

10月
・東海道新幹線開業(東京~新大阪間。運賃はひかり2480円、こだま2280円)。
・伊豆スカイライン開通(1日)。
・日本武道館開館(3日)。
・九州やまなみハイウェイ開通(4日)。
・第18回夏季オリンピック(東京オリンピック)開催、開会式(10日、24日閉会)。
・コスイギンがソ連閣僚会議議長、ソビエト連邦共産党第1書記にはブレジネフが就任
・池田勇人首相、東京オリンピック閉会式の翌日に退陣を表明。

11月
・公明党が正式発足。
・アメリカ合衆国大統領選挙で、民主党のリンドン・ジョンソン大統領が再選される。
・仙台空港開港。
・東京パラリンピック開催(8日)。
・自由民主党第5代総裁に佐藤榮作が指名され、首班指名を経て佐藤政権発足。
・アメリカ、火星探査のためにマリナー4号を打ち上げる。

12月
・東京都立駒沢オリンピック公園開園
・帯広空港開港。
・世界貿易センタービルディング設立(浜松町)。

こうしてみると、1964年というのは、年明け早々から結構重要事件の多い年であり、連続殺人犯の逮捕や、高島忠夫長男殺害事件、相次ぐ自衛隊機の墜落や竜巻などの災害など暗い事件もそれなりに多かったようです。

その一方で、その後の高度成長時代の先駆けを思わせるような新しい時代の工業製品の発売も相次いでおり、この時代を代表する新鋭の自動車や電卓などの発売が相次ぎ、ようやく戦後の復興が軌道に乗った感があり、国民の誰もがその足取りの軽快さを感じ始めていたことでしょう。

ただ、海外に目を向けると、アメリカは泥沼のベトナム戦争へと突入し、ソ連ではブレジネフが登場するなど、両国は冷戦時代へと確実に足を向けはじめています。

そんな中で、日本人の海外観光渡航自由化となり、これを受けてパスポート発給業務が都道府県に移管されたり、国際運転免許証の利用が可能になったりと、戦後になって日本人がようやく海外へ飛び立とうとする機運も高まり始めています。オリンピックの開催は日本人の国際化にさらに拍車をかける出来事だったでしょう。

冒頭で述べた「建設」についても、直前になって東急ホテルやニューオータニ、プリンスといったホテルが開設され、各地で地下鉄やモノレール、高速道路の開通のほか、外国からの観光客を見越してか、「伊豆スカイライン」や「やまなみハイウェイ」などといった観光道路も開通しています。

しかし、やはり大きかったのは東海道新幹線の開業でしょう。この開通によって、いよいよオリンピックの準備が整い、あとは待つだけ、という気分になったに違いありません。

ちなみに私はこのころまだ小学校へ入学前であり、オリンピックをテレビで見たかどうかも記憶が定かではありません。

調べてみるとこのころまだカラーテレビは一般化していませんでしたが(1967年から放映開始)、白黒テレビの普及率は90%近くになっており、建設省で電気関係の仕事をしていた父のことですから、おそらくは早々とテレビを入手していたはずです。

そこでさらに調べてみると、この年にはNHKの「ひょっこりひょうたん島」の放映が始まっており(1964年4月6日~1969年4月4日まで)、このほかにもテレビアニメとしては、「0戦はやと(1月)」「少年忍者風のフジ丸(6月)」などが次々と放映開始され、また8月には手塚治虫原作の「ビッグX」の放映も始まっています。

このほかにも「忍者部隊月光」なんてのも放映されており、これらの番組はいつも毎回欠かさず見ていたことは覚えていますから、オリンピックもおそらくは見ていたはずです。

さらにこの年のNHK大河ドラマは、「赤穂浪士」であり主演は長谷川一夫とあって、きっと高い、視聴率を得ていたことでしょう。このほか「木島則夫モーニングショー」などが人気があったようで、現在も放映されている「ミュージックフェア」(フジテレビ)などもこの時すでに放送されていました。

こうした大人向けの番組もなんとなく見たことがあるような気がするのに、オリンピックの放送だけははっきりと見たような記憶がないのは、ひとえにこうしたスポーツ競技にはあまり興味を持っていなかったということなのでしょう。

考えてみれば、大の大人が走ったり跳んだりするようなものを、小学生にもなっていない私が面白がってみるわけはなく、おそらくは興味を持って見ていたとすれば、華々しい開会式ぐらいだったのではないかと思われます。

そういえば、延々と大名行列のごとく各国の選手団が国立競技場に入場してくる様子をテレビで見たような気がしてきました。後年の記録放送を見たのを思い出しているにすぎないのかもしれませんが。

が、悲しいかな、ほかの本番の競技ではどんなシーンがあったかなどもほとんど思いだせず、この当時に記録されたバレーボールの試合映像などを最近になってみて、あぁそういえば東洋の魔女ってあんなだったかな~とおぼろげながらな記憶を辿る始末です。

おそらく私と同世代の人達もまた似たりよったりでしょう。ちなみに同い年のタエさんにもそのことを聞いてみましたが、彼女もまったくといっていいほど覚えていませんでした。

ちなみに、この年には、1月にオーストリアのインスブルックで冬季オリンピック開催されており、この様子もテレビで放映されていたはずですが、これに至っては、まるで私の記憶からは抜け落ちています。

このオリンピックでは日本は一つもメダルをとっておらず、前評判も低かったためにもしかしたら放映すらされなかったのかも、とも思いましたが、無論そんなわけはありません。

調べてみると、このときには、早稲田大学1年生の福原美和選手が、フィギアスケートシングルで5位に入賞したのと、同じく大学生で明治大学に所属していた21歳の鈴木恵一選手も500mスピードスケートで5位に入ったのが最高位だったようです。

ちなみに後年の金メダリストの笠谷幸生選手はこのとき明治大学在学中の20歳であり、90m級ジャンプで11位に入っていますが、日本のジャンプ陣ではこれが最高位でした。

このほか、野球では日本シリーズで南海ホークスが優勝し、大相撲では初場所と、秋場所、九州場所で大鵬幸喜関が優勝するなど、大活躍をしており、競馬ではシンザンが史上2頭目の三冠馬を達成しています。

残念ながら力道山はこの年の前年の暮れに喧嘩沙汰から刺殺されて亡くなっていましたが、これに代わってジャイアント馬場やアントニオ猪木が台頭し始め、テレビを賑やかせていました。

このプロレスは父が好きだったためか、私も釣られてよく見ていたような記憶があるのですが、いかんせん、ほかのスポーツについてはほとんど記憶がなく、何度も言うようですがようするにオリンピックも含めて興味がなかったのでしょう。

さらにちなみに、ですが、この1964年には石森章太郎の「サイボーグ009」が週刊少年キングで連載開始されており、また藤子不二雄の「オバケのQ太郎」も週刊少年サンデーで連載が始まっていて、このほか週刊少年マガジンとも併せ、私もよく漫画を読んでいました。

スポーツなどよりもこうしたもののほうがよっぽど面白かったのでしょう。子供向けの映画としても「モスラ対ゴジラ」「宇宙大怪獣ドゴラ」「三大怪獣 地球最大の決戦」などがこの年に封切られており、モスラ対……は見に行った覚えがあります。

さらに、歌謡曲としては、美空ひばりの「柔」や坂本九の「明日があるさ」、村田英雄の「皆の衆」、都はるみ「アンコ椿は恋の花」、ペギー葉山「学生時代」、ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」、園まり「何も云わないで」などなどがこの年のヒット曲です。

これらの曲の中には今でも歌詞を諳んじられるものもありますから、こうした歌手が出る歌番組もよく見ていたに違いありません。西田佐知子の「東京ブルース」なども流行り、この年は、タイトルに “東京” のつく楽曲が目立ったといい、これは東京オリンピックと無関係ではないでしょう。

こうしたことを書き連ねていると、不思議なことにこの当時のことがあざあざと蘇ってくるから不思議です。関連して、あそこで遊んだとか、どこへ行った、連れて行ってもらったはずだ、といったことも思い出され、まるで記憶の玉手箱のようです。

おそらくは私と同年代以上の方も同じではないでしょうか。


……さて、7年後です。この世がどうなっているかについては、想像がなかなか難しいところですが、これらの記憶を呼び覚ましてくれるのは、やはりこの当時既にあったテレビのおかげにほかなりません。

そこで、今後このテレビがどういう風に進化していくのか、について調べてみることにしました。

これについては、いろんな観測があるようですが、プレイステーション生みの親で、ソニー・コンピュータエンタテインメントの名誉会長だった久夛良木健(くたらぎけん)さんなどは、「みんなが想像するような“未来のテレビ”は、近い将来に実現できる」と語っています。

氏によれば、テレビはその配信先の端末の解像度や環境、ユーザーニーズに合わせ、超高精細な画像から低解像度の画像まで自在にエンコードして配信できるようになり、「壁面いっぱいのテレビからクレジットカードのように小さな有機EL端末まで、ありとあらゆるものが動画のインタフェース、という時代になる」ということです。

さらにはテレビから「枠」がなくなるといいます。未来のテレビでは、さらに没入感のある映像を楽しみたいという要望が増え、テレビが壁と一体化するようになるかもしれないとのことで、これを実現するための多視点からの映像撮影の実験はソニーなどではすでに行われているということです。

この技術を使えば、例えばサッカースタジアムにカメラを並べ、シュートの瞬間は、ゴール周辺のカメラからの映像をつなげて臨場感ある映像を楽しめるといったことも実現できるそうで、実験上は「夢の世界が、すでに実現している」といいます。

また、現在も既にパソコンとインターネットはつながっていますが、今後ネット上には、よりリッチな動画コンテンツが無限に増えていくと考えられます。

HD動画を撮影・ネット公開するハードルは現在よりもどんどん下がり、個人の気軽なホームビデオからプロ・セミプロの作品、放送局の制作した番組まで、あらゆる動画がネット上に蓄積され、こうしたものもテレビで自由に観れるようになるかもしれません。

映像の修復技術の研究も進んでおり、過去にVHSや8ミリビデオなどで保存しておいた古い映像をネットに上げ、修復・高画質化して保存するといったことも可能になってくるかもしれないといいます。

そうして世界中のあらゆる動画がネットに載り、動画の“クラウド化”が進んでさまざまなハードから閲覧でき、テキスト検索するように動画を検索できる時代が来るかもしれず、このころにはもしかしたら、テレビとコンピュータは完全に一体化し、現在でいう「テレビ」という概念はなくなっているかもしれません。

最終的にはワイヤレス化でケーブルがなくなり、脳波などでこうした「テレビ」を思った通りに操作できるようになる時代がくるかもしれず、リモコンがなくなり、本体は壁に埋め込まれて壁と同化しているかもしれず、「壁」になった未来のテレビはフレームがなく、壁全体がディスプレイになっているでしょう。

ただ、わずか7年先の時代にそこまで完成された技術があるかどうかはよくわかりません。日本でのテレビの普及率は現在97%を超えているそうなので、この現在のテレビの形態そのものが消滅しているということもまず考えにくいでしょう。

が、壁と一体化したテレビで大迫力の東京オリンピックを見ている家庭……というのは案外と多数あるかもしれません。

とはいえ、生きているうちにもう一度オリンピックを見る機会ができるわけですから、私もそうですが、もし可能ならば次回の東京オリンピックはじかに見てみたい、誰もがそう思うでしょう。

伊豆には2011年に完成したばかりの「伊豆ベロドローム」という立派な自転車競技用のトラックがあるので、もしかしたら東京オリンピックの室内自転車競技もここで行われるのでは……と期待していたのですが、どうもここでの開催はないようです。

はっきりしたことはまだ決まっていないようですが、自転車競技用のベロドロームは、東京オリンピックの関連施設が集中する東京都江東区有明に、木製自転車トラックと5000人収容のスタンドを備えた仮設のものを建設して開催する予定だそうです。

あくまで「仮設」なので大会終了後は、木製資材のリユースや、施設の移設を検討しているといい、仮設施設の工事費は、BMX会場とあわせて計65億円ほどだとか。

伊豆のベロドロームの建設費用が30億円程度だったといいますから、その倍以上かかるのは、ケイリン種目以外のBMXなどの競技も行うことを念頭に置かれているためでしょう。

せっかく、東京にも近い伊豆ですから、ここにそうした施設を現在の伊豆ベロドロームの隣にでも増設すればいいのに……と思うのですが、コンパクトな競技運営を売りにして勝ち取った開催ですから、さすがにそういうわけにはいかないのかもしれません。

ま、伊豆に来ないならば、こちらから見に行くしかありませんが、各種競技のチケットは今からもうかなり入手が困難だろうといわれているようなので、直接見ることのできる競技といえば、マラソンぐらいになってしまうのかもしれません。

だとすれば、高い費用を払って東京へ行くよりは、臨場感あふれる未来型テレビを買って自宅でオリンピックを見るほうが現実的かも……

まぁそれよりもまず、7年後まで生き延びることが大事です。たぶん生きているとは思うのですが、何があるかもわかりません。せいぜい現在の健康を保つことにしましょう。

皆さんも体に気を付けて7年後をお迎えください。