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茶々丸 ~旧長岡町(伊豆の国市)


昨日、梅雨の合間の晴れ間を利用して、韮山に散在する北条氏ゆかりの史跡を探訪してきました。そのひとつ、願成就院(がんじょうじゅいん)は、北条政子の父親で鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州平泉討伐の戦勝祈願のため建立したそうです。しかし、奥州征伐の戦勝祈願のためというよりは、北条氏の氏寺として創建されたらしく、願成就院のすぐ裏手の「守山」という、北条氏の館跡のある丘のすぐ麓にあります。

韮山駅から徒歩10分ほどのこのお寺、さすがに古さを感じさせますが、1189年に建てられたあと、1493年の伊勢新九郎(後北条の北条早雲)の「伊豆討ち入り」のときにほぼ全焼したそうです。しかし江戸時代に北条の末裔、北条氏貞が再建したそうで、現在の本堂や境内のつくりは、ほぼ創建当時のものとか。

この日は、日中の最高気温が30度を超える、暑い日でした。近くのスーパーにクルマを止め、守山を目標に新興住宅街の中を汗だくだくになって5分ほど歩きましたが、見えてきたお寺のある場所は、守山のすぐ麓のわりと静かな場所。北条氏の古刹と言われなければわからないほど地味なつくりです。はっきりいってそれほどメジャーな観光地ではないはずですが、今、NHKで放映されている大河ドラマ、「平清盛」によって、「平安時代ブーム」にあるせいか、三連休の中日だということもあって、観光客の姿もちらほら。

門を入ってすぐ左手。わりと目立つところに、北条氏の開祖ともいわれる時政のお墓が据えられていました。さすがに立派なお墓で、高さ2mほどの塔があり、これを中心にして周囲に灯篭らしいものが建てられ、立てた石で周囲が囲われ、きれいに掃除してあります。北条氏の他の人のお墓もあったのかもしれませんが、とくに案内板もなかったところをみると、北条早雲による動乱以後、時政本人以外の親族の埋葬は行われなかったのかもしれません。

本堂の左手奥、境内のかなり奥まったところには、先日のブログ、「狩野城」でも紹介した足利将軍家の一族、足利茶々丸のお墓もありました。北条氏の氏寺になぜ、足利家の人のお墓があるのか、そのいきさつはよくわかりませんが、お墓が置かれた場所も一等地とはいえないような、奥まったひっそりとしたところであるのをみると、そこにお墓があること自体、あまり歓迎されていないようなかんじ。それもそのはず、改めて人物像をみてみると、あまり感心できるような一生を送ったとはいえません。

 伝・茶々丸の墓

ここで、「狩野城」で書いたことをもう一度おさらいしておきましょう。

時は、応仁・文明の大乱で京の街が焼き尽くされ、戦乱が地方に飛び火してゆく時代です。伊豆国も平和ではいられず、やがては戦乱の世に入ろうとしており、次々と血なまぐさい事件が起こりはじめる、室町時代も末期のころのこと。

そのころ、鎌倉にあって室町幕府の関東統治長官であった「関東公方」を代々司る足利家は、その執事ともいえる「関東管領」を司る上杉氏とは、鎌倉府やその他の関東の所領の治め方をめぐって激しい対立を引き起こしていました。この双方の確執はやがて武力による動乱に発展していき、それに連動して伊豆の武士と駿河の今川家、北条早雲連合の勢力が四つ巴の争いを展開する複雑な情勢が生まれていました。そして、その情勢を一層複雑にし、やがては関東一円に広がる戦国時代に発展させる火付け役になったのが、本日の主役の足利茶々丸です。

足利茶々丸(ちゃちゃまる)は、8代将軍、足利義政の異母兄である、「足利政知」の子どもで、11代将軍・足利義澄の兄にあたる人です。生誕はいつかよくわかっていません。没年についても、1491年説や1493年説などいろいろあり、後述するように、最近の調査によれば1498年に没したというのが定説のようです。いずれにせよ、かなり若くして亡くなっており、おそらくは10代の後半か、20代のかなり早い時期に没したと思われます。

「茶々丸」は幼名で、正式な元服をする前に死去したため、成人としての実名である諱(いみな)は伝わっていません。普通は元服の儀式を持って名門、足利氏の一族のひとりとしてその名を天下に知らしめるべきところを、その元服を祝ってくれるはずの親に厭まれ、若くして非業の死を遂げたためです。

ことの発端は、1483年に起こった享徳の乱といわれる争いです。室町幕府の8代将軍、足利義政の時に起こったこの内乱は、鎌倉の政府出先機関の鎌倉公方、足利成氏がその補佐役である関東管領の上杉憲忠らを攻め殺した事に端を発し、両家だけでなく、幕府はもとより、伊豆や駿河の武士も巻き込んだ争いへと拡大していきます。

足利尊氏が関東を統治するために設置した鎌倉府は、尊氏の次男である足利基氏の子孫が世襲した鎌倉公方を筆頭に、上杉氏が代々務めた関東管領が補佐する体制でしたが、その政治手法をめぐって、次第に鎌倉公方は京都の幕府と対立しはじめるだけでなく、鎌倉公方と関東管領が対立するという内紛状態になっていました。そして起こるべくして起こったのが享徳の乱でした。

1455年、足利成氏は、憲忠を屋敷に招くとこれを謀殺。成氏の側近も、上杉邸を襲撃して憲忠の一番の部下、長尾実景などを殺害します。これに対して、上杉家の家宰(かさい・家長に代わって家政を取りしきる職責)であった長尾景仲は、上杉家の一族を率いて足利勢に対する反抗攻勢に出ます。この両者の戦いに、関東一円の武士たちがそれぞれの味方として参画して、関東地方は3年もの間、ほぼ全域が戦乱状態になります。

この戦い、そもそも京都の幕府と鎌倉公方である足方成氏とのいさかいに端を発しており、幕府は成氏をなんとか鎌倉から追い出したいと、関東管領の上杉氏に肩入れするとともに、駿河の今川氏も焚き付けて、何度も鎌倉を攻めます。

これに抗しきれず、成氏はいったん、古河城(現茨城県古河市)まで逃れ、この結果、関東地方は当時江戸湾に向かって流れていた利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断されるようになります。その後も小競り合いを続けますが、このような両者がにらみ合い、こう着するような期間はその後も30年近くにわたって続くことになります。

この間、将軍足利義政は成氏に代る鎌倉公方として異母兄の「政知」を送りこむのですがが、成氏方の力が強く、政知は、鎌倉に入ることもできず、伊豆韮山の北条氏宅を本拠にするようになります。その後、同じ韮山で北条氏の居宅に近い堀越(ほりごえ)という場所に御所を作り、その後、堀越公方と呼ばれるようになります。

その後、1476年になって、上杉方では有力家臣の長尾景春が関東管領家の執事になれなかった不満のため挙兵するなどの内輪もめが発生しており、不穏な空気が流れていました。このとき、関東管領になっていた上杉顕定は、公方陣営との対立に加え、こうした内憂の発生に危機感をいだくようになり、1478年、長年の確執を捨て、足利成氏と和睦を成立させます。

これによって、宙に浮いた形になったのが、伊豆に長逗留していた足利政知。足利成氏と上杉方が和睦してしまったため、新鎌倉公方として、鎌倉に入ることもできず、京都に帰ることもできずで、結局、そのまま伊豆にとどまることになります。そして、結局は伊豆一国のみを支配する代官としてその一生を終えることになるのです。

この足利政知が側室に産ませた子が茶々丸です。この茶々丸、その後、とんでもない事件を起こし、伊豆を騒乱におとしめる人物になっていくのですが、今日のところは時間これまでにしたいと思います。続きはまた明日。

伊豆の王国 ~旧長岡町・旧大仁町

雨が降り続きます。風も強い。まるで、台風のようです。今日の天気予報は終日曇り。まだまだ梅雨は続きそうです。

そんな中、先日庭に植えようと思って買ってきた、バラの鉢植えを見たら、きれいなピンク色の花を咲かせていました。「マチルダ」という品種だそうで、臭いはあまりありませんが、小さいながらも可憐な少女を思わせるようできれいです。我が家で初めて咲いた、記念すべきバラでもあり、ちょっと写真に撮ってみました。

先日、「素粒子と魂」の項で、アナウンスしていた、「魂の真実」が昨日届きました。沼津や三島の書店をあちこち探したのですが、入手できず、結局amazonで注文。一日で届きました。

早速昨日から読み始めていますが、さすがに科学者(現役のお医者さん)が書かれているだけに、霊魂も物質も、すべてエネルギー震動から作られているという説明には説得力があります。ここのところ、ちょっとだけ説明するのは難しいので、今度また改めて整理して、お伝えしたいと思います。が、その主旨としては、人間の体は、目にみえる肉体以外に、電磁気的エネルギー体でできており、このエネルギー体が霊魂だというお話です。

このエネルギー体は、情報伝達網を持ち、電磁気的な信号や電子による情報伝達、そして記憶能力を持ち、肉体が滅びても、生き続けることができる。しかし、振動数が高いため、通常の人には見ることができず、より精妙で高い振動数の波動と同調できる人は、視覚的にとらえることができる。つまり、「霊能力」がある人、ということです。

本の前半には、こうした人間の電磁気的エネルギー=霊魂、についての科学的説明があり、後半は、その霊魂の具体的な形態や、霊界とは何を意味するものか、霊魂と宗教とのかかわり、などなどの具体例が書かれています。

まだ、すべて読み終わっていないので、ここでその内容を総括するのは、今日はやめておきます。また、いずれ、整理してお伝えしましょう。

さて、昨日書き残した、伊豆の古代のことです。伊豆の古代については、昨日引用した日本書記に、配流地だったことなどの断片的な記述がある以外には、ほとんど文献資料がなく、どういう場所だったのかほとんどわかっていません。

しかし、伊豆半島の中央部を流れる、狩野川の西側には、古墳や横穴群がたくさんみつかっており、これらの遺跡から少し古代の伊豆の様子がわかりそうです。

伊豆長岡の少し北、沼津にほど近いところの海側に大平山という山がありますが、この山のふもとに、「江間」という場所があります。海からほど近く、2kmほども下ると、もう海岸線です。この江間から南の伊豆長岡町内に至る一帯には、は29群173基の古墳時代の遺跡が密集しており、こららの遺跡は主に、「横穴」です。実に23群151基が横穴なのだそうで、遺跡が見つかった場所の多くでは、一つのエリア内に、横穴群と古墳がセットになって発見されているそうです。

横穴群があるところは、これがひとつの「村」だったと考えられ、そうした場所には、たいがい古墳があるのだとか。一般庶民?のお墓としての横穴群のそばに、「村長さん」のお墓があった、ということになります。この遺跡、だいたい、六世紀(500年代)後半から、八世紀(700年代)前半までに作られたということで、と、いうことは、近畿地方で見つかっている古墳の成立年代が、4世紀(300年代)以降であることを考えると、およそ二百年も遅れてからの出現ということになります。

そこに「古墳」と横穴群が存在するということは、つまり、農業を中心とした原始的な生活を送っていた人々のところに、京都や奈良のような畿内にあった、最新の階級社会が持ち込まれ、横穴群をお墓にしていた人たちの中に浸透していったということなのでしょうか。七世紀ころの寺院建築の名残らしい、屋根瓦も発掘されているそうで、古代の伊豆と畿内の近代が、合体したような場所といえます。

昨日も書いたように、伊豆は配流地として指定されていたような場所ですから、中央の人たちからみれば、横穴をお墓にするような人たちは、野蛮人だと思っていたのかもしれず、それだからこそ、中央政府は、伊豆を在任の牢屋としてふさわしい、と思っていたのかもしれません。

この古墳や横穴群の分布ですが、狩野川流域では、沼津市、清水町、三島市の河口や下流部で、また伊豆の国市、伊豆市、旧修善寺町などの中流域で数多く発掘されているのだとか。上流域では、天城湯ヶ島町月ヶ瀬・古奈にもわずかではあるが発見されており、これらの遺跡はいずれも標高200mまでの範囲に分布しているそうです。これより低いところは、狩野川などの氾濫によって生活環境が脅かされていたためでしょう。

これらの古墳・横穴群は、伊豆長岡の大平山付近の江間から、伊豆の国市役所の南側の小坂という場所にかけての場所にかなり密集しているそうで、ということは、ここが、中央からの人が流入した中心地であったと考えることもできるようです。

畿内から、伊豆に流れ込んだ人々はまずこのあたりの地を選び、定住していったと思われます。もちろん、古墳時代以前から伊豆には先住者達がいたわけですから、その人たちを手なずけながら、徐々にこの地を治めていったのでしょう。この伊豆長岡は海にも近く、海産物も豊富にとれるほか、その背後の田方平野には、弥生時代後期から水田が拡がっていたと考えられることから、農業による収穫もかなり期待できたと思われます。そして、それらの農作物を運搬する際、狩野川を生活の大動脈として利用していたことはまちがいないでしょう。

ところで、この伊豆長岡に多い古墳(横穴ではなくて)には、どんな人達が葬られていたのでしょうか。畿内の人たちがこの地に入り込む以前からあるお墓ですから、当然、この地で勢力を張っていた実力者のお墓には間違いありません。

伊豆長岡町に駒形古墳というのがありますが、これは、伊豆では最大規模の円墳なのだそうです。ですから「伊豆の王」ともいえる人が葬られたのではないかという人もいます。この古墳の周囲には、もっと小さい、横穴群があるのだそうで、この伊豆の王よりも身分が低い人が埋葬されていたと考えられます。

このうち、北江間にある、横穴群のひとつには、「若舎人(わかとねり)」と彫られた石櫃が発見されているそうです。若舎人とは、皇太子級の役人に仕えた人のことを指しますから、中央の重要人物が本地域で埋葬されたことを示す証拠だと、いう人もいるようです。このほかにも巨大な石棺が発掘されており、古墳時代の有力者が数多く埋葬された墓地であるこ可能性があります。

これらの古墳や横穴群が、後の時代に頭角を現してくる北条氏と関連あるかどうかは、まったくわかっていませんが、この地域に大きな墓が多いということは、この狩野川西岸地域が当時の伊豆の大豪族の本拠地を示すものであることは確かと思われます。

そしてその豪族の王、「伊豆の王」は誰なのか、については、歴史ミステリーということで、いろんな人が研究をされ、諸説をとなえられているようです。

そうした人物がいたという根拠のひとつには、魏志倭人伝に記載された国々で王の存在が書かれているみっつの国、すなわち、卑弥呼の邪馬台国、スサノウの狗奴国、葛城氏の伊都国の三っです。この伊都国こそ、すなわち伊豆の国ではないかというのです。

魏志倭人伝は、3世紀末に書かれた、中国の歴史書で、当時の倭(現在の日本)に、女王が治める邪馬台国を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置や官名、生活様式についての記述が見られるそうです。

そして、その問題の伊都国については、次のように書かれてるそうです。

「東南へ陸行すること五百里にして行程一ヶ月で伊都国に到る。官は爾支(にし)と曰(い)う。副は泄謨觚(せつもこ)柄渠觚(ひょうごこ)と曰(い)う。千余戸有り、世々王有るも、皆女王国が統属す。郡使が往来する時、常に駐(とどまる)所なり。」

どこからの行程が、500里なのかわかりませんが、1000戸あまりの住居があって、代々の王様がいるものの、邪馬台国の女王がその上にあり、ときおりその中央から派遣された役人がやってくる、などかなり具体的です。

朝鮮語(韓国語)では、伊都国の伊都は「イェヅ」と発音するそうで、確かに、イズと似ています。また、この伊都国を治めていたという、「葛城氏」は、皇族の苗字としては古くから存在するそうで、昨日とりあげた、修験道の祖の「役小角(えんのおづぬ)」の家系は、古きは、大豪族の国主であった葛城氏の末裔だそうです。その後も、天皇の皇子の賜り名として「葛城王」という名前が使われたことが何度もあるそうで、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の別名は、実は、葛城皇子(かつらぎのみこ)というのだとか。

さらに、この伊豆半島の中央部には桂川、狩野(賀茂)川、田京、御門、葛城山、長岡、賀茂郡など、かつての都の地である、紀伊半島内陸部や奈良盆地一帯にあった地名と同じ地名が点在しています。これらのことから総合して、この伊豆の地に、葛城氏の長を王にいただく、「伊都の国」があったのではないか、というのです。

そしてその都は田京(伊豆の国市大仁田京)にあったのではないかとう人もいます。田京というのは、伊豆長岡の南にある場所で、前述の古墳群からもほど近い場所に位置します。この一帯は、古くから伊豆における政治・文化の重要な場所であったと言われており、後年、伊豆の大豪族になる狩野氏も、一番最初にここに入植しています。

しかも、田京の西側にはなんと、葛城山という山があります。古事記には、「御眞津日子詞惠志泥(みまつひこかえしね)の命(みこと)、葛城の掖上(わきがみ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしましき。」という記述があるそうです。

ところで、この古事記と日本書記、何が違うんでしょうか。昨日、日本書記が最古、と書きましたが、編纂が開始された年(697)は確かに、日本書記のほうが古いのですが、出来上がった年(712年)は、古事記のほうが古い(日本書記は720年完成)。それにしてもたった、8年の違いしかなく、同じ時期に、同じようなものが何故2つも作られたのでしょう。

これについて、両者の違いを述べてくれているサイトがあったので、以下、その違いを要約します。

・両者は神話の世界観が全く異なり、編集目的も全く異なっている。
・古事記は、語り部によって伝えられた伝承を、忠実にほぼそのまま記述したもので、王家が歴代統治してゆくことの正当性を述べようとしたもの。
・これに対して、日本書紀は、残っている書物をもとに中国風の史書を作ることを目的としたものであるが、王家に都合の悪いことについては意図的な改ざんが行われている。

その信憑性については、どっちもどっちというかんじですが、いずれにせよ、これより古い歴史書は存在せず、我が国の古代がどんなところだったのかを知るためには、この二つが最も重要な書物であることには違いないようです。

閑話休題。さて、古事記に書いてあるという、「葛城」の掖上宮のことです。この宮城を住んでいた?らしい、御眞津日子詞惠志泥命とう長ったらしい名前の人物が「伊豆の王」だとすると、「葛城」とは葛城山のこと、もしくは葛城氏をさしており、その掖(わき 脇)にあったという掖上宮とは、田京のことではないか、という説があるのです。

さらに、現在の駿豆線の田京駅の東側にある、御門(みかど)という場所には、条理制(じょうりせい)という、大化の改新の際に行われた土地の区画法の跡も見られるそうで、しかも、そこには、「久昌寺(きゅうしょうじ)の六角堂址」と伝えられる史跡があるそうです。と、いうことは、このお寺があったところに、伊豆の王が「ましました」掖上宮があったのではないか、と考えている人もいるようです。

田京といえば、我が家からもほど近く、クルマで10分ほどで行けます。葛城山に至っては、ウチから毎日のように見える山です。その麓にかつての邪馬台国に匹敵するような王国があった、と考えるとワクワクします。

もっともそれが本当だったという確証は何も得られていないようですが、一般の人の目には見えない霊魂同様、見るべき人が見たら、何かわかるのかもしれません。いかんせん、伊豆はパワースポットとして有名な場所。そんな場所にかつての王国があっても不思議ではないように思うのです。

今日はかなり太古に遡って伊豆の歴史について語ってきましたが、次回からは有史にある事項に少しずつ入っていきたいと思います。その合間合間にまた、「魂の真実」に書かれていることなどもご紹介していきましょう。

流刑地としての伊豆


昨日の九州地方の大雨はすごかったようです。50mmでもバケツをひっくり返したような雨といいますから、時間雨量100mmなどというのは想像もできません。ここ、修善寺でも夜遅くになってから、かなり降りましたが、それでも九州で降った量には遠く及ばない量で、事なきを得ています。

朝起きてみると、もう雨は止んでいました。庭に出て、アサガオの苗を植えているポットをみると、なんと、そこには、セミの抜け殻が。梅雨ももうすぐ明け、まぶしい日差しの夏がもうすぐそこに来ていることがわかります。

ところで、ご縁あって住むことになった伊豆ですが、これまでも何度か、その歴史にまつわる話題をこのブログで書いてきました。ひとつの物事について、ひとつ調べるとまた、別の事実が出てきて面白いなとは思っていましたが、伊豆の場合、とくに鎌倉や駿府(静岡)にも近く、思った以上に歴史的な物語の宝庫だ、と感じるようになっています。

なので、今後は、過去に伊豆でおこったさまざまな歴史的事実について、少しずつ調べ、このブログでまとめていこう、と思います。

とはいえ、堅苦しい歴史談義は苦手ですし、自分でもやっていて楽しい、人にも読んでもらって面白い、わかりやすい、といってもらえるような「伊豆ものがたり」を書いて行こうかと思います。その中で、また面白い発見があれば、それに特化したことをシリーズで書いてみるのもよいでしょう。時に、現地取材もありかも。なかなか面白くなるのではないでしょうか?

その手始めとして、まず、そもそも伊豆の歴史って、文献として残っているもので、どこまでさかのぼれるのだろうか、という疑問が沸いたので、そこんところをいろいろ、つっついてみました。

すると、古代史ということになると、文献的な資料は非常に乏しいようで、伊豆に関する記述があるもので最も古いものは、やはり、日本書紀になるようです。

そもそも、日本書記ってなんだ? と私と同じような歴史オンチの方も多いと思うので、一応解説しておきましょう。日本書記とは、奈良時代にできあがった日本の歴史書で、現存する最古の日本史、しかも、朝廷が太鼓判を押した、「正史」のことを指すのだそうで、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、すなわち、のちの天智天皇以降に成立した、律令国家で編纂された歴史書です。

中大兄皇子は、それまで執政として、朝廷を牛耳っていた、蘇我入鹿(そがのいるか)を中臣鎌足(なかとみのかまたり、別名、藤原鎌足)らと組んで暗殺します(西暦645年)以後、宮廷改革の中心人物として、遷都をはじめとし、この国の行政改革を次々とやってのけます。

これが世にいう大化の改新ですが、数ある改革の中のひとつとして、それまで誰も実現してこなかった国史の編纂がありました。日本の歴史の編纂を完成させ、日本の国威を内外に示そうとしたのだと思われますが、日本書記というのは、そうして作られた6つある歴史書のうちの一番最初のものを指すのだそうです。

この6つの歴史書、「六国史(りっこくし)」といいますが、このうちの最初のものを編纂したのが舎人(とねり)親王という、天武天皇の息子さんで、697年からスタートして、720年に完成したといいますから、20数年もかかっています。

その内容はというと、アマテラス大御神の神代から持統(じとう)天皇が退位した、697年ころまでの歴史的事実を詳しく書き上げており、古代日本のことを記した、いわばタイムマシンともいえるような存在です。

全30巻もあるそうなのですが、登場人物の系図などが欠落していて、また固有名詞が極端に少ない、といった難点があるらしい。さらに、誰がいったい何のためにそういうことをしたのか、といった具体的な事実がわかりにくいのだそうで、学者泣かせの代物らしいのですが、それでもともかく、1300年以上の昔のことが、これでわかる、ということはすごいことです。

さて、前置きが長くなりましたが、そんな日本書記の中に出てくる記述のひとつが、先日もこのブログでも紹介したように、「応神天皇五年(274年)十月、伊豆国に命じて船を造らせたとところ、長さ十丈の船が出来た。試しに海に浮かべてみると、軽くて、走るように進んで行くので、これを「枯野」と名付けた。」という記述。これが、おそらく歴史書に出てくるもっとも古い伊豆に関する記述と思われます。

これ以降は、天武天皇の時代の、653年に三位麻績王という皇族の息子が伊豆島に流されたという記述があるのをはじめ、686年には、に大津皇子という皇子の家臣で、張内礪杵道作(張内という場所に住んでいた、「ときのみちつくり」という人)が伊豆に流されたという記述があるそうです。大津皇子は、朝廷に謀反の意があると言われ、朝廷から自害を命じられており、「ときのみちつくり」は、これに連座したのです。

また、699年には、役小角(えんのおづの、おづぬ)という人が「伊豆島」に流されたという記述が出てくるそうですが、この伊豆島とは、伊豆大島のことを指しているという人もいるようです。

この役小角、飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍?した呪術者なんだそうです。修験道者、ようするに山伏の元祖で、その死後の平安時代に山岳信仰がさかんになるとともに、役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれるようになったようで、こちらのほうが、名前を聞いたことがある人が多いのでは。

実在の人物だそうですが、のちの世に至って、いろんな伝説で彩られていて、実のところはどんな人だったかよくわかっておらず、伝説ばかり残っているらしい。しかし、奈良で生まれ、17歳の時に元興寺というところで、「孔雀明王の呪法」という呪術を学んだということはわかっているらしい。その後、葛城山(現在の奈良と大阪の境界にある金剛山)で山岳修行を行い、熊野や吉野の山々で修行を重ねて、修験道の基礎を築いた人だということです。

20代の頃に、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説が残っていて、呪術に優れていただけでなく、医療技術ももっていたらしく、そのお弟子さんの中にはその後朝廷の薬局である、「典薬寮」の長官になった人もいるとか。鬼神を自由に使って、水を汲ませ、薪を採らせているとか、その命令に従わないときには呪で鬼神を縛ることもできたということで、ほんとかウソかわかりませんが、ボリショイサーカスの猛獣使いとMr. マリックを足して二で割ったような人だったのでしょう。

で、なんで伊豆へ流されたんかなーということですが、誰かに、人々を言葉で惑わしていると讒言(ざんげん)されたようで、その当時の天皇、文武天皇という天皇から伊豆大島へ流罪を命じられたそうです。

この、伊豆へ流罪になったという話は、伝説になっていて、その伝説のほうのことの顛末は次のようです。

役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていて、常に左右に鬼を従えるほどの力をもっていたそうです。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々にこれをやらせようとしたのですが、そのうちの一人、葛木山にいる「一言主(ひとことぬし)」は、醜い自分の姿をすごく気にしていて、夜にしか働こうとしませんでした。

そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立て、昼間も働かせようとしました。それに耐えかねた一言主。朝廷まで行って、役行者が謀叛を企んでいると讒訴します。時の天皇、文武天皇は、これを怒り、役人に役行者の捕縛を命じます。役行者はこれを法力で退けようとしますが、役人が、彼の母親を人質にしてつれてきたところ、おとなしく捕縛され、ついに、伊豆大島へと流刑になります。

しかし、役行者は、流刑先の伊豆大島でも、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていって修業していたとのことで、富士山麓の御殿場市には、役行者が建立したといわれる、青龍寺というお寺が今もあります。

その後、大宝元年(701年)正月に赦されて郷里の奈良に帰った役行者ですが、伝説では、その後仙人になったといわれています。が、実際には大阪府の箕面(みのお)市にある天井ケ岳というところで、68才で亡くなっています。

その後、時代が下るとともに、役行者は、信仰の対象にもなっていきますが、その超人的な伝説は、日本各地で語り継がれていきます。そして、近代では、江戸時代に書かれた、滝沢馬琴の南総里見八犬伝にも登場します。八犬伝の中で、「八犬士」の生みの母親である、伏姫に、「仁義礼智忠信孝悌」の文字が書かれた八つの玉を授けるのはこの役行者です。この南総里見八犬伝をもとにした、NHKの人形劇、新八犬伝(1973年)を見られた方も多いのではないでしょうか。

日本書紀には、このほかにも「伊豆島」へ罪人が流されたという記述が随所に見られるそうです。675年には麻績王(おみのおおきみ)という皇族の二人の子が流罪になっているほか、また、677年にも「杙田史名倉(くいたのふびとなくら)という人物が、天皇を批判したとかの罪で、「伊豆島」に流され、この場合は処刑された、とされています。

このほか、流罪ではありませんが、620年には掖玖(やく、現・屋久島)の人が「伊豆島」に漂着したという記述もみられるとか。

このように、伊豆半島や伊豆諸島は、古くから流刑地とされていたようで、六国史のひとつで、日本書記の次に書かれた「続日本紀(697-791)」には、724年には「伊豆国」が安房国、常陸国、佐渡国などとともに遠流の地に定められたという記述がみられるそうです。

ちなみに、この続日本紀にも、699年に役小角が伊豆島に流されたという記述があるそうですが、これよりずっとのちの1094年ころに書かれた「扶桑略記」という六国史の要約版のような歴史書にも同じ記述があるとか。そこには、「仍配伊豆大島(よって、伊豆大島に配流される)という記述がみられるそうなので、これを根拠にして、伊豆島とは、伊豆大島だったと考える学者さんが多いのだそうです。

さて、このように古代の伊豆は、流刑地という印象が強いのですが、日本書記に記されている記述以前の伊豆がどういう場所であったかについては、伊豆北部から中部にたくさんある古墳や横穴群にその当時の状況を知る手がかりがあるようです。

これについては、大化の改新のあとの670年代以降に出来上がっていく、律令国家の体制の中に伊豆の国が取り込まれていった状況とともに、明日以降、また詳しく書いていきたいと思います。

今日の伊豆の古代史、史料が少ないので、まとめていくのは結構大変でした。明日以降が思いやられますが、まあ焦らずぼちぼちやっていくことにしましょう。

駿豆線

伊豆へ引越してきてから、今日でちょうど4ヶ月が経ちました。家の中はまだ、片付いていない部屋はあるものの、補修等はほぼ終息。庭の手入れも、基礎的な形状はととのえ終わり、庭木を植えたことで、少しずつ庭らしくなってきています。

東京での生活との違いを改めて思うに、やはり実感できるのは、この空気感でしょうか。晴れた日ばかりではなく、雨の日も曇りの日も、それなりの「爽やかさ」が漂っているかんじがします。東京にいるときは、普通に生活していても、何か息苦しさを感じていたように思いますが、ここでは一瞬一瞬に吸い込む空気で身も心も洗われる、といったら書きすぎかもしれませんが、ともかく深呼吸が心地いい。

日常生活に必要なものも、近くにかなり大きなスーパーがいくつもあり、まったく不自由はありません。一般のスーパー以外にも、農協系のお店がいくつかあって、野菜や魚などは、スーパーよりは安く買えます。地元の農家の方が直接売りに出しているので、少し型崩れのものもありますが、食べる分には何の支障もありません。むしろ、無農薬野菜と思われるものばかりなので、安心して食べることができます。

修善寺から少し伊東寄りにある農協系のお店、「農の駅」では、付近の農家で採れたワサビを安く売っていて、魚好きの私にとっては大変うれしいことです。7~8cmくらいもある大きなワサビが300円くらい。一本買えば、だいたい5日間、毎日使っても大丈夫です。ときには、もっと小さいワサビが茎ツキで、4~5本、400円くらいで売っていたりします。東京なら、いずれも1000円近くするでしょう。

花好きのタエさんにとっては、お花が安いのも魅力です。これも農家直売だからなのでしょうか、花束が一束、150円とか200円で売っていますし、鉢植えの花だって安い。めずらしい山野草みたいなものを売っていることもあり、毎週のように行く、この農の駅では、これは何だろう、あれは何?みたいな、タエさんとの会話も結構楽しかったりします。

このように、生活全般では何も問題ない、というか、環境が変わっただけで、こんなに生活って変わるんだろうか、と思えるほど、豊富な自然環境に恵まれ、豊かな気分で過ごせる毎日です。

ただ、難点をいえば、少し特殊なものが欲しいときが問題。たとえば、ちょっと変わった本や雑貨が欲しいと思ったとき、東京なら、この町に行ってなければ、別の町のお店へ行ってみればいいや、それでもなければ、新宿へ出ようか、とこうなるのですが、ここ伊豆では、大きな町というと、最短が沼津と三島、そして伊東だけになってしまいます。

大きな町といっても、面積が広いだけで、東京でいえば、青梅とか福生のようなかんじ。ジュンク堂書店や、東急ハンズのような大規模なお店はありません。少し遠出をして、静岡や浜松へ出るなら別ですが、それなら、むしろ横浜へ行ったほうがいいや、ということになります。

もっとも、東京に住んでいたときだって、多摩から東京駅に出るには、2時間ちかくかかっていたのですから、時間的には一緒。そう考えれば、豊かな自然環境に囲まれているだけ、こちらのほうが断然いいや、ということになります。

交通機関も比較的充実していて、別荘地内には本数は少ないものの、修善寺駅までのバスの運行がありますし、さらに、修善寺駅から三島駅までは1時間に4本もの頻度で電車が出ています。東京駅直行のJR伊豆の踊子号もあり、これに乗れば、2時間ほどで東京に行くことも。さらに、新宿まで直通の高速バスまであるのです。

ただ、交通費はばかにならないかな。バス利用では、新宿~修善寺間が往復4500円ほど。特急や新幹線利用なら往復1万円はかかります。新幹線利用の場合、三島から修善寺までは駿豆線(すんずせん)に乗りますが、三島~修善寺間、約20km区間は500円。東京の私鉄の値段に比べると、ちょっと高いけれど、まあ、許せるかなといったところ。

この駿豆線、前にも書きましたが、明治の30年代に、湯治客の便を図り、伊豆中部の大仁と東海道本線を結ぶ目的で建設されました。初めの計画では、沼津を起点とする予定だったのだそうですが、東海道本線に駅がなく、さびれかけていた三島市の有志が、当時の駿豆電気鉄道に土地寄贈を行うなど、積極的に駅の誘致を行ったため、三島起点が実現したのだとか。

その当時もそうですが、今もどちらかといえば三島よりも沼津のほうがにぎやかなので、伊豆の住民には、沼津が始点だったほうが歓迎されたのではないでしょうか。

が、その後、新幹線が止まるようになったことを考えると、三島に駿豆線を誘致したのは大正解だったのかも。おそらく、JRも、新幹線駅を三島にするか、沼津にするか迷ったと思うのですが、おそらく、既に駿豆線というインフラができており、修善寺方面へ行く観光客を獲得するためには、三島のほうが有利だと判断したのでしょう。無論、私たちに伊豆市民にっとっても大歓迎。三島へ出さえすれば、東京でも名古屋へでも新幹線で行けるのですから。

明治時代にできた、この駿豆線ですが、これができたことで、東京から伊豆へ湯治に出かける人は、かなり増えたようです。以前もこのブログで書いたように、たくさんの文士たちも湯治に頻繁に来るようになっており、その中の一人、尾崎紅葉さんは、駿豆電機鉄道が大仁まで開通した二年後には早くも修善寺に温泉湯治に来ています。明治35年に書いた日記の中で、「汽車を見るに軽微にして粗鹵(ソロ)、其(そ)の来るや狸の化けたる者の如く、煙突の小なるむしろ噴飯すべし、車六輛を列ねて軒輊(ケンチ)して去る」との記述があるそうです。

「ホームに入ってきた汽車をみると、やけにちゃちに見えて、こんなもので大丈夫なのかというような代物。煙突も小さく、まるで狸のばけもののように見えて、笑ってしまった。車両は6両で、妙にがたがたと上下揺れながら、行ってしまった。」くらいの意味でしょうか。

その当時は、駿豆線にまだ電気機関車は導入されていなくて、紅葉さんが伊豆を訪れていたころに客車を引っ張っていたのは、小さな蒸気機関車だったようです。それがホームに入ってきた様子をみて、かわいらしいやら、頼りなげなやらの様子をみて、紅葉さんは思わず笑ってしまった、と書いたのだと思われます。

このころまだ駿豆線は、豆相鉄道と呼ばれていた時代で、それでも静岡県初の民営蒸気鉄道だったそうです。東海道線のように政府が運営する路線を走る蒸気機関車はこれよりもずっと早く運行が始まり、輸入した車両を使っていたのでおそらくずっと立派なものだったのでしょう。豆相鉄道の汽車は軌道も狭く、同じ蒸気機関車とはいえ、規模も小さかったはずで、これをみた紅葉さんが笑ってしまったというのもうなずけます。

駿豆線が、電化されるのは、明治39年(1906年)になってからのことです。このあと、明治41年には、岡本綺堂、明治42年には、島崎藤村と田山花袋、明治43年に、夏目漱石、大正5年、吉田絃二郎、大正7年、川端康成と、次々と有名な文士が駿豆鉄道で修善寺にやってきています。

芥川龍之介も、1925年(大正14年)4月21日に、修善寺温泉の新井旅館に行くために、駿豆線に乗っており、東海道線の三島駅から駿豆線、三島駅へ乗り換えるとき、その様子を伝える手紙を残しています。

「三島についたらプラットホームの向う側に修善寺行きの軽便がついているゆえ、それへ乗れば六時には修善寺につく。修善寺駅から新井までは乗合自動車、人力車荷でもある。時間がわかれば僕が迎えに出る。切符は東京駅より修善寺駅まで買ったほうがよし。」

「軽便」というのは、今の駿豆線のことで、軌道の幅が小さく、「ちんけ」に見えるこの路線のことを、その当時はこう呼んでいたようです。芥川さんが三島に着いたのは午後4時39分だったそうで、そのころには、三島から修善寺まで1時間40分もかかっていたのですね。いかにも非力な電気鉄道の様子が目に浮かぶようです。

この手紙は、修善寺へ来る友人か誰かに宛てた手紙のようで、芥川さんが、「切符は東京駅より修善寺駅まで買ったほうがよし」と書いているのは、おそらく、東海道線の三島までしか買わないと、三島でまた駿豆線の切符を買わねばならないから面倒くさい。東京駅で修善寺駅までの切符を売っているので、それを買え、と言いたかったのでしょう。

その当時もう、国営の東海道線と民営の駿豆線の間で、切符の購入にあたっての提携が行われていたことがわかります。

以後、芥川さんのような文士だけでなく、東京から伊豆への湯治客はひきもきらずの状態で、昭和8年には、初めて東京から修善寺までの直行列車が、週末だけでしたが、運行を開始しています。さすがに戦時中は、中断したようですが、戦後の昭和24年に再開。旧国鉄の準急、「いでゆ」、翌25年には同じく準急の「あまぎ」が乗り入れを開始します。

特急「踊り子」は昭和52年(1981年)に、それまで運行されていた特急「あまぎ」と急行「伊豆」を統合して運転が開始されたそうです。この当時の、所要時間は平均2時間45~50分だそうで、現在の2時間10分に比べると30~40分遅かったようです。

現在、「踊り子」号と呼ばれるものにはもうひとつ、伊豆の東側を走る伊豆急行の、「スーパービュー踊り子」があります。こちら、海側を通って下田へ行く電車で、別に天城を通るわけでもないのに、なんで「踊り子」なんかな~と思うのですが、「老舗」である駿豆鉄道を通る特急「踊り子」のネームバリューが大きくなっていたので、ちゃっかりその名前の上に「スーパービュー」をつけ、広告効果をねらったのでしょう。

おかげで「踊り子」がふたつあることになり、結構これを混乱される方も多いみたい。民主党と自民党じゃないけど、ネームバリューが高いとなると、似たような名前をつけたがるのは、日本人の癖なのかもしれませんね。

さて、今日は、駿豆鉄道の歴史物語になってしまいました。いつも、書きはじめは違うことを書こうと思っているのに、途中からどんどん別の方向へ行ってしまうのは、私の「癖」。直したほうがいいのかどうか、わかりませんが、ま、こんなへんな癖のあるブログでもよろしければ、またお寄りください。

今日の伊豆地方は、これから午後、雨になるようです。しばらくの間、天気はあまり期待できなさそうなので、これから、少し散歩でも行ってこようかと思います。またブログにアップするようないい写真が撮れると良いのですが……

素粒子と魂

先日、「ヒッグス素粒子」が見つかった、かもしれない、というニュースが全世界を駆け巡りました。まだ、「暫定」的な発表ということなのですが、専門家からはほぼ確実、とみられているようです。

そもそも素粒子って何だ? とまったく知識を持っていなかったのですが、奇しくも今朝、先日の5日にNHKで放映されていた、「コズミック・フロント」の録画をみていたら、だいたい、その意味がわかりました。

この放送、アメリカのある女性天文学者が、遠い銀河にある星のスペクトルを観測することで、星々の重量を計測するという研究をしていた、というところから始まります。

彼女は、その研究によって、銀河の中にある星々がどのくらいの速さで、銀河の外へ出ようとしているかを研究していたというのですが、観測の結果、膨張しつつある銀河の速度を計算したところ、目に見える恒星だけの重量では、その速度にはならない、という結果を得ます。銀河の中に何か、目にみえない重い重量を持つものがあって、それが恒星が引き留めていると考えない限り、その速度にならないはずだ、と彼女は結論づけます。

彼女の理論は、当時の天文学者たちになかなか受け入れてもらえませんが、彼女の執念はものすごく、その後も100もの銀河について、同じような観測を辛抱強く続けていったといいます。そうしたところ、なんと、すべての銀河において同じ結論が得られたのです。そして、その目に見えない大きな重量物は、「ダークマター」と呼ばれるようになり、世界中の天文学者がそれが何であるかをつきとめようと研究を始めるようになります。



ちょうどそのころ、物理学の研究者たちも、物質を構成する粒子の研究の中で、目に見える粒子だけでは説明できない粒子があるのではないか、という疑問を持ち始めていました。かつては、原子が究極の最小物質と考えられていましたが、その後、原子は原子核と電子で構成され、さらに原子核は陽子と中性子に分けられるということが発見されます。

ところが、これらが究極の物質だろうか? 陽子や中性子を、もっと細かく分けることはできないのだろうか?と疑問を持つ物理学者がいて、さらに調べていくと、どうやら未確認ながら、それらをつなぎとめる別の粒子があるらしい、ということがわかるようになります。そして、物理学者たちは、それを「素粒子」と呼ぶようになります。「物質を細分化していって、最後にたどりつく究極の粒子」という意味でつけられた名称です。

この素粒子、その当時の研究では、目にみえない物質であったことから、幽霊粒子、とまで言われていますが、そのころ天文学者の間で話題になっていた、「ダークマター」とも同じように目にみえないものであったことから、もしかしたら、同じものではないか、と考える学者が現れます。

やがて、天文学と物理学がそれぞれ別の観点から、探求していたものが、どうやら同じものらしい、と認識されるようになり、こうして天文学と物理学の融合が始まります。それぞれ別々の分野だった学問が、天文物理学、素粒子物理学、という新しい分野の学問に名前を変えて発展していくことになるのです。

そして、それらの学問の発展の中で、陽子や中性子、電子など以外の素粒子がみつかるようになります。岐阜にある、素粒子観測施設、「スーパーカミオカンデ」で観測することに成功した、「ニュートリノ」も素粒子のひとつです。

このように、何等かの形で観測できる、すなわち我々の目に見える形で存在を確認できる素粒子は、すなわち「光」で観測可能な素粒子なのだそうです。ところが、素粒子の「標準理論」では、光で観測可能な物質はそのすべてのうちの4%にしかすぎず、残りの96%は未解明なままなのだそうです。

「標準理論」とは、高い精度の実験結果に基づき、物質の構成要素が何と何でできているかとを正確に理論として立証することができる、ということでこう呼ぶようになった理論で、ノーベル物理学賞受賞者の小林誠博士、益川敏英博士の「小林・益川理論」がその基礎になったと言われています。要するに物質の構成要素である、陽子や中性子や電子、そしてそれ以外の素粒子のすべてを証明できる完璧な理論、というわけです。

この理論を使えば、物理現象のほぼすべてが高い精度で計算が可能になるのだそうで、現在の物理学では、基準ともいえる理論、という意味で、標準理論、標準模型、標準モデル、などと呼ばれています。

標準理論の予言と矛盾するような実験事実は今のところ存在しないそうで、これはこれですごい理論らしいのですが、ところが、標準理論には弱点があって、その中で登場する素粒子の存在が何なのかがよくわかっていないのだそうです。

そして、その未解明な素粒子こそが、ヒッグズ素粒子ではないか、と期待されているのですが、そもそもヒッグス素粒子はみつかったばかりなので、標準理論で登場する素粒子=ヒッグス素粒子なのか、はたまた、ヒッグス素粒子=未解明な96%の素粒子なのか、など、具体的なことは、まだぜんぜんわかっていないのだとか。

いずれにせよ、次のステップとしては、この粒子が何であるかを解明し、この世界のすべてを構成し、またその相互作用を生み出す基本的な粒子についての完璧なモデルを作りあげることが、学者さんたちの目標になっているわけです。

ここまで調べてきて思うのは、ここまで現代の科学技術が発展してきていても、まだ宇宙の96%もの質量を支配しているような物資が発見されていないんだ、ということ。まだまだ我々の知らない、未知の世界があり、科学的にも証明できないことがたくさんある……

そう考えてくると、霊的な世界のこととかも、科学的に証明されていないですね。もしかしたら、この未発見な素粒子って、霊的なエネルギーなんかと、何かの関係があるのでしょうか。目にはみえないけれども、この世界を形作るほどのエネルギーや質量をもつという素粒子が存在するのであれば、それと霊的なエネルギーがリンクしていても不思議ではないはずです。それがイコールな関係かどうかは別として、そういう研究ってないのかしら、と思い、ちょっと調べてみました。

そうしたところ、最近話題になっているらしい本で、「魂の真実」というのがあるらしいことがわかりました。著者は、「木村忠孝」さんという人で、北九州市の病院の院長先生らしい。お医者さんです。

そのプロフィールは、1954年1月27日生まれ。福岡市在住。北海道立札幌医科大卒。日本、アメリカでの臨床経験を経て(内科・救急医学・精神科・心療内科)、現在、北九州市春日病院院長、だそうです。

大きな病院の院長までやっている方だけに、なかなか信頼のおけそうな本です。まだ買ってもいないので、その内容すべてを知ることはできませんでしたが、その一部を紹介しているホムペがあったので、いくつか拾い読みをしてみました。その中に、本編をそのまま引用しているものもあったので、以下、再引用してみます。

「生命の秘密 生命体は約300~2000ナノメートルの周波数エネルギーを放出している。周波数の違いは固体の質量、色、光度、温度、性質を決定している。エネルギー波の振動が、それに合った某体に出合うと、そこで変化を起こし、粗い振動の世界に移る。それが中間子、電子等、素粒子になる。素粒子はエネルギーに分解され、エネルギーは素粒子を形成する。膨大なエネルギーがくっつき合い、重なり合い、凝集、結晶化して、振動数が鈍くなることで素粒子が生まれ、その素粒子が重なり合い、凝集することで物質が生まれる。振動数が極端に高くなると視覚で捕らえることが出来なくなる。可視光と不可視光の違いも振動数によるもの。私たちは波長の同調されたものしか見られないため、波動次第で見る範囲が決定する。だから人によって見えないものが見えたりする。実際、色にしても、普段私たちは数十色までしか識別できないが、現在つくることのできる色は、約680000000(六億八千万)色あるという。脳内の思念も電気信号的なエネルギーの振動である。」

なかなか難しそうです。よくわかりませんが、生命は素粒子でできていて、我々の波長に合うものは見えるけれども、見えないものもある、ということのようです。霊的なエネルギーは普通は見えないけれども、波長があえば見える素粒子である、と言っているのかもしれません。

さらに、「まとめ」として、

・身体は、目に見える肉体以外に、電磁気的エネルギー体で出来ている
・振動数の違う他の放射体が、肉体と重なるように存在している。
・人間が細胞から光を発していることが証明され、それを定量的に測定測できるようになった(生体光子)
・人間は生体光子になる情報伝達網を持ち、電磁気的な信号、電子による情報伝達、記憶をもっている
・オーラや生体光子は現代機器で映せるものの、霊体の中核として頭の中心に存在する光子体は振動数が高いため、通常の人には見ることが出来ないが、より高い振動数の波動と調和できる人には視覚的に捕らえることができる
・脳を微電流が流れることにより形成される磁場、磁場線が阻害されたり、切れたり、止まると、肉体に死が訪れ、霊体と分離する
・死後の霊体は球形で35cmほどある。死後体重は26g減る。その後、大気中で有機物や余分なものが消失し、球形5cmくらいのプラズマ状の球体となり、主に電子、素粒子により構成されるようになる。その後、球体の直径を自由に変化させることができる

などなどと、続きます。かなり細かい内容です。本物の本を読んでいないので、その根拠などはよくわかりませんが、霊的な存在について具体的な数字まであげられているところなどは、かなり本格的です。

今日のところは長くなりそうなので、ここいらでやめておきます。購入して読んでみたら、また私自身のことばにして、わかりやすく書いてみたいと思います。ご興味のある方は、ご自分でも買って、私より先に読んでみてください。出版社は「たま出版」1500円だそうです。

今日は、タエさんのお買いものに付き合って、三島まで行く予定なので、そのときにこの本も探してみようかな。良い本だといいのですが……