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千と千尋の裏話

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毎日良いお天気の日が続いており、これはどうみても梅雨明けでしょう。

気象庁からの発表はまだありませんが、天気図を見るとずいぶんと太平洋高気圧が張り出してきており、九州南部では早、梅雨明けをしているのではないか、とのたまう気象予報士さんもいるようなので、早晩気象庁からも梅雨明け宣言が出るに違いありません。

例年、梅雨があけるころがちょうど夏休みの入りであり、ここ伊豆もやがて若者にあふれかえることでしょう。東京に近いこともあり、とくに東伊豆のビーチはどこへ行ってもイモ洗いです。

人ごみの嫌いな私は、こういうところへはなるべく近寄らないようにしており、観光客が多くなる季節にもし海が見たくなったら比較的すいている西伊豆や南伊豆へ行くことにしています。伊豆暮らしも3年目になると、だいたいどこの海岸が綺麗とか富士山が良く見えるとかがわかるようになってきており、それはやはりこの地に住んでいる者の特権です。

ただ、それでも伊豆全部の海岸を走破したわけではありません。おそらくあまり知られていないような場所もあるに違いなく、これからはそうした海を探索して回るというのも楽しいかもしれません。

ところで、海といえば、その昔見たアニメ映画の「千と千尋の神隠し」の最後のほうで出てきた海は印象的でした。大雨で氾濫した湿原が海とつながり、その「海原」の中を鉄道が走っていくのですが、その背後の空の色調といい、どこまでも広がる海原の中にところどころにぽつんと民家や踏切が浮かんでいるといった描写も実に幻想的でした。

調べてみると、この鉄道には名称があり、その名も「海原電鉄」というのだそうです。しかし、「電鉄」と銘打ってはいるものの、架線は存在せず、列車自体は気動車のようです。

この電車の車体は木目調で両サイドにドアがあり、よく見ると型番の表示もあります。車内は赤い対面型のシートに木目調の内装が施され、扇風機なども取り付けられていてかなりレトロです。一方では、空調の室外機らしいものもあり、モデルとなったのは、相模鉄道と小田急電鉄と言われています。

こうした古いものに、近代的設備を付加したデザインというのは、宮崎作品にはよく出てくるものでもあり、様々な時代の特徴物をひとつのものにインテグレートすることで一層不思議感が増します。監督の得意とする手法のひとつでしょう。

二両編成で、前面には屋根上の丸型前照灯および赤色灯がついています。また正面中央には「中道」とかかれた表示板がつけられており、これはおそらく路線名または行き先だと考えられます。



実は、この中道というのは、仏教用語で、相互に対立し矛盾する2つの極端な概念や姿勢に偏らない生き方を言います。苦・楽のふたつを「ニ受(にじゅ)」といい、魂や様々な存在物について恒常的に「有る」とか、ただ単純に消えてなくなるだけで「無い」という見解を「二辺」といいますが、そのどちらにも囚われない、偏らない立場が中道です。

たとえば、厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法をとることなどが中道です。お釈迦様は、6年間にもわたる厳しい苦行の末、いくら厳しい苦行をしても、これでは悟りを得ることができないとして苦行を捨てました。

苦行を捨て断食も止めて中道にもとづく修行に励み、かといって楽も求めず、ついには悟りを開きました。この状態のことを「中道を覚った」といい、このように目覚めた人のことを「仏陀」といいます。

この電車の表示板に書かれていたのが、行先だとすれば、宮崎駿監督は、この「中道」の意味を知っており、この電車の終点としてはそこが理想的、と考えたのでしょう。

この物語では、主人公の千尋が、「油屋」で大暴れした「カオナシ」を連れて、この電車に乗り、「銭婆」の所に行く、という設定なのですが、その途中この電車はあちこちに停車し、その都度、この世界の乗客が昇降します。

この乗客たちは、不透明な黒い影のような人達で、顔を見ることはできません。中高年が大半のようですが、通常の人よりも少々大柄なようでもあり、中にはとてもくたびれた感じで座っていたり、立っていたりする人もいます。

この人物たちが黒いのは、生きる希望も未来もなくなって死んだ人達である、という説があります。中には自殺者もいるであろうことから、途中に駅があるのはそうした自殺を踏みとどまらせるためだといいます。また、電車が行きしかなく、帰りの電車がないのもこの電車が自殺者を乗せるためのものであることを裏付けている、という人もいるようです。

九十九島

実は、この世界に迷い込んだ千尋や両親は、映画の冒頭で事故にあって瀕死になっていた、という説もあるようです。劇中の冒頭で、車を運転していた父親が突然スピードをあげて不思議な街の入り口のトンネルに向かっていくシーンがありますが、実はこの時に、事故を起こして、彼等は死に直面したのではないか、というのです。

改めて映画を見ると、確かに千尋のお父さんは確かに事故に遭っていておかしくない猛スピードでクルマを飛ばしています。また、千尋が向こうの世界に着いたとき、たびたび体が透けてなくなりそうになっていますが、これはこの電車に乗っていた人達と同様に千尋もまた死にかけているのだと考えることもできます。

さらにこの説を裏付けるものとされるものが、この千尋たちが最初に突入したトンネルです。赤い色をしていますが、映画の最後のほうで、この不思議な世界から帰る千尋たちが通るトンネルは、本来の石造のトンネルに変わっています。つまり、これは千尋たちが生還してこの世に戻ってきたためである、というわけです。

そもそも、千尋たちが、この不思議の町に入ることになったのは、家族の絆が薄れ、投げやりな生活をするようになったからだら、という説もあります。

この街は、こうした投げやりになってしまった人々に「生きる力」を呼び覚ますためのチャンスを与えてくれる場所です。そこで仕事を得て懸命に働くということは、「生きる力」を得るということでもあります。このため映画の中でも千尋は必死になって仕事を得ようとします。

しかし、ここでも働くことをせず、投げやりになったままだった父親と母親はブタの姿に変えられました。やがては消滅させられる運命だったといい、千尋とともに二人とも生還できたのは、その後この世界での更生がうまくいったからだといいます。

さらに、千尋とともにこの海原電鉄に乗る「カオナシ」は、「自分の欲望の固まり」そのものなのだそうです。劇中、カオナシは、手から沢山の金を出して、「千尋がほしい」と迫ります。しかし、もし、千尋がこれを欲しいという欲望に負けてしまったなら、カオナシに呑み込まれ、この世界から戻ってくることが難しくなっていたかもしれません。

仮に、日常世界に戻って来られたとしても、お金の亡者の様な人になっていたかもしれず、しかし、千尋はお金の欲望に負けず、見事に金を突き返したため、「欲のない素直な女の子」のままこちらに帰ってこれたというわけです。

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ところで、この海原電鉄の乗客の黒い人物たちの中には、明らかに少女らしい人物もおり、ホームから走り去る列車を佇んで眺めている様子が描かれており、なにやら意味ありげです。

実はこの少女は同じジブリ作品の「火垂るの墓」に登場し、最後のほうで亡くなる4歳の少女「節子」だという説があります。無論真偽は不明ですが、映画「火垂の墓」の中では、この節子は兄の清太より先に亡くなっており、この兄もまた戦後まもなくして「駅舎」で餓死しています。

海原電鉄は死者を運ぶあの世の電車であるわけですが、兄よりも先に着いた節子は駅のホームで兄が迎えに来るのを待ち続けている、というわけです。

ところが、これ以外の乗客たちは、この「沼原駅」という駅で、ほとんど全員が降車していきます。海原電鉄が死者を運ぶ電車であるならば、これすなわち、ここで降りた大勢の人達は皆、「極楽」に向かったと考えることもできます。

駅のすぐ前は、特になにもない原っぱですが、遠くに町があるようで、ここは映画館や温泉などもあるネオン街になっていて、ここで降りた乗客たちはどうやらこの街に行くようで、つまりはこの街こそが天国というわけです。

この駅には出口が水面下へと続く有人改札口が1つだけあり、この「沼原駅」という駅名はその脇にある表示板に書かれています。先ほどの少女は、この駅のすみっこで走り去る列車を佇んで眺めていました。

この海原電鉄がどこから来て、どこまで行くのか不明です。が、映画ではこの沼原駅以外にもいくつかの駅名が出てきます。ひとつは、「南泉駅」でこれは沼原駅の表示板に記されており、沼原駅の一つ手前の駅のようです。また、この表示板にはまた「北沼駅」の名があり、これは沼原駅の表示板に記されており、沼原駅の1つ先の駅です。

この北沼駅の次の駅が、「沼の底駅」であり、ここで千尋とカオナシは降車します。銭婆の家の最寄り駅であり、駅前には壊れた時計だけしかなく、駅自体も至極小さなもので、周りは文字通りの沼と森林に囲まれています。

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駅はこれで全部かと思いきや、実はこの映画冒頭では、もうひとつ駅が出てきます。千尋たちが最初に迷い込んだ場所には、時計台のような建物があり、この駅はこの時計台そのものの中にあるか、時計台付近にあるようです。時計台の一階が待合室になっており、駅らしい設備として映画に出てきたのはそこのみです。

この時計台駅には駅名表示があり、これは「楽復時計台駅」というものです。この駅の周辺には、夜になって神々がやってくるころになると、油屋周辺の飲食店街以上に賑やかな街が出現するところを見ると、海原電鉄の中でも主要駅に数えられるようです。

推測ですが、ホームはおそらくこの地下にあり、この後前述の南泉駅や沼原駅に通じているものと考えられます。映画公開当時のパンフレットで、宮崎駿監督が、この楽復時計台駅から油屋までは路線がふたつあり、いずれも地下トンネルを通って沼原方面へ向かっている、と書いているそうです。

この二本の路線は油屋のたもとで線路が合流します。そしてそこから地上に出て、沼原、沼の底方面へ向かうのだといいます。映画の中で、菅原文太さんが声をやった「釜爺」が、「昔は戻りの列車もあったらしいが今は行きっぱなしだ」と発言していることから、その昔は復路も電車が運行していたことがわかります。

また、この映画のファンによれば、釜爺の発言から、この路線は少なくとも40年以上は運行していることも読み取れるといい、踏切の通過シーンや線路を映したシーンから数学的に計算すると、海原電鉄の運行速度はおよそ60km/hなのだそうです。

いかにもオタク的な推論なのですが、そこまで調べてもらえるとよりリアリティーが増します。さらには、千尋が油屋駅を午後1時に出発し、沼の底駅に午後7時に到着したと仮定したならば、一駅区間は60kmとなり、油屋から沼の底まで360kmほどの長大な路線になるのだそうです。

ちなみに360kmは東京から京都ほどの距離があり、もし途中駅を間違えて降りてしまったら、往路線もないことですから、大変な事になるはずです。

ところで、映画の最後のほうで、千尋とハクの別れのシーンがありますが、この後、ハクはどうなってしまったのでしょうか。元々の住処であった川はもうないので帰るところはないわけです。

これについては、ハクが銭婆に誘拐された坊を連れ戻しに行くシーンで、湯婆に坊を取り戻してくる代わりに、「千と両親を人間の世界へ戻してやってください」と懇願し、これに対して湯婆は、「それでおまえはどうなるんだい。その後あたしに八つ裂きにされてもいいのかい」と毒づいています。

これに対してのハクの回答はなく、すぐにシーンは変わってしまいますが、本当に八つ裂きにされてしまうのか、と心配する人も多かったことでしょう。

再会

これについて、この映画の公開当時、ジブリのHPでハクの最期についての説明があるそうで、それによれば、「すべてのことはルールに従わなければならない」という世界観により湯婆の言葉通り八つ裂きにされる運命をハクは受け入れた、と書かれているそうです。

千尋と最後に別れるシーンで、手を繋いでいた千尋の手が離れ、ハクの手だけが名残惜しく画面に残っていますが、これについても、宮崎監督は、このシーンは2人の永遠の別れを表現している、と書いているそうです。

従って、悲しいかな、湯婆の宣言通り、ハクは八つ裂きにされるのではないか、と考えることもできます。が、最後に千尋と別れる間際にハクは、「私は湯婆と話をつけて弟子をやめる。平気さ、ほんとの名を取り戻したから。元の世界に私も戻るよ」と語っており、「またどこかで会える?」と問う千尋に対して、「うん、きっと」と約束しています。

つまり、このようにハクが千尋と再び会う約束をしているのは、ハクは八つ裂きにされるものの、その魂は蘇って人間界に行く、という風に解釈できると思われ、必ずしも悲しい結末ではない、と考える人も多いようです。




ここでもうひとつ疑問なのですが、このときハクは、千尋に対して、「私はこの先には行けない。千尋は元来た道をたどればいいんだ。でも決して振り向いちゃいけないよ、トンネルを出るまではね」と言っています。

なぜハクは千尋に「振り向かないで」と言ったか、ですが、これについては、もし振り向いてしまったなら、トンネル付近にあった不気味なダルマのような石の像に変えられてしまうから、という説があるそうです。

映画の中では、実際に千尋が後ろを振りかえろうとするシーンがありますが、しかし振り向こうとした瞬間、銭婆からもらった髪留めがキラっと光り、そのおかげで踏みとどまり、間一髪で振り向かずに済む、というふうに描かれています。この髪留めの光は実はハクの涙が光っていたのだという説もあります。

もし振り向いてしまったら、石に変えられてしまい、永遠にこの世に戻ってこれなかったわけですが、ここでもまたハッピーエンドの結末が演出されていたわけです。

このように、「千と千尋の神隠し」は、細部を見ればみるほど、意味深なシーンが出てきますし、ストーリー全体をみても、かなりスピリチュアルを意識した造りになっています。宮崎監督がそうした方面に造詣が深いのかどうかはよくわかりませんが、上でも述べたとおり、仏教用語らしいもののほか、あちこちにそうした超自然的な描写が出てきます。

ここで書いたようなことも前知識として持ちながら、もう一度お宅にあるこの映画のDVDを見直してみてはいかがでしょうか。無論、レンタルでも構いませんが、きっとまた新しい発見があるに違いありません。

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さて、今日は思いがけず(いつものことですが)、ジブリ映画の裏話に走ってしまいました。この映画は、2001年の公開作品で、興行収入304億円、観客動員数2300万人を越え、それまでの映画興行成績における歴代トップ「タイタニック」を追い抜き、国内記録を打ち立てました。

現在においても、ジブリ作品の中で2位の「ハウルの動く城(196億円)」、3位の「もののけ姫(193億円)を抜いて、断トツ一位の人気ぶりで、公開当時も夏休み公開映画であったにもかかわらず、翌年の春休みまで上映が続くという異例のロングラン興行となったそうです。

さらには、ベルリン国際映画祭において、アニメーションとしては史上初の最高賞である金熊賞を受賞。その他アカデミー賞をはじめ日本国内外の多くの賞の栄冠に輝いた名作であり、私もジブリ作品の中では、「となりのトトロ」と並んでこの映画が一番好きです。

この不朽の名作を作った宮崎駿さんも昨年引退されてしまいましたが、ジブリ作品としては今年の夏もまた新作が出るようです。

「思い出のマーニー」がそれで、これはイギリスの作家、ジョーン・G・ロビンソン原作による児童文学作品で、日本でも1980年に岩波少年文庫から刊行されています。監督は、「借りぐらしのアリエッティ」を製作した米林宏昌さんで、7月19日公開といいますから、今週末です。

そのストーリーはというと、他人に心を閉ざしている少女がある日、海辺の町に引っ越してきます。少女はその町にある古い屋敷になぜか心を奪われ、やがてその屋敷に住まう「マーニー」という少女と仲良くなります。が、あるとき二人の間にちょっとした、いさかいが生じ、二人は疎遠になると同時に少女は寝込んでしまいます。

ようやく元気になり、よりを戻したいと考えた少女は、マーニーの屋敷を訪れますが、彼女は消えてしまっており、そこには彼女が残した一冊の日記がありました。その日記を読み進むにつれ、彼女はマーニーの正体を知るようになる……

といった話のようです。私はだいたいの結末は知っているのですが、ネタバレになるので、ここではこれ以上書きません。が、先日映画館で見た予告編やパンフレットによれば、舞台は北海道になる予定とのことで、ストーリー以上にその美しい映像のほうも楽しめそうです。

なので、夏休みになったら伊豆へ遊びに来る予定の方は、ぜひそれを止めてこちらを見るために映画館に足を運ぶことをお勧めします。きっと面白いこと請け合いです。

で、私ですか?無論、映画もみて、そのあと人気の少ない伊豆の海を満喫したいと思います……

暑い夏がやってきます。熱中症にはくれぐれも気を付けましょう。

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北条水軍のこと ~沼津市

2014-4359最近、新たな境地を切り開こうと、近くのめぼしい撮影場所を地図で探しては出かけては写真を撮りまくっています。

伊豆は海あり山あり谷ありで、こうしたプチ撮影旅行の候補地には事欠かないのですが、なんといっても海の好きな私にとっては、自宅からせいぜい1時間以内でかなりあちこちの海岸に行けることはうれしい限りです。

台風が過ぎ去ったあとの先週末も、朝から良いお天気に恵まれたために、ついつい出かけてしまいました。とくに最近お気に入りなのが、ここ修善寺からもわずか15分ほどで行けてしまう、西伊豆の内浦という内湾です。

「三津シーパラダイス」という水棲生物を売りにしたレジャーパークなどもあり、ここから西へ向かい、長井崎を回ったところには西浦というまた小さな湾があり、ここにはかつて豪華客船、「スカンジナビア号」などが係留されていました。

スカンジナビア号については、以前「スカンジナビア」というタイトルでその一生について書きましたが、この地においてホテルとして使われたのち、北欧の事業家に買い取られ、ヨーロッパまで曳航される途中に、紀伊沖で沈没してしまいました。

この西浦に「海のステージ」という喫茶店があります。ここのオーナーさんは、このスカンジナビアが営業していたころからこの店を開いており、何かとこの船(ホテル)の乗組員さんなどとも親しかったと見え、店内には往時のスカンジナビアの写真や装備品などが展示されており、さながらプチ・スカンジナビア博物館といった趣です。

気さくな方で、我々がお茶をしにここに入ったときも、往時のスカンジナビアのことや、ここから真正面に見える富士山の魅力について、とうとうと語ってくださいました。かなりの御年だと思いますが、今後とも頑張って営業していただきたいと思います。

ところで、この喫茶店から、長井崎を回って元の内浦に引き返したところに、マリーナがあり、その隣に海に突き出した小山があります。おそらく海抜30~40mくらいで、元はこうした岬状ではなく、陸と切り離された島だったようです。

地元の人は、この小山を通称で「城山」と呼んでいるそうですが、その名の通り、戦国時代、ここには「長浜城」と呼ばれる海城がありました。その後時代を経て、ここには三井家の別荘が建てられたそうですが、昭和40年代に取り壊され、後は荒れるままにまかされていました。

ところが、昭和60年代に入って、沼津市の教育委員会による詳細分布調査が実施され、ここからは、4つの大きな曲輪(防御陣地)と、山の斜面に削平地を築き、敵を誘い込み高所から掃射する目的で築かれた「腰曲輪」と呼ばれる曲輪が15ほども確認されました。

このほか、曲輪上には土塁跡が確認され、堀として掘削したとみられる場所も6カ所ほど確認され、これらの施設のひとつひとつは小規模であるものの、そこには後北条氏が得意とした直線の連廓方式の城郭形式が見て取れるそうです。

そういえば、これまで何度も訪れたことのある伊豆長岡市にある韮山城もこれと似たような形状をしており、北条氏は山の尾根をうまく使ってこうした細長い陣地を構築するのがうまかったようです。この韮山城は、この城を築城した北条早雲の終の住処でもありました。

その後、この長浜城は、昭和63年には国指定史跡として指定され、平成6年度までには土地の公有化も完了し、平成7年度より保全整備が着手されました。写真でもわかるように、綺麗に整備されており、曲輪のあった頂上付近からは内浦の湊やお隣のマリーナ越しに富士山も見通せるという位置関係です。

と、こういうことを書くと、現在はあまり人出のないこの地にわんさかと観光客が訪れる、なんてことにもなりかねないので本当はあまり宣伝はしたくないのです。が、国道沿いにあって海越しに富士山が見える場所というのはあまりないので、かなりの穴場といえるのではないでしょうか。ご興味のある方はぜひ一度行ってみてください。

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こうした長浜城など伊豆のあちこちに城を築いた後北条氏は、元は「伊勢氏」を名乗っていました。北条早雲も駿河国へやってきた当初はまだ「伊勢新九郎守時」と名乗っており、北条姓を称していません。

鎌倉幕府を仕切った執権の北条氏と区別するためにのちの世で、「後北条」と呼ばれるようになりましたが、北条姓を名乗るようになったのは早雲が亡くなった以後のことのようです。

この伊勢家というのは、元々は「備中」すなわち、現在の岡山県に在郷の豪族でした。このことは、以前のブログ「早雲の夢」にも書いてありますので、時間があればこちらも読んでみてください。

伊勢家は、室町幕府の要職に任じられるほど、身分の高い一族だったことが判明しており、家格も申分が無い一族です。それにもかかわらず「北条」の名字にこだわったのは、かつて鎌倉幕府を支配した代々の執権が名乗ったこの名には、利用して有り余るほどの権威があったからだといわれています。

二代の氏綱が名乗った「左京大夫」、氏康から名乗った受領名「相模守」も、鎌倉北条氏の歴代の執権がこう名乗っていたものを拝借したわけです。以後は後北条氏が滅亡するまで、その大大の当主は左京大夫を名乗り、隠居後に相模守を名乗るのが通例となりました。

この後北条氏の創建者、のちの北条早雲は駿河の国の当主今川氏に取り入って勢力を伸ばし、当初、沼津市の西方にある「興国寺城」という城を貰ってここを根城にしていました。

そしてここを拠点にして、伊豆の平定に乗りだすとともに、この当時事実上の「堀越公方」として伊豆に君臨していた足利家の御曹司、「茶々丸」の館を急襲してこれを追放しました。

この茶々丸が住む堀越公方の館があったのは、駿豆線の伊豆長岡駅の北西にある「守山」という小高い山の北麓であり、早雲はここから北東へ3キロほど離れた韮山の地に、先述の韮山城を構えました。この地を選んだのは、堀越公方の館にも近く、また伊豆を南北に貫く街道にもほど近い、交通の要衝だったためと考えられます。

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早雲は、興国時からこの韮山後に拠点を移したのち、ここを足がかりとして次々と伊豆の各地の豪族を屈服させ、この地を平定したのちにはさらには、関東に足掛かりを作るべく、小田原を攻略しています。

そして早雲の代には既にこれを手中におさめ、二代・北条氏綱・三代氏康のころには領地を武蔵(現東京埼玉及び神奈川の一部)から下総(現在の千葉県北部)にまでに広げますが、いざ関東に進出しようとしたところ、鎌倉幕府に重用され、房総半島一帯に勢力を持っていた里見氏と激しく対立するようになりました

これに対し北条氏は、三崎や浦賀といった三浦半島の地を根拠地とする「三浦水軍」を組織し、江戸湾から里見氏の勢力を駆逐するべく奮闘しました。しかし、その一方で、西方からは今川義元亡きあとの駿河に武田信玄の軍勢が侵入してきており、また、駿河の隣国の三河国の岡崎城主、松平元康(徳川家康)もしばしば戦をしかけてきていました。

このころ、甲斐の武田氏は中島の戦いを契機に越後上杉氏との争いを終息させ、織田信長の養女を貰い受けた信玄庶子の勝頼が世子となったため、織田家と今川家は友好的関係を持つようになっていました。このため、もともと織田家と敵対関係にあった今川家は、甲斐武田氏も敵に回すことになり、甲駿関係は著しく悪化していました。

今川氏は、度々三河の家康と戦いますが、そのほとんどに敗れてしまい、さらに武田信玄もこの時とばかりに駿河に進行を始め、とくに駿東と呼ばれていた現静岡市以東の地域は武田氏の手に落ちしまいました。

このため、とくに伊豆や小田原伊東の地を根拠地にしていた北条氏は、伊豆平定によって手名付けた豪族の中から「伊豆水軍」を組織し、これをもって武田や松平からの脅威に備えました。これら三浦水軍や伊豆水軍などの北条氏傘下の一連の水軍は、のちの世では「北条水軍」と呼ばれています。

その伊豆における北条水軍の根拠地のひとつが、この長浜城であり、これが位置する内浦はこの当時は「重須湊(おもすみなと)」と呼ばれていました。現在もこの重須の名は残っており、ここにあるヨットハーバーは、「重須ヨットハウス」、ここにある漁業者専用の岸壁がある一帯は、地図にはその名はありませんが「重須港」と呼称されているようです。

北条氏は、北条水軍の根拠地としての長浜城の陣容を整えつつも、来たる武田氏との決戦に備えて、沼津において戸倉城(現清水町)という城を築いてこれを前線基地とします。

一方の武田方もじわりじわりと東進を始め、やがて北条氏と対峙するようになりますが、この北条氏との最終決戦にあたっては、それまでに平定していた駿東や駿河国の豪族たちが組織していた水軍が大いに役にたちました。

海のない甲斐ではそれまでに水軍がありませんでしたが、北条氏と戦うためにどうしても海からも攻める必要がありました。が、このころには伊丹氏・岡部氏をはじめとする旧今川家の家臣たちが武田家になびくようになっており、彼等が保有していた旧今川水軍を武田氏は自由に使えるようになっていたのです。

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さらに武田氏は、この当時軍船を作らせては日本一と言われていた伊勢国から向井氏・小浜氏といった船大将を招き入れ、旧今川水軍と合わせて強力な水軍を組織しました。ちなみに静岡県内のこれら武田水軍の城としては、江尻城・袋城(静岡市清水区)、持舟城(静岡市駿河区)などが知られています。

これに対して北条側は、重須の長浜城や下田の下田城を拠点として水軍を組織していました。1579年には、この北条水軍の統括者として、熊野からわざわざ海賊の梶原景宗(梶原備前守景宗)を招いて任命し、その本拠として長浜城を与え、合わせて下田の整備も進めて武田との決戦に備えます。

この北条水軍は、北条早雲が伊豆を平定した時からの在地武士である富永氏(土肥)、高橋氏(雲見・くもみ)、松下氏(三津・みと)、鈴木氏(江梨)らが中核となっていました。これに加え、早雲によって滅ぼされた三浦氏の遺臣を取り込んで組織した三浦水軍も合わせ、これら各軍の総大将として長浜城の梶原景宗が指揮を執ることになりました。

翌1580年、ついに武田水軍・北条水軍による決戦の火ぶたが落とされ、駿河湾海戦が勃発します。

北条水軍は、梶原備前守と、子の梶原兵部大輔を先方として、清水越前、友永佐兵衛尉、山角治部少輔、松下三郎左衛門、山本信濃守などの船大将が、重須の浦に大船を多数停泊させて待ち構えていました。

これに対して、武田方は、3隻の関船を未明に重須の浦に接近させ、鉄砲を撃って浦に放火を始めます。北条側はすぐさま10隻ほどの安宅船を出撃させたところ、武田水軍は浮島ヶ原方面(現・狩野川河口付近)に退却しはじめました。これを北条水軍は追いかけますが、そのとき、狩野川河口からは2隻の関船が現れました。

こうして、この海戦は、狩野川河口付近の海域に集結した武田方の関船5隻と、北条側の安宅船10隻が対峙する形となりましたが、敵を上回る戦力を持つ北条水軍は、武田の関船を包囲する作戦に出ました。

しかし、浮島ヶ原には武田軍の陸上部隊が迫りつつあったため、これを牽制するため、10隻のうち2隻を狩野川河口に配置し、残りの8隻で沖に出て武田船を大きく包囲し、大砲や鉄砲で激しく武田の関船を攻撃し始めました。ところが、速度が速い武田の関船は巧みに北条水軍の攻撃をかわしつつ、敵の安宅船に鉄砲や弓矢を撃ちかけます。

この安宅船というのは、この当時において最大の軍船といわれ、大きなものでは長さ30mほどもありました。推進には主に帆を用いましたが、戦闘時にはマストを倒して艪だけで航行しました。このため艪の数は多いもので150挺以上に及び、これに200人くらいの漕ぎ手が取付いて、船を動かしました。

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大きいとはいえ、艪によって運転されるため、ある程度は小回りが利きました。が、一方の関船ほどではありません。関船の艪の数は40~80挺と安宅船の半分以下で、また安宅船の船首が角ばって水中抵抗の大きな構造だったのに対し、関船は一本水押しの尖った船首を持ち、船体の縦横比も安宅船よりも細長く、高速航行に適していました。

武田水軍は、この高速性を生かし、北条側の安宅船からの砲火を避けつつ、逆にさんざん矢や鉄砲を撃ちこみます。しかし、このころの安宅船には、こうした火器を使った戦闘に対応して楯板に薄い鉄板が張られていたと考えられ、このため、武田の関船による攻撃にもびくともしませんでした。

このため、狩野川河口右岸に広がる千本松原に陣を敷いていた武田勝頼率いる武田軍は、腰が浸かる深さまで海に入り、鉄砲を北条水軍に向けてまで支援攻撃をしたといいます。

この激戦はその後も続きましたが、形勢有利だった北条側も高速で逃げ回る武田の関船に致命的なダメージを与えることができず、また、武田側も北条水軍の安宅船を攻めあぐねました。結局そのまま夜になり、両軍とも夜目が利かなくなったため船を引き揚げ、この海戦には決着がつきませんでした。

はっきりとした史料は残っていないようですが、両軍ともこれで懲りたのか、この後二次、三次と再び海戦が行われることはなかったようです。

しかし、のちに武田氏の戦略・戦術を残すために記された軍学書、「甲陽軍鑑」によれば、駿河国持船城主として武田水軍の一翼を担っていた向井正綱の活躍により北条水軍は逃げ始め、北条の安宅船を奪った、とも書いてあるようです。

が、この本は武田の家臣であった人々の子孫が編纂したものであり、その内容をそのまま信用するわけにはいきません。

その後武田家は長篠の戦いで信長に敗れて衰退し、1582年、天目山(甲州市大和町)の戦いで勝頼が自害して滅亡しました。

こうして武田の脅威は伊豆からは消え去りましたが、これから8年後の1590年、こんどは豊臣秀吉の小田原攻めにより、長浜城は再び緊張状態に置かれました。このときは、長浜城を主城とする北条水軍の頭領は引き続き梶原景宗が担当し、下田城の北条水軍は伊豆衆筆頭の清水康英が担当しました。

一方豊臣方は、九鬼嘉隆などを初めとする「豊臣水軍」を組織し、清水港に集結してここを本拠としました。これを知った梶原景宗率いる北条水軍は、ここから西伊豆方面へ進撃しようとする動きを見せる豊臣水軍の進路を妨害すべく、西伊豆の安良里港(現西伊豆町)へ水軍を進め、迎え撃つ体制を取りました。

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しかし、秀吉は、織田信長が毛利水軍・村上水軍に対抗するために九鬼嘉隆に命じて建造させた大型の安宅船、「鉄甲船」を初めてとして、多数の重厚な安宅船を有していました。案の定、海戦が始まると、梶原景宗率いる北条水軍は、豊臣水軍の強大な戦力にはまったく歯が立たず、あっけなく潰えてしまいました。

長浜城もこのとき、豊臣の大軍に包囲され、落城したと考えられ、安良里に集結していた北条水軍もまた蹴散らされたようです。そして、九鬼嘉隆・長宗我部元親・脇坂安治らが率いる豊臣連合軍の大船団はさらに南進し、1590年2月ついに下田城を取り囲みます。

ここを最後の砦と考え、時間をかけて準備をしていた北条水軍ですが、この強大な豊臣軍勢を相手にとても進んで海に出ることはできません。

ここの守備隊長を任されていた伊豆衆の清水康英は、海戦に関しては戦上手で知られており、度々小隊を出撃させては、豊臣水軍を苦しめましたが、終いには日に日に増えていく豊臣側の水軍に完全に包囲され、とうとう城の外へは一歩も出ることができなくなりました。

康英は手兵600余になるまで戦い、その後約50日にわたって籠城しましたが、最後には力尽きて降伏し、こうして下田城も開城に至りました。

長浜、下田と駿河湾における北条水軍の拠点を落とした豊臣勢は、さらに伊豆の東海岸における北条氏の拠点をことごとくつぶしつつ、やがて小田原へと迫ったのでした。

その後、北条氏の総本山でもあったこの小田原城も豊臣勢によって攻め落されます。その開城に際しては、隠居の北条氏政及び氏照は切腹。当主の氏直は助命されて高野山に流されました。意気消沈の氏直は小田原攻めの翌年の1591年には疱瘡に罹り、数え30の若さで死去。これをもって後北条氏はほぼ滅亡しました。

しかし、後北条氏の子孫はその後も細々ながら江戸時代を生き残りました。氏直には子がなかったことから家督は叔父の氏規が継ぎ、後に許されて河内国狭山で7000石を拝領、またその子氏盛も下野国内で4000石を拝領しました。

この氏盛が氏規の死後その遺領を併せて1万1000石の大名となり、畿内の河内の地に狭山藩を立藩。国持大名にこそはなれなかったものの、これが江戸時代を通じて存続した最後の北条氏となりました。

一方、北条氏という頭領を失った伊豆では、下田城落城後、北条水軍の大部分が伊豆の地で帰農し、戦国期の文書を代々に伝えながら地元の指導者となって江戸時代を生き抜いたといいます。

その後下田城跡は一時、下田奉行所が置かれるなどして幕府の直轄地となり、後に宮内省の御料林となって開発の手から免れてきました。そしてこの地は、戦国時代~幕末~大戦と、時代を分ける混乱期に常に軍事拠点として重要視されてきました。

一方の長浜城は、水軍基地としての機能を失い、韮山城とともに廃城となったものと考えられています。ただ、北条水軍がここを落として安良里港へ向かったあと、長浜城の城代となったのは、在地土豪の大川兵庫という武将を中心とする地元住民だったとされており、その後、この大川兵庫の子孫はこの地の津元(網元)として栄えたといいます。

私が長浜城を訪れたこの日は、台風一過のことでもあり、地元の漁師さんたちはお休みを取っていたのか、出漁に出るような雰囲気はありませんでした。船の上でのんびりと昼寝をしている漁師さんもいましたが、今にして思えば、こうした人達もまた北条水軍の末裔だったかもしれません……

さて、今日は朝からお天気がよく、今日も今日とて撮影に出たいところでしたが、我慢して今日のこのブログを書いておりました。天気予報によればしばらくこの上天気が続くようであり、もしかしたら梅雨明けも間近いのかもしれません。

さらにもうすぐ夏休み。伊豆にも多くの観光客が訪れると思いますが、そうしたお客さんの中に、もしこのブログを読んだ方がいれば、ぜひ長浜にも立ち寄ってみてください。

一応城跡の直下には無料の駐車場もありますが、広大なスペースではありませんので、一度にたくさんの人が訪れるとたちまち満杯になってしまいます。地元の漁師さんたちも利用しているスペースのようなので、くれぐれもご配慮を。

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真珠とその他

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台風は伊豆半島沖を通過して過ぎ去っていきました。

ここ修善寺もたいした雨風なく一夜が過ぎ、今は暑い日差しが照っています。暑い夏の到来かと思いきや、まだまだ梅雨は続くようです。それにしても蒸し暑い……

さて、1893年(明治26年)の今日7月11日、御木本幸吉が真珠の養殖に成功しました。実験中のアコヤ貝の中に5個の半円真珠が付着しているのを確認したそうです。日本では無論初めてのことですが、それまでも、中国や欧州では真珠の養殖技術はありましたが、これほど完成度が高く天然真珠に近いものはなく、これは世界初の快挙でした。

養殖真珠には真円のほか、半円(半形)があり、御木本の作った真珠は後者でしたが、それでも宝石としての装飾価値は十分あり、御木本はその後研究を重ね、真円(球形)のものも養殖することに成功しています。。

この御木本幸吉が世界で初めて養殖に成功した半円真珠とは、内臓を覆っている「外套膜」と呼ばれる膜と貝殻の間に、人工的な半球形の核を挿入し、その上に真珠層を作らせるというもので、真珠ができたあとは、貝殻から切り離して加工します。

御木本幸吉はこの半円真珠の養殖成功によって、3年後の1896年(明治29年)には特許権を取得しており、これによって真珠事業の独占が可能となったため、それまでやっていた他の事業を整理して真珠事業に専念し、やがて「真珠王」とまで呼ばれるようになりました。

さらに三年後の1899年(明治32年)には、銀座に「御木本真珠店」を設立。1905年(明治38年)には、さらに英虞湾の多徳島で真円真珠の生産に成功し、この新円真珠を中心として海外での販売も積極的に行ったことから、以後、御木本の養殖真珠は世界中で愛用されるようになりました。

現在でも「ミキモト・パール」の名は世界に知られており、養殖真珠とはいえ天然モノとほとんど変わらないその輝きによって、高給品として扱われています。

この真珠ですが、いわずもがなですが、貝の体内で生成される「宝石」です。が、生物の体の中で造られることから、「生体鉱物(バイオミネラル)」とも呼ばれています。先述の外套膜というのは、貝の内臓を守るものでもありますが、この器官の表皮から炭酸カルシウムを分泌して貝殻を生成する大事な役割を持っています。

従って、外套膜は「貝殻の卵」ともいえるわけですが、この周りにカルシウムがまとわりついて真珠ができます。真珠養殖に使うアコヤ貝に限らず、ハマグリやアサリでさえも、貝の内側にはパール色のカルシウム膜ができることがあり、ご覧になったことがある人もいるでしょう。この成分は真珠のものとほぼ同じです。

従って、アコヤ貝に限らず、貝殻を作る軟体動物であれば真珠を生成する可能性はあるそうですが、分厚いパール質を形成できるのはアコヤ貝以外にはあまりないそうです。ただ、最初から外套膜が真珠を作るのではなく、自然状態では小石や寄生虫などの異物が貝の体内に侵入し、これが外套膜の中に入りこむことでこの周囲にパール質が生成されます。

このとき外套膜は細胞分裂して袋状になり、異物を包み込む形で真珠を生成するため、これは「真珠袋」と呼ばれます。この袋の中ではカルシウムの結晶と有機質が交互に積層され、やがてこれは「真珠層」となります。このカルシウムの結晶は「アラレ石」と呼ばれる一種の宝石です。

このアラレ石と有機質の薄い層が何十にも重なるという構造は、光の干渉を生み出し、これが真珠特有の虹色を生じさせます。このように虹色に見えるようになることは、とくに「オリエント効果」と呼ぶ場合もあります。

オリエント効果は、真珠層の構造や色素の含有量などによって微妙に異なり、これによって真珠の色・照りが決まります。通常の白い真珠のほかに、黒真珠や金色やピンクといった、変わった色の真珠が形成されることもあります。

御木本が発明した養殖真珠は、アコヤガイを使ったものであり、ご存知の通り、真っ白い真珠です。一番ポピュラーなものではありますが、「白」が大好きな日本人には最も人気のあるものであり、また淡黄色の肌を持った日本人には良く似合います。

御木本は、球体に削った核を、アコヤガイの体内に外套膜と一緒に挿入し、真珠層を形成させる、という方法でこの養殖を成功させました。が、口で言うほどこれは簡単なものでなく、まずはどんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、などなど解決しなければならない問題は山積みでした。

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1890年(明治23年)、三重県鳥羽市の鳥羽湾内に浮かぶ小島、相島(おじま)と虞湾内の神明浦との2箇所で実験が開始されました、この相島は現在、「ミキモト真珠島」と呼ばれ、観光名所にもなっています。

ここでの実験開始後も、まずは貝そのものの最適な生育環境を見つけるのに苦労し、またときには赤潮によって貝が絶滅してしまうといったこともあり、これらの大きな障壁をひとつひとつ乗り越えていく必要がありました。

その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝もあり、これには真珠作りの実験以上に大変な労力を割く必要がありました。
しかし、その苦労が実り、1893年(明治26年)の今日、ようやく実験中のアコヤ貝の中に5個の半円真珠を発見したわけです。

御木本幸吉は1858年(安政5年)志摩国鳥羽浦の大里町で「阿波幸」といううどん屋の長男として生まれました。13歳ですでに家業を手伝う傍ら、青物行商も始めていました。20歳になった1878年(明治11年)、東京・横浜へ視察旅行に出かけ、そこで自分の故郷の天然真珠が高値で取引されているのを見て、真珠養殖を思い立ちます。

しかし、そのためには資金が必要であり、そのためせっせと青物商売で銭を稼ぎ、1888年(明治21年)、30歳になった御木本成年は、ようやく志摩郡神明浦に初めて真珠養殖場を設けることができました。その後しばらくは天然真珠貝の養殖をやっていましたが、人工真珠の養殖実験も始めたのはさらにその2年後でした。

ちょうどそのころ、御木本はこの当時所属していた大日本水産会という互助組織の幹事長から東京帝国大学の箕作佳吉(みつくりかきち)博士を紹介されます。箕作博士は慶應義塾、大学南校に学んだのちに渡米し、レンセラー工科大学で土木工学を学び、のちエール大学、ジョンズ・ホプキンス大学に転じ動物学を学びました。

帰国後東京帝国大学理科大学で日本人として最初の動物学の教授となり、その後東京帝国大学理科大学長を務め、日本における動物分類学、動物発生学の草分けです。カキ養殖や真珠養殖に関してもこの当時の第一人者であり、御木本もこの箕作博士から真珠養殖の話を聞きました。

しかし、箕作博士は真珠養殖は理論上可能であるものの、これまでだれも成功していないことを御木本に話しましたが、逆にこの話が御木本の闘争心に火をつけ、養殖真珠にチャレンジする決心をするきっかけになったと言われています。

御木本は早速、箕作博士の助けも得ながら、過去における真珠養殖の実験データを集め始めます。その結果、中国に「仏像真珠」というものを作る技法があり、これについては諸外国の真珠養殖研究者も注目していることを知ります。

しかし、この当時この中国の養殖技術をもってしてもまだ真円真珠は製造することはできず異形真珠のみであり、またできた真珠のパール層も薄く、価値が低いとみなされたため、商業ベースには乗っていませんでした。

中国では11世紀頃から既に、淡水産の二枚貝に鉛で仏像などを象った物体を貝殻と外套膜の間に挿入し、これらの物体表面を真珠層で覆わせる、という試行をしており、たまに真珠ができると、これを切り取り、仏具や装飾品に使用されていました。

その後この技術は改良され、13世紀には蘇州の太湖湖畔に位置する寒村を中心に、貝殻で作った玉や薄い鉛製の仏像などを核にして盛んに「仏像真珠」が養殖されるようになりました。しかし、核にする鉛などが大きすぎ、結果形成されるパール層も薄くならざるを得ず、これを即、宝石と呼ぶには無理がありました。

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この仏像真珠は1734年中国に滞在したフランス人神父によってフランス本国に伝えられました。こうして、フランスとイギリスで1735年に刊行された水産関係の書物によって中国の養殖真珠の全貌が全ヨーロッパに紹介されるようになりました。その結果ヨーロッパでは18世紀以降多くの学者がこの仏像真珠を手本に真珠養殖の研究を行うようになります。

御木本の真珠養殖もこれらの研究をもとに始められたものですが、上述のとおり、苦労に苦労を重ねた結果、天然真珠と比べても遜色のない、まさに宝石と呼ばれるにふさわしいものの開発に成功しました。

ちなみに、その後この御木本が完成させたこの半円真珠を作る技術を更に発展させ、真円真珠製造の方法を日本で初めて成功させたのは御木本本人ではありません。ほぼ同時期にこの完成を見ており、それは西川藤吉・見瀬辰平という二人の人物です。

このうち見瀬辰平のほうが、1907年(明治40年)にはじめて真円真珠に関し「介類の外套膜内に真珠被着用核を挿入する針」として特許権を獲得しました。

見瀬辰平は1880年(明治13年)三重県に生まれました。はじめは船大工などの修行をしていましたが、1900年(明治33年)頃から志摩半島の的矢湾で真珠の研究を始め、やがて貝の上皮細胞の小片を貝の核に付着させ、これを外套膜に注入するための注射針をつくることに成功し、これが真円真珠を創りだしたことから特許の対象となりました。

見瀬はその後も研究を続け、1920年(大正9年)にも特許を得ましたが、この方法は先の特許技術をさらに改良したもので、外套膜細胞そのものを注射器で貝の体内に送り込むという斬新なもので、これは後年、「誘導式」と呼ばれるようになりました。

これに続いて、西川藤吉もまた真円真珠生産に関し独自の形成法技術の特許を出願します。西川は1874年(明治7年)大阪に生まれで、1897年(明治30年)東京帝国大学動物学教室卒業と同時に農商務技手として水産局に勤務。この頃から御木本と関わりを持つようになりますが、これは御木本の養殖場で発生した赤潮調査がきっかけのようです。

西川は、御木本にたいそう気にいられたようで、1903年(明治36年)には御木本の次女峯子と結婚しています。その後大学の動物学教室に復帰し、御木本も師事した箕作博士の弟子として神奈川県三崎臨海実験所で真円真珠養殖の研究に専念するようになります。

1907年(明治40年)、外套膜の小片を作り、見瀬辰平とは違うやり方でこれを貝体内に移植して真珠袋を作る方法を発明し、真円真珠を養殖する方法の一連の特許を出願しました。

ところが、先に真円真珠の特許申請を出願していた見瀬は、この特許技術の一部が自分の特許権に抵触するとして特許庁に訴えを起こします。調停の結果、西川籐吉の出した特許は特許として認められたものの、その名義は二人で共有とするということでこの問題は決着しました。

しかし、残念ながら西川はこの発明から2年後の1909年(明治42年)、東京の自宅で癌のため世を去りました。わずか35歳の若さであり、彼が出願したこの特許が登録されたのは没後のことです。

実は、御木本幸吉もこれに先立つ1902年(明治35年)ごろから本格的に真円真珠養殖研究に着手していました。新たな技術開発のために元歯科医まで雇い入れるという入れ込みようでしたが、娘婿が亡くなるとその意思を継ごうと新たな決意をします。

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こうして、1917年(大正6年)、貝殻を形成して球状にした核を外套膜で完全に包んで細い絹糸で縛り、貝体内に挿入するというこれもまた斬新なアイデアを盛り込んだ技術を完成させ、これを「全巻式」と呼んで特許を出願するに至ります。

この御木本の完成させた技術によって、真円真珠の製法はほぼ確立されましたが、その創成期に活躍した彼等の功績を称え、一般社団法人日本真珠振興会は、西川・見瀬の二人が初めて特許を申請した1907年(明治40年)を「真円真珠発明の年」に定めています。

真円真珠の養殖にも成功した御木本幸吉は、これを機会に半円真珠の生産を減らし、真円真珠販売に事業の重心を置くようになります。そして次々と販路を拡大し、1919年にはついに、養殖真珠をヨーロッパの市場に売りだします。

御木本はそれまでも半円真珠をヨーロッパ市場に出していましたが、これは完全な真珠とは見做されず、高値で取引をされることはなく、一種特別な商品として扱われていました。

そこに天然真珠と変わらない養殖真珠が突如出現し、しかも御木本はこれを天然真珠より25%も安い価格で販売し始めたため、最初に販売を始めたロンドンでは「ミキモトの養殖真珠は果たして本物か偽物か」という論争が起こりました。

この論争はやがてパリにも飛び火し、天然真珠の価格暴落を恐れたパリの業者組合は養殖真珠が模造真珠であるという大キャンペーンを展開し、不買運動を起こしはじめました。

これに対し、御木本のパリ支配人はこの運動は不当であると民事裁判に訴え、養殖真珠は本物か偽物かということがいわゆるパリ真珠裁判で争われることになりました。そして当時のフランスやイギリスで一流と言われた真珠研究者が鑑定を行うこととなり、その結果、裁判所は養殖真珠は天然真珠と何ら変わるところがないという結論を出すに至ります。

こうして養殖真珠は天然真珠と同じ扱いを受けるようになり、以後、世界各国に販路を拡大していきました。現在でも養殖真珠は、養殖とはいえ宝石として認定されているため大変高価なものであり、その価値を世界の市場に広め、養殖真珠を一大産業として発展させた御木本幸吉の功績は非常に大きいといえます。

毎年4月18日は、「専売特許条例」が、1885年(明治18年)のこの日に公布されたことを記念して「発明の日」とされていますが、昭和60年(1985年)の発明の日には、これがちょうど100周年を迎えたことを記念し、特許庁において「十大発明家」が選定・顕彰されました。

御木本が発明した「養殖真珠」はこの中にも含まれており、他の名立たる発明家とともにそこに堂々とその名が掲載されています。現在、特許庁のロビーには彼らのレリーフ像が飾られているそうで、無論そこには御木本の姿もあります。

この十大発明家のそれぞれ氏名と代表的な発明を以下に示すと、次のようになります。

日本の十大発明家(1985年)

豊田佐吉(木製人力織機、自動織機)
御木本幸吉(養殖真珠)
高峰譲吉(タカヂアスターゼ、アドレナリン)
池田菊苗(グルタミン酸ナトリウム)
鈴木梅太郎(ビタミンB1、ビタミンA)
杉本京太(邦文タイプライター)
本多光太郎(KS鋼、新KS鋼)
八木秀次(八木・宇田アンテナ)
丹羽保次郎(NE式写真電送機)
三島徳七(MK鋼)

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どうでしょう。1985年の顕彰なので、少々古い感は否めないところであり、その後発明された、有機ELやデジタルカメラ、発光ダイオードやDVD、USBなどといった技術に加え、無論ES細胞などは含まれていません。

こうした新しいものも加えて再度見直してみてほしいところですが、しかし明治期以降の日本の工業化を支えた日本の技術としてはやはりこの10大発明の功績は大きいといえるでしょう。ここで、さっとこれらの発明を俯瞰してみましょう。

豊田佐吉の自動織機は、運転中に緯(よこ)糸が切れたとき、またはなくなる寸前に緯糸を自動で補充して連続運転する織機であり、明治・大正・昭和初期の殖産興業を支えました。豊田佐吉はG型自動織機で代表される自動織機をはじめとして、生涯で発明特許84件、外国特許13件、実用新案35件の発明をしており、ご存知トヨタの創業者でもあります。

八木・宇田アンテナとは八木秀次、宇田新太郎によって開発されたアンテナの一種であり、素子の数により調整できる指向性アンテナです。一般には「八木アンテナ」の名で知られており、電波を受信する際、素子数が少ないほど利得が小さく近距離受信に向いており逆に多いほど利得が大きく遠距離受信に向いています。

現在では主にテレビ放送、FM放送の受信用やアマチュア無線、業務無線の基地局用などに利用されており、我々の生活には欠かせないものです。戦前、欧米の学会や軍部では八木・宇田アンテナの指向性に注目し、これを使用してレーダーの性能を飛躍的に向上させ、陸上施設や艦船、さらには航空機にもレーダーと八木・宇田アンテナが装備されました。

ところが、日本の学界や軍部では敵を前にして電波を出すなど暗闇に提灯を燈して位置を知らせるも同然だとし、それほど重要な発明と考えませんでした。そうしたところ、1942年に日本軍がイギリスの植民地であったシンガポールを占領した際、英国軍からレーダーに関する書類を押収し、この技術書の中に頻出する“YAGI”という単語をみつけました。

が、その意味はおろか読み方が「ヤギ」なのか「ヤジ」なのかさえわかりません。ついには捕虜に質問したところ、このイギリス兵は、「あなたは、本当にその言葉を知らないのか。YAGIとは、このアンテナを発明した日本人の名前だ」と逆に教えられて驚嘆したという逸話が残っています。このように日本だけでなく欧米でも知られる大発明です。

アドレナリン。これは、ストレス反応の中心的役割を果たし、血中に放出されると心拍数や血圧を上げ、瞳孔を開きブドウ糖の血糖値を上げる作用などがあります。1895年にナポレオン・キブルスキーによって初めて発見され、血圧を上げる効果が見られましたが、これにはアドレナリン以外にも不純物質が含まれていました。

その後、1900年になって、アメリカのニュージャージーの研究所にいた高峰譲吉と助手の上中啓三は、ウシの副腎からアドレナリンを発見し、翌年に世界で初めて「結晶化」に成功しました。アドレナリンは心停止時に用いたり、アナフィラキシーショックや敗血症に対する血管収縮薬、気管支喘息発作時の気管支拡張薬として現在も広く用いられています。

グルタミン酸は、化学調味料として有名です。グルタミン酸ナトリウムを利用した調味料で最も有名なのは味の素でしょう。日本ではうま味調味料の代名詞とされるほど普及しまし。が、1960年代から1970年代にかけて、その害毒性が議論され、1968年(昭和43年)に中華料理を食べた人が、頭痛、歯痛、顔面の紅潮、体の痺れなどの症状を訴えました。

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これは「中華料理店症候群」として報告され、マウス実験で視床下部などへの悪影響が指摘されました。しかし、繰り返し追試を行った結果、通常の経口摂取ではヒトに対する毒性はなく、症候群を引き起こす証拠も見当たらないという結論に達しました。ただ、アメリカでは、今もってその摂取が、脳などに深刻な被害を及ぼすと考える人々が存在します。

ビタミンB1。この発明は、かつての国民病であった脚気の特効薬として知られています。国民の脚気死亡者は、日中戦争の拡大などにより食糧事情が悪化するまで、毎年1万人から2万人で推移していましたが、その理由として、B1製造を天然物質からの抽出に頼っていたために値段が高かく、供与が行き届かなかったことなどが挙げられます。

この発明以後、人工的な製造が簡単になり、のちの1954年に武田薬品工業が「アリナミン糖衣錠」という商品名で売り出し、その類似品が社会に浸透すると1950年代後半以降は画期的に脚気患者は減りました。脚気の治療薬の開発を陸軍から依頼されたことがきっかけでこの開発は始まったといわれています。

和文タイプライターは、知らない人も多いでしょう。日本語の文章を活字体で作成する機械装置であり、1915年に「邦文タイプライター」としてその原型が製品化されて以降、ワードプロセッサが登場するまで長い間使用されていました。

「タイプライター」と銘打っていますが、あくまでも清書用で、欧文タイプライターのように文章を考えながら高速で文字を入力するようなことは叶わず、ましてやキーを見ないで入力するタッチ・タイピングなどは不可能なものでした。

しかし、作成した原稿は、印刷屋で写植印刷に用いられたり、青写真コピーでプリントされて利用され、長きにわたって、日本の官公庁における書類の作成や印刷業界の版下制作を支えました。特に書類作成では学校などの公共機関や企業が内外に配布する書類や連絡文章の作成に威力を発揮し、1970年代以前は事務用品としての一定の地位を得ていました。

とはいえ、活字を探し出したりと扱いが難しく、また文字の打ち間違いを後から修正することは困難で、万一横転させようものなら活字が皆飛び出して散乱してしまい、それを並べ直すだけでも専門の技術者を必要としました。持ち運びにも不便な上に作動音も大きく、1980年頃から次第に日本語ワードプロセッサーが普及するにつれ姿を消していきました。

NE式写真電送機は、これすなわちファックスのことです。が、ファックスそのものの発明は、1843年、イギリス人のアレクサンダー・ベインがファクシミリの原型を発明し、特許を取得したのに遡ります。

日本では1924年(大正13年)6月、大阪毎日新聞と東京日日新聞が日本で初めてドイツからコルン式の電送写真機を3台購入しましたが不安定で使えませんでした。次いで、朝日新聞が1928年(昭和3年)6月フランスからベラン式の電送機を3台購入、稼働実験は成功したものの、いずれも画像乱れの問題があり、実用化されるに至りませんでした。

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そこで、1928年、日本電気(現NEC)の丹羽保次郎とその部下、小林正次がこうした画像乱れを改良したのが、NE式写真電送機です。NE式は、送信側の回転ドラムを交流モーターで回し、その交流を受信側にも送って記録用のモーターを回すという同期方法を採用した結果、画像に乱れなく写真を電送することに成功しました。

大阪毎日新聞がこれを採用し、1928年11月10日に京都御所で行われた昭和天皇の即位礼を、京都から東京に伝送したのが実用化第1号だそうです。その後、NE式は新聞社から始まり官公庁や大企業で専用回線を使用した写真電送に使用され、一般向けでは逓信省が1930年(昭和5年)に「写真電報」という名でサービスを開始しました。

1936年に開催されたベルリンオリンピックではベルリン~東京間に敷設された短波通信回線により電送された写真が新聞紙面を飾り、それまでの飛行機便による速報写真は役目を終えていきました。1937年(昭和12年)にNE式は携帯端末となり、日中戦争の報道にも使用されるなどNECの無線技術は高く評価され、陸軍の無線・通信設備を独占しました。

戦後の普及は誰もが知るところですが、かつては電電公社の電報、気象庁の天気図、国鉄(現JR)による連絡指示事項を全国の駅に一斉同報、警察の手配写真、新聞報道の写真や記事伝送などに活躍し、インターネット全盛の今でも利用されています。

KS鋼というのは、コバルト・タングステン・クロム・炭素を含む鉄の合金で、つまり磁石です。1917年、東北帝国大学の本多光太郎と高木弘によって発明され、それまでの3倍の保磁力を有する世界最強の永久磁石鋼として脚光を浴びました。KSとは、本多らに研究費を給した住友吉左衛門のイニシャルです。

一方、MK鋼は、これを開発した冶金家の三島徳七の養家の三島家と、生家の喜住家のアルファベット表記、「Mishima-Kizumi」に由来します。合金を鋳造した後摂氏600度以上で焼き戻すことで作られ、KS鋼よりも安価で硬く、かつKS鋼の2倍の保磁力を持ちます。

MK鋼は形状や大きさを変化させても強い磁力を維持することができるため、色々な形のものがあり、その後U型磁石、棒磁石、ゴム磁石(弾磁石)、丸磁石、玉磁石など多用なものが開発されました。温度変化や振動に対しても安定した磁力を発生させることができ、この特性を利用し、エレクトロニクスや航空、自動車などの産業で広く用いられています。

こうしたKS鋼やMK鋼に代表される「磁石鋼」の開発は現在でも日本のお家芸のひとつです。日常の電化製品でよく見かける磁石の用途としては、モーターやスピーカーが挙げられますが、これらにおいては永久磁石と電磁石を用い、電気エネルギーを回転や空気の振動といった力学的エネルギーに変換しています。

またカセットテープ、ビデオテープ、ハードディスクといった記録メディアは、磁化された向きによって情報を記録しています。情報の読み出しには、電磁誘導や巨大磁気抵抗効果 (GMR)、ごく最近になってトンネル磁気抵抗効果 (TMR) が利用されています。

電子顕微鏡の電子レンズや粒子加速器などでは、磁石は電子などの荷電粒子を狙った方向に曲げるために用いられています。また、核融合では、高温のプラズマを封じ込めるためにも用いられています。

その延長にはリニアモータカーもあります。磁力による反発力または吸引力を利用して車体を軌道から浮上させ推進する鉄道です。現状においては、愛知万博で建設された愛知高速交通100L形(リニモ)が実用路線の営業運転を行っています。

が、ご存知の通り、JR東海によって超電導リニアによる中央リニア新幹線が計画されており、2027年には東京~名古屋間での先行開業が、さらに2045年には東京~大阪間での全線開業を目指して計画が進められています。

高速輸送を目的としているため、直線的なルートで、最高設計速度505km/hの高速走行が可能な超電導磁気浮上式リニアモーターカーが「超電導リニア」により建設されます。

首都圏~中京圏間の2027年の先行開業を目指しており、東京~名古屋間を最速で40分で結ぶ予定だといい、さらに2045年に完成予定の東京都~大阪市の路線では、この間を最速67分で結ぶと試算されています。

2027年まではあとわずか、13年、まだまだ元気でいるでしょうが、2045年までということになると、31年後……果たして生きているでしょうか。

そのころまでに、この老体をサイボーグ化する大発明がなされていることに期待しましょう。

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5分でわかるローマ

2014-1120887台風が近づいており、ここ伊豆でも少々風が出てきました。空には時おり青空も見えますが、空気は湿っており、気温が高いのでジメジメしたかんじです。

さて、7月になりましたが、この7月の英語での呼称、Julyは、ユリウス暦を創った共和政ローマ末期の政治家、ユリウス・カエサル(Julius Caesar)にちなんでいます。カエサルは紀元前45年にユリウス暦(現行の太陽暦)を採用するのと同時に、7月の名称をローマ語で「5番目の月」を意味する “Quintilis” から自分の名前に変更しました。

わざわざ変更した理由は何のことはない、この月の13日が彼の誕生日だからです。12日とする説もあるようですが、いずれにせよ7月生まれであることには変わりありません。

月の名前を変えてしまうくらいですから、それほど強い権力者だったということは容易に想像できますが、まさにそのとおり、カエサルは紀元前509年から紀元前27年まで続いた共和制ローマ時代に終止符を打つべく独裁体制を構築し、後の帝政ローマ時代の基礎を築きました。

いわゆるローマ帝国といわれるのは、このカエサルが死んだのち、その後継者となったアウグストゥスが初代皇帝となって以降のことです。従って、カエサルの代までのローマは、「古代ローマ」または「共和制ローマ」と呼んで、その後の帝政ローマとは区別します。

……とエラそうに知ったかぶりを書いていますが、私もそのあたりのことを実はあまりよく理解しておらず、今日この項を書くにあたって、改めて歴史を勉強して知った事実です。が、私だけでなく、仏教徒の多い日本人には、その後キリスト教国になるこの国のことについてはあまり詳しくないようなので、今日はそのあたりのことを少し書いてみましょう。

ローマは一日にしてならずと言う言葉がありますが、そもそもこの共和制のローマの前にも、「王政ローマ」と呼ばれる時代がありました。紀元前753年~紀元前509年までの時代ですが、「古代ローマ」というのはこの時期とその後の共和制の時代も含めての呼称のようです。

ところが、さらにこの王政ローマの起源となると、これはもう神話の域の話になるようです。

ギリシャ神話に「トロイア戦争」というのが出てきますが、これは例の「トロイの木馬」が出てくるあの戦争です。その当時、「小アジア」と呼ばれていたトルコ付近にあった「トロイア」に住む「トロイア人(アイネイアース人)」に対し、現在のギリシャ付近にあった「ミュケーナイ」という国の「アカイア人」たちが侵略戦争を起こしました。

戦争ははじめアカイア人のほうが優勢でしたが、トロイア側は城に閉じこもって交戦したため、10年にも及ぶ長い膠着状態に陥りました。が、アカイア方の知将オデュッセウスは、巨大な木馬を造り、その内部に兵を潜ませるという作戦を考案しこれを実行に移しました。

トロイア人たちはこの策略にかかり、トロイアの国は一夜で滅亡したと伝えられていますが、その後、この戦争で敗走したトロイア人たちは、ギリシアの島々やカルタゴを転々とした後、イタリア半島に上陸しました。

そして彼等は現地の王の娘を妻として与えられ、ここに新しい国を作りました。やがて時代が下り、トロイアの時の王の息子アムリウスは兄ヌミトルから王位を簒奪します。ヌミトルには男児がおり、この子は殺されましたが、娘レア・シルウィアは周囲の嘆願によって生かされました。

あるとき、このシルウィアが眠ったすきに、ローマ神マールスが降りてきて彼女と交わりました。シルウィアは双子を産み落としますが、怒った叔父アムリウスによってこの双子は川に流されてしまいました。双子は狼に育てられ、その後羊飼いに育てられ、ロームルスとレムスと名づけられました。

やがて成長し、自らの出生の秘密を知った兄弟は協力してこの叔父アムリウスを討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力し、兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとします。ところが、その後兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺され、ロームルの独裁体制で新しい都市国家が誕生します。

こうしてこの丘、パラティヌスにロームルスが築いた都市こそがローマです。こののちロームルスはさらにローマは領域を拡大させ、七つの丘を都市の領域としますが、これが王政ローマの始まりです。もうお気づきでしょうが、「ローマ」というのは、このロームスが自分の名前から取って与えた名称です。

この王政ローマは、紀元前753年のロームルスによる建国から紀元前509年まで、伝説上は「七人の王」が治めていたことになっています。

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その最後の王は、「タルクィニウス・スペルブス」という人物でしたが、かなりの強権な政治を行い、このためのちに「傲慢王」と呼ばれるに至ります。王の即位にあたっては、市民集会の選出も、元老院の承認もなく、その後の政治も元老院や市民集会にはかることなく自分で決めたため、当然、市民の評判はよくありませんでした。

しかしこの王は策略と戦争は得意で、彼の在位時代にローマはさらに領土を広げました。ローマよりずっと強大だった現在のイタリア中部にあった「エトルリア」との同盟を結びましたが、これによってローマの近くに敵対する強国はなくなりはしたものの、結果としてエトルリア人がローマ中を闊歩し、幅を利かせるようになりました。

ローマはエトルリアの属国に成り果てたと考える市民も多くなり、さらにその後のすべての王がエトルリア出身になるに至っては、元々のローマ人は隅に追いやられたようになり、やがてローマ市民の怒りは頂点に達しました。

あるとき、このエトルリア出身の王の息子が、ローマ系の王族の妻に横恋慕し、寝室に忍び込んで彼女をわがものにする、という事件がありました。この妻は、貞淑な妻としてよく知られるルクレーティアという人物で、このとき受けた恥辱を親類・友人とともにかけつけた夫の前ですべてを告白したあと、短剣で喉を突いて自らの命を絶ちました。

このとき、この妻の夫の友人でこの告白の場にいた友人のひとりこそが、ルキウス・ユニウス・ブルトゥ、すなわち、のちにカエサルが「ブルータスよお前もか」と死に際に叫ぶことになるあのブルータスの先祖です。ブルータスは英語読みであり、元のラテン語では「ブルトゥス」と発音するのが正当です。なので、以後もブルトゥスで通します。

このブルトゥスは、ルクレーティアの無念を晴らし、エトルリア出身の王一族は追放すべきだと演説を行いましたが、多くの市民がこれに賛同しブルトゥスらに従いました。

このエトルリア系の王は「タルクィニウス・スペルブス」という名前でしたが、ブルトゥスがこの演説を行っていたときは、ちょうど外国での戦の途中でした。が、王は事態の急変を知り、急ぎローマに戻りますが、このときはもう後の祭りで、門はすべて閉じられて中に入ることすらできませんでした。

こうして市民の蜂起によってスペルブス王は追放され、従う兵だけを連れ、エトルリアに去っていき、王政ローマの時代は終わりました。王政への反省からこの年、紀元前509年からは共和政がとられ、2名の執政官がローマの政治を司ることになりました。

最初の執政官には、演説を行ったブルトゥスと、自殺したルクレーティアの夫コラティヌスが選出されることになりますが、このブルトゥスはのちに伝説的な執政官といわれるまでになります。これはそれほど政治的に卓越した手腕を持っていたためです。

が、この465年あとに、ブルトゥスの子孫のデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスらが、執政官としては非常に悪名高かったカエサルを暗殺したこととも無縁ではなく、最初の執政官だったブルトゥスの子孫が、最後の執政官だったカエサルを暗殺することになるというのは、実に皮肉な運命です。

とまれ、このあとローマは、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間「共和政ローマ」の時代に突入します。これ以降ローマ人の間には「王を置かない国家ローマ」の心情が刷り込まれるようになり、特にエトルリアのような東方の国に警戒感を強め、専制君主制に関しても強い拒絶反応を示すようになっていきました。

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さて、共和制になってからのローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長しました。しかし、その躍進は、戦争に次ぐ戦争によって得られたものでした。

例えば、このころアルプス山脈の北方からは、ここに住む「ケルト人」という民族がローマを目指した南下してきました。ケルト人はローマ人からは「ガリア人」とも呼ばれ、鉄の剣とガエスムという投槍を装備し、倒した敵の首を斬るという残忍な習慣がありました。

一方のローマ軍は、「重装歩兵」という、兜、胴、脛当て、篭手などで身を固め、剣や片手刀・鈍器・手槍に盾、長柄などの武器で重装備をした軍隊が主力で、この軍隊は石や矢などの投射兵器でも容易には傷つかず、戦場に踏み止まる能力に長けていました。

とくに、ファランクス戦法というのが得意で、これは重装歩兵による密集陣形です。左手に円形の大盾を、右手に槍を装備し、露出した右半身を右隣の兵士の盾に隠して通常8列程度に並び、特に打撃力を必要とする場合はその倍の横隊を構成するというもので、戦闘に入ると100人前後の集団が密集して陣を固め、盾の上から槍を突き出して攻撃しました。

前の者が倒れると後方の者が進み出て交代し、また、後方の者が槍の角度を変更することで敵の矢や投げ槍を払い除けることも可能で、ある程度は戦闘状況に柔軟に対応できる隊形でしたが、基本的にファランクスは激突正面に衝撃力と殺傷力を保持していたため、一旦乱戦になると転回機動は難しく、機動力を使った戦術としては用をなしませんでした。

一方のケルト人は、ローマ軍に比べると軽装備でしたが、剣と投げ槍だけが装備という点では機動性に優れており、ローマ軍の弱点を見つけては、これを撃退し続け、ついにはローマ国内にまで入り込み、メディオラヌム(現在のミラノ)を根拠地として、紀元前390年までには、ローマ国内のあちこちで略奪を働くようにまでなりました。

さらにケルト人たちは、紀元前387年、首都ローマ市近郊でのアッリアの戦いで完勝、ローマ市内までも蹂躙しました。しかし、このときローマで、マルクス・フリウス・カミルスという将軍が立ち上がりました。カミッルスはケルト襲来を受けて各地に散り散りになったローマ市民を取りまとめローマに向かって進軍し始めます。

一方そのころ、ケルト人の進軍によってローマの一角に立てこもっていた市民たちはケルト人の王に身代金と引き換えに兵を撤退させるように交渉をしていました。

このとき、ずる賢いケルト人は身代金を計る秤に細工し、より多くの金をローマ人から引きだそうとしましたが、それに気がついたローマ人がそれを指摘すると、開き直って「敗者に災いあれ」と答えました。

ちょうどそのとき、カミッルスが兵士を引き連れてその現場に現れ、開口一番、「ローマは金ではなく、剣でお返しする」と告げて戦闘が開始されました。このカミッルの言葉によって奮起したローマ人たちは、ケルト人を散々に打ち破り、こうしてローマの平和は戻ってきました。

この時のカミッルスの言葉はその後ローマの国防の指針となり、以後の約400年間、ローマが身代金と引き換えに捕虜の解放を要求するということは一切なくなったといいます。

その後カミッルスは独裁官に任命されてローマ復興を任されてこれに成功し、ローマは国力を取り戻しました。やがてイタリア半島各地の都市を制圧するまでになり、各地に向かう交通網を整備し、広域に亘る支配を可能にしていきました。

紀元前272年には、南イタリア(マグナ・グラエキア)にあったギリシアの植民市タレントゥムを陥落させ、ついにイタリア半島の統一が成し遂げられました。さらにローマは、西地中海の商業覇権をめぐって、紀元前264年よりカルタゴとの百年以上の戦争へ突入し、その結果第一次ポエニ戦争でシチリア島を獲得し、この地を最初の属州としました。

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カルタゴというのは現在の北アフリカのチュニジア付近にあった国です。地図をみれば一目瞭然ですが、このカルタゴ(チュニジア)は地中海西南部に位置するという地理上の要衝であり、地中海全域の覇権をめぐってローマと対立していました。

紀元前218年より始まった第二次ポエニ戦争では、ローマ軍は、カルタゴ・ノヴァ(現在のスペイン南部の町、カルタヘナ)などイベリア半島南部におけるカルタゴの拠点などを奪うなど、カルタゴとの戦いに連勝し、やがて西地中海の征服を果たしました。

また、現在のギリシャに本拠を置き、地中海一帯に勢力を張っていたマケドニアにも遠征を行い、現在のクロアチア付近にあったイリュリア、アカエアと呼ばれていたこの当時のギリシャ一帯の地域をも影響下に置きました。

ローマはその後紀元前149年に勃発した第三次ポエニ戦争において、カルタゴに完勝し、紀元前146年にカルタゴは完全に消滅しました。カルタゴの脅威が減少すると、さらに東方へも進出し、現在のシリアなどの地域のほか、マケドニアが領有していた小アジア諸国を次々に攻略して傘下に収めました。

その後もマケドニアは、地中海世界に勢力を拡大するローマの圧力に直面することとなり、ローマと、第一次、第二次と続いた「マケドニア戦争」などの緒戦で敗れ、ついに第三次マケドニア戦争の敗北によって、紀元前168年にはマケドニア王ペルセウスは捕虜となって廃位となり、王国は4つの共和国に分割されました。

さらに紀元前148年にマケドニアは、ローマの属州の一つとなり、「マケドニア属州」として組み込まれたことで、マケドニア王国は完全に滅亡しました。こうしてローマはイタリア半島を中心として地中海一帯に広がる広大な共和制帝国を築き上げました。

それまでのローマは、戦時に同盟国に兵力と物資の提供を求め、敗戦国に賠償を課したり、土地を奪って植民したりしていましたが、組織だった徴税制度は設けていませんでした。しかし、その後はマケドニアのような属州を設けて納税義務を課し、総督を派遣する政策に転じ、この属州から運ばれる穀物は、ローマ市の急激な人口増加を支えました。

この属州の統治においてローマは、制度の上ではそれぞれの都市の自治を尊重し、形式的には相当の自由を認めました。ところが、実際は属州に対してすさまじい収奪を行っており、属州になった地域の多くで数十年後には人口は十分の一に減少するような事態が起こりました。

搾取とは別に、ローマに従属することになった諸国と都市の有力者はローマの政治家に多額の付け届けを欠かさぬことを重要な政策としました。結果として、ローマの少数の有力政治家の収入と財産が増えることになり、これは国家財政にも匹敵するようになりました。

ローマの公共事業もまた、有力政治家の私費に依存するような妙なことになり、ローマ市民は、こうした政治家の巨富によって生活環境を整えてもらう代わりに、彼等を政治的に支持しました。

この庇護する政治家のことを「パトロヌス(patronus、「パトロン」の語源)」、庇護される市民を「クリエンテス(clientes、「クライアント」の語源)」といい、このパトロヌス・クリエンテスの関係は、ローマの最初期からの伝統であり、のちの帝政期まで長く続くことになります。

しかし、この政治家とローマ市民の双方だけが潤うといった構図の一方で、ローマ軍の中核をなしていた自由農民は対極的に没落の運命をたどっていきました。毎年のように続く諸外国への遠征においては、農民たちは農地から引き離され、また属州より安価な穀物が流入したため次第に没落していきました。

このため、たびたび農民が主体の反ローマの反乱などが起こるようになり、また合わせてヨーロッパ北方から現在のドイツなどを本国とするゲルマン人などがローマ領内へ侵入してくるようになり、彼等との戦いもたびたび起こり、ローマを悩ませることとなりました。

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こうした状況では、優れた指揮能力を持つ者を執政官に選ぶ必要があり、やがて平民でありながら優れた能力のあるガイウス・マリウスのような男が執政官になりました。彼は没落した農民兵や長期にわたる征服戦争への動員で疲弊した市民兵の代わりに、志願兵制を採用し大幅な軍制改革を実施し、貧民を軍隊に吸収することで反乱を抑えようとしました。

しかし、その結果司令官も平民なら、その兵も平民という新しい組織を生み出すことになり、これは次第に、元老院・政務官・民会の三者によって成り立っていた共和政下のローマの政治体制とは一線を画すようになり、軍に対する統制が効かなくなるという結果をもたらしました。

こうして、軍の首領が、ローマ政治にも介入するようになり、次々と軍事政権が誕生していきました。共和制ローマの最後の時代には「軍閥」と呼ばれるようなものも登場しました。ポンペイウス、カエサル、クラッススの3人などがその最たるもので、この3人は元老院への対抗から「第一回三頭政治」を結成します。

しかし、3人のうちまずクラッススが病死し、残るポンペイウスとカエサル2人の間で内戦が起きました。この地中海世界を二分する大戦争は、紀元前48年にポンペイウスが死んだ後もしばらく余波を残しますが、やがて紀元前45年にカエサルが終身独裁官となりました。

ところが、カエサルは王になる野心を疑われて、紀元前44年3月15日に共和主義の議員たちによって暗殺されました。その数日後、カエサルの遺言状が開封されましたが、その第一相続人には、当時まだ18歳の大甥ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌス(後のアウグストゥス)、第二相続人にデキムス・ブルトゥス(ブルータス)が指名されていました。

このため、この後、このオクタウィアヌスを中心として「カエサル派」が結成され、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスの三人が「第二回三頭政治」を行なうようになります。が、その後この三人は内紛状態となり、紀元前31年、アクティウムの海戦でオクタウィアヌスがアントニウスに勝利しました。

残るレピドゥスはオクタウィアヌスの打倒を図りますが、これに失敗し、汚職と反乱の疑いをかけられ、終身職である最高神祇官を除く役職を全て剥奪され、ローマから離れた田舎で死ぬまで隠棲、紀元前13年に亡くなりました。

オクタウィアヌスは、紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」の称号を得て、共和政の形式を残しながらも事実上の「帝政」が始まりました。

こうして、共和性ローマは終焉を迎え、その後帝政による帝国の統治は、およそ1400年以上に渡って続きます。が、紀元400年ごろに東西に分裂し、東ローマ帝国と西ローマ帝国の二つになり、その後、西ローマ帝国は480年に滅亡し、北アフリカおよびイベリア半島ほか、現在のヨーロッパの西半分の諸国はローマの統治下を離れます。

一方、イタリアほか地中海沿岸の東部の諸国は引き続き東ローマ帝国として存続しますが、徐々にその勢力を削がれ、最後にはコンスタンティノーブルなど地中海東部のほんの一部だけを領有するだけとなり、その後ここもオスマン帝国によって陥落し、東ローマ帝国は完全に滅亡します。これが1453年4月のことです。

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これによって、神話の時代から続いてきた古きローマの系統は途絶えることになります。そして、この帝政ローマ時代と王政・共和政と続いた古代ローマ時代の境にあって、帝政の基礎を築いた人物こそが、7月の月の名前の由来となった、カエサルということになります。

大きな変革の時代を築いたという意味においては、7月という月の名にこの人の名を冠するのも悪くはないと思いますが、その最後が暗殺によるものであったという事実からもわかるように、その生涯にはあまり褒められた話は多くありません。

最高権力者にふさわしくない素行がちらほら見え隠れし、そのひとつは「ハゲの女たらし」と陰口をたたかれるほど女癖が悪かったことであり、一説によれば元老院議員の3分の1が妻をカエサルに寝取られていたと伝えられています。

このため彼の軍団兵たちも凱旋式の際に「夫たちよ、妻を隠せ。薬缶頭(ハゲ)の女たらしのお通りだ」と叫んだという言い伝えが残っているくらいです。

また、かの有名なクレオパトラでさえ、カエサルの愛人になって子供まで設け、この子に「カエサリオン」という名前までつけていますが、クレオパトラの死後、この子は暗殺されています。

カエサルは他にも多くの女性と関係したと思われますが、記録にある限り、子宝にはほとんど恵まれなかったようで、その子らもその後歴史に登場することはありませんでした。

一方、カエサルを暗殺した一人であるブルトゥスはどうなったかというと、アントニウス、レピドゥスとカエサルの大甥でありオクタウィアヌスが手を結んで第二回三頭政治が結成される中、完全にローマ政治のカヤの外に置かれました。

紀元前43年、オクタウィアヌスが執政官となると、その対立は決定的になり、オクタウィアヌスは大叔父カエサルの神格化を推し進めて自身の権威を高める中、その大叔父を討ったブルトゥスらを何としても討伐せねばならなくなりました。

これを知ったブルトゥスは、17個の軍団を率いて逆にローマに進軍を開始し、ブルトゥス軍よりやや多い19個のローマ軍団と闘いますが、緒戦に負け包囲されると捕虜になる事を潔しとせず、陣営地で自害しました。

ブルトゥスの遺骸は丁重に扱われ、これを見つけたアントニウスは自らが纏っていた紫色の外套をその上に掛け、手厚く葬るように命じたといい、ブルトゥスは火葬によって葬られ、遺骨はローマ近郊に埋葬されました。

一方、彼が暗殺したカエサルの死はどういうものであったかというと、これはかなり凄惨なものでした。暗殺が実行に移された当日、カエサルの正妻カルプルニアは悪夢を見たという理由で夫が議場へ向かうのを止めました。しかしブルトゥスは諦めずカエサルを元老院で待ち続け、もうカエサルは来ないのではないかと思われても議場に留まっていました。

そして遂にカエサルが周囲の引止めを振り払って元老院を訪れると、最初に短剣で一撃を加えました。カエサルは辛うじて致命傷は免れますが、続いて次々と議員が向かってくる様子に事態を察して、自らの体をトーガ(一枚布の衣服)に覆ってかばおうとしました。

しかし、それに構わず数十人の議員達はカエサルに襲いかかり、彼は四方から滅多切りにされたといいます。その勢いは凄まじく、襲った議員同士で手を切りあってしまうほどであったといいますから、よほどカエサルは嫌われていたのでしょう。

終身独裁官に就任して以降、カエサルは度々王位への野心を露にしたと伝えられており、こうした独裁者としての彼の振る舞いが議員たちの怒りを買ったということもありますが、彼はローマ市民からも憎悪されていたそうです。その理由としては、前述の通りの女たらしということもありますが、金に汚かったという点が大きいようです。

カエサルが元老院議員として初めて表舞台に出た頃の評価は「借金王」であり、事実、借金は天文学的であったといい、また、カエサル自身が総督として派遣された属州では赴任先の部族より金を無心したり、その地の神殿や聖域にあった宝飾物を強奪し、金目当てで街を破壊して回ったそうです。

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また、ローマでもカピトリヌスの神殿に奉納していた金塊を盗み、この代わりに金メッキをした銅でできた像を戻していたそうで、このほか護民官の制止を振り切って神殿の財貨を強奪したという話も伝わっています。

カエサルは背が高く引き締まった体をしていましたが、当時の美男子の条件である「細身、女と見紛うほどの優男」にあてはまらず、またハゲ茶瓶でした。このため、前髪の薄さを隠すためにしていた髪型は「シーザーカット」と呼ばれており、またの名を「カエサルカット」と呼ばれています。

ヨーロッパでは古くから典型的な男性の髪型であり、映画俳優のジョージ・クルーニーが昔していた髪型などがそれです。また映画の「300(スリーハンドレッド)」などの主演者の多くがこの髪型をしていたので、ひと目みたらわかるでしょう。

しかしそれにしても、ハゲで女癖が悪く、しかも金の亡者で、人民から毛虫のように嫌われていた人物の名が、7月の由来だと聞くと、あまりいい気がしないのは私だけではないでしょう。

が、たとえそうだとしても、Julyはかくして過ぎていきます……

今週は台風の襲来が予想されているようですが、この台風が過ぎるころにはもしかしたら梅雨明け宣言があるのかもしれません。暑い夏は大嫌いですが、かといっていつまでもジメジメの梅雨も好きにはなれず、いっそのこと、7,8月を飛ばして9月に行ってほしいと願う今日このごろですが、そうはイカのなんとかです。

ちなみに、8月の英名のAugustは、カエサルの後継者であり、初代ローマ皇帝であるアウグストゥスのAugustusに由来しています。彼は、カエサルが構想しながらも、暗殺によって中断を強いられた数々の計画を実行して成功させており、後世の評価も非常に高いこの人物は、カエサルと違って、稀に見る美男子であったといいます。

胃腸を患ったアウグストゥスは、紀元14年8月19日、ポンペイ近郊のノラの町で76歳で死去しましたが、その最期の日、友人に「私はこの人生という喜劇において自らの役を最後までうまく演じたとは思わないか」と尋ね、「この芝居がお気に召したのなら、どうか拍手喝采を」との口上を付け加えたといわれています。

その彼に免じ、私としても彼に拍手喝采をしたく、私の中においてだけは8月は一年の中のひとつとして残しておくことにしましょう。

ストップモーション

七夕のはなし

2014-3904あいにく台風が近づいており、天の川は見えそうもありませんが、今日は七夕です。

本来は旧暦の7月7日行事なので、実際には月遅れの8月7日に行われるべきものですが、この時期には、明治改暦以降、お盆の行事も行われるようになり、行事が重なることになるため、あまり賑やかしいことはやらなくなりました。

一方では、7月にはあまり目立った行事もほかにはないことでもあり、それなら新暦の7月7日にやればいいや、ということになり、以後、梅雨時だというのに毎年のように笹に短冊を吊り下げた笹飾りがあちこちに飾られるようになっていきました。

それにしてもなぜ、短冊をぶら下げるのかというと、そのむかしは、6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に大祓(おおはらえ)という除災行事をやりました。犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事で、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)といいます。

この夏越の祓では、多くの神社で「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」という儀式が行われました。これは、氏子たちが茅(かや)の草で作られた人が通れるほどの輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うというものです。

古くは、茅は旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられていたためにこうした行事が行われていたわけですが、このとき同時に茅の輪の左右には笹竹が設置されました。そして、これに願い事を書いた短冊を振下げました。

さらにこの行事が終わったあとちょうど七夕がやってくるため、このとき短冊を下げた笹竹を川に流すと、その願いごとがかなうといわれるようになり、これが江戸期には庶民の間で定着しました。

以後、茅の輪潜りのほうは廃れ、笹竹に短冊という儀式のほうだけ生き残ってきたわけですが、最近は環境問題などもあるため、川には流されなくなり、また笹を立てることも一般家庭ではあまりやらなくなりました。

やるのは学校や商店街などの公共の場所だけ、というところも多くなり、私のところでも子供ができてからは、この息子君が小学校を卒業するまでは毎年恒例行事でしたが、彼が大学生になって家を出てからは、さすがにやらなくなりました。

我が家と同様、街を歩いていても七夕飾りをしているところはあまりなく、学校以外ではもっぱら、地元商店街でみかけるくらいです。こうしたところで何故七夕祭りが廃れないかといえば、これは無論、こうした機会に人を集め、収益を上げたいがためです。

小さな商店街などでは、前日までに七夕飾りの設置を終えれば、当日はとくに人的な駆り出しもやる必要もなく、このときとばかりにバーゲンセールや割引を行えばそれなりに収益も上がり、商店街の機能をたいして低下させることなく買物客を集められるため、商業イベントとしても馴染みやすいということもあるようです。

福引や仮装行列といった何等かのイベントをやるところもあり、多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての催しという組み合わせがほとんどのようですが、さらにこれに花火大会などが加わるところもあります。

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ここ伊豆でも、沼津や三島などの大きな街では七夕行事があるようです。昨日は、伊豆長岡の温泉街でも、「あやめ御前パレード」なるものが行われたようで、夜遅くから花火の上がる音が聞こえていました。

この「あやめ御前」というのは、平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した源氏の武将、「源頼政」の奥さんで、伊豆長岡の出身のお姫様です。

ところが、平氏全盛の世の中においてその専横に不満が高まる中、頼政は平氏打倒の挙兵を計画しました。が、計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、宇治平等院の戦いで敗れ自害しました。

このとき、42歳だったあやめ御前は、頼政の遺品、遺髪を携えて長岡へ戻り、出家して名を西妙と改め、その後の一生を念仏を唱えて送り、89で亡くなったそうです。

伊豆にはこうした悲しい話が多く、このほかここ修善寺でも、源頼朝の異母弟の源範頼が誅殺されているほか、頼朝の嫡男で二代将軍の源頼家も北条氏の手の者に修禅寺に幽閉され暗殺されています。

七夕よりも少し時期は遅れますが、今月の21日には、麓の修禅寺温泉街で「頼家まつり」というのもあり、これは、この殺された頼家とその家臣である十三士の霊を慰めるイベントです。仮装行列が修禅寺を出発して、十三士の墓、頼家の墓を詣で供養を行い、桂橋から修禅寺へ戻るそうなので、今年はちょっと行ってみようかと思ったりしています。

哀しいといえば、七夕に降る雨のことは、「催涙雨」というそうです。織姫と彦星が流す涙だと伝えられています。その昔、夏彦という働き者の牛飼いがおり、また、織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘でした。この二人は恋におち、天帝も二人の働きぶりを高く評価していたので、その結婚を認めました。

ところが、めでたく夫婦となった二人は、その夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなりました。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離してしまいました。しかし、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、このころになると、天の川にどこからかカササギがやってきて橋をかけてくれます。

しかし、七夕の日になると毎年のように雨が降り、天の川の水かさが増すため、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができません。やがて永久の月日が流れ、二人はとうとう彦星と織姫星という星になり、この二つの星の逢引であることから、七夕は星あい(星合)と呼ばれるようになり、そしてこの日に降る雨は催涙雨と呼ぶようになりました。

誰しもがよく知る話なのですが、地方によっては微細に話が異なり、この二人の逢瀬もこのようにかなわないというものが多いようですが、いやこの日だけはめでたくデートができるというものもあります。

元々は中国が発祥の地で、ストーリーとして完成したのは漢の時代だそうです。ということは、紀元前からある物語であるということになり、長い長い悠久の時を感じますが、それにしても同じ話がこの間、ほとんど変わりなく伝えられているというのは考えてみればすごいことなのかもしれません。

日本に伝わったのは、有史以後のことのようで、古事記にはすでに七夕の名が出てくるそうで、紀元600~700年ころには日本全国で定着していた話のようです。

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ところが、この話は、日本に伝わると、その内容には大幅な変更が加えられました。織姫彦星の話はこれはこれで残されたのですが、これをヒントとして、日本神話のひとつが作られたのです。それはこういう話です。

その昔、天照大神(あまてらすおおみかみ)らの天上にいた神様たちは、「葦原中国あしは(らのなかつくに)」、つまり、地上の日本国を平定するに当たって、アメノホヒ(天穂日命)という神様を遣わしました。

ところが、このアメノホヒはなかなか帰ってこず、次いでアメノワカヒコ(天若日子)が遣わされましたが、このアメノワカヒコは、地上の日本を代表する大国主(おおくにぬし)の娘である、シタテルヒメ(下照姫命)とくっついて結婚してしまいました。

こうして、二人とも帰還しないのをいぶかしんだ、天照大神は、今度は鳴女(なきめ)というキジを送りました。鳴女は、地上に降り立ち、アメノワカヒコに「おまえは葦原中国に派遣され、荒ぶる神々を帰服しろと命ぜられたが、なぜ、いまだに復命しない」と天照大神の伝言を伝えました。

これをアメノワカヒコの側で聞いていた、側近のアメノサグメ(天探女)はこれを聞いて、「この鳥は不吉だ」と言ったため、アメノワカヒコは弓矢でこのキジを射殺してしまいました。ところが、鳴女の胸を貫きとおした矢はそのまま、天にまで届き、天照大神と一緒にいたタカミムスビ(高木神)という神様のところに落ちました。

そして、これを拾ったタマミムスビは、「アメノワカヒコに悪心があるなら当たれや」といって、矢を投げ返したところ、この矢は地上にいるアメノワカヒコの胸を貫いて、彼は死んでしまいました。

これを知った妻のシタテルヒメは、泣き叫びましたが、そのアメノワカヒコの死を嘆く泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父のアマツクニタマ(天津国玉神)は下界に降りて息子のために葬儀をしてやりました。このとき、シタテルヒメの兄のアヂスキタカヒコネ(味耜高彦根命)もまた父とともに弔いに訪れました。

このアヂスキタカヒコネは、死んだアメノワカヒコに大変よく似ていました。このため、これを見たシタテルヒメが「アメノワカヒコは生きていた」と喜んで抱きつきますが、驚いたアヂスキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて葬儀所に建ててあった喪屋(遺体を弔うために建てる小屋)ぶち壊し、蹴り飛ばしました。

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と、この話はここで中途半端に終わっています。それにしても、織姫彦星伝説の話はどこへ行ってしまったの?と思えるほどかけらもなく変わってしまっており、似ているのはアメノワカヒコの死によって、男女の仲が引き裂かれる、といった点だけです。

ストーリーとしても、シタテルヒメとの恋に溺れて天命を放棄し、その罪のために、亡くなってしまう、という現代ではありふれたストーリーにすぎに変わってしまっているのですが、これはこれで純粋な大昔の人にはかなり悲劇的に感じられたようです。

また、この当時は朝廷の権威もまだ定着しておらず、中央政権に反発する豪族なども多数いた時代であったため、アメノワカヒコのように反逆的な神は、民間では人気が高かったようです。

このため、この話はその後平安時代になってからも、「うつほ物語」「狭衣物語」などの名で少々形を変えながら語り継がれました。が、室町時代にまで下ると、これだけじゃぁ面白くないと、多少というか、さらにかなりのアレンジが加えられ、しかもオリジナルの織姫と彦星の話も多少盛り込まれました。

この物語は、「御伽草子(おとぎぞうし)」に収録されており、この中では、前の若彦は、「天稚彦」の名で登場し、かなりの美男子として描かれました。それは、こういう話です。

ある長者が三人の美しい娘を持っていました。ある日、この長者の家に大蛇がやってきて、「娘を嫁にくれなければお前を食ってしまうぞ」と脅しました。仕方なく長者は、娘たちを説得しますが、上の姉二人は拒み、末娘だけが了承しました。末娘は心優しい人物で、自分が拒めば父親が大蛇に食われてしまうと悲しんだのでした。

こうして、大蛇が指定した場所で娘が怯えながら待っていると、やがて大蛇がやってきました。そして、何を言い出すかと思うと、いきなり、娘に対して、自分の頭を切るように言うではありませんか。

そんなことはできませんと娘は断りますが、大蛇は、ではお前を食ってしまうぞ、とまで言うので、仕方なく言われたとおりに、蛇の頭を切り落としました。

すると、なんということでしょう。蛇は美しい男の姿になり、そして「自分は天稚彦である」と名乗ったではありませんか。こうして、娘と天稚彦は夫婦となり、その後楽しい日々を送るようになりました。

ところが、ある日天稚彦は用事がある、と娘に告げて、一人天に旅立ってしまいます。その別れ間際、天稚彦はに、娘にひとつの唐櫃(からびつ、中国風のおひつ)を渡して、「これを開けたら帰ってこられなくなるから、帰ってくると約束した日まで絶対開けるな」と告げて旅立っていきました。

こうして娘は来る日も来る日も天稚彦の帰りを待って暮らすようになりまたが、あるとき、かねてよりこの末娘の裕福な暮らしを嫉んだ姉たちが押しかけ、妹の体をくすぐって唐櫃の鍵を奪い取ってしまいました。

そして、唐櫃を力ずくで開けてしまいますが、中には何も入っておらず、ぼっと白い煙が立ちあがっただけでした。がっかりした姉たちはその場を立ち去りましたが、天稚彦が「これを開けたら帰ってこられなくなる」と言ったとおりになり、その後娘が待てども待てども彼は帰ってきません。

月日が経ち、やがて天稚彦が約束した日がやってきましたが、その日がすぎても一向に彼が戻ってこないため、不安になった娘はとうとう、自ら天稚彦を探しに天に旅立つことにします。

こうして天稚彦を探して天に昇った娘は、ゆうづつ(宵の明星・金星)、箒星、昴(すばる)などの星々たちに天稚彦の居場所を聞いて回り、ついに愛する夫と再会を果たします。

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ところがなんと、この天稚彦の父親は実は鬼でした。鬼が人間の娘を嫁として認めるはずはありません。このため天稚彦は、この父から娘を隠そうとします。父鬼が娘を隠していた部屋に来る気配を感じると、彼は咄嗟に忍術を使って、娘を「脇息」に変えてしまいました。

ところが、部屋に入って来た父鬼は、あろうことか娘が化けているその脇息に寄り掛かってしまいます。これを見た天稚彦は気が気ではありません。しかも、父鬼は「なんだか人間の臭いがするような気がする」とか言い出しましたが、しばらくすると気が付かずに出ていきました。

ホッと胸を撫でおろした天稚彦でしたが、父鬼はそれからも度々彼のところを訪れてくるので、その度ごとに天稚彦は娘を扇子に変えたり、枕に変えたりして誤魔化していました。ところが、ある日のこと、うっかり昼寝をしている間に父鬼がやってきて、ついに娘を見つけられてしまいました。

これを見た父鬼は怒りましたが、天稚彦が平謝りにあやまるのでやがて落ち着いてきました。が娘に対し、もし「ムカデの蔵」で一晩過ごすことができたら、息子と一緒にさせてやる、と難問をつきつけます。

これに対し、天稚彦は娘に対し、大丈夫だといい、「天稚彦の袖」という袖を娘にこっそりと手渡しました。やがて夜になり、父鬼によってムカデ蔵に押し込められた娘が、この袖を振ると、ムカデは娘を遠巻きにするだけで、刺そうともしません。

翌日のこと、無事な娘の姿を見た父鬼は驚きますが、今度は、牛舎で飼っている1千頭の牛を野に放ち、夜までにこれを再び牛舎に追い込むよう娘に命じます。

「とても、女の私にはムリだわ……」と困惑する娘でしたが、「天稚彦の袖々」と再び天稚彦にもらった袖を唱えながら振ってみると、牛は見事に言う事を聞いてくれ、無事すべてを牛舎に戻すことができました。

次々と難題をクリアーする娘に対し、父鬼は今度こそはと、米倉にある米をすべて別の米倉へ移すよう娘に命じます。が、これも、天稚彦の袖を振ると、どこからともなく、大量のアリが現れて運んでくれました。

こうして、出された難題すべてに答えた娘を父鬼もついに嫁として認めざるを得なくなりました。そして、「月に一度だけなら会ってもよい」と二人に告げます。

ところが、動転していた娘は、「月に一度」を「えっ、年に一度ですか?」と聞き返してしまいます。これを聞いた父鬼が「それでは年に一度だ」と、ひとつのウリを天稚彦と娘の間の地面に打ち付けると、なんとそのウリの破片はバラバラに散らばり、見る間に天の川となりました。

こうして、娘と天稚彦は天の川を隔てて暮らすようになりましたが、年に一度だけ、7月7日の晩には逢瀬を楽しむことができるようになったわけです。が、もし、娘が聞き間違えさえしなければ、ふたりは毎月一度はデートできるようになっていたのに……嗚呼

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さてさて、サッカーのワールドカップも4強が決まり、大詰めを迎えようとしています。日本チームは早々に敗退してしまったので興味は半減しているのですが、ニュースやらワイドショーで何かと取り上げられることもあり、何かと結果が気になります。

下馬評ではやはりドイツとブラジルが最有力ということのようですが、エースのネイマールをアクシデントで失ったブラジル危うし、という見方も多いようです。

せっかくの自国開催でもあり、日本人にもゆかりの深い国でもあるため、私的にはできればブラジルに勝たせてあげたいなと、つい思ったりもします。この国に住む約160万人の日系人もまた、母国を熱烈に応援しているでしょう。

ところで、そんな彼らにもまた、七夕を祝う習慣が根付いているといい、とくに仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として1979年から始まった「サンパウロ仙台七夕祭り」には毎年多くの日系人が訪れるそうで、最近では日本からの観光客も多いそうです。

ただ、仙台七夕祭りは、月遅れの8月に行われますが、このブラジルの仙台七夕祭りは、7月に行われるそうで、また、必ずしも7月7日ではなく、7月のうち、休日となる週末の2日を選んで行われるようです。

最近では、日系ブラジル人社会の枠を超えてサンパウロ市のイベントカレンダーに載るほど大規模になっているとのことで、広場や歩行者天国になった通りには出店が並び、仙台市の七夕飾り制作業者から技術指導を受け、くす玉付きの大きな吹流しが多数飾り付けられるなど、本格的なものだとか。

また、和太鼓やエイサー太鼓、日本舞踊やYOSAKOI、空手の演舞やアキバ系のダンスなど様々な日本文化のステージやパレードが繰り広げられ、「ミス七夕浴衣コンクール」も開催されるといいます。さらには、このサンパウロでの七夕祭りが同祭がきっかけとなって、現在、ブラジル国内の30以上の都市でこうした七夕祭りが開催されているといいます。

しかし、国土のほとんどが南半球にあるブラジルにとっては、今は夏ではなく冬です。このため七夕祭りもまた「冬の風物詩」として定着しているのだそうで、そう聞くとなにやら不思議な気がしてきます。

夏の風物詩である日本の七夕は、今日とあとひと月遅れの七夕がありますが、やはり雨に見舞われることの少ない8月の七夕のほうが風情があるもの。おそらく修善寺温泉でも何等かのイベントがあるでしょうが、できれば今年はそうしたお祭りに出かけてみようかなと思ったりもしています。

さてみなさんの七夕はいかがお過ごしでしょうか。笹に短冊を飾り、もう願い事をされたでしょうか。その願いごとがかなうよう、こちらでも願っておきましょう。

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