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西暦0年

我々がここ伊豆に引っ越してきて8年あまりが過ぎました。

東日本大震災が起きた日からちょうど一年後の2012年の3月11日のことで、この日に今の家で荷ほどきを始めました。昨日のことのように思い出しますが、既に9年目に突入、来年にはもう10年目に入ることを考えると、改めて時流れの速さに驚いたり感心したりしているところです。

ところで、こうした年数の計算をするとき、今年は2020年だから2012を引けば8年になって…とすぐに計算ができます。

ところが、年号で計算しようとすると、今年は令和2年だから、平成31年から震災の起こった平成23年を引いて、さらに2を足して… と余分な手間をかけなければなりません。

ときには平成が何年までか覚えていなかったり、震災の起こった平成23年という年を覚えていなかったりで、さらに手間が増えます。単に「何年前」という答えを導きだすためだけに多大な時間を費やすことになるわけです。

そこへ行くと、西暦であれば上のように簡単に計算できるわけであり、考えてみれば非常に便利なしくみだな、と改めて感心したりもします。

それでは、普段我々が使っているこの、西暦とはそもそもなんでしょう。

調べてみると、これは6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって提案された紀年法だということです。

紀年法とは、ある年を始点にして、年を数えたり、記録する方法です。それまでローマでは“ディオクレティアヌス紀元”という紀年法が使われていました。これは、かつてのローマ皇帝ディオクレティアヌスがキリスト教徒迫害し、これによって多くの殉教者が出たことを忘れないように、ということで使われるようになったものです。

ところが、西暦で言うところの525年、神学者であり、このころのローマ教皇会から篤い信頼を得ていた、ディオニュシウス・エクシグウスは、この紀年法が使われていることに疑問を感じました。

なぜこんな迫害者にちなんだ紀年法が使われているんだ、とむしろ憤慨し、このままこの“ディオクレティアヌス紀元”が続けば、永遠に迫害者の名が歴史に刻まれるだけじゃないか、と考えました。

そこで、それまでのこの紀元に変わって、イエス・キリスト生誕の年を新たな紀元とすることを思いつきました。ちょうどこのころ、キリスト教の移動祝日を定める暦表(復活祭暦表)を改訂しようという機運が高まっており、紀年法の改定にはちょうどよいタイミングだったからです。

移動祝日というのは、現在で言うところの「閏日(うるうび)」のようなもので、実際の天文現象と暦の間のズレを調整するためのものです。このころの暦は、現在のようにほとんど修正が必要ないような完成されたものではなく、時折修正が必要であり、復活祭の日さえも毎年のように計算し直して決めていました。

暦表は定期的に更新されていましたが、この年がちょうどその更新にあたっており、このときついでに紀年法も新しいものにしようと考えました。ただ、ここで問題なのは、そのためには、イエス・キリストの誕生日を知る必要がありました。

しかし、このころすでに、キリストが亡くなって500年以上も経っており、実際に彼が何年何日に死んだのかを証明できるものは何もありませんでした。現在では12月25日がイエス・キリストの誕生日とされていますが、これはのちの時代に脚色されたものです。この当時も同じであり、実際の誕生日は推測するしかありません。

また、キリストの生まれた年もはっきりしませんでした。ただ、この当時、イエスの「復活」は、その死の532年後に起こるというのが「常識」とされており、神学者によれば、その年は、暦表が改訂されようとしていたこの年、ディオクレティアヌス紀元241年から38年後のディオクレティアヌス紀元279年がそれとされていました。

聖書研究者たちはまた、キリストは亡くなったときに「満30歳」くらいだったと考えていました。さらに、キリストは復活したあと40日間地上にとどまったという記録などから、おそらく31歳くらいのとき、キリストは神になった、と考えました。

キリストが31歳のときから数えて532年後に再び復活するとすれば、これは最初の復活から563年後ということになります。このことから、「キリスト紀元563年=ディオクレティアヌス紀元279年」という等式が成り立ちます。

加えてキリストの誕生日までさかのぼるとすると、復活から数えて31年前の年がキリスト紀元0年となり、つまり、

「キリスト紀元0年(C紀元)=ディオクレティアヌス紀元(D紀元)“前”284年

ということになります。

わかりにくいので、整理すると以下のようになります。

誕生 →  復活→     暦表改定→      再復活
C紀元   0     31             525              563
D紀元  -284   -253               241           279

このように、キリストの生誕年を始点と考えて新たに生み出されたのが我々が現在使っている「西暦」です。しかし、これが作られた当初、結局は新しい紀年法として使用されることはありませんでした。それまでのディオクレティアヌス紀年法があまりにも浸透しすぎていたためです。

その後も長らく人々に受け入れられることはありませんでしたが、これからおよそ200年後の731年に、カトリック教会最古の修道会である、ベネディクト会士のベーダ・ヴェネラビリスという教会博士が、この西暦を用いて「イングランド教会史」を著しました。

この本がベストセラーになったことから、西暦は徐々に普及し始め、10世紀頃にイギリスなどの一部の国で使われるようになりました。しかし、ヨーロッパ一全体で一般化したのは15世紀以降のことです。

西暦が国際社会でもっとも用いられる年号となったのは、キリスト教圏であるヨーロッパ各国のうちの、イギリスやスペイン、ポルトガルといった「世界制覇」をめざす国による植民地拡大が続いたためです。これによって非キリスト教国でも西暦が普及し、世界中で一般的な紀年法として定着しました。

日本語では「西暦〇〇年」と書きますが、英語圏では、ラテン語の「A.D.」が使われ、“A.D.2020“、といった表記がされます。これはラテン語の「アンノドミニ (Anno Domini)」の略であり、Anno は「年の」、Dominiは、「主の」という意味です。救世主キリストにちなんだ表現方法であり、意訳すれば「主(イエス・キリスト)の年に」ということになります。

ちなみに、紀元前はB.Cであり、これはBefore Christの略であって、こちらは「キリスト以前」という意味になります。

日本には、16世紀にカトリック教会の宣教師によって西暦がもたらされました。しかし西暦はキリスト教と結びついた紀年法であったため、江戸時代になって禁教令が出されると、使用が禁じられました。1641年には、平戸のオランダ商館が出島へ移転となりましたが、これは平戸で西暦が使われていたことを長崎奉行が問題視したため、といわれています。

その後、日本で再び西暦が使われるようになったのは、1872年(明治5年)のことです。西洋に合わせる形でそれまで使われていた天保暦(太陰太陽暦)から、らグレゴリオ暦(太陽暦)へと移行が実行されました。

太陰太陽暦というのは、太陰暦を改良したものです。古代で行われていた暦であり、月の満ち欠けの繰り返しで成り立つもので、29ないし30日からなる「月」を12回繰り返して一年とします。

しかしこれでは一年が約354日にしかなりません。そこで太陽の運行を参考にしつつ「閏月」を足し、一年を13ヶ月にする年を設けることで暦と季節のずれを正す方法がはかられたのが、太陰太陽暦です。

これに対して、太陽暦は、地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)を基にしており、その周期は、約365.242 189 44日であって、一年365日とすると、4年間で約0.968 758 日のズレが生じます。このずれを補正するために「閏日」が設けられますが、太陰太陽暦のように一ヵ月単位でズレを修正する方式よりもずっと誤差が少なくて済みます。

ということで、グレゴリオ暦(太陽暦)への移行が決まったわけですが、考えてみればそれまで使われていた太陰太陽暦のままでもとくに大きな問題があったわけではありません。徳川治世の時代から明治へと大きく時代が動き、多くの混乱がある中、こうした暦の変更ははたして必要だったのでしょうか。

明治政府による「改暦ノ布告」は年も押し迫った明治5年11月9日(グレゴリオ暦1872年12月9日)、突然公布されました。が、懸念されたとおり、社会的に大きな混乱をきたしました。

従来の年中行事や慣習がめちゃくちゃになったことは言うまでもなく、季語を命とする詩歌俳諧の世界は大混乱を被りました。物理的に一番打撃を受けたのは農家であり、従来の暦で計算していた種まきや収穫の時期の見当がさっぱりつかなくなったため、不作が続いて家業が成り立たなくなる農家が急増しました。

鉄道もまた、改暦の影響を受けました。この年、明治5年の12月3日に改暦が実施され、明治6年1月1日となりましたが、これに伴い、それまで使われていた「不定時法」が廃止されました。日の出と日没を基準とする時刻制度ですが、これに代わって一日を24等分する近代的な「定時法」が導入されたのです。

これによってそれまではかなりアバウトで運行されていた鉄道は規則正しく運用されるようになりましたが、電車に乗り遅れる人が続出しました。それまではホームに駆け込めば運転手が待ってくれていたものが、定刻の運行が遵守されるようになり、置いてけぼりを食らうようになったためです。

さらに、カレンダー業者も打撃を受けました。このころ、官暦の発行を独占的に行っていたのは頒暦商社(はんれきしょうしゃ)という組織でした。例年10月1日に翌年の暦の販売を始めることとしており、この年もすでに翌年の暦が発売されていました。

ところが、急な改暦によって従来の暦が大量に返本されるところとなり、また急遽新しい暦を作る羽目になったため、甚大な損害を被りました。ちなみに頒暦商社が持っていた版権はその後、神宮司庁に移され、その後は伊勢神宮がこうした官暦の製造・頒布を委託されるようになりました。

これほど急な新暦導入が行われたのは、実は明治政府の財政状況が逼迫していたためでした。この当時、国内外の金銀比価の差によって大量の金が国外へ流出していた上、さらに戊辰戦争による戦費や、殖産興業のために新政府は深刻な財政不足に陥っていました。

この暦の変更が行われた年の翌年の明治6年は、それまで使われていた太陰太陽暦によれば、閏月があり、13か月となる予定でした。この当時、明治政府は官吏への報酬を月給制に移行したばかりであり、この旧暦のままでいけば、翌年には年間に13回給料を支給しなければならなくなります。

しかし、新暦を導入してしまえば閏月はなくなり、12か月分の支給で済みます。しかも新暦の導入にあたり、それまでの旧暦は新暦である明治5年12月は2日まで、としました。
これにより、旧暦の12月分の給料も支払う必要がなくなり、つまり新暦導入後の月給の支給は11か月分で済ますことができることになります。

さらにせこいことに、当時の明治政府は、新暦導入とともに「週休制」を導入しました。それまでは、1、6のつく日を休業とする習わしがあり、これに節句などの休業を加えると年間で140日近い休みをとることができました。ところが、新暦導入を機に週休制に改めることで、休業日をさらに50日余りに減らすことができます。

もっともその後、国民の休日などが導入されたため、休日はさらに増えましたが、この新暦を導入したてのころはそうした制度もまだなく、官吏にすれば給料は減らされるは、休みはなくなるはで、とんでもないとばっちりを受けることとなりました。

一般人も官吏に準じた給与体系を強いられるところとなり、この暦の変更に対して多くの国民が不満を持ちました。

ヨーロッパで生まれた西暦もまた、こうして暦の変更とともに新たに導入されたわけですが、日本ではこれと並行して明治や大正といった「年号」が広く使われていたため、普及しませんでした。日常生活で人々が広く使い始めたのは、第二次世界大戦後のことといわれています。

現在においても、「2020年(令和2年)」のように元号と併記することが多く、意外なのは、日本の政府機関や地方公共団体などが作成する公文書における年の表記は、基本的に元号のみが用いられている点です。

住民票、運転免許証などがその代表例です。お手元に免許証や健康保険証があれば見ていただければわかりますが、公布日や満了日の表記は年号になっているはずです。

こうした公文書で年号表記が優先されるのは、憲法に「政教分離規定・信教の自由」の規定が盛り込まれているためです。現在の日本政府は、西暦はそもそもキリスト教の視点から作られたものである、という見解を持っており、西暦の使用を原則としない、という立場をとっています。

とはいえ、日本以外の各国は西暦を基本としており、日本だけが独自の紀年法を使っていては国際社会で孤立してしまいます。また、明治以後、ようやく定着してきたこの西暦制度を捨てるわけにもいかず、このため、法令番号や判例など、元号で記される公文書を示す場合はできるだけ西暦を併記するようになっています。

ただ、パスポートの名義人の生年などには西暦だけが使われています。これは国外へ出たときに外国の人には日本の元号が、彼らが使用する西暦の何年なのかがわからないためです。個人番号カード(マイナンバーカード)やかつて発行されていた住民基本台帳カードなども同じで、国際社会で使う可能性のあるものは、その有効期限などが西暦で表記されています。

さらに、主要なマスメディア(新聞・テレビなど)の記事の多くは、主に西暦を使用しており、日付欄も「西暦(元号)」と併記する新聞が多くなっています。これも日本人以外の人が視聴する可能性があるためにほかなりません。

このように公文書や一部の文書では西暦が優先して使われていますが、一般には年号を使う向きも多く、多くの場合にはケースバイケースで使い分けている、というのが実情のようです。

ただ傾向として、最近は年号よりも西暦が使われる頻度が多くなってきているのは間違いありません。

戦後まもなくでは圧倒的に年号の使用のほうが多く、1976年(昭和51年)に行われた元号に関する世論調査でも、「国民の87.5%が元号を主に使用している」と回答しており、「併用」は7.1%、「西暦のみを使用」はわずか2.5%でした。

とはいえ、これでも西暦の使用は増えたほうで、そのきっかけは1964年(昭和39年)の東京夏季オリンピック以降のことだといわれています。

皇室典範改正により元号が法的根拠を失ったこともあり、東京オリンピックのキャンペーンでは、日本の国際化を内外にアピールするためにさかんに西暦が使われ、その結果として西暦を使う人が増えました。

毎日新聞が2019年に行った世論調査では、「主に元号を使う人は34%」と、1976年に比べて半部以下に減り、片や「主に西暦」はが25%であって、1976年との比較では10倍に増えたことになります。「元号と西暦と半々」という人は元号と同じ34%であり、西暦派と合わせれば59%にもなります。

西暦を使う人が増えたのは、元号が昭和から平成に変わったことが原因と考えられています。また、昨年平成から令和へと年号が変わったこともその傾向に拍車をかけているようです。元号による表記では「今年が何年なのか判らない」「過去の出来事の把握が難しい」という人が増えているのも理由のようです。

21世紀に入った今日ではインターネットの普及などもあって国際化が進み、日常において「元号より西暦が主に使用されるケース」も格段に増えています。コンピュータ処理の上では、数字とアルファベットを併用する元号よりも、数字だけの西暦のほうが有利なことも関係しているようです。

このように、現代においては西暦を主に使うケースが格段に増えていますが、一方では元号を好んで使う人も多いようです。

これはその時々で使われる年号に人々が「歴史性」を感じるからでしょう。古銭や古紙幣のように年号が入っていることで価値が上がるものもあり、法律においても、その使用に関しては基本的に各々の自由とされています。

個人的にも、「2020年」などと書くよりも「令和二年」と書いた方が何やら書いた文章の格式が高くなったような気がします。年号がなくなると寂しい、という人はやはり多いのではないでしょうか。

ところで、上述のように、ディオニュシウス・エクシグウスが西暦の起点(紀元)としたのが西暦1年(紀元1年)だとすれば、その前の年は「西暦0年」ということになるのでしょうか。

これについて調べてみたところ、西暦0年というものは存在せず、この年の呼称は、「紀元前1年」と呼ぶのが正しいようです。天文学などでは算術による間違いをきたさないように西暦0年を使うこともあるようですが、通常は、紀元前2年 →紀元前1年 →紀元1年 →紀元2年という順番になります。

そもそもこの西暦は、紀元1年にキリストが生まれた、とされたことから生まれたわけです。しかし、現在では、キリストの誕生が実際に西暦1年だったとはみなされていません。さまざまな説がありますが、実際にキリストが生まれたのは紀元前7年〜紀元前4年ごろというのが、近年の定説のようです。

イエスはヘロデ大王の治世の末期、紀元前4年頃に生まれたと考えられており、その根拠は、次の新約聖書の2つの記述によります

1.「大規模な人口調査が行われた年にイエスがベツレヘムで誕生した」という記述がルカによる福音書第2章にあり、人口調査は紀元前4年に行われたとされていること。

2.「救世主イエス誕生の話を耳にしたヘロデ大王が、新たな王の存在を恐れ二歳以下の幼児を虐殺させたためにイエスと両親がエジプトに避難した」という記述がマタイによる福音書第2章にあること。

ヘロデ大王というのは、ローマ帝国の元老院により、ユダヤ人の王として認められた人物で、現在のイスラエルを中心とした地域にヘロデ朝を創設し、ローマとの協調関係を構築したことで知られています。イエス・キリストは、ローマ帝国がこのヘロデ朝に統治を委嘱した土地で生まれました。

ヘロデ王はエルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残しましたが、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害したといわれており、上の記述にも幼児を虐殺させた、とあります。

ただ、これらの記述自体に歴史的な裏づけはあるわけではありません。聖書そのものの記述があいまいであり、これが書かれたとされる当時、しっかりとした紀年法がなく、そこに書かれている出来事の前後関係が把握しづらいためです。

とはいえ、この当時の複数の文書の比較から、ヘロデ大王在位中、彼が統治したエリアでイエスが誕生したことは明らかとされています。ヘロデ大王の死は紀元前4年という説が有力視されていることなどから、イエスは少なくとも紀元前4年には誕生していたと考えられているのです。




それではイエス・キリストが生まれたというこのころ、日本はどんな時代だったのでしょうか。

年表で調べてみると、その年の元号は、「垂仁天皇26年」となっています。

ただ、日本の元号は、大化の改新が行われた645年、この年の名として「大化」が用いられたのが最初です。それより以前に年号として一般の人々に呼称されていたものはありません。

しかし、それでは歴史上の事象を語るために不便だ、ということで、史学的には原則として天皇の即位の翌年を元年とし、その天皇の名前を年に付加する、という形で整理されています。

たとえば、垂仁天皇は、その先代の「崇神天皇(すじんてんのう)」の治世29年目に生まれたため、この生誕年は「崇神天皇29年」と呼ばれます。上の西暦1年と目される年は垂仁天皇が即位して26年目であり、こちらも「垂仁天皇26年」と表記されます。

この垂仁天皇ですが、この崇神天皇を継いで天皇になったとされ、その在位は垂仁天皇元年1月2日から垂仁天皇99年7月14日であり、在位最後の年に140歳で崩御とされています。

しかし、現在でもそんな年齢まで生きている人はいません。ましてやこの時代にそんな高齢まで生きていたということ自体が信じがたく、このためその実在性は疑問視されています。

上述の「大化」が年号として使われるようになった時の天皇は、第35代の女性天皇、「皇極天皇」の治世であり、こちらは実在した、とされる確かな証拠があるようです。ところが、この垂仁天皇は、この皇極天皇よりも24代も前の第11代天皇とされています。

「神話」とされる昔話でよく出てくる「日本武尊(ヤマトタケル)」の子供が、第13代の天皇、成務天皇(せいむてんのう)だと言われていますから、これよりもさらに古い時代の天皇ということになります。実在した人物かどうかは、確かに疑いたくもなります。

時代区分としても、縄文時代に続く「弥生時代」のころです。およそ700年ほど続いたとされるこの時代の中期後半のことであり、このころ鉄器はようやく生みだされていましたが、まだ石器が主に使われていました。

「委奴国王」から漢の国王に「漢委奴国王印」と刻まれた金印が献じられたとされる、西暦57年からもそう離れていません。「委奴国王」が築いた王国が福岡にあったのか、京都にあったのかすらはっきりしない、そんな時代です。なので、たぶんにおとぎ話と考えてもよいかもしれません。

そうはいってもそれでは話が進みません。なので、この垂仁天皇が実在していたかどうかは別として、この人物がいた、と書かれている書物に基づいて、この稿をすすめましょう。

その書物こそが、日本最古の歴史書といわれる「古事記」です。この中で、垂仁天皇は、とくに祭祀や農業振興に力を入れた天皇として描かれており、とくに即位25年のころ、伊勢神宮を建立したとの記述があります。その2年後には、初めて屯倉(天皇の直轄地)を作るとともに、諸神社に武器を献納し、神戸を「神地」と定めた、という記述もみられます。

また、子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)に命じて畿内の各地に溜池を造らせて農業を盛んにしたといい、即位39年には奈良県天理市にある、現在の石上神宮に「神宝」を納めたとされます。

即位2年のとき、狭穂姫命(さほひめのみこと)という女性と婚姻関係を結んでおり、この女性の父は、開化天皇の皇子とされる、彦坐王(ひこいますのみこと)です。



この狭穂姫については、悲しい話が古事記に残されています。

姫には、狭穂毘古(さほのひこ)という兄がいました。仲の良い兄妹だったらしく、狭穂姫が垂仁天皇の皇后となったのちも交流が続いており、ある日、その兄から「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられます。

これに対して姫は迷いますが、眼前の兄に対して夫のほうとは言えず、「兄のほうが愛おしい」と答えてしまいました。すると、兄は懐から短刀を出し、狭穂姫に渡して天皇を暗殺するように言い渡しました。

一方、夫の垂仁天皇は、妻である狭穂姫を心から愛していました。この日も何の疑問も抱かず姫の膝枕で居眠りをしていましたが、夫を殺すよう命じられていた姫は、このときとばかりに兄からもらった短刀で夫を殺害しようとします。

三度まで短刀を振りかざしますが、さすがに夫の不憫さに耐えられず躊躇、思わず涙をこぼしてしまいます。姫がこぼした涙で目が覚めた天皇は、そのとき夢を見ていました。その中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり頬に雨がかかった」といい、これはどういう意味だろうと、膝枕を貸していた姫に聞きました。

佐保というのは、現在の奈良市の北部にある地名で、周囲には聖武天皇ら皇族の陵墓が点在する場所です。古くから桜の名所としられる地域であり、特に南部を流れる佐保川沿いの桜並木が有名です。

その佐保の方角に兄が住んでいることを知っている姫は、思わず、わっと泣き伏しました。やがて泣きやんだ狭穂姫は、暗殺未遂の顛末を語り始めます。垂仁天皇は驚きますが、姫を深く愛しており、しかもこのころ姫の腹には天皇の子が宿っていました。このため、複雑な思いを描きながらも、兄の元へ逃れる妻を許してしまいます。

しかし、反逆者は討伐しなければなりません。狭穂彦を討つことを決めますが、兄の元へ走った狭穂姫はそこで、誉津別命(ほむつわけのみこと)を出産しました。そして、そのころ、天皇による兄の討伐の噂を耳にします。

思い苦しみ、いっそのこと息子に手をかけて、ともに命を絶とうかと思います。しかしやはり息子を道連れにするのが忍びなく、兄に頼んで護衛を伴い、御所近くまで出かけていって天皇に息子を引き取るように頼むことにしました。

これを知った天皇は、敏捷な兵士を用意し、息子を渡しに来た姫を護衛の兵士から奪還しようと考えました。しかし、夫が力づくで自分を奪うに違いない、と予想していた姫はある工夫をしました。

髪は剃りあげて鬘(かつら)をかぶり、腕輪の糸には切り目を入れてすぐに切れるようにしました。衣装も酒で腐らせ、兵士が触ろうものなら、すぐに破けてしまうようにしたのです。

やがて狭穂姫は狭穂彦の護衛を伴い、天皇との面会場所にやってきました。それをみた天皇はここぞとばかり、手下の衛兵たちに命じて、姫を護衛から引き離そうとしますが、姫がその衣装に仕込んだ工夫により、どうしても彼女を捕獲できません。

やがて、天皇方と狭穂彦方の武士たちは入り乱れて切りあう事態に発展しますが、狭穂彦の手の者たちは形勢が不利とみなすや、城へと狭穂姫を連れて逃げかえりました。天皇はこの機に狭穂彦を討伐しようと、彼らの城「稲城」へとなだれ込みます。

城へと帰ってきた狭穂姫ですが、息子を夫に渡すことができなかったばかりか、夫を裏切ったことを嘆きます。敵味方が争う中、短刀をのどに刺して死のうとしますが、これを見た天皇は時間を稼ぐために、「お前が死んだらその子の名はどうしたらよいのだ」と尋ねました。

すると、姫は「火の中(争いごとの中)で産んだのですから、名は本牟智和気御子((ほむつわけのみこ“炎分命”)とつけたらよいでしょう」と告げました。

さらに時間を稼ごうと次いで天皇は「お前が結んだ下紐(はかまを結ぶ紐)は、誰が解いてくれるのか」と尋ねました。姫は「丹波に兄比売と弟比売という姉妹がいます。彼女らは忠誠な民ですから、この二人をお召しになるのがよいでしょう」と天皇に告げました。そしてそう言うやいなや、炎に包まれた城の中に飛びこみ、兄とともに焼け死んでしまいました。

姫がその死の直前に告げた姉妹のひとりは、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)といい、狭穂姫の遺志を汲んで、その後垂仁天皇の後妻となりました。

後年、日葉酢媛命もまた若くして亡くなりましたが、その葬儀に際して垂仁天皇は、それまで行われていた殉死を悪習として禁じました。このとき側近の一人が、生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、天皇もそれを認め、以後その陵墓には人や馬に見立てた埴輪が埋納されるようになり、以後もこの風習が踏襲されるようになったといいます。

一方、姫の子の誉津別皇子はなんとか炎の中から助け出されました。父天皇に引き取られ、その後大変寵愛されましたが、長じてひげが胸先に達する年齢になっても言葉をしゃべることができず、赤子のように泣いてばかりであったといいます。

ところがある日、鵠(くぐい、白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発したといい、これを見た天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じました。部下は出雲まで出かけていき、苦労してこれを捕まえて献上しました。そして皇子がこの鵠を遊び相手にするようになると、その後は普通に言葉をしゃべれるようになりました。

皇子が話せるようになったことを喜んだ天皇は、鵠が捕まった土地「に社を建立し、これを「大神の宮」と呼びました。今に至るまで続く「出雲大社」はこうして生まれました。

垂仁天皇にまつわるこうした話は、「古事記」の中巻に語られており、叙情的説話として同書中の中でも白眉の作と評されています。

また、同じ古事記の下巻には、同じく兄妹の悲恋を語る、もうひとつの物語が語られています。

この兄妹は、木梨之軽王(きなしのかるのみこ)と木梨之軽大郎女(きなしのかるのおおいらつめ)といい、ともに、第19代允恭(いんぎょう)天皇とその皇后の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の間にできた子供たちでした。

二人の母方の叔母である八田王女(やたのおうじょ)は美しい女性で、「衣通姫(そとおりひめ)」と呼ばれていました。その美しさが衣を通して輝くほどであったことからこう呼ばれるようになりましたが、軽大娘皇女もまた叔母に似て美しい少女に成長し、同様に「衣通姫」と呼ばれるようになりました。

しかし、その美しさが災いし、兄は妹でありながら衣通姫に惹かれるようになり、姫もまたこの兄を慕うようになります。この当時、異母兄妹であればは婚姻も認められていましたが、同じ母を持つ兄妹が情を交わすことは禁じられていました。ところが、二人はやがて一線を越えてしまいます。

ある朝、二人の父である允恭天皇が朝食を摂ろうとすると、冬でもないのに汁物が凍りついていました。これは不吉だと考えた天皇は、側近の者にその理由を占わせました。すると、その者は「身内に良くないことが起こっています。おそらく通じている者がいるのでしょう」と答え、これによって二人の仲が周囲に発覚するところとなります。

この姦淫、しかも近親相姦は、やがて群臣たちの間にも知れ渡るところとなり、そうと知った彼らはやがて軽皇子から離れて行き、その弟である穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)につくようになりました。

その後、允恭天皇が崩御した折、本来であれば長子である軽皇子が即位するはずでしたが、彼を支持する者はおらず、皆が穴穂皇子を支持しました。これを知った軽皇子は腹心であった大前小前宿禰(おおまえこまえのすくね)の助けを借りて穴穂皇子を討とうとします。

しかし、逆に追いつめられ、しかも腹心の大前小前宿禰が裏切りに遭い、軽皇子は捕えられてしまいます。こうして、軽皇子は四国伊予(現在の愛媛)へと流罪とされることになりました。このとき皇子は「私は必ず戻ってくるから待っていなさい」と衣通姫に言い残し、流刑地へと去っていきました。

軽皇子は彼女との別れに際してまた、次のような歌を詠みました。

天飛(あまと)ぶ 鳥も使ひぞ 鶴(たづ)が音(ね)の聞こえむ時は 我が名問はさね

「寂しくなったら空を行く鳥に私の名を訊ねなさい、そうすればきっとその鳥が私たちの間で言葉を運んでくれるから」

これに対して、衣通姫は旅立つ兄に次の歌を献じました。

“夏草の あひねの浜の 蠣貝(かきがひ)に足踏ますな 明かして通れ”

「夜の浜で貝を踏んで足を怪我せぬよう、夜が明けてからお通りください」遠い流刑地に赴く兄の身体を気づかったものでした。

その後、戻ってくるという兄の言葉を信じ、長い間待ち続けていた衣通姫でしたが、いつまでたっても帰ってこないなか、やがて次のような歌を詠みます。

“君が行き 気長(けなが)くなりぬ やまたづの迎へは行かむ 待つには待たじ”

「あなたが行ってしまってもうずいぶんになりました、もう待ってはいられません、帰ってこられないならば私が参ります」

「やまたづ」とはニワトコのことで、二つの葉が必ず対になって生えることから、二人の関係をそのようになぞらえて詠んだものです。

やがて姫は、「立てた弓が倒れ、また立ち上がり、再び倒れる」ようにして兄の元へたどり着きます。

“梓弓(あづさゆみ) 起(た)てり起(た)てりも 後も取り見る 思ひ妻あはれ”

二人は再会を喜び、わずかな時間を愛し合いますが、やがて自害して果て、物語は幕を閉じます。

現在の愛媛県の四国中央市には、妻鳥(めんどり)という場所があります。ここに「東宮陵」=東宮さんとも呼ばれる墳墓があり、この中に東宮神社という小さな神社が据えられていて、ここがこの二人の終焉の地とされています。

軽皇子はこの妻鳥村に流罪となり、ここに居を構えたとされ、衣通姫もまた、流罪にされたといわれていますが、場所は遠く離れたところでした。兄とは一度も逢うことなくそこで果てたと言われ、その故事にちなんで二人を祀るために建立されたのが、東宮陵です。

もしかしたら、二人が再会した、というのは軽大娘皇女の夢だったかもしれず、実際に二人が再び出会えたのはあちらの世界であったのかもしれません。

一方、衣通姫が単身流されたとされる場所は、松山市内に残る姫原という場所だともいわれています。こちらには「軽之神社」呼ばれる神社があり、おそらくは軽皇子にちなんでの命名でしょう。地元では二人はここで共に果てたと信じられています。神社の傍らにはふたりが入水したとされる「姫池」があり、毎年4月28日にはその慰霊祭が行われています。

この軽之神社から竹薮に沿って蜜柑畑を登ると右側に泉、左側に軽王子と軽大郎女を祀った五輪塔が2つ並んでおり、こちらは「比翼塚(ひよくづか)」と呼ばれています。これは愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚のことで、別名「めおと塚」ともいいます。

二人が本当にここで果てたのかどうかはわかりません。しかし、二千年の時を超えて、二人の愛が今も固く結ばれていることを信じたいと思います。

さて、新型感染症がまだまだ猛威を振るう中、西暦2020年はどんな年になっていくのでしょう。

二人が愛を育んだこの美しい国で、流行り病病がこれ以上蔓延しないことを願ってやみません。

ハンゲショウの季節に

今年の夏至は6月21日でした。北半球ではこの日が一年のうちで最も昼の時間が長い時期であり、これからは、年末の冬至に向かってどんどんと日が短くなっていきます。

この夏至から10日ほど過ぎた日を暦上、「半夏生」(はんげしょう)と呼ぶようです。例年、7月2日あたりで、この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、梅雨も中盤に入り、大雨になることも多くなります。このため、地域によっては「半夏水」(はんげみず)と呼ぶところもあるようです。

では「半夏」とは何を表しているかといえば、これは植物のカラスビシャク(烏柄杓)のことです。夏の半ばに花が咲くことから、「半夏が生まれるころ」という意味でこの季節を半夏生と呼ぶようになったのでしょう。

半夏ことカラスビシャクは、サトイモ科の植物で、その花は緑色の袋状に包まれており、ひものような突起物が上部に伸びているのが特徴です。ミズバショウの花を知っている人も多いと思いますが、こちらも同じサトイモ科の植物であり、似たような半袋状の付属物があります。ただ、袋は閉じておらず、開いていて色も白色です。

この袋状のものは「仏炎苞(ぶつえんんほう)」と呼ばれています。「仏炎」とは仏像の後背(こうはい)のことで、神仏や聖人の体から発せられる光明を視覚的に表現したものです。色々な形がありますが、炎を形どったものがあり、これを仏炎と呼ぶようになったと思われます。

また、苞(ほう)は、蕾を包むように葉が変形した部分の一般名称です。カラスビシャクなどのように花よりも大きくなるものもありますが、逆に目立たないものもあります。マムシグサやテンナンショウといった同じサトイモ科の草本もまた苞が発達しており、細長い柄杓のような苞があります。

カラスビシャクの根には、コルク状の皮があり、これを取って乾燥させたものは、生薬として使われます。その名も「半夏」といい、漢方薬として日本薬局方に収録されています。

商品名としては半夏厚朴湯(はんげこうぼくとう)、半夏瀉心湯(はんげしゃしんとう)などがあります。痰(たん)きりやコレステロールの吸収抑制効果があり、かつては、つわりの生薬としても用いられていました。

一方、ハンゲショウと呼ばれるまったく別の植物があります。こちらはドクダミ科の多年草で、葉の片面だけが白くなることから、カタシログサ(片白草)とも呼ばれています。また半分だけ白いため「半化粧」とも書きます。様々な地方名があり、ハゲ、ハンデ、ハゲン、ハゲッショウなどとも呼ばれます。

上のカラスビシャクとは別物ですが、開花時期もほぼ同じであり、どちらも「ハンゲ」が付いていることから、混同されることも多いようです。

いずれにせよこの半夏、もしくはハンゲショウが咲く季節というのは、農家にとっては大事な節目になります。古くからこのころまでに畑仕事を終えたり、水稲の田植えを終える目安とされてきました。このころに休みを取る地方も多く、これはひと仕事を終えたあとの休息のためですが、一方では半夏生には天から毒気が降ると言われているからでもあります。

毒気を避けるため、七夕までの長期間農作業を休む地方もあるほか、このころに採った野菜は食べてはいけないとされていたり、井戸に蓋をして毒気を防いだりするといった風習が残っています。

天から毒が降ってくるくらいですから、魑魅魍魎(ちみもうりょう)も出やすい時期とされます。三重県の熊野地方や志摩地方の沿岸部などでは、ハンゲという妖怪が徘徊するとされ、この時期には仕事をするなと戒められています。




一方では、こうした時期だからこそ、栄養のあるものを食べて滋養をつけて農作業に励もうというところもあります。奈良県の香芝市や大阪府南河内では田植えを無事に終えたことを田の神様に感謝し、小麦を混ぜた餅を作り黄粉をつけたものをお供えして、自分たちも食べるそうです。

また、讃岐(香川県)の農村ではうどんを食べる習慣があり、毎年7月2日が「うどんの日」になっています。1980年に香川県製麺事業協同組合が制定しました。

蛸(タコ)を食べる習慣があるところもあります。近畿地方の一部地域がそうで、各地の小売店ではこの時期になると、タコ入りのお好み焼や焼きそば、タコの唐揚、タコ天うどんなどが売られています。

さらに、福井県東部の大野市を中心とした地域では焼き鯖(サバ)を食べます。江戸時代に大野藩藩主がこの時期に農民に焼きサバを振舞ったといわれ、これを食べる習慣が残りました。

福井ではよくサバがとれます。水揚量の一位は茨木県ですが、福井はこれに次ぎ、古くはここで捕れたサバが京都などの畿内に運ばれました。福井県西部地方で捕れたものが有名で、「若狭のサバ」として京へと出荷されましたが、それがすぐ隣の大野にも流入し、さかんに食べられていたようです。

若狭国から京都へとサバを運んだ道は「鯖街道」とよばれています。ただ、遠距離を運ぶので、傷みやすいのが難点です。古来よりサバは、食あたりが発生しやすい食材と知られており、「サバの生き腐れ」と言われてきました。このため、運搬する前には、エラを切除したり首を折ったりして血抜きをした上で海水で洗い、塩をまぶします。

江戸時代、若狭湾で取れ、こうして加工されたサバは行商人に担がれて徒歩で京都に運ばれました。京都まで輸送するのに丸1日を要しましたが、京都に着く頃にはちょうど良い塩加減になります。特に冬に運ばれた鯖は寒さと塩で身をひきしめられて美味であり、京都の庶民には大好評でした。

このサバの産地、若狭の国の東隣は「越前国」です。上で焼きサバを食べる習慣があると書いた大野藩はこの越前の中でも一番内陸に位置します。現在の大野市に相当し、福井県内の市町の中では最大の広さを持ち、県面積のおよそ5分の1を占めます。

南東部には両白山地(りょうはくさんち)という山塊があり、その最高峰は「越前三ノ峰」で標高は2,095mです。福井県の最高地点でもあり、このあたり一帯と岐阜・石川との3県境付近の尾根は平均的に2,000mを超えます。

この山地から北西部に流れ出ている真名川(まながわ)の下流に形成されたのが「大野盆地」です。海抜200mほどのこの地域が大野の中心部であり、真名川の東を流れる九頭竜川もまたこの盆地の形成を助けてきました。その深い渓谷は秋になると紅葉で色づき、真名川の真名峡もまた紅葉の名所として有名です。

大野市は、冬季は市全域が特別豪雪地帯に指定されているほどの降雪量があります。しかし、夏は盆地であるだけにそれなりに気温は高いようです。ただ、山麓にある町のため、至るところから澄んだ地下水が湧いており、暑さを和らげてくれます。「名水のまち」として知られており、清らかな水、豊かな土壌を生かした野菜作りもさかんです。

市内の通りは碁盤の目のように整然としており、その中のひとつ、七間通りには、毎年春分の日~大晦日までの朝7時~11時頃市が立ちます。「七間朝市」というこの市では、地べたに新鮮な農産物や加工品がずらりと並びます。400年以上の歴史を誇り、大野の観光名物でもあります。

大野の歴史は、天正3年(1575年)、織田信長より一向一揆討伐の命を受けて、金森長近が美濃から大野に進攻したことに始まります。長近は、美濃源氏土岐氏の出で18歳で信長の父、織田信秀に仕官し、信長がその跡を継いだあともそのまま小田家に仕えました。信長の美濃攻略に従って功があり、赤母衣衆として抜擢され、その後の越前攻略でも活躍しました。

一揆平定後、長近は大野盆地が見渡せる亀山に大野城を造成することを許され、その東麓に城下町を造り始めました。信長が本能寺で没したあとは秀吉に仕え、さらに関ケ原では東軍に与してのちに家康の家臣になりました。その後飛騨の高山に移封されましたが、高山藩が1693(元禄6)年に天領になるまで、その子孫6代がここを治めました。

城づくりに定評のあったその長近が作った大野の城下町は、短冊状に整然と区切られ、以後中世から近世にかけて多数の寺院が築かれました。現在もこの城下町誕生のころの風情を残しており、「北陸の小京都」と呼ばれています。

長近が飛騨高山に移封された後、大野藩は秀吉の従妹の青木一矩(かずのり)の時代を経て越前松平家が3代続きでここを治めました。その後、ここも天領となり、土井氏で定着するまで、大野城の城主は目まぐるしくわりました。

土井氏というのは、徳川家と密接な関係にある氏族です。徳川家康の母、於大の方の実兄水野信元の庶子として天正元年(1573年)に浜松で生まれたのが土井利勝(としかつ)で、土井家の直接の始祖とされます。

土井利勝はその後大老に抜擢され、その四男であった土井利房(としふさ)が、下野国内から大野藩に封じられました。天和3年(1683年)に死去しましたが、以後この土井家から出た代々の藩主よって藩政の基礎は固められました。

ところが、天保年間に入ると飢饉が藩内を襲い、藩財政は大いに逼迫しました。第6代藩主、土井利器(としかた)は、倹約に務めましたが、財政はなかなか好転しませんでした。

利器は、5代藩主・土井利義(としのり)が隠居したあと、養子として迎えられた藩主です。利義には利忠(としただ)という長男がいましたが、まだ幼かったため、利器がつなぎとして藩主の座につきました。

利忠が生まれたのは大野ではなく、大野藩の江戸藩邸です。母は和泉岸和田藩の第8代藩主、岡部長備の娘で、名前は記録に残っていませんが、栄香院という法名らしい名が残っています。

幼名は錦橘といい、この読み方は「きんき」だったでしょうか。1818(文政元)年、8歳で元服し、名を利忠と改めた直後、先代の利器が病に伏したため急遽、養子となりました。ただ、まだ幼なかったため、18歳までそのまま江戸藩邸で育ち、利器の没後に家督を相続し、7代目大野藩主として大野に入封(にゅうほう)しました。




利忠が始めて大野へ入部したのは1829(文政12)年のことです。このころ義父・利器の手掛けた藩政改革はまだ功を奏しておらず、財政はいまだ火の車でした。

文化・文政時代から天保年間にかけてのこのころ、江戸幕府の実権は11代将軍徳川家斉が握っていました。家斉の治世はおよそ50年続きましたが、当初は質素倹約を奨励して好調でした。ところが「出目」と呼ばれる貨幣悪鋳によって収益を増やそうとしたことが裏目に出ました。

貨幣の質を落とし、それで出た差益で幕府財政は潤いましたが、このことによって幕政は放漫経営に陥り、大奥を中心に華美な生活をする者が増えました。一方、悪銭とはいえ、供給される金が増えたことで商人の経済活動は活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えました。

しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化していきました。各地の農民や町人による一揆、打ちこわし、強訴は例年起こるようになり、中でも1823(文政6)年に起きた強訴は最大規模のものでした。

綿や菜種の自由売りさばきを要求する摂津・河内・和泉1,307か村による国訴ともいうべきデモは空前の規模となり、それまでの江戸幕府による経済の有り様を変えるほどでした。

発展し続ける経済活動によって、表面的には「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も、このころになると暗雲がたちこめてきます。華美な生活に浸る幕府の中枢に対し、土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的なギャップは急速に大きくなり、やがて制度疲労による硬直化が目立ち始めました。

既に幕末といえるこのころ、いずれの藩も同じように財政赤字を抱えており、とくに大野藩のように大した産業のない国は莫大な財政赤字を抱えるようになっていました。藩財政は苦しく、利忠の義父、利器も倹約に務めましたが、財政は好転せず、減知減給を恒常的に行うようになり、しまいには家臣に給料を満足に支払うことさえできなくなっていきました。



こうした時期に藩主となった若き藩主利忠は、早急にこうした財政の立て直しを迫られました。そこで、大野に入部した翌年(1830(文政13)年)には早速、「寅年御国産之御仕法」と呼ばれる倹約命令を出しました。

これは上下を問わず倹約に務めることを強く要請するとともに、地産地消を進める中で地場産品の質を高め、これを他へ販売することで利益を得る、というもので、現在で言うところ保護貿易政策です。

続いて1832(天保3)年に利忠は、領内の面谷(おもだに)にあった民間の鉱山を藩直営に切り替えました。この鉱山の主産品は銅であり、室町時代前期に猟師が露出した銅を発見したのが起源とされています。

後年、これらの施策は功を奏し、大野藩の財政は再建されますが、すぐには効果は発揮されず、藩財政のみならず一般藩士の生活の窮迫も改善のめどが立たない状態がしばらく続きました。

そこで、30過ぎになっていた利忠は、自筆をもって「更始の令」を発布しました。大野に入部した直後に発した「寅年御国産之御仕法」から12年後の1842(天保13)年のことで、その内容は、次のようなものでした。

「藩財政及び藩士家計はもうどうにもならず、ここまで放置したのは我々の責任である、今後は君臣上下一体となって倹約を旨とし、不正を許さず、藩主に対しても気がついたことは直言でも封書でもよいから申し出てもらいたい。家臣の力なくして土井家も大野藩も未来はない。」

城内の書院に集められ、藩主自らこの令の読み上げを聞いた家臣一同は、感涙に咽んだ(むせんだ)といいます。この令からもうかがわれるように、利忠は周囲の意見に熱心に耳を傾ける柔軟性を持った人物だったと思われ、また積極的に人材の登用を行いました。

中でも、抜擢を受けたのが、内山七郎右衛門良休(りょうきゅう)と内山隆佐良隆(りゅうすけよしたか)の兄弟でした。のちに、兄の良休は財政・民政を主に扱う勝手方奉行となって財政の総責任者となり、弟の隆佐は教育や軍制の方面で大いに活躍することとなります。

この内山家というのを調べてみたのですが、どういう家系なのかはよくわかりません。ただ、大野の城下町を建設した金森長近は、美濃国土岐郡多治見郷(現在の岐阜県多治見市)に生まれで、のちに美濃を離れ、近江国野洲郡金森(現滋賀県野洲市)へと移住していることから、いずれかの土地から付き従ってきた家臣がその先祖かもしれません。

その後、この二人が行った改革の中心は財政に関するものであり、何やら商売臭い匂いがします。もしかしたら商家の出だったかもしれませんが、あるいは代々勝手方などをやっていた、いわゆる「そろばんザムライ」であったかもしれません。

良休は1807(文化4)年生まれ、隆佐は1813(文化10)年に生まれで6歳の年齢差があります。兄の良休は明治14年まで生き、74歳で亡くなりましたが、隆佐のほうは52歳でなくなっています(1864(元治元)年没)。

この二人が居住したと思われる屋敷跡が今も大野市に残っています。母屋や蔵などが復元されており、もともとあったものを解体・修復して保存されているものです。大半は幕末から明治に建てられたもので、彼らの死後も子孫が守ってきたものです。再建ですが往時の姿をかなりとどめており、幕末に藩を財政的危機から再起させた彼らの力を感じさせます。

この兄弟のうち、とくに財政再建の上で力を発揮したのが兄の良休です。主君の利忠の命を受け上でも述べた面谷鉱山の再開発を行ったのは良休であり、これを藩の直営としたことで、年間10万貫の銅を産出する銅山にすることに成功しました

また農家が作った特産品などを全国に売ることをはじめ、「刻みタバコ」の販路拡大を図り、大阪に藩直営の「大野屋」を開店し、その後2号店、3号店も開きました。

さらに、領内に本店「大坂屋」を構えたほか、越前各地や函館、横浜、神戸、岐阜、名古屋など多くの都市にも出店。大野の特産物を出荷するとともに、これらの地の産品も国内に流通販売し、商品取引のほかに金融業もこなすなどして大きな利益をあげていきました。

このころの他藩の経済対策としては、倹約や年貢の引き上げが普通でした。これは領民にとっては苦痛そのものであり、これによって財政が回復したところはさほど多くありません。これに対して大野藩の内山良休は商売に目を向けて外貨を得る施策をとりました。

武士というよりも商人そのものであり、しかも敏腕でした。大野屋の営業形態も現在のフランチャイズ形式を思わせるものであり、この当時としては斬新なものでした。また、主君の利忠もその力量を認め、多くの権限を与えました。

生産性の向上と有能な人材の登用・藩借金の整理なども良休に自由に行わせた結果、改革後8年後には早、借金のほとんどを返済することに成功しました。



利忠はまた、良休の弟の隆佐を使って、教育改革を積極的に進めました。1843(天保14)年には学問所創設を命じ、これは明倫館と名づけられて翌年の1844(弘化元)年に開校しました。講義の内容は朱子学が柱でしたが、他の学派の議論も認め、また医学の授業まで取り入れていました。

のちには蘭学も取り入れて洋学館を設立し、大坂から伊藤慎蔵を招きました。伊藤は、長州藩の萩浜崎で開業していた医者、伊藤宗寿の子で、大阪に出て緒方洪庵の適塾で学び、頭角を現して塾頭にまでなった人物です。高名な学者であり、彼から蘭学を学ぶことができるとうことから、その後全国から生徒が集まるようになりました。

利忠はまた隆佐に命じて藩の軍制改革にも臨みました。手始めに高島流砲術を導入し、1845(弘化2)年には大砲1門の鋳造にも成功しています。早打ち調練などを盛んにやらせ、大がかりな洋式訓練を行ったため評判となり、他藩からの入門希望が多数寄せられるようになりました。

1853(嘉永6)年のペリー来航後は、隆佐を軍師に任命し、弓槍から銃砲へと、洋式軍隊への転換を図り、また多数の大砲の鋳造を命じて完成させています。

このころ、鎖国をしていた日本に対して外国からの圧力が徐々に高まってきていました。安政2年(1855年)、幕府はロシアの南下政策に危機感を強め、全国の藩に北方警備のため蝦夷地開拓の募集を行っていました。

このとき隆佐は利忠以下の藩論をまとめてこれに応募しました。そして自ら探検調査団を率いて、北海道南西部の渡島半島の調査を実施するとともに、蝦夷や樺太などの北方地域の情報収集に務めました。

そうした結果を受け1854(安政元)年には、北蝦夷地(樺太)の開拓を幕府に提案。これは2年後の1856(安政3)年に認められ、大野藩は許可を得て樺太の開拓計画を実行に移すことになりました。

こうして、1858(安政5)年には、樺太中部のウショロに、大野藩準領を設け、総督として隆佐が赴き藩士を派遣して実務にあたらせました。このころウショロは、日本の領有下において鵜城郡(ウショロぐん)の名を与えられていましたが、住民のほとんどはアイヌであり和人は幕府から派遣された番人が数名いる程度でした。

隆佐らがウショロに入った前年の1855(安政2)年には、日露和親条約が締結されています。伊豆下田の長楽寺において、日本とロシア帝国の間で交わされたこの条約では、択捉島と得撫島(ウルップとう)の間に国境線が引かれ、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められました。しかし、樺太方面の国境の確定は先送りされました。

一方、国内的には同年から樺太を含む蝦夷地全域が公議御料(直轄地)となりました。これにより、秋田藩がウショロの警固を行うこととなり、漁場の番屋に詰める番人を派遣しましたが、この番人は武装化した足軽でもありました。

ここに入った隆佐たちが開拓場所として許されたのは、ウショロとその北部の名好郡域でした。樺太中部にあるこの地域は、西の間宮海峡に面し、そこには良好な漁場が広がっています。とくに大量のニシンが上がり、箱館奉行は鳥井権之助を北蝦夷地差配人に任命し、漁場開発に当たらせた結果、予想を上回る豊漁を得ていました。

鳥井権之助は、越後の国出身の商人で、出雲崎に店を構える回船問屋、敦賀家の主です。幼少時代から利発で学問にも優れており、長じてこの地域の名主となってからは、幕府に対して両輪船建造の提言なども行っています。これによって幕府も開明的な思想を持つ実力者として認めるようになりました。

蝦夷の開拓にも関心を持ち、箱館港や五稜郭の土木工事を請負い、この工事を完成させました。これを機会として樺太開発にも乗り出した結果、ウショロで漁場開発を行うようになったのです。

内山隆佐らも鵜城に会所(運上屋)を開設して警固や漁場の開設をおこない、この鳥井の意見なども参考にしながら漁業経営を試みはじめました。しかし大野藩は大型船は保有していなかったため、当初は商人から雇った和船を使用したり、陸路を使ったりしていました。

ただ、本格的な漁場開拓を実行し、各地との交易を行うためには船足が速く堅牢な船舶が必要です。そこで、西洋式の大型船の建造が計画されることになりました。

1857(安政4)年、内山隆佐は洋式造船の調査のために江戸へ向かいました。そして箱館奉行所用で造船に関わっているという御用達の栖原長七という人物を紹介されます。御用達とは、幕府、大名、旗本、公家、寺社などに立入あるいは出入する特権的な御用商人のことで、今日でいう商社マンのような存在です。

栖原は、箱館の築嶋(函館港に面する現在の末広町および豊川町付近)で起工されたスクーナー「箱館丸」の建造に関わっていたようです。この栖原を通じて、大野藩による洋船の建造の伺いが幕府に立てられた結果、箱館藩所有の箱館丸と同型の船の建造が認められました。

ちなみに、このころ大野藩は海に面した、同じ越前国の丹生郡(にゅうぐん)は西方(西潟)という場所に陣屋を開いてしました。異国船の出没を知るための具体策として講じられたものであり、西潟駐留の番人が異国船を発見すると直ちに大野まで注進させていました。こうしたことからも、幕末の大野藩が開明的な藩であったことがうかがわれます。

この西潟には、操船に慣れた水主が多数在住しており、こののち建造されることになる洋船の水主もこの浦から調達しています。和船の建造に秀でた船大工も多数おり、新しい船の設計に当たってはその一人である、木村治三郎という船大工が抜擢されました。

こうして造船が始まりましたが、造られたのは大野ではなく、天領の川崎稲荷新田という場所でした。現在の羽田空港のすぐ西側にあり、大師町と呼ばれる一帯で、おそらくこの当時ここに漁村があったのでしょう。

その一角に建てた造船所に竜骨をすえつけ、起工したのが1857(安政4)年11月。その翌年の1858(安政5)年6月には、船体が完成し進水式が行われました。かかった経費は約1万両といわれ、これは現在の8千万円程度かと思われます。その後、品川沖に回航されて艤装工事を受けました。

完成した船は「大野丸」と命名されました。形式は箱館形ということでしたが、実際には君沢形に近いものだったと考えられています。君沢形とは、幕末に日本の戸田村などで建造された本邦初の西洋式帆船の型式で、原型は下田沖で難破したロシア船員帰国用に戸田村で建造された「ヘダ号」です。

君沢形は、帆装形式は箱館型と同じくスクーナーに分類され、同型船10隻が量産されました。ただ、大野丸はこの君沢形とは厳密には異なった設計で、帆装形式は箱館形と同じ2本マストに縦帆だけでなく、横帆を併せ持つトップスル・スクーナーでした。

横帆があれば、追い風だけでなく、帆の向きを風の向きに交差する方向に変えることができます。つまり、進路変更に柔軟に対応できるのがトップスル・スクーナー特徴です。君沢型や箱館型の改良版ともいえ、このころの日本では最新鋭のものといえますが、逆にスクーナーとしては特殊な船であり、一般的なものとはいえません。

長さ18間(32.7m)、幅4間(7.3m)、深さ3間(5.5m)のこの船は、無論、大野藩としても初めて保有する洋式帆船です。

その運用にあたっては、従来の和船に慣れた船乗りでは十分ではなかったため、このころ幕府により創設されたばかりの築地の軍艦操練所に藩士を派遣し、教育を受けさせました。その一人、吉田拙蔵は、のちに大野丸の船長となり、藩の物資輸送や樺太開拓事業で活躍しています。

竣工した「大野丸」は、1858(安政5年)9月初旬に品川を出港し、浦賀に滞留後、関門海峡を通って10月末に敦賀港へ到着しました。敦賀に入港したこの最新鋭の洋式帆船を見学するため、多数の藩重役が港を訪れました。敦賀ではさっそく藩士や町民から船員が募集され、三国湊(現福井港)の船頭だった佐七郎が初代の船長に採用されました。

翌1859(安政6)年4月下旬、大野丸は蝦夷地への最初の航海に出発。敦賀から日本海を北上し、8日をかけて箱館に入港しました。その後も何度も蝦夷地と敦賀を往復し、交易物資などを運ぶことによって、着実に利益をあげていきました。この間、船長もより洋式帆船の操縦に慣れた吉田拙蔵に変わっています。

1859年(安政6)年9月中旬には、奥尻沖の室津島で遭難したアメリカ商船スプリング号を救助するというハプニングにも遭遇しており、幕府とアメリカ政府から謝礼を受けました。小藩に過ぎない大野藩が洋式船を建造したことや、アメリカ船を救助したことなどによって一躍「大野丸」の名は日本中に広まりました。

隆佐はまた、大野丸を用いて北蝦夷地開拓にも挑みました。しかし、寒さの厳しい北蝦夷での開拓は想像以上に苦しく、用意していた開拓の資金はすぐに底をつきました。隆佐らの報告を受けた利忠は、開拓の資金を援助してほしいと幕府に願い出ます。

これに対して幕府は、北蝦夷地を大野藩領に準ずるものとし、大野藩の江戸城内御用を免じるなどの方策を講じて援助しました。北蝦夷地の警固を幕府はそれほど重視していたのです。

文久2年(1862年)、利忠は病気を理由に隠居し、15歳の三男・捨次郎が利恒(としつね)と改名して家督を相続しました。同年4月、利恒は父に伴われて江戸へ出発し、利忠は利恒を正式な家督を相続者として幕府に報告しています。また、この時新藩主就任を知らせる直筆の書を大野城に送っています。

こうした慶事において藩主自らが直筆の書を出す習慣は、利忠以来恒例となりました。この書の中で利忠は、天保元年(1830年)の大野初入部以来の家臣の忠勤に感謝した上で、利恒へ一層の忠勤を求めました。また、当分の間は利忠の政策を受け継ぎ、父に変わらぬ忠勤を利恒に対しても行うよう要請しています。

ところが、それから2年後、二つの事件が大野藩を揺るがしました。その一つは、蝦夷と大野間で運用されていた大野丸が、根室沖で座礁、沈没してしまったことです。択捉島へ鮭の積み取りに向かう途中のことで、運用開始から6年経った1864(元治元)年9月のことでした。

乗員は搭載の伝馬船で脱出し、全員無事でしたが、「大野丸」の喪失により、大野藩による北蝦夷地開拓の試みは事実上とん挫することになりました。

しかもこの大野丸の喪失の2ヵ月前、内山隆佐がなくなりました。病死とされており、52歳の若さでしたが、死因は不明です。

隆佐は、若いころ江戸留学を認められ、佐久間象山にも学んでいます。兄とともに藩政改革に努め、蝦夷地総督となってからは大野丸を駆使して「商社」ともいえる大野屋を大きくし、藩の財政改革に貢献しました。もう少し長く生きていれば、さらに大きな業績を挙げたに違いありませんが、運命には逆らえませんでした。

大野藩による北蝦夷開発は、のちの治元年(1868年)に与えられた樺太領地を明治新政府に返上するまでは開拓が進められました。しかし、大野丸を失い、主導者の内山隆佐をも失ったことで、その開発はとん挫しました。

さらに隆佐の死は、幕末における大野藩の動向に少なからぬ影響を与えました。とくに、この年(1864(元治元)年の年末に起こった天狗党騒動においては、その対策を軍事に優れた隆佐を欠いたままで行うところとなりました。

天狗党というのは、水戸藩内の抗争に敗れた武田耕雲斎以下の尊王攘夷派のことで、幕府が諸外国に開こうとしていた港の即時鎖港や外国船を打ち払いなどを要求して立ち上がった反乱軍です。

筑波山で挙兵した際は、1400名を超える軍勢を誇りましたが、これを鎮撫しようとした幕府軍に那珂川などで敗れ、大幅に勢力をそがれました。その残党は京に駐在する一橋慶喜を頼ることに決し、下野、上野、信濃、美濃と約2ヶ月の間、主として中山道美濃路を通って京へ向かいました。

ところが、美濃国鵜沼において彦根藩と大垣藩に抵抗され、そこから北へ転じて越前国へ向かいはじめたことから、大野藩は大騒ぎになりました。福井藩からの急飛脚で天狗党が美濃・越前国境に迫ったことを知った大野藩ですが、軍事総督の内山隆佐を亡くしたばかりの時期で、また藩主利恒は江戸にありました。

残る重臣たちは、藩兵をかき集めましたが200名ほどしか集まりません。天狗党には到底抵抗しきれないと判断し、なぜか天狗党の予想進路に当たる村落を全て焼き払う事を決定します。無意味な焦土作戦が実行に移された結果、藩内各村の民家200軒あまりが藩兵によって焼き払われる事態に発展しました。

この焼き討ちが行われたのは西谷村という場所が中心だったため「浪人焼け・西谷焼け」と言われ、居住していた村人の子孫は、今日でも土井家関係の祭りには参加しないといいます。

翌1864(元治元)年の1月、天狗党の残党およそ800余名が大野藩に近づきました。大野藩は福井藩と勝山藩に援軍を求め、大野藩兵は後退して天狗党と睨み合いになりましたが、後日大野の町年寄・布川源兵衛を使者に立て、大野城下を通らないよう交渉させました。

その結果、2万6千両を軍資金として支払う代わりに、天狗党を他領へ去さらせることを認めさせることに成功します。

天狗党一行はその後、加賀藩(現石川県)に迫りますが、慶喜が自分たちの声を聞いてくれるものと期待していたのに対し、その慶喜が京都から来た幕府軍を率いていることを知り、また他の追討軍も徐々に包囲網を狭めつつある状況下でこれ以上の進軍は無理と判断。前方を封鎖していた加賀藩に投降して武装解除し、一連の争乱は鎮圧されました。

この時捕らえられた天狗党員828名のうち、武田耕雲斎ら幹部24名が、能登穴水の来迎寺境内において斬首されたのを最初に352名が処刑され、他は遠島・追放などの処分を科されました。

この翌年の1865(慶応元)年(1865年)、利恒は京都嵯峨および太秦の警衛を命じられました。2年後の1867(慶応3)年には大政奉還が行われ、翌年には戊辰戦争が勃発しますが、この混乱の中、1868年10月23日(旧暦9月8日)には年号が慶応から明治に改元されました。

このとき大野藩では藩主利恒・家老の良休以下が集まって軍議を行いました。その結果、官軍に恭順することに決し、藩主利恒は新政府より箱館裁判所副総督に任命されました。

早速大野藩兵166名が箱館戦争参加のため出発しましたが、大野藩に箱館への出兵命令が下ったのは、幕末に蝦夷地開拓の先頭に立っていたこと、洋式軍制による強兵策に取り組んでいたことが評価されたものです。

ただ、大野藩ではすでに旗艦となるべく大野丸を失っていたため、箱館への移動にはイギリス船のモナ号があてがわれました。大野藩兵は、松前・津軽・長州・徳山などの諸藩とともに、松前口の上陸を命じられ、激しい弾雨のなかで、果敢な上陸作戦を決行しました。

次いで江差に向けて進撃し、大いに戦果をあげましたが、頑強に守備していた榎本武揚率いる旧幕府軍の抵抗に遭い、戦死6人、重軽傷18人の犠牲者を出しています。

箱館戦争の勝利後、大野藩兵はいったん東京に立ち寄り、神田橋筋違の藩邸で、藩主利恒の閲兵をうけたのち、大野に帰藩しました。出征兵のうち戦死した11人は、函館の招魂社に祭られ、また大野では城下の篠座神社境内に招魂社と慰霊碑が建てられ、栄誉の死が称えられました。

明治2年(1869年)に版籍奉還が行われると利恒は藩知事となりましたが、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となりました。また、大野藩は廃藩となって大野県となりましたが、同年末には福井県が発足したため、これに編入されています。

利恒は、箱館戦争などにおける大野藩の功績が認められ、明治17年(1884年)7月8日に子爵に叙爵されています。亡くなったのは、明治26年(1893年)のことで、45歳の若さでした。

動乱の幕末にあって、利恒とその父利忠に率いられた大野藩のめざましい復興は他藩から高い評価を受けました。

借金まみれだった財政は黒字化を達成し、藩校明倫館は名校として天下に響き、洋式軍隊が整備されました。何よりも藩内が活性化され、藩士たちの活気が蘇ったことが最大の成果といえます。天保13年の「更始の令」以来、藩主利忠が藩政自体をゼロから立て直す、という気概で取り組んできた改革は見事に実を結んだといえます。

大野藩は特に西洋の先進技術の研究・摂取に熱心でした。たった石高4万石の小大名でありながら、藩を挙げて蘭学の原書や辞書を翻訳しており、当時の藩士や武家の子弟たちは自らも写本に励みながら、最先端の西洋の学問を学びました。これらの洋書および翻訳の和書は、現在は福井県立大野高等学校に所蔵されています。

こうした改革を推進するため内山兄弟を抜擢した利忠は、このほかにも藩営病院の設立、西洋軍制の導入、種痘の実施、有能な人材の藩校就学の徹底と遊学の奨励などを行いました。積極的な改革を行なって多くの成功を収めた幕末期の名君として、現在でも高く評価されています。

こうした功績を残す一方で、藩財政のやりくりや穀物の価格高騰に不満を抱える藩士や町人たちからやっかみを受けることもありました。利忠に見いだされた良休はこれらが原因で辞意を伝えたこともあったといいます。これに対して利忠は良休を家老職に任命することで慰撫しています(1860(安政6)年)。

このとき良休に出された任命書には、良休を気遣いつつも「これまで以上に熱く仕事に励んでほしい」との思いがつづられていました。これに対して家老就任を受けた良休も、忠義に励むことなどの七つの誓いを立てており、これは「誓紙前書」として保存されています。

こうした部下思いの君主は領民にも愛されたようです。明治15年(1882年)、旧藩士たちの手により、大野城ふもとに利忠を祭った神社が建立されており、これは「柳廼社(やなぎのやしろ)」と呼ばれています。

この社のある大野城は、城下の西にある標高249mの亀山という小高い丘の上にあります。本来は望楼付きの2重3階の大天守に2重2階の小天守、天狗の間(天狗書院)と呼ばれた付櫓(天狗櫓)が付属された豪壮な天守だったようですが、1775年(安永4年)に焼失しました。

1795年(寛政7年)には天守を除いて再建され、利忠・利恒親子もその周辺施設で居住していたようですが、明治維新後にすべての建物が破却されています。

現在、亀山の山頂に建つ天守は、当初に建てられたてものを模写したもので、1968年(昭和43年)に元士族の萩原貞(てい)なる人物の寄付金を元に再建されたものです。

この人物の来歴を調べてみましたがよくわかりません。が、越前の隣国である丹波国(現京都府中部)の氷上郡には摂家の萩原家の領地があります。このことから、ここから出た士族が大野藩に召し抱えられていたのかもしれません。

鉄筋コンクリート構造によって推定再建されたものですが、往時の絵図や創建当時の同時期の他の城の天守を元に再建されたもので、史実に基づいた復元再建ではありません。現在、この復興天守の内部には金森氏や土井氏など歴代の城主に関する資料が展示されており、資料館として利用されています。

四方を山々に囲まれた大野盆地は、4~9月ころに城下町全体が雲海に包まれることがあります。その中で亀山だけが浮かんで見え、「天空の城」が現われます。近年これが有名になり、2014年には有志による「ラピュタの会」が結成され、「天空の城 越前大野城」として観光に一躍買っています。

この光景は、大野城の西、約1kmにある犬山(戌山(いぬやま)城址(標高324m))から見ることができるそうです。一度訪れてみてはいかがでしょうか。

モズの鳴き始めるころに

東海地方が梅雨入りして一週間。本格的な雨の季節に入りました。

今のこの時期は、二十四節気では「芒種(ぼうしゅ)といい、その語源は稲や麦などの実にある「芒(のぎ)」に由来します。稲でいうと籾殻にあるとげのような突起のようなものが芒であり、イネ科の植物に多くみられます。芒のある穀物の種蒔きの時期であることから芒種といわれるようになったようです。

天文学的には、太陽が黄経75度の点を通過する時を意味し、これはだいたい6月6日ごろですが、期間としての意味もあり、次の節気の夏至(6月20日ころ)までが芒種です。

蟷螂(かまきり)や蛍が現れ始め、梅の実が黄ばみ始める頃でもあり、中国では「鵙始鳴」の候といわれます。すなわち、モズが鳴き始める季節です。

モズは、漢字で百舌または百舌鳥とも書き、大分類ではスズメの仲間です。しかし体長は20cm程度と雀よりもかなり大きく、眼の上に眉状の白い筋模様があるのが特徴で、喉や頬は淡褐色、尾羽の色彩は黒褐色、翼の色彩も黒褐色で、全体的に茶褐色のイメージがあります。

様々な鳥(百の鳥)の鳴き声を真似た、複雑な囀り(さえずり)をすることでよく知られており、「百舌」の呼称も百通りほどもの物まねができる、とされることろから来ています。

日本では開けた森林や林縁、河畔林、農耕地などに生息しています。年間を通して同じ場所に生息し、季節移動をしない留鳥ですが、日本列島の北部に分布する種や山地に生息する個体は秋になると南下したり標高の低い場所へ移動して越冬します。

食性は動物食で、昆虫  節足動物、甲殻類、両生類、小型爬虫類、小型の鳥類、小型哺乳類などそれこそなんでも食べます。根っからのハンターで、樹上などの高所から地表の獲物を探して襲いかかり、再び樹上に戻って捕えた獲物をついばみます。

モズはその捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股に挟む習性を持つことでよく知られています。秋になって初めて得た獲物を生け贄として奉げているのだという言い伝えがあり、このことからこの行為は「モズの早贄(はやにえ)」といわれます。

しかし、なぜモズが早贄を行うかについてはよくわかっておらず、諸説があります。ひとつには、モズは足の力は弱く、獲物を掴んで食べるのが下手なので、小枝や棘にフォークのようにして獲物を固定しているのだといわれています。

また餌の少ない冬季の保存食としているのではないか、という説もあります。ただ、はやにえにされた生物がそのまま残されているのが目撃されることも多く、このことから、これまではこの保存食説は否定されることも多かったようです。

しかし最近の研究では、はやにえのほとんどは消費されていることがわかっており、特に気温の低いときにその消費量が多いことなどがわかってきました。気温が低いということは餌が少ない寒い時期ということであり、はやにえにはやはり冬の保存食の役割を持っているのではないか、という昔ながらの説が定説になりつつあるようです。

さらに、はやにえに関する他の研究では、その消費量はモズの繁殖行動と関係があるのではないか、ということも言われるようになってきています。

2019(令和元)年に大阪市立大学と北海道大学が共同で行った研究では、はやにえの消費が多かったオスほど繁殖期の歌の質が高まり、つがい相手を獲得しやすくなる事が明らかになりました。これは、モズのオスのはやにえが「配偶者獲得で重要な歌の魅力を高める栄養食」として機能していることを示しているものと考えられます。

おいしいものをモリモリ食べて精力をつければ、声もよくなるし、子宝にも恵まれるというわけです。




そのモズの鳴き声ですが、秋から11月頃にかけて「ギョンギョン」「キチキチッ」といった大きく高い声で鳴くのをよく耳にします。モズの「高鳴き」と言われるもので、これは縄張り争いのためだと言われています。この高鳴き合戦で勝ち残った個体は、確保した縄張りを単独で冬を越すことができます。

動物にとってこうした縄張りを確保するということは、個体や集団の防衛や、食料の確保の上で重要です。なによりも種の保存の点でも大きな意味を持ち、競争相手のいない環境で配偶者とともに過ごすことができれば、より繁殖の成功率も高まる、というわけです。

ヒトの縄張り

考えてみれば人間も同じであり、ライバルを蹴散らして相手を独占できれば安心して愛の巣づくりができます。狩猟採集社会成立以来、よく働いてたくさんの獲物を得たり農作物を作る者にはより多くの縄張りが与えられるという風習が定着しています。

見返りバランスともいうべき社会システムであり、人が集団で暮らすようになった結果、自然に成立してきたしくみです。

縄張りの確保は、他の縄張りとの線引きを計り、混み合いをなくすことによってストレスを回避する、という意味もあります。花見で場所取りを行うとき、ブルーシートの上の鞄や靴を置いたりするのと同じであり、こうした目印を置くのはその縄張りへの暗黙の了解を得たいと考えるからです。

一方では、それが行き過ぎると自分の縄張りの存在を主張したがるようになり、これを縄張り根性あるいは縄張り意識、などといいます。しかし平和な社会では、傷つけあったり言い争いでその境界は決められないので、法的に線引きをし、所有者が明確になったものを不動産と呼びます。

ほかに狩猟権、漁労権といったものもあり、地域間だけでなく、組織間、分野間などでも制度化され定着してきたいろんな縄張りあります。個々の利益のためのものですが、それぞれがぶつかりあえば緊張が生じ、やはり色んな問題が起こります。戦争がその最大規模のものであり、国家間の縄張り争いは数々の悲劇生んできました。

一方、本来縄張りの意味は、やはり争いを避けるためのものであって、境界における他の縄張りとの軋轢は別として、縄張り内部の世界はいたって平和です。神社の神域、お寺の寺領といったものが良い例であり、その中で過ごすことによって争いをなくすことができ、また同一の文化が形成されます。

男子禁制、女人禁制といった異性の立ち入りを制限する独特の世界もまた作り出されてきましたが、ただ、一般的に男女は同じ世界に住んでいます。老若男女、不特定の人々が暮らしているのが普通の社会というものであり、その中において自然に形成される縄張りは、現在風にいえば「パーソナルスペース」です。

他人に近付かれると不快に感じる空間のことをいい、パーソナルエリア、個体距離、対人距離といった呼び方をする場合もあります。その距離は社会文化や民族、個人の性格やその相手によっても差がありますが、一般に女性よりも男性の方がこの空間は広いとされています。

また、親密な相手ほどパーソナルスペースは狭く、その人がある程度近づいてきても不快さを感じません。逆に敵視している相手に対しては広くなり、相手によっては距離に関わらず視認できるだけで不快に感じるケースもあります。

東京大学で人間の心理や行動に基づく環境デザインを研究している西出和彦教授によれば、対人距離はつぎのように分類されます。

1. 排他域:50 cm 以下。絶対的に他人を入れたくない範囲で、会話はこれほど近づいては行わない。

2. 会話域:0.5~1.5m。日常の会話が行われる距離。 このゾーンで会話をすると強制的であるかのような「距離圧力」を受け、会話なしではいられない。もし会話がないときは何らかの「居ること」の理由が必要になる。

3. 近接域:1.5 ~3m。普通に会話をするためのゾーン。会話をしないでここに居続けることも不可能ではない。距離圧力としては微妙なゾーンであり、しばらく会話なしでいると居心地が悪くなる距離である。

4. 相互認識域:3~20m。なんとか知り合いであるかどうかが分かり、相手の顔の表情も分かる。普通、挨拶が発生する距離であり、特に3~7 mの距離では、知り合いを無視することはできない。




最近のコロナ騒ぎでよくつかわれるようになったソーシャルディスタンス(social distance)もまた、人の心理や行動の研究から生まれた概念であり、日本語では「社会距離」と訳すことができます。

アメリカの文化人類学者のエドワード・T・ホールによれば、相手に手は届きづらいが、容易に会話ができる空間がソーシャルディスタンスで、だいたい1.2~3.5mであるとされます。うち、1.2~2mは知らない人同士が会話をしたり、商談をする場合に用いられる距離、2 ~ 3.5 mは、公式な商談などで用いられる距離です。

一方、相手との距離がこれよりもさらに近い密接的な距離はインティメートディスタンス(intimate distance)といい、これは0~45cmの範囲です。うち、0~15cmは、ごく親しい人に許される空間で抱きしめることができる距離、15~45cmは頭や腰、脚が簡単に触れ合うことはないものの手で相手に触れるくらいの距離です。

ただ、上記はあくまで目安であり、こうした人と人との境界線には当然個人差があります。それぞれの個人が持っているソーシャルディスタンスのことをパーソナル・バウンダリー(Personal boundaries)といい、自分に対して何等かの行動をとってくる他人に対して、合理的で安全、許容可能な距離を個人個人が設定しています。

それぞれが、自然とガイドラインやルールを作り、制約を設けてその距離を決めており、相手の好き嫌いをおおまかに判別し、他人の接近を許容している距離です。その判断の基準としては、身体的、精神的、心理的、精神的といったいろいろのものがあり、また信念、感情、直感、自尊心などに左右されます。

上で定義したソーシャルディスタンスのように明確に線引きをするものではなく、ある程度幅を持たせた境界といえ、アメリカ・オールドドミニオン大学でナルシシズムなどを研究しているニーナ・ブラウン教授は、以下のように4つのタイプがある、としています。

1. 柔らかい境界を持つ人: 自分と他人との境界線が重なっている人。この境界を持つ人は、心理的操作術の犠牲者になりやすい。

2. スポンジ状の境界を持つ人:時には柔らかく時には硬い境界を持つ人。柔らかい境界線の人よりも感情的伝染を受けることは少ないが、硬い人よりは影響を受けやすい。スポンジ状境界の人は、何を受入れ、何を受入れないかははっきりとしていない。

3. 硬い境界を持つ人:閉鎖されるか壁で囲われている人で、誰も身体的・感情的に近づくことはできない。物理的、感情的、心理的、性的に虐待を受けている人によく見られる。時間、場所、状況に依存する「選択的な硬い境界線」を持つ場合もあり、それは過去の悪い経験と似た状況に遭遇した場合によく起こる。

4. フレキシブルな境界を持つ人:硬い境界よりも柔軟で「選択的な硬い境界線」ともいえ、より良くコントロールされたものである。こうした人は何を受け入れ、何を受け入れないかを決めているため、感情的な伝染や心理的な操作術に抵抗できる。その境界を破ることは困難なことが多い。

いかがでしょう。自分に似たタイプがあったでしょうか。

理想的には4の「フレキシブルな境界を持つ人」になることですが、1や2のようにある程度他人に流されてしまうという人のほうが多いのではないでしょうか。ただそれが悪いということではなく、こうした境界の概念を正しく理解し、自分が設定している他人との距離を把握することで、より良い人間関係を構築することができるようになります。



こうした個々人の境界という概念を理解すれば、いわゆる「仕切り屋」の制御もやりやすくなります。他人との距離を無視し、自分の周囲のあらゆる物事の処理を自分でコントロールしたがる人物です。

こういう人を英語ではコントロールフリーク(Control freak)といい、freakは「変人」という意味です。他人の個人的生活など「全て」をコントロールしなければならないという誤った信念を持ったひとたちで、完璧主義者に多いようです。

自身が抱える内面的な精神の脆弱性から身を守っているといわれており、こうした人々は、他人へ自身の認識を強制し、操作し圧力をかけ、内面の虚しさから逃れるために他人の力を利用します。

一種の病気ともいえ、「依存症」の一種であるともいわれます。他人を自分のコントロール下に置くことが、人生において成功と幸福を達成する方法だと信じており、大抵の場合、他人に依存することを幼少時からに生存スキルとして習得してきたひとたちです。

このほか依存症といえば、アルコール中毒、薬物中毒のように、中毒と呼ばれる物質依存や、ギャンブルや買い物に夢中になるプロセス依存がよく話題になりますが、人間関係への依存も時に問題になります。

「関係依存」と呼ばれ、上のコントロールフリークもそうですが、それほどひどくはないにせよ、一般にこうした人たちは、過剰に面倒をみてもらいたい(構ってもらいたい)欲求があり、まとわり付く行動を取り、分離することを恐れます。

また他者からの過剰のアドバイスがなければ、物事を決定できず、責任を負うために、他者を必要とします。さらに、他者からの賛同を失うことを恐れ、反対意見を述べることができなかったり、自ら物事を開始することが苦手です。

他人からの保護を得るために、不愉快なことまで行うということもあり、他者との密接な関係が終わると過剰に不安になり、保護を得られる新しい人を探しだしたりします。

はっきりとした症状が出ていなくても、これに近い人を時折みかけます。ようするに「甘え」の意識が強い人であり、小さな子供の中によく見受けられます。大人になってもそれが治らない人は「アダルトチルドレン」などとも呼ばれます。

依存症のひとたちは他者への心理的依存が強く、何事も一人ではできないという点が極まっており、病院で依存性パーソナリティ障害といった病気と認定される人もいます。度が過ぎると重大な精神疾患にいたることもあるため注意が必要です。




一方、依存症の中には「共依存症」というのもあります。こちらは自分のニーズよりも他人のニーズを優先し、他人事の問題解決に夢中な人々で、「ペア」である場合が多いようです。
ペアの一方または両方が、自身の充足のためにもう一方に依存しており、その多くは、自分の価値は他人に由来するという誤った考えを持っています。

無意識的に他人の人生を第一義に考えた生活を送っており、パートナーのニーズを満たすために極度の犠牲を払うという目的意識を持っているため、当人の自給性や自律性がありません。

もっとも一般的な例としては、アルコール依存の夫と妻というパターンがあります。飲酒によって夫は妻に多くの迷惑をかけますが、同時に妻は夫の飲酒問題の尻拭いに自分の価値を見出しています。一見、献身的・自己犠牲的に見えますが、実際にはアルコール依存をやめさせ、当人が自立する機会を奪っていることになります。

こうした共依存は、家族や仕事上の仲間、その他のコミュニティなど、あらゆる種類の人間関係で起こりえます。健全な人間関係の間には、適切な境界があり、その上で成り立つ感情的空間のようなものがクッションのような形で存在しますが、 共依存者たちにはそのようなものがなく、限界線を設定することができません。

つまり自分で自分の自立を阻害しているわけで、自己中心的ともいえます。こうした共依存に陥りやすい二人は、自己愛が未熟であり、常に他者の価値に依存しています。

親がアルコール依存症の家庭で育って成人した人に多いともいわれており、こうした親がいる家族は一般に不仲で、虐待に走ったり、感情を抑圧する、といった傾向がみられ、家庭としては「機能不全」ともいうべき状況にあります。そうした中で育った結果、生きづらさを抱えたりするようになり、それが家族以外に向けられた結果、共依存を招きます。

共依存症のひとたちは、「自分が依存している対象について、常にコントロールを失う事の恐怖」を感じています。このため他人から共依存という関係を否定されたり、そうした関係を責められると極端に不安定になります。

強烈な自己否定感から精神的安堵を求めようとし、その結果更に強い共依存の関係を求めるようになったり、時としてその関係が苦しくなり、それを一気に解消するために自殺を選ぶ人もいるといいます。

依存症であれ、共依存症であれ、こうした状態から回復するには、やはりそうした症状を扱う医療機関の門をたたき、その道のプロのカウンセリングを受けることが必要になってきます。

こうした人たちは、他人との境界がわからなくなっている人が多いことから、他人に何をするか、何をされることを許可するかといった制限を設定することが推奨されています。また、依存の対象となっている相手との関係を逆説的に認識する必要があり、他の人の思考、感情、問題に支配されないように自己を確立しなければなりません。

職業的境界

さて、これまでは、個々人に引かれている境界線にまつわるいろいろな問題について述べてきましたが、そうした多くの個人が働きに出る世間の中においては、「職業的な境界線」というものもあり、そこにも問題が生じることがあります。

あらゆる職業において、そこでの仕事に従事する人とその顧客との関係において、この境界線は重要な事項となります。特定の職種に従事する者のガイドライン、ルール、制約でもあり、職業倫理の一環でもあります。

こした職業境界を越えた振る舞いは「境界侵害」と呼ばれ、多くの場合、その職または所属組織に対する信頼と評判を損ね、損害を与えるものとなります。特に、弱者と強者という関係性において境界を越えた場合、職業倫理に反する行為、または搾取となり不法な犯罪行為となるケースもあります。

たとえば自らの教え子である生徒との間に性的関係を持ってしまった、というケースがあります。欧米では昔から問題視されてきており、このため絶対的なタブーとされ、万一発生した場合は非常に厳しい制裁が課されています。

日本でも教師という立場を利用し、そうした行為に及ぶという事件が最近目立ってきた結果、厳罰に処されるケースが増えています。その多くは立場の弱い、未成年でもある生徒に対して行われ、こうした行為に及んだ教師の多くは懲戒免職となり、相手が年少の場合は児童買春・児童ポルノ禁止法違反として立件されることもあります。

また性行為だけでなく、自らの信条等にもとづき、私的な意見を、あたかも事実や真理であるかのように生徒に教える行為もまた職業倫理に反します。一種のパワハラとして摘発されることもあり、教育の現場だけでなく、一般企業などの職場でも起こるえるものです。最近の日本では社会現象として問題視されるようになっています。

このほか、医療関係者と患者との境界を超えるというケースもあります。たとえば看護師が患者と恋愛関係になる、といったことがそれであり、看護師と患者とが個人的な関係を持つことは、患者に対し害を及ぼし、看護職の信頼性を損ねるものとみなされています。法的にも定められた不法行為の一つであり、基本的な職業モラル違反です。

世俗的には、きれいな看護婦さんと若い男性患者、といったイメージが湧いてきたりして何が悪いのか、と思いがちですが、看護師と患者との間というものはそうしたものばかりではありません。

例えばかなり衰弱した老年の患者と若い看護師という関係が想定されます。こうした場合、年老いた患者は看護師に対し脆弱で言いなりにされるがままの弱い立場に置かれる、といったことが発生しがちです。看護師がその職業的立場を自覚せずにそうした関係性を軽視すると、患者は潜在的虐待と搾取の対象となりえます。

看護という仕事の特性上、患者に対して肉体的、精神的、感情的に密度の深い付き合いをすることになり、通常、そうした関係性は患者を快方に向かわせるためのものです。しかしこの関係を悪用すれば患者の脆弱性を増長させてしまうかもしれません。潜在的な権力の乱用につながる可能性があるわけです。

看護師としては、健全な者と衰弱している者という力関係の不均衡を認識することが重要です。患者を萎縮させてしまうように感じさせたり、依存させるようなこと、または弱い立場に付け入るようなことにならないように注意することが必要です。

医療従事者ということでは医師と患者の関係も同様です。日本だけでなく世界中の医療の現場には「医療倫理指針」的なものがあり、患者との性的接触について独立した項目が設けられています。多くの場合、患者と医師との間に起こる性的接触は、違法行為とされており、性的または恋愛的な交流によって医療免許を失い、訴追を受ける場合もあります。

日本の場合、明確に法律化されているわけではありませんが、上の看護師と患者の関係と同じく、患者の弱い立場が悪用される可能性があります。 医師の客観的な判断を鈍らせる可能性がある場合は、医療機関毎の倫理委員会などで訴追されることもあります。

医療という現場において定められているこうした倫理的な職業的境界線を破ることは、治療者の中立性に違反しています。患者を私的な願望や要求の対象にしないこと、患者も治療者も一定の禁欲を互いに守る、といった「禁欲規則」はこうした現場では鉄則として守られているようです。

このように教育や医療といった現場では、一般に職業倫理が厳しく、相対する生徒や患者との間にもきちんとした境界線が引かれています。それ以外の職場でもほとんどの場合、「就業規則」を設け、優越的立場の乱用からの搾取にならぬよう、自主的に自制することによって顧客を保護するように行動規範を内部的に設けています。

これは顧客の利益のためだけでなく、その職業に属する人々の利益のためでもあり、専門職として一般からの信頼と支持を得ていくために必要とされるものです。



ミリグラム実験

ところがそうしたはっきりした規則がない組織もないわけではありません。例えば戦時中の軍隊のような特殊環境下で、はたして同様の倫理規則が自発的に機能するかどうかについては疑問が残ります。また刑務所の中のようなそもそも懲罰を目的とした閉塞空間の中では一般的な倫理は構築されにくいように思えますが、どうなのでしょうか。

こうした疑問に答えたもののひとつに、ミルグラム実験というものがあります。閉鎖的な状況における権威者の指示に従う人間の心理状況を実験したものであり、アイヒマン実験・アイヒマンテストとも言われるものです。

1961(昭和36)年に行われたアイヒマン裁判(1961年)の翌年に行われたもので、以後50年近くに渡って何度も再現されてきた社会心理学を代表する模範実験でもあります。

アイヒマンというのは、アドルフ・アイヒマンという、ナチス政権下のドイツの親衛隊将校です。アウシュヴィッツ強制収容所へのユダヤ人大量移送に関わり、数百万人におよぶ強制収容所への移送において指揮的役割を担いました。

ドイツ敗戦後、南米アルゼンチンに逃亡して「リカルド・クレメント」の偽名を名乗り、自動車工場の主任としてひっそり暮らしていましたが、彼を追跡するイスラエルの諜報機関モサドに発見され、イスラエルに移送されて裁判にかけられました。

クレメントが大物戦犯のアイヒマンであるとわかったのは、妻との結婚記念日として、花屋で彼女に贈る花束を購入したことでした。その日がアイヒマン夫婦の結婚記念日と一致したことが逮捕のきっかけになりました。

アイヒマンは、アルゼンチン政府との軋轢を避けるため極秘裏に連れ出されて、イスラエルに護送されました。その裁判は、1961年4月11日にエルサレムで始まり、アイヒマンは「人道に対する罪」「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、275時間にわたって予備尋問が行われました。

その結果としては当然、当時のナチスドイツの残虐行為が明らかになり、それを率いていた一人であるこの人物の狂気が明らかにされると期待されていました。しかしその過程で描き出されたアイヒマンの人間像は、意外にも人格異常者などではなく、真摯に「職務」に励む一介の平凡で小心な公務員の姿でした。

このことから「アイヒマンはじめ多くの戦争犯罪を実行したナチス戦犯たちは、そもそも特殊な人物であったのか、それとも妻との結婚記念日に花束を贈るような平凡な愛情を持つ普通の市民であっても、一定の条件下では、誰でもあのような残虐行為を犯すものなのか」という疑問が提起されました。

同年12月15日、すべての訴因で有罪が認められた結果、アイヒマンに対し死刑の判決が下されました。そして翌1962年6月1日未明にラムラの刑務所で絞首刑が行われました。
そしてこの処刑に先立つ、1961(昭和36)年7月、上記の疑問を検証しようと実施されたのが「アイヒマン実験」でした。

アメリカ、イェール大学の心理学者、スタンリー・ミルグラム(Stanley Milgram)主導して行ったもので、その結果は1963年にアメリカの社会心理学会誌“Journal of Abnormal and Social Psychology”に投稿されました。

この実験における実験協力者は新聞広告を通じて集められました。「記憶に関する実験」とアナウンスされ、20歳から50歳の男性を対象として募集された結果、40人ほどが採用され、一時間ほどの実験に対しての報酬が約束されました。イェール大学に集められたこれら実験協力者の教育背景は小学校中退者から博士号保持者までと変化に富んだものでした。

被験者にはまず、この実験が参加者を「生徒」役と「教師」役に分けて行うものであり、学習における罰の効果を測定するものだと説明されました。そして、各実験協力者は「教師」と、ペアを組む別の実験協力者として「生徒」のふたつをくじ引きで選ぶよう指示されました。

しかし実際には「教師」が真の被験者で、すべてのくじには「教師」と書かれていました。生徒役としては別途、役者が演じる「サクラ」が用意されており、このサクラは引いたくじが「生徒」と書かれていたかのようにふるまうよう言われていました。こうして本来の被験者全員が「教師」となるよう仕組まれました。

そして本試験が始まりました。その実験の内容は、次のようなものです。

被験者たちはあらかじめ「体験」として45ボルトの電気ショックを受け、「生徒」の受ける痛みを体験させられます。次いで「教師」と「生徒」は別の部屋に分けられ、インターフォンを通じてお互いの声のみが聞こえる状況下に置かれました。

「教師」はまず2つの対になる単語リストを読み上げ、その後、単語の一方のみを読み上げ、対応する単語を4択で質問します。サクラの「生徒」の前には4つのボタンがあり、答えの番号のボタンを押して正解すると、「教師」は次の問題に移ります。

このとき、「生徒」が(わざと)間違えると、「教師」は「生徒」に電気ショックを流すよう指示されました。また最初、電圧は45ボルトですが、「生徒」が間違えるごとに15ボルトずつ電圧の強さを上げるよう指示されました。

電気ショックを与えるスイッチは、最初の45ボルトも含めて9種類あり、最大は450ボルトでした。450ボルトより三段階下の315ボルトのスイッチには「はなはだしく激しい衝撃」と書かれ、二段階下の375ボルトには、「危険で苛烈な衝撃」と書かれていました。

しかし、450ボルトとその一段階下の435ボルトには、但し書きはありませんでした。これは被験者の心理をぎりぎりまで追い込むための巧妙な仕掛けであり、人というものは何も書かれていないと、勝手に想像力を働かせてしまうものです。“危険”を超えた強さの電流が流された場合のさらにひどい状態を想像させることがねらいでした。

このように「教師」には「生徒」が間違えるごとに高い電圧が加えられると信じ込まされましたが、実際には電圧は加えられませんでした。ただし、各電圧の強さに応じ、あらかじめ録音された「うめき声」がインターフォンから流されるようになっていました。

しかも電圧が上がるごとに、苦痛のアクションが大きくなるよう工夫されており、たとえば、
75ボルトでは「不快感をつぶやく」程度ですが、150ボルトになると、「絶叫する」といった具合です。

さらに270ボルトになると、「苦悶の金切声」を上げ、300ボルトでは、壁を叩いて「実験中止を求める」、315ボルトでは、壁を叩きながら「実験を降りる」と叫び、そして330ボルトになると、無反応になる、という手のこんだものでした。

こうして多数の被験者を「教師」と「生徒」に見立てて実験が開始されましたが、「教師」が生徒の反応を耳にし、恐ろしくなって実験の続行を拒否しようとするたびに、その実験に立ち会っている男が、試験を続行するように促しました。

その男は白衣を着ており、まるで権威のある博士のようにふるまっていました。そして感情を全く乱さない超然とした態度で次のように通告しました。

「続行してください。この実験は、あなたに続行していただかなくてはいけません。あなたに続行していただく事が絶対に必要なのです。迷うことはありません、あなたは続けるべきです。」

「教師」は実験が続けられてボルテージが上がるごとに恐怖にかられ、スイッチを押すことを躊躇するようになりますが、その都度同じ通告を受け、思いきってスイッチを入れます。しかしやがては「生徒」の絶叫を聞いても躊躇は少なくなり、やがては通告を受けなくてもスイッチを押すようになっていきました。

ただし、通告が行われるのは3度目までで、4度目の通告がなされた場合、その時点で実験は中止されました。一方、そうでなければ、設定されていた最大ボルト数の450ボルトに達するまで実験は続けられることになっていました。

この実験に先立ち、ミルグラムは、イェール大学で心理学専攻の4年生14人を対象に、実験結果を予想する事前アンケートが実施していました。

その結果、回答者は全員、実際に最大の電圧を付加する者はごくわずかだろうと回答(平均1.2%)し、同様のアンケートを同僚たちにも行ったところ、やはり一定以上の強い電圧を付加する被験者は非常に少ないだろうという回答が得られていました。

ところが、実際の実験結果は、まったく違うものでした。被験者40人中、半分以上の26人が最大ボルトの450ボルトまでスイッチを入れており、その率は65%にも上りました。ただ、多くの被験者は途中で実験に疑問を抱き、中には135ボルトで実験の意図自体を疑いだした者もいました。

何人かの被験者は実験の中止を希望し、「この実験のために自分たちに支払われている金額を全額返金してもいい」という意思を表明した者もいたといいます。しかし、300ボルトに達する前に実験を中止した者は一人もいませんでした。中には電圧を付加した後「生徒」の絶叫が響き渡ると、緊張の余り引きつった笑い声を出す者もいたといいます。

この実験では別のバリエーションも試され、「教師」と「生徒」を同じ部屋にさせるなど、「教師」の目の前で「生徒」が苦しむ姿を直接見せた実験も行われたといいます。無論、生徒の側に電圧はかけられず、苦しむ様子すべてが演技でした。

しかしそれでも「教師」がスイッチを押してしまう率は高く、結果は30~40%の被験者が用意されていた最大電圧である450ボルトまでスイッチを入れたといます。

この実験の結果は、一般の平凡な市民が一定の条件下では冷酷で非人道的な行為を行うことを証明したもので、以後こうした現象は「ミルグラム効果」と言われるようになりました。国内外において高く評価されましたが、嘘とはいえ人の痛みを題材にした試験内容について、倫理性の問題はなかったかとする批判の声もあがりました。

この実験が行われてから9年後の1971(昭和46)年には、同じアメリカのスタンフォード大学で同様の実験が行われました。こちらは「スタンフォード監獄実験」と呼ばれ、心理学者フィリップ・ジンバルドーの指導の下に行われたものでした。

この実験は、刑務所を舞台にしたもので、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまうことを証明しようとしたものでした。監獄実験とはいうものの、実際の監獄を使ったのではなく、模型の刑務所(実験監獄)をスタンフォード大学地下に作ったもので、実験期間は2週間が予定されていました。

この実験では、新聞広告などで普通の大学生などの70人が集められました。そしてその中から心身ともに健康な21人が被験者として選ばれ、内11人を看守役に、10人を受刑者役に見立ててグループ分けし、上の模擬刑務所内に入れました。

実験の目的は、犯罪者でもなんでもない普通の人々が「監獄」という特殊な環境に置かれた場合、そこで管理する者と管理される者を演じた被験者がその「役」どおりにふるまうようになるかどうかを確認することでした。管理するのは看守の被験者で、管理される側は受刑者役の被験者です。

その結果、時間が経つにつれ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者もより受刑者らしい行動をとるようになっていきました。しかし、実験の途中から被験者同士で暴力行為がみられるようになり、被験者の一人が危険な状況を家族へ連絡、家族達は弁護士を連れて中止を訴えたため、協議の末、実験は6日間で中止されました。

暴力行為が起こるようになっても試験を継続しようとしていたことなどもその後発覚し、かなり強引なやり方で実験を行ったことへの批判や実験の内容の厳密さに問題があるとされました。

いまだその結果については賛否両論の意見があるようであり、試験は失敗に終わりましたが、特殊な条件下に置かれた人間は、どうやらその環境に合わせて行動するようになるようだ、ということがある程度明らかになりました。同じく特殊な条件下ではいかに人間は非道になれるかを証明したミリグラム実験の実験結果とよく似ています。

アイヒマンの公判中、その人物に接したある人は、「実に多くの人が彼に似ていたし、彼はサディストでもなく、恐ろしいほどノーマルだった」と評しています。そうした人物が大量虐殺をなぜ行ったかを解明することがミリグラム実験の目的でしたが、その結果は、確かに普通の人が非道な行為を起こしうる可能性を示していました。

また、アイヒマン自身も自分が犯した罪を罪と思ってはいなかったようです。死刑の判決を下されてもなお自らを無罪であると抗議していたといい、その死刑執行の直前、ドイツ政府によるユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたそうです。

また自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張し、「1人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残したとされています。

アイヒマン最期の言葉もまた、次のようなごく普通の人間を思わせるような内容でした。

「ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。この3つの国は私が最も親しく結びついていた国々です。これからも忘れることはありません。妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。私は覚悟はできています。全ての人の運命がそうであるように、我々はいずれまた会うでしょう。私は神を信じながら死にます。」

こんな話もあります。

刑務官に「最後に何か望みがないか」と言われたとき、アイヒマンは「ユダヤ教徒になる」と答えたといい、なぜかと尋ねられると「これでまた1人ユダヤ人を殺せる」と返答をしたというのです。こちらが最後の言葉だったとする説がありますが、実際にはこのような事実はなく、彼にナチ戦犯としてのネガティブな印象を与えるための創作と考えられています。

アイヒマンの死刑執行は、1962年6月1日未明にラムラの刑務所で行われました。絞首刑による死刑執行後、遺体は裁判医が確認するまで、1時間ほど絞首台にぶら下がったままだったといいます。あるいは見せしめの意図があったのかもしれません。その遺体は焼却され、遺灰は地中海に撒かれました。

なお、この死刑はイスラエル建国以来同国で執行された唯一の死刑となりました。イスラエルでは戦犯以外の死刑制度は存在しないためであり、死刑は戦時の反逆罪および敵性行為をした者か、ナチスおよびその協力者を処罰する場合においてのみ適用されます。

後年、元ソ連赤軍軍人で、ナチス・ドイツの強制収容所の看守であったウクライナ人、ジョン・デミャニュクが居住していたアメリカで拘束されました。アイヒマンと同様にイスラエルに移送されて死刑判決が下されましたが、こちらは実際に残虐行為をしていた人物ではないことが証明され、1993年に無罪が確定しています。

ミリグラム実験やスタンフォード監獄実験などにより人間の残虐性が浮き彫りになりましたが、アイヒマン自信が本当に善良な人間だったのかどうかという疑問は、結局明かされることはありませんでした。

しかし、たとえ模範市民といわれるような善人であっても、いざ権威を与えられると盲目的にその役にはまってしまう可能性がこれらの実験から明らかになりました。

そうした役を与えられことで非道といわれるような行動も安易に起こしてしまう可能性があるということであり、ごくごく普通の生活をしている私やこれを読んでいるあなたもそうした残虐性を内に秘めているのかもしれません。ちょっと考えさせられませんか?

ちなみに、ミリグラム実験は、「アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発」というタイトルで映画化されています。2015年にアメリカで製作されたドラマ映画で、本作は批評家から高く評価されています。

「人間の本性についての問いを提示している」とのことで、こちらも「観客を考え込ませている」とのことです。これから長く続く雨の季節、こうしたものを観て自分の本性について考えてみるのもよいかもしれませんね。

カエルと一酸化二水素

日本中のあちこちで田植えが行われ、蛙の鳴く声が良く響く季節になってきました。水田が多い地方などでは、夜にたくさんの蛙が一斉に鳴き出し、「蛙の大合唱」となります。初夏の風物詩といえます。

「ケロケロ」「ゲロゲロ」「クワックワッ」といったこのカエルの鳴き声ですが、意味にはいろいろあって、ひとつには「広告音」というのがあります。

繁殖期にオスが他の個体に対し、自分の存在をアピールして、メスを引き付けるための泣き声です。オスを排除するための鳴き声でもあり、田んぼでよく聞かれるカエルの合唱が、これにあたります。

同じ種類のカエルが同じように鳴いていても、その広告音は違っているといい、それぞれが、自分という存在をアピールしているわけです。こんな小さな生き物に自分という個性を主張する能力があるということは驚きです。

この広告音に似たものに「求愛音」というのもあります。これもまた繁殖期にオスがメスを呼ぶ声ですが、こちらは産卵を促すための鳴き声です。他のオスに対する縄張り宣言の意味が含まれている場合もあるようで、「縄張り音」とも呼ばれています。

カエルの声にはほかにも、解除音(他のオスにメスと間違われて抱接されたオスが、間違った抱接を解除させるための鳴き声)、警戒音(人や敵が近づいたときに発する鳴き声)、危険音(敵に捕まったときに発する鳴き声)などがあり、そのバリエーションの多さにも驚かされます。

「雨鳴き」というのもあって、こちらは低気圧が近づいたり、雨が降っているときに発する鳴き声で、アマガエルの雨鳴きが有名です。「ゲッゲッゲッゲッ…」「クワックワックワッ…」といったかんじで、鳴くのはすべてオスです。オスの喉には鳴嚢(めいのう)という袋があり、声帯で出した声をこの袋で共鳴させて大きな声を生みだします。

水辺から聞こえてくるこうした蛙の鳴き声は独特の情緒があります。ゆえに、古くから多くの俳句や歌に詠まれてきました。ヤマト民族は古くから農耕民族であり、身近なところにカエルの棲息に好適な水辺や水田があったことから、春から夏にかけての景物とされてきました。「万葉集」の中でもその鳴き声を愛でた詩歌が多数あります。

例えば山上憶良は、万葉集の第5巻に次のような歌を詠んでいます。

この照らす 日月の下は 天雲(あまぐも)の 向伏す(むかぶす)極み 谷ぐくの さ渡る極み きこしをす 国のまほらぞ

この月日を照らす下は、天雲のたなびく果て、カエルの這い回る果てまで、大君(天皇)が治められている。それほど秀れた国なのだ、といった意味です。太古の昔、天皇が納める国はそこら中、カエルだらけだったのでしょうか。

「たにぐく」とはヒキガエルのことであって、「多爾具久」または「谷蟇」と書きます。語源は「谷潜り」(たにくぐり)ではないかといわれており、谷間から聞こえるカエルの声は上に拡散してよく聞こえるので、こう呼ばれるようになったのでしょう。ヒキガエルは日本ではごく一般的なカエルであり、古事記では神の一柱として多邇具久が登場するほどです。




ここで、ガマガエルとヒキガエルは何が違うのでしょうか。実は、これは同じものです。混同されることも多いようですが、生物学的には「ヒキガエル」のほうが正しいようです。ヒキガエル科のもとに、アジアヒキガエル、ニホンヒキガエル(本土で最も普通種)、ナガレヒキガエル(渓流産)、オオヒキガエル(亜熱帯域原産の外来種)などがいます。

それでは、なぜヒキガエルをガマガエルと呼ぶようになったのでしょうか。これは「ガマの油」の口上で有名な傷薬から来ているといわれています。

このガマの油は、もともとは馬油(バーユ、マーユ)と呼ばれていました。戦国時代の大坂の陣に徳川方として従軍した筑波山・中禅寺の住職、光誉上人(こうよしょうにん)が作った傷薬で、刀傷を治す効能があり、馬の切り傷にも効くということで、馬油と呼ばれるようになりました。

江戸時代になると庶民にまで広く浸透するほど人気の薬となりましたが、江戸中期頃になって第5代将軍徳川綱吉によって“生類憐みの令”が発せられたため、馬油とは公言できなくなりました。馬油は、馬の皮下脂肪を原料とする油脂だからです。

そこで誰が考えたのか知りませんが、自分の家の馬から取った油なら文句を言われないだろうと、これを「我が馬の油」と言い換え、「我馬の油」としました。カタカナ表記してガマの油、とすればお咎めなし、というわけで、それがそのまま定着しました。

やがては、このガマの油を香具師(やし)と呼ばれる興行師が売るようになりました。行者風の凝った衣装をまとった香具師たちは、客寄せのために、綱渡りなどの大道芸をやったあと、この油を造る方法を語り出します。

「四六のガマ」と呼ばれる霊力を持ったガマガエルは、霊山・筑波山(伊吹山とも)でしか捕獲できません。自分の顔を在原業平(ありわらのなりひら・平安初期の歌人で男前といわれた)のような美形だと信じていますが、周囲に鏡を張った箱に入れられて、自らの醜悪さに驚き、タラタラと脂汗を流します。

この汗を集め、煮つめてできたものが「ガマの油」であり、香具師はこれを万能であると宣言します。そして、刀を手に持ち、その刀で半紙大の和紙を二つ折りにしたものを切り続け、「一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚……」と口上しながら、小さくなった紙片を紙吹雪のように吹き飛ばします。

こうして刀の切れ味を示したあと、今度は自分の手を軽く切ると、そこからはうっすらと血が出てきます。その切り傷にガマの油をつけると、あら不思議、血はたちまち消えてしまいます。

そして、もう一度刀で腕を傷づけると、ガマの油を塗った腕は、刃物で切ろうとしても切れません。止血作用のほかに防護の効能もあることを見せつけられた観客からは「おーっ」という声があがります。

実は、刀には仕掛けがしてあり、切っ先だけがよく切れるようになっています。腕に刃を当てて血が出たのは、血糊を線状に塗って切り傷に見せただけです。また、切れない部分で腕を切っても血がでるわけはありません。しかし、何も知らない観客はこれを信じてしまい、ガマの油は飛ぶように売れていく、というわけです。

このガマの油売りの口上は、現在になっても続けられており、地方によっては伝統芸能にもなっています。筑波山には、「ガマ口上保存会」なるものがあり、2013(平成25)年には「筑波山ガマの油売り口上」としてつくば市認定地域無形民俗文化財第1号に認定されています。

ではこのガマの油の本当の正体は何か、ですが、ガマガエルの耳後腺および皮膚腺から分泌された粘液だといわれています。実は強力な毒液であり、ヒキガエルの皮膚、特に背面にある多くのイボから出されるものです。牛乳のようなこの白い粘液によって外敵から身を守り、同時に、有害な細菌や寄生虫を防いでいます。

人間にとっても有毒であり、いわゆる神経系・ステロイド系の毒素です。皮膚に付いた場合は炎症を発し、間違って口にしようものなら、神経系・循環器系に重大な障害を生じます。さらに、幻覚・嘔吐・下痢・心臓発作などが引き起こされる可能性もあり、最悪の場合は死にいたります。

不用意に素手でふれることは避けるべきで、ふれた場合は後でよく手洗いする必要です。しかし一方では漢方としても使われ、乾燥したものは蟾酥(せんそ)と呼ばれています。強心作用や血圧降下作用があり、救心製薬の薬、「救心」の原点となった「六神丸」はこの蟾酥が主成分です。

カエルの仲間には、こうした毒をもつものが多く、南米の森林の奥深くには、捕食者から身を守るためにモルヒネの毒性の200倍も強力な毒を蓄える種も棲んでいます。「ヤドクガエル」といい、コバルト色の体に美しい水玉模様を持っていますが、鮮やかな体色は、自分を食べようとする捕食者への警告です。

そんなに猛毒をどうやって作り出すのかと不思議になりますが、最近の研究では、こうした毒ガエルたちは、自分の体内で毒を作り出しているわけではなく、毒をもつダニやアリを食べて、その毒を体内に蓄えていることなどがわかっています。体のどこかでそれを濃縮し、体液として分泌して武器にしているのでしょう。




ところで、カエルは、カワズ(かはず)とも呼ばれます。その成り立ちには諸説ありますが、以下はそのひとつです。

すなわち、カエルの「か」は「からだ」を示し、「躯体」、「構造体、物」を意味します。また、「へ」は「はう(這う)」という意味で、「はいつくばる」、あるいは「平たくなっている」様を示します。

最後の「る」は、「・・の状態にある」ことを意味します。例えば「とる」ということばがあります。「手(と)る」「採る」「捕る」も「盗る」といろいろな漢字が与えられますが、これらの「る」は、「あるものをその状態にする」ことを表現したものです。つまり、「かえる」は「「体を」「平たい」「状態にしている」ものという意味になります。

一方の「かはず」も同じような由来です。「か」は「体」で、「は」は「這う」であり、「ず」は「すむもの」を簡略化した表現です。すなわち「体を」「這うようにして」「住んでいるもの」ということになります。

このように言葉の成り立ちはほぼ同じですが、古来より、このふたつは、一方が日常語として、また一方が歌語として使い分けられてきました。無論、「かえる」のほうが日常的に使われる呼称です。

一方、和歌などの中でよく使われるのが「かはず」で、これはたいていの場合カジカガエルのことを示します。「河鹿」と表記することもあり、夏の季語であって、夏になると「ケケケケケケケケ・・ケケ・ケ」涼しげに鳴くカエルのことです。聞いたことある人も多いでしょう。

このカジカガエルは、山地にある渓流、湖、その周辺にある森林などに生息する種で、北海道を除く日本中に生息しています。美声で唄うことから、江戸時代には専用の籠(河鹿籠)に入れて、ペットとして飼うことが流行っていました。

このようにカエルといえば、その声を愛でるものという向きもありますが、一方では古くから「食」の対象でもありました。日本書紀によると、吉野の国栖(くにす・現奈良県に居住したといわれる住民)たちは蝦蟇蛙(ガマガエル)を煮たものを「毛瀰(もみ)」と呼んで食べていたといいます。

この「毛瀰」が非常に美味しかったことから、関西では、それ以外のものを「もみない(毛瀰でない)」と呼び、「不味い(まずい)・美味しくない」という意味で使うようになったといわれています。関西出身の方には馴染みのある表現かと思います。

もっとも、近年の日本では、ヒキガエルは食べません。「食用蛙」といえば、普通ウシガエルのことを指します。体長は大きなものでは18センチメートルほどもあって、体重5~600グラムは、通常のカエルの3倍以上です。その肉は鶏肉のささみに似ており、淡白で美味であって、地方の料亭などでは高級料理として出しているところもあります。

日本に入ってきたのは戦前のことで、1918(大正7)年に、東京帝国大学の教授であった動物学者の渡瀬庄三郎氏が食用としてアメリカのニューオリンズから十数匹を導入したのがきっかけとなりました。戦後は逆に輸出するほど増え、1950年から1970年にかけては年間数百トンのウシガエルが生産されたといわれています。

しかし、大型かつ貪欲で環境の変化に強い本種は、在来種に対する殲滅的捕食が懸念されるようになり、現在では侵略的外来種とみなされて、むしろ駆逐されるようになっています。ヨーロッパや韓国でも輸入が禁止されているなど、世界中で嫌われ者です。

というわけでウシガエルはあまり食卓にあがらなくなりましたが、日本以外の世界中でカエルを食べる文化はあり、中国をはじめ、欧州など世界的にもカエルを食べることはいまだ特別なことではありません。

中国からインドネシアにかけての地域では、トラフガエル、ヌマガエルなどが食用に利用されており、フランス料理などの食材に使われるカエルは、ヨーロッパ原産のヨーロッパトノサマガエルです。

とくにフランス人はこれが大好きらしく、高級食材として扱われています。フランス料理が世界中に浸透するようになってからはほかの国でも食べられるようになりましたが、古くからカエルを食べてきたフランス人のことを他のヨーロッパ人は揶揄を込めて「カエル喰い」と呼びます。

現在でも英語で frog eater (フロッグ・イーター)やJohnny Crapaud(ジョニー・クラポーといえば、フランス人に対する別称であり、クラポーは、フランス語でカエルのことです。frog だけでフランス人を指すこともあるようです。



茹でガエルの伝説

このようにカエルは食用としても扱われますが、研究用の実験動物として使われることもあります。とくに発生生物学や生理学の部門での研究では欠かせないものであり、アフリカツメガエルという種は実験目的で飼育されることで有名です。

スコットランド生まれのアレキサンダー・スチュアート(1673~1742)という生理学者が無頭ガエルを用いて行った実験が有名で、これは脳を切除したカエルの脊髄を刺激すると足が跳ね上がるというものでした。その後これは「脊髄ガエル」の実験と呼ばれるようになりました。

以後、多くの科学者がカエルを使って、数々の神経伝達のしくみを解明してきましたが、手に入りやすいカエルはその後、学校などでも教材として使われるようになりました。理科の授業でカエルを使った「解剖実習」を行ったという人も多いのではないでしょうか。私も小学校のころ、トノサマガエルを使った神経伝達の実験をした覚えがあります。

ところが、最近はこの解剖実習もかなり少なくなったようです。動物愛護の観点から、ということもあるようですが、田んぼの減少などで対象となるカエル減少したこともあり、またそれまでよく使われていたウシガエルが特定外来種に指定されたことなども関係しているようです。

とはいえ、実験や観察を重視する学校ではカエルを使った実験が今も行われることが多く、自然科学への興味関心を喚起するためには必須のものとされています。「百聞は一見にしかず」というわけで、教室で教科書と向き合って覚えた知識よりも、実際に自分の手で解剖し、自分の目で見て体験したことの方がずっと多くのことを学ぶことができるというわけです。

さて、カエルの実験と聞かされて、「茹でガエル」の話を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。これは、2匹のカエルを用意し、一方は熱湯に入れ、もう一方は緩やかに昇温する冷水に入れるというもので、前者は直ちに飛び跳ねて脱出・生存するのに対し、後者は水温の上昇を知覚できず、やがて茹でガエルとなって死んでしまう、とされています。

生理学的な見地から行われる実験のように受け取られがちですが、実はこの話が使われるのはビジネスの上においてのことのほうが多いようです。

ビジネス環境の変化に対応する事の重要性、困難性を指摘するためによく用いられます。例えば、業績悪化が危機的レベルに迫りつつあるにもかかわらず、従来型の経営を続けている企業の末路、といった具合に使われます。

一般に人間は環境適応能力に優れているといわれています。しかし、ゆるやかな環境変化には気づきにくく、その変化が致命的なものであっても受け入れてしまう傾向があり、気が付いてみれば大きな損害を受けていることがあります。ぬるま湯がいつのまにか熱湯になっていることに気づかずに死んでしまうカエルと同じというわけです。

心理学者や経済学者、経営コンサルタントなどがとくにこの茹でガエルの話を使いたがります。低すぎる営業目標達成を喜んでいる経営幹部や、敗色が濃厚であるにもかかわらず、なお好戦的な上層部の人々を批判する場合などに、この茹でガエルの話はうってつけです。

人間の生業では確かにそうしたことはありがちなのですが、では実際にカエルを茹でてみたら本当にそうなるのかどうか、というところは実は長い間誰も検証してきませんでした。本当かどうかを確認せずにこの話は広まったと思われ、いわば都市伝説の一つと今では考えられています。

そもそもこうした茹でガエルの実験というものを誰が行ったのかというところから紐解いていくと、話の発端は、1869(明治2)年にまでさかのぼるようです。この年、ドイツの生理学者フリードリッヒ・ゴルツ、という人が行った実験がそれらしい、という記録が残っています。

ゴルツは、脳を切除したカエルがどういう生体反応を見せるかという実験をいろいろやっており、その中のひとつとして行ったのがこの茹でガエルの実験でした。その結果、脳のあるカエルは摂氏25度から落ち着かない様子になり、温度が上がるごとに激しくもがき苦しみ、42度でそのまま水(お湯)の中で死んでしまったとされます。

一方、脳を切除したカエルはどうだったか、については記録がないようです。記録されなかったのか、脳があるカエルの実験しか行われなかったのかわかりません。が、もしかしたら死んだのは脳がないカエルだったのかもしれません。ともかくカエルは死んでしまった、という話だけがこのあたりから独り歩きするようになっていきます。

さらに、この実験から4年後の1873(明治6)年、今度はイギリスのジョージ・ヘンリー・ルイスという人物が、同じくこの茹でガエルの追試験を行い、やはり同様に茹でガエルは死んでしまったとされます。

しかし、このルイスという人物は、生理学者というよりも哲学者・文学者としてのほうが有名な人で、こうした実験はむしろ趣味として行っていたようです。エーテルとクロロホルムを使った実験をよく行っていたといいますから、こちらでも死んだとされるカエルには麻酔がかかるなど、何らかの操作が加わっていたのかもしれません。

こちらも本当のところはよくわかりません。いずれにせよ、ゴルツやルイスが行ったとされるかなり古い、しかもかなりあいまいな茹でガエルの実験結果については、それが正しいのかどうかという検証も行われないまま、長い年月が過ぎました。



その後この話は忘れさられていましたが、やがて第二次世界大戦後の東西冷戦の時代になって初めて科学以外の世界でこの話が取り上げられました。1960年代のアメリカなどで体制を批判する例えとして取り上げられたのです。敵対するソビエトも自国もにらみ合っているだけで、その状態に甘んじている茹でガエルだという批判がその内容でした。

さらに1980年代になり、終末論が流行るとここでも語られるようなりました。社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむようなこの時代、その困窮の原因や帰趨が、それを見てみぬふりをしている指導者にあるとされ、彼らもまた茹でガエルだと揶揄されたのです。

さらには、1990年代には地球温暖化問題においても、茹でガエルは例えとしてよく使われるようになりました。何も環境対策をせずに放置した結果、地球はいまや瀕死の状態にある、というわけで、ここでの批判対象は世界中の指導者ということになります。

地球温暖化を阻止しようと国連が招集した国連気候行動サミットで、各国の対応を痛烈に批判した16歳の少女スウェーデン人のグレタ・トゥーンベリさんの演説の内容もまた、この茹でガエルの話を彷彿とさせるものでした。

このように、各時代ごとに茹でガエルの話は広まり、いまや「一般論」として定着するようになっています。ところが、1995(平成7)年になって、アメリカのビジネス誌「Fast Company」が、そもそも論を持出し、120年以上も前に行われたこの実験は果たして正しいものなのかを検証する目的で特集記事を組みました。

Fast Companyの編集者は、まずハーバード大学の細胞生物学者で、発生生物学の権威、ダグラス・メルトンにコメントを求め、これに対してメルトンは、「熱湯に入れれば飛び出す前に死んでしまうし、冷たい水に入れれば熱くなる前に飛び出してしまうはず」と答えました。

メルトン博士は、全米科学アカデミーおよびアメリカ芸術科学アカデミーのメンバーであることから、その発言は重いものでした。またFast Companyは、国立自然史博物館の爬虫類と両生類の学芸員であるジョージR.ツークの意見も掲載し、彼もまた、「カエルが逃げる手段を持っていれば、確実に逃げるだろう」と述べ、茹でガエル説を否定しました。

さらに、2002(平成14)年、オクラホマ大学の動物学者で、両生類の熱に関する脆弱性を研究していた、ビクター・H.ハッチソンもまた、この説を否定しました。否定するだけでなく、ハッチソンは、実際の検証実験を行いました。

この実験では、多くの種類のカエルについての試験が行われ、その手順は1分間に水の温度を華氏2度ずつ上げて様子をみる、というものでした。その結果、温度が上がるごとにカエルはますます活発になりましたが、どのカエルも一定の温度になると水から逃れようとしたといいます。

正常性バイアスの危険

こうして一世紀以上にもわたって独り歩きしてきた茹でガエルの仮設は、真実ではないということが証明されました。よくよく考えてみればカエルも動物である以上、茹でられて体温が上がれば熱くなって本能的に逃げるがあたりまえでしょう。

しかし、不思議なもので、ヒト以外の生物、ましてやカエルのような下等生物ならば、徐々に温められればそういうこともあるかもしれない、とどこかで思う気持ちが湧いてくるのは確かです。なぜかそういう「本当らしい話」を信じてしまうというのは人間の特性ともいえ、人の心は、予期せぬ出来事に対して、ある程度「鈍感」にできているようです。

日々の生活の中で生じる予期せぬ変化や新しい事象に、いつも心が過剰に反応してしまっては疲弊してしまいます。そうならないように、人間の心にはある程度の限界までは、正常の範囲として処理するメカニズムが備わっており、こうした機能を「正常性バイアス」といいます。

バイアスとは、英語で“bias”と書き、「偏り」のことです。ここでは「偏見」と訳すのが適当でしょう。これに正常性をつけて正常性バイアスといいますが、これは自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう、といった偏った見方をする人の特性を意味します。

茹でガエルのような信ぴょう性も定かでないような話を信じてしまう、といったケース以外にも、自分にとって何らかの被害が予想される、といった状況下でも正常性バイアスは起こりえます。

例えば自然災害や火事、事故、事件といった場合などがそれです。そうした非日常的な出来事すらも、日常の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価してしまいます。その結果として「逃げ遅れ」が生じ、最悪の場合は人を死に至らしめます。

正常性バイアスは、「正常化の偏見」、「恒常性バイアス」とも言い、災害に直面した人々がただちに避難行動を取ろうとしない心の作用として、とくに先の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)以降、注目されるようになりました。

この東日本大震災では、津波避難をめぐる課題として「警報が出ているのを知りながら避難しない」人たちが少なからずいたことが明らかになっています。地震発生直後のビッグデータによる解析でも、ある地域では地震直後にはほとんど動きがなく、多くの人々が実際に津波を目撃してから初めて避難行動に移り、結果、避難に遅れが生じたことがわかっています。

宮城県の石巻市では、海岸から5キロメートル離れた大川小学校で、校庭にいた児童74名と、教職員10名、合わせて85名の学校関係者が亡くなりました。その避難先の決定を誤らせたのも正常性バイアスによる根拠のない楽観的思考ではなかったかといわれています。

大津波に先駆けで地震が生じた当初、教師らは児童を校庭に集めて点呼を取り全員の安否を確認していました。そして、来るかもしれない津波に対しての避難先について議論を始めていたといいます。このとき、学校南側の裏山に既に逃げようとしていた児童たちもいましたが、この教師らは彼らに戻るよう呼びかけ、連れ戻した、とされます。

この裏山というのは、校庭のすぐそばにある緩やかな傾斜の小山で、児童らにとってシイタケ栽培の学習でなじみ深い場所でした。有力な避難場所でしたが、降雪により足場が悪く、未曾有の大地震の直後のため土砂崩れや落石などの可能性もありました。従って、危険な場所である、と判断したのもあながち間違っていたとはいえません。

一方、教職員の間では、いややはり裏山へ逃げたほうが安全という意見もあり、校庭にとどまり続けたほうがいいという意見と対立しました。

このとどまり続けたほうがいいという意見の背景には、もうひとつ理由がありました。この小学校は、一般児童の学び家であると同時に、地域の避難所でもあり、このため学校外から避難してきていた老人もいました。このため、老人たちが避難するためにも、平地ではない裏山は適当ではないと考えられたのです。

さらに、学校に避難してきていた一般人の中には、学校から約200m西側には、周囲の堤防より小高くなっている場所(新北上大橋のたもと)があり、ここへの避難のほうが安全だという人もいました。

こうして、裏山へ逃げた方が良いという意見と、学校にとどまり続けた方が良いという意見、さらに学校の外に出て別の高台に逃げた方がいいという意見も出るなど、意見が錯綜する中、時間はどんどんと過ぎていきました。

このとき、教頭は「山に上がらせてくれ」と言ったといいますが、「ここまで(津波は)来るはずがないから、三角地帯に行こう」という意見も根強く、「喧嘩みたいに揉めていた」という話も残っています。

この議論の間、20人ほどの保護者が児童を迎えに来て帰宅して行きましたが、このとき既に大津波警報が出ていることを報告した親がいたことも確認されています。しかし、やがて教師たちの意見は「学校のほうが安全」「帰らないように」「逃げないほうがいい」に傾いていき、逆に帰宅しようとしていた保護者達を引き留めるほどだったといいます。

このとき、山に逃げたものの連れ戻された児童らの中には、「津波が来るから山へ逃げよう」「地割れが起きる」「ここにいたら死ぬ」と教師に泣きながら訴える者もいたことが、これらの保護者達により目撃されています。

こうして、東北地方太平洋沖地震に伴う津波が本震発生後およそ50分経った15時36分頃、三陸海岸・追波湾の湾奥にある新北上川(追波川)を津波が遡上してきました。その結果、河口から約5kmの距離にある大川小学校を直撃し、教師と学童合わせて85名のほか、学校に避難してきた地域住民や保護者、スクールバスの運転手が死亡しました。

学校の管理下にある子どもが犠牲になった事件・事故としては戦後最悪の惨事となり、この事件から3年後、犠牲となった児童23人の遺族は、宮城県と石巻市に対して総額23億円の損害賠償を求める民事訴訟を仙台地方裁判所に起こしました。

この裁判では、一審の地方裁判所、二審の仙台高裁ともに学校側の防災体制の不備を認定し、二審では、1審判決よりも約1000万円多い総額14億3617万円の支払いを命じました。学校側は最高裁への上告を求めましたが、2019年10月11日までに上告が退けられ、2審仙台高等裁判所判決が確定しています。

学校側の誘導ミスが認められた結果ですが、未曾有の大地震があった直後の現場は、集団パニック状態かそれに近い状態であったと推定されます。この裁判でも、様々な情報や意見が行き交う中で、正しい判断を行うことが困難な状況であったことなどが取沙汰されました。

誰が良いとか悪いとかいう問題ではなく、こうした例は異常な環境下では誰もが正常性バイアスに陥る可能性がある、という教訓と捉えることができます。

この東日本大震災から3年後に起きた2014(平成26)年9月27日の御嶽山噴火でも、似たようなことがありました。御嶽山の噴火で登山者58人が噴石や噴煙に巻き込まれて死亡したこの事件では、死亡者の多くが噴火後も火口付近にとどまり噴火の様子を写真撮影していたことがわかっています。

携帯電話を手に持ったままの死体や、噴火から4分後に撮影した記録が残るカメラもあり、彼らが正常性バイアスの影響下にあり、「自分は大丈夫」と思っていた可能性が指摘されています。

この年(2014年)には、隣国の韓国でも大きな事故がありました。乗員・乗客の死者299人、行方不明者5人、捜索作業員の死者8人を出した「セウォル(世越)号事件」です。この事件においても、正常性バイアスと思われる現象があり、これは乗っていた修学旅行中の高校生を誘導する側の船舶関係者に起こりました。

のちにこの船は不適切な船体改造により高重心となり、過積載とバラスト水の操作ミスによって転覆したことがわかっています。転覆後、徐々に沈んでいく船の中では、「救命胴衣を着用して待機してください」という自動船内放送が流れました。これを受け、乗客の避難誘導を行う乗員も乗客に対して「動かないでください」と繰り返していたといいます。

おそらく、誘導員も船内放送を信じて大丈夫だと思ったのでしょう。このため、船内にいた多くの高校生たちのほとんどはその指示に従って待機したままでした。船員の不適切な誘導もさることながら、船内に残された乗客の多くもギリギリの段階まで、どこか大丈夫だ、と思う気持ちがあったのではないかと考えられます。

韓国では、これより11年前の2003年2月18日にも、大邱(テグ)地下鉄放火事件という事件があり、大きな社会問題になりました。

この事件は、大邱広域市地下鉄公社(当時)1号線の中央路駅構内地下3階のホームに到着した列車の車内で、自殺志願者の男が飲料用ペットボトルの中に入れていたガソリンを振り撒き放火したというものです。

停車中の車内が大火災となったこの事件では、多くの乗客が逃げずに車内に留まりました。煙が充満する車内の中で口や鼻を押さえながらも逃げずに座っている様子が乗客によって撮影されており、ここでも正常性バイアスが乗客たちの行動に影響したとのではないかといわれています。

「被害はたいしたことがないのでその場に留まるように」という旨の車内放送が流れたという証言もあり、この事件は、「セウォル号事件」とよく似ています。車上員のこうした間違った判断によって被害が拡大されたと思われるこの火災では、当時において世界の地下鉄火災史上で2番目となる198人以上の死者を出しました。

韓国人はより正常性バイアスに陥りやすいのではないか、とつい思ってしまいますが、そんなことはないでしょう。我々日本人も同じような状況に巻き込まれれば同様の行動をとってしまう可能性はあるのです。

きさらぎ駅

茹でガエルの話とこうした正常性バイアスの結果と思われる事件の共通点としては、多くの人が嘘やデマを信じてしまう、という点です。そうした意味では「都市伝説」と似ていなくもありません。

都市伝説とは、本当にあったとして語られてはいるものの、「実際には起きていない話」であり、あるいは、実存しない可能性が高い人間が体験した虚偽について作られた物語のことを指します。

正常性バイアスのように、「実際に起きている」異常な環境下で判断を誤るというところが異なりますが、間違った情報に基づいて人が惑わされるという点では同じです。

一般に、都市伝説といわれるものには起源や根拠がまったく不明なものも多いようですが、何かしらの根拠を有するものもあります。特定の、とはいえ、たいていは何でもない事実に尾ひれがついて、伝説化することもあり、たとえば「東京ディズニーランドの下には巨大地下室があり、そこで賭博等の行為が行われている」といった類の話です。

この例では、ディズニーランドには、実際に従業員用の地下通路がほんの少しあることが起源の一つになっていますが、人が集まってゲームをしたりできるような地下施設はありません。敷地内の多くは、埋め立て地であり、そうした大きな施設を作るのは不可能です。

ほかにも、こうした都市伝説はそれこそゴマンとありますが、ここではそのうちの有名なものをひとつ取り上げてみましょう。とくに、都市伝説として長い間語り継がれてきたもので、もしかしたら本当にあったのかも、と思えてしまうようなものです。

それは「きさらぎ駅」といいます。2004(平成16)年にインターネット掲示板の「2ちゃんねる」に投稿された「体験的」な記事の中で登場した謎の駅です。

この記事で、きさらぎ駅とは、人里離れた沿線に忽然と現れた謎の無人駅とされました。体験談の内容からは、ある程度の場所が特定でき、それは静岡県のどこか山奥にあるものではないかと推定されましたが、はっきりとした場所はわかりません。そしてそこに降り立った一人の若い女性のまわりに次々と奇怪な現象が起こっていきます。

そもそも、この話は、「2ちゃんねる」のオカルト板に、「はすみ(葉純)」と名乗る人物が書き込みをしたのが始まりです。「板」とは、掲示板で話し合われる話題のおおむねの方向性のことで、この板では「オカルト」がテーマでした。

オカルトといえば、心霊現象・怪談から、超常現象、未確認飛行物体(UFO)、ネッシーなど未確認動物(UMA)と言ったお馴染みの物から、魔術、超科学、神秘学、超古代文明、果ては呪詛や秘密結社など幅広い話題を含みます。

オカルト板は、毎年季節的に怪談シーズンの夏になると賑わう板で、正式には「オカルト超常現象@2ch掲示板」で通称「オカ板」と呼ばれていました。しかし、「事件」が起こったとされるのは、夏ではなく真冬のころでした。

2004(平成16)年1月の深夜、このオカルト板の中に問題のスレッドが立ちました。スレッドとは、ひとつの板の中でもさらに特定の話題を話しあうための投稿の集まりのことで、ある話題について初めに投稿をすることを「スレッドを立てる」といいます。またスレッドは、「スレ」と略されます。

ややこしいですが、スレに対する返信のことをレスといい、これはレスポンス(返信)の略です。ひとつのスレに対するレスに対して、また別の人のレスが加わり、やがてたくさんの人がそのスレにレス書き込んで、ああでもない、こうでもないと話し合われればそのスレッドは賑わいます。

その賑わいこそが掲示板の醍醐味であり、自分の興味のある話題ならば、誰しもが参加をしてみたくなるものです。

また、スレには「実況スレッド」というものがあります。通常のスレはある程度時間をおいて書き込みが進みますが、このスレは「実況行為」を目的としたものであり、時々刻々と書き込みが進んでいきます。最近はスマホでこうした書き込みは簡単にできてしまいます。

ネットで放映されある野球中継の中でこうしたスレッドを見たことがある人も多いと思います。生放送の番組に対する感想をリアルタイムで書き込んでいくもので、ホームランが出ると、「おオおオおー!」といった短い書き込みがなされ、それに対しても敵チームの別の人からは「チッ、やりやがったな」といったレスがなされます。

ただ、この場合の実況スレッドの舞台は野球場などの街中ではなく、静岡県浜松市のどこか山奥とされました。「はすみ」と名乗る女性が最初に書き込んだそのスレッドには当初、静岡県の新浜松駅から発車した遠州鉄道の電車の中にいる、と書かれていました。

いつもは5~8分間隔で停車するはずの電車が20分以上も走り続けている、と続き、やがて到着した駅が「きさらぎ駅」でした。当人曰く、聞いたこともない無人駅で、以後、0時を過ぎて翌日未明にかけてのあいだ、延々と「はすみ」とスレ参加者との応答がリアルタイムで進行していきます。

「はすみ」によれば、そこは周囲には人家などが何もない山間の草原で特に特徴はないということでした。自分がどこにいるかわからないため、自宅に電話して親に迎えに来てもらうように頼みますが、場所がわからないと言われ、110番するようにと言われてしまいます。

言われたとおり警察に電話し、一生懸命現在の状況を説明しますが、いたずらだろうと怒られてしまい困惑。近くに交番やタクシーもないため、仕方なく彼女は線路沿いを歩き始めます。すると遠くの方で太鼓を鳴らすような音とそれに混じって鈴のような音も聞こえてくるではありませんか。

さらに「おーい危ないから線路の上歩いちゃ駄目だよ」という声が後ろのほうからするので、駅員かと思って振り向くと、10メートルほど先に片足だけの老翁が立っており、しばらくすると消えてしまいました。

怖くて動くことができなくなった「はすみ」。どうしたらいいかわからなくなってしまいますが、勇気を振り絞って歩き続けていくと、今度はトンネルに出くわしました。そこには「伊佐貫」と書かれていましたが、トンネルの中は真っ暗です。

しかしスレ参加者に励まされて、なんとかトンネルを走り抜けると、そこに誰か立っています。やがて、「助言して頂いた通りにして正解だったようです。ありがとうごうございます」という投稿が続き、さらに「親切な方で近くの駅まで車で送ってくれる事になりました」と書き込まれました。

ところが、やがて車は山のほうへと向かいはじめ、「はすみ」はどうやら男性らしいその人物の様子がおかしいことに気づきます。

「先程よりどんどん山の方に向かってます~(中略)~全然話してくれなくなってしまいました。」そんな投稿の後、携帯電話の電池が残りわずかになったのか、「もうバッテリーがピンチです。様子が変なので隙を見て逃げようと思っています。」と「はすみ」。

さらに「先程から訳のわからない独り言を呟きはじめました。いざという時の為に、一応これで最後の書き込みにします。」

この投稿を最後に彼女からの投稿は二度とありませんでした。投稿時間は1月9日の深夜3時44分を指していました。

きさらぎ駅を舞台にした一夜限りの奇妙なこの体験談は、その後ネットコミュニティの注目を集めました。やがて、この最初のスレに便乗するかのように、きさらぎ駅や類似の架空の駅の体験談が相次ぐなど、事態はエスカレートしていきます。

東海道本線の愛知県域にあるとされる「月の宮駅」という駅や、きさらぎ駅の隣接駅とされる「やみ駅」と「かたす駅」などにいる、といったスレが相次ぎました。しかし最初に公表された「はすみ」の一夜限りの奇妙な出来事の方が人気が高く、やがてネットコミュニティ参加者だけでなく、一般の人も噂する都市伝説になっていきました。

その後長らくオカ板に「はすみ」からのスレはありませんでした。しかしその後7年も経った2011年になって、今度は、都市伝説をテーマにした別のサイトのコメント欄に、オリジナル投稿者「はすみ」を名乗る人物から書き込みがありました。

それは、「あの、信じてくれないと思いますが」で始まり、7年経ってようやく普通の世界に戻れたという、「はすみの声」でした。

それによれば、その後くだんの運転手は暗い森の中で車を止めました。すると闇の向こうから光が見えはじめ、そのとき、右の方から別の男が歩いてきたと思った瞬間、運転手は消えていました。その男性は、「ここにいてはダメだ!今のうちに逃げろ」と彼女にうながし、さらに「光の方へ歩け」と言ったといいます。

泣きながら走った「はすみ」が、まぶしくなったとたん目をあけると、普段から見慣れた駅の前で彼女の両親が車から私を呼んでいました。そして、そのときそこは2011年の4月だった、といいます。

「きさらぎ駅」から無事に戻った、というこの「生還報告」の真偽のほどは明らかではありません。7年という過ぎ去った時間をうまく使った別人物による創作と考えることもできますが、もしかしたら…、と考えてしまう人も多いのではないでしょうか。

このまことしやかな後日談もまたその後話題を呼び、さらにTwitterやYouTubeといったメディアでできさらぎ駅に関する投稿が相次ぐようになりました。元祖の2ちゃんねるでもこれに関連する目撃談や実況体験談を寄せる投稿がしばらく続いたといいます。

2014(平成26)年には、Googleマップの中で、筑波大学構内に「きさらぎ駅」というスポットが何者かによって登録されるという「珍事」も起きました。ルート検索をしたことがある人はおわかりでしょうが、これによって「きさらぎ駅」への架空のルート検索ができるようになります。

しかし、オリジナルの体験談にあったきさらぎ駅やはすみの正体が明かされることは、けっしてありませんでしたが、以後現在に至るまでネット上にはその真相を巡って様々な空想的考察が語られ、話題は膨らみ続けています。

きさらぎ駅を題材としたフィクションまで作られるようになり、「はじまりの夜行列車」「きさらぎ駅並行」といった題名の作品も作られました。

2018年には舞台となった遠州鉄道が、きさらぎ駅のエピソードを描いた水野英多の漫画「裏世界ピクニック」をテーマとしたPR列車を運行させました。きさらぎ駅の都市伝説が広く知られるものとなり、遠州鉄道本社にも問い合わせが寄せられるようになったためで、そのブームにあやかった形です。

きさらぎ駅はさらに海外でも知られるようになり、特に台湾や香港で「如月車站」として紹介され、日本と同様にフィクション作品が書かれています。当地を舞台にした架空の駅の都市伝説が台湾でも語られているといい、いまでも日本の「元祖きさらぎ駅」のコンテンツがしばしば引き合いに出されているそうです。

きさらぎ駅の都市伝説が、このように長きに渡って語り継がれる理由のひとつは、実在する列車に加え、いかにもありそうな地名や登場人物を使うなど巧妙な物語設定がなされているということがあります。

また、「世にも不思議な物語」「本当にあった怖い話」といったかなりひねったストーリーがもてはやされる風潮のある中、こうした昔ながらのシンプルに怖い「神隠し」的な話にロマンを見出す向きが増えているということなのかもしれません。

DHMO

このように人気のある都市伝説というものは、やはり真実味があるものが多いようです。ここでもうひとつ紹介したいのは、多くの人が本当だと信じてしまったことが、実はまったくの虚構であった、というものです。都市伝説ともいえますが、ある種のジョークといったほうが良いかもしれません。

それは、1983年のこと、ミシガン州の週刊新聞、デュラン・エクスプレスにDHMOが水道管内で見つかった、とする記事が発表されました。その記事には、それは致命的な物質であり、「蒸気化することで水ぶくれを引き起こす可能性がある」といった警告が書かれていました。

さらにDHMOは、dihydrogen monoxide=ジヒドロゲンモノオキシドと説明され、これは和訳すれば一酸化二水素です。

化学式 で書くと、H2O で表される水素と酸素の化合物ですが、この説明を読んで、ん?と気づかれた方は賢明です。H2Oとはこれすなわち水そのものであり、実はこの放送は、4月1日のエープリルフールに放送されたものでした。

水をわざと難しい表現に変え、水ぶくれを引き起こすから危険、としたものですが、確かに水を加熱して蒸気になったものがかかれば火傷して水ぶくれができます。巧みな言い換えによって、見事なジョークに仕立てたものですが、これをさらに発展させ、さらに細かい表現を加えてより発展させたのが、カリフォルニア大学サンタクルーズ校の学生たちでした。

DHMOについて語るサイト“DHMO.org”までも作ってしまい、その後これは秀逸なジョークとして知る人ぞ知るものとなりました。1990年に立ち上げられたそのサイトにおいて、DHMOには次の性質があるとされました。

水酸と呼ばれ、酸性雨の主成分である。
温室効果を引き起こす。
重篤なやけどの原因となりうる。
地形の侵食を引き起こす。
多くの材料の腐食を進行させ、さび付かせる。
電気事故の原因となり、自動車のブレーキの効果を低下させる。
末期がん患者の悪性腫瘍から検出される。
その危険性に反して、DHMOは頻繁に用いられている。

工業用の溶媒、冷媒として用いられる。
原子力発電所で用いられる。
発泡スチロールの製造に用いられる。
防火剤として用いられる。
各種の残酷な動物実験に用いられる。
防虫剤の散布に用いられる。洗浄した後も産物はDHMOによる汚染状態のままである。
各種のジャンクフードや、その他の食品に添加されている。

どうでしょう。ここまで詳細に書かれるとまるで劇物のようです。これほど詳しくその悪性が書かれると、誰もがそれを水とは思わなくなります。

後年、このHPを見た者の中からこれをネタにして誰かをだましてやろうという数々の輩が出てきますが、その後しばらくはこれを使った悪ふざけは特に起こりませんでした。

ところがそれから10年ほども経った2002年、このジョークが復活します。アトランタのあるラジオトーク番組で、アナウンサーがアトランタの水道局が給水システムをチェックした結果、そえが汚染されていることが判明したと発表しました。

その汚染物質は一酸化二水素と表現され、次いでその危険性についての例の学生たちがHPで捏造した説明も加えられ、これを地元のテレビ局もこの「スキャンダル」を取り上げるなど、事態は次第にエスカレートしていきます。

あまりにも話題になり、ついには市の水道局がインタビューに応じることになりましたが、その中で水道局の役人は「法律で許可されている以上の一酸化二水素は入っていない」と答えてしまいました。

さらにその翌年の2003年には、今度は同じアメリカのカリフォルニア州はアリソ・ビエホ市の議会で別の事件が起こりました。ここでも“DHMO.org”に書かれたジョークを真に受けた職員がおり、市議の間でその危険性が取沙汰された結果、ついにはDHMO規制の決議を試みようという事態にまで発展しました。

結局この決議は、直前になってその用語の中に怪しいものがあると気付いた職員がおり、調べた結果、ジョークであることが判明し、大ごとにはならずに済みました。

その後しばらくこのDHMOは話題になりませんでしたが、さらに10年後の2013年に再燃します。このとき事件が起こったのはフロリダ州でした。フロリダ半島の南西部のガルフコースト(リー郡)にあるラジオ局が、水道からDHMOが出ており、水道局は数日水道を止める予定だ、と放送したのです。

実はこれもDHMOのことを知るDJがぶちあげたエイプリルフールのジョーク企画でしたが、この放送によって水道局に問合せが殺到し、町中がパニックになりました。やがて慌てたラジオ局が謝罪し、事態は収束していきましたが、これに関わったとしてDJ二人がその後謹慎処分となりました。

その後DHMOをネタにした大きな事件は起こっていません。しかしそれにしてもこれほどまでに長い間同じジョークが使われ続けるのはその出来があまりにもよいからでしょう。多くの人が惑わされる創作物というものはやはりよく練られており、それを元として実際に事件が起きるほどリアリティがあります。

また、普段我々の生活の周りにあるごく普通のものが少し表現を変えるだけで、まったく別のものにすり替わってしまうということに驚かされたりもします。現実と仮想の間には紙一重の部分もあり、そのツボを押さえれば誰でもこうしたジョークが作れてしまいます。

その違いを見破れずに信じてしまうというのは人の悲しい性(さが)といえるのかもしれませんが、むしろその違いを見破ろうとはせず、信じようと思う心が誰しもにもあるのかもしれません。人間というものの善良性を示すものであって、それは、むしろ高く評価すべきものなのかもしれません。

こうしたジョークがどれほど人をだます効果があるかについては科学者も興味を持つようで、各種の調査も行われています。実はDHMOでもそうした調査が行われており、その結果出された論文名は「人間はいかにだまされやすいか?」でした。

1997年に実施されたこの調査では、被験者に対して冒頭、DHMOについて「水酸の一種であり、常温で液体の物質である」「DHMOは、溶媒や冷媒などによく用いられる」との説明がありました。被験者にとって非日常的な科学技術用語を用いた解説がなされ、次いでその毒性や性質について否定的かつ感情的な言葉で説明が加えられました。

その後、「この物質は法で規制すべきか」と50人に質問をしたところ、43人が賛成してしまったといい、ほかには6人が回答を留保、DHMOが水であることを見抜いたのはたった1人だけだったといいます。

DHMOの説明にはほかに「吸引すると死亡する」というのもあります。実はこれは水死のことであって、水を大量に飲ませると溺死してしまうということを示していますが、「吸引する」と書かれると何か違う事態のように勘違いしてしまいます。

表現を一つ買えるだけで命の危機さえ感じさせることもできる、ということがこの例からもわかります。人はいかに騙されやすい動物かであり、言葉ひとつで人を恐怖に陥れることはそれほど難しいことではないように思えます。

もっとも大量に水を服用すると死ぬ、というのは嘘ではありません。水中毒というものがあり、過剰の水分摂取によって生じる中毒症状です。水を飲み過ぎることによって、血液中のナトリウム濃度が低下し、これによって血症や痙攣を生じ、重症では死亡に至ります。

下痢などで激しい脱水症状を起こしたとき、スポーツドリンクを大量に飲むと水中毒になることがあるほか、特に乳幼児がなりがちだといいます。こうしたときの水補給には、ナトリウム濃度が低すぎこうしたドリンクではなく、経口補水液のほうが良いそうです。覚えておいてください。

さて、カエルの話題に始まり長々と書いてきましたが、最後にDHMOと似たようなジョークをもうひとつ。それは「○○は危険な食べ物」というものです。

以下の説明をお読みください。

犯罪者の98%は○○を食べている。
○○を日常的に食べて育った子供の約半数は、テストが平均点以下である。
暴力的犯罪の多くは、○○を食べてから24時間以内に起きている。
○○は中毒症状を引き起こす。被験者に最初は○○と水を与え、後に水だけを与える実験をすると、2日もしないうちに○○を異常にほしがる。
新生児に○○を与えると、のどをつまらせて苦しがる。
2020年、どの家でも○○を食べるようになり、死亡原因の第1位は癌となった。

私の場合、○○にラーメンを入れてみたいと思います。みなさんは何を入れるでしょうか。

さくら さくら

ソメイヨシノや八重桜が終わり、代わって今はハナミズキがあちこちで満開です。

北アメリカ原産で、おもにアメリカ合衆国東岸の北部から南部諸州まで自生している樹木です。南部のジョージア州などで初春に開花し、徐々に北に移動して春の終わりには最北部のメイン州で開花します。このことから、日本の桜前線とおなじように現地では「ハナミズキ前線」として報道されています。

英語では「犬の木」を意味する“dogwood”と呼ばれています。その語源には諸説あるようですが、硬いこの木を使った串を意味する英古語の“dag”が長い間に“dog”に変じたと言われています。

また、17世紀頃にその樹皮の煮汁をイヌの皮膚病治療に使うことが流行ったためという説があります。ただし、イヌの皮膚病治療に使ったとされる“dogwood”は、同じミズキ科の植物でもセイヨウサンシュユという樹だと考えられていて、ハナミズキとは異なります。

日本における植栽は、1912(明治45)年に当時の東京市が、アメリカ合衆国ワシントンD.C.へサクラ(ソメイヨシノ)を贈り、その返礼として1915(大正4)年に入ってきたのが始まりです。白花の苗木が40本、ピンク花の苗木が20本で、日比谷公園、小石川植物園などに植えられました。

このアメリカから贈られたハナミズキの原木は、第二次世界大戦中にほとんどが伐採されました。「敵国」から贈られたというのが理由でしょう。しかし、東京都世田谷区深沢にある農業高校、都立園芸高等学校に贈られていたものが伐採を免れました。

二本贈られたもののうち一本が現存しており、それ記念して2015(平成27)年4月10日に100年祭が同校で実施されました。これに合わせ、日本郵便とアメリカ郵政庁から記念切手が同時発売されています。

そもそも日本からアメリカへソメイヨシノが送られたきっかけは、同国の地理学者、エリザ・ルアマー・シドモアが、ポトマック河畔に桜並木を作ることを提案したからです。

ナショナルジオグラフィック協会初の女性理事となったこの人物は、72歳で亡くなる1928(昭和3)年までに度々日本を訪れた親日家であり、日本に関する記事や著作をいくつか残しています。1884(明治17)年頃に在横浜米国総領事館に勤務していた兄を訪ねたのが初めての訪日とされ、このとき新渡戸稲造夫妻と知り合い終生交流がありました。

エリザは、この最初の訪日のときに見たサクラに大きな感銘を受けたようです。母国へ帰国する際、首都ワシントンD.C.に日本の桜を植える計画を着想しました。しかし当初は積極的には動かず、14年後の1909(明治42)年、大統領・ウィリアム・タフトの妻、ヘレン・タフトにそのことを打ち明けました。

このファースト・レディが興味を示したことで、エリザの桜並木計画はがぜん現実化に向けて動き出します。タフト婦人のつてで知り合った政府関係者を中心に精力的に働きかけるようになり、話は急速に進んでいきました。

やがてこの計画は、当時ワシントン在住だった日本人科学者、高峰譲吉と当時の駐ニューヨーク日本総領事・水野幸吉の知ることころになりました。さらにこの情報が、当時の東京市長であった衆議院議員、尾崎行雄にもたらされました。

尾崎は先の日露戦争の講和に助力してもらったアメリカへの謝礼を考えていたところへ、水野からこのような計画があることを知らされました。早速、桜を寄贈する意向があることをアメリカの高峰と水野に連絡し、大統領夫人に打診してもらいました。会見が許され、結果、アメリカはこの寄贈の提案を受け入れるに至ります。




こうして東京市から贈られた桜2000本が海を渡り、ポトマック川に植樹されることになりました。ところが港で検疫を実施した農務省の役人が、その苗木に昆虫や線形動物が寄生していることを発見しました。これを聞いたタフト大統領はやむなく焼却命令を出し、贈与の桜はすべて失われてしまいます。

この知らせを聞いた日本側関係者は落胆しましたが、尾崎東京市長は、再度サクラを寄贈することを決意します。高峰博士の助力も受けて、翌年、前回を上回る12種類、3020本の苗木の再度の贈与が決まりました。

こうしてふたたびサクラの苗木が、海を渡ることになりました。日本郵船の貨客船阿波丸乗せられ横浜港を出航後、海路アメリカのシアトルまで運ばれ鉄道を経由して3月26日にワシントンD.C.に到着しました。

ちなみに、この阿波丸は、のちの太平洋戦争中の1945(昭和20)年に、アメリカ海軍の潜水艦クイーンフィッシュの雷撃によって撃沈された船と同じものです。このとき、2000人以上の乗船者のほとんどが死亡しましたが、阿波丸は病院船に準じた保護(安導権、安導券、Safe-Conduct)がアメリカに約束されていました。

両国の懸け橋となった船が撃沈されるという痛ましい事件が起こったことは悲しいことですが、この船によってアメリカにもたらされたサクラは、軍拡競争でぎくしゃくしていたこの当時の日米関係をより良好なものとするきっかけとなりました。

こうして、1912(明治45年、大正元年は7月から)年の3月27日にポトマック川の岸辺で日本からのサクラの贈与の式典が行われました。それから20年以上を経て苗木は多くの花を咲かせる成木となり、1935(昭和10)年には、初の「桜祭り」が開催されました。多くの市民団体の共同支援で開かれたものであり、以後、毎年のイベントになりました。

やがて桜並木はポトマック川辺縁を構成する風景の一つとなりますが、1941(昭和16)年12月8日、日本が真珠湾攻撃を行って太平洋戦争がはじまると、その3日後には4本の桜が切り倒されました。敵国のものと考える心ない人達の仕業でしたが、一方ではサクラに罪はないと考え、これを守ろうとする人たちもありました。

更に被害を受けないようにと、日本から贈られたものということは伏せ「東洋の桜」と称するなどの対策が取られた結果、それ以上の被害はありませんでした。しかし、第二次世界大戦の間、祭りは休止され、それが復活するのは戦後の1947年(昭和22年)のことになります。

ワシントンD.C.や商務省、D.C.委員会の支援によって再開されたこの久々の桜祭りには戦勝気分もあって多くのアメリカ人で賑わいました。

5年後の1954(昭和27)年には、日本から300年物の灯篭が寄贈されました。これは1854年にペリー提督と日米和親条約が調印されたことを記念したものでしたが、以後の桜祭りは、この灯篭の火入れをもって公式に始まることとなりました。

現在、全米桜祭りは、地元ワシントンの経済界の代表者や多くの市民、政府組織などから構成される傘下に多くの組織を持つ企業体(ナショナル・チェリーブロッサム・フェスティバルInc.)によって運営され、毎年内外から150万人以上の人々が訪れます。

今年も例年通り多くの観光客で賑わう予定でしたが、残念ながらコロナウイルス対策のため、予定通りにはいかなかったようです。催しの一部の中止や延期が発表されています。

政界の麒麟児・尾崎行雄

ところで、このポトマック河畔に桜を送った功労者のひとり、尾崎行雄は、その後日本の議会政治の重鎮となり、「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれるようになった人物です。戦後長らく衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録などの数々において日本記録を持っています。

安政5年11月20日(1858年12月24日)、相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)の医家に長男として生まれました。

生家は代々医者を業としており、父、尾崎行正もそれを継いで漢方医をしていましたが、幕末の動乱時にはその渦中に自ら飛び込んでいます。戊辰戦争の際には、土佐藩の板垣退助を慕って官軍に入り、旧武田家臣の子孫たちで構成された「断金隊」に加わって会津戦争を戦い抜きました。隊長・美正貫一郎の討死後は部隊の2代目隊長にも任ぜられています。

維新後は、弾正台(監察・治安維持などを主任務とする官庁)の役人となり、東京で勤務するようになります。息子の行雄は11歳まで又野村で過ごした後、父に従って上京し、番町(現在の麹町)の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾で学びました。さらにその後、父の仕事の関係で高崎に引越し、このとき地元の英学校で英語を学んでいます。

その後父が度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移したのに付き従い、ここでは豊宮崎文庫英学校に入学しました。古典籍を収蔵する豊宮崎文庫(書庫)に隣接して設置された学校で、同地の文教の中心地として子弟教育を行い、この当時としては珍しく英語教育にも力を入れていました。

このように父の行正は英語教育に熱心だったようで、英語を通じて、幅広い国際知識を行雄に得させようとしていたものと思われます。しかし、その後さらに熊本転任が決まったため、三重を離れなければならなくなりました。このため、行雄には東京遊学を許し、弟を同行させて慶應義塾へ入学させました。

当時「日本一の学校」との名声を得ていた慶應義塾に16歳で入学した行雄は、入学するやいなや塾長の福澤諭吉に認められ、十二級の最下級から最上級生となりました。しかし、基礎的な学問に力を入れていたここの教育方針が性に合わず、反駁した論文を書いて退学。世の中で役に立つ学問を納めたいと工学寮(のちの東京大学工学部)に再入学します。

しかしここでも学風の違いを感じて退学。明治12(1879)年には、福沢諭吉に紹介されて新潟新聞に入社し、21歳でここの主筆となりました。ちなみに退学した慶應義塾の塾長である福澤とは喧嘩別れしたわけではなく、その後終生にわたって親交があったようです。

その3年後にはさらに報知新聞の論説委員となり、このころから政治活動も行うようになり、立憲改進党の創立にも参加しました。




25歳のとき、東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出されると、反欧化主義の急先鋒となり、このころ自由党を離反していた後藤象二郎を担ぎ出し、大同団結運動を進めました。

大同団結運動とは、帝国議会開設に備え、自由民権運動各派による過激な若手が行った政治活動であり、メンバーと結託した尾崎は、クーデターを計画し始めました。

後藤を正装させて宮内省に向かわせ、直々に明治天皇と会って、自分たちの考えを伝えることを画策しますが官憲の妨害にあって失敗し、保安条例により東京からの退去処分を受けてしまいます。

このころ号を学堂から愕堂に変えており、これは「道理が引っ込む時勢を愕(おどろ)いた」ためだ、としています。のちに作った会派は、「咢堂会」であり、その後も本名ではなく、この号で呼ばれることが多くなりました。死後、神奈川県に作られた記念館も「尾崎咢堂記念館」になっています。

その後も星亨や林有造ら、旧土佐藩の自由民権運動家らと友好を結んで政治活動を続けますが、表舞台から遠ざかり、やがて三十路を迎えます。このころ、父の行正は伊勢で余生を楽しんでおり、その父を頼ってかつて住んでいた三重へ戻りました。

この父・行正は、維新後に熊本で起こった士族反乱、神風連の乱にも参加するなど、どうも血の気の多い人物だったようです。激しい戦いの中、九死に一生を得る、という経験をしていますが、その際、多くの同志と親交を結びました。

そうした同士がここ三重や畿内一帯に多く在住しており、尾崎はやがてそうした父の縁故を知己とするようになります。多くの支援を得るようになり、再び政界への復帰を目指した尾崎は、1890(明治23)年の第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬して当選。その後も連続25回当選を続け、63年間にも及ぶ長い議員人生を送ることになります。

1898(明治31)年、第1次大隈内閣が成立。尾崎は40歳の若さで文部大臣として入閣。第2次山縣内閣が発足すると、かねてよりの盟友星亨と共に院内総務を任じられました。さらに桂内閣が発足すると、党務執行の常務委員の5人に選ばれるなど飛ぶ鳥を落とす勢いであり、人はこのころから彼のことを「政界の麒麟児」と呼ぶようになりました。

しかし、その後に伊藤博文と対立して離党、同志研究会を組織し、その後も猶興会などを経て立憲政友会に復党するなど、めまぐるしく所属政党を変えました。この間、政府要職には就かず、在野で時の政府を批判し続けました。

1903(明治36)年、東京市長に就任。これは在野で吠えてばかりいては政治は動かないと考えたからでしょう。この当時の東京市の人口は200万に届こうとしており、日本の総人口4500万の中にあっては突出しています。その長になるとういうことは国政への大きな発言力を得るということにほかなりません。

以後、1912(明治45)年まで9年の間の二期、尾崎はその地位にとどまり続けました。しかし相変わらず中央政界での政治活動も続けており、この間、猶興会を改組して又新会を成立させたほか、自身は総裁・西園寺公望の下で再び立憲政友会に復帰するなど、政界の再編に深く関わりました。




このころ、欧米各国の軍備拡張競争の続く中、とくにヨーロッパではきな臭い空気が流れ始めており、これはやがて1914(大正3)年に勃発する第一次世界大戦につながっていくことになります。

日本も日露戦争の勝利後、軍拡を続けており、1910(明治43)年には韓国を併合するなど、軍国主義の道をひたすら歩み始めていました。

明治時代から大正時代にかけてのこの時代、日本の政治は山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文といった、「元老」と呼ばれる維新の立役者によって牛耳られていました。このうち、西園寺を除く8名は倒幕の中心となった薩摩藩・長州藩の出身者で、いわゆる藩閥政治を形成していました。

歴史的にみれば、この藩閥による寡頭体制が日本を軍国主義の道に進ませたと言っても過言ではありません。一方では、軍事体質を批判し、明治憲法による立憲主義思想に基づく民主的な政治を望む動きも台頭してきており、その急先鋒が尾崎ら若手政治家でした。

こうした中、1911(明治44)年8月に発足した第2次西園寺公望内閣では、陸軍大臣だった上原勇作が陸軍の二個師団増設を提言。西園寺は日露戦争後の財政難などを理由にこれを拒否しますが、上原はこれを不服として陸相を辞任してしまいました。

この当時、陸海軍大臣は大将・中将にしかなれない規定があり、数は限られています。その中から適任の陸相を再任できなかった西園寺内閣は、これによって内閣総辞職を余儀なくされてしまいます。

後継内閣は陸軍大将の桂太郎が引継ぎ、第3次桂内閣として発足することとなりますが、前西園寺内閣から引き続き海軍大臣を務めることになった斎藤実が「海軍拡張費用が通らないなら留任しない」と主張するなどあいかわらず右寄りの内閣でした。

これに対して、国民の間からも批判が相次ぎます。桂の就任は、軍備拡張を推し進めようとする黒幕、山縣有朋の意を受けたものだ、とする世論が巻き起こりました。

政界の中でもこうした軍国主義に反発する勢力は増えつつあり、こうした中、議会中心の政治を望んで「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする「憲政擁護運動」が起こりました。その中心人物が立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅であり、二人はお互いに協力しあって憲政擁護会を結成しました。

1913(大正2)年2月5日、議会で政友会と国民党が共同で桂内閣の不信任案を提案しましたが、その提案理由を、尾崎行雄は次のように答えました。

「彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」

「玉座を胸壁とし詔勅を以て弾丸とする」は、天皇の権威をかさに着て自分勝手な政治をしている、という意味であり、この激しい言葉は、桂を怯えさせ、彼は不信任案を避けるため、苦し紛れに5日間の議会停止を命じました。ところが停会を知った国民は怒り、桂を擁護する議員に暴行するという事件が発生しました。

また、過激な憲政擁護派らが上野公園や神田などで桂内閣をあからさまに批判する集会を開き、その集会での演説に興奮した群衆が国会議事堂に押し寄せました。こうした集会は全国で行われ、各地に「咢堂会」が生まれ、尾崎が壇上に立つと聴衆からは「脱帽々々」と喝采が鳴り止まず、しばしば口を開かせなかったといいます。

この結果、衆議院議長大岡育造の説得を受けた桂は内閣総辞職を決断し、これはのちに大正政変と呼ばれました。直後に桂は病に倒れて死去。その死を早めたのは尾崎のこの弾劾演説だったといわれています。

これより少し時を遡りますが、尾崎行雄は新潟新聞の主筆になるのと前後して最初の結婚をしています。お相手は長崎の尊王家の娘だったそうですが、その後この妻を病気で亡くしており、このため再婚をしました。

東京市長になった1903(明治36)年のことであり、この演壇に先立つちょうど10年前のことです。尾崎が45歳で、相手の名は尾崎テオドラといい32歳でした。男爵、尾崎三良の娘ですが、両家は親戚関係にはなく、苗字が同じだったのは全くの偶然です。

テオドラは、日本名、英子といい、尾崎三良がロンドン留学中に、英国人日本語教師ウイリアム・ウィルソンの娘、バサイアと結婚し、その間に生まれました。

しかし、両親は5年間の結婚後に離婚し、三良は妻子を置いて帰国。セオドラは16歳までイギリスで母に育てられました。ロンドンでの母子の生活は楽ではなく、母子宅に下宿していた門野幾之進(のちの貴族院議員、千代田生命保険初代社長)から窮状を聞いた福沢諭吉が同情し、慶應義塾幼稚舎の英語教師の職を紹介するという趣旨で1899(明治32)年に来日しました。

こうして父の母国で働き始めたテオドラでしたが、4年後には教師を辞め、このころ、児童文学者として人気を博していた巌谷小波(いわやさざなみ)のお伽噺をもとに、文筆活動を始めました。そして日本の有名な昔話22編を収録した英文の物語集“Japanese Fairy Tales”を出版しました。

この作品は欧米でヒットし、国内でも高く評価されたため、別の執筆なども舞い込むようになり、日本の女性について書いたエッセーなども書くようになりました。この中で、西洋社会で誤解されがちな日本の女性について論じるなど、女性解放活動の一端も担うようになります。

こうした活動から、日本の社交界でも人気を集めるようになり、日露戦争の取材に来たタイムズ特派員とともに韓国を訪れるなど、さらにその活動の場を広げました。

尾崎と出会ったのはちょうどこのころです。そのきっかけは郵便配達の誤配だったようで、尾崎という同じ苗字のおかげで知り合った二人は急速に親しくなり、1905年(明治38年)に結婚しました。

日本の桜を米国の首府ワシントンへ贈ろうというプランが持ち上がったのは、これから4年後のことであり、想像ですが、その企画進行にはテオドラも関わったのではないでしょうか。

親日家でこのころ度々日本を訪れていたエリザ・シドモアが、尾崎夫妻と会合を重ねていたとの記録はみあたりませんが、そうした縁は当然あったかと思われます。



その後尾崎は東京市長を辞任。上の桂内閣弾劾演説を行なった翌年の1913年(大正2年)には、さらにシーメンス事件(日本海軍高官の収賄事件)で山本内閣弾劾演説を行なって山本権兵衛を辞職に追い込みました。そして、その後成立した大隈内閣では司法大臣に就任して、中央政界に復帰しました。

第1次世界大戦後はヨーロッパを視察し、帰国後、「戦争は勝っても負けても悲惨な状況をもたらす」として、その後は平和主義・国際主義による世界改造の必要性を説くようになります。また、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動を支援しました。

さらに、軍備制限論を掲げ、軍縮を説き全国を遊説するなど、軍縮推進運動、治安維持法反対運動を展開し、一貫して軍国化に抵抗する姿勢を示しました。その一方で、議会制民主主義を擁護する姿勢を示しましたが、軍部にあからさまに反旗を翻すような議員が少ない中、その主張によって政界では次第に孤立していきます。

このころの所属は自らが立ち上げた憲政会でしたが、この中でも孤立し、離党するとついに無所属議員となり、その後30年あまりを無所属で通しました。無所属になったことは政界での出世の妨げとなり、閣僚経験は2度の大隈内閣で経験したのみに止まり、総理大臣はおろか衆議院議長や副議長、国会での常任委員長になることも終にありませんでした

それでも尾崎は単身で反戦に挑みました。1931(昭和6)年、カーネギー財団に招かれ米国に滞在している時、満州事変勃発の報を聞いた尾崎は、「日本は間違っている」と主張。これを既に軍部に感化されてしまっている国民は受け入れず、逆に「国賊・尾崎を殺せ!」という声も出るようになり、日本はさらに軍国主義の道を進んでいきます。

そうした空気の中でも尾崎は主張を曲げることなく、6年後の1936(昭和12)年には、議会で辞世の句を懐に決死の軍部批判を行ないました。「(楠)正成が敵に臨める心もて我れは立つなり演壇の上」と時世の句を詠み(正成は圧倒的な武力の差のある足利尊氏らに挑み敗れた)、2時間におよんだこの演説を新聞各紙は全面を埋めて掲げたといいます。

しかし、近衛内閣が誕生し日中戦争が泥沼化へ入り、さらに戦争下での軍部の方針を追認し支える大政翼賛会が結成され、日独伊の三国同盟を経て東條英機が内閣を組閣すると、尾崎は議会政治に見切りを付け山荘に篭り、もはやあまり上京もしなくなりました。

これより少し前、最愛の妻、英子は肉腫病を患うところとなっていました。医療先進国のアメリカにやって手術を受けさせましたが、その甲斐もなく、1932(昭和7)年に行雄らと滞在していたロンドンで逝去。61歳でした。

行雄との間には、清香、品江、行輝、雪香の3女1男があり、雪香は旧陸奥中村藩主の相馬子爵家32代当主で、宮内庁事務官の相馬恵胤(やすたね)に嫁ぎました。

ちなみに三女の雪香は後年、67歳になって、この当時のインドシナ難民を支援するために「難民を助ける会」を設立(1979(昭和54)年)しており、この会は難民救済の国際組織の草分けとして有名です。1997(平成9)年には、同会が主要メンバーである地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)がノーベル平和賞を受賞しています。

その後、日本は泥沼の太平洋戦争に突入していきますが、このころ84歳になっていた尾崎は、翼賛選挙にも反対し東条首相に公開質問状を送るなど、相変わらず反体制派の立場を貫きました(1942(昭和17)年)。同年、選挙中の応援演説が元で、不敬罪で起訴され巣鴨拘置所に入れられましたが、その2年後には、大審院で無罪判決受けています。

やがて1945(昭和20)年に終戦。多くの人が戦禍の後遺症に苦しむ中、尾崎は同年12月に、全世界の協調と世界平和の実現を願い、「世界連邦建設に関する決議案」を議会に提出。7年後の1952(昭和27)年にはそうした功績から、衆議院より憲政功労者として表彰されました。

このころより、体調を崩して入院していますが、病床より立候補して当選。これにより第1回より連続していた当選の25回目を果たしました。しかし翌53年4月の、第26回総選挙においては初めて落選。それでも、その名声は衰えることなく、同年7月には衆議院名誉議員に10月には東京都名誉都民(第1号)となりました。

1954(昭和29)年、直腸がんによる栄養障害と老衰のため慶應病院に入院。10月6日、逗子の自宅で永眠。95歳でした。尾崎が息を引き取った家は、1927(昭和2)年に彼が70歳のとき建てた家で、「風雲閣」と自らが名付けていました。終戦直後には、日本の進むべき道について、教えを請う人たちで溢れていたそうです。

今は解体され、その地にある披露山公園の駐車場には尾崎行雄記念碑が建てられており、そこには「人生の本舞台は将来にあり」と刻まれています。

あまり知られていませんが、尾崎はクリスチャンであり、1875(明治8)年、17歳のときに、英語の教師だったカナダ人宣教師から洗礼を受けています。妻のセオドアもイギリス育ちでありクリスチャンだったと思われます。

尾崎自身、子供のころから英語に慣れ親しんでおり、妻もハーフということで、かなり英語は堪能だったのではないでしょうか。1950(昭和25)年には、英語国語化論を提唱したこともあり、同年、92歳という高齢にもかかわらず2ヵ月に渡って訪米しています。

100歳になったらワシントンで余生を過ごしたいと語っていたといいますから、若いころに自分が橋渡しをしてアメリカに渡ったサクラに親しみを持っていたのかもしれません。ワシントンD.C.のポトマック川にある美しい桜並木は、尾崎が生きていればその美しい姿で彼を歓迎してくれたに違いありません。



化学起業家の先駆け 高峰譲吉

さて、尾崎行雄の話はこれくらいにして、その尾崎とともにサクラのアメリカへの寄贈に尽力し、日米友好の橋渡しを果たしたもうひとりの立役者、高峰譲吉のことにも触れておきましょう。

高峰は、幕末の1854(嘉永6)年に越中国高岡(現:富山県高岡市)の御馬出町(おんまだしまち)の漢方医で加賀藩御典医の高峰精一の長男として生まれました。その生地は、山町筋(やまちょうすじ)と呼ばれ、今も伝統的建造物が数多く残る古い商人町で、国の重要伝統的建造物群保存地区として指定されています。

母、幸子は造り酒屋の娘ですが、父の塩屋弥右衛門は町算用聞並という役職を藩からもらっていました。当時の高岡の町では、町年寄、町算用聞に次ぐ重要な役職で、由緒ある町人から選任された町役人でもありました。従って、御典医である高峰家とは相応のつり合いがとれた家同士といえます。

高峰は、才気あふれる子供だったようで、幼いころから外国語と科学への才能を見せ、父からも西洋科学への探求を薦められていたようです。

1865(慶応元)年、12歳で加賀藩から選ばれて長崎の致遠館に留学して海外の科学に触れたのを最初に、15歳で京都の兵学塾に学び、続いて大阪の緒方塾(適塾)に入学。翌年16歳のとき大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校に学び、工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を首席で卒業しています。

おそらく地元では神童と呼ばれていたことでしょう。その後もエリートコースを進み続け、1880(明治13)年からはイギリスのグラスゴー大学への3年間の留学を経て、農商務省に入省。1884(明治17)年にアメリカ合衆国ニューオリンズで開かれた万国工業博覧会に事務官として派遣されました。

そこで出会ったのが後の妻となるキャロライン・ヒッチで、父親は南北戦争の北軍義勇兵として歩兵隊長を務めたのち、税務局勤務 書店員、部屋貸しなど職を転々としていました。

アメリカがイギリスに綿を初めて輸出した百周年を記念して開催されたこの博覧会では、ヒッチ家で若い博覧会スタッフの打ち上げパーティが開かれ、これに譲吉が出席したことが縁となりました。二人は瞬く間に恋に落ち、婚約。これから3年後の1887年(明治20年)に結婚しました。

帰国後の1886(明治19)年、高峰は専売特許局局長代理となり、欧米視察中の局長高橋是清の留守を預かって特許制度の整備に尽力します。この年、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立していますが、この会社は、かねてより高峰が米国で特許出願中であった、ウイスキーの醸造に日本の麹を使用するというアイデアを実現するための企業でした。

元々、酒好きだった高峰博は、スコッチ・ウイスキーの醸造に興味を持っていました。清酒が醸造過程で米に含まれるデンプンを麹で糖化させるように、ウイスキーも大麦に含まれるデンプンを麦芽(モルト)の酵素によって糖化させます。

ところが、ウイスキーを醸造する過程では、この麦芽をつくるのにたいへんな手間がかかります。そこで高峰は、これを麹で代用できないかと考え、研究を重ねた結果、従来より強力なデンプンの分解力を発揮する「高峰式元麹改良法」を完成させ、特許出願しました。

この画期的な発明は、当時のアメリカにおけるウイスキー醸造で90%ものシェアを持っていた「ウイスキートラスト」の社長の目に留まり、アメリカでビジネスをしないか、と誘われました。

高峰はこれをチャンスととらえ、東京人造肥料会社の株主であった渋沢栄一に相談しました。ところが、渋沢は海のものとも山のものともわからないようなそんな話に乗るのは無謀だとして、渡米を止めるようにいいます。

この言葉により、高峰もいったん思いとどまりますが、このころ渋沢とともに商法講習所(のちの一橋大学)の設立のために働いていた益田孝(後の三井物産の設立メンバー)の強い勧めもあって、渡米を決意するに至ります。

1890(明治23)年、再びアメリカに渡った高峰はシカゴに向かい、ここで「高峰式元麹改良法」を利用したウイスキー醸造の開発に取り組みました。そして苦心の末その製法を確立。シカゴ南西部にあるピオリヤに完成した新工場で大規模な生産を始めました。

この頃ピオリアには22カ所の蒸留酒製造所と数多くの醸造所があり、アルコールに課される内国税収入は全米のどこよりも多く、禁酒法時代には主要な密造地域になったほどです。

ところが、麹を利用したこの醸造法を使用することで、従来のモルトを使った醸造法でウイスキーを製造する職人たちが失職するところとなり、地元から大きな反発を浴びます。高峰が建てた工場のまわりをデモ隊が取り囲み、夜間の外出もままならない危険な状況が続きました。

そこで高峰は、それまでのモルト職人を従来より高い賃金で雇うことを提案し、いったんは和解しました。ところが、今度は、従来のモルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた地元の他の醸造所の所有者達が妨害を始めました。

新しい醸造法での酒造りを止めさせようと、夜間に譲吉の家に武装して侵入し、一家に危害を加えようとする者まで現われました。しかし、高峰の家族は隠れていたので見つからず、侵入した賊たちは、隣接する研究所に火を放ってこれを全焼させました。

さらには、製麦業者によるロビー活動などもあり、結局、高峰の会社は、アメリカ政府から解散命令を受ける事態となってしまいます。

その後、高峰一家はニューヨークへ移り住み、セントラルパークの近くのビルの半地下に、事務所兼研究所を開き、新たなビジネスを模索し始めました。そしてある日、新たな発見をします。

ウイスキー製造で排除された麹を水に浸し、アルコールを加えたあとに出来上がったデンプンを粉末にしたところ、それまでだれもが経験したことのない強力な酵素作用を発見したのです。

1894(明治27)年に発見されたアミラーゼの一種であるこの酵素に、高峰は、自らの名である”タカ”をつけ、「タカジアスターゼ」と名付けました。今も胃腸薬や消化剤として世界で広く使われているこの薬品は、その後の酵素化学の発展に大きな影響を与え高く評価されています。



しかし高峰の発明はこれにとどまりませんでした。かつて彼が居住したピオリアは当時アメリカでも有数の豚肉の加工製品の産地で、ブタ以外のウシも含めて多数の食肉処理場が存在していました。そこで、高峰はこのとき廃棄される家畜の内臓物に着目し、これからアドレナリンを抽出する研究をはじめました。

アドレナリンは1895(明治28)年にナポレオン・ツィブルスキによって初めて発見された物質で、彼が動物の副腎から抽出したものには血圧を上げる効果が見られました。しかし、純粋のアドレナリンをどうやって抽出するかが問題とされ、医薬品として使用するためには安定した抽出法の確率が求められていました。

高峰はこの難題に臨み、1900(明治33)年、についにウシの副腎からアドレナリンの結晶を抽出することに成功します。これは世界で初めてホルモン(体内の特定の器官で合成・分泌され、生体中の機能を発現、正常な状態を維持する)を抽出した例であり、タカジアスターゼと同様にこちらもその後の医学の発展に大きく貢献しました。

現在、世界中で100年以上利用されている薬は3つしかないといわれています。

それは、タカジアスターゼ、アドレナリン、アスピリンの3つであり、このうちの2つ、タカジアスターゼとアドレナリンが高峰の功績ということになります。とくに、アドレナリンは心停止時に用いたり、アナフィラキシーショックや敗血症に対する血管収縮薬、気管支喘息発作時の気管支拡張薬として用いられるなど、医療現場ではなくてはならないものです。

タカジアスターゼとアドレナリンの成功により、高峰は莫大な収入を得るところとなり、アメリカの政財界の著名人の知己も増え、交流も得るようになりました。

この頃、日本の極東での立場は危ういものでした。ロシアが極東へと進出し、日本との朝鮮半島と満州の権益をめぐる争いが原因となって、1904(明治37)年、ついに日本はロシアと戦争状態に突入します。日露戦争です。

当初より戦費が不足していた日本は、日本海海戦で勝利を得たものの、戦争が長引くことを恐れ、国民の間に「戦勝」の気分が続いているうちにできるだけ早い終戦を望んでいました。このため、仲裁をしてくれる国を探しており、その第一候補が米国でした。

ところが、当事のアメリカの知識人のほとんどは日本については何も知らず、どちらかといえばロシアびいきでした。このため、当事日銀総裁であった高橋是清と、ハーバード大学ロースクールで法律を学んだことのある貴族院議員であった金子堅太郎が渡米し、同大学のOBとして面識のあったルーズベルト大統領と直接交渉することになりました。

その彼らを陰で支えたのが、高峰でした。私財を投げ打ってアメリカ世論を日本の味方につけるべく奔走し、日本のことを知らないアメリカ人に日本の文化を伝えるべく、各地で講演を行い、新聞に記事を掲載しました。また、ニューヨーク郊外に「松楓殿」を開いて日米親善を図りました。

講演の際は常に羽織袴姿でキャロライン夫人を伴っていたといい、こうした努力の結果、米国世論は次第に日本有利となり、1905(明治38)年、ポーツマスで日露講和条約(ポーツマス条約)が調印され、日露戦争は終結しました。

その後も、ジャパン・ソサエティの設立(1907(明治39)年設立)に尽力し、1911(明治43)年には、国際親善の場とするためとして、ニューヨークのハドソン河畔にアパートメントを購入しています。

同じくニューヨークにあるポトマック河畔にサクラの並木を作りたいという、エリザ・シドモアからの打診があったのがこのころのことです。それから5年後の1912年(明治45)年にポトマック川の岸辺で日本からのサクラの贈与が実現し、記念式典が行われました。

高峰はそれから10年後の1922(大正11)年7月22日、腎臓炎のためニューヨークにて死去しました。67歳没。この当時、日本人は帰化不能とされていたため、当時の移民法により生涯アメリカの市民権は得られませんでした。しかしその亡骸はワシントンDCのウッドローン墓地に葬られました。ちなみにこの墓地には野口英世の墓もあります。

高峰の没後、妻のキャロラインは高峰が保有していたシカゴの地所を処分し、4年後にアリゾナのランチハンド(牧場労働者、カウボーイ)だった歳若い男性と再婚しました。その後、農場を次々と購入し大牧場主となり、地元のメキシコ人労働者のための福利厚生事業を行うなどの慈善活動を行いました。

88歳まで生き、1954(昭和29)年に死去。生前、農場で働くメキシコ人労働者のために建設したカトリック教会に夫のチャールズともに葬られています。

高峰とキャロラインの間には二人の男子があり、長男・譲吉II(ジューキチ・ジュニア)は、名門イエール大学卒業後、ドイツに化学留学。パリのパスツール研究所でも学び、帰国後、亡くなった父親が設立した会社の代表となりましたが、41歳でニューヨークのホテルの14階から転落死しました。

以前にも放火されて研究所が全焼しているという事件があり、母のキャロラインは、高峰が発明した麹によるウィスキー醸造の反対派による殺人と主張しましたが、警察は飲酒による事故死と断定しました。

もう一人の子、次男のエーベン・孝も学業に秀で、イエール大学卒業にニューヨークで結婚しましたが、35歳のとき離婚。兄の没後は、父の事業を引き継ぎ、さらに発展させました。

日本生まれだったため、父と同じく米市民権が得られず、第二次大戦勃発では財産を没収される可能性がありましたが特例で許され、ペニシリン製造などで軍を支援しました。

1943(昭和18)年にイギリス女性と再婚、10年後の1953(昭和28)年に63歳で亡くなりました。没後、妻が事業を売却し、財産の大半は散逸しましたが、一部がサンフランシスコ市に寄付され、この資金を使って、ゴールデン・ゲート・パークに「高峰庭園」が造られました。これはゴールデンゲート・ブリッジの近くに今もある公園です。

高峰が発明したアドレナリンは、世界中で高く評価されましたが、日本でも高い評価を受け、1912年(大正元年)には帝国学士院賞を受賞しており、これに先立つ1899年(明治32年)にもタカジアスターゼ抽出成功が評価されて、東京帝国大学から名誉工学博士号を授与されています。



高峰が残したもうひとつの遺産 ~ 宇奈月温泉

実は、高峰はキャロラインと不仲だったといわれており、このため、晩年はアメリカよりも日本にいることが多かったようです。この名誉博士号を授与された年、日本における「タカジアスターゼ」の独占販売権を持つ会社の初代社長に就任しており、この会社と高峰は販売許諾契約を結び、日本・中国・朝鮮での独占販売を目指していました。

この会社こそ、「三共」であり、その後第一製薬と合併し、現在は「第一三共」となっています。武田薬品工業に次ぐ業界二位の大会社であり、世界的にも有数の製薬会社です。

また、高峰はアメリカで開発されたアルミニウム製造技術を用い、日本初のアルミニウム製造事業を推進することを目論んでいました。このあたりが普通の科学者と違うところで、学問一筋の研究バカではなく、起業家であることが彼の本質であったようです。

1919(大正8)年に設立された東洋アルミナムは、それを具現化したもののひとつで、アルミ精錬に必要な電源確保のため、地元の富山県にある黒部川に発電所を建設することを目的としていました。

同社は1920(大正9)年に黒部川の水利権を獲得し、1921(大正10)年に子会社・黒部鉄道を設立。開発の足がかりとして国鉄北陸本線・三日市駅(現・あいの風とやま鉄道黒部駅)から黒部川に沿って鉄道路線を敷設していき、1922(大正11)年には下立駅まで延伸されました。

この鉄道は現在も「富山地方鉄道」として運営されており、富山市内の電鉄富山駅を発し、宇奈月温泉駅に至る53.3kmの路線です。下立駅は終点の宇奈月温泉駅から4つ手前の駅で現在は無人駅となっています。

同年、東洋アルミナムは五大電力の一角・日本電力の傘下に収められ、それ以降黒部川の開発は日本電力の主体のもと行われていきます。

その第一弾として柳河原発電所の建設工事が1924(大正13)年に着手され、1927(昭和2)年に完成。柳河原発電所は現在の宇奈月温泉の4kmほど下流にある発電所で、ダムでできた水位落差により発電を行うものではなく、主に黒部川の急流を利用した発電所だったようです。

これと並行して下立駅から桃原駅(のちの宇奈月駅、現:宇奈月温泉駅)およびそれ以南の工事専用鉄道路線(現:黒部峡谷鉄道の本線)が敷設されました。

日本電力は柳河原発電所完成後、さらに開発の手を上流へと伸ばし、小屋平ダムおよび黒部川第二発電所の建設を目指して1929(昭和4)年に鉄道路線をさらに小屋平駅まで延伸しました。

ちなみに、この第二発電所に続いて、その後第三、第四発電所などが建設されますが、黒部川第一発電所というものはありません。「第二」の意味は、上の柳河原発電所を最初のものとし、黒部川に二番目にできた発電所、というほどの意味だったようです。

こうして小屋平ダムの建設の建設が始まりましたが、この当時は不況下にあって、同年11月には工事の一時中断を余儀なくされてしまいます。

ところが、1932(昭和7)年になると一転して景気が回復し、電力が不足する傾向となったことから、1933(昭和8)年6月にダムの建設工事が再開されました。

工事を請け負ったのは大林組(ダム・取水口・沈砂池を担当)、間組(導水路トンネル上流側を担当)、鉄道工業(導水路トンネル下流側を担当)、大倉土木(現:大成建設、水槽・発電所を担当)の4社です。

既に鉄道路線が小屋平駅まで至っていたこともあって工事は順調に進み、1936(昭和11)年には小屋平ダムが完成。黒部川第二発電所は同年10月30日から運転を開始し、1937(昭和12)年6月からフル稼働に入りました。

日本電力は建設工事と並行して営業活動にも力を入れており、富山平野にいくつもの大工場を誘致し、電力の需要確保に努めました。

その後も開発の手を上流へと伸ばし、黒部川第三発電所と仙人谷ダムを完成させましたが、発電所及び仙人谷ダムの建設に伴って行なわれたトンネル工事は難航しました。1940(昭和15)年に出版された吉村昭の小説「高熱隧道」でもその難工事ぶりが伝えられています。

摂氏160度に達する高熱の岩盤を掘り進むという過酷なもので、劣悪な労働環境、地熱によるダイナマイトの自然発火事故、物資輸送中の峡谷での転落事故、泡雪崩による宿舎の全壊事故などの被害が重なり、全工区で朝鮮人労働者を含む300人以上が犠牲となっています。

この難工事が行われている間、日本政府は電気事業の国家管理下を目指して「日本発送電」を1939(昭和14)年に設立。日本電力は同社への電力設備の出資によって電力会社としての歴史に幕を下ろしました。

戦後になってこの日本発送電はさらに分割・民営化され、日本電力が手がけた黒部川の発電所群は、これを関西電力が継承しました。この関西電力が1963(昭和38)年に完成させたダムこそが、「黒部ダム」です。

併設された発電所が黒部川第四発電所であることから、黒四ダム(くろよんダム)の愛称でも親しまれています。その竣工により、黒部川の豊富な水資源はよりいっそう有効活用できるようになりました。

黒部ダムが建設された地点は、これより下流地点よりもはるかに水量が多く、水力発電所設置に適した場所であることは、大正時代から知られていました。ただ、第二次世界大戦などもあり、その開発はその直下流の仙人谷ダムおよび黒部川第三発電所までにとどまっていました。

戦後、日本の電力需要のほとんどは水力発電所により賄われていましたが、渇水になると各地で計画停電が相次ぎました。関西地方では、1951(昭和26)年の秋に深刻な電力不足に陥り、一般家庭で週3日も休電日が設けられたりしていましたが、休電日でない日でも連日のように停電していました。

この状況は、高度経済成長期を迎えた昭和30年代に入っても同じであり、工場などでは週2日、一般家庭では週3日ほどの使用制限が行なわれていました。

こうした事態を受けて立ち上がったのが関西電力社長の太田垣士郎で、太田は1956(昭和31)年、黒部ダム建設事業の復活を宣言します。戦前に調査を行い、基本的な設計まで終了してはいたものの、太平洋戦争への突入によってお蔵入りとなっていた計画でした。

しかし黒部ダム建設工事現場はあまりにも奥地にありました。初期の工事は建設材料を徒歩や馬やヘリコプターで輸送するというもので、作業ははかどらず困難を極めました。このためダム予定地まで大町トンネルを掘ることを決めたものの、トンネル内の破砕帯から大量の冷水が噴出し、これもまた大変な難工事となりました。

このため別に水抜きトンネルを掘り、薬剤とコンクリートで固めながら掘り進めるという当時では最新鋭の技術(これをグラウチングという)が導入され、その結果9ヶ月で破砕帯を突破してトンネルが貫通、工期を短縮することに成功しました。

こうして、貯水量2億立方m(東京ドーム160杯分)、高さ(堤高)186 m、幅(堤頂長)492 mという巨大ダムが完成しました。現在でも日本で最も堤高の高いダムで、富山県で最も高い構築物でもあります。また、この黒部ダム完成により、ダム湖百選にも選定される北陸地方屈指の人造湖「黒部湖」が形成されました。

黒部ダムは世界的に見ても大規模なダムとなり、周辺は中部山岳国立公園でもあることから、立山黒部アルペンルートのハイライトのひとつとして、今も多くの観光客が訪れています。

こうした観光資源と、電源開発の歴史を背景として1923(大正12)年に開湯されたのが「宇奈月温泉」です。

高峰譲吉が設立した東洋アルミナムは、資材運搬と湯治客も利用できる一般営業を目的とする黒部鉄道株式会社が設立された(1921(大正10)年)ことは先にも述べたとおりです。

この会社は、元々は原始林に囲まれ一部の人にしか知られていなかった未開の地、桃原(ももはら)を温泉地として開発して利益をあげる、温泉客の鉄道利用で収入を得る、さらに電源開発工事作業員の福利厚生施設ともする、という一石三鳥を狙ったものでした。

「宇奈月」の地名は、当時の日本電力社長・山岡順太郎が名付け親とされています。この地の上流に不動滝という滝があり、ある猟師が山中に入ったところ、滝壺で黄金色に輝く聖徳太子像を発見し、「ほほう!」と大きく「うなづいた」という伝説をもとにしたようです。

そもそも日本電力は第一次世界大戦による好景気による関西地方の工業化都市化に伴う電力不足を補うために設立された会社です。開発の進んでいない北陸地方の河川に水力発電所を設置し高圧電線によって関東・中部・関西方面の大規模需要家へ電力を供給することを目的としており、その後、高峰が設立した東洋アルミナムを併合するに至ります。

上述のとおり高峰は、日本最初のアルミ精錬所を計画し、黒部川で電源開発を進めようとしていましたが、このとき、その中心となって計画を推進してくれる若い人材を探していました。

あちこちを当った結果、このころ逓信省に勤めていた東大土木工学科出身の電気局技師・山田胖(やまだ ゆたか)を探し当て、逓信省から引き抜いて自分たちの会社の事業に当たらせることにしました。福岡県出身の山田は31歳でした。

時は1917(大正6)年。こうして人員体制を整えたその5年後の1922(大正11)年には東洋アルミナムの関連会社として黒部温泉会社を設立しました。その名義で桃源より下流の旧愛本温泉の権利と建物を買い取り、また、黒部川支流の黒薙川沿いの黒薙温泉の財産と権利を買収するなどして地域一帯の土地買収を始めました。

しかし同年7月に 社主の高峰譲吉が死去したことから、これ以降、東洋アルミナムによる黒部川での温泉事業は縮小を余儀なくされます。結局、黒部温泉会社による桃原の土地買収は計画の半分の2万5000坪で終結し、以後、黒部温泉会社と東洋アルミナムは、県内の旅館や料亭などに自社が購入した土地を斡旋し始めました。

1923(大正12)年には、山田の発案により、黒部川の水利開発を行うための資材運搬を主な目的とした黒部鉄道(現・富山地方鉄道)の敷設が始まり、この鉄道はその後旅客も乗せるようになりました。

また、黒部市中心部にあった三日市駅(1969(昭和44)年廃止)と宇奈月を結ぶ鉄道路線が開通すると、これにより奥地の宇奈月で温泉宿を営もうとする者が出始めます。

逓信省の土木技術者であった山田胖は、ここでその手腕を発揮するようになります。もともとは電源開発やそのための鉄道敷設を担当する技師として招かれたわけですが、温泉開発にも関わるようになり、上流の黒薙温泉から新たに引湯管の設置を企画しました。これは旧愛本温泉の古い引湯樋に替わるもので松材をくりぬいたパイプを使ったものでした。

従来の引湯樋はU字型の形状でここを温泉が自然に流下するだけのものでしたが、新しい引湯管は密閉されており、温泉が自噴する圧力を保ったまま引湯することができます。このため流れが速く、黒薙の泉源から2時間ほどで湯が届くとともに、パイプの中を通るため外気に触れることがなく、冬でも55℃の温度が確保されることとなりました。

現在も宇奈月温泉の源泉は同様の引湯管を使って黒薙温泉から7kmにも及ぶ距離を運んでいます(但し、パイプは合成化)。源泉段階で摂氏92〜98度と非常に高温であり、宇奈月温泉街に到達した時点でも摂氏63度もあるため、浴用として多少水を混ぜて運用されているようです。とはいえ元の泉質を損なうものではなく、湯量も豊富であるため人気があります。

1924(大正13)年、黒部温泉会社は旧愛本温泉の建物を移築し、宇奈月館(現宇奈月グランドホテルの前身)として新たに運用を開始しました。それとともに、宇奈月で新たに旅館を経営しようとする者には、自社が購入した土地と温泉を斡旋し、その際に3万円(現在の価値で600万円ほど)を融資しました。

この結果、宇奈月館以外にも、延対寺別館、宇奈月富山館、も原館、河内屋、などの温泉宿が開かれ、これらを含めた十数件の旅館のほかにみやげ物店などもできて、温泉街としての体裁が整っていきました。

黒部峡谷の入り口にあたるこの宇奈月温泉には、現在、これ以上の数のホテルや旅館、商店や土産物店が多数立ち並んでいます。宇奈月温泉駅から東南に進めば、そこには黒部峡谷鉄道宇奈月駅があり、黒部峡谷を訪ねる多くの観光客がここを利用します。

1925(大正14)年、 日本電力が黒部水力株式会社を併合しました。その3年後の1928(昭和3)年には上の柳河原発電所が完成し、これをもって自分の役割を終えたと感じた山田胖は黒部を去りました。電源開発の調査を始めてから11年目のことでした。

山田はのちに東京都西部の奥多摩地区を中心に石灰の採掘、販売を行う太平洋セメント系列の企業、企奥多摩工業株式会社の社主などを務めました。

その後も宇奈月温泉は発展を続け、富山県内の温泉地としては最大規模のものに成長し続けましたが、戦後の1946(昭和21)年5月21日 には、 共同浴場の近くにあった土木作業場より出火し、川をふさいだため大火となって、温泉街のほとんどを焼失しました。

しかし、当時の日本発送電や下流の内山村の援助により復興し、1953(昭和28)年には、 関西電力の黒部専用軌道を使った「トロッコ電車」の運行が実現しました。一般観光客に向けての利用が行われるようになった結果客足が伸び、温泉街は戦前にも増して活気を呈するようになりました。

1956(昭和31)年には宇奈月温泉駅南側に宇奈月温泉スキー場(現・宇奈月スノーパーク)がオープンするなど冬でも集客できる施設ができ、また、1958(昭和33)年10月には昭和天皇が富山県国体開催に合わせて行幸したことなどから、知名度もあがりました。

それから7年後の1963(昭和38)年、山田胖は久々に宇奈月温泉を再訪しています。このとき「40年ぶりに来た。宇奈月の発展はめざましい。私の働いていたころがしのばれる」と語りましたが、この翌年の1964(昭和39)年に78歳でこの世を去っています。

山田胖は、電源開発に尽力したほか、当時無人の地だった現在の宇奈月温泉に鉄道を敷設、黒薙からの引湯に成功し、温泉地として発展する基礎を築いた人物として地元では今も語り継がれています。

現在、黒部峡谷鉄道宇奈月駅の南側には、黒部の電源開発の歴史についての展示のある、関西電力黒部川電気記念館が建てられています。2019年には、この山田を偲ぶ集いが黒部川電気記念館で開かれ、関係者が「黒部開発の恩人」として彼を顕彰しています。

また、その敷地横の独楽園には山田の銅像があり、発展する宇奈月温泉と黒部峡谷を見つめています。宇奈月町長らが中心となり、1958(昭和33)年11月「黒部開発の恩人・山田胖翁之像」として建てたものです。

ただ、黒部の開発の端緒を開いた高峰譲吉の銅像はここにはありません。それは、彼の故郷である金沢の「高峰公園」内にあります。高峰の成家の跡地に整備されたもので、高峰譲吉の顕彰碑と銅像が建っています。

また、1950(昭和25)年には、高峰譲吉博士顕彰会が金沢市に結成されており、個人賞である高峰賞は地元の優れた学生の勉学を助成し、平成30年度(第68回)までの受賞者は874名に上り各界で活躍しています。顕彰会の事業費は第一三共からの交付金と金沢市の補助金をもって賄われています。

それでは、尾崎行雄の像はどうかといえば、こちらは霞が関の国会前庭の敷地内にある憲政記念館横に建立されています。憲政記念館は1960(昭和35)年に建てられた「尾崎記念会館」を母体に1970(昭和45)年の日本における議会政治80周年を記念して設立され、2年後の1972(昭和47)年に開館しました。

敷地内にある時計塔は、尾崎記念会館建設時に建てられたもので、その三面塔星型は、立法・行政・司法の三権分立を象徴したものです。塔の高さは、ことわざの「百尺竿頭一歩を進む」にちなんで、百尺(30.3m)よりも高くした31.5mに設定されているそうです。努力の上にさらに努力して向上する、という意味を持たせたとか。

今日のこの話を読み、よし、私もより一層の努力をして生きていこう!と決意された方、一度はここを訪れてみてはいかがでしょうか。