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「飛行器」のはなし


今日17日は、1903年(明治36年)にライト兄弟による初の飛行機の動力飛行が行われた日として知られています。この初飛行は飛行時間59秒でしかありませんでしたが、その2年後には33分17秒の飛行時間を記録し、その後各国の開発者により飛行機はめざましいスピードで発展していきました。

ところが、日本ではこれに先立つことの1889年(明治22年)に、二宮忠八という人物が既に「飛行器」を考案していました。その翌年には、ゴム動力による模型の「烏(からす)型飛行器」を製作しており、その成果を踏まえて軍用としての「飛行器」の実用化を訴え、軍部へ二度にわたる申請を行っています。

しかし、軍部はそんなものは夢物語であると一蹴し、その主旨は理解されなかったため、以後、二宮忠八は独自に人間が乗れる実機の開発を目指す道を選ぶことにしました。

この二宮忠八という人は、伊予国宇和郡(現・愛媛県八幡浜市矢野町)出身の裕福な商家の生まれでしたが、父が事業に失敗したため没落。忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働きましたが、本来勉強好きでそのかたわら、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていたといいます。

収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したといい、この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれます。

その後、錦絵に描かれた気球にも空への憧れをかきたてられ、気球を付けた凧を作ったこともあった彼は、これをもとに飛行器を考案するようになったといいます。

軍部からはけんもほろろにあしらわれた忠八でしたが、何事につけ計画的な性格だったらしく、その夢を実現するためにはまず資金が必要だろうということで、大日本製薬株式会社という会社に入社し、資金をためはじめました。

そんな矢先の明治36年(1903年)12月17日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功しました。このニュースはすぐには日本には伝わらなかったようで、それを知らない忠八はなおも飛行器への情熱は持ち続けます。

やがてこの会社で業績を挙げて明治39年(1906年)には支社長にまで昇進します。そして、その成功をもとに本格的に飛行器の開発を進めようとしましたが、支社長の収入だけでは開発資金をまかなうことができませんでした。このため、スポンサーを募りますが思うように集まらず、その開発は停滞しました。

そして、その当時軍部でオートバイ用のガソリンエンジンを使い始めたということを知ります。これを動力に利用できないかと考えていた忠八は、明治41年(1908年)に精米器用の2馬力のガソリンエンジンを購入しますが、購入後にこれでは力不足であることが判明。

そして、さらに高出力のエンジンを探し求めていましたが、なかなか良いものが手に入らず、ついには12馬力のエンジンを自作する構想を立てました。この12馬力という出力は、偶然にもライト兄弟の「フライヤー1」に搭載されていたエンジンの出力と同じだったといいます。

ところがその開発を始めようとした矢先に、ライト兄弟が飛行機を飛ばすことに成功したという事実を忠八は知ります。落胆した彼は、開発中だったエンジンの研究こそ続けましたが、完成しつつあった飛行器本体の開発は取りやめてしまい、製薬の仕事に打ち込むようになりました。

こうして忠八の飛行器の開発の夢は途中でとん挫しました。当時彼が製作していた機体はその後の軍の調査では重量が重過ぎ、完成しても飛べないだろという診断だったといいます。

しかし、現在の専門家がこの当時の機体の設計図等を再度改めたところ、もし完成していたならば理論的には飛べたのではないかと言われており、その設計が正しかったことが今は認められているそうです。

もし、忠八が軍部に行った飛行器開発の申請が認められ、国産飛行機の開発が成功していたら、人類初の飛行機の成功の栄誉は日本人が手にしていたに違いありません。

ともあれ、飛行器開発への夢をあきらめてしまった忠八は、大日本製薬も退社してしまい、その後、自分の会社を創立します。この会社「マルニ」は1909年(明治42年)に創業。大阪府大阪市北区に本社を置き、現在までも続く食塩メーカーであり、家庭用食塩としてその名を知られる「エンリッチ」の製造販売をおこなっています。

2002年4月に塩事業法の期限終了に伴う食塩の自由化後も、一般食塩メーカーとして高いシェアを持つ企業の一つであり、最近は真夏の炎天下でのスポーツ・作業時の熱中症を防止するため、水と共に塩分を補給するスポーツドリンクなどの製のも販売にも力を入れています。

飛行器開発をあきらめた二宮忠八ですが、その後の大正8年(1919年)に同じ愛媛県出身の陸軍中将の白川義則と懇談した際、忠八は以前飛行機の上申をしたが却下されたことを告げます。

このため、白川が専門家にその当時の忠八の設計図等を見せたところその内容は技術的に正しかったことがわかり、ようやく軍部は忠八の研究を評価するようになりました。

そして、大正11年(1922年)、忠八を表彰。大正14年(1925年)には逓信大臣から銀瓶1対を授与され、さらに昭和2年(1927年)には勲六等に叙せられました。

その後、忠八が当初、軍用の「飛行器」の実用化へ向けての申請を行った当時の責任者で、その後「航空機の父」と呼ばれた元陸軍中将の「長岡外史」は直接忠八のもとを訪れ、その当時のことを謝罪したといわれています。

さらに忠八の死から18年後の1954年(昭和29年)には、英国王立航空協会が自国の展示場へ忠八が最後に製作した「玉虫型飛行器」の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介しています。

こうして、忠八の飛行器づくりへの夢は潰えてしまいましたが、それでは日本で初めて国産飛行機を飛ばしたのは誰でしょうか。

これは、ライト兄弟の初飛行から遅れて6年後の1909年(明治42年)気球および飛行機の研究を目的に組織された「臨時軍用気球研究会」だと言われています。

陸海軍大臣の監督のもと、軍民両方の委員で組織されたもので、その目的は、

1.国内で飛行船、飛行機を制作する
2.設計のための基礎実験及び実験設備建設
3.性能試験、実用実験及び飛行場の建設運営
4.外国の飛行船、飛行機の購入と制作技術、操縦技術の修得

だったそうです。そして、この組織によって制作された初の国産機が、1910年(明治43年)の10月13日に同研究会の徳川好敏大尉の操縦によって代々木練兵場の空を飛びました。

しかしこの設計は、フランスから輸入された「アンリ・ファルマン1910年型」という飛行器を参考にしたものでした。しかし、オリジナルから翼断面形状や面積を変更し、また各部の形状を流線形にして空気抵抗を減らし、速度の向上などが図られました。

その結果として、高度50mで時速72kmを出し、オリジナルのファルマン機より操縦性も良好であると評価されたといいます。

この飛行機は全幅が11.00m、全長11.00m、総重量550Kgという現在の水準からするとかなり小さなもので、複葉の翼の下にはまるでリヤカーのタイヤのような車輪が4つついているだけのシンプルなものであり、無論、操縦席にカバーなどなく、むき出しでした。

発動機も国産ではなく、グノーム空冷式星型回転式と呼ばれるフランス製で50馬力しかありませんでした。ライト兄弟が初飛行させたものと比べれば馬力は4倍以上もありましたが、まだまだ軍用に仕えるような代物ではなく、当時の軍部もこれは試験機ととらえ、これをもとに純国産機を開発しようと考えていました。

この飛行機を飛ばした「臨時軍用気球研究会」に、群馬県尾島町の農家の出身で苦学の末海軍機関学校を卒業した「中島知久平(なかじまちくへい)機関少尉が御用掛として任官したのはちょうどこのころでした。

この当時の海軍は、この研究会とは別に独自に飛行機を開発しようと考えており、1912年(大正元年)には「海軍航空術研究委員会」を発足させました。中島少尉を陸軍の研究機関に派遣したのは、その基礎技術を一から学ばせる意図があったものと考えられます。

そして海軍は、「海軍航空術研究委員会」の事務所を横須賀に設置し、海軍独自の「水上機」を飛ばすために飛行場建設を近くの追浜海岸で始めました。飛行機開発を進めるために、アメリカのカーチス式水上飛行機やフランスのモーリス・ファルマン式水上飛行機を購入し、研究をスタート。

陸軍で飛行機の基礎を学んだ中島少尉は気球研究会を離れ、1913(大正2年5月)にこの海軍航空術研究委員会に属して実地研究に携わるよう辞令を受けます。

さらに横須賀海軍工廠造兵部の飛行機造修工場長、監督官に任ぜられ、ファルマン機生産監督のためフランスへの出張します。この間、第一次大戦が勃発し、その際に開発されてまだまもない航空機の活躍を目の当たりにしたことからその重要性を痛感するようになります。

そして帰国後、当時の大艦巨砲主義におおいに異論を唱えるようになり、「経済的に貧しい日本の国防は航空機中心にすべきであり、世界の水準に追いつくには民間航空産業を興さねばならない」と意を固め、1916年(大正6年)、健康上の理由にして海軍に休職願いを出します。

そして神戸の肥料問屋の石川茂兵衛の援助を得て、群馬県尾島町の生家の近くの養蚕小屋を借り、ここに所長たった一人だけの「飛行機研究所」の看板を掲げます。時は1917年(大正7年)10月、後年の「中島飛行機」の歴史の第1ページの始まりでした。

最初は知久平一人でしたが、その考えに賛同した横須賀海軍工廠時代の盟友や若い技術者がここに次々と集まるようになります。

まず、海軍時代からこの日のために中島知久平と共に当初より画策してきた栗原甚吾が合流し、また後の大幹部となる三竹忍、稲葉久太郎、小山悌、杉本一郎、長門春松、小林弥之助、佐々木新治などが集まってきましたが、こうして集まった8名のほとんどは20代でした。

この「飛行機研究所」は現太田市内にある旧尾島町から太田町にある金山という山の麓にあったそうで、家賃はわずか3円。当初の機械設備といえば10馬力のモーター1台とかんな機、帯鋸、丸鋸、旋盤、ボール盤各1台だけという寂しいものだったといいます。

もっともこのほか東京の三田の古道具屋で300円で手に入れたイギリス製の単気筒エンジン付きの自動車1台があったといい、これは飛行機の部品などを購入して運搬するためには不可欠な装備でした。

こうして設立当初は知久平を含めてたった9名で始まった中島飛行機ですが、若いエネルギッシュなパワーの集結によって、はやくもその翌年にはアメリカ製エンジンを搭載した中島式一型1号機を完成させました。

しかし、その記念すべき初飛行でこの機は離陸直後にあえなく大破。続く2号機も失敗に終わりましたが、3号機でようやく17分間の飛行に成功。しかし、その着陸時に溝に落ちて大破してしまい、実用化には程遠いといったありさまでした。

これを再び工場に持ち帰って修理し、4号機として尾島で飛行を行いましたが、今度は利根川の中に墜落し、機体は大破。しかも操縦していた佐藤飛行士が重傷を負ってしまいます。

このころ、おりしも第一次大戦後のインフレで各地で米騒動が起こっていましたが、この騒動と中島飛行機の飛ばないことを絡ませ、太田の人々は、「札はだぶつく、お米は上がる、何でも上がる。上がらないぞい中島飛行機」とはやしたてたという逸話が残っています。

しかし、その後も試行錯誤の中、挑戦は続きました。そして、その苦労の中、1919年(大正8年)に完成した中島式四型は、それまでの三型に対して新しい設計の主翼を採用し、空力的にも大幅に改善され、それなりに近代的な外観設計となっていました。

そしてその試験飛行を陸軍を予備役となり中島に入社した水田中尉という人物が尾島飛行場でおこなうことになります。

この飛行機に社運をかけていた面々が固唾を飲む中、試験飛行が始まりましたが、水田中尉はなんなく離陸し、しかも周回飛行だけではなく、何と宙返り飛行を5回も行い、一同は嬉しさの余り放心状態に陥ってしまったといいます。

同年10月、帝国飛行協会主催で「第1回東京大阪間懸賞郵便飛行競技会」という競技会がが計画されましたが、中島飛行機ではこの試験飛行での成功を踏まえ、自社機をこれに参加させることにします。

しかしまだ飛行機の開発は黎明期であったため、競技への参加希望は少なく、中島機のほかには1機しか参加表明がありませんでした。このため、協会の要請で中島飛行機は2機参加させることにしました。

この競技会は東京大阪間を無着陸でしかも8貫目(約30kg)の郵便物を積んで往復飛行するというものでした。中島飛行機からは、150馬力の中島式四型と200馬力の中島式六型が参加し、アメリカ製のゴルハム125馬力機の3機で競技を行いましたが、この往路で200馬力の中島六型機はコースを誤り和歌山県紀ノ川付近に不時着して失格。

残る2機が競う結果となりましたが、中島式四型機は往路3時間40分、帰路3時間18分、計6時間58分で、8時間28分で飛んだゴルハム機に勝利を得ることができ、賞金9500円を獲得しました。

往路で失格した六型機も帰路では2時間39分というこの当時としては信じられないような大記録を打ち立て、中島飛行機の優秀性を世に知らしめる契機となりました。

この結果は軍部に高く評価され、同年陸軍は中島式4型練習機として20機の発注を中島飛行機に行うことを決め、これが我が国の民間飛行機製作所が軍部から得た初の調達となりました。

その後も軍部からの中島飛行機への飛行機の発注は続き、こうして中島飛行機は日本を代表する航空機メーカーとなっていきました。そしてエンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備えるようになり、1945年の第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーといわれるまでに成長しました。

1917年の創業から終戦までに計29925機の航空機を生産し、三菱が設計した零戦の全体の約2/3も中島飛行機が生産しています。独自開発機としては九十七式戦闘機や、隼、疾風などの名機があり、このほか1944年には大型爆撃機「富嶽」の開発に着手しています。

この富嶽の開発は戦況が不利に傾く断念されていますが、B29を超える超大型機であり、アメリカ本土の爆撃のために開発されたていたといわれ、もしこれが完成していたらその技術は現代の旅客機の開発にもつながるものであったであろうといわれています。

1944年(昭和19年)12月には、すべての工場の集計で最高生産機数7940機を記録していますが、しかし1945年(昭和20年)8月に日本は敗戦。これを受け中島飛行機も全工場を閉鎖し、社名を富士産業株式会社に改称。中島知久平取締役社長も辞任に追い込まれます。

同年11月には、この富士産業株式会社も占領軍により「財閥会社」に認定されたため、航空機の生産はもとより研究も禁止され、1950年(昭和25年)5月には二度と軍需産業に進出できないよう、12社に解体されました。

しかし、この解体により技術者の多くは自動車産業へ転進することになり、その後の日本の自動車産業の発展に多大な貢献をするようになったことは多くの人が知る事実です。

ちなみに、この中島飛行機の流れを汲む「富士重工業(SUBARU)」の車に、私もかつて乗っていたことがあります。水平対向エンジンという他社に例をみない特殊なエンジンを搭載したこの車は力強く、ドライビングフィールも秀逸でお気に入りでした。

富士重工業の車は数多くの戦闘機の製造開発で培った技術力が受け継がれている車として、年長の人いは根強い人気があり、私の叔父や亡くなった義父もこよなくSUBARUを愛し、義父などはその生前に10台近いスバル車に乗っていました。

現在もやや元気のなくなってきているトヨタ車やホンダ車を尻目にスポーツ車やSUVを中心としたラインナップは大いに人気を集めているようです。

この中島飛行機が戦後に解体されてできた自動車会社はこの富士重工業だけではなく、現在はニッサンに吸収されてしまったプリンス自動車も中島飛行機の浜松工場がその前身です。このほかにも精密機械メーカーのTHKや電動工具でおなじみのマキタなども中島飛行機から派生してできた会社です。

こうした中島飛行機の流れを汲む会社として生き残り、現在も航空機産業に関わっているのは、唯一「新明和工業」だけです。しかし中島飛行機そのものが解体されてできた会社ではなく、戦前に中島飛行機の技術者を引き抜いてできた「川西航空機」が前身です。

水中ポンプ、機械式駐車場、理美容機器のメーカーとして知られていますが、自衛隊に「飛行艇」を納入しており、この優秀な飛行艇の海外輸出をめぐって、これが「武器」にあたるのではないかということで論議を引き起こしたことを記憶されている方も多いでしょう。

このほか、中島飛行機は終戦直前にはドイツからの技術情報等に基づき、ジェットエンジンやロケットエンジンの独自開発にも着手しており、こうした技術力は富士重工と富士精密工業のほかプリンス自動車工業に継承されました。

このプリンス自動車を吸収したニッサンは糸川博士による国産初のロケットペンシルロケットの開発の際、その共同研究に参画しています。

こうした技術力はその後石川島播磨重工業(現:IHI)に受け継がれ、自衛隊のミサイル開発や宇宙航空研究開発機構(JAXA))のロケット開発技術に生かされているといいます。

また、富士重工業は、もともと中島飛行機出身の有志が、国産航空機開発の再開を目指して設立した会社であり、戦後の航空機生産解禁後は航空機分野への参入も視野に入れてきたといい、自動車の販売が好調なため、いずれはそうした方面にも参画していくのではないかとみられています。

二宮忠八に始まった日本の航空機製造技術は、今も脈々と国内のメーカーに受け継がれています。国産初のジェット旅客機MRJが世界の空を席巻する日も近づいており、自動車産業が成熟期を過ぎ、衰退期にあるのではないかといわれるなか、日本の航空機産業には大きな期待が寄せられています。

いつか国産のロケットで宇宙旅行へ行く日も来るに違いありません。その日を楽しみに頑張って生きていくことにしましょう。

鍋 時々 カレー


寒い日が続きます。ここ修善寺でも日中はともかく、早朝には氷点下になる日もあり、霜柱もできます。もっとも我々が住んでいる場所は標高200mほどもある山の上のため、ふもとに比べるとより寒い、ということもありますが。

こういう寒い日が続くと、夕食なども温かいものが食べたいということで、どうしても鍋料理が多くなります。我が家でも、「鍋ときどきカレー、ところによっておでん」というほど汁ものが多くなっており、昨夜もメニューのひとつはトン汁でした。

その昔の日本家屋には、台所のかまど以外に、暖房も兼ねて囲炉裏(いろり)がある家も多かったようですが、冬の間にはこの囲炉裏に架けた鍋にいろんな具材を入れてほぼ毎日のように鍋料理をたべていたようです。なので、我が家の鍋料理の多さも「誇るべき日本の伝統的風習」であり、何ら非難されるべきところはありません。

もっとも、鍋料理は料理をする手間が省けるという点が最大の魅力であり、ものぐさ夫婦であるわれらにとっての強い味方…ということでもありますが……

この鍋料理は、このようにお手軽料理であることから大昔からあるようですが、肉を入れた鍋料理を普通に食べるようになったのはごくごく最近であり、その人気に拍車をかけたのは、明治時代に流行した「牛鍋」のようです。

いわゆる「すきやき」のはしりですが、この当時のものは現在我々が食べているような薄切り肉を使ったすきやきではなく、ぶつ切り肉(角切り肉)を使用したそうで、割下も今のようなしょうゆ味ではなく、味噌仕立ての汁で食する「味噌鍋」に近いものでした。

幕末から明治時代初期の牛肉は質が低く固くて獣臭さが目立ち、それらを緩和するため、牛鍋とはいいながらも、イノシシ肉やシカ肉も加えた「ぼたん鍋」や「紅葉鍋」に類似した内容で、肉の臭さを緩和するためには味噌が最適の調味料だったようです。

肉以外に入れる野菜も当初はネギのみだったそうで、ネギを五分の長さに切って入れたことから、明治初期には具材のネギのことを指して「五分」と呼んでいたそうです。

そもそも、日本では幕末になるまで、牛肉に限らず、肉を食べることは一般には行われていなかったようです。しかし、「すきやき」と称された料理は存在していたそうで、古くは江戸初期の1643年(寛永20年)刊行の料理書「料理物語」に「杉やき」と呼ばれる料理が登場しています。

ただし、この料理は肉を使ったものではなく、鯛などの魚介類と野菜を杉材の箱に入れて味噌煮にする料理だったようです。

さらに時代が下がり、江戸末期近くの1801年(享和元年)の料理書「料理早指南」では、「鋤やき」は「鋤のうへに右の鳥類をやく也、いろかはるほどにてしょくしてよし(鋤の上に右の鳥類を焼くなり、色変わるほどにて食してよし)」と記述されており、ここでいうところの鋤焼きとは、文字通り「鋤」のような農具を熱して、この上で鶏肉を焼いて食べるものでした。

1804年(文化元年)の「料理談合集」にもこれと同じような記述がみられるそうで、使い古した鋤(すき)を火にかざし、これに鴨などの鶏肉や鯨肉、魚類などを加熱するといったメニューが紹介されています。

1829年(文政12年)には「鯨肉調味方」という料理本が出されており、鳥や魚以外にもクジラが調理され広く食されていたことがわかります。

これらの料理本には、他にも、「すき身」の肉を使った料理などが紹介されており、このように古くは「杉やき」と呼ばれていたものが、その後「鋤」や「すき身」を使った料理に変わっていき、これらのことから「すき焼き」という料理名が定着していったのではないかといわれています。

しかし、江戸時代ではその後も長いあいだ、牛肉を食べるという風習は日本にはありませんでした。ところが、幕末の1859年(安政6年)に横浜が開港すると、居留地の外国人たちから西洋の食肉文化が入ってきました。

この当時の日本には肉牛を畜産するといった産業はなかったため、当初は中国大陸や朝鮮半島あるいはアメリカから食用牛を仕入れていましたが、居留地人口の増加に伴い牛肉の需要が増加し、のちに神戸の家畜商が横浜へ輸入した食用牛を搬送するようになりました。

このような状況をうけて、幕府は1864年(元治元年)に居留地に指定されていた現在の横浜市の海岸通あたりに屠牛場の開設を認め、このため比較的安価な牛肉が流通するようになり、やがて牛鍋のようなものが流行したため庶民も普通に牛肉を食べるようになりました。

そもそもの牛鍋を一番最初に始めたのは、横浜の入船町で居酒屋を営んでいた「伊勢熊」という店で、もともと一軒だった店を二つに仕切り、片側を牛鍋屋として1862年(文久2年)に開業したのが最初の事例ということです。

このころ開港場の横浜では既に牛肉の煮売り屋台があったそうで、その後1867年(慶応2年)になって、江戸の芝で牛肉屋を開いていた中川も牛鍋屋を開業したことから、江戸でも流行するようになりました。

その後、1877年(明治10年)ころまでには、東京における牛鍋屋は550軒を超えるほどにまでなりました。1887年(明治20年)頃になると、具材において牛肉や野菜の他に白滝や豆腐が使われ始め、ネギはザクザクと切ることから「ザク」と呼ばれ、この「ザク」という言葉は具材全体の総称にもなりました。

その後、明治も時代が下がるにつけ、牛肉の肉質が良くなっていき、東京などの関東では、肉もぶつ切り肉だけでなく、薄切り肉の牛鍋も増えていきます。

やがて味噌ではなく、醤油を割下として使う牛鍋も登場するようになり、これが現代の「関東風すき焼き」の原型となります。しかしこのころ東京ではまだ醤油ベースのすきやきは主流ではなかったようです。

一方、関西では、1869年(明治元年)に神戸で牛肉すき焼き店「月下亭」が開店しました。関西では先に焼いた牛肉を砂糖・醤油で調味する、いわゆる現在と同じ「すき焼き」が既に行われていたそうです。

その後大正時代におきた関東大震災では、東京の牛鍋屋が大きな被害を受け、このため多くの店が閉店を余儀なくされましたが、震災後には関西から進出してきたすき焼屋が多くなり、関東で流行っていた牛鍋を関西風にアレンジして出すようになったため、その呼称も「牛鍋」から「すき焼き」に変わり、これが定着していきました。

この牛鍋やすき焼きでは、鍋には鉄なべを主に使っており、調理の熱源も木質のものが多く、加熱をしながら食べるという方式は飲食店での提供が主でした。しかしその後調理の近代化が進み、調理の熱源は木質からガスなどに転換するようになったことから、普通の家庭でも気軽に鍋料理ができるようになりました。

また昭和に入ってからはカセットコンロなどが発明され、この普及によりさらにさかんに鍋料理が食べられるようになりました。近年では電磁調理器の普及も進み、食卓でも安全に鍋料理ができるようになったことから、鍋料理の普及はさらに進んだといわれています。

しかし、現在のように鍋の中に牛や豚、鳥などのいわゆる家禽の肉をたくさん入れて食べるという風習は、江戸時代より昔にはあまりなかったようです。日本では古来、食用の家畜を育てる習慣が少なく、主に狩猟で得たシカやイノシシの肉を食していました。

縄文時代の貝塚跡からは、動物の骨も数多く発掘されており、その9割が鹿、猪の肉で、その他にクマ、キツネ、サル、ウサギ、タヌキ、ムササビ、カモシカなどの狩猟によって得られたと思われる60種以上の哺乳動物が食べられています。

その調理法は焼く、あぶる、煮るなどであり、焼けた動物の骨も見つかっており、また、動物の臓器を食べることで有機酸塩やミネラル、ビタミンなどを摂取していたようです。

続く弥生時代にも、狩猟による猪、鹿が多く食べられ、その他ウサギ、サル、クマなども食べられましたが、その後の農耕時代になると、動物の臓器が食べられることは少なくなり、塩分は海水から取られるようになりました。

よく食べられていた猪は野生のものだったようですが、発掘された動物の骨や歯の状態から家畜として飼われていたと見る研究者もいるようです。しかし、3世紀に書かれた魏志倭人伝には、日本には牛馬がいなかったことが明記されており、家禽を飼うという風習はまだ一般的でなかったことがわかります。

奈良時代になると、貴族食と庶民食が分離するようになります。また、このころ、仏教が伝来し、その影響で、動物の殺生や肉食がたびたび禁じられるようになりました。日本書紀には、675年、天武天皇は仏教の立場から檻阱(落とし穴)や機槍(飛び出す槍)を使った狩猟を禁じたと書かれているそうです。

また、農耕期間でもある4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食することが禁止されました。ただしこれらはあくまで貴族に対するお触れであり、庶民の間では禁止されていたとはいえ、鹿と猪を中心として依然獣肉が食されていました。

とはいえ、その後も罠や狩猟方法に関する禁令がたびたび出されたそうで、奈良時代の肉食禁止令には、家畜を主に食していた韓国や中国からの渡来系の官吏や貴族を牽制するためとする説もあるようです。家畜はだめだが狩猟した肉はよいとする考えもこれに基づくものではなかったかといわれています。

しかし度重なる禁令にも関わらず、とくに庶民の間ではまだあまり仏教が浸透していなかったためもあって、一般的には肉食は続けられていたようです。

その後、平安時代になっても食肉の禁忌は続きますが、平安時代には陰陽道が盛んになったこともあり、貴族の間での獣肉食の禁忌はさらに強まり、代わって鳥や魚肉がよく食されるようになりました。

今年の大河ドラマの平清盛の中で出されていた宮廷料理などをみても、魚や野菜の料理ばかりで獣肉は登場していません。が、鶏が飼育されていたシーンなどがあり、頼朝が配流されていた伊豆では北条政子が鶏肉をぱくつくというシーンがあったように思います。

NHKの大河ドラマは時代考証に熱心なので、ドラマを作った方々もこうしたシーンを取り入れる際、この時代の食文化をよく研究されたのでしょう。

しかし、鎌倉時代になると、武士が台頭し、再び獣肉に対する禁忌が薄まります。武士は狩で得たウサギ、猪、鹿、クマ、狸などの鳥獣を食べたようです。ただ、鎌倉時代の当初は公卿などの間ではあいかわらず獣肉の禁忌を続けていたようで、1236年(嘉禎2年)に書かれた「百錬抄」では、武士が寺院で鹿肉を食べて公卿を怒らせるシーンが出てくるそうです。

しかし時代が下ると公卿も密かに獣肉を食べるようになり、1227年(安貞元年)に書かれた「明月記」に公卿が兎やイノシシを食べたといいう噂話が載せられているということです。ただし、牛乳やチーズといった乳製品を食したという記録は、この当時一切ないそうで、その後の戦国時代や江戸時代までも含め、日本では乳製品は流通していません。

これはおそらく家禽を飼うという風習がなかったため、西洋のように絞った牛の乳などから乳製品を作るという技術が発達しなかったからでしょう。

一方、鎌倉時代以降は、それまでと打って変わり、獣肉の食習慣も逆にバリエーションが広がっていきました。南北朝時代に書かれた「異制庭訓往来」という随筆には、珍味として熊掌、狸沢渡、猿木取といった獣の掌を食べたという記録があり、豕焼皮(脂肪付きのイノシシの皮)を焼いたものなどが掲載されています。

このほかにも「尺素往来」には武士がイノシシ、シカ、カモシカ、クマ、ウサギ、タヌキ、カワウソなどを食べていたことが記されているそうです。動乱の時期を生き抜いていくためには何でも食べないと生き残れないということだったのでしょうか。

南北朝時代以降さらに国内が乱れ、戦国時代に突入しますが、この時代には航海術が発展したため、南蛮貿易などを通じた食品の輸入が本格化します。そしてこの時代には新大陸である南北アメリカ大陸の食習慣などももたらされるようになります。しかし、牛や豚などの家畜を飼ってその肉を食べるという習慣はなかなか広まっていかなかったようです。

フランス人宣教師のジャン・クラッセ (Jean Crasset)が書いた「日本西教史」には「日本人は、西洋人が馬肉を忌むのと同じく、牛、豚、羊の肉を忌む。牛乳も飲まない。猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と書かれています。

宣教師フランシスコ・ザビエルは日本の僧の食習慣を見習って肉食をしなかったといいますが、その後の宣教師は信者にも牛肉を勧め、1557年(弘治3年)の復活祭では買ってきた牝牛を屠って飯に炊き込んで信者に振舞っています。

このように、徐々にではありますが、西洋の食文化に触れる機会が増えるにつれて日本人も牛肉ような家畜の肉を食べるようになっていきます。

九州の大名家の歴史書「細川家御家譜」には、キリシタン大名の高山右近が小田原征伐の際、蒲生氏郷や細川忠興に牛肉料理を振舞ったことが書かれているとのことで、このころになると、上下を問わず牛のような家畜肉を食べる習慣がある程度浸透してきたことがわかります。

戦国末期からは阿波などで商業捕鯨が始まっており、阿波の三好氏の拠点であった勝瑞城という館の跡地からは、牛馬に豚や鶏、鯨、犬や猫などの骨が数多く出土したといい、食用だけでなく鷹の餌や、愛玩用として家畜が飼われ、肉が市場に流通していたと考えられています。

ただし京などの中心地では、あいかわらず獣肉は一般的に食されておらず、例えば秀吉が後陽成天皇を聚楽第に招いた際の献立には、獣肉は一切入っていないそうです。畿内の住人にとって牛馬の肉を食べることは当然のごとくの禁忌事項だったのです。

秀吉は天下取りをめざしていただけにこうしたことに敏感な人で、近畿の人たちのこうした風習にも配慮していたようです。1587年(天正15年)、宣教師ガスパール・コエリョと対面したときも「牛馬を売り買い殺し、食う事、これまた曲事たるべきの事」と詰問したという記録が残っています。

これに対してコエリョは「ポルトガル人は牛は食べるが馬は食べない」とヘンな弁明をしています。日本人(近畿人)は獣肉を食べないという風習を理解していなかったのでしょう。

その後、時代が江戸時代にまで下ると、幕府の方針である質素倹約が是とされる風習が定着し、それまでさかんに行われた獣肉食の風習はすたれていきました。

江戸時代全期を通じ、建前としては獣肉食の禁忌が守られるようになり、特に上流階級を中心にこの禁忌は守られていました。しかし、庶民の間では鶏肉や鯨肉、魚肉などは広く食べられていました。

上流階級で獣肉を食べないという風習はかなり徹底していたようで、例えば狸汁といえば戦国時代には狸を使っていましたが、江戸時代に入ってからはコンニャク、ごぼう、大根を煮たものに変わっています。

獣肉食の禁忌のピークは、17世紀後半の元禄時代に発せられた生類憐れみの令のころのことと思われます。ただ、この法令は徳川綱吉の治世に限られたため、その影響も一時のもので終わりました。

しかし、特に犬を保護した事についての影響は後世まで残り、中国や朝鮮半島で犬肉が一般的な食材になっている一方で、日本では現代に至るまで犬肉は一般的な食材とみなされないようになりました。ネコについても同様と思われます。

江戸中期の18世紀には、なぜ獣肉食が駄目なのか、獣肉食の歴史はどのようなものだったかについての研究が行われ、儒学者の熊沢蕃山は1709年(宝永6年)に刊行された著書「集義外書」の中で、牛肉を食べてはいけないのは神を穢すからではなく、農耕に支障が出るからだと書いているそうです。

牛は畑を耕すための大事な労働力であり、これを食べてしまうと農耕ができなくなってしまうということを言いたかったのでしょう。

また、鹿が駄目なのはこれを許せば牛に及ぶからなのだ、との見解を示しており、幕府はとくに獣肉禁止令といったものは出していませんが、こうした儒学者の研究を広めることで、獣肉食が国内に蔓延することを暗に禁止する方針をとっていたことがわかります。

ところが、江戸中後期になると蘭方医学が日本に入ってくるようになり、この学問の浸透は獣肉食に影響してきます。このころ描かれた「名所江戸百景」という絵には江戸の比丘尼橋(現八重洲)付近にあった猪肉店が描かれているそうです。

また江戸後期19世紀の国学者、小山田与清の「松屋筆記」という随筆には、猪肉を山鯨、鹿肉を紅葉と呼んで売られていたという記述があり、そのほか熊、狼、狸、イタチ、キネズミ(リス)、サルなどの肉が売られたことも記されています。

さらに1829年(文政12年)に完成した地理書「御府内備考」にも麹町平河町や神田松下町に「けだ物店」があった旨が書かれており、江戸末期に近づくにつれ、獣肉を食べないという風習のタガがはずれてきたことがわかります。

幕末の儒学者、寺門静軒の著「江戸繁昌記」にも、大名行列が麹町平河町にあった「ももんじ屋(獣肉店)」の前を通るのを嫌がったことが記されており、この店では猪、鹿、狐、兎、カワウソ、オオカミ、クマ、カモシカなどの多様な獣肉が供されていたことが記されており、もはや獣肉はタブーではなくなりつつありました。

その後、幕末の動乱期に突入し、海外から外交目的で外国人が再々入国するようになります。江戸幕府は当初、江戸城の正餐では日本の本膳料理を出していましたが、その後朝鮮通信使などをイノシシ肉でもてなすようになります。

ペリーやハリスにも最初は本膳料理を出していましたが、江戸最末期の1866年(慶応2年)にはパークスとの会食で西洋料理を提供するまでになりました。

以後、冒頭で述べたように明治期で牛鍋が流行したころから、日本ではもう獣肉を食べることに抵抗はなくなりました。

こうしてみると、日本では仏教伝来当初のころこそ獣肉全般が敬遠されましたが、その歴史全般を見る限りでは、日本人の間で獣肉が全く食べられなくなったという時期はありません。

無論、獣肉食に関する嫌悪感も時代と共に変わり、時代時代で食する獣肉も異なりましたが、おおむね狩猟で得た獣肉は良しとされてきました。しかし家畜を殺した獣肉は駄目という時代は結構長く、これは足が多いほど駄目、すなわち、哺乳類>鳥>魚という風習として残り、今もこうした考え方は日本の食文化の底流に根付いています。

京都や金沢などの老舗料理店で出てくる和食メニューにはほとんど獣肉は含まれておらず、出て来たとしても鳥や魚が主体です。いわゆる「和食」の文化の中には「獣肉」の文字はなく、和食といえば鳥や魚が中心の質素なものであり、これが長い間に育まれてきた日本の伝統的な食文化と言っても良いでしょう。

獣肉消費量が魚肉を上回ったのは、第二次世界大戦後の高度成長期より後のことだそうで、それまでは日本人の獣肉の食文化は魚や鳥が中心でした。

ところが、現代はむしろ老化防止のためには、牛や豚などの獣肉を積極的に食べたほうが良いとされ、鳥や魚、穀物や野菜中心の和食はむしろ敬遠される傾向にすらあります。

だからといってこうした日本人の和食離れが特段悪い、というわけではありません。

むしろ、こうした食生活の変化に伴い、獣肉などの良質なタンパク源とともに、もともとの風習であった穀物類や野菜類も一緒に多くとるという食生活が根付いたことから、トータルとしては優れた栄養バランスに恵まれるようになりました。

結果として、日本人の体型も欧米並みに変化してきましたが、肥満の多い欧米人よりもむしろスマートでバランスのとれた体型の日本人が増えてきています。

しかし、反面BSEや鳥インフルエンザなどの外来の獣肉由来の病気も蔓延するようになり、我々の健康を脅かすことになってきていることはあまり歓迎できません。

今後、よほど大きな国策変化がない限り、獣肉を食べるという今の日本人の食習慣が大きく変わることはないでしょうが、こうした輸入の獣肉(とくに家畜)だけでなく、日本人が本来食べていた野生動物によるメニュー復活などももう少し声高に叫ばれてもいいのではないかと思います。

伊豆では野生の鹿やイノシシが増えて困っているといいます。外来の牛や豚を食べるのをいったんやめて、こうした環境破壊のもととなっている「国産生物」を食べよう!という風潮がもっと出てきてもいいのかもしれません。

さて、明日は衆議院議員選挙の投票です。まだ候補者たちの政策をじっくりみていませんが、もしこうした国産動物を食べよう!を公約に掲げている候補者がいるようならば、その人に一票を投じるのも良いかもしれません。

冗談ではなく、とくにTPPの問題に絡み、日本の農業をどうしていこうとしているかについての意見は注意深く見る必要があります。

みなさんはもうどの候補者に投票するか決めましたか?もし決めていないなら、ぜひ鹿やイノシシを食べるのが好きな候補を選ぶことも考えてみてください。

あなたは伊東さん? ~伊東市


今日は12月14日ということで、有名な赤穂浪士の討ち入りの日です。毎年このころになるとああ、今年ももう終わりだな、と思うのですが、確かにあと10日もすればクリスマスだし、それが終わるともうお正月は間近……ということで、何かとせわしない気分になるのは私だけではないでしょう。

今年の年末年始は初めて伊豆で過ごす予定です。例年だと実家のある山口に帰省するのですが、つい先日父の七回忌法要で帰ったばかりなので、今回は見送ることにしました。

なので、来年早々にはお天気さえよければ富士山も見えるはずで、富士山をみながらお正月を迎えられるというのは、何やらとても縁起が良いかんじがします。

今日は、討ち入りの日ということでこの四十七士の話でも書こうかとも思ったのですが、過去にあまたの人がとりあげてきており、あまりにも陳腐な気がするのであまりそそられません。なので、この赤穂浪士による仇討とおなじく日本三大かたき討ちといわれ、伊豆にも関係の深い「曾我兄弟の仇討ち」について触れてみたいと思います。

三大かたきうちのほかのもうひとつは、「伊賀越えの仇討ち」というのですが、こちらは岡山のお話です。江戸時代のその昔、岡山藩の藩主が男色家で、その小姓を寵愛していました。

ところが、これに横恋慕した家臣がその小姓に求愛したところ拒まれたため、家臣は小姓を殺害。藩主は怒り狂いますが、すぐに病没してしまい、その死の直前に小姓を殺した家臣をせいばいするように周囲に遺言。

そのうちのひとりで、殺された小姓の兄だった男は長い年月をかけて兄を殺した家臣をつけねらい、剣術の達人の助けを得てついにこれを実現する……というお話です。かたき討ちの話ではあるのですが、何分、事が男色に発している点がいまひとつ赤穂浪士によるかたき討ちと比べると人気がないのはそのせいでしょう。

曽我兄弟のかたき討ちも、よくよく調べてみると、討たれたほうが必ずしも悪いというわけではなく、しかもこのケースの場合は親戚同士のバトルであり、言ってみれば近親者同市の仲間割れというのが本質のようで、「伊賀越えの仇討ち」よりはましですが、これも後世ではあまり人気がないのはそのためのようです。

なので、正直言ってこれについても書くことはあまり気乗りしません。がしかし、伊豆の歴史上でもちょうど時代の変化のはざまで起こった事件であり、これに関わったのは日本の歴史変化に関わった重要人物ばかりでもあり、これをみていくことでこの時代の様相がよくわかります。歴史的にみてもこういう事件もそうそう多くはないので、やはり一度はまとめておこうと思います。

そもそもの事の発端は、伊豆の東の豪族伊東氏の領地争いから始まりました。のちに敵討されてしまう側の当人となる「工藤佑経」は、その幼少期に家督であった父の工藤祐継が早世すると、父の遺言により義理の叔父である「伊東祐親」が後見人となりました。

伊東氏と工藤氏は実は同じ一族で、伊東氏は平安時代末期から鎌倉時代にかけて現在の伊東市一帯である、伊豆国田方郡の「伊東荘」を本拠地としていました。伊東氏はそもそも、藤原南家・藤原為憲の流れを汲む「工藤氏」の一支族であり、今では「伊東」の名前のほうが有名になっていますが工藤氏のほうがもともととの本家筋といえます。

工藤氏がいつごろから伊豆にすみついたのは定かではありませんが、おそらくは平安の初期のころのことでしょう。その祖ともいえる「工藤祐隆」は当初、伊豆国の豪族を平らげ、大見・宇佐見・伊東を総合した「久須見荘」なる広大な地域を所領としていました。

この工藤祐隆の嫡男は祐家といいましたが早世したため、後妻の連れ子であった継娘が産んだ子が嫡子に取り立てられ、久須見荘のうちのひとつ、伊東荘を与えられて「伊東氏」を名乗り、この子が伊東家初代の「伊東祐継」となりました。

一方、早世した祐家には嫡男がおり、この子には河津荘が譲られ、この子供は「河津氏」を名乗るようになりました。この「河津」の名前は今も東伊豆に「河津町」の名前で残っています。河津桜の河津でもあります。

伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去し、9歳の嫡男金石(のちの工藤祐経)の後見を義弟で河津姓を名乗るようになった「河津祐親」に託しました。つまり、祐親は金石の義理の叔父にあたります。

金石の後見人になった河津祐親は河津から伊東荘に移り住み、これを契機に河津姓を捨て自らが「伊東祐親」と名乗るようになります。そしてもともとの領地の河津は嫡男祐泰に譲って「河津祐泰」と名乗らせます。

伊東家の初代、伊東祐継の息子の金石は、後見人の叔父が伊東姓を名乗るようになったため、元服すると伊東姓ではなく、もともとの一族の源流である工藤姓を名乗るようになり、この金石が後年仇討されてしまう「工藤祐経」となります。そして後年、後見人の伊東祐親の娘の「万劫御前(まんごうごぜん)」を妻とするようになります。

この辺、実にややこしいのですが、ともかく工藤氏、伊東氏、河津氏の三家はそれぞれが姻戚関係にある親族同士で、お互いが後見人になったり、親族同士で結婚したりして一族の結束を高めようとしていたわけです。

その後、工藤祐経は14歳で叔父の伊東祐親に伴われて上洛し、平家の家人として平重盛に仕えるようになります。後年源氏に敵対するようになる伊東一族の平家びいきはこのころから始まります。

工藤祐経を平家に仕えさせたといいつつも、実質は都へ追い払った伊東祐親は、あろうことかいつのまにかこの工藤祐経の所領を独占してしまいます。そもそも祐経の後見人になったころから工藤家の所領を狙っていたのかもしれません。

若い祐経を一族の代表として平家に仕えさせるというのは実は口実にしてその所領をわが物にしようとしたのか、たまたま平家から一族に出仕の要請があったのを利用したのかはわかりませんが、ともかく結果的には工藤家の所領を伊東家が横領するという結果に至ります。

そうしたことを何も知らないで京で平家に仕えていた祐経ですが、やがて叔父の祐親が自分の土地を押領しようとしていることに気付き、都から訴訟を起こしてこの土地を取り返そうとしますが、年長で朝廷にも馴染の多い祐親の根回しにより、その試みはことごとく失敗に終わってしまいます。

さらに祐親は祐経の嫁にやったはずの娘の万劫を取り戻し、相模国の土肥遠平へ嫁がせてしまいます。

こうして所領も妻をも奪われた祐経の怒りは頂点に達します。そして叔父の伊東祐親だけでなく、その一族も根絶やしにしたいと考えるようになり、祐親の息子の河津祐泰もろとも殺害しようと計画を練りはじめます。

そして1176年(安元2年)、ついに行動を起こし、郎党の大見小藤太と八幡三郎を刺客として放ちます。二人はちょうど親子で狩に出ていた祐親と祐泰を狙い、二人に矢を放ちましたが、この矢は伊東祐親には当たらず、河津祐泰だけに当たります。

この刺客2人は暗殺実行後すぐに伊東方の追討により殺されましたが、河津祐泰は二人によって射られた矢傷がもとで死んでしまいました。

祐泰には満江御前(こちらの姫も「まんごう」満行とも)という妻がおり、一萬丸と箱王という二人の男の子がいました。夫を失った満江はその後、この二人の子を連れて曾我祐信に再度嫁ぎ、この二人がのちの曽我兄弟、つまり「曾我祐成(すけなり)」と「曾我時致(ときむね)」になります。

曾我祐信は、相模国曾我荘(現神奈川県小田原市)の武将で、のちの源平合戦では鎌倉方につき、のちの鎌倉幕府では御家人として重用されるようになりますが、満江が再婚したころにはまだ頼朝は挙兵しておらず、相模の国の一豪族にすぎませんでした。

一萬丸と箱王丸は曾我の里ですくすくと成長します。伝説では兄弟は雁の群れに亡き父を慕いつつ、武家の子として武道に励んだと伝えられています。

その後、源頼朝が伊豆で平家打倒ののろしを上げ、治承・寿永の乱が始まります。治承・寿永の乱は1180年(治承4年)4年の頼朝挙兵に始まり、元暦2年(1185年)に平家が壇ノ浦で滅亡するまでの大規模な内乱の総称です。

最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも、平氏政権の崩壊により、源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至りますが、この乱の中で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は源氏側に捕らえられて自害しています。

一方、工藤祐経は、早くから源氏の世が来ることを見越し、この乱の早い時期から源頼朝に従い、乱が終わったのちはその勲功が認められて御家人となり、頼朝の寵臣となりました。

こうした中、亡くなった伊東祐親の孫にあたる曾我兄弟は戦乱の中においてもたくましく成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成(すけなり)と名乗ります。一方の弟の箱王丸は、父の菩提を弔う役目が仰せつけられ、このため箱根権現社に稚児として預けらます。

そんな箱王丸の前にある日、父の仇である工藤祐経が突然現れます。文治3年(1187年)、治承・寿永の乱後に鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝がその戦勝祝いに箱根権現に参拝した際、工藤祐経も随参していたのです。

箱王丸は父の仇を目の前に刃を向けて復讐しようしますが、仇を討つどころか逆に祐経に諭されてしまいます。そして、その仇の祐経から「赤木柄の短刀」を授けられたといいます。

この「諭された」というのが何を調べてもよくわからないのですが、仇敵に短刀を贈られたというのも不思議な話です。

工藤祐経という人物がどういう人物だったのかがそのカギを握っていると思われますが、想像するに伊東祐親ほどえげつないオヤジではなかったと思われます。

伊東祐親という人は、このブログの「八重姫」の項でも書きましたが、頼朝の若き頃にその三女の八重姫との間にできた子供を殺しています。平家にとっては罪人だった頼朝と一族の間に子供ができたことを知られたら平家からお咎めがある、というのがその理由だったようですが、背後関係はともあれ褒められた行為ではありません。

これに対して工藤祐経は、京では平家にあって徳のある人物として知られた平重盛に重用されており、こうしたいたという事実からも、かなり人あしらいには慣れた人物だったようです。

歌舞音曲に通じており、こうした才能が平家に気に入られた理由でもありますが、若き日に都に仕えた経験と能力は、源氏が天下をとったあとにも生かされ、鎌倉幕府において頼朝にも重用されました。

父の仇と狙う曽我兄弟とは血はつながってはいないものの同じ一族どうしであり、もとはといえば曽我兄弟の祖父の伊東祐親が祐経の所領と妻を奪ったことにことを発した一件でもあります。そのことを祐経は箱王丸にとつとつと説明し、無益な争いはやめよう、その仲直りの印にこれをやろう、といって短刀を手渡したのかもしれません。

が、どこかその説得には空々しいものがあったのでしょう。なぜなら祐経が箱王丸に手渡した短刀は、その後工藤祐経自らの命を奪うことになるからです。

祐経に諭されてその場では父の仇を討てなかった箱王丸ですが、このときは思いとどまったものの、やはりその怨念は深かったらしく、父の喪に服して過ごす一生に見切りをつけ、箱根を逃げ出してしまいます。

そして、縁者にあたる北条時政を頼ります。北条時政はいうまでもなく、北条政子のお父さんで、頼朝の義父にあたる人物ですが、この時政の前妻は伊東祐親の娘だったためです。

このあたりのことはよくよく考えてみるとヘンな話です。北条氏は源氏に組みしており、箱王丸の父や祖父はそもそもが平家に組する一族で、それゆえに祖父の祐親は源氏に殺されています。父の仇を討つためとはいえ、その源氏の一派である北条氏を頼らざるを得なかったわけですから、胸中はかなり複雑だったはずです。

それほど父の仇を討ちたかったということなのかもしれませんが、このことは時政らの北条氏がのちに頼朝の息子たちを暗殺して鎌倉幕府の実権を握ったことと関係があるように思います。北条氏はこのころから既に源氏を見限っていたのかもしれず、箱王丸を利用してその側近であった工藤祐経らを排除しようとしていたのかもしれません。

ともあれ、箱王丸はこの時政に烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致(ときむね)と名乗るようになります。こうして、時政は時致だけでなく、兄の祐成とともに曾我兄弟の最大の後援者となりました。そして、その庇護のもと父の仇討ちが果たせる日を虎視眈々と待ち続けました。

建久4年(1193年)5月、鎌倉幕府を樹立した源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催しました。巻狩(まきがり)とは、鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟であり、この当時の流行りの遊興でもありましたが、神事祭礼や軍事訓練も兼ねていました。

工藤祐経は、治承・寿永の乱では武将としてたいした功績をあげたわけではありませんが、都で平家に仕えた経験と能力が買われて頼朝に重用され、1192年(建久3年)に頼朝が朝廷から征夷大将軍就任の辞令をもらった際にも、勅使に引き出物の馬を渡すという名誉な役を担っています。

この巻狩には工藤祐経も参加していましたが、曽我兄弟はこの巻狩りの最後の夜を狙っていました。深夜祐経の寝所に押し入った二人は、酒に酔って遊女と寝ていた祐経を叩き起こし、父の命を奪ったことに対する罪の口上を祐経に突き付けたあと、時致が箱王丸であったころに祐経自身からもらった「赤木柄の短刀」で見事に祐経にとどめをさしました。

このとき、二人はこれに引き続いて、頼朝の宿所を襲おうとしたといい、そのみちすがら祐経が仲介して鎌倉幕府の御家人となっていた備前国吉備津神社の神官なども殺害してます。

父のかたき討ちだけが目的であったはずなのに、頼朝まで襲撃しようとしたことについては、歴史の専門家の間でも??とされてきたようですが、祖父の祐親は源氏のために自害させられており、一族の昔年の恨みをはらそうした、と考えられなくもありません。

しかし、上述のように兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となり、二人に頼朝を亡き者にさせようとしたと考えればその動機はよりポジティブなものになるはずです。しかし確固たる根拠があるわけではありません。

二人は騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちによって取り囲まれ、兄弟はここで10人斬りともいわれる働きをしますが、ついに兄祐成が源氏でも屈指といわれた武将の仁田忠常に討たれ、弟の時致も取り押さえられてしまいます。

騒動の後、時致は頼朝のもとに引っ立てられ、詮議を受けます。時致は頼朝の面前でも臆することなく、仇討ちに至った心底を述べたといい、その堂々とした態度をみた頼朝の側近たちの中からは、見事父のかたき討ちを遂げ、あっぱれだという意見も多く出ました。

このため、頼朝も一度はその助命を考えましたが、祐経の子で当時10才だった犬房丸が泣いて訴えたため、頼朝はついに時致の処刑を命じ、時致は梟首されました。

この祐経の子、犬房丸は、その後鎌倉幕府に仕えるようになり、姓を工藤から伊東へと変えて「伊東祐時」と名乗るようになりました。

68才で没するまで幕府御用人としてそつない一生を終えましたが、この人物の子孫はその後全国に広まり、工藤祐経の子孫が日向国へ下向して戦国大名の「日向伊東氏」となり、江戸時代にはその子孫が「飫肥(おび)藩」の藩主となりました。

また曽我兄弟の祖父の伊東祐親の子孫は、尾張国岩倉(現愛知県岩倉市)に移り住み、「備中伊東氏」を称するようになり、こちらの子孫は江戸時代の備中岡田藩主となりました。

伊豆に残った伊東氏の一族はこれ以後、あまりふるわなくなったようですが、その名は今も「伊東市」として残っており、伊豆の歴史を考えるとき、この曽我兄弟と工藤祐経などのかつての伊東一族の存在はなくてはならないものになっています。

ちなみに、曽我兄弟によって寝所を襲われた頼朝ですが、この事件の直後、しばらく行方不明になり、この間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかったといいます。

このとき、頼朝の安否を心配する妻政子に対して、巻狩に参加せず鎌倉に残っていた頼朝の弟の源範頼は、政子に「範頼が控えておりますのでご安心ください」という見舞いの言葉を書き送ったそうです。

ところが、この手紙をたまたま見てしまった頼朝は、この「範頼が控えている」という部分に難癖をつけ、自分を亡き者にして跡を乗っ取ろうと考えているに違いないと言い放ち、謀反の疑いありとして範頼を捕らえ、伊豆修善寺に幽閉し、のちに自害させています。

その後、頼朝の嫡男の頼家は第二代鎌倉幕府将軍になっていますが、北条氏らの陰謀によりこちらも伊豆に幽閉され、のちに暗殺。さらにその子の実朝も殺されています。こうして源氏の血はここで途切れることとなり、その後は北条氏による執権政治によって鎌倉幕府は永続していきます。

こうしたすべてのことが、この曽我兄弟のかたき討ちがあったことがまるで契機のようにそれ以降につぎつぎと起こっており、これが、私がこの項の冒頭で、この事件が伊豆の歴史だけでなく、その後の日本全体の歴史にも大きくかかわってくる事件であったと述べた理由です。

伊豆においては伊東氏や工藤氏は没落し、変わって北条氏が台頭するようになり、この北条氏は源氏の嫡流を駆逐して、その後の歴史を大きく変えてしまいました。

ちなみに日向に渡った伊東氏の一族には、後年、大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らが送り出した有名な「天正遣欧少年使節」の主席正使としてローマに赴き、教皇に拝謁した伊東マンショがいます。この伊東マンショについてはまた機会あらば書いてみたいと思います。

また、日清戦争時に初代連合艦隊司令長官を務め、中国との「黄海海戦」を勝利に導いた元帥で海軍大将の「伊東祐亨」は、日向伊東氏の嫡流だそうです。

かつて伊豆を席巻した武将、伊東一族の血流は今も脈々と日本中のあちこちで息づいているはずです。もし「伊東」と名乗る方にあったら、ぜひ「ご先祖は?」と聞いてみてください。案外と伊豆、日向または岩倉出身の方かもしれません。

サンタ・ルチアの日


今日12月13日は、ヨーロッパに伝わる守護聖人の一人で、眼・ガラス・農業の守護聖人といわれる「聖ルチアの日」 (Saint Lucy’s day) です。

ルチアとは、イタリアのナポリ民謡、「サンタ・ルチア」の歌で知られている聖人のことで、プロテスタント系キリスト教の代表ともいえるルーテル教会信徒が圧倒的に多いスウェーデン、フィンランド、デンマーク、ノルウェーなどの北欧で崇拝される数少ないカソリック聖人の一人です。

このルチアは、イタリアのシラクサ(Siracusa)の人だそうで、私はシラクサのルチアというと「白草のルチア」だとばっかり思っていましたが、とんだ勘違いです。

シラクサは、イタリア共和国のシチリア島東岸に位置する都市で、シラクサ県の県都。標準イタリア語の発音では「シラクーザ」のほうが近いそうです。人口約125000人ほどで、ローマ時代の歴史的な遺跡などの多くの観光スポットがあり、2005年には「シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡」の名で世界文化遺産に登録もされています。

しかし、このルチアという女性の生涯は不明なことが多く、確かなことは、ローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌスが在位していた245年 ~ 313年の間、その支配下にあったシラクサで304年に殉教したということだけだそうです。

言い伝えでは、4 世紀頃のいまだキリスト教が弾圧の対象とされていたローマ帝国において、ルチアの母親が長年難病を患っていましたが、ルチアがシチリアの「聖女アガタ(St.Agatha)」の奇跡を聞きつけ、その追悼ミサに参加し、母の病が癒されるよう聖アガタの墓の前で一晩中祈り続けた結果、その難病が奇跡的に治癒されたといわれています。

聖女アガタというのは、この当時シチリアを支配していたローマ人権力者から目をつけられていたキリスト教の信者で、改宗を迫ったローマ人たちの意に従わなかったため、捕らえて拷問を受けました。

拷問の中でアガタは両方の乳房を切り落とされ、最後には火あぶりにされることになりましたが、まさに刑が執行されようとしたときに地震が起きて処刑を免れたため、これが奇蹟として伝承されたようです。

そのアガタの墓に祈ったことで、母の病気が癒されたことから、その後ルチアはキリスト教徒になり、処女を守りながら財産を貧しい者に施すことを神に誓い、それを実践するようになります。しかし異教徒であった婚約者を捨ててキリスト教徒となったため、この婚約者によって密告され、アガタと同じく、ローマ帝国による迫害により火刑に処されることになります。

その死に直面した際、自ら首に剣を突き刺した姿は、今でもスウェーデンで行われているルシア祭での少女が腰に巻く赤い帯に示されており、少女達は、手にキャンドルを持ってルチアを称える歌を歌うといいます。

しかし、喉を剣で突いたのではなく、自らの目をえぐったのだという話もあり、このため眼に関わる聖人としても広く信仰されており、絵画や像では、聖ルチアはしばしば黄金の皿の上に自分の眼球を載せた姿で描かれています。

この彼女の死にまつわる話には、いろんなバージョンがあるようで、とくにその「婚約者」なるお相手がとった行動についてはさまざまな解釈がなされています。

そのひとつは、ルチアが自分たちの財産を全て神様の意思に従って貧しい人々に分配してしまおうとしたとき、ルチアの婚約者が心配し、そのままでは財産をなくしてしまうぞ、と忠告したというもの。

このときルチアは逆に婚約者を諌め、貧しい人への慈善を婚約者にも勧めましたが、婚約者はこれを受け入れずにルチアを裏切り、彼女が禁じられているキリスト教徒であるとして当局に訴え出たため、ルチアは裁判に掛けられます。当局はルチアに改宗を迫りますがルチアは頑としてこれを拒否。

その結果、裁判でルチアは、聖殿巫女として働くようにという判決が下ります。聖殿巫女というのは、聖殿を訪れた信者と床を共にしてお告げをする巫女のことで、実際には巫女の名を語った娼婦といった職業だそうで、仏教ではちょっと考えにくい職種です。

当然キリスト教の教えには反する仕事のため、ルチアはそれを拒否して、それなら私はここから一歩も動きませんと宣言します。

屈強の男が数人がかりでルチアを引き立てようとしましたがダメで、これは彼女が精霊によって体中を満たされていたからだといわれています。このためさらに軍隊までが動員されて何十人がかりで動かそうとしてもだめでした。縄を掛けて牛を何十頭も仕立てて引こうとしましたが、それでもルチアは動きませんでした。

最後にはとうとう千人の兵隊と千頭の牛で引いて行こうとしましたが、それでもルチアを動かすことはできず、仕方なく当局はルチアをその場で処刑されてしまうことにしました。

そして刑吏が彼女の喉を引き裂きかけましたが、そのときルチアは処刑場に集まっていた人たちに大きな声で、「やがてキリスト教徒を迫害していたディオクリティアヌス帝がその地位を追われることになるだろう。そしてあなたたちは解放されることになる。」と予言します。

彼女の声が終わるか終わらないうちに帝の退位を知らせるローマから使者が到着し、人々は彼女の言葉が正しかったことを知りますが、そのときにはもう刑吏が彼女の喉を裂いていました。

そして刑吏らはそこから断末魔にあるルチアは引きずっていこうとしますが、ルチアは重傷を負いながらもさらにそこから一歩も動きませんでした。そしてそのままそこで亡くなり、その場に彼女の墓が作られ、やがてその場所に教会が建てられたといいます。

この話にはさらに別のバージョンがあります。ルチアによって命を助けられた母親がなんとその後、ルチアを異教徒と政略結婚させようとしたというのです。しかしルチアは自身の処女を守るために、結婚の条件として多額の持参金を貧者への施してくれるならばといってこれを拒みます。

これを知ったその異教徒は思いのままにならないルチアに怒り、彼女を実はキリスト教徒であり、神への犠牲として火炙りにすべきだと当局に密告。

ここからは上のバージョンと同じで、ルチアを引き立てに来た兵士たちは、山のようにどっしりとして強固な存在となったルチアを動かすことができません。牛の一群に彼女をつないでも動かなかったため、ついには彼女の喉元に剣を突き立てましたが、それでもルチアは動かず、ついには最後の拷問として、ルチアは両目をえぐり出されます。

このとき奇跡が起こり、ルチアは目がなくとも見ることができるようになったといいます。この情景は後世では絵画や像として残されるようになり、そこでは彼女はしばしば黄金の皿の上に自分の眼球を載せた姿で描かれています。

ルチアとは「光」という意味もあるそうで、このため目をえぐられて光を失ったルチアと関連して、後世ではルチアは、ガラス工の守護者、眼病の守護者、そして喉を裂かれたために喉の病気の守護者ともされています。

上述のバージョンでは、母親がルチアの結婚相手として異教徒と契約していますが、このほかにも彼女の美貌に惹かれてに多くの求婚者があり、ルチアはそれを退けるために自ら目をえぐってしまい、しかし神の力により奇跡的に治ってしまったという話まであります。

いずれにせよ、聖ルチアは後世の民間伝承では天の光を運ぶ聖女とされ、また暗闇に光を与える女神、火を産み出す女神ともされるようになりますが、これは暗い冬を過ごす北欧などの地方に伝わったあと、創作された伝承でしょう。

彼らにとっての聖ルチアの日は、冬のさなかに大いなる太陽の季節の復活を祈る祝日としての性格も持っているようで、元々はシチリア島シラクサのカソリックの聖女だったものが、こうした北方のプロテスタントにも受け入れられるようになり、厚い信仰を集めるようになったものと考えられます。

現在、聖ルチア祭りは、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランドなどのスカンディナヴィア諸国を中心として12月13日のこの日に祝われています。

一家の子供の中でもとくに年長の少女が聖ルチアに扮するそうで、ロウソクをつけた冠をかぶり、手にもロウソクを持って同じ扮装をした少女たちと一緒に行進します。ロウソクは、生命を奪うことを拒む、火の象徴だそうで、北欧であるにもかかわらず彼女たちはナポリ民謡の「サンタルチア」を歌いながら外から各家に入ってくるそうです。

エンリコ・カルーソーというイタリア人の有名なオペラ歌手が録音したことで知られるこの歌は、ナポリの美しい港の情景を歌ったものですが、多くのスカンディナヴィア諸国ではその詩が書きかえられ、ルチアが闇の中から光と共に現れたというふうな脚色がなされているといいます。

また、各国ともそれぞれの言語で歌い歌詞も違うそうで、少女たちの行進の様子もそれぞれの国の特色があるといいます。

スウェーデンでは、一家の年長の娘がロウソクのリースを被り、白いドレスを着てルチアの歌を歌いながら、コーヒーと「ルチアの小型ロールパン」を両親へ運ぶそうです。同じ扮装をした他の娘たちが手にロウソクを持ってそれを手伝いますが、年長の娘と違ってリースを身につけません。

スウェーデンにおけるこのような行進は、1927年にストックホルムで始まったそうで、地元新聞が、その年の「ルチア」役を新聞で公募したのが始まりだといわれています。これを発端として、国中にこの行進が広まるようになり、現在では多くの都市で毎年ルチアを選出するそうです。

学校でルチア役を選び、助手の娘たちを生徒の中から選んだりもします。「全スウェーデン代表」のルチアも選ばれるそうで、地方大会優勝者を集め国営放送の番組でそれが決められます。

この「選挙」に先立ち、地方大会優勝のルチアは、地元ショッピング・モールや老人世帯、教会を訪問し、歌を歌いながらスウェーデン名物のジンジャービスケットを手渡し、自分をアピールするそうです。

その昔、これまでのところブロンドの白人ばかりが選ばれてきたため、白人でなければルチアになれないのかという議論が巻き起こったそうで、その結果かどうかはわかりませんが2000年には初めて非白人の少女がスウェーデン代表のルチアとなったといいます。

北欧で親しまれているこの聖ルチア祭は、スウェーデンがそうであるように他国でも休日ではないようですが、国中で親しまれる行事です。日本ではクリスマスを控えているせいかあまり知られていませんが、最近北欧の文化やグッズは、北欧の家具ショップIKEAの人気ぶりに象徴されるようにちょっとしたブームになっています。

なので、そのうち聖ルチア祭を日本人も祝うような日もくるかもしれません。スウェーデンの「ルチアの小型ロールパン」はサフランを使うので黄色く、伝統的なロールパンだそうですが、案外とこういうものにパン屋や菓子屋が目をつけ、流行らせるようなことが将来おこるかも。

それにしてももう12月なかばです。聖ルチア祭やらクリスマスやら西洋のお祭りにばかり精を出しているわけにはいきません。大掃除をし、年賀状を書いてお正月の準備をしなければ。日本人には日本人の文化があります。明日からは富士山をみながら庭掃除をすることにしましょう。みなさんはもう大掃除始めましたか?

コーヒー飲んだ ?


今日12月12日には、日本最初の「カフェー」が東京の京橋にオープンした、と「今日は何の日」に書いてあったので調べてみたところ、どうもガセネタのようで、実際にオープンしたのは1911年(明治44年)の3月のようです。

まっ、日にちは違ってもいいか、あまり面白そうな話題も思いつかないし……ということで、そのまま今日は喫茶店やコーヒーに関する話題に入りたいと思いますが、どうも最近惰性でテーマを決めてばかりいるようでやや反省。

ちなみに今日のブログタイトルは「コーヒールンバ」にかけてみたのですが、誰も気がつかないか……こちらもあんちょくです。

さて、この日本初といわれるカフェーで提供されていたコーヒーですが、その当時は3銭だったといいますから、今の金額では50円ちょっと。かなり安いですし、しかもそのコーヒーを白いエプロンをした若い女性が運んでくれるのが話題となりました。

その名も「カフェー・プランタン」という洒落た名前で、喫茶店とはいえ、コーヒーが主な提供品ではなく、洋食がメニューの中心だったそうです。「カフェー」という名前でしたが珈琲以外にも酒を揃え、料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューを出し、「焼きサンドイッチ」が名物でした。

しかしなんといってもその最大の売りは、和服にエプロンをきた若い女給で、ただ単に給仕をするだけでなく、店に来た客の話相手にもなってくれたため、開店当時は店内はいつも満員状態だったとか。

創業者は、東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)を卒業した松山省三という人で、美術学校時代の恩師・黒田清輝らに聞かされたパリの「カフェー」のような文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、友人らとともに東京府京橋区日吉町、現在の東京都中央区銀座8丁目5~6番あたりに開業しました。

建物は銀座煉瓦街のものを改装したもので、松山が明治末から大正・昭和初期に活躍した劇作家の小山内薫に相談したところ、フランス語で「春」の意味をもつ「プランタン」がいいと言ったことからこの名前になりました。

この店ができる前にも、「台湾喫茶店」なるものやビヤホールといったものはあったようですが、フランスなどの洋行帰りの人たちが、パリにあったのと同じような意味での「カフェー」はこれが初めてだと口にしたため、これが日本初のカフェーとして評判を呼ぶようになったということです。

このカフェー・プランタンは、当初は会費50銭で維持会員を募り、2階に会員専用の部屋があったそうで、創業者の松山が美術学校の卒業生だったことから、会員には洋画家の黒田清輝や岡田三郎助、和田英作、岸田劉生などの有名どころが名を連ねました。

また作家の森鴎外や永井荷風、谷崎潤一郎、岡本綺堂、北原白秋、島村抱月などのほか、歌舞伎役者の市川左團次などのこの当時の多くの文化有名人が会員だったそうです。

「女給」つまり、ウェイトレスは、フランスのカフェにはおらず、プランタン独特のアイデアでしたが、このあとにできた「カフェー・ライオン」や「カフェー・タイガー」等では、この女給を「売り」にするいわば「風俗営業」であったのに対し、プランタンではそれだけが売りではなく、文学者や芸術家らの集まることで有名になり、このため逆に普通の人には入りにくい店であったといいます。

常連の有名人が店の白い壁に似顔絵や詩などを落書きし、これが店の名物になっていたといい、永井荷風が当時入れあげていた新橋の芸妓「八重次」と通ったのもこの店で、荷風の「断腸亭日乗」という小説にもこのカフェの名前がしばしば登場するということです。

この当時のいわゆる「カフェー」を代表する存在であり、後年の美人喫茶や最近のメイドカフェの先駆けにもなりましたが、だからといってこれが、日本初の喫茶店かというと、そうでもないらしく、日本初の喫茶店と考えられるのは1878年(明治11年)に下岡蓮杖の開設した「油絵茶屋」という店のようです。

絵画を見せながらコーヒーを振る舞うといういわば「絵画喫茶」であり、喫茶店の定義をコーヒーを飲ませる店とするならばこれが日本で初めて登場した喫茶店ということになるでしょう。

このほかにも明治の初めころには、神戸元町の「放香堂」や、東京日本橋の「洗愁亭」などの店でコーヒーが振舞われたそうで、現代に見られるような本格的な「コーヒー専門店」としての形態を初めて持ったのは1888年(明治21年)に上野に開店した「可否茶館(かひいちゃかん)」のようです。

この店はトランプやビリヤードなどの娯楽も楽しめる「複合喫茶」だったそうで、国内外の新聞や書籍、化粧室やシャワー室までも備えており、「コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場」が売りでしたが経営は振るわず、1892年(明治25年)ころに幕を下ろしました。

日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代徳川綱吉の頃で、長崎の出島においてオランダ人に振舞われたのが最初のようです。ただ、江戸時代の狂歌師、大田南畝(おおたなんぽ)が記した「瓊浦又綴(けいほゆうてつ)」という随筆には「焦げ臭くして味ふるに堪えず」とあり、この当時の日本人にはコーヒーの味は受け入れられなかったようです。

しかしその後、黒船来航と共に西洋文化が流入し長崎、函館、横浜などの開港地を中心として西洋料理店が開店するようになり、そのメニューの一部としてコーヒーが一般庶民の目にも触れるようになりました。

幕末の1866年(慶応2年)には、輸入関税が決定され、その後1877年(明治10年)からはコーヒーが正式に食品として輸入されるようになると、国内各所でコーヒーを商品として取り扱う地盤が出来上がるようになります。

前述の「カフェー・プランタン」や「カフェー・パウリスタ」、「カフェー・ライオン」などのカフェーが銀座に相次いでオープンするのはこれよりかなり後の明治末期になります。

それぞれの店は独自色を打ち出し、カフェー・プランタンは「初の会員制カフェ」として、カフェー・パウリスタは「初の庶民喫茶店」「初のチェーン店舗型喫茶店」として、カフェー・ライオンは「初のメイド喫茶」として人気を博しました。

ちなみに、カフェーライオンは、今も銀座を中心として全国展開しているレストラン「銀座ライオン」の前身になります。

また、カフェー・パウリスタは、大隈重信が協力してできた店であり、その社長がブラジルへの日本人移民の斡旋をしていた関係から、その見返りとしてブラジル政府より3年間で1000俵のコーヒー豆無償提供を受けたものが原資になりました。

このため別名、「南米ブラジル国サンパウロ州政府専属珈琲販売所」という名前を持ち、芥川龍之介や平塚らいてう(らいちょう)などの文化人のほか一般の学生や社会人などが出入りする庶民的な店舗として人気を博しました。

この喫茶店は今もあり、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが愛した銀座店は、現存する国内最古のコーヒーショップとして知られています。

このほか、コーヒーは提供せず、暖めた牛乳を提供する「ミルクホール」などもこのころかなり流行して学生などに人気を博し、これも喫茶店の元祖と考えることができます。

こうして明治時代の末期に東京に次々とできたカフェーやミルクホールなどの飲食専門の喫茶は全国に広まっていきました。

しかし、大正から昭和にかけては、「飲食を提供しつつサービスを主体にした店」と「コーヒーや軽食などの飲食を主体とした店」への分化が進むようになり、前者はそのまま「カフェー」または「特殊喫茶」「特殊飲食店」として発展していき、どちらかといえばバーやキャバレーのような形で次第に風俗的意味合いを持つようになっていきます。

1929年(昭和4年)には「カフェー・バー等取締要項」が出され、続いて1933年(昭和8年)には「特殊飲食店取締規則」が出されると、「飲食を提供しつつサービスを主体にした店」は「特殊飲食店」として規制の対象となっていきました。

一方で、「コーヒーや軽食などの飲食を主体とした店」のほうは規制の対象から外れ「純喫茶」「喫茶店」と呼称されるようになり、やがて外来する店舗も含んだ「カフェ」(「カフェー」ではなく)として発展していくことになります。

1933年(昭和8年)当時、「特殊飲食店」の数は「喫茶店」の2倍もあり、喫茶店のほうが劣勢でしたが、このころから次第に一般庶民にコーヒーが浸透しはじめ、1935年(昭和10年)には東京市だけで10000店舗を数えるようになりました。

その後も順調に増え続け、サービスや提供形態の多様化が進み、多様化した店舗はその地域を象徴するような存在になっていき、例えば銀座では高級感を売りに出した喫茶店がここの名物として知られるようになっていきました。

また、神田では容姿端麗な女性給仕を揃えた学生を対象としたサービスを展開する喫茶店が、神保町では落ち着いた雰囲気で本を読みながら過ごすスタイルの喫茶店が定着しました。

しかし日中戦争が勃発し、戦時体制が敷かれるようになるとコーヒーは贅沢品に指定され、1938年(昭和13年)には輸入制限が始まります。第二次世界大戦がはじまると完全に輸入が禁止され、供給源を断たれた喫茶店は次々と閉店していきました。

こうした中でも大豆や百合根までを原料とした代用コーヒーを用いて細々と経営を続ける店も見られましたが、一方ではこうした事情を契機として、喫茶店から別の業種へ転向する店も多くなり、現在もある「千疋屋」や「ウエスト」、「コロンバン」「中村屋」といった店はすべて戦前は喫茶店であり、そこからの転向が成功した代表的な例です。

戦後、荒廃した日本で喫茶店が復活し始めるのは1947年(昭和22年)頃からのようです。戦時下の代用コーヒーや米軍の放出品を用いたGIコーヒーなどが闇市で流れるようになりますが、まだまだ高級品であり、一般にコーヒーが再び広まるのは、輸入が再開された1950年(昭和25年)以降となります。

こうした輸入豆の提供先は、そのほとんどが個人経営の喫茶店だったようで、戦後復興期に利益率の高いコーヒーを「売り」として個人商店として出発した店が多かったことを物語っています。

1960年(昭和35年)頃までは、全国的にみても個人経営の店が主流であり、「店主のこだわり」が店の個性としてもてはやされ、「おいしいコーヒーが飲める店」が人気を獲得しました。

このころからコーヒー専門店の競争も激しくなり、単にコーヒーだけを提供するだけでは経営が成り立たなくなってきたことから、次第に「音楽系喫茶」と呼ばれる喫茶店などが増えてきました。

美輪明宏や金子由香利などのミュージシャンを輩出した「銀巴里」に代表されるシャンソン喫茶や「ACB」「メグ」「灯」のようなジャズやロックの音楽演奏がサービスの主となったジャズ喫茶ができ、このほかにも、歌声喫茶、ロック喫茶、後年のディスコやクラブなどに多大な影響を与えたロカビリー喫茶、ゴーゴー喫茶など多数の業態の店が誕生します。

高度成長期に入る前のこの時代にはまだLPレコードなどは高額な趣味品であり、個人レベルで入手することが困難であったため、喫茶店はこうした音楽鑑賞を趣味とした庶民たちが集まる場所でもありました。

ところが1970年代に入り、日本が高度成長期に突入すると、住宅環境の改善や音楽配信媒体の低価格化が進み、こうした音楽を売りにする業態の喫茶店の需要は次第になくなっていきます。

1970年(昭和45年)頃、名古屋で漫画喫茶という新たな業態の喫茶店が誕生し、雑誌やコミックを多数取り揃え自由に読ませる形式が広く受け入れられ、一大ブームを巻き起こします。

当初、漫画喫茶はフルサービスの店が主流で入退店時刻を店側が管理し規定時間を超えた場合はもう1品注文して貰うといった方式が一般的でしたが、最近の不況下の漫画喫茶では何時間でも粘れる店も増えているようです。

さらに1995年(平成7年)以降のインターネットの普及に伴い、こうした店は漫画の他、インターネットのサービスも提供するようになり、全国にチェーン展開されるとパーソナル化が進行し、現在に見られる簡易な間仕切りが施されたセルフサービスタイプの店舗が一般化するようになりました。

一方、コーヒーなどの飲食だけを提供する店は別の形で発展し、1970年(昭和45年)代以降は、「コーヒーだけを飲む」という行為がより大勢の人に浸透するようになり、「珈琲館」や「カフェ・ド・コロラド」といった珈琲専門店が登場します。

やがて時代の流れが速くなり、「喫茶店でのんびり」といった行為が見られなくなると、細切れに空いた時間を活用したいという客のニーズに合わせた、従来の喫茶店に代わるセルフサービスのカフェが主流となり、そんな中で登場したのが、「ドトールコーヒー」でした。

鳥羽博道氏が1962年(昭和37年)に設立した「セルフカフェ」式の喫茶店であり、各地の主要都市の主にオフィス街で定着すると、それ以外の場所でも広まっていきました。

その後1996年(平成8年)にアメリカから進出してきた「スターバックス」は、カフェ ラテに代表される「ミルク系コーヒー」いわゆる「シアトル系コーヒー」をもたらし、そのメニューや提案は、特に女性に支持されるとともに、禁煙を売りにしたこの店のポリシーは健康志向の人々にも広く受け入れられるようになります。

スターバックスは、日本に上陸して僅か10年で業界最大手であったドトールコーヒーの売り上げを上回り、一躍業界最大手に躍り出ましたが、その後は続いて日本に進出して来た「タリーズコーヒー」「シアトルズベスト」と競合するようになり、そのほかにも「国産」のセルフカフェが多数進出し、現在この業界は混とん状態に突入しています。

こうしたセルフカフェの乱立は、業界全体を衰退させているようで、1981年(昭和56年)に全国で154630店を数えた喫茶店は2006年(平成18年)には81042店と約半減しています。セルフカフェが近所にできたことにより閉店を余儀なくされた昔ながらの喫茶店が多いものと考えられます。

「全日本コーヒー協会」が2006年に発表した「コーヒーの需要動向に関する基本調査」によれば、1週間あたりにコーヒーをどこで何杯のむかという調査結果では、喫茶店・カフェと答えた人は、20年ほど前と比べると三分の一ほどに減っており、逆に家庭や職場で、と答える人は年々増えています。

コーヒー全体の総飲用量は増加傾向にあるそうですから、こうした喫茶店での飲用量の低下は長引く景気の冷え込みによる外食産業全体の不振のあおりを受けたものと考えられます。

また、コンビニエンスストアやファーストフード店の競合など、外食産業の多様化も原因と考えられ、特にコンビニを中心として展開されるチルドカップコーヒーは、安価でおいしいと評判をとり、年々その市場規模を拡大しているようです。

今後コーヒー業界というのか、喫茶店業界というのかよくわかりませんが、こうした業種がどう変転していくのかについてはまるで見えない状況です。が、コーヒーそのものが飲めなくなってしまう、ということだけはなさそうです。

私自身はあまりコーヒーというのは好きなほうではないのですが、こうした文章を綴ったり仕事をしているときにはたいがい口にしています。好きでないのに何故飲むのかと言われれば答えに窮しますが、強いて言えば長年の習慣とあとやはり眠気覚ましでしょうか。

今考えると子供のころに初めてコーヒーを口にしたとき、なんでこんな苦いものを……と思ったものですが、長じてみるとこれが手放せないのが不思議です。ほかの紅茶や緑茶でも良いと思うのですが、やはり気がつけばコーヒーを手にしているのは、中にカフェインなどの薬物?が入っているからとしか思えません。

医学・薬学的には刺激剤や興奮剤として働く可能性も指摘されており、クリスチャンの中には一切口にしないという人も多く、「薬」として人体へ何等かの影響があるのは確かなようです。

とはいえ、アルコールのように飲みすぎないように、といわれるようなこともなく、ある研究では制癌効果も認められるなどの結果も得られているそうで、医学者の中にもこれを是認というか、むしろ勧める人さえいるようです。

その効果については賛否両論でそれを書いているとまた長くなりそうなので今日のところはこの辺にしたいと思います。

伊豆にはおいしいコーヒー屋さんがたくさんあるそうです。コーヒー好きのタエさんがそうしたお店に行きたがっています。今日はお天気が良いのでそうしたお店で富士山を眺めながらブレンドを飲むのも悪くないかも。みなさんもこんなブログなんか読んでいないで、おいしいコーヒーを一杯いかがですか。