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たかが100円されど500円 ~旧修善寺町(伊豆市)

ここ一~二週間は厳しい寒さとなり、秋はもうどこへ行ってしまったの?というかんじです。窓の外を眺めると紅葉はちらほら見えるものの、黄色や赤というよりも茶色が目立つようになり、その先に見える富士山では宝永山の火口すべてが真っ白です。さすがにコートなしでは外を出歩けなくなり、夜になると一層寒さが身に沁みます。

これほど寒くなる前の先々週、11月の終わりに、すぐ近くにある修善寺虹の郷の「紅葉ライトアップ」に行ってきました。

この季節限定で11月22日から始まり、12月2日までで、夕方4時から開園で夜八時半まで。この期間の夜間入場料は割引になり、一般の人は600円だったかな? ただし、伊豆市民の我々は入場料はこの間もタダでした。ありがたや。

5時過ぎに虹の郷の駐車場に車を入れましたが、広い駐車場なのでさすがに一杯ということはありませんでしたが、それでも入園口に近いところの駐車スペースはほぼ埋まっていました。ちなみにこの期間中の駐車場料金は一般の人も伊豆市民もタダです。

早速中へ入ると、おォなるほどです。モミジ以外の園内の樹木もさることながら、イギリス風の建物やこの公園のシンボル的な存在の赤い二階建てバスもきれいにライトアップされていました。

この日はまだ11月末だったとはいえ、修善寺虹の郷も標高200mを超える山の上であることもあり、夜はかなり冷えました。10度は切っていたのではないでしょうか。にもかかわらず、園内は結構な人出で、園内のお店も夜遅くまで開いていてなかなかにぎやかです。

入口付近ではちょっと良いスポットがあると、必ず誰かがカメラを構えているので、なかなか良い写真が撮れませんでしたが、園内奥深くに入っていき、今回のライトスポットのメインともいえる「日本庭園」はかなり広く、好きなところへ行ってカメラを据えることが可能でした。

庭園の真ん中にある大きな池の周りには紅葉を中心にかなりの本数の紅葉樹が植えられていて、これがみんな一本づつ丁寧にライトアップされていてきれいです。その姿がまた池に照らし出され、「さかさモミジ」状態になっている景色を随所で見ることができましたが、これがまた美しい!

あちこち園内を歩き回り、たくさん写真を撮りました。小一時間もいたでしょうか、さすがに体が冷えがちがちに。これ以上いると風邪をひきそうなので、退散して何か温かいものでも食べに行こうということでこの日のモミジライトアップ初参加を終えました。

感想は言わずもがなで大満足でしたが、寒いのがちょっと。温かいものが口にできる出店がまったくないわけではないのですが、入場者数を考えるともう少し各所にそうしたお店があるといいな、と思いました。もっとも、公営(伊豆市の第三セクター)の公園としてはライトアップの数といい、よくやっているなという印象です。来年もがんばってください。

と、今日はこれで終わり、というのも寂しいので、今日は何の日?を例によってみたところ、今日は日本で初めて「100円硬貨」ができた日、ということでその記念日になっているようです。

100円というと、手軽で安いワンコインというイメージがあり、そのキリの良い価格設定をうまく使った「100円ショップ」が全国いたるところにあります。よく利用するのですが、実際には税別本体価格のため、支払は消費税込み105円で販売する店も多く、買い物を終えたあとその分少々損をしたような気分になるのは私だけでしょうか。

これが消費税アップになると、110円とか115円とかを支払わなければならないわけで、100円ショップファンにとっては痛い出費です。16日の選挙には我々もぜひ行こうと思っていますが、できれば消費税アップに反対している政党に入れようかな。そういう政党は、100円ショップの前で街頭演説をすればもっと支持が集まるのではないかと思うのですが、どうでしょう。

こうした、百円ショップのモデルになったといわれているのが、戦前に高島屋が全国展開した「十銭ストア」です。1926年(大正15年)に大阪・長堀店に「なんでも十銭均一売場」を設置したのを皮切りに、1930年(昭和5年)には難波南海店に「高島屋十銭ストア」を開設。

その後1932年(昭和7年)にかけて独立型の店舗50店を大阪・京都・名古屋・東京周辺に展開したところ、大好評を博したということです。1941年(昭和16年)までには全国に100店を超えるチェーンを築いたといいますが、その後の太平洋戦争によって経営基盤を奪われ、実質的には廃業してしまいました。

1935年頃を1とした場合の現在の物価指数はおおまかにいって1800前後だそうで、当時の10銭は現在の180円程度に相当します。今の100円のほぼ二倍近い金額ですが、この「十銭ストア」の取り扱い商品は「日常家庭生活に必要なものは殆ど全部」に及んだそうで、内容的には今のものと同じようなものだったようです。

商品調達にあたっては均一店専門の納入業者を開拓し、生産者との直接取引を導入するとともに、生産者への指導・援助も行い、均一店向けの商品開発や商品の標準化にも積極的に関与しましたが、さすがに現在のような価格水準まで下げることはできなかったようです。

現在の100円ショップは、大量の店舗による販売力を生かして国内外のメーカーへ自社専用商品(プライベートブランド)の形で大量に生産を委託することで、仕入れ価格のダウンを図っており、近年は価格だけでなく品質の確保にも力を入れているといいます。

その最大手のダイソーでは、数百万個という単位での「一括製造」を行いコストを下げているそうですが、しかし一方では製造コストは下がるものの、在庫コストは莫大なものとなります。

こうした100円ショップが生き残っていけるかどうかについては、消費税のレートがどの程度で推移していくかによってかなり影響を受けると思います。今は105円で買えるものが120円払わないと買えないとなると、ショップから消費者の足が遠ざかるのは目にみえています。このへんのところ、各社ともどういうふうな戦略を考えているのでしょうか。

日本の100円ショップと似たものは、海外にもあるようです。アメリカでは1ドルショップや99セントショップ、イギリスでも99ペンスショップがあり、韓国には1000ウォンショップ、中国には1元ショップなどがあるといいます。

アメリカの場合、日本の100円ショップ同様に小間物商品を1ドル均一で販売するDollar store(1ドルショップ)という小売業態があるようですが、日本の大手と比べると商品の品質は悪く品揃えの面もあまりよくないそうで、また小規模なものが多いということです。

日本の100円ショップの雑貨は中国で製造されて輸入されているものも多いようですが、現地中国でも均一価格で販売する店が増えてきているといいます。100円を元に換算すると7元程度になりますがが、中国では「一元店」、「三元店」、「五元店」、「十元店」などが見られ、必ずしも一元にこだわっていないようです。

また、店名が「一元ショップ」となっていても、異なる価格で販売する商品のコーナーもあることが多いそうで、これは日本の百円ショップも同じです。100円よりもちょっと品質の高い商品を200円とか300円で販売しているコーナーがあったりします。

ただ、日本の場合はこうした価格は企業化されたルートで一律決められますが、中国の場合、個人経営の店が多く、このため店ごとに品揃えもばらばらで、一元などの定価格で売っていない商品の種類もてんでばらばらということです。

また、ほとんどが日用雑貨類を主に扱っていて食品や衣類まで売っている店はほとんどないそうです。ただ、日本の消費税に相当する付加価値税は全て内税で売られているそうで、一元こっきり出せば品物が手に入ります。

日本では最近、主にインテリアや服飾、家電製品などを扱う500円均一ショップの店が増えてきているようです。まだまだ100円ショップに比べると店舗数はきわめて少ないようですが、このほかにも千円均一の店なども出てきています。上述の消費税の問題が大きくなってくるころにはこうした高価価格商品を扱う店が台頭してくるのかもしれません。

すると、いずれは100円硬貨ならぬ1000円硬貨も製造されるようになるのかもしれません。ただ、今のところその動きはないようで、これまでと同様、発行されるとすれば何等かの国家的な大きな行事があったときの記念硬貨になるようです。

これまでに発行された記念1000円硬貨はすべて「銀貨」のようで、一番古いのは東京オリンピックの記念硬貨(昭和39年)でこれは1500万枚も造られたそうです。

これに次いで「2002FIFAワールドカップ™記念硬貨(平成14年、10万枚)、「第5回アジア冬季競技大会記念硬貨(平成15年、5万枚)、奄美群島復帰50周年記念硬貨(平成15年、5万枚)2005年日本国際博覧会記念硬貨(平成16年、7万枚)、国際連合加盟50周年記念硬貨(平成18年、8万枚)などがあります。

このほかにも、各地方自治体が「地方自治法施行60周年記念貨幣」として1000円銀貨を造っており、平成20年から北海道、島根県、京都府などがそれぞれ10万枚を発行しており、このほかの県もこれに追随しているようです。

こうした硬貨は、すべて造幣局で造られており、この造幣局、硬貨だけを製造しているのかとおもったら、ほかにも勲章や褒章、金属工芸品等も製造しているということで、このほかにも地金・鉱物の分析及び試験や、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)などまで行っている機関です。

東京だけにあるのかなと思ったらその本局は大阪市北区天満にあるそうで、その支局が東京の豊島区と広島市の佐伯区の2か所にあるとのこと。

そういえばかつてタエさんが住んでいた広島市佐伯区には「コイン通り」という通りがあって、そこに造幣局があるのだと教えてもらったことがあります。桜の名所で春の桜のシーズンだけ「花のまわりみち」として一般開放されています。

この広島支局の桜は1967年に大阪から移植されたものだそうで、その大阪の造幣局の桜はもっと有名です。この造幣局の本局は、大阪市北区の大川(旧淀川)沿いにあって、その構内には約120品種、約400本の桜が植えられています。

本局のあった土地はもともと藤堂家の大坂屋敷があり、同家の植栽していたサクラの樹木が造幣局にも引き継がれたということで、初代の造幣局長であった遠藤謹助が「役人だけが花見をしていてはいけない」と1883年(明治16年)から一般にも開花したサクラを公開することになったのが始まりだそうです。

大阪大空襲で桜の多くが焼失しましたが、職員らが大阪周辺のあちこちを探し回って多品種の桜の苗木を集め、現在のような並木が復元したということです。いまでは大阪の春の伝統行事とまでいわれ、毎年4月中旬から下旬にかけての開花時期には一般開放され、多くの人で賑わっています。

公開時には日没後の夜桜も鑑賞できるそうで、ここのところ、修善寺虹の郷のモミジライトアップとも通じるところのある行政サービスでなかなか洒落たはからいです。

この大阪造幣局では創設された1871年から工場内および近隣周辺にずっとガス灯を点灯しており、これは貨幣を鋳造するために発生させたガスの余剰分を利用したものだそうです。導入されたものは屋外に設置されたものとしては日本で初めてのもので、その当時にはその明るさに大勢の見物人が押し寄せたということです。

この造幣局では、東京オリンピックや長野オリンピックの金・銀・銅の各メダルも製造されたそうで、さらには名古屋城の金鯱なども製作されたということです。こうした話を聞くといつも門の中に閉ざされたお堅い場所、というイメージの造幣局にもなんだか親近感を覚えてきます。

その開設は、1868年(慶応4年)にさかのぼり、明治新政府が旧幕府が所持していた金座および銀座を接収し、この年に「貨幣司」を設けて二分判および一分銀などの鋳造を引き継いだのが始まりです。

翌1869年(明治2年)には貨幣司は廃止され、太政官に造幣局が設けられ、さらに同年8月、造幣局は造幣寮と改称され、大蔵省の所属となりました。

参与会計事務官だった由利公正(三岡八郎)や外国事務局判事の五代才助らは1868年(慶応4年)に、同年に廃止されたイギリス帝国・香港造幣局の造幣機械を6万両で購入する契約を結び、同じ年に英国建築技師のウォートルスを雇用し、局舎の設計および機器の購入などを担当させました。

1870年(明治3年)には旧香港造幣局長のキンドルを造幣寮の首長に任命し、ここでようやく大阪所在の本局が1871年(明治4年)から銀貨の製造を開始し、同年に造幣局の前身である「大蔵省造幣寮」の創業式が敢行されました。

今の「造幣局」の名称になったのは1877年(明治10年)のことで、その二年後の1879年(明治12年)に大蔵省内に東京出張所を開設。この出張所は1929年(昭和4年)に東京府東京市麹町区内幸町に移転後、さらに1939年(昭和14年)に現在の豊島区西巣鴨に移転しました。

しかし1945年(昭和20年)4月に空襲により全焼し東京支局は事業を停止。同年6月には大阪の本局も空襲の被害を受け工場の一部を焼失しました。終戦も間近い1945年(昭和20年)2月には広島県佐伯郡五日市町に造幣局広島支局が開設されましたが、この支局も同年8月6日の原爆により被災。造幣局は各局とも大きな被害を受けました。

しかし、終戦後の1946年(昭和21年)1月にはまず広島支局が貨幣製造を再開し、まもなく大阪本局や東京支局も貨幣製造を再開しました。

その後造幣局の名称は、1949年(昭和24年)6月から1952年(昭和27年)7月までのごく短い時間に「造幣庁」と名称を改めましたが、その後再び造幣局に戻り、2003年(平成15年)の省庁再編の際に、「独立行政法人化造幣局」として新たなスタートを切っています。

現在、造幣局では1円、5円、10円、50円、100円、500円の6種類の日本硬貨を製造しています。この硬貨の製造量は、新硬貨の発行や経済状況等に応じて当然年ごとに変化します。戦後最も製造量が多かったのは1989年(昭和64年+平成元年)だそうで、計51億5316万6千枚の硬貨が製造されました。無論、バブルの影響です。

一番最近の2012年の製造量はわかりませんが、2009年次の製造量は計8億5301万8千枚でバブル期の約6分の1にすぎません。

一番製造数が多いのは何だとお思いでしょうか。一円? ブッブッ~です。正解は500円硬貨の3億4300万3 千枚。一円硬貨は4800万3千枚しか造られておらず、五円硬貨に至ってはわずか400万3千枚にすぎず、五十円硬貨も少なく、500万3千枚です。

10円硬貨の発行数は500円硬貨とほぼ同じの3億3800万3千枚で、私はこれが一番多いのかと思ったのですが、100円硬貨は1億1500万3千枚なのだそうです。

無論少し古いデータなので、今はもう少し変わってきているかもしれませんが、一円玉や五円玉の製造量が少ないのはこれに対応した自動販売機などが少なくなってきているからだと何かのテレビ番組で言っているのを聞いたことがあります。

つい最近、テレビニュースや新聞報道で造幣局がバングラデシュの貨幣の製造を受注したという報道がなされ、大きな反響を呼びました。この11月にバングラデシュのステンレス製の2タカ硬貨の製造を5億2千万円で落札して請け負ったということで、外国の一般流通貨幣を製造するのは戦後初となるようです。

一般流通貨幣ではない外国の通貨・記念硬貨やメダルの製造はこれまでも請け負ったことがあるそうで、これまでにスリランカやニュージーランドなどで記念硬貨を製造した実績があるそうです。

日本では最近、電子マネーの普及などで貨幣流通が減って製造ラインに余裕があるため、外国からの貨幣製造なども積極的に受けることで、財政赤字を埋めていこうということのようですが、同時にラインが止まるとその生産技術を維持・推進していくのが大変になるからともいわれています。

2009年に製造された日本の硬貨の総額は1867億269万8千円分になるそうで、数字としてみればたいした数字ではないように見えますが、単年度に製造する金額と考えるとやはり大きな金額です。

私は500円貯金をするのが趣味で、いまもせっせと貯めこんでいます。わりと大き目のブタさん貯金箱に入れているのですが、全部貯まると10万円以上になります。こうして貯めたお金でときどき大きなものを買ったり、旅行に出かけたりするのですが、500円という金額は無理なく貯められてなかなか手頃な貯金になります。

バブルのころにはちょっと銀行に預ければそれぐらいの利子がすぐについたものですが、今はもうこうした「自衛」方法でへそくりを作るしかありません。

ひところに比べてなんともなさけない世の中になったなーとつくづく思うのですが、そんな暗い気分を払拭してくれるような明るい時代に戻してくれるのははたしてどこの政権党でしょうか。

もうすぐ投票が迫っています。私としては500円貯金をしなくて済む方法を教えてくれる政党にぜひ投票したいと思います。

大正天皇のこと ~修善寺温泉(伊豆市)


先週、秋の深まる中、修善寺温泉街の紅葉はどうなっているだろうかと気になっていたので行ってみることにしました。案の定、紅葉まっさかりで、いつもは閑静な温泉街も多くの観光客で賑わっていました。

こんなに紅葉がきれいなときに温泉街に足を踏み入れるのは初めてです。もともとひなびてしっとりとした落ち着きのある温泉街の中にあって、各所に植えてある鮮やかな紅葉はより引き立ってみえ、なかなか良い風情です。

町の中心にある修禅寺の中にも足を踏み入れてみましたが、ここの紅葉もまた見応えがありました。ふと、お堂のほうをみると、お寺の係?の方が何やら呼び込みをしています。なんだろうなと、思って近寄ってみると、どうやらお寺の本堂の右手にある方丈(離れ)の庭を特別公開しているので、いかがですか、と言っているようです。

聞くと、一年に一度しか公開していないそうで、正式名称は「東海第一園」というのだとか。明治40年に大正天皇が皇太子だった時「東海第一の庭園である」と激賞したことから名づけられたそうです。

方丈のほうが現在のかたちに整えられたのは、明治の終わりのころのようです。この建物はこのブログでも前に取り上げた三島の「楽寿園」にあった皇族の小松宮彰仁親王の別邸を明治38年に修善寺が拝領し、移築して修禅寺方丈及び書院としたのだとか。

庭のほうは、達磨山山麓から水を引き、大小の岩を積み、滝や池を造り、背後の山を借景とした小規模ながら奥行きと高低の変化に富んだ回遊式庭園で、前述のとおり大正天皇に絶賛され東海第一園という名前になりました。

下賜された建物はオリジナルものではなく、老朽化のため昭和の終わりに建てかえられたそうですが、庭園は当時のままの姿で残っていて、時折公開されているようです。

たまたまの巡り会わせとはいえ、数少ない公開の機会に遭遇するというのもなかなかないこと。早速、維持奉仕料?でしたか、200円を支払って中へ入れてもらいました。

中に入るとなるほど、紅葉の見事な庭園でした。規模はそれほど大きくはないものの、南側に面した山の斜面をうまく利用してモミジ類や松などの多くの樹木が植えられており、達磨山から引いたという水を山水のように上から流して滝の風情をつくり、その下には小さな池が拵えてあります。

回遊式になっているということで、入口から右手のほうを回って山の上の方へ行き、また入口まで帰ってくるという形式で、小さいながらも各所でいろんな景色が楽しめる工夫がこらされています。

東海第一?かどうかはわかりませんが、なかなかのもの。ここでも良い写真がたくさん撮れましたのでその一部をこのブログでも紹介しておきます。

ところで、この庭園を絶賛したという大正天皇ってどんな人だろう、と気になったので調べてみました。一般的なイメージとしては、その在位がわずか15年ということもあり、病弱でひ弱な天皇たったという印象ですが、実際にはどんな人だったのでしょう。

明治天皇はかくしゃくとした武人のイメージ、昭和天皇は学者然としたイメージがありますが、大正天皇といわれるとどうもイメージがわきにくい、というのは私だけではないでしょう。

ただ単にイメージが薄いというだけではなく、先天性なのか後天性なのかはよくわかりませんが、精神的な障害、あるいは知的な遅れ、発達遅滞を伴った人であったのではないかという評価もかねてからあるようです。

この評価は不確かなものではありますが、大正時代のその当時も国民全体が「なんとなく」そうらしいと感じてはいたものの、こうした評価は不敬罪に相当するということでなかなか表に出てくるものではなかったもののようです。

とくに、幕末維新を実現してきた新政府にとっては、そうした評価が一般化することで、明治天皇の時代に40年以上の歳月をかけて作り上げてきた富国強兵を目的とする近代天皇制度が、二代目早々にして根底から覆るような事態になることは極力避けたかったはずです。

このため、大正天皇がどういうご病気だったのかについては、ほとんどの発表がされておらず、後の昭和天皇が即位可能な年齢に達するや否や、大正天皇の意に反して強引に引退させ、このため大正天皇は失意のうちに没したというのではないかという推測もあるほどです。

そして、日露戦争の勝利などを修めた「栄光の明治」の再来ともいえる「昭和」が訪れたとき、政府は意図して大正時代を忘却する施策をとり、新たなる戦争に突入していく中、人々は意図として大正を忘れ去ろうとしたのではないか、とまでいう向きもあるようです。




そもそも、大正天皇が精神的な障害や知的な遅れがあったのではないかと言われる素因となったのは「遠眼鏡事件」というものがそのひとつのようです。

遠眼鏡事件とは、大正天皇が即位後に、ある国会開会の詔書を読み上げる前に、丸めた詔書をまるで子供がよくやるように望遠鏡のようにし、議員たちをのぞきこんでいたというものです。これについては諸説が飛び交いましたが、後年このことがあったことから、やっぱり大正天皇は頭がおかしかったのだ、知恵遅れに違いないという意見が大勢を占めました。

ところが、詔書というものはもともと丸めてあるものだそうで、それを再び丸めるのは別におかしくないそうです。

実際には、そのころ既に病気により指先や言語が不自由になっていたという天皇が、一度別の国会で苦労して丸まっていた詔書を開いたらなんと逆さまだったという事があったので、その際には開く前にちょっと覗いて向きを確かめようとしたのではないかといわれています。

ところがたまたまそれを覗いたのが悪く、しかも傍からみれば議員たちを覗き見るようにみえたことから、それがまた巷間を駆けめぐり、ああ、陛下は、やはりお可哀相に御脳が……となったのではないか、と思われます。

もともと子供のころから体が弱かったため、こうしたお身体が云々という噂に加えて、御脳も云々というような噂が流れ、さらに尾ひれハヒレがついて巷間を駆けめぐるようになったようです。

が、後述するように、この天皇はかなり庶民の間では人気があり、逆の見方をすれば当時の人々は健康を気づかうほど大正天皇へ親近感を抱き、身近に感じていたということでもあり、こうした風潮は厳格な軍人でもあった明治天皇のときには絶対に見られなかった事だということです。

では病気がちで御脳の悪い?大正天皇がどうしてそんなに人気があったのでしょうか。それを語る前にまずその前半生をみていきましょう。

大正天皇は、正式には「明宮嘉仁(はるのみやよしひと)」といいます。1879年(明治12年)の8月31日に、明治天皇の側室、柳原愛子を母として生まれました。

生まれたときに既に全身に痣があるなどの異常があったそうで、また新生児の多くは頭がい骨が完全にはくっついていないなどの不完全な状態で生まれてくるものですが、大正天皇の場合にはその頭骨に通常とは明らかに異なる異常があり、普通の新生児にくらべてかなり頭がとんがっていたようです。

これは事実のようで、幼少のころの大正天皇の写真をみると子供にしては異様に顔がひょろ長く、失礼ながらピーナッツのような形の頭をされています。

その後成長する際にも常に何かを吐いていたという話もあり、病気がちでいつ死んでもおかしくないといわれるほど虚弱な体質だったそうですが、奇跡的に持ちこたえて成長されました。

しかし、その後学習院に入るようになるほど大きくなっても相変わらず虚弱で、いつも病気がちだったといい、そのうちのもっとも大きな病気といわれるのが髄膜炎です。

髄膜炎(ずいまくえん)というのは、脳の髄膜下腔というところに病原菌によって炎症が生じる病気で、乳児や幼児、学童がよくかかる病気です。大人でも高齢者や免疫力が低下した人がかかりやすいそうで、症状としては、発熱や頭痛のほか意識障害を起こすといいます。

後年の大正天皇の奇矯?は、この子供のころにかかった髄膜炎が何十年も後になって、後遺症として現れたのではないかと当時の人々は考えていたようですが、そうした菌が何十年も持ち越すということはありえないそうです。が、こうした病気をかこったことが天皇の御脳が……といわれるようになった要因のひとつであることはまちがいなさそうです。




大正天皇は8歳のときに学習院に入学しました。学習院時代には侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校したため、この「軍隊の背嚢」がランドセルの原型となったといわれています。

しかし、健康に優れず学業に集中できなかったこと、学習院の厳しい規則に馴染めなかったことなどから、留年することも多く、1889年(明治22年)からは熱海への保養が毎年の恒例になったといいます。

1889年(明治22年)、10才のとき、皇室典範の制定により皇太子となり、立太子礼を受けます。しかし学習院での学習は一向に進まず、乗馬などに進歩があった一方で、数的な理解や状況把握の能力に乏しかったといわれ、とくに理数系の教科が苦手だったそうです。

1894年(明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難であるとして、学習院を中退。その後は赤坂離宮で数人の教師によるマンツーマンの授業を受けました。この時重視された教科は、フランス語、国学、漢文であり、特に漢文を教えた川田甕江(かわだおうこう、幕末明治の漢学者)からは大きな影響を受け、漢文を趣味としたといいます。

得意とする漢詩の内容は文学的価値というより情景描写に徹したものが多かったようですが、普通の人もさることながらましてや脳に障害があるような人物が漢詩などそうそう簡単につくれるはずもありません。

このことから、幼少時から頭が云々という噂は根も葉もない噂であることであることがわかります。残された書などもあるようで、これもかなり達筆だそうですから、少なくとも手などに障害があったなどということはなさそうです。

その「ご勉学」のご成績も中の下か下の上程度だったようで、けっして傑出しているというような成績ではないものの特に異常はみられないといいます。

しかし情緒面では、発達にやや遅れがあったらしく、このため長じても落ち着きが無く、ひとつのことに集中することが大の苦手であり、思ったことをすぐさま口に出すのが癖だったそうです。そしてこの性癖は結局、死ぬまで治らなかったようです。

こうした人物であったことから、おそらくは成人しても明治天皇の跡取りとしての自覚や国父としての役割、ましてや陸海軍の総帥であるというような認識はなかったのではないかといわれています。

実際、明治天皇をはじめとする、国家要人や宮中の要人の多くも、皇太子の将来にハラハラし通しだったようであり、この当時は皇太子の将来がすなわち日本帝国の将来と考えられていたわけですから無理もないことではあります。

ところが、この大正天皇は、その父の明治天皇が絶対に国民の前で口を開かなかったのに対し、実によく公の前に姿を現して発言し、あるときには親しげに一般市民にも声をかけることが多かったといいます。

そうした事実を新聞各社が驚きを持って掲載するのを自らスクラップして楽しんでいたという逸話もあり、一般人からみれば気さくで酔狂な貴人と映ったようです。実際に身近にあって直接接する誰にも親近感をわかせる雰囲気があり、いわゆる「庶民派」といえる天皇でした。

また、それまでの明治天皇は子孫を残すために側妾を持つのが普通だったのに対し、大正天皇はこれを持とうとしませんでした。制度上一夫一婦制となるのは昭和天皇からですが、大正天皇はこの制度が整う前からこれを実践した初めての天皇ということになります。

家族思いで、子どもらと相撲を取り、家族団欒の夕食をとったといい、馬とワインとたばこが大好きだったようです。東宮(皇太子の住む宮殿)に住んでいたころは、夕食後皇太子妃のピアノを伴奏に酔ってよく歌を歌っていたという逸話もあり、天皇になってからは、ビリヤードを慰みにしていたそうです。

これに対して昭和天皇は、こうした庶民派の大正天皇を「反面教師」とし、徹底的に厳しくしつけられたということです。昭和天皇の思慮深く、物事に動じず、徹頭徹尾、公の場では自己意見を封殺し機関としての天皇に徹する重々しい口ぶりは、その幼少のころに学習院の院長であった元帥の乃木希典によって教育され、形成されたといいます。

昭和天皇のこうした資質は現在の平成天皇にも引き継がれており、そうした意味ではこの大正天皇の庶民的な振る舞いが転じて昭和以降の厳格なる天皇制が形づくられていったといえるかもしれません。

大正天皇はその皇太子時代、既に高齢だった明治天皇の名代として、国威発揚のために全国を9回も行啓しています。沖縄を除く全地方を回った上、この当時はまだ大韓帝国であった韓国も訪問しています。

韓国では、その後来日して日本に住むようになる李王朝の皇太子李垠(りぎん)を気に入り、自ら朝鮮語を勉強しています。この李垠が日本で別荘として持つようになるのが三島で小松宮彰仁親王が所有していた楽寿園であり、そこにあった建物が修禅寺の方丈として移築されたのは前述のとおりです。

この修善寺にできた書院兼方丈の庭を「東海第一園」と命名したのは大正天皇であり、詳しいことはわかりませんが、これはこの方丈が大正天皇と親しかった李垠が所有していた楽寿園の邸宅の一部であったことと何等かの関係があるのではないかと思われます。

大正天皇は、皇太子時代の22歳のときに結婚しています。この結婚により精神的に落ち着きがみられ、体力も向上したといわれ、またこのころから頻繁に行うようになっていた各地への行啓においても気分転換が図られ、眼に見えて壮健になっていったといいます。

明治天皇の信頼が厚く海軍軍人(海軍大将)でもあった有栖川宮威仁親王や、のちに総理大臣となる原敬など、理解人を得た事も幸いしているといわれています。皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」人物像を「原敬日記」に記しているそうです。

皇太子嘉仁親王として、まさにこの明治後半の行啓時代が、まさに人生で最も輝いていた時期だったことは間違いなさそうです。

そんなふうに病弱であった幼少時から一変した生活を送るようになっていた皇太子時代ですが、不摂生により体調を崩していた明治天皇が急に崩御。これを受けて1912年7月30日に践祚(せんそ)。年号は明治から「大正」に改元されます。そして3年後の1915年(大正4年)に京都御所で即位の礼を行ない皇太子嘉仁は正式に「大正天皇」となりました。

もともと政治的な感覚に乏しく、どちらかといえば自分の世界だけに生きがいを見出そうとしていた大正天皇にとって、この新たな生活が楽しいわけはなく、せっかく皇太子時代におう歌しかけていた「青春時代」は奪われ、分刻みの過酷なスケジュールはやがて体調や精神状態を崩す要因となっていきました。

1917年(大正6年)には、立憲政友会などの政党政治に反対する山縣有朋への反感から枢密院議長の辞任を迫るという「事件」をひきおこし、寺内内閣がそれを押しとどめるということもありました。

第3次桂内閣では桂太郎の言うがままに詔勅を次々と渙発させられ、父明治天皇と異なり政治的な判断が苦手であることが国民の目からも明らかとなっていきました。

御用邸での休暇時には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求めていたようですが、第一次世界大戦による国際情勢とその中における日本の立場の大きな変化は、僅かばかり残された大正天皇の自由をさらに奪っていくことになります。

1917年(大正6年)頃からは、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、1919年(大正8年)には食事をとることも勅語を読むこともできなくなるほど病状は悪化していきます。

そして、1921年(大正10年)11月25日、当時20歳だった皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が摂政に就任することで大正天皇は事実上の退位となり、宮内省発表による「天皇陛下御容體書」によって病状は公にされる運びとなりました。

これに先立つ公務では、前述の「遠眼鏡事件」などもあり、このほかにも宮廷内の公式儀式で三種の神器を受け取る際、江戸生まれの老臣を前にボロボロと涙をこぼすという奇矯を見せており、周囲の目にもその異常ぶりは明らかでした。

公務後半では、言語だけでなく、手先や足元も不自由なっており、ついには御用所に引きこもりになったため、やむなく裕仁皇太子が摂政になったわけですが、その際も、大正天皇自身は、自分はまだまだ大丈夫で、治って、公務をこなせると思っていたフシがあるそうです。

事実かどうかはわかりませんが、そうした大正天皇をみて周囲は、半ば強引に、詔勅の印鑑を取り上げたといわれています。

その後は日光・沼津・葉山と転地療養を続けていましたが、1926年(大正15年)11月に病状が極度に悪化し、同年12月25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸において崩御。

この際には長く会えなかった実母の柳原愛子(二位局)の手を握ったまま亡くなったそうで、御年47才。臨終の床に生母を呼んだのは皇后の配慮だったといわれています。

その死は、このころ軍国主義をひたすらまい進していた政府にとってはむしろ好都合だったようです。偉大なる明治の復活をとげ、富国強兵復活の昭和キャンペーンを張るためにはむしろ時代に逆行するような言動と行為を繰り返していた大正天皇の死を好機ととらえる向きも多かったのです。

そしてそれを象徴するかのようにやがて世界情勢は日本帝国を孤立化させていき、やがて5・15事件や2・26事件などの軍部の暴走が始まっていきました。

この亡くなった大正天皇の病気はいったい何だったのか、というのは誰しもが気になるところです。幼児期の髄膜炎の再発でなかったとすれば、何が原因だったのでしょうか。

これについては現在までに公表されている皇室資料にもその病因を特定できるに至る詳しいものはないようであり、また、大正時代といえば現代に比べればはるかに医学が未発達の時代です。極論すれば現代明らかに病気であると特定されているような病気さえも単なる感冒程度に考えられていた時代のことです。

このため、はっきりとした特定はできないようですが、多くの医学関係者は過度のストレスによる神経衰弱と、身心の失調、喪失、それが元による抵抗力の低下、そして公務による心労の重なりが原因ではなかったかと指摘しているようです。

これらに加え細菌等感染症等が合併症を併発し、これにより神経症や弱度の脳溢血を起こしたのではないかと指摘する医者もおり、事実、宮内省の発表では「脳貧血」という表現が使われているそうです。

こうした状況下では記憶や言語に障害が見られ、手足も次第に麻痺し、ついには寝たきりとなることが多いそうです。裕仁皇太子が摂政となるころには既に言語は明瞭ではなく、アー、アーといった程度しかしゃべれなかったという話もあります。ただ、最後の直接の死因は、肺炎による心臓麻痺ということです。

ただ、以上のことから、その後巷で噂されるような精神失陥がもとよりあった、というわけではないらしく、現代の天皇のように公務に入られる際にはその激務を考慮して細かい配慮がなされていれば、もう少し長生きされたのではないかと考えられます。

こうした事実関係をみてくると、明治天皇やその後の天皇は軍神、あるいは「現人神」として崇めたてられましたが、この大正天皇はその二人の間に挟まれ、本来の自分とはかなりかけ離れた役割を担わされた悲劇の天皇というふうに考えることもできます。

その皇太子時代を見る限りはかなり庶民的な人であり、天皇となってもかなりリベラルな行動をとっており、それであるからこそ「大正デモクラシー」といわれる自由な雰囲気も生まれたのだと考えられます。この時代を象徴する「人物」ともいえ、戦後の今の時代であればもっと人気の高い天皇となっていたかもしれません。

明治と昭和の境といいうその時代にあって現代の皇室よりもむしろある意味開かれた皇室であったのではないかという気さえしてきます。

なにはともあれ、いろいろ調べてきて御脳が……といわれるような人物ではなかったことだけは確かそうです。そうした「汚名」が少しでも晴れたなら亡くなった大正天皇にも喜んでいいただけるように思います。

歴史というものは偏見を持たず事実のままに見つめていくことが大事だと思います。もしかしたらほかにも、後世の人々の誤解により実際とは異なる評価が定着してしまっている人物がいるかもしれません。そうした人物に気付いたらまたこのブログで取り上げてみたいと思います。そうすることがその人物の供養にもつながるわけですから。




特殊潜航艇のはなし


今日12月8日は、1941年に真珠湾攻撃が行なわれ、太平洋戦争が勃発した日です。真珠湾ことパールハーバーには、確かハワイ大学に入学する前に一度行ったことがあります。撃沈された戦艦アリゾナの上に建造されたアリゾナ記念館には、陸上から船でアクセスするようになっていたと思います。

何が展示されていたかはあまりよく覚えていませんが、奇襲にあって大破したアリゾナの付属品や写真などの展示が主だったように思います。

今もパールハーバーは現役の海軍基地として存在し、そこへの一般人への出入りは厳しく規制されていますが、このアリゾナ記念館周辺だけは観光客へ解放されています。アリゾナ記念館へ向かう途中、真珠湾の全体が見通せるのですが、水平線のかなたまで見通せるほどのかなりオープンな湾であり海側から飛行機が浸入してこようとするとすぐにわかってしまいます。

実際日本軍機の侵入は山側から行われたようであり、アメリカ側はほとんど無警戒に近い状態であったことから、この奇襲は成功し、戦艦アリゾナを初めとして戦艦5隻が沈没、ほか、駆逐艦2隻、標的艦1隻も沈没、停泊中であった他の戦艦や巡洋艦の多くも中破する損害が出ました。このときの軍人の戦死者は2345人にのぼり、民間人も57名が犠牲になりました。

対する日本側も無傷だったわけではなく、攻撃機のうち未帰還だった機が29機、損傷74機のほか、戦死者も55名を数えました。

このほかあまり知られていないようですが、特殊潜航艇による特別攻撃隊も真珠湾に侵入しており、これら5隻の全部が未帰還に終わり、乗船していた9名が戦死、1名が捕虜となりました。

この特殊潜航艇による攻撃については、連合艦隊の司令長官の山本五十六大将は、隊員の帰還の確実性がない、として当初その実施を許可しなかったそうです。

太平洋戦争の末期には、航空機や特殊先攻艇による「神風攻撃」が行われ、多くの若者が亡くなりましたが、本来、日本海軍はこの山本大将のように、将兵を生きて帰還させることを是とする風習があったそうです。開戦当時にはまだこうした精神のもと、将兵が大事にされていたのです。

この特殊潜航艇は、「甲標的」と呼ばれていました。その名のとおり、潜水艇というよりも魚雷を意味するネーミングで、当初の計画の中には乗員ごと敵艦に体当たりさせて爆沈させることも視野に入れられて設計計画が練られたといいます。

しかし、やはり将兵を無事帰還させるべきであるとの意見のほうが強く、基本的には攻撃後に帰還可能な装備や機能を備えた設計に変更されたそうです。

この甲標的がどんな潜水艦だったのか興味があったので調べてみました。その開発は真珠湾攻撃を遡ること10年前の1931年(昭和6年)から既に始まっていたそうで、試行錯誤を重ね多くの試作品が作られたようです。

真珠湾攻撃に合わせるために急造された安直なものかと思ったらそうではなく、かなりまともな潜水艇で、兵装としては魚雷2本を艦首に装備し、最初は電池だけで駆動させたようですが、後に発電用のディーゼルエンジンを装備し、ディーゼルと電気の両方の動力源を持つように改良されました。

当初は洋上襲撃を企図して単独で航行できるよう設計されたようですが、のちに装備を軽くするため、長距離を航行させることを断念し、より大型の伊号潜水艦のような母艦の甲板に搭載し、水中から発進するように設計が改められました。

母艦の甲板から出航後は、敵の港湾・泊地内部に侵入し、敵艦船を攻撃するいわゆる「奇襲」を前提に計画されたものであり、その計画から建造に至るまで厳重な機密保持が求められました。

最終的に「甲標的」の正式名称が与えられたのは1939年(昭和14年)のことですが、この「甲標的」という名前も潜水艦であることを内外にわからないようにネーミングされたもののようです。「甲標的」という名前すら戦前は秘匿され、その秘匿は真珠湾攻撃が終わるまで続きました。

甲標的の全長は約24m、全高3.4m、最大直径1.85mで全没排水量は46tでした。深さ100mまで潜れたといいますから、大きさはともかくかなり本格的な潜水艦です。

船殻は前部・中央部・後部のセクションから構成されており、このセクションごとに分解して内部に納められた魚雷射出筒、蓄電池、発動機などを整備できたそうです。

このうちの中央部セクションは全長10mほどで、内部は中央部分に司令塔と搭乗員の操縦室、前部と後部に蓄電池室がありました。中央部操縦室の前席に補助の船員(艇付)が、後席に艇長が座る二人乗りが基本でした。艇付は操舵と艇の浮上沈降などを担当し、艇長は索敵と運行指揮を担当しました。

直径70cmほどの司令塔内部スペースには昇降可能な潜望鏡が備えられ、艇の最前部に無線用のマストが格納されていて、浮上時に操縦室天井の手動ハンドルで昇降できるようになっていました。

艇内には無線機や電灯などの電装品が備えられ、このほか放電計、界磁調整器、応急タンクなどの安全装備や、船を安定して航行させるための舵輪や深度器、狭い艇内を航行時に点検できるように、小判型の小さな連絡孔まで設けられていました。

動力源には40馬力ディーゼルエンジンが搭載され、これは25kwを出力する発電機を駆動させることができ、これにより2日間の行動時間と、水上速力6ノットで500海里(925km)の行動距離が与えられました。

ハワイ作戦に参加した甲標的には、港湾襲撃という目的のためさらにさまざまな追加装備を施されました。港湾への潜水艦への侵入を防止するための「防潜網」を切断するため艇首には「網切器」が装備され、艇尾にはプロペラに網が絡みつくのを防ぐためのプロペラ・ガードが追加されました。

内部的には母艦と艇との連絡電話(有線)が装備され、長距離の航行が想定されなかったことから蓄電池25個を降ろして操舵用の気蓄器を増設しました。そして、敵に捕獲されそうになったときのための自爆装置が追加されました。

甲標的の武装は、先端部に装備された魚雷を2本だけでした。この魚雷は直径45cmあり九七式酸素魚雷と呼ばれる高性能のものでした。射程距離は5000mもあり、雷速50ノットで炸薬量は350kgであり、この魚雷2本分の火力は攻撃機2機分に相当したといいます。

ただ、魚雷を撃ち出すと1トン近い浮力が発生し、艦首が跳ね上がり、海面へ飛び出しただけでなく、この不安定な挙動のために魚雷も偏った方向へ撃ち出され、狙った方向へ進まないなど、命中精度に関しては大きな課題を抱えたままでした。このため敵艦に対する最適発射距離は800mとされ、かなり敵に接近しないと魚雷を放てないという欠点がありました。

攻撃の前提となる索敵能力も乏しく、電波兵器もソナーも持たないため、外界をさぐる手段としては長さ約3mの特眼鏡が一本のみでした。大型マストをもつ戦艦などを視認するには十分でしたが、その視認距離は30km程度が限界でした。

また、小型艇であったため、波浪にもまれやすく、常に揺れる狭い視界で索敵を行うのは非常に困難で、また敵を発見しても敵艦の進行方向、速度などの諸元を割り出して魚雷発射の方位、タイミングを算定するのは至難の業だったといいます。

その機動力にも問題がありました。その構造上、舵より後にプロペラを配さざるを得ず、このため舵がききにくい構造となり、その旋回範囲400mは大型艦並みでした。水中最大速力は19ノット(時速約35km)が出たものの、持続時間は50分程度であり、現実的な常用速力は6~10ノット(時速11~18km)程度にすぎませんでした。

さらに住環境は極端に悪く、潜航では12時間が搭乗の限界であり、これは二酸化炭素の増加、酸素の欠乏、ガス、艇内の温度上昇、搭乗員の疲労などが原因でした。

小型なぶん反響信号強度が小さいため、レーダーなどにはキャッチされにくい利点はありましたが、逆に小さすぎる艇体は外洋では上下しやすく、しかも一定の深度を保ちにくかったため、攻撃のために特眼鏡を使用する深さまで浮上すると、発見されて攻撃を受けやすいという大きな欠点がありました。

実際、真珠湾攻撃ではこの欠点が露呈し、複数の甲標的が航空機によって発見され、撃沈されています。

真珠湾攻撃における実際の行動ですが、甲標的による攻撃は5隻によって行われることが事前に決定し、これを搭載した伊号潜水艦5隻が11月18~19日にかけて呉沖の倉橋島の亀ヶ首を出撃し、12月7日にはオアフ島沖10~23km付近まで接近しました。

そしてハワイ時間午前0時42分(日本時間20時12分)から約30分間隔でこの5隻は順次母船を離れ、真珠湾に向かって出撃していきました。日本側の記録によればその結果、5隻全艇が湾内に潜入することに成功し、3隻が魚雷攻撃を行うことができたといいます。

しかし前述のように波によって艦が上下して露呈しやすいという欠点が災いし、敵機に発見され、4隻が撃沈、1隻が座礁・拿捕され、帰還艇なしという結果に終わりました。その後、撃沈されたうちの3隻はすぐに発見されましたが、残る1隻は行方不明でした。

しかし、その後の捜索により発見され、アメリカ軍が内部を改めたところ魚雷は未発射であったということで、このことから魚雷攻撃を行ったのは2隻ではないかといわれています。

その戦果については必ずしも明らかになっていません。最近までまったく成果はなかったのではないかと言われていましたが、近年アメリカ軍の資料の中に、特殊潜航艇によって戦艦ウェストバージニアと戦艦オクラホマへの雷撃が行われたという記述が見つかっており、雷撃を受けたうちのオクラホマは特殊潜航艇による雷撃が原因で転覆したのではないかという評価もされているそうです。

この雷撃に成功した「らしい」1隻が座礁したのは、魚雷発射後に自沈したためとみられており、撃沈された4隻では乗組員8名全員が死亡。座礁した艇は一人が捕虜となり、もう一人は水死しました。この戦死した8名と水死した1名を合わせた9名は、その後二階級特進し、「九軍神」として顕彰されました。

座礁した艇から脱出して漂流中に捕虜となったのは、この艇の艇長で「酒巻和男」という海軍少尉でしたが、日本軍は彼が捕虜となったことは公表しませんでした。また、この九軍神を顕彰する配慮から、撃沈ではなく自沈であり、空中攻撃隊の800キロ爆弾で撃沈された戦艦アリゾナは特殊潜航艇による撃沈という発表が大本営から行われたそうです。

こうして、真珠湾攻撃では華々しいとはいえない戦果しか挙げなかった甲標的艦ですが、その後も改良が続けられて建造されつづけ、昭和19年までに100隻近い数が進水しました。

実戦投入されたうち、ある程度の戦果を上げたとされているのはマダガスカル島のディエゴ・スアレス港の攻撃などで、この攻撃では戦艦ラミリーズを大破させ、タンカー「ブリティッシュ・ロイヤリティ(6,993トン)を撃沈しています。

またガダルカナルの作戦では8隻が潜水艦から発進、ルンガ泊地を攻撃し、米輸送艦アルチバとマジャバの2隻を撃沈しています。この攻撃では5隻が生還し、艇はいずれも自沈処分されましたが、搭乗員は無事味方基地へ帰投しました。

さらにフィリピンの別の作戦ではセブに主基地を作り、前進基地を設けて甲標的が進出、米船団部隊を狭い水道で襲撃しており、甲標的8隻をそろえて集中運用した結果、日本側判定としては艦船20隻を撃沈したとしています。

ただし、米側は駆逐艦1隻の喪失を記録しているだけだそうで、戦時中の大本営は過大な戦果を発表する傾向がありましたから、米側の記録のほうが正しいのかもしれません。

このように太平洋戦争を通しての甲標的艦の戦果はいまひとつぱっとしないものでしたが、前述までのように、潜水艦としてはかなり本格的なもので、欠陥は数多くあったものの、もし戦争に日本が負けなかったら、その技術を使ってもっと優れた潜水艦が作られていたかもしれません。

しかし、負け色が濃くなっていく戦時中において、その欠陥を大きく是正することはかなわず、にもかかわらず欠陥のある特殊潜水艇を使っての作戦遂行の難しさは現場の搭乗員たちの間でも大きな不満になっていたそうです。

そして、その不満が人間魚雷「回天」の開発につながっていったのではないかという見方もあるようです。どうせ欠点ばかりの特殊潜航艇ならば、不要な装備は削ぎ落してしまって、単に人が乗る「魚雷」にしてしまったほうが、むしろ命中精度は上がるだろうと……

戦況が悪化していくなか、積極的に旧来の兵器で使えるものは使い、生身の人間をその兵器の一部として犠牲を強いる。当時の軍の上層部が考えたことではありますが、逆に前線で戦う兵士の間では戦況が好転するならばと、むしろそうした考え方を受容する雰囲気があったのかもしれません。

パールハーバーから71年。甲標的のような特殊潜航艇はもう作られていませんが、潜水艦そのものは国産で依然製造され、自衛隊が保有しています。もしこのころの技術が継承され、より欠陥の少ない艇が完成していたら、もしかしたら周囲を海に囲まれている日本のこと、「自家用潜水艇」なんてものもできていたかもしれません。

造船業も頭打ちとはいえ、いまだに世界に冠たる高い技術を持っている日本のことです。そうしたものを考え出すような斬新な発想ができるメーカーがひとつぐらいあってもいいのではないでしょうか。

もしそんな夢の船があったら自分ならどうするか。考えただけでもワクワクします。まだまだ死ぬまでには時間がありそうです。あと、30年は生きられると思うので、それまでには、ちょっと自家用潜水艦で伊豆大島まで行ってきまーす、そんなことが実現される時代が来るのではないでしょうか。

宮島にて


先日山口の実家へ帰った際、日帰りで広島へ行く機会にめぐまれました。広島にいるタエさんの独身時代のお友達たちが、それぞれの誕生日の際に集まって「女子会」をやるのですが、12月は彼女の誕生月でもあり、その誕生会がタイミングよく我々の帰省の時期と重なりました。

そんな会にヒゲオヤジが参加すると集中砲火を浴びそうなので、わたしは丁重に参加をご辞退申し上げ、ひとり静かに、懐かしの宮島へ行くことにしたのです。

宮島は我々二人が結婚式を挙げた場所でもあり、子供のころから慣れ親しんだいわば心のふるさとのような場所です。

瀬戸内海に浮かぶそこはいつ行っても美しく、島へ上陸するたびに心が洗われるような気分になるのが大好きで、もう何回行ったでしょうか。子供のころからのときから数えると少なくとも20回以上、おそらくは30回以上は渡っていると思います。

対岸にある「宮島口」からはフェリーが出ていて、このフェリーには二つ種類があります。ひとつはJRが運用しているもので、もうひとつは「松大汽船」が運行しているもの。この組み合わせも昔から変わらず、どちらも同じ運賃だし、船の構造もほとんど同じです。

なぜ二つあるのかよくわかりませんが、二路線あってもそれなりの採算がとれるほど多くの観光客が訪れるということなのでしょう。

初めての人はこの二つのどちらに乗ればよいのか迷うようですが、お互いの運行時間が15分間隔ぐらいできちんとずれていて、宮島口についたときに一番早く出る船に乗ればよいのです。が、どういうわけか、私が宮島へ渡るときにはJRのほうが多いような気がします。どういうめぐりあわせなのでしょうか。

この日は朝から快晴でしたが、お昼ぐらいから少し雲が出てきて、洋上からの眺めもいまひとつすっきりしませんでしたが、それでも東に目を転じればカキ養殖の筏の間に瀬戸内海の美しい島々が見え、また西のほうをみると、近年その湾岸がずいぶんと開発された広島市内の景観が見えます。

広島は私がかつて住んでいたころに比べて、どんどん海の埋め立てが進み、ここに高架橋や橋をめぐらして交通の便が図られ、遠目にこれらをみるとなるほど近代化された都市になったな、というかんじがします。

近隣の山口県や島根県などの過疎県からの移住者も増えているためか、人口もどんどん増えているようで、宅地はいくらあっても足りないようです。

よく広島では「家が山に登る」といわれますが、広島市街を囲む山々の斜面の多くは開発が進み、こんなところにも家が……というようなところにまで団地ができており、これらの家々が立ち並ぶ山々の様子も宮島へ行くフェリーの上からまざまざと見ることができます。

島へ渡ると、いつものようにそこは観光客で賑わっていました。平日だったため、それでも少なめだったのでしょうが、今年は「平清盛」がNHKで放送されているせいか、やはりいつもよりもお客さんが多いような気がしました。

初めて宮島へ渡る人が驚くのが、本物の鹿がいること。奈良の中心部にもいるので、これを見たことのある人は驚かないようです。が、初めて鹿を見て、しかも手で触れることができることに驚く人も多く、おとなしい鹿を「拉致」してうれしそうに一緒に写真を撮っている観光客をみるといつもほほえましい気分になります。

亡くなった最初の妻を初めて宮島に連れて来てこの鹿をみせたときも、本当にうれしそうで、はじけるような笑顔であったことなどが思い出されます。

この日は特にどこを散歩しようと決めていたわけではなかったのですが、足は自然と厳島神社の本殿のほうに向き、たくさんの観光客が海の上に浮かぶ大鳥居をバックに記念写真を撮っているのを尻目に、社殿入口の回廊に到着。

前回ここへ来たのは確か今年の正月だったと思いますが、そのときはまだあちこちで前年の台風で壊された回廊の部分修理を行っていました。今はその修理も完了し、きれいなまままの本来の姿がそこにありました。

回廊を進むうち、雅楽らしい音が聞こえてきます。あー聞き覚えのある音だな、と思ったらやはり、この日本殿では結婚式が行われていました。羽織紋付の新郎と白無垢の新婦がちょうど神殿のほうに向かって「誓いの言葉」を述べているところで、その両脇で神官たちがひちりきなどを奏でています。

宮島でのこうした結婚風景はそう珍しいものではないのですが、一日に二~三組しか予約が入れられないはずで、案外とタイミングよくこれを目にすることができません。なのでラッキーといえばラッキーなのですが、なんのことはない、我々自身も4年前、ここで同じように結婚式を挙げ、声高らかに誓いの言葉を吟上しています。

新郎が誓いの言葉をのべているちょうどその最中にお賽銭をして手を合わせ、今度はおみくじです。前回来たときは「凶」を引いてしまったので、今日はそのリベンジのつもりでしたが、引きあてたのは「平吉」というもの。

良くも悪くもない運勢で、少しホッとしました。この宮島のおみくじには結構「凶」が含まれています。また、「平吉」などというのは私も初めてですが、結構変わった占い結果が出るので、厳島神社へ参拝される方はぜひこれを楽しみにしてもらいたいものです。

おみくじの紙も真っ白な細長の紙に黒字で占い結果が印刷されているだけのシンプルなもので、他の神社のおみくじのように紋章やら模様やらは一切入っておらず、何か特別なご宣託が得られたような気分になります。

参拝を済ませ、あとはもうとくに用事もないので、紅葉谷と呼ばれる場所のほうへブラブラと歩いて行きました。その名の通りモミジの名所として知られますが、私は一度も紅葉の季節にここへ行ったことがありません。

神殿近くのモミジはもうほとんど散っていたので、紅葉谷のほうももうあまり残っていないだろうと期待していませんでしたが、とりあえず行ってみようと思い、そこへ行く脇道へ入ったところの四つ角で、「大聖院」と書かれた矢印標識を見かけました。

そういえば行ったことがないよな、と思い、行ってみることに。後日調べてみたところ、この大聖院(だいしょういん)は真言宗の御室派という一派の大本山だそうで、別名「多喜山(滝山)ともいわれ、正式名称は「多喜山大聖院水精寺(すいしょうじ)」という名前だそうです。

宮島で最古の歴史を持つ寺院であり、厳島神社の別当寺として祭祀を司り、社僧たちを統括してきた由緒ある寺院だそうです。

これまで宮島を訪れていた目的は神社への参拝が主であり、神社以外のお寺にはあまり興味がありませんでした。

しかし、調べてみるとなかなか歴史の古いお寺さんらしく、古い仏像もたくさんあるようです。観音堂にはご本尊の十一面観世音菩薩があるそうで、このほか勅願堂というお堂にも波切不動明王という像があり、このほか、三鬼大権現、七福神、一願大師など数多くの仏像が安置されているとのこと。仏像好きの人はそそられるかもしれません。

このお寺ができた由来ははっきりしていないようですが、伝承では、806年(大同元年)に空海が宮島に渡り、島の最高峰「弥山(みせん)」の上で修行した際に開基したといいます。鳥羽天皇の勅命の祈願道場にもなったことがあるというのですが、そのありがたみは今一つピントきません。が、ともかく古くて由緒あるお寺さんであることには間違いありません。

しかし、空海と宮島の結びつきは、史実としては確認できないそうで、文献上では、1177年(安元3年)の「伊都岐島水精寺勤行日記注進状案」及び同年の「太政官牒案」にこのお寺のことを示す「水精寺」という名前が出てくるのが最初だとか。

1887年(明治20年)には、火災で大部分の伽藍が焼けてしまい、現在あるお堂群はその後整備されたもののようです。

後日タエさんに聞いた話では、2006年(平成18年)の11月には宮島・弥山の開創1200年を記念してダライ・ラマ14世がこのお寺を訪れて大きな話題になったとか。このときはダライ・ラマを交えて本尊の弥勒菩薩の開眼法要が営まれたそうで、ダライ・ラマ見たさに多くの人がここまで参拝に来たといいます。

小高い山の斜面にある本坊へ行くためには、少し急な階段を上っていきます。上りきったところで振り返ると瀬戸内海が見通せ、なかなかの眺め。入口に仁王門と御成門があり、これをくぐると、勅願堂、観音堂、摩尼殿、大師堂、霊宝館など多くの堂宇があります。

弘法大師が開いたという「大師堂」の地下には人工洞窟の遍照窟があり、中へ入るとそうですね、2~300体のお地蔵さん?が据えられていて圧巻です。が、ものすごい霊気があって私は数分しかここにいられませんでした。

このほか境内には至るところに小仏像が祀られ、500羅漢なるものもあったりして、独特の景観です。けっして古いものではなく、最近作られたものが多く、近代的な服装を着てメガネをかけたお地蔵さんなどもあって、ちょっと笑えます。

このお寺もそうですが、各地で「弘法大師」が開いたというお寺や温泉などは実は弘法大師、すなわち「空海」個人のとった足跡とは必ずしも一致しません。

弘法大師に関する伝説が残る場所は、北海道を除く日本各地に5000以上もあるそうで、歴史上実際に空海が歩いて回った場所の数をはるかに越えています。

中世以降、日本全国を勧進して廻り、真言宗や浄土教を説いて回った遊行僧である高野聖(こうやひじり)が、弘法大師が開いたと宣言した場所も多いようですが、こうした場所や事象が弘法大師が結び付けられたという事実はむしろ少ないようです。やはり空海の幅広い分野での活躍を通じての尊崇がこうした場所と空海を結びつけたのでしょう。

弘法大師「ゆかり」とされるものはお寺だけでなく、仏像などの彫刻、聖水、岩石、動植物など多岐にわたりますが、特に温泉などのいわゆる「弘法水」に関する伝説は日本各地に残っています。

弘法水とは、弘法大師が杖をつくと泉や温泉が湧き井戸や池となった、といったアレです。日本全国で千数百件にのぼるといわれており、わが修善寺温泉もそのひとつです。場所やそのいわれによって、「独鈷水」「御加持水」などと呼ばれることもあります。

弘法大師が発見したといわれている温泉はこんなにもあります。

あつみ温泉(山形)
大塩温泉(福島)
芦ノ牧温泉(福島)
出湯温泉(新潟)
瀬戸口温泉(新潟)
清津峡温泉(新潟)
関温泉(新潟)
燕温泉(新潟)
川場温泉(群馬)
法師温泉(群馬)
修善寺温泉(静岡)
伊豆山温泉(静岡)
湯村温泉(山梨)
鹿塩温泉鹿塩温泉(長野)
海の口温泉(長野)
赤引温泉(愛知)
龍神温泉(和歌山)
関金温泉(鳥取)
湯免温泉(山口)
千羽温泉(徳島・四国八十八か所23番札所近く)
清水温泉(徳島)
東道後温泉(愛媛)
まむし温泉(福岡)
杖立温泉(熊本)
熊の川温泉(佐賀)
波佐見温泉(長崎)

このうち修善寺温泉以外では、郷里の山口にある湯免温泉を私はよく知っています。日本海側の長門市近くにある温泉で、あるとき地元の人が弘法大師の夢をみて、その中で大師がここほれホイホイと言った場所を覚えていて実際に掘ってみると温泉がでたのだそうで、「夢」にみた温泉ということで、湯免温泉(ゆめおんせん)と呼ばれるようになったとか。

これ以外の温泉もだいたい似たようなホラ話の上に成り立っているようで、これらの中に本当に弘法大師が掘り当てたものがあるのかどうかもわかっていないようです。

多くは弘法大師が亡くなったあとに、開湯伝説を地元の人がでっち上げたものが多いのでしょう。弘法大師の徳を広めたという高野聖たちの中には、離農して坊主になった人が多く、この中には山師的なものもおり、こういう坊主たちが温泉を探り当てた際に弘法大師の名前を語ったというのも多いのではないかと思われます。

温泉だけでなく、このほかにも弘法大師が由来とされる伝説や伝承としていろんなものがあります。「平仮名」もその一つと言われ、「いろは歌」も弘法大師が作ったといわれています。無論根拠はありません。

このほか、お灸、讃岐うどん、手こね寿司、九条葱、なんてのもあり、ある場所では水銀鉱脈を発見したとか、弘法大師はダウジングができたという伝承もあります。

ダウンジングとは、90度に曲げた針金を両手で持って、水道管などが埋まっている場所の上へ立つとこれが、開くというアレです。こうした水銀の鉱脈の発見やダウンジングなどは弘法大師が温泉を掘り当てたという伝承の延長から出てきたものだと思います。

さて、弘法大師論議はこれくらいにしましょう。

大聖院を跡にして、その次には紅葉谷にも行ってみましたが、やはりここの紅葉はほとんど終わっていました。それでも何ヶ所かはきれいな紅葉を見ることができ、安芸の宮島の秋をほんの少し味わうことができました。

そのあと厳島神社のすぐ近くにあり、豊臣秀吉が作ったという千畳閣へ登りました。実際には800畳ほどしかないといいますが、いつ来ても広大な大伽藍であり、そこから見える美しい瀬戸内海は秀逸です。しかし最近、海側の樹木が成長しすぎて海の眺めが少しスポイルされているのが気になりました。

そして千畳閣を最後に再びフェリーに乗って本土へ帰りましたが、振り返ってみると今回の宮島訪問の中で、大聖院はなかなかの印象でした。隠れた名所というべきか、過去に30回以上も宮島へ行っているわたしにとって初めての場所でしたが、なんというか趣きのある場所でした。

私はどちらかというと霊感のあるほうなので、その場所の「気」のようなものに敏感です。が、ここはそれほど気が強い場所というかんじはしませんでした。ただ、訪れて気持ちのいいと感じる場所はやはり何等かのパワーがあるといいますから、大聖院もまた隠れパワースポットなのかもしれません。

とくに遍照窟という洞窟の中は独特の霊気にあふれていて、おそらく他の霊感のある人は何をかを感じることができるのではないでしょうか。ご興味のある方はぜひ訪れてみてください。

さて、今日はこれくらいにしたいと思います。

今年もあとわずかになりました。私が行った宮島はお正月には大勢の参拝客でにぎわいます。お正月気分を味わうために行くのも良いでしょうが、このようなあまり観光客がいない時期を選んでじっくり歩く宮島もなかなかいいなと思いました。ぜひみなさんもトライしてみてください。

運がよければ、我々のように厳島神社で結婚式を挙げるカップルに出会えるかもしれません。いや、あなた自身が宮島で結婚式を挙げてはいかがでしょうか。

笹子峠のことなど


夕べ遅くに山口から帰ってきました。乗用車使用です。すべて高速道路を使っての移動ですが、その総延長距離は約850km。我ながら毎回ご苦労なこったとも思うのですが、この長距離を車で移動するにはわけがあります。

ひとつには、ドアツードアで目的地とここを往復できるため、荷物の運搬が容易、かつ電車や飛行機で移動するよりも大量の荷物が一度に運べること。「荷物」の中には愛猫のテンちゃんも含まれており、彼女の場合は電車や飛行機での移動はほぼ不可能です。

また、高速道路の料金やガソリン代を加味しても二人分の移動交通費は他の交通機関よりも安く済みます。高速道路の夜間割引を利用すればさらに安くなる、ということで、その割引料金が適用される深夜12時をめどに、あちらの出口、またはこちらの入口を通過します。

高速道路料金のしくみをあまりよく知らない方には何のことか、わかりにくい話ですが、NEXCOの料金体系では、深夜12時から朝方4時までの時間帯に、入口か出口かのどちらかを通過すれば、その全行程の料金が半額になるのです。

以前、いわゆる「1000円高速」が適用されていたときには、これが適用される土日祝日にこの移動を行っていたのですが、この割引が撤廃されて以降は夜間割引が適用になる時間帯を選んで移動することにしています。

長距離の移動になるため、当然疲れます。が、最近の乗用車の性能は2~30年前に比べれば格段によく、安定性能も抜群なのでそれほどの疲労感はありません。ただ、途中途中でしっかりと休憩をとり、無理な追い越しは避け、トラックやバスはできるだけ敬遠して走ります。

高速道路の事故のほとんどは、トラックやバスなどの大型車がらみです。彼らの前後をできるだけ走らないように注意し、つねに「危険回避」を念頭に高速道路を走るべきである、ということを、「自動車評論家」の徳大寺有恒さんの「間違いだらけの運転テクニック」でその昔読みました。

運転免許をとりたての若いころに「運転バイブル」として読んだもので、今も出版されているかどうかはわかりませんが、運転をはじめたころの私にとっては非常に役立つ本でした。

どうやったら運転技術がうまくなるか、ではなく、どうやったら危険回避を行いつつ、安全に乗用車を運行させるか、という視点で書いてあり、今でもこの手のハウツーものの中では秀逸だと思います。今も出版されているかどか知りませんが、みなさんも一度読まれてはいかがでしょうか。

今もこの本の教えを守りつつ、ひたすら高速道路を飛ばしますが、昨年までは東京に住んでいたため、先日事故のあった中央道の新笹子トンネルもよく通りました。天井の構造など気にも留めていませんでしたが、トンネルを通っていてまさかその天井が降ってくるなんて誰が想像できたでしょう。

人災ではないかといろいろ取沙汰されていますが、一日も早く原因を究明して、他にもあると思われる危険トンネルの排除をできるだけ早く実現してほしいものです。

ところで、この中央自動車ですが、東名のほうは東名「高速道路」なのに、なぜ「自動車道」なんだろう、と不思議に思ったので調べてみました。

すると、この中央自動車道も、じつは開通当初、既に建設されていた東名高速や名神高速と同様に「中央高速道路」と呼ばれていたようです。しかし、開通当初は暫定2車線の対面通行だったうえ、中央にセンターポールも分離帯もないという危険な状態であり、しかも追越しも許されていたという有様でした。

このため、「高速」道路だから、ということでスピードを出しすぎるドライバーが増えたために交通事故が頻発するようになってしまったため、あわてた建設省は「高速道路」という呼称を改め、中央「自動車道」という名前に改めれば事故が減るのではないか、と考えました。

実際にそれで事故が減ったのかどうかはわかりませんが、その後も新たに開通した高速道路では、道路名称に「○○高速道路」が用いられることはなく「○○自動車道」に統一するようになったということです。

ただし、既に名前が定着してしまっていた東名・名神についてはそのままとし、近年新たに作られた新名神高速や新東名高速についても、以前の名前を踏襲しているということです。

これで長年の謎?が解けました。が、上限速度が70~80km程度の自動車専用道路と、上限速度80kmとはいいつつ実質上限速度が100km程度の中央自動車道とが同じ「自動車道」というのは現実的ではありません。

中央自動車道ではほぼ全区間で上限速度は80kmという標識が設置されているのを尻目に、ほとんどの車が100kmに近い速度で通行しているのをみると、なんだかばかばかしくなってきます。

中央自動車道や中国自動車道もすべて、スパッと「高速道路」とし、上限速度標識も現実に合わせて100kmにすればいいのに……と思うのは私だけでしょうか。

この中央自動車道ですが、いわずと知れたその昔の旧街道である「甲州街道」の高速道路版の新名称です。甲州街道は、江戸幕府によって整備された五街道の1つであり、江戸(日本橋)から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで38の宿場が置かれた街道でした。

近世初頭には「甲州海道」と書かれていたそうで、1716年(正徳6年)に全国の街道呼称が再整備され、そのときに正式名称としては「甲州道中」に改められますが、既に旧来の「海道」が定着しており、これをもじって一般には「甲州街道」と呼ばれるようになったようです。

乗用車などなかったその昔の交通の主役は中馬(ちゅうま)でした。この当時、信濃・甲斐は中部山岳地帯が国内を貫通し、信濃においては河川は水運に向かなかったために山越えのし易い馬による輸送に依存せざるを得ず、この馬のことを中馬と呼んでいました。

五街道などでは公式の「伝馬」は隣接する宿場町間のみの往復に限定され、宿場町ごとに馬を替えなければならずかつ駄賃や問屋場口銭を徴収されたことから、大変不便な交通手段と人々に認識され、大変不評でした。

一方、江戸時代初期頃より沿道の農民が自己の物品を城下町などに運ぶ馬のことを「手馬(てうま)」と呼んでいましたが、この手馬を使って寛文年間ころより副業として駄賃馬稼が行われるようになりました。

これが次第に専業化して顧客の依頼を受けて顧客の元から相手先の宿場町まで荷物を運ぶようになり、1690年代の元禄年間初頭には「中馬」と呼ばれるようになりました。

中馬は宿場町で馬を替える必要がない「付通し」あるいは「通し馬」と呼ばれる仕組で運営されていたため、手数料を取られたり荷物の積み替えの際に荷物を破損する可能性が低く、このため物流の主役として急激に成長していったということです。

そんな中馬を主体として陸上運送が行われた甲州街道は、江戸の町において陰陽道の四神相応で言うところの「白虎」がいるとされる街道でした。

白虎は、西方を守護する神獣で細長い体をした白い虎の形をしており、四神の中では最も高齢の存在であるとも言われています。このことからも西国の敵から江戸を守るためには甲州街道が重要視されていたことがわかります。

甲州街道の開設や各宿の起立時期は明確ではなく、甲州街道は一時に整備されたのではなく、戦国期から段階的に整備されたと考えられているようです。

江戸時代になってからは各地の街道の整備が行われましたが、甲州街道はとくに、徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成された街道だということです。

このため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ね、また短い街道であるにもかかわらず、東京川の八王子の小仏峠や甲州側の鶴瀬などに関所を設けています。

甲府城を有する甲府藩は江戸幕府の「親藩」であり、このため沿道の四谷という場所にはその配下の伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されました。

これにより、万一将軍が甲府まで避難しなければならないような事態になったときには、この鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難し、その後に江戸に取って返して江戸城奪還を図ることが想定されていたということです。

参勤交代の際に利用した藩は信濃の高遠藩、高島藩、飯田藩などのお金持ちの藩ばかりです。それ以外の藩は中山道を利用したといいます。これは、下諏訪宿から江戸までの甲州街道は中仙道よりも距離はより短いものの、その沿道の物価が高く、街道沿線のインフラの整備状況は良かったものの、参勤交代には銭がかかりすぎたのがその主な理由のようです。

今日の甲州街道はルートを変えてしまっていますが、旧道は「笹子峠」を経由していました。この峠への道筋は山梨県道212号日影笹子線として残っていて、この県道にほぼ平行して「笹子峠自然遊歩道」があります。

この遊歩道が旧来の甲州街道にほぼ相当すると考えられているそうで、県道の頂上にある笹子隧道の直上が甲州街道最大の難所と言われた標高1096mの「笹子峠」です。八王子側から来た場合、峠を越えるとそこが甲州市になります。

先日トンネルの崩落事故があった笹子トンネルは、この旧甲州街道のすぐ近くにある「笹子雁ヶ腹摺山(ささごがんがはらすりやま)」の直下にあります。山梨県大月市と甲州市の境にある山で標高は1357.7メートル。

更にこの近くには「雁ヶ腹摺山(がんがはらすりやま)」という別の山があって、こちらは標高は1874メートル。どちらの山にもつけられた名前の「雁ヶ腹摺」とは、渡り鳥であるガンが、その腹をするようにして尾根を飛んでいくことからその名がついたと言われます。

他にも大月市にはガンが山腹ぎりぎりに越えていくと称される山や峠が多くあり、笹子雁ヶ腹摺山や笹子雁ヶ腹摺山のほかにも、大月市に牛奥ノ雁ヶ腹摺山という山があります。

これらの山の頂からの富士山の眺めは秀麗で、とくに雁ヶ腹摺山からの眺めは、富嶽十二景の一つに選ばれていて、西側の甲府盆地や南アルプスの展望も最高です。この山頂からの富士山の展望は、その昔五百円札があったころにその裏側に印刷されていた富士山の絵は、ここから撮影された写真が原画となりました。

そんなきれいな富士山が望める山頂のほぼ真下で、先日の中央自動車道の笹子トンネル事故は起きました。

最新の情報では、これを管理していたNEXCO中日本は、当初1年に1度定期点検、5年に一度詳細点検を行っているとしていましたが、2000年に行われた点検以降は、打音検査すらしていなかったという事実が、山梨県警による家宅捜索での、押収資料から発覚しているそうです。

そうするとやはり人災ではないか、という声があがってきそうですが、建築後35年以上も経過したインフラではここだけでなく同じような危険性をはらんだものも多くあるに違いありません。

施工元の飛島建設によれば、トンネルの建設途中に200mにわたる破砕帯が存在することが確認されていたそうで、その当時の工事のときには、粘土化した掘削土が大量に出たようで、また毎分6トンにもおよぶ湧水があったそうです。

こうした危険な場所に掘られたトンネルは、その当時の古い技術で作られたものであり、想像するに実際には強度不足の場所もあったに違いありません。あるいは、その当時には安全基準を満たしていたものが、地殻の変動などにより現在はより危険なものになっているのかも。

天災にせよ、人災であるにせよ、一日も早くその原因を究明して安心して通れる高速道路にしてほしいもの。

我々もまた、昨日山口から帰ってくる際のあちこちのトンネルでその天井を眺めていましたが、そんな心配をしなくても良いようになることを祈りたいところです。

原発の問題もしかり、道路や橋の老朽化の問題もしかり、我が国のインフラ整備の状況は大きな曲がり角に来ていることは確か。そこをどう切り抜けていくかによって次の時代の方向性が決まるような気がします。

そしてそのかじ取りをする政権党はどこになるのでしょう。メディアから目が離せない年末です。