笹子峠のことなど


夕べ遅くに山口から帰ってきました。乗用車使用です。すべて高速道路を使っての移動ですが、その総延長距離は約850km。我ながら毎回ご苦労なこったとも思うのですが、この長距離を車で移動するにはわけがあります。

ひとつには、ドアツードアで目的地とここを往復できるため、荷物の運搬が容易、かつ電車や飛行機で移動するよりも大量の荷物が一度に運べること。「荷物」の中には愛猫のテンちゃんも含まれており、彼女の場合は電車や飛行機での移動はほぼ不可能です。

また、高速道路の料金やガソリン代を加味しても二人分の移動交通費は他の交通機関よりも安く済みます。高速道路の夜間割引を利用すればさらに安くなる、ということで、その割引料金が適用される深夜12時をめどに、あちらの出口、またはこちらの入口を通過します。

高速道路料金のしくみをあまりよく知らない方には何のことか、わかりにくい話ですが、NEXCOの料金体系では、深夜12時から朝方4時までの時間帯に、入口か出口かのどちらかを通過すれば、その全行程の料金が半額になるのです。

以前、いわゆる「1000円高速」が適用されていたときには、これが適用される土日祝日にこの移動を行っていたのですが、この割引が撤廃されて以降は夜間割引が適用になる時間帯を選んで移動することにしています。

長距離の移動になるため、当然疲れます。が、最近の乗用車の性能は2~30年前に比べれば格段によく、安定性能も抜群なのでそれほどの疲労感はありません。ただ、途中途中でしっかりと休憩をとり、無理な追い越しは避け、トラックやバスはできるだけ敬遠して走ります。

高速道路の事故のほとんどは、トラックやバスなどの大型車がらみです。彼らの前後をできるだけ走らないように注意し、つねに「危険回避」を念頭に高速道路を走るべきである、ということを、「自動車評論家」の徳大寺有恒さんの「間違いだらけの運転テクニック」でその昔読みました。

運転免許をとりたての若いころに「運転バイブル」として読んだもので、今も出版されているかどうかはわかりませんが、運転をはじめたころの私にとっては非常に役立つ本でした。

どうやったら運転技術がうまくなるか、ではなく、どうやったら危険回避を行いつつ、安全に乗用車を運行させるか、という視点で書いてあり、今でもこの手のハウツーものの中では秀逸だと思います。今も出版されているかどか知りませんが、みなさんも一度読まれてはいかがでしょうか。

今もこの本の教えを守りつつ、ひたすら高速道路を飛ばしますが、昨年までは東京に住んでいたため、先日事故のあった中央道の新笹子トンネルもよく通りました。天井の構造など気にも留めていませんでしたが、トンネルを通っていてまさかその天井が降ってくるなんて誰が想像できたでしょう。

人災ではないかといろいろ取沙汰されていますが、一日も早く原因を究明して、他にもあると思われる危険トンネルの排除をできるだけ早く実現してほしいものです。

ところで、この中央自動車ですが、東名のほうは東名「高速道路」なのに、なぜ「自動車道」なんだろう、と不思議に思ったので調べてみました。

すると、この中央自動車道も、じつは開通当初、既に建設されていた東名高速や名神高速と同様に「中央高速道路」と呼ばれていたようです。しかし、開通当初は暫定2車線の対面通行だったうえ、中央にセンターポールも分離帯もないという危険な状態であり、しかも追越しも許されていたという有様でした。

このため、「高速」道路だから、ということでスピードを出しすぎるドライバーが増えたために交通事故が頻発するようになってしまったため、あわてた建設省は「高速道路」という呼称を改め、中央「自動車道」という名前に改めれば事故が減るのではないか、と考えました。

実際にそれで事故が減ったのかどうかはわかりませんが、その後も新たに開通した高速道路では、道路名称に「○○高速道路」が用いられることはなく「○○自動車道」に統一するようになったということです。

ただし、既に名前が定着してしまっていた東名・名神についてはそのままとし、近年新たに作られた新名神高速や新東名高速についても、以前の名前を踏襲しているということです。

これで長年の謎?が解けました。が、上限速度が70~80km程度の自動車専用道路と、上限速度80kmとはいいつつ実質上限速度が100km程度の中央自動車道とが同じ「自動車道」というのは現実的ではありません。

中央自動車道ではほぼ全区間で上限速度は80kmという標識が設置されているのを尻目に、ほとんどの車が100kmに近い速度で通行しているのをみると、なんだかばかばかしくなってきます。

中央自動車道や中国自動車道もすべて、スパッと「高速道路」とし、上限速度標識も現実に合わせて100kmにすればいいのに……と思うのは私だけでしょうか。

この中央自動車道ですが、いわずと知れたその昔の旧街道である「甲州街道」の高速道路版の新名称です。甲州街道は、江戸幕府によって整備された五街道の1つであり、江戸(日本橋)から内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで38の宿場が置かれた街道でした。

近世初頭には「甲州海道」と書かれていたそうで、1716年(正徳6年)に全国の街道呼称が再整備され、そのときに正式名称としては「甲州道中」に改められますが、既に旧来の「海道」が定着しており、これをもじって一般には「甲州街道」と呼ばれるようになったようです。

乗用車などなかったその昔の交通の主役は中馬(ちゅうま)でした。この当時、信濃・甲斐は中部山岳地帯が国内を貫通し、信濃においては河川は水運に向かなかったために山越えのし易い馬による輸送に依存せざるを得ず、この馬のことを中馬と呼んでいました。

五街道などでは公式の「伝馬」は隣接する宿場町間のみの往復に限定され、宿場町ごとに馬を替えなければならずかつ駄賃や問屋場口銭を徴収されたことから、大変不便な交通手段と人々に認識され、大変不評でした。

一方、江戸時代初期頃より沿道の農民が自己の物品を城下町などに運ぶ馬のことを「手馬(てうま)」と呼んでいましたが、この手馬を使って寛文年間ころより副業として駄賃馬稼が行われるようになりました。

これが次第に専業化して顧客の依頼を受けて顧客の元から相手先の宿場町まで荷物を運ぶようになり、1690年代の元禄年間初頭には「中馬」と呼ばれるようになりました。

中馬は宿場町で馬を替える必要がない「付通し」あるいは「通し馬」と呼ばれる仕組で運営されていたため、手数料を取られたり荷物の積み替えの際に荷物を破損する可能性が低く、このため物流の主役として急激に成長していったということです。

そんな中馬を主体として陸上運送が行われた甲州街道は、江戸の町において陰陽道の四神相応で言うところの「白虎」がいるとされる街道でした。

白虎は、西方を守護する神獣で細長い体をした白い虎の形をしており、四神の中では最も高齢の存在であるとも言われています。このことからも西国の敵から江戸を守るためには甲州街道が重要視されていたことがわかります。

甲州街道の開設や各宿の起立時期は明確ではなく、甲州街道は一時に整備されたのではなく、戦国期から段階的に整備されたと考えられているようです。

江戸時代になってからは各地の街道の整備が行われましたが、甲州街道はとくに、徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成された街道だということです。

このため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ね、また短い街道であるにもかかわらず、東京川の八王子の小仏峠や甲州側の鶴瀬などに関所を設けています。

甲府城を有する甲府藩は江戸幕府の「親藩」であり、このため沿道の四谷という場所にはその配下の伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されました。

これにより、万一将軍が甲府まで避難しなければならないような事態になったときには、この鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難し、その後に江戸に取って返して江戸城奪還を図ることが想定されていたということです。

参勤交代の際に利用した藩は信濃の高遠藩、高島藩、飯田藩などのお金持ちの藩ばかりです。それ以外の藩は中山道を利用したといいます。これは、下諏訪宿から江戸までの甲州街道は中仙道よりも距離はより短いものの、その沿道の物価が高く、街道沿線のインフラの整備状況は良かったものの、参勤交代には銭がかかりすぎたのがその主な理由のようです。

今日の甲州街道はルートを変えてしまっていますが、旧道は「笹子峠」を経由していました。この峠への道筋は山梨県道212号日影笹子線として残っていて、この県道にほぼ平行して「笹子峠自然遊歩道」があります。

この遊歩道が旧来の甲州街道にほぼ相当すると考えられているそうで、県道の頂上にある笹子隧道の直上が甲州街道最大の難所と言われた標高1096mの「笹子峠」です。八王子側から来た場合、峠を越えるとそこが甲州市になります。

先日トンネルの崩落事故があった笹子トンネルは、この旧甲州街道のすぐ近くにある「笹子雁ヶ腹摺山(ささごがんがはらすりやま)」の直下にあります。山梨県大月市と甲州市の境にある山で標高は1357.7メートル。

更にこの近くには「雁ヶ腹摺山(がんがはらすりやま)」という別の山があって、こちらは標高は1874メートル。どちらの山にもつけられた名前の「雁ヶ腹摺」とは、渡り鳥であるガンが、その腹をするようにして尾根を飛んでいくことからその名がついたと言われます。

他にも大月市にはガンが山腹ぎりぎりに越えていくと称される山や峠が多くあり、笹子雁ヶ腹摺山や笹子雁ヶ腹摺山のほかにも、大月市に牛奥ノ雁ヶ腹摺山という山があります。

これらの山の頂からの富士山の眺めは秀麗で、とくに雁ヶ腹摺山からの眺めは、富嶽十二景の一つに選ばれていて、西側の甲府盆地や南アルプスの展望も最高です。この山頂からの富士山の展望は、その昔五百円札があったころにその裏側に印刷されていた富士山の絵は、ここから撮影された写真が原画となりました。

そんなきれいな富士山が望める山頂のほぼ真下で、先日の中央自動車道の笹子トンネル事故は起きました。

最新の情報では、これを管理していたNEXCO中日本は、当初1年に1度定期点検、5年に一度詳細点検を行っているとしていましたが、2000年に行われた点検以降は、打音検査すらしていなかったという事実が、山梨県警による家宅捜索での、押収資料から発覚しているそうです。

そうするとやはり人災ではないか、という声があがってきそうですが、建築後35年以上も経過したインフラではここだけでなく同じような危険性をはらんだものも多くあるに違いありません。

施工元の飛島建設によれば、トンネルの建設途中に200mにわたる破砕帯が存在することが確認されていたそうで、その当時の工事のときには、粘土化した掘削土が大量に出たようで、また毎分6トンにもおよぶ湧水があったそうです。

こうした危険な場所に掘られたトンネルは、その当時の古い技術で作られたものであり、想像するに実際には強度不足の場所もあったに違いありません。あるいは、その当時には安全基準を満たしていたものが、地殻の変動などにより現在はより危険なものになっているのかも。

天災にせよ、人災であるにせよ、一日も早くその原因を究明して安心して通れる高速道路にしてほしいもの。

我々もまた、昨日山口から帰ってくる際のあちこちのトンネルでその天井を眺めていましたが、そんな心配をしなくても良いようになることを祈りたいところです。

原発の問題もしかり、道路や橋の老朽化の問題もしかり、我が国のインフラ整備の状況は大きな曲がり角に来ていることは確か。そこをどう切り抜けていくかによって次の時代の方向性が決まるような気がします。

そしてそのかじ取りをする政権党はどこになるのでしょう。メディアから目が離せない年末です。