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初冠雪?

今朝、庭木の水やりを終え、なにげなく富士山を見たら、何か様子がヘンです。なんだろうなーと思ってよく見ると、どうやら山頂のあたりが白くなっています。えっ!?これってもしかして初冠雪? と家の中に戻ってテレビをつけてみましたが、特段ニュースでは触れていません。もしかしたら気象庁が定めるところの「初冠雪」の定義に至らないほどの少量の積雪だったのかもしれませんが、雪は雪です。

巷ではまだまだ猛暑が続いているようですが、富士山の上にはもう冬が迫っているんだなと、季節の移ろいの速さを思います。

ちなみに、昨日11日で、我々が伊豆へ引越ししてきてちょうど、半年が過ぎました。季節の移ろいもさることながら、時の経つことの速さも、齢を重ねるごとにより一層感じるようになってきました。

京浜急行

さて、お話は変わり、先日、テレビで横浜や横須賀のグルメ特集をやっているのをみていました。その中で、横須賀在住の方が、「横須賀って、都内から遠いように思うけど、意外に近いんだよね。一時間もかかんないはずだよ。確か45分くらい。」とのたまわっていました。

へえー、ほんとかなーと思って調べてみると、確かに、京浜急行で横須賀中央から品川までは、だいたい45分ぐらいで着くみたいです。これに対して、JRの横須賀線経由で、品川へ行くとすると、1時間10分ほどもかかるようです。

ただ、横須賀線の場合、横須賀を出るとやや西北に進路を変え、鎌倉経由で東京方面に向かうので、距離の面ではやや分が悪いのは確か。

とはいえ、神奈川の片田舎(横須賀在住の方、すいません)から、都内までは50km以上あるはずですから、その距離をわずか45分でも都内へ出れるというのは、やはり早い!と思わざるを得ません。

ほかに何かからくりがあるのかな?と思ってちょっと調べてみました。

すると、京浜急行が速い理由のひとつとしては、横須賀から品川までの停車駅が少ない、いわゆる特急列車が多いためのようです。JR横須賀線の場合、成田エクスプレスや湘南ライナーがこの路線を走っていますが、特急・快速電車のため、横須賀には停車しません。

普通列車の場合、やはり鎌倉を経由するのがネックとなり、品川まで一時間以上かかるみたいで、こうなると、地元の人はやはり京浜急行しか使わないですよね。JRは運賃も高いみたいですし。

と、にわか横須賀市民になって、そんなことを調べてみていたところ、あるサイトで、JRなどのほとんどの列車が「狭軌」のレールを使っているのに対し、京浜急行が走っている線路は「広軌」を使っている、というお話が掲載されていました。

どうやら京浜急行の線路の幅は、JRの線路幅よりも広い、「広軌」と呼ばれるもののようで実際の線路幅は、広軌軌道のほうが1435mm、JRの狭軌軌道のほうが1067mmと、結構差があり、なんと35.8cmも違うではないですか。

だから、何ナノ?という話ですが、一般に、鉄道路線というのは、線路の幅が広ければ広いほど、スピードの出る電車を走らせやすいのだそうです。いまや九州、鹿児島まで伸びた、新幹線の線路もこの広軌軌道だそうで、なるほど京浜急行が速いのもそれが理由かな?と思ったりもします。

じゃあなんで、JRの在来線ももっとスピードの出る広軌軌道にしないんだろう、そもそも、レールの幅ってJRと他の私鉄ではなぜ違うんだろう、ということなのですが、これには話せば長いお話があるようなのです。

鉄道ことはじめ

そもそもの話は、明治時代のはじめ、日本に初めて鉄道が敷かれたときにさかのぼります。

江戸時代の末には既に、薩摩藩や佐賀藩、江戸幕府などがそれぞれのテリトリーで鉄道を走らせることを計画していたようですが、いずれの計画も幕末の動乱でとん挫し、実際に具体的な計画がまとまったのは明治維新が始まってからになります。

この当時、日本を含むアジアでは、欧米列強諸国がこれら東洋の国を植民地化しようと虎視眈々と狙っていましたが、明治政府の方針としては、敵に弱みを見せないためには、自分を強く見せることが一番、というわけで、いわゆる「富国強兵」政策を推し進め、できるだけ早く列強のような工業力をつけることを国家目標としていました。

しかし、明治の初めのころの日本人というのは、そのまえの250年以上に及ぶ江戸時代の鎖国政策のために、外国人を見たことがあるなどという人は、人口比率からすると、皆無に近い状態でした。ましてや、海外の文物といえば、ゾウやトラが見世物になるくらいで、一般庶民が見ることができたものといえば、せいぜい西洋ガラスの器ぐらい、という時代です。

浦賀に黒船が入ってきたのを見ただけで、国中をあげての大騒ぎになったくらいですから、そんなところに、西洋でも最新式の鉄道なんかを持ってきたら、みんな驚きでぶっ飛んでしまうのではなかろうか、と凡人の私などは思うのです。

ところが、時の権力者、大隈重信・伊藤博文らの偉人が私と違うのは、逆に、こういう最新式の西洋の道具を日本に持ち込めば、みんなその先進性にびっくりし、こういうもんか~へへーと恐れ入るに違いない、と踏んだのです。

逆に国民に西洋というものがはっきりと目に見えるようにするほうが、文明開化が進めやすいだろう、という逆転の発想?で鉄道の建設を行うことにしたらしいのです。

とまあそれは表向きの理由で、実際のところは、それまでの日本では海運が物流の中心でしたが、今後国を栄えさせていくためには、陸上での貨物や人員の輸送量を効率的に増やす必要があると考えたようです。

で、鉄道の導入を決めたものの、まず最初にどこにしようかと考えたところ、最初は、東京と京都・大阪・神戸などの関西の間を結ぶ路線と、その途中の米原から日本海側の貿易都市である敦賀へ至る路線が候補にあがりました。

ところが、これだけの距離に鉄道を敷設しようとすると莫大な金がかかります。明治新政権は、このころ実施した、版籍奉還と廃藩置県に伴って必要になるお金、約2400万両(現在の価値でおよそ5600億円)を、各藩に代わって肩代わりしており、多額な負債をかかえていました。

そんなところへ、長距離の鉄道の建設に回すお金なんてあるわけがない、ということで、大蔵省からは建設予算が下りませんでした。一方、「富国強兵」を実現するためには軍隊の整備も進める必要があり、鉄道なんてちゃらちゃらしたもんより、先にそちらの強化をおこなうべきだ、と西郷隆盛などを中心に反対の声も上がっていました。

民間からの資本を入れてでも建設をおこなうべきだという声もあるにはありましたが、とりあえず、庶民に実際に鉄道を見せれば、その素晴らしさが理解され、お金を出そうという人も増えてくるに違いない、ということで、とりあえずのモデルケースになる区間を決めようということになりました。

そして、首都東京と港がある横浜の間、29kmの敷設を行うことが1869年(明治2年)に決定されます。

で、この日本初の鉄度の敷設にあたっては、その線路の規格を決めなくてはなりません。当然、すべての基本となる、線路幅を決めるのが先、ということになります。ところが、その線路の幅を、なぜ欧米で主流だった1435mm(標準軌=広軌)にせず、これよりかなり狭い1067mm(狭軌)にしたのかについては、はっきりした理由を示した公的文書は残っていないんだそうです。

ただ、当時新政府の財政担当だった大隈重信が、「軌間」というものの重要性を理解しておらず、そのころの新政府の技術顧問だったお雇い外国人が、「予算や輸送需要を考えれば、狭軌を採用して鉄道を早期に建設すべきだ」と主張したという事実があるようです。

大隈重信といえばご存知のとおり、早稲田大学を創設した人物ですが、もともとは国学が専門で、憲法論などには詳しかったものの、技術とか科学とかは専門外です。所詮は「教育者」にすぎず、バリバリの文系人間ですから、そんな人間に、鉄道の幅の広い、狭いがその後の国是にどう影響してくるか、といった想像力あるわけがありません。

結局、大隈重信は、これらの外国人のもっともらしい説得に押されてしまいますが、後年、日清戦争や日露戦争が勃発したとき(このときもうすでに大隈は下野していましたが)、大陸で広軌の鉄道が大量の物資を運搬する実情を見聞きし、国内では狭軌を採用した当時のことを述懐して、「一生の不覚であった」と述べているそうです。

もっとも、当時の日本政府の財政事情を考えれば、ヨーロッパやアメリカの本線用の車両を購入して輸送することはかなりの無理があり、必ずしも日本政府の判断が誤りだったとはいえません。しかし、このときのあやまりが、まさか150年以上も経った現代の日本まで持ち越されようとは大隈も考え及ばなかったでしょう。

あいかわらず狭軌鉄道

それにしても、こうして最初の決断で決められてしまったレール幅1067mmの狭軌鉄道は、スピードや輸送力では、欧州など多くの国の鉄道で採用されていた広軌1435mm鉄道に劣るものとなってしまいました。

その後もこの1067mm軌間を1435mmという世界標準に改めようという運動が何回か起こりましたが、度重なる戦争や、戦後も政争や予算の問題でなかなか実現せず、結局、日本において標準軌を採用した国鉄路線が生まれるのには、1964年の東海道新幹線開業まで待たねばなりませんでした。

東海道新幹線が最初に計画されたとき、この新線についても当初、単純に東海道本線を複々線化すればよいとか、狭軌新線にすべきだという案が出ていましたが、戦前に広軌化計画に携わったことのある官僚で「十河信二」という人が総裁に就任していたこと、また、鉄道技術研究所のメンバーが標準軌新線ならば東京~大阪間の3時間運転が可能であると公表したことなどが影響し、標準軌高規格新線での敷設が決定しました。

その後はご存知のとおり、いまや九州は鹿児島まで新幹線軌道が造られ、北海道まで伸びるのは時間の問題という時代になっています。

しかし、新幹線以外の日本の大多数の路線は、今日に至るまで、あいかわらず1067mmの狭軌のままです。1067mmは、3フィート6インチなので、一般に「三六軌間」とも呼ばれています。

明治初頭の大隈重信の決断後、今の国鉄の前身の「鉄道院」の時代には、その総裁になった後藤新平の指示で、標準軌への改軌の技術的な検討もされたようですが、狭い軌道のままのほうが、列車が通っていない地方へ鉄道を延伸しやすく、これを指示する地方代議士が多かったため、こうした政治的な理由から、一ランク低い規格のまま、全国的な鉄道網の建設が続行され続けました。

しかも、「地方鉄道法」という法律が1919年(大正8年)にでき、使用できる最大の線路幅が狭軌に制限されてしまったため、私鉄にも狭軌が広がりました。この地方鉄道法は、民間の会社が敷設した鉄道を、あとで政府が買い上げ、国有鉄道に一体化することを前提にして作られた法律でした。

国有鉄道が狭軌であったことから、戦争などが勃発した場合などに大量の貨物輸送を行う必要が生じた場合、国有鉄道から私鉄への貨車の直接乗り入れが可能になるように、ということでこの法律が定められたのです。

関西では広軌軌道が主流

ところが、地方鉄道法が定められたあとの、1921年(大正10年)には、「軌道法」という新しい法律が制定されました。この法律は、「道路に敷設される鉄道」についてのきまりごとを示したもので、元来は主として路面電車を対象としたものでした。この法律は現在も生きており、近年ではモノレールや新交通システム等にも適用されています。

この、軌道法を、拡大解釈して、地方鉄道法によらず、広軌(標準軌)を数多く敷設したのが関西の鉄道会社です。当時の私設鉄道法では標準軌の路線敷設は認められておらず、地方軌道法により狭軌の鉄道しか建設できませんでしたが、この軌道法ができたことで、路面電車に本来適用される軌道法を拡大解釈して路線を建設したのです。

一説によると軌道法の監督省庁である内務省が、関西の電鉄事業に好意的であったということです。道路に作るんなら、幅が広い鉄道でもいいよ、と逃げ場を作ってやったのです。

広軌路線であっても、車両の大きさの限界は国鉄と同じか、それ以下に制限されていましたので、逆にこのことで、トンネル断面積や駅の設備などは、狭軌のものと同じにすることたでき、あまり建設コストに差がでないという結果になりました。

この結果として、関西では軌道法による1435mmのレールを高速で走る「路面電車」が続々と開業しました。また、関西だけでなく、全国の地下鉄路線も「路面電車」として1435mmの広軌で敷設されるようになりました。

関西で広軌を採用した私鉄の中でもとくに高速化の技術を発展させたのは、京阪電気鉄道(現阪急鉄道)で、とくに新京阪線(現:阪急京都本線)は、鉄道が完成した当初、その当時の国鉄最高の特急列車「燕」を山崎付近で追い抜いたという逸話が存在するほどでした。

近畿日本鉄道も当初は、狭軌を採用していましたが、伊勢湾台風により名古屋線が壊滅的打撃を受けたのを機会に、当時の社長が周囲の猛反対を押し切って、路線を復旧させるときに、標準軌化を断行しました。

関東での広軌鉄道

一方、関東圏では、この二つの法律ができる前から、広軌鉄道による鉄道を敷設していた会社がありました。それが、1899年(明治32年)、六郷橋~大師間に路面電車を開業させた大師電気鉄道で、これが現在のの京浜急行電鉄の「大師線」です。

京浜急行は、国鉄の標準軌への改軌を見越して、広軌鉄道を敷設したといわれています。法律改正によって、地方鉄道は狭軌にしなければなりませんでしたが、京浜急行は「路面電車」であったため、「軌道法」の適用になり、国鉄の改軌が行われなかったことを尻目に、その後も、電気鉄道・路面電車・地下鉄の分野それぞれで1435mm軌間を急速に普及させました。

このほか、かつては東京のあちこちで見られた路面電車を保有していた、東京都電(現在はほとんどが廃止され、路面電車は荒川線だけ。一部は地下鉄として現存)は、1372mmという、狭軌以上広軌以下、という中途半端なサイズの路線を採用。このため、広軌を採用していた地下鉄と昭和中期に相互直通運転を行う際の対応で苦慮しました。

また、東京都電に乗り入れていて、同じく1372mmゲージを採用した京王帝都電鉄(現:京王電鉄)も、都営新宿線との相互乗り入れを行う際に広軌への改軌を東京都から打診されたものの、当時の急激な沿線の発展による乗客の急増に対応するのに手一杯で結局実現できず、今もあいかわらず、1372mmという特異な軌間を使い続けています。

このほか、以下に示す、関東地方の私鉄は、今もJRと同じ1067mmの狭軌を採用しています。

東京地下鉄(銀座線、丸ノ内線を除く)
関東鉄道(全線)
京王電鉄(井の頭線)
東京急行電鉄(世田谷線を除く)
小田急電鉄
江ノ島電鉄
箱根登山鉄道(小田原駅~箱根湯本駅間のみ)
西武鉄道
東武鉄道
秩父鉄道
相模鉄道
東京都交通局(都営三田線)
東京臨海高速鉄道(りんかい線)
首都圏新都市鉄道(つくばエクスプレス線)
富士急行

わが伊豆を南北に走る、伊豆急行、伊豆箱根鉄道も狭軌路線です。富士山や海を臨みながらのんびりとゴトゴトと走るその景色は、田舎の風景にはぴったりですが、東京都内を走る電車のほとんどが、今もこうした古い時代に決められた幅のレールの上を走っているのは、なにやら時代遅れのようなかんじもします。

京浜急行のようにスパッ、と広軌に切り替えられないものなのでしょうか。お金はかかるでしょうが、広軌化による時間の短縮は、この国の活性化にもつながるのでは。

新しい総理大臣が誰になるのかわかりませんが、そのへんのこと、ちょっと考えてみてもらいたいものです。

神々の黄昏

アメリカへ

第一次世界大戦が終わり、フランス国内の復興も徐々に始まろうとしていました。マリーらのラジウム研究所も再開しましたが、戦争で供出した設備や試料はあまりにも多く、しばらくはまともな研究や実験などできるような状態ではありませんでした。

そのころ、ユダヤ系ドイツ人のマイアー・アムシェル・ロートシルトを祖とし、ヨーロッパの各地に銀行を持つ大財閥のロスチャイルド家から申し出があり、財団からの出資によって、1920年にキュリー財団が設立されました。

主として放射線治療の研究を支援する非営利団体として発足したキュリー財団でしたが、その目的は、世界中の研究者の研究を支援することであり、マリーらの研究所の研究を支援することだけが目的ではありませんでした。

このため、マリーらの研究所に下りる研究資金は微々たるもので、せっかくの財団創設でしたが、マリーら自身の研究資金不足の解消にはほとんどつながりませんでした。

ちょうどそのころ、アメリカの女性雑誌「ディリニエター(Delineator)」の編集長、ミシイ・ブラウン・メロニーという女性が、マリーにインタビューを申し込んできました。マリーはこれに応じ、そのインタビューの席でメロニーから、今何が一番欲しいかという質問を受けました。

これに対して、マリーは、「1グラムのラジウム金属」が欲しいと答えます。その価格はその当時でも10万ドルに相当するほどの金額でした。

このころ、科学技術の新興に力を入れていたアメリカでは、先行する科学技術には豊富な研究資金が投入されており、アメリカならばノーベル賞を受賞するような優秀な科学者に対して、この程度の出資をするのは当たり前のことでした。

ところが、マリーのような優秀な科学者に十分な資金すら提供されていないフランスの科学界の実情を知り、メロニーは大いに驚きました。

マリーとのインタビューを通じて語り合い、第一次世界大戦での彼女の活躍などから、無私の心で社会貢献をしようとするマリーの生き方や、その人柄に強く惹かれたメロニーは、マリーを援助しようと心に決めます。

そして、アメリカに帰国後に、マリーにラジウムを贈呈する資金を集めるためのキャンペーン運動を起こし、やがてマリーの希望する「1グラムのラジウム」が彼女の元へ届けられることになるのです。

これをきっかけとして、マリーとメロニーの交流は深まり、その後、マリーは彼女の求めに応じて、アメリカへ講演旅行に出かけることに合意します。しかし、講演旅行とは名ばかりで、実情は研究資金を集めるための宣伝活動であったこの旅行は、メディア嫌いのマリーにとっては気の進まないものでした。

とはいえ、マリーはアメリカ各地で大歓迎を受け、この当時の大統領、ウォレン・ハーディングから直々にラジウムの授与が行われるというセレモニーまで設けられました。1929年には再度、アメリカに渡り、その4年前の1925年にワルシャワに設立されたキュリー研究所に導入する機器類の資金を集めるのに成功しています。

フランスでは心無いジャーナリストたちに自分たちの生活を踏みにじられたマリーでしたが、自由の国アメリカはそんなマリーの心を癒してくれるような場所であり、あれほど嫌いであった講演が楽しくなり、自らがホテルにジャーナリスト達を呼んで接待することもあったといいます。

指導者として

アメリカへの旅は大成功を修め、研究所はラジウム以外にも多くの鉱石サンプルや分析機器類、そして資金を得ることができました。しかし、彼女は、自分の名声や影響力が大きくなればなるほど、かつてのように研究や実験に没頭することは許されなくなっていくことを悟ります。

このころから、マリーは自らの研究よりも、パリのラジウム研究所を大きくすることを目標とするようになり、ここを放射能研究の拠点として、若手の研究者を育てていくことに自分の情熱を注いでいこうと考えるようになります。

このころのラジウム研究所は、性別・国籍を問わない多様なスタッフを抱えるようになっており、マリーは彼らの指導に多くの時間を割き、毎朝のようにスタッフと研究や実験の指針や進捗を相談していました。彼女の周りは、いつも論文の校正などを願う研究員らでひしめき、笑い声が絶えなかったといいます。

マリーは適切な指示や指導を与え、成果が上がった際には祝いのお茶会を開くなど、彼らを導き、その実力を伸ばすことにおいては一流で、そこでは、かつての貧困時代から一貫して女学校で教べんをとってきた経験がものをいいました。

やがてこの研究所からは、アルファ粒子のエネルギーが一定ではない事を示したサロモン・ローゼンブルムや、真空中のX線観察を行ったフェルナン・オルウェック、フランシウムを発見したマルグリット・ペレーなどの才媛が続出しました。

その中でも際立ったものは、娘イレーヌと結婚したフレデリック・ジョリオ=キュリーでした。彼とイレーヌが共同で行ってきた人工放射能の研究は、学界で高く評価され、夫妻は1935年にノーベル化学賞を受賞しました。

マリー自身が、ノーベル賞を受賞という栄誉を得たばかりでなく、その指導力を生かし、自身のDNAをその後輩に植付けてきた彼女の努力は、ここに結実しました。

しかも母娘二代にわたってのノーベル賞は過去にも例がなく、娘の誉と自らの栄誉、そしてかつての愛する夫ピエールの栄誉にも思いをはせ、ようやく何事かを成し遂げた気分に浸ることのできるマリーなのでした。

放射能その光と影

娘のイレーヌのノーベル賞受賞のほか、多くのすぐれた研究者を排出していたラジウム研究所でしたが、このような華やかな成果を出しつつも、放射能というその当時まだ未知の研究対象については、それが人体へどのような影響を及ぼしているか、という点においては十分な配慮が行き届いているとはいえませんでした。

東北大学を卒業後、東京帝国大学(のちの東大)の助教授をしていた日本の「山田延男」は、日本政府から派遣され、1923年から2年半、ラジウム研究所でイレーヌの助手としてアルファ線強度の研究を行っていました。

マリーの支援も受けながら5つの論文を発表しましたが、その直後、原因不明の体調不良を起こして帰国。翌年亡くなりました。1925年1月には別の元研究員が再生不良性貧血で死亡。さらに個人助手も白血病で亡くなるなど、ラジウム研究所では次々と「原因不明」の死が相次ぎます。

しかし、この当時の医学では放射線と人体の健康の間の明白な因果関係が明らかにされておらず、何かの病気にかかっても、それが放射線の直接的な影響だと考える研究者は少なく、強い放射線から何等かの遮蔽物で人体を防護するといった、具体的な対処法は習慣化されていませんでした。

1932年、65才になっていたマリーは、うっかり転倒して右手首を骨折してしまいます。しかし、その傷はなかなか癒えない上、頭痛や耳鳴りなどが続き、健康不良が長い間続きます。

1933年には、今度は胆石が見つかりましたが、手術を嫌がり、薬物治療で乗り切ろうとします。この年の春、マリーはポーランドを訪問しましたが、これが最後の里帰りとなりました。

1934年の5月のある日、気分が優れずいつもより早く研究所を後にしたマリーは、自宅に帰り、そのまま寝込むようになってしまいます。医者の診察を受けたところ、今度は結核の疑いがあるといわれたため、さすがに本格的に療養に入ることを決め、フランス東部のオート=サヴォワ県のパッシーにあったサナトリウムへ入所しました。

ところが、ここで受けた診察では肺に異常は見つからず、ジュネーヴから呼ばれた別の医師が行った血液検査の結果をみて下された病名は、やはり、「再生不良性貧血」でした。

再生不良性貧血は、骨髄中の造血幹細胞が減少することによって、骨髄の造血能力が低下し、血液中の血球が減少してしまう、一種の白血病です。必ずしも放射線だけが原因ではありませんが、原因のひとつとされています。

それからおよそ二か月後の、7月4日の水曜日。マリーはこのサナトリウムで静かに息を引き取りました。享年67才。愛する夫ピエールの死後、26年もの間、ひとりで放射能と戦ってきたヒロインの死は、苦しむこともなく安らかだったといいます。

エピローグ

パリのラジウム研究所は、その後、娘のイレーヌ・キュリーが二代目所長を務め、現在はキュリー研究所(Institut Curie)という名称で、医学、特に癌研究の拠点となっています。

この研究所の一部で、元マリーが研究所長をしてた当時の所長室と実験室は、博物館として整備され、一般の人でも見学できるようになっています。しかし、マリーの残した直筆の論文などのうち、1890年以降のものは放射性物質が含まれ取り扱いが危険だと考えられており、公開されていません。

当時彼女が使っていた料理の本からも放射線が検出されたそうで、これらは鉛で封をされた箱に収めて保管され、閲覧するには防護服着用が必要になります。また、マリーが使っていた実験室も、その昔は放射能で汚染されて見学できませんでしたが、近年汚染除去が施され、公開される運びとなりました。

この部屋には実験器具なども当時のまま置かれており、そこに残されたマリーの指紋からも放射線が検知されるといいます。

ふたつのノーベル賞を受賞しながら、外国人であることを理由に、1911年のフランスアカデミー学会の会員の選挙に敗れたマリーですが、その後、1922年には、パリ医学アカデミーが医療への貢献という理由で、前例を覆して彼女を会員に選出しました。

しかし、フランス政府としては、その後も、あいかわらず放射能の研究者としてのマリーに冷淡で、その死に至るまでラジウム研究所への資金援助は微々たるものだったといいます。

マリーが亡くなった当時、その亡骸は、夫ピエールが眠るパリ郊外のソーの墓地に、夫と並んで埋葬されましたが、60年後の1995年、ふたりの墓はフランスを代表するかつての偉人たちの墓のある、「パンテオン」に移されました。

パンテオンは、ギリシア語で「すべての神々」を意味するそうで、キュリー夫妻は、フランス人にとっては「神」になったわけです。

しかし、実際には日本の靖国神社のような宗教性はなく、どちらかといえば、「偉人の殿堂」といったところでしょう。フランスのパンテオンに女性が祀られるのは、初めてとのことでした。

ちなみに、このとき、マリーの棺内部の放射能測定が行われましたが、その結果としては、放射線量は若干高めながら、許容度の5%程度にとどまったため、彼女の死因が放射線被曝であるという説には疑問が挟まれたということです。

放射能研究者である彼女とピエールの墓がここに移されたのは、「夫妻の業績を称え」、ということでしたが、これには別の見方もあります。

原子力大国であるフランスとしては、このころから積極的な原子力利用を推進しようとしていましたが、それにあたり、ノーベル賞受賞者である二人を「殿堂」に祭り上げることで、そうした国の方針に国民を賛同しやすくさせるためではなかったか、とも考えられるのです。

もし、彼女が放射能の研究者ではなく、別の分野でノーベル賞をとった人物であったなら、その墓はパンテオンなどには移されなかったのではないでしょうか。

マリーとしても、そんな国家主義的なフランスの側面は生前から重々理解し、苦々しく思っていたことでしょう。しかし、そんなフランスに、マリーが骨をうずめたのは何故でしょうか。

その生涯で、何度か祖国のポーランドに帰るチャンスはあったのにも関わらず、最後までフランスで研究を続けたのは、それほどフランスが好きだったのでしょうか。

私は違うと思います。彼女がフランスを離れなかった理由、それは、ラジウムという秘められたパワーを持った物質を平和裏に利用していける国は、その当時のヨーロッパにあってフランスしかないと考えたからではないでしょうか。

ポーランドは独立したとはいえ、この当時まだまだ弱体国家で、いつまた他の国に占領されてしまうかもしれません。隣国のドイツもロシアも、昔から他国を占領してわが物にしてきた肉食系国家であり、イギリスやスペインも、世界各国に植民地を持つ侵略国家です。

フランスもまた、世界各地に植民地を持っていましたが、イギリスのように諸外国に執拗に自国の制度を押し付けたがるような国ではなく、かといってスペインのように弱体化しつつある衰退国でもありません。

何かにつけ、他国とは違うことをアピールしたがる国民性を持ち、他国に頼ることなく、独自の文化、独立した国家体制をこの当時築くことに成功していた数少ない国のひとつといえるでしょう。

そのフランスこそが、その当時にあって最も安心して放射能研究をおこなえる唯一の国である、とマリーは判断したに違いありません。

そして、もうひとつ大きな理由がありました。それは、愛する夫ピエールの母国がフランスであったということです。10年以上もの間、愛と信頼をもって、ともに放射能研究に挑んだ彼の存在は、彼女の体の一部のようであり、その夫を事故で亡くしたあとも、その彼が眠る祖国に居続けたい、と彼女は考えたのだと思います。

死した今、二人の墓碑はパンテオンに移されましたが、しかし、あの世で再び巡り合った二人の魂にとっては、そんなことはどうでもよいと考えているでしょう。

むしろ、すでに役割が終わったともいえる、原子力という技術にしがみついて生き残っていこうとしている、このフランスという国の行く末を憂えるばかりなのではないでしょうか。

いつの日か、このキュリー夫妻が再びフランスに生まれ変わったら、原子力に頼る必要のない未来永劫安全なエネルギーの供給源を見つけてくれるような気がます。

いや、キュリー夫妻が生まれ変わるのは日本かもしれません。生まれかわったキュリー夫妻が、荒廃した日本に手を差し伸べ、日本を安全な国に導くとともに、フランスだけでなく全世界を救済していくに違いありません。

そういう日が来るのを願いつつ、この項を終えたいと思います。

戦う研究者

悲しみを乗り越えて

不慮の事故でピエールを亡くした直後のマリーは、沈黙に沈んだままでいたかと思うと、急に悲鳴を上げるなど、極端に不安定な精神状態に陥っていました。朦朧とした面持ちで窓の外を眺めるその姿は、魂のぬけがらそのもののようで、アパートに閉じこもり、毎日通っていた研究室にすら、顔を出さなくなっていました。

ピエールが亡くなってから一か月後の1906年5月のことでした。ピエールが勤めていたパリ大学は、彼のために物理学部に用意していた職位と、実験室における諸権利をマリーのために提供することを決定し、そのことをマリーに伝えてきました。

夫の死後一か月を経て、少し落ち着いてきていたマリーでしたが、まだまだ気持ちの整理がつかず、この件は即座に回答せず保留し、ひとり部屋に引きこもって考えました。

放射能の研究一筋に費やしてきた10年あまりの年月の間、いつも一緒にいてくれたピエールを失った心の隙間は簡単には埋められそうもありませんでした。彼女にとってピエールは夫や共同研究者という以上の人間であり、体の一部といっても良いほどの存在でした。

しかし彼女は気付きます。体の一部は失っても、まだ自分は生かされている。ましてやピエールの魂は今も私と一緒にいる。まだまだやれる。いや、ピエールがやり残したことを私がやらなければならないのだ……と。

そして、彼女は彼の意思を継ぎ、ピエールが作り上げようとしていた研究所を、自分が完成させるべきであると考え、パリ大学での彼の職位と実験室を引き継ぎたい旨を関係者に伝えました。こうして、この当時フランスでも珍しく、パリ大学としても初の女性教授が誕生することになるのです。

1906年、11月5日。マリは万雷の拍手を受けてソルボンヌの教壇に立ちました。女性初のノーベル賞受賞者が、その初めての講義でどんな話をするのだろう、と興味津々の学生たちとを前に、マリーがまず最初に語ったのは、ピエールが最後に行った講義内容の要約でした。

彼が最後に語ったことをもう一度ゆっくりと繰り返したあと、今後はピエールが予定していた講義を彼女が引き継ぐつもりであることを淡々と述べました。就任の挨拶はなく、ただピエールの最後の講義を繰り返しただけの初講義に、学生たちはあっけにとられながらも、故人の志を継ぐのだというマリーの強い意志を感じとり、大きな拍手が生まれました。

誹謗と中傷の中で

こうして、マリーは夫の死を乗り越え、再び、放射能研究の場に戻ってきました。しかし、神はまだまだマリーに安息の時間を与えてはくれません。

パリ大学の教授に就任し、研究に復帰したマリーがどうしても取り組まなければならないことがひとつありました。それは、純粋なラジウム金属の抽出です。

そのころ、イギリスの物理学会の重鎮、ウィリアム・トムソン博士は、「ロンドンタイムズ」に論文を掲載し、その中でラジウムは元素ではなく、化合物であると書いていました。

ピエールとマリーは、塩化ラジウムの結晶の抽出には成功していましたが、まだ純粋なラジウム金属を取り出すことができておらず、物理学会の重鎮のトムソン博士のような人物の見解であるだけに、このことに賛同する学者も多く、悔しい思いを持っていました。

そして、その思いを晴らすべく、EPCIでのかねてからの共同研究者らとともに、パリ大学の新しい実験室で再度ラジウム金属の抽出に挑戦。ついに、1910年9月7日、ウランの約300倍の放射能を持つ純粋なラジウム金属0.0085グラムの単独分離に成功するのです。

ピエールとともに、ラジウムが元素であること予測する論文で発表して以来、12年の年月が経っており、まさに夫妻の執念がここにきてようやく実ったのです。

これにより、トムソン博士の意見は誤りであることが立証され、ラジウムは原子番号88の元素として、その後、元素周期表にも掲載されるようになります。

夫の意思を継ぎ、パリ大学に発足させた研究所は、このラジウムの単離の成功に先立つこと三年前の1907年から、アメリカの大富豪、アンドリュー・カーネギーからの資金援助を得ることができるようになり、研究員も10人程にまで増えていました。

マリーはこのころ、ラジウムが出す放射能の国際基準単位を定義する仕事を行うようになっており、1911年に、この放射能の単位を、夫妻の姓からとって「キュリー」(記号:Ci)とすることが決定されました。

この年、フランスの科学アカデミーでは空席ができ、マリーがその空席を埋める会員として、初の女性候補として推薦されます。しかし、この席を巡っては、対立候補があり、その最有力者であるエドアール・ブランリーとの間で、支持者による二つの陣営が出来上がる構図が生まれました。

会員の選出はアカデミー会員の投票による選挙で行われる予定でしたが、マリーがフランス人ではなくポーランド人であり、かつ女性であったことから、これを認めるか認めないかということで、選挙を始める前から世論を巻き込み、新聞ネタになるほどの大騒ぎになりました。

結果としては、僅差でブランリーが選ばれました。これに対して不服はないのかなどと、新聞などのメディアがマリーのところへ押しかけましたが、マリーは彼らを相手にせず、淡々とした態度を貫きとおしました。

しかし、この当時のマリーの手記には、フランスアの科学カデミーの古い因習を批判する文字があり、このあと二度と候補にならなかったばかりか、機関紙への論文掲載も拒否するようになり、フランス科学アカデミーとは完全に袂を分けることになりました。

この1911年という年は、マリーにとっては、何かとわずらわしい出来事が多い年でした。

科学アカデミーの一件があったそのすぐあとには、5歳年下で、ピエールの教え子の若い男性との不倫記事がある新聞に掲載されます。有名人のスキャンダルをネタにすることを売りにしていた三流新聞でしたが、ドイツとの戦争が噂されるという暗い世相の中、スキャンダルに飢えていた市民には格好の話題となりました。

この報道は、他の新聞社も刺激して報道合戦がまき起こり、ついには、マリーがその男性に宛てた手紙の暴露記事まで掲載されるようにまでエスカレートしていきます。マリーは実はユダヤ人だ、ピエールは妻の不倫を知って自殺したのだとか、あらぬ事を連日書き立てられ、あげくのはてにはマリーが参加していた国際会議にまで、新聞記者が押し寄せてくるようになりました。

自宅に帰ると、そこは群集に取り囲まれ、投石する輩まで出るような大騒ぎになることもあり、これにはさすがにマリーも困惑し、子供たちを連れて親しい友人夫妻宅へ避難する必要性にまで迫られます。

そんな中、11月7日になって、マリーに一通の電報が入りました。それは、スウェーデンの王立アカデミーからの電報で、中を開けてみると、「ラジウムとポロニウムという新元素の発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究を通じ、化学に対して特筆すべき、かつたぐいまれな功績をあげられたため、ノーベル化学賞授与する」という内容のものでした。

ノーベル賞は、1895年に創設され、1901年に初の授与式が行われて10年が経とうとしていましたが、これまでに2度もノーベル賞を受賞した者はなく、また物理学と化学という異なる分野で賞を授与され人物はいません。2012年の現在までにおいても、女性でかつ二度の受賞者というのは例がなく、マリーの受賞はまさに「たぐいまれ」なものでした。

しかし、マリーはちょうどそのころスキャンダルに巻き込まれている最中であり、これを理由に、スウェーデン側からも授与を見合わせてはどうかという声もあがり、親しい友人たちからも同様の意見が出ました。

しかし、マリーは毅然と受賞する意思を示します。前回のノーベル物理学賞の受賞のときには、マリーは体調を崩し、マリーを心配したピエールとともに「多忙」という理由でストックホルムでの授賞式には出席しませんでした。

しかし、ピエールを失ったのちの今回の受賞では、ストックホルムへ向かい、受賞式に出席することを決めたのです。

華々しい授賞式が終わり、その後に行われた記念講演でマリーが述べたのは、この受賞は自分だけのものではなく、ピエールと共に分かち合うべきものである、ということでした。そして、ピエールの業績と自分の業績を明瞭な口調で説明し、改めてこの成果をもたらしたのは、ピエールがいてくれたからこそだ、この受賞は私だけではなく、二人のものだと述べました。

誹謗と中傷の渦巻く中、ひとりストックホルムにおもむき、その記念講演の檀上で、堂々とかつての夫の栄誉をたたえたマリーの姿。これを見た会場の聴衆は感動し、拍手の渦が巻き起こったといいます。

心機一転のあとに

しかし、受賞式を終えてパリにもどったマリーは、その後も続くスキャンダル合戦のために精神を疲弊させ、1911年の暮れには、うつ病と腎炎と診断され、そのまま入院することになりました。その後一度退院しましたが、翌年の3月には再度入院し、腎臓の手術を受けたあと、静かな郊外に家を借りて、生涯で初めての療養生活に入ります。

その後、イギリスにいる友人宅に場所を移して療養を続けていましたが、10月ころにはかなり回復してきたことから、パリへ戻り、新しいアパートを借りることにします。

マスコミは相変わらず何かネタを見つけてはマリーを叩く記事を掲載していました。その一方で、諸外国でのマリーが高く評価されていることがわかると、フランスの先進性の象徴に祭り上げるなど、都合の良い記事ばかり載せるジャーナリズムをマリーは、心底から嫌悪していたといいます。

そんな中、1912年5月に、祖国ポーランドの教授連代表団がフランスを訪問し、ワルシャワに放射能研究所を設立して彼女に所長を務めてもらえないかと打診してきました。

ピエールから受け継いだパリ大学の研究所は、それなりの機関になっており、ピエールの遺志はある程度遂げられたといってもよいと感じていましたが、祖国ポーランドに帰り、同じような研究所を今度は自分の意思で設立するということは、彼女にとってはまた特別なことでした。

しかし、パリの研究所の存続には彼女が不可欠であると判断し、結局マリーのポーランドへの帰国は実現しませんでした。代表団には、そのかわりに、パリから指導するからということで納得してもらうことができました。

1913年に設立されたこのワルシャワの研究所の開所式にマリーは出席し、そこで初めて母国語のポーランド語で科学の講演を行い、故郷に錦を飾ることができました。

1914年7月には、夫の名を取ったピエール・キュリー通りにパリ大学のラジウム研究所の新しい建物キュリー棟が完成しました。それまで悩まされていたスキャンダル報道はようやく下火になっており、この新しい実験場で心機一転、新しい研究に取り組もうと、意気高揚とした気分のマリーでした。

ところが、この年の7月28日、第一次世界大戦が勃発します。フランスも参戦したため、研究所のスタッフたちもほとんどが、兵士として招集されることになり、男性で残った者は持病を抱える機械技師だけになってしまいました。

娘たちをフランス北西部のブルターニュに疎開させ、マリー自身は戦火の及ぶ可能性のあるはパリに残っていました。9月2日、おそれていたドイツ軍の空爆がパリに及び、マリーは政府の要請で、研究所が所有する貴重な純粋ラジウム金属を、南西部のボルドーに疎開させるために汽車に乗りました。

ラジウムを安全な場所に移すというのは重要な仕事でしが、しかし彼女はこのとき、自分ひとりがパリから逃げ出すような気分になっていました。本当に自分がやるべきことは別にあるのではないか、そう考えたマリーは、ラジウムの移送を無事終えたあと、自分だけはひとりで、パリに舞い戻っていきました。

レントゲン車

このころ、パリでは、ヴィルヘルム・レントゲンが1895年に発見したX線の医療への応用がすでに実用化していました。しかし、それを実際に使える設備はまだ非常に少なく、いくつかの大きな大学病院でその設備が導入されたばかりでした。

しかし、この希少な設備を使えば、戦闘によって傷ついた将兵を助けることができます。彼らの体に食い込んだ、銃弾や破片を手術の前に確認できれば、これにより、負傷者の生存率を上げることができるためです。

彼女はX線研究に携わった経験こそありませんでしたが、放射能研究の第一人者であることから十分な知見は持っており、コネを使って大学や製造業者などから必要な機材を調達するができました。そして、複数の病院にそれらを設置した上、できるだけ多くの教授や技師たちにその操作方法を学んでもらおうと考えました。

しかし、病院に固定したX線撮影装置だけでは各地で起こる戦闘に十分に対応ができないことが予想されました。そこで、マリーは、X線装置と発電機などの必要な機材を自動車に乗せ、戦闘によって傷ついた兵士のいる病院を回ることを思いつきます。

実際に、1914年8月頃から病院を廻り始めたこの移動レントゲン車は、軍の中で「プチ・キュリー」(ちびキュリー)と呼ばれ、その能力をいかんなく発揮しました。しかし戦局は長期化する見通しであり、早晩1台だけでは不足するだろうと考えたマリーは、公的・私有の車の提供者を募ります。

軍や行政機関の中には難色を示すところもが多かったようですが、マリーは、役人らを叱りとばして自動車や機材の調達を許可させるとともに、政府高官のところに押しかけ、「赤十字放射線局長」という役職まで貰ってしまいます。さらには未熟な利用者のためにX線の設備使用マニュアルまで用意し、現場での機器の浸透を図りました。

こうして、マリーが設置したレントゲン設備は、病院や大学など200箇所に設置されるまでに増え、移動レントゲン車も20台を数えるようになりました。マリー自身も、技術者指導を兼ねてこのレントゲン車1台に乗り込んで各地を廻り、自らも解剖学を勉強するとともに、あげくは自動車の運転免許を取得し、自動車の整備方法までも習得したといいます。

レントゲン装置には、ボルドーから持ち帰ったラジウム金属を気化して使うこともあり、これによってマリーはたびたびX線被曝を起こしていたという説もあり、後年の健康状態にかなりの悪影響を及ぼしたのではと考えられています。

しかし、彼女の奮闘によって、あちこちの病院に導入されたX線装置やレントゲン車のおかげで、数多くの傷ついた兵士の命が救われたことは、言うまでもありません。

1918年11月、戦争は終結しました。連合国側属していたフランスは勝利し、敗戦国のロシアの支配からポーランドは脱し、ポーランド第二共和国が建国されました。祖国ポーランドが独立できたことをマリーは心から喜びました

青白き妖精

ラジウムとポロニウム

1898年、マリーは、ピッチブレンドから新元素を取り出すため、ピエールが入手してくれた貴重な試料を乳棒と乳鉢ですり潰すという地味な作業を始めました。

当初は、マリーが始めたこの分析作業を傍観しているだけのピエールでしたが、やがては彼女の考察の正しさを確信するようになり、そのころ自分が取り組んでいた結晶に関する研究を中断してまで、彼女の仕事に加わるようになりました。

しかし、ピッチブレンドは複雑な化学組成を持つ混合鉱物であり、分離精製は非常に難しいものでした。しかもこの当時、かなり高価な鉱石であり、マリーとピエールが分析できたのはほんの少量の試料でしかありませんでした。

それでもと、二人がこの少ない試料で測定を続けたところ、ピッチブレンドに含まれるウランから、計算した放射線より少なくとも4倍もの線量を検出されました。このため、マリーはウランだけではなく、これとは異なる未知の放射性元素が含まれているのではないかと推論し、これを祖国ポーランドのラテン語形「Polonia」にちなんで、「ポロニウム」と名付けました。

さらに12月26日には、ポロニウムとは別の激しい放射線を検出する元素も含まれていることが判明し、こちらのほうは「ラジウム」と命名しました。ラジウムのほうは、放射線を出している元素であることから、ラテン語で放射を意味するradiusにちなんだといいます。

そして、早速二人は、このポロニウムとラジウムの発見を論文としてとりまとめ、発表します。しかし、夫妻の期待に反し、学会の反応は極めて冷淡でした。物理学者たちは、新元素といわれるこの元素の放射線が、どのような現象から生じているのか不明な状態では、元素とはいえないと言い、化学者たちは、新元素ならばその原子量が明らかでなければならないと主張したのです。

物理学者と化学者、その双方の賛同を得る唯一の方法。それは、不純物の含まれない、純粋な新元素の塊を抽出することでした。

マリーはそれに挑む決意をします。しかし、家計の苦しい中、高価なピッチブレンドをどうやって入手するかは大きな問題でした。

なぜ、ピッチブレドがそれほど高価だったのか。この当時の、ピッチブレンドの最たる使用方法、それはこの鉱物からウランを抽出し、このウランの酸化物や塩化物を化合することで、陶器、磁器の釉薬を作ることでした。

ウランから作った釉薬は、ほかの材料からは作りだせない鮮やかな色を出せるということで、とくに緑の蛍光を発する黄色のガラスや陶器、磁器の上薬として使われ、珍重されました。また、写真術で写真ネガやプリントにセピア色を出すためにも使用されました。

19世紀なかばには、黄色及びオレンジの化合物の大量生産工場が建設されるようになり、ガラス及び磁器への色付けの商業利用が活発化するなか、銀よりもピッチブランドのほうが入手しずらい、といわれるような時代でした。

それというのも、ピッチブランドが生産されるのは、イギリスのコーンウェル地方や、ポルトガル、米国コロラドなどのほんのわずかな地域だったためです。しかし、オーストリアのボヘミア地方では、これを上回る算出量があり、ピッチブランドはオーストリアの重要な輸出物でした。

マリーらは、当初、ウランを精製する前のピッチブランド原石を入手することばかり考えていましたが、やがて、ウラン塩を抽出した後の廃棄物ならば安価に入手できるかもしれないと気が付きました。そして主生産地であるボヘミアのザンクト・ヨアヒムスタール鉱山へ問い合わせたところ、なんと廃棄物となる鉱滓ならば無償で提供を受けられるという答えが返ってきたのです。

この朗報に二人は大喜びしました。ウランを取り出したあとの鉱滓の中には、ポロニウムやラジウムなどの元素がまだ残っている可能性があったからです。タダ同然で手に入る鉱滓なら、時間と手間さえかかれば、新元素を抽出できる可能性があります。

ところが、いくらタダで鉱滓が入手できるといっても、その運送費は自らが負担しなければならないことに二人は気がつきます。しかも鉱滓にわずかに含まれるポロニウムやラジウムを取り出すためには、おそらく膨大な量の鉱滓を入手しなければなりません。

仕方なく、運送費を負担し、鉱滓を山のように取り寄せますが、この費用負担はますます家計を圧迫する要因となりました。

比較的安価にピッチブランドを入手できるめどはついたものの、次に必要なものは、精製に必要な広い場所でした。ピエールがEPCIに掛け合った末、二人は建物を借りることができました。しかしそれは以前、医学部の解剖室に使われていた場所で、精製工場とは名ばかりの床板も無いただのだだっ広い小屋でした。それでもこの場所は、やがてキュリー夫妻が様々な輝かしい業績を生む舞台となっていったのです。

精製

こうして鉱滓を手に入れ、分析を始めた二人でしたが、ピッチブレンドは複雑な化学組成を持つ混合鉱物であり、分離精製は非常に難しいものでした。

しかし、試行錯誤の結果、やがて夫妻はラジウム塩を特殊な方法で結晶化させて取り出すという方法を思いつきました。しかし、その方法には過酷な肉体労働が伴いました。数キロ単位の鉱石くずを砕いてつぶし、これを大鍋や壷で煮沸したあと、攪拌することで溶解させます。そして沈殿・ろ過を繰り返すことでラジウム塩を含む溶液を分離し、それを凝縮することで結晶化させていくのです。

一度の行程で凝縮できる溶液は限られていたため、この行程は何度も何度も繰り返す必要があります。しかも、小屋には煙突も無く、大なべで鉱滓くずを煮るとき作業は屋外で行なわなければならず、雨の降る日は仕事も中断せざるをえません。

二人はこの作業とは平行して放射能の効果や定義に関する研究も行っており、そのための時間も割かなければなりません。やがて仕事を効率的にこなすため、夫婦それぞれの分担をするようになり、細かな研究をピエールが、精製作業をマリーが行うようになっていきました。

精製の作業は少しずつ進んでいましたが、しかし最初に手に入れた1トンを処理しても、試料として使えるような十分な結晶は得られませんでした。夫妻はピッチブランド鉱滓に含まれる新元素の含有率を1/100程度と考えていましたが、実際には約万分の1程度の含有量しかなく、有意な量を得るために、いったいあと何トン必要になるのかさえも予想できていませんでした。

実験にかかる経費の負担は容赦なく家計を圧迫したため、生活費を稼ぐためふたりとも講師のアルバイトなどを続けなければなりませんでしたが、このことにより十分に研究時間がとれないという悪循環を生み出していました。スイスのジュネーヴ大学から夫妻を好条件で教授に迎えたいという申し出も来ましたが、実験を中断しなくてはならないため、泣く泣く辞退しました。

こうした二人の窮状を知った、知人の数学者の骨折りで、ピエールはソルボンヌ大学の医学部の物理・化学・博物学課程教授に就任することができ、またマリーもセーブルの女子高等師範学校の嘱託教師となることができました。こうして家計は少し救われましたが、増え続ける鉱滓の購入費用やその他の実験費用を工面するためには焼け石に水でした。

青白き妖精

しかし、こうした苦闘の中、二人はポロニウムの純粋元素をようやく取り出すことに成功します。ポロニウムは医薬品として使われる元素のビスマス(元素番号83)に科学的性質が比較的近く、鉱滓の中でビスマスと似た性質の元素の抽出をしているうちに、比較的簡単にポロニウムにたどり着くことができました。

しかしラジウムの発見はポロニウムと違い、一筋縄ではいきませんでした。ポロニウムの場合のビスマスと同様に、化学的性質が近い元素にバリウムがありますが、鉱石中にはバリウムとラジウムの両方が含まれており、これを純粋分離することが困難だったのです。1898年の段階で二人は、もう少しでラジウムを取り出すことができる段階まで進みましたが、どうしても純粋な状態の抽出を行うことができませんでした。

劣悪な環境と過酷な作業、逼迫した家計を賄うための教職、そして研究と、二人にとって休息と呼べる時間はまったくなく、健康状態は最悪でした。ピエールは精製を一時中断すべきであると考え初めていましたが、マリーはあきらめませんでした。

1トンのピッチブレンドから分離精製できたラジウム塩化物はわずか、1/10グラムほどでしたが、次の1トンそして次の1トンと精製を重ねるうちに、放射性元素は着々と濃縮されていきます。

そしてある夜のこと、精製を続け、凝縮したラジウム塩化物をマリーが試験管から蒸発皿へ移したときのことです。蒸発皿が何やら、青白く光っているように見えたのです。最初は連日の疲れから、天上のランプの光に蒸発皿が反射しているのかと思いましたが、そのランプを消してみたところ、確かに蒸発皿全体が青白く光っているではありませんか!

後年、マリーはこのときの光を「青白い妖精のようだった」と語っています。こうして、1902年3月、マリーとピエールは世界で初めて、純粋なラジウムに限りなく近い濃縮試薬の抽出に成功しました。出来上がった試料のスペクトルを計ってみたところ、ラジウム固有のものであることも確認でき、暗い実験室の中で青白く光る純粋ラジウム塩の青い光を、二人は手をつないでいつまでも眺めていました。

二人がこの純粋ラジウム塩を得るまでに費やしたピッチブレンド鉱滓の量は11トンにも達しました。しかし、ラジウム抽出に至るまでの過酷な労働は、二人の体をむしばんでおり、ピエールはリウマチを悪化させ発作に苦しむようになり、マリーは神経を病んでしまい、睡眠時遊行症(夢遊病)で夜中に徘徊を繰り返すようになりました。

翌1903年には第二子を流産してしまうなど、ラジウム塩抽出成功の喜びとは裏腹に、マリーは悲しみにくれました。

しかし、こうした苦境の中でも二人は、1899年から1904年にかけて32もの研究発表を出し、それを読んだ研究者たちは、放射能や放射性元素に対するそれまでの認識を改めざるを得ないことを知ります。

他の多くの学者たちも放射能研究に取り組むようになり、放射性元素としては、同じ元素番号を持つ放射性元素であっても、原子の質量数が異なる「同位体元素(アイソトープ)があることなどが発見されました。また、ラジウムは元素でありながら、崩壊することによってヘリウムが発生することも確認されたことなどから、当時の概念であった「元素は不変」という考え方は変革に迫られ、このころから原子物理学は大きく飛躍していくようになります。

さらに、1900年にドイツの医学者ヴァルクホッフとギーゼルが、放射線が生物組織に影響を与えるという報告がなされました。早速ピエールがラジウムを自らの腕に貼り付けたところ、火傷のような損傷を確認できたため、友人の医学教授らと協同研究した結果、ラジウムには変質した細胞を破壊する効果があることが確認されました。

このことは、ラジウムを使って皮膚疾患や悪性腫瘍などが治療できる可能性を示唆したものでもあり、これは後にキュリー療法と呼ばれるようになります。こうしてラジウムは「妙薬」としても知られるようになります。

こうした事実が明らかになったことで、マリーはそのころ自分たちの研究を手伝ってくれるようになっていた他の研究所員らに対して、ラジウムなどの放射性物質を扱うときには、手袋での防護をするよう厳しく指導していました。しかし、当の本人は放射性物質を素手で扱う事が多く、防護対策はほとんど行いませんでした。このため、マリーの手はラジウム火傷の痕だらけで干しスモモのような皺が残っていたといいます。

新元素であるラジウムの利用は、医療現場だけにとどまらず、他の産業分野での有用性も次々取沙汰されるようになっていきました。産業技術への応用の際、ラジウムの精製法は特許に値するほど重要な発見でしたが、二人はこれを一般に公開し、特許の申請を出しませんでした。

ラジウムを広く社会一般で使ってもらうことが、科学の進歩につながると二人が確信していたためであり、窮乏生活を送りながらも無私の精神を貫いた二人の高い志は後世の人々によっても高く評価されました。

二人が特許を申請しなかったことで、他の科学者たちは何の妨げもなくラジウムを精製して使用することができたるようになり、また、フランスの実業家アルメ・ド・リールのように、民間人もラジウムの工業的生産に乗り出すことができるようになりました。

リールは高邁な精神を持つ夫妻を尊敬していたといい、その生産にあたって二人に協力を要請。そして共同で医療分野への応用研究も始めました。ラジウムは世界で最も高価な物質となりつつあり、マリーとピエールの二人にもようやく経済的に救われる時が訪れつつありました。

栄光の影に

ラジウムやポロニウムなどの放射性物質の研究は、そもそもマリーの博士号取得を目的に始められたものでした。しかし、ラジウム塩素の抽出に成功後、ふたりとも多忙のためなかその準備にとりかかることができませんでした。しかしそれでもようやく審査論文の提出を終え、論文審査を受けることができ、1903年6月、マリーは正式にパリ大学から理学博士の称号を受けることができました。

このころ、イギリスは他国にも増して二人の業績を最も高く評価しており、1903年6月、王立研究所は夫妻を正式にロンドンへ招待し、講演を依頼しました。ピエールの実験を交えた講演は喝采を浴び、に11月にはイギリスの王立協会からデービーメダル(化学の諸分野での重要な発見に贈られる賞)が授与されます。

そして1903年12月、スウェーデン王立科学アカデミーはピエールとマリーそしてアンリ・ベクレルの3人にノーベル物理学賞を授与すると発表しました。マリーは、女性初のノーベル賞を授与された人物となり、賞の授与ともに7万フランの賞金を得ることができ、この賞金は一家の深刻的な経済状態を救いました。

このノーベル賞の受賞は、一躍二人を有名人にしましたが、その結果として、数多くのメディアから取材や面会の依頼が殺到し、寄せられる大量の手紙の処理に追われるようになりました。自宅や研究所にまで踏み入ろうとするマスコミに辟易しながら毎日を送るようになり、このため二人の研究時間は奪われていきました。

1904年、パリ大学はピエールを物理学教授職に迎える打診を行います。実験室を用意する、しないで大学ともめましたが、結局議会がこの金を捻出するということで事態は落着。ピエールは晴れて大学教授となり、しかも自由に使える、きちんとした実験室を得ることになったのです。

この年、マリーは次女エーヴを産み、翌年の1905年には教職に復帰し、実験室に入ることもできるようになるなど、ようやく生活は落ち着いてきました。心に余裕ができると演劇鑑賞などにも出かけるようになり、パリに住む舞踏家のロイ・フラーや彫刻家のロダンなどの芸術家とも付き合うようになるなど、科学者以外の分野の文化人とも交流を持つ機会が増えました。

1906年に入り、ピエールは正式にパリ大学の教授となり、これと同時に得た新しい実験室で動き始めました。手狭で交通に不便な郊外にある実験室でしたが、助手と手伝いが大学から提供される上に、大学は実験主任として、マリーを指名し、給与も支払ってくれました。

マリーは、貧乏だった時代の職であるセーブル女子学校の教師をまだ続けており、ピエールも科学者そして大学教授としての様々な雑務に追われ、二人とも相変わらず多忙な日々を送っていました。

それは4月19日木曜日のことでした。雨模様の一日でしたが、ピエールはその日の様々な予定をこなし、郊外の実験室から自宅へ戻る途中でした。パリ郊外のデ・プレ地区は、その当時も美しい田舎町でしたが、そこにあるドフィーヌ通りは、馬車が頻繁に行き交う繁華街にありました。

ピエールが、この狭い道を横断しようとしていたときのことです。坂道であったこともあり、左手から急にスピードを上げて走ってきた荷馬車が急速に近づいてきました。連日の仕事で疲れていたのでしょうか、これに気が付かずに足を踏み出したとたん、荷馬車がピエールにぶつかってきました。

あっと思ったときには、荷馬車の車輪の下敷きになっており、御者があわてて馬の手綱を引いたときにはもう既にピエールの体はぴくりとも動きませんでした。

すぐに、たくさんの人が周りに集まってきましたが、その中の一人が、彼を有名な科学者であると気がつきます。すぐに医者が呼ばれましたが、そのときはもう既にピエールはこと切れていました。この男性から大学に電話連絡がなされ、パリ大学の学部長のジャン・ペランがキュリー家に向かいました。

ぺランがキュリー家でピエールの遺体にまみえたとき、マリーは自宅には不在でした。そして、夕方の午後6時ころ、長女のイレーヌを連れて帰宅し、玄関を入ったところでその事実を知らされ、蒼白になりました。冷たくなったピエールに面会したとき、マリーは暫くは誰の問いかけにも何の反応を示さなかったといいます。

ピエール47才。道半ばでの若き死でした。

この不慮の事故は世界中に報道されました。しかし、21日にピエールの生家で行われた葬儀は質素なものでした。マリーが大がかりな葬儀や弔辞、行列さえも断ったためです。マリーは感情を失った人形のように見えたそうで、この当時のマリーの日記には、ただ一言「同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」と書かれていました。

マリーとピエール

夕べは遅くになってはげしい雷雨になった修善寺です。今年引っ越してきてから、庭造りに手を焼いたため、種をまくのが遅くなってしまった朝顔が、今頃になって次々と花を咲かせています。

しかし、かなり涼しくなった朝夕に、その朝顔越しに見える富士山は、まだまだ夏の山。すっかり、雪は無くなってしまいましたが、9月も下旬になってくると、そろそろ初冠雪があってもおかしくはありません。ひさびさにブログで、白く雪化粧をした富士山を紹介できるのも、そう遠くないことでしょう。

ところで、今日は、キュリー夫人が、史上初めて、ラジウム単体の結晶を抽出するのに成功した日だそうです。

何でいきなりキュリー夫人? かといえば、最近福島原発の事故で放射能汚染が問題になっているのに、放射能とは何か?ということすら、自分でも納得して理解しておらず、前からよく調べてみようと思っていたからです。

キュリー夫人といえば、放射能研究の功績だけでなく、学問の道を歩む女性への偏見の大きかった時代にあって、これに負けずに栄誉を勝ち取ったその姿がたたえられ、「キュリー夫人(Madame Curie)」として「伝記」にもなり、その活躍が今も語り継がれている人物です。

化学研究者であった夫のピエールと共に放射能の研究を続け、1989年にラジウム・ポロニウムを発見した功績が認めら、1903年のノーベル物理学賞を受賞。さらに1906年に夫が事故死した後も、研究を続け、1911年に2度目のノーベル賞(化学賞)を受賞しました。女性初のノーベル賞受賞者であり、2度受賞した最初の人物でもあります。

ワルシャワからパリへ

キュリー夫人の結婚前の本名は、マリア・スクウォドフスカであり、1867年11月7日に現在のポーランドの首都、ワルシャワで生を受けました。

この当時、ポーランドはウィーン会議にて分割された直後の状態でした。ウィーン会議とは、フランス革命とナポレオン戦争終結後に荒れ果てたヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、1814年に開催された会議です。オーストリア帝国、ロシア帝国、プロイセン王国、イギリス(連合王国)、フランス王国、ローマ教皇領がこの会議の主催国でした。

各国の利害が衝突して数ヶ月を経ても遅々として結論がでませんでしたが、なんとか1815年にウィーン議定書が締結されました。しかし、この結果、ワルシャワ公国はポーランド立憲王国として事実上帝政ロシアに併合された状態となりました。

お父さんのブワディスカ・スクウォドフスキは下級貴族階級出身で、帝政ロシアによって研究や教壇に立つことを制限されるまではペテルブルク大学で数学と物理の教鞭を執った科学者でした。お母さんのブロニスワバ・ボグスカも下級貴族階級出身で、女学校の校長を勤める教育者でした。

マリアは5人兄弟の末っ子で、ゾフィア、ブロスニワバ、ヘラの三人の姉と、ユゼフというお兄さんがいました。その中でもマリアは幼少の頃から聡明で、4歳の時には姉の本を朗読でき、記憶力も抜群だったといいます。

マリアは、たいへん優秀な成績でギムナジウム(ヨーロッパの中高一貫校)を卒業しましたが、ポーランドがロシア支配下のことでもあり、この当時のロシアが女性を大学に入学することを認めていなかったため、大学へ行くのは断念しました。そして家庭教師をしながら、教え子が住む田舎の自然の中でのんびりした生活をすごしていました。

1890年に、マリアが23才のころ、ワルシャワ大学で数学を学んでいた男性と恋仲になり、結婚を誓い合うようになります。しかし、二人の社会的地位の違いから相手の両親に反対され、やがて破局。ちょうどそのころ、パリに出ていた姉のボローニャが医師の資格を取得し、パリに出てくればよいと誘われたため、破れた恋心を癒す意味もあって、マリアは心機一転パリに出ることを決心します。

その翌年の10月。3日間の汽車の旅を経てマリアはパリに移り住みます。そしてこの当時、女性でも科学教育を受講可能である数少ない機関の1つであったソルボンヌ大学(パリ大学)に入学。入学にあたっての登録用紙には、名前を「マリア」からフランス語風に「マリー」と書き、気持ちの上では別人に。そして、物理、化学、数学などの基礎学問を学ぶ日々が始まりました。

とはいえ、故国から仕送りがあるわけでもなく、生活費や学費は自分で働いて稼がなければならなかった彼女は、昼は大学で学び、夕方は講師のアルバイトをする毎日を送ります。生活費に事欠いて食事もろくに取らず、暖房も無かったため寒い時には持っている服すべてを着て寝る日々を過ごしながらも勉学に打ち込みました。

貯蓄が底をつき一度は諦めかけたことなどもありましたが、同郷の学友が彼女のために奨学金を申請してくれたため、勉学を続けることができ、その努力が実って、1893年にはとうとう物理学の学士資格を取得することができました。

学士を獲得後も、マリーは相変わらず屋根裏での貧乏生活を続けていましたが、やがてフランス工業振興協会の受託研究を行うことができるようになります。わずかな収入だったそうですが、その中でも懸命に貯蓄し、やがて奨学金を全額返納することができました。

ピエール・キュリー

マリーが受託していた研究は、鋼鉄の磁気的性質についてのものでしたが、この研究を進めるためには、大学や工業振興協会の工業試験場では手狭すぎました。

ちょうどそのころ、ワルシャワ時代に知り合った女性がパリに来て、マリーを訪ねてきました。そして彼女の夫がフリブール大学の大学教授であることを知り、この教授にお願いして、より広い試験場の提供を頼めそうな人物を探してもらうことになりました。

そして、この教授が探してきた人物こそが、フランス人科学者の「ピエール・キュリー」でした。当時35歳で、パリ市立の工業物理化学高等専門大学(EPCI)の教職に就いていましたが、大学の学位はまだ持っておらず、ましてや学者としてはほとんど無名でした。

しかし、彼はイオン結晶の誘電分極など電荷や磁気の研究で成果を挙げており、特殊な天秤の開発でフランス以外の国ではよく知られていました。また、後にキュリーの法則(物質の磁化は、かけられた磁場に正比例して生じるが、物質が熱せられた場合は磁化しなくなる)につながる基本原理などをこの当時既に解明していました。

彼を良く知るイギリスの高名な物理学者、ウィリアム・トムソンなどは、ひそかに彼を天才だと見抜いており、彼の意見を聞くため、わざわざイギリスから彼に面会に訪れたほどといいます。

彼自身は、女性との交際などにはまるで興味のない人間で、薄給と粗末な研修設備に甘んじながらも、無心に自分の好きな研究に打ち込む日々を送っているような人物でした。

しかし、1894年春、初めて会った二人は、「誠実で優しい人柄ながら、どこか奔放な夢想家の雰囲気がある」という自分とどこかよく似た人間であることに気付き、お互いに惹かれあうようになります。

その後ピエールは、1894年に、かねてよりの研究テーマであった、「対称性保存の原理」、すなわちキュリーの法則によって、数学の学士資格を得ます。

その頃はもう、お互いに信頼し合う親密な間柄になった二人でしたが、マリーはかねてより、学士を取得したら、故郷のポーランドに帰ろうと考えていました。しかし、このころから、ピエールは、マリーに求婚の手紙を何度も送るようになり、やがては、一緒にポーランドに行って暮らしてもよいとまで伝えてきました。

彼女が彼のプロポーズを受諾したのは1895年でした。ピエールの熱心さに負けたというよりも、パリに残り、彼とともに同じ研究を続けていくことが、自分にとっても彼にとってもプラスになると考えたためでもあります。

1895年7月26日、教会での誓いも、指輪も、宴も無い質素な結婚式が行われました。そして、ごく身近な人たちだけから贈られたお祝い金で自転車を購入し、フランス田園地帯を巡る新婚旅行に出発したといいます。こうしてマリーは、新しい人生の伴侶であるとともに、生涯で最高の共同研究者を得たのです。

放射能

パリで二人は、グラシエール通りでアパートを借り、新生活を始めました。ピエールが勤めるEPCIで研究室や広い実験場を提供してもらえるようになり、ここで研究を続けながら家事もこなしました。二人になっても暮らしは豊かとはいえず、収入を助けるために中・高等教育教授の資格を取得しました。

1897年には長女イレーヌに恵まれ、その出産と育児の中、フランス工業振興協会から受託していた研究の成果をもとに、鉄鋼の磁化についての研究論文を仕上げます。そして、これを機会に、マリーはピエールとも話し合い、博士号の取得をめざそうと決意します。

二人が博士号のテーマとして考えたのは、1896年にフランスの物理学者アンリ・ベクレルが報告した、ウラン塩化物(ウラン元素と塩素が化合してできる物質)が放射する「X線に似た透過力を持つ光線」でした。

ベクレルによれば、これは燐光(外光によって光る)とは違って、外部からのエネルギー源を必要とせず、ウラン自体が自分で光を発しているらしいということでした。しかし、その正体や原理は謎のままで、ベクレルは途中でその研究を放棄していました。

この研究に取り組むために、ピエールが確保したEPCIの実験場は、倉庫兼機械室を流用したもので、「ジャガイモ倉庫と家畜小屋を足して2で割ったような」暖房さえない粗末なものでした。

そこにピエールが昔発明した高精度の象現電圧計と水晶板ピエゾ素子電気計(注:この両者により、物質が放射能で「電離」した空気の電荷を精密に計測できる)など機器を持ち込み、ウラン化合物の周囲に生じる電離の状況を計測しはじめました。

そしてすぐに、計測したウラン化合物の発光が、光や温度など外的要因に影響されたものではなく、化合物に含まれるウランそのものからだという結果を得ます。つまり、放射は原子そのものに原因があるという事実が確認できたのです。

このことは、それまでに夫妻が明らかにしたものの中で最も重要な事実でした。しかし、マリーは、この現象がウランのみの特性かどうか疑問を持ちます。ほかにも自ら放射現象を起こす元素があるのではないかと考えたのです。

そして、既に知られている元素を80以上も測定した結果、「トリウム」と呼ばれる元素でも同様の放射があることを突き止めます。この結果から、マリはこれらの元素が発する放射を「放射能」と呼び、またこのような現象を起こす元素を「放射性元素」と名付けるのです。

彼女は、この発見した内容を即座に要約して論文にまとめ、科学アカデミーに報告しました。このころ放射能の研究を始めた研究者はほかにもいましたが、彼女の報告がそれよりも早かったことが、その後夫妻がノーベル賞を受賞できる要因にもなりました。しかし、トリウムが放射性元素であることに関しての発見競争では、2か月前のドイツのゲアハルト・シュミットの発見に遅れをとることになりました。

新元素の精製と研究

マリーたちの探究心は止まることを知らず、次には、EPCIに保管されていた、様々な鉱物サンプルの放射能評価を始めます。やがて、2種類のウラン鉱石について調べた結果、「トルベルナイト」とよばれるウラン鉱石の電離が、純粋なウラン元素の電離の2倍になり、「ピッチブレンド」という鉱石ではさらに4倍になることを発見します。

しかもそれらはトリウム元素を含んでおらず、測定が正しければ、これらの鉱石にはウラン元素よりも遥かに活発な放射を行う何かしらの物質が含まれるに違いないとマリーは考えるようになります。

マリーはできるだけ早急にこの仮説を確かめたくなる熱烈な願望にかられ、夫ピエールにその意を伝えます。1898年4月14日、マリーはピエールが苦労して入手してくれた、ピッチブレンドの分析にとりかかり、100グラムの試料を乳棒と乳鉢ですり潰す作業に着手しました。

しかし、その後「ラジウム」と呼ばれるこの物質が、自らが放射能を発する新発見の元素であることを証明するための二人の苦闘は、始まったばかりでした。

ラジウムが化合物ではなく元素であると証明するため、純粋なラジウム金属の分離に成功するのは、それからさらに10年以上の年月を経たのちのことでした。