梅雨が明けたと思ったら、いきなり30度越えの日が続き、うんざりしかけていたところ、思いがけず昨日は最高気温20度の快適な一日になりました。陽射しはなく、一日中雨ではあったものの、やはり気温は低いほうが楽。一日中寝ていようかとも思いましたが、タエさんから買い物のリクエストがあったので、しぶしぶ山を下りました。
ただ単に買い物をして帰ってくるだけでは、ガソリンがもったいないので、すぐ麓にあるカインズホームで、庭木を見てくることに。ようやく庭に木が植えられるようになったのがうれしくて、最近はホームセンターに行くと必ずといっていいほど、園芸コーナーを探索して帰ってきます。
この日もそんなつもりはなかったのですが、気が付くと5~6鉢もコニファー類を買ってしまい、しかもそれで火がつき、別のホームセンターにも行って、結局、10鉢以上の庭木を買ってしまいました。あーあ、また植えるのが大変だー。
ところで、前から思っていたのですが、ここ伊豆の植生って、よそと違うんだろうか、昔、富士山が噴火したときの火山灰って降っているんかしら、という素朴な疑問。
そこで、いろいろ調べてみました。まず、過去に富士山が噴火したときの火山灰の件。富士山の噴火と言えば、およそ300年前の1707年の12月に起きた宝永噴火が有名ですが、この噴火は、富士山の噴火史上でもトップクラスの大規模かつ激しい噴火だったようです。
南東斜面に開いた3つの火口から、マグマ量に換算して7億トンもの火山灰が成層圏まで噴き上がったそうで、この噴煙は、冬のジェット気流に乗って東に流れ、その風下にあたる静岡県東部・神奈川県・東京都・千葉県などでは火山灰が山のように降りつもったらしい。
その厚さは、小山町の須走付近で2メートル超、小田原で10~20センチメートル、当時の江戸でも2~3センチメートルあったということです。この降灰によって、農地や農作物が全滅しただけでなく、山林が荒れたために土石流や洪水が頻発したため、静岡県の東部や神奈川県の西部の人たちは、その後数十年もの長いあいだ降り積もった火山灰と格闘することになったそうです。
しかし、ここ、伊豆地方はというと、ほとんど被害を与えなかったらしい。火口から立ち上る噴煙や火柱は、三島や沼津など東海道沿線の宿場町からも目撃されたという記録が残っていますが、火山灰は噴火開始の翌朝未明に沼津などにわずかに降った程度だったそうです。風向きが安定する時期であったことや、噴火した期間も16日間という短かかったことが幸いしたようです。
伊豆方面に降った火山灰はほんの少しであったため、その現物を見つけることすら困難なのだそうで、これでウチの庭の土も東京のように黒くない理由がわかりました。
しかしながら、さらに過去にさかのぼると、約4万年前に富士山噴火したときの火山灰層が函南町内で見つかっているそうで、また、富士山から流れ出た溶岩流や土石流の中には三島付近に達したものもあるとのことで、もし、再度富士山が噴火した場合には、火口の位置や噴火規模によっては、同様のことが起きる可能性はあるそうです。
しかしどうやら、ここ修善寺あたりまでは溶岩流は来ることはないだろう、と安心していたら、別の記事がみつかりました。それによると、伊豆には、富士山からだけでなく、その東にある箱根山から噴出した軽石や火山灰が、伊豆にも降りつもった過去があるそうなのです。
富士山はおよそ10万年前に噴火を始め、その活動期間のすべてが伊豆東部火山群の活動期間(約15万年前~現在)と重なっているんだそうで、もし富士山が噴火したら、箱根山も噴火する可能性があるということ。富士山よりも、箱根山により近い伊豆のこと。それが噴火したときは、全く影響はないというわけにはいかないのかもしれません。
そして次の疑問。伊豆の植物相は?です。正解は、やはり「本州島」とは違って、南方系なんだそうです。このブログで前にも書きましたが、伊豆半島は、伊豆諸島の島々と同様に、元はフィリピン海プレート上の南方で生まれ、それがどんぶらこ~どんぶらこ~と本州に近付いてきてぶつかってできた場所であり、このため、植物相は本州島とは異なる南方系を形成しているのだとか。
そういわれてみれば、半島内のあちこちで、ヤシの木やらソテツが立派に育っているのをみますが、そういうことなのか~と納得。雪もあまりふらないので、植物も越冬しやすい場所だろうし、冬には枯れてしまうような一年草も翌年まで枯れないで越年するなんてことも多いのかもしれません。
それに関連する記事がないかな~とネットサーフィンしていたところ、面白い記事を発見しました。なんでも、その昔、明治期から昭和中期にかけての伊豆では、その植生景観は、
「非常にスカスカした、高木が少なくやぶ、あるいは草原的なもの」だったそうです。
どちらかの国立大学で植物を研究されている方のブログのようですが、それによると、伊豆半島の潜在植生、つまり自然にまかせた場合に成立する植生は、照葉樹林(常緑広葉樹林)であると推定されているのだとか。にもかかわらず伊豆半島の多くの地域が低植生となっている理由としては、過去の住民による激しい資源利用がだとこの方はおっしゃいます。
資源として山林が利用されていた時代に、植生が現在よりも低かったという例は各地でみられるのだそうですが、伊豆半島の古い写真などもみると、他の地域と比較してもとくに樹木が少ないのだそうで、どちらかといえば草原的な植生が多くみられるのだそうです。
その理由について、この方は伊豆半島で野焼きが頻繁におこなわれていたことと関係があるのだとおっしゃいます。伊豆は「半島」であるために、海がすぐに迫っていて、高い山といえば天城山系しかなかったとう理由もあり、少ない山林を効率よく使うために、昔から焼畑が頻繁におこなわれていたのだそうで、野焼きは戦後すぐくらいまで続いていたそうです。
春先には湘南から、伊豆の野焼きのけむりがのぞめたというくらいですから、あちこちで焼畑農家があったのでしょう。
この話を読んで、ふと思い出したのが、先日書いた、軽野船の話。詳しくは、「軽野船」の項をご覧になるとわかると思いますが、その昔、日本書記が書かれる前の西暦2~300年ころから伊豆は造船がさかんな土地で、造船をするための木材を大量に消費した、という歴史があるようなのです。
おそらくは近代、焼畑農業がさかんになる以前のずっと昔から、伊豆では材木を切り、それを加工する産業が発達していたのではないか、そしてそのために伊豆では高木が少ないのではないか、というふうに思うのです。
無論、私の推測にすぎませんが、そうした事実があったとしてもおかしくないのではないでしょうか。
しかし、明治、大正、昭和と続いた、燃料革命や肥料革命といった経済構造の大変革をへたあと、伊豆半島も他の地域同様に草原地帯から、森林地帯へとまた戻りつつあるのだそうです。「まもりたい静岡県の野生生物 植物編」という本では、アズマギクやキキョウといった陽地性の植物が軒並み減少あるいは行方不明となっているのだそうで、草山や疎林がなくなり、今の伊豆では、森林が増えてきているのだとか。
森林が増えると良いことなのか、と思いきや、その昔の伊豆は、森林は貧弱だけれども、草山や疎林があちこちにある環境というのは、生物が生息するためには良い環境なのだそうで、いわゆる生物多様性が昔のほうが高かったといいます。
確かに森林ばかり増えている伊豆では、最近、鹿や猿による農作物の被害が甚大だといいます。豊かな自然を取り戻すためには、昔のような草原地帯が増えるほうが、伊豆らしいということなのでしょう。
伊豆全体の植生と我が家の庭とは、にわかにリンクはしないでしょうが、ウチの庭もいろんな生物の憩いの場所になるようなものにしたいもの。そのためには何をすれば良いのかまた勉強です。
そうそう、庭に鳥たちが頻繁にやってくるように、エサ台を作ろうと思っていました。今日はそのエサ台の材料を買いに行くことにしましょう。