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金シャチへGO!

先日、名古屋城の敷地内に「金シャチ横丁」なる商業施設がオープンしたそうです。

城周辺で食事や買い物が楽しめる同施設は、河村たかし名古屋市長の肝いりでできたもので、尾張名古屋のシンボルともいえる名古屋城とその周辺の魅力を向上させ、さらに国内および海外からの来訪者に名古屋の魅力をアピールすることを目的とした、といいます。

河村たかし市長は、2010年(平成22年)に、 自身が主導した市議会リコールの署名数が法定数を下回ったとして、名古屋市長を引責辞任しましたが、出直しのために再出馬し、翌年2011年(平成23年)名古屋市長に再選、見事返り咲きました。

その再選にあたり、公約だった名古屋城周辺に再現する城下町構想を推進し、「世界の金シャチ横丁(仮称)」基本構想」を策定。2014年2月には正式名称が「金シャチ横丁」となることが決定しました。

具体的には、「なごやめし」と呼ばれる名古屋名物の食べ物を提供する老舗飲食店や、地元の若手経営者が創作する新しい食文化を提案する飲食店、さらに古くからの伝統工芸品を販売する物販店・お土産物屋が集まっています。

2つの商業施設区域に分けられており、それぞれ異なるコンセプトで形成されていて、正門側は「義直ゾーン」、東門側は「宗春ゾーン」と名付けられています。

「義直ゾーン」は、尾張藩初代藩主・徳川義直にちなんで命名。伝統的な純和風の街並みをイメージし、建物は名古屋城の築城当時にも使われた木曽の材木を使用しています。昔から続く名古屋の食を提供し、名古屋が得意とする伝統工芸に触れる機会を与える情報発信の場ともなるほか、イベント会場などに使用される広場も設けられています。

また、「宗春ゾーン」は、徳川家きっての派手好きで知られた7代藩主・徳川宗春にちなんで命名。義直ゾーンとは差別化し、モダンなデザインを取り入れた建物で構成されます。出店店舗は、若手経営者による意欲的な飲食店が立ち並んでおり、道路に面したテラス席や夜のライトアップなど、おしゃれな空間も演出されます。

オープンしたての施設なので筆者もまだ行ったことがありませんが、ネットを見る限りはなかなか魅力的に仕上がっており、今度名古屋へ行ったらぜひ、立ち寄ってみたいと思います。




天守閣の再建

しかしそれにしても、名古屋って、ここ以外にどんな観光施設があったでしょうか?

私がそう悩むほど、名古屋、といえば何かこれといって行きたい、という場所をあまり思いつきません。かつては、「魅力に欠ける都市第1位」に輝いた?こともあり、あるテレビ番組では、「日本一行きたくない街」などとレッテルを貼られてしまいました。

名古屋市民からも「住む街やから、観光的な魅力はないかも」、「他の都市でここには負けてないってトコがない」といった意見が出るほどで、日本を代表する大都市でありながら、住んでいる市民もやや自嘲気味のようです。

そんな名古屋の中でも、名古屋城周辺というのは、駅にも近く、隣が県庁という立地にあり、開発が進んで賑やかな西側に比べて、どちらかといえば地味な駅東側においては、一番人が集まりそうな場所です。

ただ、名古屋城周辺にはこれまで、固定の飲食店などが非常に少なく、観光の途中で一休みできる場所があまりありませんでした。「金シャチ横丁」のような施設が増えることによって城周辺での滞在時間が増え、長い歴史を持つ名古屋の魅力が再認識されるようになれば、観光の町として一皮むけるかもしれません。



ところが、この「金シャチ横丁」のオープンに水をかけるように、名古屋のシンボル、名古屋城の天守閣が、この5月から閉鎖されることが決まっているそうです。

実は、この名古屋城、従来の鉄筋コンクリート造りの建物を壊し、木造で再建されることになっており、事の発端はやはり川村たかし市長です。

河村氏は、名古屋市長に就任以降、「名古屋を訪れても“行く所が無い”と言われるのはいかんこと。わしは天守閣を木造で再建しようと言う意見ですけど」などと述べ、かねてより、名古屋城の木造復元化に前向きの姿勢を見せていました。

この市長の木造復元化計画に対しては当初、有識者からの厳しい批判がありました。在任が長くなり(今年で9年)、近年影響力が低下していると言われる同市長が注目を浴びるために打ち上げたネタの一つに過ぎず、文化庁への申請もなされていない無理な計画であり、議会を押し切る力もないだろう、といったものです。

その一方で、別の有識者からは、名古屋城は資料が豊富に残る貴重な城であり、木造復元は外国人へのアピールとなる。また、城は外国人観光客が訪れることの多いスポットであり、木造化は外国人観光客への相当なインパクトが見込まれる、といった賛成意見も寄せられました。

こうした中、コンクリートで作られている現在の天守閣の耐震性が現行の建築基準法に適合しないことなども指摘されるようになり、また老朽化も進んでいることなども明らかとなるなど、城の建て替えがより現実味を帯びてきました。

再建築にあたっては、従来のものを耐震補強すればよいという意見もありましたが、新発田城三階櫓(新潟県 2004年)、大洲城天守(愛媛県 2004年)など、近年、全国各地で木造による天守の再建が相次いでおり、名古屋城においても2013年に木造再建の検討結果が示され、その総工費はおよそ500億円と試算されました。

同年、2027年の完成をめどに再建を実施する方針が正式に名古屋市から公表され、2017年3月、自由民主党、民進党、公明党等の賛成多数により名古屋市議会で可決。当面、10億円の木造復元関連予算が支出されることになりました。

さらに、同年4月には川村市長が4選を果たしました。この選挙においては、木造復元に反対する弁護士の岩城正光元名古屋市副市長が出馬したものの河村氏に大差で敗れ、これで木造による天守閣の復元は確実なものとなりました。

5月、名古屋市は優先交渉権者の竹中工務店(大阪市)と基本協定を締結し、当初目標としていた2027年の予定年度よりも大幅な前倒となる、2022年12月の完成を目指し、最大505億円と目される事業がスタートを切りました。

これを受けて名古屋市は、現天守への入場は、今年の5月7日から2022年末の復元完成まで禁止すると正式発表。天守以外はこれまで通り見学できるものの、今後4年に渡って近隣のエリアは立ち入り禁止になるようです。

来年3月には外部エレベーター、9月には天守閣本体の取り壊し始めるそうで、木造復元工事に入るのは、オリンピックの始まる直前の2020年6月からの予定。それに先立つ来年6月頃より、工事に伴う囲いを天守閣まわりに建て始めるとのことです。

この天守閣の木造復元化により、従来の天守閣で展示されていた重要文化財や刀剣や甲冑の展示はできなくなります。しかし、同じく重要文化財の旧本丸御殿障壁画やガラス乾版写真などは西之丸に建設予定の重要文化財等展示施設に移設するといいます。

とはいえ、名古屋市の活性化に向け、せっかく「金シャチ横丁」ができたというのに、それに水をかけるようなこの天守閣の封鎖は、名古屋離れを加速させるのではないか、とする向きもあります。これに対して市は、観光客の減少を食い止めようと、名護屋城跡公園の開園時間の延長や無料化の検討など、さらなる「目玉づくり」を急いでいるといいます。

戦後の急成長時代の中、戦災で焼け落ちた天守などのコンクリートによる再建が日本各地で進みましたが、「城フェチ」の筆者としては、何をそんなに急いでいたのだろう、従来の木造建築で立て直して欲しかったなあ、とかねがね思っていました。なので、今回の木造建築への「回帰」に関しては私的には大賛成です。

先般、1994年にやはり木造建築で再建された掛川城を見学する機会がありましたが、古絵図などの調査に基づいて忠実に再現された同城は素晴らしく、再建されたとは思えないほどの「古さ」を感じました。城の雰囲気というものはやはり、建てられた立地とか、周囲の環境とマッチした「造り」。古きを偲ばせるものはやはり木造だ、と感じたものです。

コンクリートから再度木造によって立て替えられ、新たなスタートを切る名古屋城もまた、現代の名古屋の地に「古きよき時代」の風を吹かせてくれるに違いなく、今後観光に力を入れようとしている名古屋の期待にも応えてくれるに違いありません。その再建に大きく期待したいところです。



名古屋城とは

ところで、この名古屋城ですが、いったいどういう歴史のあるお城なのかということをおさらいしておきましょう。

名古屋城は、大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われていました。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっていることは、みなさんもご存知のとおりです。

名古屋一帯は、その昔、尾張国と呼ばれており、その中心は長らく清須城でした。現名古屋城から北西に直線距離で6kmほど行ったところにあった城で、織田信長が1555年(弘治元年)に、現在の名古屋城の二之丸にあった「那古野城跡」を移設したものです。

現在、清須城跡は開発によって大部分は消失し、さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されており、本丸土塁の一部が残るのみですが、天守は、平成元年(1989年)に旧・清洲町の町制100周年を記念して、RC造による模擬天守として再建されています。

その後、信長が本能寺の変で入滅すると、清須城は秀吉配下の福島正則の居城となりました。正則は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの折りには東軍に加担したため、清須城も東軍の方拠点として利用され、戦後は安芸に転封した福島正則に代わり、徳川家康の四男・松平忠吉が入り、以後、徳川家の居城となりました。

しかし、水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に新たに城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、西国諸大名を主体とした天下普請で築城が開始されました。

石垣は諸大名の分担によって築かれましたが、中でも高度な技術を要した天守台石垣は、城造りの名手といわれた加藤清正がこれを主導しました。清正は、九州などの外様大名に激飛ばして巨大な石垣石を負担させ、各大名が刻印を打って運ばれてきた石の積み上げには延べ558万人の工事役夫が動員され、土台は僅か1年足らずで完成したといいます。

そのあと、天守の築造が始まり、1612年(慶長17年)後半までにはほぼ完成しました。
大天守は層塔型で5層5階、地下1階、その高さは55.6メートル(天守台19.5メートル、建屋36.1メートル)と、現代の18階建て高層建築に相当するものでした。

高さでは江戸城や徳川大坂城の天守に及ばなかったものの、延べ床面積では4,424.5m2に及ぶ史上最大規模の城で、体積では姫路城天守の約2.5倍もありました。

その落成にあたり、大天守の屋根の上には徳川家の威光を表すためのものとして、天守の屋根に据え付けられたのが、金の板を貼り付けた金鯱(金のしゃちほこ)です。

その後、江戸期を通じて、本丸御殿、二之丸、西之丸、御深井丸、三之丸などが次々と完成するとともに、外堀や内堀なども整備され、現在の名古屋城跡公園を形作る全体の城郭は17世紀前半までにはほぼ完成したようです。

維新後は、1872年(明治5年)に東京鎮台第三分営が城内に置かれ、1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、第二次大戦が終わるまで陸軍が統治していました。

ただ、本丸だけは、1893年(明治26年)、陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称されていましたが、その後名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜されました。

太平洋戦争時には、空襲から本丸の金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させるなどしていましたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲によりついに焼失。焼夷弾が、金鯱を下ろすために設けられていた工事用足場に引っかかり、そこから引火したといわれています。

この天守は1612年(慶長17年)の完成後、何度かの震災、大火から免れ、推定マグニチュード8.0の濃尾地震(明治24年)にも耐えました。しかし、この空襲ではついに持ちこたえることができず、ほかにも本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて失われました。

戦後、三之丸を除く城跡のガラクタは片付けられ、北東にあった低湿地跡と併せ「名城公園」の名で公開されました。園内には、戦災を免れた3棟の櫓と3棟の門、二之丸庭園の一部が残り、また三之丸を含め土塁・堀・門の桝形などは比較的良好な状態で残りました。

1957年(昭和32年)、名古屋市制70周年記念事業と位置づけられて天守の再建が開始。このときも、再建天守を木造とするか否かで議論がありましたが、鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)で再建することが決定。焼失で傷んだ石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮するため、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に再建されました。

天守は1959年(昭和34年)に完成。以後、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなりましたが、竣工からはや60年を経るまでになり、近年老朽化が目立っていました。ちなみに、当初工事を請け負ったのは、同じく鉄筋コンクリート造りの会津若松城や、木造復元の白石城、伊予大洲城などの再建で知られる「間組」でした。

再建天守は5層7階、城内と石垣の外側にはエレベータがそれぞれ設置されており、車椅子でも5階まで上がることができるバリアフリー構造となっています。外観はほぼ忠実に再現されましたが、最上層の窓は展望窓としてつくりかえたため、焼失前より大きなものとなり、このためオリジナルと同じにした下層の窓とは意匠が異なります。

RC造りとはいえ、ちょうど昭和の高度成長期に入ろうかという時代に再建されたこの天守は、長らく名古屋のシンボルとして親しまれてきました。とくにその頂に置かれた金鯱は名古屋の象徴とも言ってよく、西区に本社を置く、スタンプメーカーのシヤチハタもこれを由来にするとともに、かつては「名古屋金鯱軍」というプロ野球チームもありました。

本丸御殿の完成

木造による再建が完了までは、このシャチホコも天守もしばらくその雄姿をみることができなくなりますが、一方では、本丸に隣接する「本丸御殿」が、もうすぐ完成します。

既に2008年から復元工事に入っており、この6月にも完成する予定の「本丸御殿」は、城主(藩主)が居住する御殿で、将軍、秀忠、家光、家茂の3人が上洛の途中に宿泊したこともある由緒ある建物です。

本丸と同じく戦時中に消失しましたが、こちらも創建当初の柿葺(こけらぶき)を再現する形で、今年中の全体公開を目指して総工費150億円が投じられて復元されています。杮葺とは、木材の薄板を用いて屋根を葺く工法で、通常は火に強い瓦葺が用いられますが、この本丸御殿には「迎賓館」としての優雅さを演出するために用いられていました。

御成専用としただけあって、その豪華さは当時の二条城本丸御殿に匹敵したといい、3つの書院ほか、大小合わせて14~15もの建物群からなります。これら殿舎等はすべて第二次世界大戦の空襲で失われましたが、内部にあった障壁画のうち移動可能な襖などは取り外して倉庫に収められていたため焼失を免れ、戦後重要文化財に指定、保存されていました。

完成した本丸御殿とともに、これら文化財も同時公開されるようですが、今のところ、その予定は6月8日だとか。改築のために「本丸ロス」になりかねない名護屋城跡公園にとっては救世主であり、また新たに完成した「金シャチ横丁」とともに、「新生名古屋」を盛り上げる立役者として活躍してくれそうです。




実は見どころいっぱいの名古屋

冒頭では名古屋には何もない、などと書きましたが、実はこのほかにも名古屋にはまだまだたくさん見どころがあります。

そのひとつ、熱田神宮もまた観光の名所として有名です。三種の神器の一つ草薙剣を祭神とする由緒ある古社で、境内は広く、「日本三大土塀」の一つとされる「信長塀」や「日本三大灯籠」として知られる巨大な「佐久間灯篭」など見どころがはたくさんあります。

名古屋城より少し離れていますが(南へ約7km)、名古屋駅からは名鉄名古屋本線を使ってわずか10分でアクセスできます。

また、名古屋といえば、「トヨタ」です。名古屋城から西へわずか2kmほどのところにある「トヨタ産業技術記念館」は、トヨタが明治44年(1911年)に創設した試験工場跡地と建物を利用して開設した博物館で、隠れた人気があります。

繊維機械館と自動車館から成り、繊維機械館ではグループの原点となった紡績業で実際に使用された歴代の紡績機械などを展示しており、紡績技術の発展を学ぶことができます。また、自動車館は自動車事業創業期、自動車のしくみと構成部品、開発技術、生産技術の4ゾーンに分かれており、トヨタの自動車づくりをさまざまな角度から紹介しています。

さらに、イケメンゴリラ「シャバーニ」で有名になった「東山動植物園」もあります。こちらは少々遠く、名古屋駅から地下鉄東山線で40分ほど東へ行ったところになります。

展示種類数日本一を誇るこの動物園は、愛知県民から最も愛されている人気スポットで、60haもの敷地に動物園だけでなく、植物園、遊園地、東山スカイタワーなどもあり、一日いてもあきないほど魅力的な施設にあふれています。

そろそろ桜も終わり、新緑の季節に入ります。今年の大型連休は、いまもっともトレンディーな街に生まれ変わりつつある、名古屋を目指してみてはいかがでしょうか。

人事異動の季節に

3月は、人事異動の季節です。

ここ伊豆のような地方でも、地元新聞をみると、どこそこの市町村でどういった人事異動があったか、といった細かい記事が載ります。

際立って大きな産業がない土地柄ゆえ、官公庁のお役人の動向が、地元の産業の行方に影響を与えやすいということがあるからでしょうが、都道府県レベルの新聞でも県職員の移動状況などが新聞に掲載されたりします。また、大手の経済新聞などでは、大企業の管理職のその年の移動状況などが掲載されたりもします。

いわば春の恒例事業のようなかんじであり、もう慣れっこになっている、という人も多いでしょうが、こうした人事異動というのは、いったいいつ頃からあるのでしょうか。

日本企業の人事異動の慣行は、江戸時代の参勤交代制度から来ているのではないか、という人もいるようです。いわずもがなですが、参勤交代とは、各藩の正室と世継ぎを人質として江戸に残し、多くの藩士を引き連れて、大名が一年おきに江戸と自領を行き来することを定めた制度です。

その移動のためには莫大な金がかかるため、当然、遠方の藩ほど不利になります。強大な力を持つ藩ほど外様に置く、というのがこのシステムの巧妙なところで、それによってその強大な勢力を長年にわたってそがせることができたわけです。

無駄な移動を義務付け、長期間家族から離れて住ませることを習慣化する、というこうしたシステムは、徳川250年に渡って続き、確立されました。そうした慣例の一部が明治政府の成立以後も引き継がれたのではないか、という説は、正しいのかもしれません。

もっとも、明治政府の人事異動が参勤交代制度と関係していた、という証拠は何もないわけですが、少なくとも地方の人間と中央の人間を入れ替えることのメリット、というのは新政府も感じていたのではないでしょうか。

ひとつには、地方の情勢がわかるし、逆に中央の人間を地方に派遣することによって、中央の権威を全国に知らしめる、ということができるわけで、成立間もない脆弱な政府にとっての人事異動にはそれなりの効果があったはずです。その成果に味を占め、以後、国家ぐるみで人の異動が現在に至るまで続いている、とうのが私の推測です。

これが当たっている、当たっていないにせよ、そろそろこうした習慣は時代遅れなのではないか、思うわけですが、その理由は、明治維新以後、150年を経た現代の官僚社会、あるいは日本企業における環境は、海外との関わり、という一点においてだけでも著しく変わってきており、諸外国にも例をみないこうした制度がいかにも古臭く見えるためです。

現在における、役所や会社が人事管理戦略の中核的な要素の一つとして人事異動を実施する理由を考えてみたとき、主には以下のようなものがあげられます。

①能力開発や後進の育成、人事面での活性化
本人の能力を伸ばし、ゆくゆくは組織のトップを担ってもらうためには、事業のすべての分野と機能を経験する必要がある、とする考え方です。たとえトップにならなくても、優秀なジェネラリストを育成したいのはどこの企業も希望するところではあります。コスト面を考えれば、一人の人間が多数の仕事をこなせるほうが効率的、というわけです。

②マンネリ化を防ぐため
人事異動することで組織員に新しい刺激を与え、マンネリを防ぐ、というのがもうひとつの理由です。一つの業務に長期間携わることによって発生する慢心の防止、あるいは取引先との不正防止といった側面もあり、人事異動によって常に組織をリフレッシュさせておきたい、という理想はどこの組織にもあるでしょう。

③不平等をなくすため
地方への転勤にあたっては、当然“人気のある都市“や”不人気な僻地“があります。同じ場所に長期間勤務させず、定期的に交代させれば、不平不満をなるべく公平化できる、という考え方があり、多くは2~3年、長期でも5年程度で入れ替えが行われます。

ただ、問題を起こした人物に対する懲戒としたり、会社に不都合な人物を僻地にやる、という場合もあり、この種の転勤はいわゆる「左遷」です。逆に、活躍が認められ、地方の大都市や大きな部署に異動となることがあり、これを「栄転」とも呼びます。




人事異動のデメリット

以上がだいたい人事異動の目的といわれていることですが、では、そのデメリットとは何でしょうか。近年日本も国際化が進み、こうした人事異動を毎年恒例行事のようにやっていては、いずれ先細りになる、大きな改革を、と叫ぶ声が官民ともに高くなってきました。その理由について、上の3つについてそれぞれみていきましょう。

①能力開発や後進の育成、人事面での活性化?
近年、どんな業種においても、ビジネスが専門化する傾向にあります。ひとつの業種を掘り下げることで、より付加価値を見出していく、といった方向に舵を切る業態も多く、従来のように、様々な事業を経験し、幅広い知識を持つ社員を多数育てることがはたして企業にとって重要か、という疑問が出てきています。

同じ分野の部署に継続的に勤務させ、より深いスキルと経験を養わせる、いわば昔からの職人を養成するようなやり方がむしろ必要になのではないか、という声が高まってきているようです。

2~3年おきに職務を転々と異動するだけでは、浅薄な知識と技能しか蓄積できません。専門スキルの欠如は、とくに、今後世界の企業と渡り合っていく上で必要とされる分野においては、効率と技能における大きなネガティブ要素を与えることになります。

②マンネリ化を防ぐため?
マンネリ化を防ぐために人事異動を行う、という現在の体制は、日本固有の社会風土、終身雇用の慣習に基づいていると思われます。新しい職に就いて新たな挑戦に直面し、新たな物事を学べば、チームは新しいアイディアの恩恵を受ける、というわけで、言葉を変えればうまく組織レベルの「気分転換」をやっているわけです。

これによって組織内部における公平性を保ち、不平不満を和らげることで長期雇用を実現してきたわけで、極めて日本的な発想です。業績の上がらない社員は、別の仕事で業績を上げる機会が与えられる、という側面もあり、企業がそのような入れ替わりの機会を提供することで、従来はマンネリ化を防ぐことができる、とされてきました。

しかし、うまくやって行けない社員は隔離されるということが起き、また業績不振の社員をたらい回しにするというこが行われるようになってきており、こうした処遇は逆に、組織の別の部門に負担を与えることになります。

近年、パワハラやセクハラといった、強者による弱者の「いじめ」が社会問題化しており、こうした問題を放置し続ける組織における人事異動は、けっして業績向上につながることはないでしょう。

③不平等をなくすため?
地方転勤を伴う人事異動に関する大きな問題のひとつとしては、 家族を残して単身赴任する、というケースが多くなることです。日本ではそれがあまりにも普通のことですが、英語には「単身赴任」に相当する言葉すら存在しません。

総務省の統計によれば、日本の企業社員人口全体における単身赴任者数は約2%ほどだそうで、年々増加しており、現在では100万人を超えるといいます。単身赴任による家族の分離は、本人と家族の両方のストレスになりますが、また多くの場合、二世帯分の家賃を払わなければならず、収入面でも大きな負担になります。



海外との関わりが増える中で

以上のように、現代日本の人事異動は大きな問題を抱えていると思われますが、このほかにも、人事異動があるたびに、各組織で長年関わってきたプロジェクトや顧客との関係が壊れる、ということがあります。

事業の継続性が失われ、仕事が中断されだけでなく、異動によってこれまでにまったく経験したことのないような分野を担うことになり、大きなストレスを感じながら仕事を継続している、という人も多いでしょう。

日本では企業だけでなく、官公庁でも、同一の人間に多数の職務を経験させることを是としており、一人の人間に豊富な経験と特別な教育を施して、専門家として育てる、といった海外のようなやり方は行われていません。

競争社会に生き残るためだ、と称して、社員に短期間で一から学ぶことを強いている組織も多く、よくあれだけのことを短時間で覚えられるな、という職場をよくみることがあります。

短時間で知識を押し込むということは、非効率であるだけでなく、非常にストレスの溜まることでもあり、やる気の低下にも繋がりかねないわけで、場合によっては学習不消化のまま現場に送りだされることもあります。顧客や同僚にとって、仕事がわかっていないスタッフとやりとりしなければならないことは、大きな弊害といえるでしょう。

以上のような人事異動に関する問題は、異動の際の引継ぎのプロセスのプログラム化で補うことができる、とはよくいわれることですが、前任者から後任者への重要な情報とスキルの引継ぎを行う、といったことは単純に明文化できるようなものではなく、ある種の「フィーリング」に拠るところも多いものです。

引き継ぎがうまくいった場合は、その人事異動は成功しますが、大抵の場合、異動を機にして業務の中断が起き、直後に深刻な効率の低下が起こることも多く、とくに人身を預かるような分野では、重要な事柄が見落とされることで大きな事故がおきる、といったこともあります。

近年、日本の職場風土もかなり国際化が進み、外国人と一緒の職場にいる、という人も増えていると思いますが、そうした同僚のみならず、海外の顧客との取引においても、人事異動によって背景を充分に知らずに出たり入ったりする社員と仕事をしなければならないことは、大きなフラストレーションとなっているようです。





アメリカにおける人事

では、そうした取引の中でも最も多いと思われるアメリカの人事異動、というのはどうなっているのでしょうか。

これについてはまず、アメリカでは日本のような「年功序列」といった風土はなく、伝統的に「職務等級制度」が根付いています。

これはどういうことかといえば、たとえば、ひとつの製品を作る技術部門があったとします。一つの製品を作るためには、基本的なコンセプトの企画・構想から始まって、ラフデザイン、ディティールデザイン、試作、製造、検品、販売、といった風に手順を追って製品化していくわけですが、通常はそれぞれの分野におけるエキスパートが存在します。

また、それぞれの分野においても、新入社員のようなスキルがまだ未熟な人間から、中級クラス、上級クラス、監督クラス、といったレベルがあるわけであり、アメリカではこうした各分野において、職務レベルの分析を行って等級(グレード)を設定するのが普通です。

こうした明確化された職務とそれに紐付けられた等級に最も適合する人材を社内あるいは社外から公募で探し出して、職務に据える、というやり方をとっており、各職務の給与レベルは、会社のある地域や同業他社の給与調査結果を基にしてそのレンジが決められていくというのが最も一般的です。

ということは、日本のような年功序列社会における全社共通の基準というのは、アメリカの会社の中には存在しないということになります。つまり、デザイン部門の課長の給与レベルと製造部門の課長の給与レベルは、決して同じではないのが普通であり、日本のように同じ課長だから、給料は同じ、ということはまずありえない、ということです。

こうした事情があるため、社内での異動というのは現実的ではなく、むしろほぼ不可能に近いといってよく、デザイン部門の課長はデザインで磨き上げてきたスキルや実績があるからこそ、その部門の長になっているであり、もしこれが製造部門に異動になった場合は、そこの課長として必要とされる要件を満たしていないので、不適格ということになります。

従って、アメリカでは、日本のように辞令一枚だけで、一方的に異動・転勤させる、といったやり方をしている民間企業はほとんどなく、人事異動というのは、せいぜい官僚組織や軍隊ぐらいが行っているだけなのではないかと思われます。

ただ、例外がないわけではなく、社員に転勤を伴う異動を打診することもあります。が、そのような場合でも強制ではなく、転勤せずにその地に残り続けることも選択肢に入っており、本人には転勤または現在の場所に居続けるかどうかを判断する権利、また自由が認められていることがほとんどです。

ただし、転勤を選ばずに今の場所に居残る選択をした場合は、転勤によって発生する昇進や昇給といったアドバンテージは、はなから棒に振ることになります。

しかし、それはむしろ当然のこととして、社員も納得済みのことがほとんどです。転勤して昇進したり昇給したりするよりも、自分の家族や友達のいる現在の居場所に暮らし続けたいというのは、大きな変化を望まない、今の生活環境を守りたい、と考える人にとってはあたりまえのことです。

このあたりのことは、最近日本でも増えていて、地方へ転勤させられるのが嫌だから会社を辞めて転職した、というケースが多々あるようです。ただ、アメリカのように職務等級制度が一般化していないため、別の会社に移っても前の会社でのスキルが認められず、給料が下がる、といったケースがあります。

アメリアの民間会社では、日本以上に社員の生活基盤や家族・友人関係に重きを置く傾向が強く、日本のように辞令一本で移動させる、ということは難しくなっています。

また、アメリカは日本のように均一化した国民性を持っているわけではなく、人種のるつぼといわれるほどに多様な人種が住んでいるので、人の思考や論理も非常に多様化していて、それこそ千差万別、十人十色です。このような社会で、日本のように毎年年度末に人事異動を整然と行う、ということはまったく現実的ではありません。

アメリカだけでなく、おそらく多くの欧米諸国も同じような事情であり、人事異動という文化は世界的にみても、かなり珍しい制度ではないでしょうか。

国際化の中での新しい人事交流を

しかし、そうした日本社会に入り込んでくる外国人も増えてきており、とくに海外に支店などを置く日系企業へ入社する人も増えてきているようです。そうした人の中には、せっかく自分は日系企業に勤めているのだから、一度は日本で仕事をしてみたい、日本で暮らしてみたいと思っている外国人も多いようです。

最近はよく日本ブームということがいわれているようで、実は日本人が考えている以上に日本で働いてみたい、と考えている外国人が増えていると思われます。日本に来れば、人事異動があるよ、と押し付けるのではなく、相手の気持ちや希望、境遇を尊重した人事を行うのであれば、日本行きに手を挙げる外国人は多いと思われます。

「グローバル人事」が昨今の流行り言葉となっています。日本行きに手を挙げた外国に強力な戦力として十分な力を発揮してもらうことができ、それにあわせた評価と処遇を行うことこそが、優れたグローバル人事といえます。

一方で、従来からの日本的な人事異動は、専門的な人材を育てず、ビジネスの阻害になること多くなってきており、こうした状況が長く続けば、いずれは日本企業は弱体化していく、という見方をする専門家も増えているようです。

いまこそ旧来の人事異動制度を見直し、グローバル人事へとパラダイムシフトしていくことこそが、日本の生き残る道なのかもしれません。



そうだ、八ヶ岳へ行こう!

先日、八ヶ岳で痛ましい遭難事件がありました。

長野県の八ヶ岳連峰・阿弥陀岳でのことであり、3人が死亡し、4人が重軽傷を負った滑落現場は、過去にも死者が出たことのある「難ルート」として知られていたそうです。

八ヶ岳の最高峰は、赤岳・2,899 mで、これに次ぐのが横岳・2,829 m、そして、先日事故の起こった阿弥陀岳 ・2,805 m、四番目が硫黄岳 ・2,760 mとなります。これらの峰々は、南北に連なる連峰の真ん中よりもやや南側に集中しており、なかでも、横岳・硫黄岳・阿弥陀岳の三つは急峻な地形を持つ、非常に鋭い山峰です。

日本有数のロッククライミングの岩場として知られ、また冬場は氷瀑のアイスクライミングの場とてしても有名です。

それだけに、冬季に素人が入れるような山ではありません。こうした場所への冬登山は、危険を伴ない、従来からも遭難者も多いことから、それなりの熟練した登山家しか立ち入らない、立ち入れない、ということで暗黙の了解があったはずです。

詳しいことはまだわかりませんが、そうしたところへ入ったということは、冬山登山に関してはそれなりの実力を持った人たちだった、と考えていいのでしょう。で、なかったとすれば、かなり無謀な冒険だったのかもしれません。

一歩誤れば即、死が待っている、といってもおかしくない危険個所も多く、夏山ならどうってこともないような場所でも、天候の悪化によって、著しく危険な環境に豹変することもあります。

最悪なのはやはり、今回のような滑落であり、その多くが「即死」を意味します。「滑落遭難」という用語があるほどで、足を踏み外して滑り落ちれば、しばしば死に直結します。滑落の途中、固い岩などにぶつかる可能性が高く、数百m以上落ちれば、さらに死の危険が大きくなり、また落下距離が小さくても頭部を打てば致命傷になります。

ただ、聞くところによると、今回の事故での死亡者の直接の死因は、滑落によって生じた小規模な雪崩に巻き込まれての窒息死だった、といわれているようです。

また、そもそもは複数の人間が滑落しないように、ザイルで互いを結び合って予防していたはずなのに、それが起きてしまった、ということに関しては、ここ数日の暖かさによって雪氷に固定した確保鋲(ハーケン)が効かなかったということなどが考えられているようです。

しかし、それ以外にも、事前の準備不足や、この登山に参加していた方たちの力量の問題もあったのかもしれません。そうした場合の遭難の原因には様々なものが考えられますが、主なものを挙げると、以下のようなものがあるようです。

登山に対するあなどり(「自分だけは遭難しないだろう」という思いこみ)、があった
登山前に当然行うべき、山の綿密な調査の不実行・不足
登山前に用意しておくべき装備の不備
自分の体力以上の山への無謀な挑戦(体力・筋力トレーニングの不実行・不足)
リーダーシップ、及びフォロワーシップの欠如、もしくは不足

過去の多くの事例では、リーダー、もしくはメンバーが、自己や周囲の状態を冷静沈着に把握していなかったために、遭難に巻き込まれたというケースが多いようです。極端な荒天、メンバーの怪我、滑落、落石などなど、何らかの重大な困難に遭遇すると、多くの場合、判断能力を失います。

様々な状況がありえますが、一般的には、こうした困難に直面した場合には前には進まないほうがよい、と言われているようです。今回の遭難においても、はたして先頭を進んでいて滑落した、とされる人物がどのような判断をしていたのかが問われるのかもしれません。

その方が亡くなったのかどうかまだよくわかりませんが、そうだとすれば、あちらの世界で今、この事故のことをどう振り返っているでしょう。

何はともあれ、まずは、亡くなった方々のご冥福をお祈りしたいと思います。また、これからは、いわゆる春山登山の時期ですが、この時期の登山は融雪による重大事故が起こりやすい環境です。くれぐれも気をつけて頂きたいと思います。

八ヶ岳伝説




さて、悲しい話はこれぐらいにしましょう。

この八ヶ岳ですが、山梨県と長野県にまたがる、南北に細長い山体で、元々は火山とみられています。

と、いっても一連の噴火は、人類の有史以前のことであり、確実な噴火記録は残っていません。活動時期は、約130万年前に始まり、数十万年前に明瞭な活動休止期・侵食期を挟んで現在のような形になったと考えられています。

南の編笠山から北の蓼科山まで、南北約21 kmもの長さがあり、その昔は多数の噴出口がある「火山列」だったそうです。活動時期や噴出物の特徴などから、山塊中央部から、やや南に下がった位置にある、「夏沢峠」を境にして北八ヶ岳、南八ヶ岳などと分類して呼ばれます。

八ヶ岳は日本百名山のひとつにも数えられています。ただ、その対象は、南八ヶ岳であり、北八ヶ岳は入っていないようです。八ヶ岳連峰全体の中では、北八ヶ岳に位置する蓼科山も日本百名山に選ばれています。

「八ヶ岳」の「八」の由来ですが、「八百万(やおろず)」などと同じように、山が「たくさんある」という意味で「八」にしたのではないかといわれています。また、幾重もの谷筋が見える姿を「谷戸(やと)」といいますから、これから八が導かれたという説もあるようです。

八つの頂きがある、ということなのですが、実際には、山、岳、峠といった呼称の峰々を合わせれば15もの峰があり、ある意味では小さな山脈といってもいいほどの規模です。

このようなバラバラな形になったのは、そもそも富士山と背比べをした結果だ、という神話があります。

あるとき、すぐ近くにあり、お互い意識し合っていた富士山と八ヶ岳が、どちらが日本一背が高いか優劣を決めよう、背比べをしよう、ということになりました。

その方法として、両者の頂上に筒を置いて水を流し、どちらに流れるかを試せばいい、ということになりました。その調停役を買った神様は、さっそく、近くにあった竹藪から最も太くて長い竹を切りだし、両者の頂のあいだにかけ、水を流してみることにしました。

実はこのころはまだ両者の高さは、ほぼ同じであり、どちらが高いとは、はっきりとはわかりませんでした。しかし、神様が筒を掛け、水を流してみると、するすると富士山のほうに流れていくではありませんか。

目の上の水が自分の方に流れてくるのを見た富士山は、その瞬間、負けた!と思い、すぐさま立ち上がって、筒を手に持ち、おもいっきり八ヶ岳をひっぱたたきました。

殴ったのではなく、「蹴り飛ばした」という話もあるようですが、いずれにせよ、富士山のバカ力で叩かれた八ヶ岳の頭は、こなごなになって砕け散り、今のような八つの峰々になってしまいました。

神様がちょっと目を離したすきに起きたことであり、それを神様が見ていなかったことをいいことに、富士山はそしらぬ顔をして、神様にもう一度、高さを試してみてください、と言いました。何も知らない神様は、筒の中の水が、今度は八ヶ岳のほうに流れていくのをみて、日本一の山は富士山だ、と宣言しました。

こうして、現在に至るまで、日本一の山は富士山、ということになりました。

この話にはさらに続きがあります。この叩かれた八ヶ岳には妹がいました。北側に位置する蓼科山であり、富士山にぶちのめされて粉々の八つの峰になってしまった兄を見て、蓼科山は悲しくて悲しくて「えんえん」と泣きました。その妹の流した涙が川になり、やがて麓の平な場所に貯まって大きな湖になりました。

その湖こそが、今の諏訪湖であり、なるほど現在の地図をみると、八ヶ岳のすぐ西側には、妹の蓼科が流した涙によって満々と水をたたえた湖水が広がります。

このように、八ヶ岳は昔からよく神話に登場します。前述のとおり、八ヶ岳の最高峰の赤岳ですが、これは国常立尊(くにのとこたちのみこと)とされ、「日本書紀」では天地開闢の際に出現した神であり、「純男」の神であると記しています。

その意味は、「陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性」であり、なるほど、その山容は南麓の長坂方面から仰ぐと、ヨーロッパ・アルプスのアイガーに似て、勇壮そのものです。

山体そのものが赤岳神社とされていますが、山麓の長野県茅野市には、「赤岳神社里宮」が建てられ、「赤岳講」と呼ばれる講も組織されて、昔から現在に至るまで信者による信仰も根強いといいます。こうしたこともあり、八ヶ岳周辺には神話や修験等に由来する石祠や石碑などが多いようです。



初心者がいくなら

八ヶ岳は南北両方のほとんどのエリアが、八ヶ岳中信高原国定公園に指定されています。

広大な裾野には、東側の清里高原や野辺山高原、西側の富士見高原や、北方の蓼科高原などが広がっており、夏の冷涼な気候を利用してレタスやキャベツなどの高原野菜の栽培が行われています。

山麓には伏流水が湧くためでしょうか、特に西南側の裾野一帯にかけて縄文時代の遺跡が濃密に分布しており、長野県側では井戸尻遺跡や尖石遺跡、山梨県側では金生遺跡や青木遺跡、天神遺跡といった多数の遺跡があります。

山梨県側では、大泉歴史民俗資料館、長野県側では井戸尻考古館といった、これらの遺跡を紹介している博物館、資料館も複数存在するので、こうしたところを訪ねて、太古を偲んでみるのも楽しいかもしれません。四季折々に各遺跡を巡るツアーなども開催されているようです。

八ヶ岳の登山ルートとしては、これだけたくさんの山塊があるため、数限りないものがあるようですが、やはり最高峰の赤岳は人気があるようです。ただ、赤岳のある南八ヶ岳はいわゆる「岩稜の世界」であり、夏山でもマニアや体力に自信のある人でないと難しい山といわれているようです。

それにひきかえ北八ヶ岳は登山道も比較的歩き易く、クサリ場や鉄はしご等も少なくのんびり山旅を楽しむことができるようです。なので、初心者の方は北八ヶ岳を中心に登山ルートを検討してみてはどうでしょうか。

とくに、北八ヶ岳の一番一番南側に位置する天狗岳はし、北八ヶ岳の最高峰でありながら、比較的初心者にもアプローチしやすい山のようです。北八ヶ岳にあっては、急峻な山容を呈しているとは言え、南八ヶ岳のそれと比べると、はるかに穏やかな山だということです。天狗岳へ登り上げる数多くのルートすべてにおいて危険個所はほぼ無いそうです。

北八ヶ岳ロープウェイ

しかしそれでも、歩いて登るのはな~という人は、蓼科方面に出かけてみてはどうでしょうか。蓼科山は、北八ヶ岳の最北端に位置する山ですが、その南西側には、蓼科高原と呼ばれる高原が広がっており、ここからは北に蓼科山、東に八ヶ岳を望むことができます。

レジャー施設が多いほか、国道152号、国道299号、ビーナスライン(旧蓼科有料道路)が高原を縦横に貫き、ドライブコースとしても好眺望を楽しめますが、筆者のおすすめは、「北八ヶ岳ロープウェイ」です。

100人乗りの大型ロープウェイで、標高1,771mの山麓(さんろく)駅は、北八ヶ岳の峰のひとつ、標高2,403 mの縞枯山(しまがれやま)の南西に位置します。ここから標高2,237mの坪庭(つぼにわ)駅まで約7分間で行く空中散歩はすばらしく、また、山頂駅には自然が造り出した芸術「坪庭」が広がります。

苔や高山植物などが長い年月をかけて生い茂り、自然に出来た植生帯で、「坪庭」とはもともとは、盆栽などを飾ったこじんまりとした日本庭園のことを指しますが、決してそんなに小さなものではありません。1周30分~40分ほどの散策路には、自然そのままの高山植物が季節毎に咲き、訪れる人々を魅了します。

また、ロープウェイを利用することによって、北八ヶ岳周辺の登山が容易になります。特にロープウェイ山頂駅からの「北横岳」登山ルートは、老若を問わずに人気があるようです。

無論、坪庭駅に併設されている展望台から、日本アルプスの絶景が楽しめます。うれしいことに展望台までは車いすでご移動可能(夏季のみ)だそうで、足の悪いご家族と一緒に行くこともできそうです。

さらに、ロープウエイから右上に見える「縞枯山」は、その名の通り山の斜面が「縞枯れ現象」で覆われている山です。この縞枯れ現象は本州中部のあちこちで見ることできるようですが、この北八ヶ岳が最も有名で、学術的にも大変貴重なものとして注目されています。

複数の研究機関が現在も継続研究中とのことですが、何故このような縞枯れが起こるのかハッキリとした原因の特定は出来ていないといいます。

ロープウェイの利用は、中学生以上の往復が¥1,900、片道が¥1,000(同、子供 ¥950 ¥500)(2018年3月現在)。

近くには、白樺湖や蓼科湖、白樺リゾート池の平ファミリーランドといった施設もあり、春スキーができるスキー場もたくさんあるようです。今年は寒かったので、5月の連休あたりまでもスキーができるところがあるのではないでしょうか。

サクラが終わったら、もうすぐ大型連休。今年は八ヶ岳へお出かけしてみてはいかがでしょうか。




太陽の塔へ

大阪の万博会場に残されていた「太陽の塔」の修復が終わり、公開された、というニュースが入って来ました。

1970年に大阪府吹田市で開催された日本万国博覧会(EXPO’70・大阪万博)の会場に、芸術家の岡本太郎が制作した建造物で、岡本太郎の代表作の1つであり、また最大級の遺品でもあります。大阪万博のテーマ館のシンボルとして建造され、万博終了後、千里万博記念公園と名を変えた、同会場に残されています。

塔の高さ約70m、基底部の直径約20m、腕の長さ約25m。未来を表す上部の黄金の顔(直径10.6m、目の直径2m)、現在を表す正面胴体部の太陽の顔(直径約12m)、過去を表す背面に描かれた黒い太陽(直径約8m)の3つの顔を持っています。

万博終了後に取り壊される予定でしたが、地元から撤去反対の署名運動があり、施設処理委員会が1975年に永久保存を決めました。しかしその後は老朽化の進行による維持費が増大し、存続が危ぶまれていました。

とはいえ、残された太陽の塔はもはや大阪城や通天閣に並ぶ大阪のシンボルとなっており、「永久保存」が決められた以上、取り壊すわけにもいきません。

内部の保存状態は日増しに悪くなっていましたが、せめて外観だけでもきれいにしようと、
1994年には、万博開催25周年記念の目玉として、表面の汚れを落とすなどの大規模改修が行われました。

2007年になり、ようやく保存のための予算がつきました。2010年の40周年事業へ向けて、内部・外部の改修・補強が行われ、40周年記念式典のあと、さらに内部公開に向けた動きが加速。2016年10月からは、公開に向けた耐震補強・内部復元工事が実施されました。そして、つい先だっての3月はじめに竣工。19日よりの再公開に漕ぎ着けました。

太陽の塔は、丹下健三が設計した「お祭り広場」中央に、広場を覆う銀色のトラスで構築された大屋根から塔の上半分がつき出す形で建てられました。岡本は大屋根の下に万博のテーマを紹介する展示プロデューサーに就任していましたが、なぜか就任以前からテーマである「人類の進歩と調和」に反発。

そして、先に設計が完成していた大屋根の模型を見るなり「70mだな」と呟き、穴の空いた大屋根から顔を出すという、まるで主テーマの「調和」の言葉をあざわらうかのような、奇抜な塔を設計しました。

太陽の塔が建つ「お祭り広場」を設計した丹下健三は当然反発しましたが、岡本は「頭を下げあって馴れ合うだけの調和なんて卑しい」と反論。大喧嘩した末に大屋根に穴を開けさせ太陽の塔を建てることを認めさせた、というような話も残っているようです。

丹下健三は、この当時から建築界の重鎮であり、彼の権力を考えれば太陽の塔を白紙にすることは簡単でした。しかし、万博全体として見れば目玉である太陽の塔はあったほうが良いのでは、と考えなおしたのでしょう。結局、白紙にはしなかったようです。

万博が開催されていた当時、観客は太陽の塔の「過去」の展示部分であるテーマ館の地下部分から、透明のトンネル状の通路を通って太陽の塔内に進入しました。しかし、万博終了後この通路は撤去され、通路跡はコンクリートでふさがれています。

実はこの空間にも、太陽の塔の外側にある三つの顔に続く「第4の顔」といわれる太陽が設置されていました。「地底の太陽(太古の太陽)」という呼称で、岡本のコンセプトでは「人間の祈りや心の源を表す」ものでした。

直径3m、全長11mという巨大なものでしたが、万博終了後に行方が分からなくなりました。内部の生命の樹同様、万博終了後この地下空間も閉鎖されましたが、1993年に最後にその姿が確認されて以来、さまざまな処理のドサクサで行方不明となってしまった、とされます。

現在も手がかりとなる情報はなく、引き続き情報提供が呼びかけられていますが、こんな大きなものを誰が盗むのでしょう。森友問題ではありませんが、そのうち記録文書などが出てきて、ありかがわかるに違いありません。

大阪府としては、今年の太陽の塔の内部を常時公開に先立ち、この「第4の顔」も目玉にしたいと考えました。生命の樹の復元もさることながら、この復元も試みますが、やはり予算の関係から実物大の復元は困難と考え、縮小10分の1の模型を製作することにしました。

発泡スチロールを強化プラスチックでコーティングし、現物と同様に金色に塗装する、というもので、復元には生命の樹の縮尺模型や太陽の塔などのフィギュア制作を担当した海洋堂が協力。元の図面は残っていないので、写真や関係者の聞き込みを元に制作した原型を3Dスキャンし拡大、美術評論家の意見を交え微調整して制作されました。

ちなみにこの模型は、さらに小さくした1/43スケールの大きさで、海洋堂から1万円ほどで売りに出されているようです。ご興味のある方は、「海洋堂」「地底の太陽」で検索して見てください。




耐震は大丈夫?

さて、太陽の塔は、岡本太郎芸術の集大成ともいえるものでしたが、その複雑かつ独特な形から、当初は70mの建築にした時に耐震基準を満たせるのか、そもそも立つのかも分からない、とその実現が疑問視されたようです。このため、建築士のプロジェクトチームが立ち上げられ、彼の制作した雛形を厚さ1cmの輪切りにして詳細計算をしたといいます。

ところが、その後1995年の阪神淡路大震災などの大地震を経験したわが国では建築基準法が見直されました。2010年の40周年事業のときも、太陽の塔はその内部が再公開される予定となっていましたが、このときの耐震診断の結果、改定された建築基準法上の耐震基準を満たしていないことがわかりました。

とくに、上半身や腕が特に危険という結果が出たため、結局2010年の再公開は見送られました。翌2011年度に、改めて耐震補強工事の設計が行われるところとなり、早ければ2012年度に着工して再公開を実施する方針と報じられました。ところが、今度は太陽の塔を管理していた日本万国博覧会記念機構が、2013年度に解散してしまいました。

その管理はその後大阪府に移行されますが、そのための事務手続きや多額になる耐震改修費用などの確保のために時間がかかり、さらにその後構造上の理由で工事費が高騰したことから、工事業者の入札が不調に終わるなどしてたびたびの延期を見ました。

ようやく、2016年になって、大阪府は内部公開に向けての耐震化工事の予算を確保。2016年度分と2017年度分で合わせて約17億円を計上。2016年10月末より始まった耐震・内部修復工事の末、2018年初頭に公開のめどがたちました。



太陽の塔の内部にある「生命の樹」はその当時、内部はエスカレーター、もしくは展望エレベーター(国賓専用)で一階から上層部まで、登りながら見学することができました。

この修復工事では耐震性を上げるため壁を20cm厚くし、重量のあるこのエスカレーターを階段に付け替えるなどしました。万博当時は強制的に5分で最上部まで登ることができたエスカレーターでしたが、逆に階段にした事によりゆっくりと鑑賞する事ができるようになりました。

ただ、その関係で、内部が少し狭くなり、その他の安全性を考慮し、当時292体あった生物模型は183体になったそうです。うち、153体は新規に制作し、29体を修復したといい、新規制作された模型の一部はディテールが向上しているといいます。

ただ、生命の樹上部のゴリラのみは経年を表すため頭がもげ、内部機構が出た状態で展示されているほか、展示されている生物を紹介するパネルは当時のものを使用しているそうです。

単細胞生物から人類が誕生するまでを、下から順に「原生類時代」、「三葉虫時代」、「魚類時代」、「両生類時代」、「爬虫類時代」、「哺乳類時代」にわけて、その年代ごとに代表的な生物の模型によって表しています。

当時「生命の樹」の枝に取り付けられていた、292体の模型のうちの一部は電子制御装置により動いていたそうで、そのデザインはウルトラマンの造形で知られる成田亨が岡本太郎の原案を元に制作した。また、これらの模型は円谷プロが製作を行いました。

サーバーダウン

「太陽の塔」(大阪府吹田市)の内部が3月19日から公開されるのを前に、入館予約の一般受け付けがインターネットで始まりました。ところが、先日、受け付け用オフィシャルサイトのサーバーがダウンし、アクセスできない状況となりました。

府によると、原因は専用ホームページへのアクセス集中によるもので、復旧のめどはたっていないといいます。私もさきほどアクセスしてみましたが、まったくページを見ることができない状態です。

もしページを見ることができれば、「太陽の塔オフィシャルサイト」というページから申し込み、先着順で4カ月先まで予約できるはずだそうです。入館時間は午前10時~午後5時で、30分ごとに80人ずつ、一日最大1120人の予定だとか。内部の見学料は高校生以上700円、小中学生300円。

太陽の塔オフィシャルサイトのアドレスは、http://taiyounotou-expo70.jp/

ただ、こうしたことを書くと、さらにアクセスが集中するかもしれません。しばらく待っていただいたほうが良いでしょう。

ニフレル

上のとおり、太陽の塔の入場予約はめどが立っていないようです。しかし、太陽の塔に入れなくても、そのすぐそばに新しい施設が開園しているので、こちらを楽しんでみてはどうでしょう。

NIFREL(ニフレル)といい、同じ千里万博公園内に2015年に11月に開園した博物館です。水族館を主体として動物園や美術館を融合させた博物館であり、複合商業施設「EXPOCITY」に属する施設の一つです。大阪府大阪市港区天保山にある水族館、「海遊館」が展示内容のプロデュースをしています。

「生きているミュージアム」との呼び名を持つ施設であり、「感性にふれる」をコンセプトに、従来の水族館、動物園、美術館を合体させた施設のようです。

従来のこれらジャンルの枠を超えて、アートの要素もふんだんに取り入れたアトラクションで、子どもから大人まで楽しめるように数々の工夫が凝らされています。水族館でよく飼育されている魚類や水辺の生物に限らず、哺乳類や鳥類も飼育している点などが斬新で、名称のNIFRELは、コンセプトの「感性にふれる」から採用したといいます。

館内は7つのゾーンで構成され、いずれのゾーンにも、生き物たちの特徴や特性を知るための「謎かけ」があるのだとか。飼育する生物の特徴や性格を俳句で表現した「生きもの五七五」といった細工もあるそうで、こうした工夫はこれまではなく、斬新です。

オープン1周年直前の2016年11月には、入場者数200万人を記録したといいますから、年間入場者数1000万人のユニバーサル・スタジオ・ジャパンには及ばないものの、その他の施設も含めて考えると、万博記念公園全体としてはかなり集客力が高いのではないでしょうか。

そのうち、太陽の塔も予約なしで入れるようになるに違いありません。

ゴールデンウィークは千里万博記念公園で決まり!ですね。




「ひえい」で比叡に行こう!

京都市の叡山電鉄は、観光用にリニューアルした電車を「ひえい」と名付け、本日、21日から運行を始めました。

1925年(大正14年)に比叡山延暦寺への参詣ルートとして開業した「叡山本線(出町柳駅~八瀬比叡山口駅間)」を走る電車で、京都中心部から八瀬、比叡山を経由し、 坂本、びわ湖に至る観光ルートを走ります。

着目すべきはその車両デザイン。車両正面にあしらった金の楕円のデザインが特徴です。

叡山電車の2つの終着点にある「比叡山」と「鞍馬山」の持つ荘厳で神聖な空気感や深淵な歴史、木漏れ日や静寂な空間から感じる大地の気やパワーなど、「神秘的な雰囲気」や 「時空を超えたダイナミズム」といったイメージを大胆に表現したものだとか。

イメージイラストが発表された際には、「なんだこれ」「深海魚みたいで、ブッキー」といった声がSNS上を飛び交ったそうです。

しかし、筆者がテレビなどで放映された実際に登場した車両を見たところ、光沢のある深い緑色の車体に金色の楕円形が調和し、インパクトのあるデザインながら落ち着いた雰囲気が漂い、なかなかの出来栄えです。

ベースとなる車両は、1988年製造の「700系」。その発展系である732号車を大改造して誕生しました。側面に配されたストライプはまた、比叡山の山霧をイメージしているそうです。ロゴマークもしゃれており、Spiritual Energy(スピリチュアル・エナジー)を示しており、大地から放出される気のパワーと灯火を抽象化しています。

外観と同様、車内のデザインも大胆ながら落ち着いた印象で、窓の形も楕円です。一般車両に比べゆったりとした座席や発光ダイオード(LED)照明を採用し、高級感のある内装にしました。増加する訪日外国人向けに英語や中国語などの案内表示も充実させたといいます。

楕円形の窓沿いに従来車両より広めの幅と奥行きを確保したシートが並び、壁面は継ぎ目や機器類の出っ張りなどが目立たないフラットな仕上げとしなっています。このため、壁は従来車両より片側で3cm厚くなってしまったそうですが、若干狭くなる分、シートの座面の角度を調整して、座っている人が通路に足を投げ出しにくいよう工夫したといいます。

デザインは、京阪電鉄の車両カラーリングなども手掛けたGKデザイン総研広島が担当。車両の改造は川崎重工業が行いました。改造費用は非公表とのこと。

新たな観光用車両の導入に向けた検討が始まったのは4年ほど前。京阪グループ全体で比叡山・琵琶湖周辺の観光活性化に取り組む中、700系車両が製造から約30年を経て改修の必要性が高まってきたこともあり、「これに乗って比叡山方面に行ってみたい」という人を増やすための魅力あるコンテンツづくりとして観光車両の導入を決めたといいます。

車両のデザインについてはさまざまな意見があったといいます。緑深い山や秋の紅葉など、沿線風景の魅力で知られる路線だけに、当初は「やっぱりパノラマ車両じゃないか」という意見もあったそうです。楕円形をモチーフとしたデザインに対して「なんやねんこれ」という声もなかったわけではないそうです。

しかし、展望電車としては同様の観光列車「きらら」が既にあるため、最終的には同じテイストの者を作るより、ほかにはない特徴あるデザインのほうが乗りたくなるのでは、と大胆な楕円形デザインが採用されることになったそうです。

火曜日を除き約40分間隔で運行し、通常運賃で乗車できます。通常は1両で走りますが、ほかの車両と連結する場合は連結器回りの部分だけ楕円形の飾りを取り外せる構造だとか。

訪日外国人観光客が増え、にぎわいの続く京都。近年は観光客による交通機関の混雑が問題となっていますが、叡電の場合は紅葉シーズンの11月と、川の上の座敷で食事などを楽しむ「川床」が人気の7~8月に観光客が集中し、繁閑の差が大きいのが課題のようです。

また、叡電の観光利用者数は叡山本線よりも鞍馬山へ向かう鞍馬線のほうが多いといい、叡山本線の観光活性化は京阪グループ全体にとっても重要です。「ひえい」は新たな目玉として、この観光ルートの一翼を担うことになりますが、はたして観光客増加につながるでしょうか。



比叡山とは

この比叡山とは、滋賀県大津市の西南、滋賀・京都県境に位置する、標高848mの山です。古事記には淡海(おうみ)の日枝(ひえ)の山として記されており、古くから山岳信仰の対象とされてきました。

「延暦寺」と称されるのは、実は、比叡山全域です。山全体を境内とする寺院という位置づけであり、地元では延暦寺という呼称よりも、比叡山、または叡山という呼称で親しまれているようです。その昔は、平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)とも呼ばれました。

平安時代初期の僧・最澄(767年 – 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院です。平安遷都後、最澄が堂塔を建て天台宗を開いて以来、王城の鬼門を抑える国家鎮護の寺地となりました。京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされました。

最澄は俗名を三津首広野(みつのおびとひろの)といい、天平神護2年(766年)、近江国滋賀郡(滋賀県大津市)に生まれました。15歳の宝亀11年(780年)、近江国分寺の僧・行表のもとで得度(出家)し、最澄と名乗るようになります。

青年最澄は、思うところあって、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、785年、郷里に近い比叡山に小堂を建て、修行と経典研究に明け暮れました。20歳の延暦4年(785年)、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となりました。

このころすでに京では高層とみなされており、788年、現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなり、薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を建立しました。

時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けたこの寺は、延暦寺と名を改め、京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになっていきました。

延暦21年(802年)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期留学生)として、唐に渡航することが認められ、延暦23年(804年)、遣唐使船で唐に渡りました。最澄は、霊地・天台山におもむき、天台大師智顗直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学びました。

また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学び、延暦24年(805年)、帰国した最澄は比叡山に戻り、ここで天台宗を開きました。法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていました。

大乗戒壇設立後の比叡山は、日本仏教史に残る数々の名僧を輩出しました。円仁(慈覚大師、794 – 864)と円珍(智証大師、814 – 891)はどちらも唐に留学して多くの仏典を持ち帰り、比叡山の密教の発展に尽くしました。また、円澄は西塔を、円仁は横川を開き、10世紀頃、現在みられる延暦寺の姿ができあがりました。




僧兵の台頭

ところが、比叡山の僧はのちに円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになっていきます。正暦4年(993年)、円珍派の僧約千名は山を下りて園城寺(三井寺)に立てこもります。以後、「山門」(円仁派、延暦寺)と「寺門」(円珍派、園城寺)は対立・抗争を繰り返し、こうした抗争に参加し、武装化した法師の中から自然と僧兵が現われてきました。

延暦寺の僧兵の持つ武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っています。山法師の山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことです。つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたものです。

延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(みこし)を奉じて強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの主張を通していました。この当時は、神仏混交であり、神輿は神と仏は同一でした。

延暦寺の勢力は、やがて貴族に取って代わる力をつけるようにすらなり、のちには武家政権をも脅かすようになります。このころの時の権力者は初め平氏、のちに源氏です。平清盛や源頼朝もともに延暦寺と対立しましたが、その都度攻略に失敗し、さらに延暦寺の力は増大していきます。

初めて延暦寺を制圧しようとした権力者は、室町幕府六代将軍の足利義教です。永享7年(1435年)、足利義教は、謀略により延暦寺の有力僧を誘い出し斬首しました。これに反発した延暦寺の僧侶たちは、根本中堂に立てこもり義教を激しく非難。

しかし、義教の姿勢はかわらず、絶望した僧侶たちは2月、根本中堂に火を放って焼身自殺しました。このとき、根本中堂の他にもいくつかの寺院が全焼あるいは半焼したとされます。

義教は武家としてはじめて延暦寺の制圧に成功しましたが、のちに敵対する赤松氏によって暗殺されてしまいます。すると、延暦寺は再び武装し僧を軍兵にしたて数千人の僧兵軍に強大化させ独立国状態に戻りました。

戦国時代に入っても延暦寺は独立国状態を維持していましたが、明応8年(1499年)、管領細川政元が、対立する前将軍足利義稙の入京と呼応しようとした延暦寺を攻めたため、再び根本中堂は灰燼に帰します。

戦国末期になると、織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立するようになりました。これをみた延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こします。

このころの延暦寺の僧兵の数は4千人ともいわれ、強大な武力と権力を持つ僧による仏教勢力の増長が戦国統一の障害になるとみた信長は、元亀2年(1571年)9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちしました。

これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されました。僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われており、この戦いでの死者は、「信長公記」には数千人、ルイス・フロイスの書簡には約1500人、「言継卿記」には3,000-4,000名と記されています。

信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康らによって各僧坊は再建されました。根本中堂は三代将軍徳川家光が再建しています。家康の死後、天海僧正により江戸の鬼門鎮護の目的で上野に東叡山寛永寺が建立されると、天台宗の宗務の実権は江戸に移りました。

現在、その中枢は比叡山に戻っており、1994年には、古都京都の文化財の一部として、(1200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録されました。

世界遺産として

これに先立つ1987年(昭和62年)には、比叡山開創1200年を記念して天台座主山田恵諦の呼びかけで世界の宗教指導者が比叡山に集い、「比叡山宗教サミット」が開催されており、その後も毎年8月、これを記念して比叡山で「世界宗教者平和の祈り」が行なわれています。

世界文化遺産への登録はそうしたことも評価されたためと思われ、と同時に世界中から観光客がここを訪れる契機にもなりました。

現在の根本中堂は、1571年(元亀2年)9月、織田信長による焼き討ちの後、慈眼大師天海の進言により徳川三代将軍家光の命によって、1634年(寛永11年)から8年もの歳月をかけて再建されたものです。1953年(昭和28年)3月31日に国宝に指定されました。

本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられており(秘仏)、その宝前に灯明をかかげて以来最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝き続けており、不滅の法灯と呼ばれます。この火は、焼き討ち後の再建時には立石寺から分灯を受けたと伝えられます。

拝むと長生きするといわれています。新型列車「ひえい」に乗って比叡山に行き、ぜひスピリチュアル・エネジーを感じ取ってきてください。