先月末より、大連からここ佳木斯(ジャムス)へ移動してきており、ちょうど一週間ほどが経ちました。
こちらは、コロナ禍にあって、あいもかわらず厳しい規制が敷かれており、強制隔離によりまだホテルの外へ出ることはできません。
それにしても、佳木斯?聞いたことがないな、という方も多いと思います。
場所的には中国のほぼ北端、ロシア国境にもかなり近い町になります。緯度的には樺太の真ん中あたり、といったところです。
日本がこの地を統治していたころの「満州」に含まれます。
日本では、いまだにこの呼び方をする人が多いようですが、現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは禁じられており、かわりに「中国東北部」が使われています。遼寧省・吉林省・黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部がこれに該当します。
「満州」という言葉を、中国政府が嫌がるのは、かつて、この地に日本が傀儡政権を樹立して、内外にこの名で呼ばしめたためです。侵略者日本が使っていた国名を、新たな国家となったこの国で使いたくない、使わせたくない、というわけです。気持ちはわかります。
ただ、現在でも、満洲里のように一部の地域名で使われており、ここに多数住む住民の民族名も「満族」です。しかし、「満洲族」とか「満州人」と呼ぶことはタブーです。
この満州という場所が、どこからどこを指していたのかがわかる、という人は意外と少ないのではないでしょうか。
おおざっぱにいえば、これはおおむね、「万里の長城」から北、ということになります。言わずと知れた世界遺産で、北京の北方に東西に連なる遺構です。
南では、鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接しています。また、北方は、ロシアとの国境までがその範疇ですが、ここにはロシア名でスタノヴォイ山脈という山塊があって、ここには人はほとんど住んでいません。
この山脈を源流としてアムール川が東へ流れ、太平洋に注いでいます。これ以北がほぼロシアです。そのやや南側に松花江という大河が東西にながれており、その中流域にあるのが佳木斯であって、旧満州における中都市でした。
この満州の歴史を語ると、長い話になります。しかし、筆者の独断でばっさりと要約してみましょう。
そもそもこの地に住む満州民族というのは、北方民族や、モンゴル系、朝鮮系の民族で構成される民族で、これらが混血して形成されたものです。これを「女真族」という一族が統一してできた国が、「金」です。12~13世紀のことですから、日本では平安時代の後期にあたります。
この金を滅ぼして、新たな国を創ったのが、ヌルハチこと、チンギス・ハーンであり、金を継承したことから、時代区分としてのこの国は「後金」と呼ばれます。ヌルハチには子供がおらず、このため配下の有力将軍の中から後継者として選ばれたのが、ホンタイジです。
ホンタイジは、従来あった領土に加え、新たに南モンゴルと、これより南にある明の領土のうち、山海関以北(万里の長城から北側)を征服し、新たな国を打ち立てました。そして、自らが皇帝となり、この国を「清」と呼ぶようになりました。
この清は、その後、万里の長城よりもさらに南にあった、明をも征服し、現在における中国のほぼ全域に相当する広大な国家を成立させることになります。
清朝では、その前身である満州を特別扱いしました。ここに自分たちの源流がある、と考えていたからです。このため、後金時代の皇居である瀋陽故宮のある奉天(現在の瀋陽)を首都と定め、ここに中央省庁である奉天府を置いて統治を始めました。
この奉天府は、のちに東三省総督と名を改め、その支配地としたのが、東三省(奉天・吉林及び黒竜江の3省)であり、これは、現在の「中国東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省)」とほぼ一致します。
以後、清は、少数の満洲人(満州民族)が圧倒的に多い漢人を始めとする多民族と広大な領土を支配する国家となり、繫栄を極めます。対外的には、1689年にロシアと条約(ネルチンスク条約)を締結し、国際的にも満洲全域が正式に清朝の国土と定められました。
しかし、近代の19世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が何度も起きるようになります。ロシア人は、シベリアで枯渇しつつある毛皮を求めて、この地に南下・侵入するようになり、村落を焼いたり捕虜をとったりして植民地化の動きを見せ始めました。
このため、これを追い出そうとしますが、その後もロシアの進出は止まらず、一方では王朝末期で弱体化した清朝はこれを食い止める力を失っていきました。
こうして1860年までには、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなります。
ただ、このころから清朝はそれまでの政策を転換して、ここに漢族の移住を認め、彼らが得意とする農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させるようになりました。
その結果、1860年の東三省の人口が320~370万人ほどだったのに対し、1908年には1700万単位にまで人口が増えました。さらにその後の1931年の満洲事変ころには3,000万人、1945年の満洲国崩壊前には熱河省も含めて4500万人まで増加しました。
この間、日本との間では、日清戦争が起こり、これに勝った日本は、清から遼東半島他の領土(遼東半島・台湾・澎湖列島)の割譲を受けます。この遼東半島は三国干渉によって清への返還を余儀なくされますが、続いて1904年から勃発した日露戦争も日本の勝利に終わり、租借権を得るかたちでここを取り戻しました。
また、ロシアからは、彼らが保有していた満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする各種権益の譲渡を受けるところとなりました。これによって、満州への日本の投資は著しく増えると同時に、日本人の移民の数も増えていきました。
日本やロシア、欧州列強の干渉を受け続けて弱体化した清朝は、その後、反政府主義者たちの蜂起によって、1911年の辛亥革命で倒されます。
翌年、アジア発の民主国家として、中華民国が成立しますが、北を制する袁世凱と南から北上してこれを滅せんと欲する孫文との対立から、二分され、と同時に各地域の軍閥による群雄割拠の状態となり、国情は乱れに乱れます。
満洲でも、このころ張作霖が率いる軍閥が台頭するようになり、大部分がその支配下となっていましたが、これに接近したのが日本の関東軍でした。日本(関東軍)は、のちに張作霖を排し、満州国を設立することになりますが、そのための布陣がこのころから既にできつつありました。
一方、このころロシアでもロシア革命に次いで、政府系白軍と共産党赤軍が相乱れて戦うロシア内戦が勃発します。日本はこの混乱に乗じて、シベリア出兵を行い、この地を制覇して傀儡政権を樹立しようとしました。その結果、一時はかなりの地域を占領しました。
しかし、共産党率いる赤軍パルチザンによる激しい反撃に遭い、この計画は頓挫します。遠く離れた酷寒の地であるシベリアへは、派兵もさることながら兵站補給もままならなくなり、ついに1922年にシベリアから正式に撤退、占領は解除されました。
一方、ロシアではようやく内戦が終了し、内戦に勝利した共産党ビエト政権は、次第に力を盛り返してきました。その結果、再び満州に進出しようとしはじめます。
このころ満洲を実効支配していた張学良(張作霖の息子)は、これを迎え撃ちますが、これにソビエトは打ち勝って北満洲を占領、ここに敷設されていた東清鉄道などの権益などを確保することに成功します。
しかし、この頃ドイツとの戦いを前にしていたソビエトはその戦費捻出のためにやがて経済的に行き詰り、その権益を日本に金銭で譲渡するに至ります。
こうした中、日本は柳条湖事件を契機に、満洲全域を侵攻、占領し、1932年に満洲国を建国しました。元首として清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を迎え、満洲国は、独立国家といいながら、事実上日本の支配下に置かれました。
日本は、この地において鉄道や重工業開発を通じて多大な産業投資を行い、また荒野だった場所には工場を建設して開発していきました。また農業においても、品種改良などで不毛の地を豊穣の大地に変えていきました。
かつて満洲は、馬賊や軍閥がわがもの顔で闊歩する物騒な土地柄でしたが、関東軍の進駐によって治安も良くなり、交通が開け、貨幣も統一された結果、経済的に豊かになっていきました。電話線など通信網も張り巡らせられるようになり、奥地にも病院や工場が建設され、また小中学校も建てられて進学率も大幅に向上しました。
農業が順調であったことから、南部の中国民国側から豊かさを求めて多くの移民(多くは漢民族)が流入した結果、人口も爆発的に増えました。
しかし、1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊します。ソ連は満洲を占領して中華民国への返還を遅らせましたが、その後、中国共産党が国共内戦に勝利したため撤退し、満洲は中華人民共和国の領土となり、現在に至っています。
以上が、満州と呼ばれていた時代のこの地域の略歴です。長い歴史をざっくりまとめたものですが、結構、戦乱・争乱あいつぐ、波乱の地であったことがおわかりでしょう。
満州はその後、共産党と国民党軍が入り乱れて争う一時期がありましたが、共産党が勝利して今の国になったあとは、現在に至るまでいたって平和です。
現在の満州 ─中国ではそう呼びませんが─ において、遼寧省・吉林省・黒竜江省の東北三省合わせての総人口は約1億874万人です。これは中国の総人口の約8%にあたります。
この地域の住民は、中国の他の地域とは違い、とりわけ「東北人」としての意識が強いといわれます。
遼寧、吉林、黒竜江、各省の住民であるということ以上に、東北人としての誇りのような感情を持っているようです。これは、この地がそもそも清という国の発祥の地であり、その国を創った優秀な満族の末裔だという自負があるためでしょう。
そうした懐古的な気分と、この地に代々伝わる風俗習慣、そしてこの地域特有の言語が「自分たちは東北人だ」という意識を生み出していると思われます。この地方の方言を北方方言といいます。とくに、東北三省の中心地、ハルビン人が話す言葉が最も標準的な北方方言といわれているようです。
優れた資質を持つ満族の末裔である、現在の彼らもまた優秀です。
文化教育施設、教育普及率と進学率は、国内でも高水準にあり、とくに遼寧省の高等教育の普及率は中国で最高です。ハルビン市、長春市、瀋陽市、大連市には、数多くの科学研究機構があり、このうち、光学機械、冶金、軍需産業のレベルはかなり高いといいます。
1949年10月1日、現在の中華人民共和国が建国されたとき、日本が占領していた旧満州もまた、その統治下にはいりました。以後、改革開放が始まるまでは、戦乱の影響もあって中国経済はかなり低迷しましたが、その中にあって満州は、中国随一の工業地帯として同国の経済を支えたといいます。
ただこれは、満族が優秀だったからというよりも、むしろ、それ以前の満州国であった時代に、日本が導入した数多くの工業インフラがここにあったからにほかなりません。
そして、満州国時代、その礎を築いたのは、満鉄こと、南満州鉄道であった、とはよく言われることです。
この半官半民の国策会社は、そもそも、日露戦争で勝った日本が、ロシアから獲得した「東清鉄道」をもとに設立されものです。
同社はこれをベースに、満洲国内の隅々まで鉄道網を敷くとともに、航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えて、役場、ホテル、図書館、学校などの数々の箱モノ的インフラストラクチャーの整備を行いました。
日露戦争中に、参謀本部次長だった児玉源太郎が、政府に対して献策した「満洲経営梗概」には、「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」とあります。
鉄道会社の「仮面」をかぶりながら「百般の施設」とつくることで日本の植民地の経営を完成させよ、という内容であり、満鉄はそれを具体化していくための組織でした。
その結果、満鉄は単なる鉄道会社としての存在にとどまらず、数多くの事業を併合した巨大企業に成長しました。
最盛期には日本の国家予算の半分規模の資本金、80余りの関連企業をもつ一大コンツェルンとなり、鉄道総延長は1万キロ、社員数は40万人に達したほか、鉱工業をはじめとする多くの産業部門に進出し、日本の植民地支配に大きく貢献しました。
満鉄線の各駅一帯には、広大な附属地があり、ここでは満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばず、満鉄自身がこれらの行政まで行っていました。首都の新京特別市(現在の長春市)や奉天市(現在の瀋陽市)など主要都市の新市街地も大半が満鉄附属地でした。
都市在住の日本人の多くは、この満鉄附属地に住み、日本企業も附属地を拠点として治外法権などの特権を享受し続けました。ただ、行き過ぎた特権の蔓延が、満洲国の自立を阻害するまでになったため、1937年には、満鉄附属地の行政権を満洲国へ帰属させました。しかし形だけのことであり、満鉄の権威はその後も揺るぎのないものでした。
満鉄は、その本来の姿である、鉄道会社としても高い技術を持っていました。新京〜大連・旅順間がその本線でしたが、ここからさらに各地に支線を延ばしており、これらの間に「超特急」とも呼ばれるような高速列車を走らせていました。
「パシナ形」と呼ばれる流線形の蒸気機関車を牽引車として、これと専用の豪華客車で構成される特急列車「あじあ」には、当時の日本としては最高の鉄道技術が投入されました。これは世界的に見てもかなり高いレベルにあったといわれています。
満鉄はまた、航空会社も経営していました。1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立されたそれは、「満洲航空」といいました。
ある特定の国を代表し、対外的にも一番知名度が高い航空会社や船舶会社を指して、「フラッグ・キャリア」といいますが、満州航空は、まさに満州国のそれでした。現在の日本でいえば、日本航空がそれにあたるでしょうか(最近あまり元気がないようではありますが)。
満州航空は、新京飛行場を拠点に満洲国内と、朝鮮半島、日本を結ぶ定期路線を運航しており、満洲国内の主都市を結んでいたほか、新京とベルリンを結ぶ超長距離路線を運航する国際航空会社でもありました(国際線は結局成功しなかったようですが)。
満洲航空はまた、単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客輸送以外にも、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行っていました。
これらの多岐にわたる業務に携わるため、数多くの航空機を保有していましたが、これらの中には、自社の工場で開発、製造を行なったMT-1といった航空機もありました。
三菱 MC-20という飛行機も保有しており、これは三菱重工業が開発・製造したもので、当時の日本における国産輸送機の代表的機種です。九七式重爆撃機一型(キ21-I)をベースに改造して輸送機として開発され、当時の日本の輸送機中でも特に優れた性能を持っていたことで知られています。
輸送用として以外にも、旅客機としてほかのいろいろなバリエーションのものが作られましたが、それらを合わせて通算507機が製造されました。この製造数は当時の日本の輸送機のなかでは最多です。
旅客機としての乗客数はわずか11名にすぎませんでしたが、三菱はその技術を戦後も継承し、YS-11の開発につなげ、現在もMRJなどの国産航空機の開発においてそのノウハウが生かされています。
M-20
満州航空は、1945年8月の終戦と満洲国の滅亡に伴い消滅し、現在その痕跡はほとんど何も残っていません。満鉄が残した遺構もあまり残ってはいませんが、学校やホテルなどの一部の建築物は、今も満州各所に残っており、多くが修復されながら現在も使われています。
たとえば、満鉄大連本社は、現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所として使われているほか、同じく大連にある、旧ヤマトホテル(複数)は、大連賓館や遼寧賓館の名で営業を続けています。鉄道では、満鉄各線で運行されていた車両の一部が、ボロボロながらも現在も現地で稼働しているそうです。
私もこのコロナ騒ぎがなければ、帰国前にでもそうした遺構を見学したいところなのですが、隔離されていては、いかんとも仕方がありません。また、解放されても、なかなか自由にこの国のあちこちを見て回るというわけにはいかないようです。
この佳木斯にもいくつかそうした施設が残っているようです。ここにいる間にもし、可能性があれば、そうしたものを見聞し、またご報告したいと思います。
ここでの隔離期間もあと2週間弱となりました。早く外へ出て、旧満州国の澄んだ空気を思いきり吸い込みたいところですが、まずは体調を崩さないことです。私ももう若くはありません。
とくに体重増加が心配です。隔離生活は人をブロイラーにしてしまいがちです。太りすぎないよう、ダイエットしつつ、次のブログを書くのに備えたいと思います。