admin のすべての投稿

満州のこと ─佳木斯にて─

先月末より、大連からここ佳木斯(ジャムス)へ移動してきており、ちょうど一週間ほどが経ちました。

こちらは、コロナ禍にあって、あいもかわらず厳しい規制が敷かれており、強制隔離によりまだホテルの外へ出ることはできません。

それにしても、佳木斯?聞いたことがないな、という方も多いと思います。

場所的には中国のほぼ北端、ロシア国境にもかなり近い町になります。緯度的には樺太の真ん中あたり、といったところです。

日本がこの地を統治していたころの「満州」に含まれます。

日本では、いまだにこの呼び方をする人が多いようですが、現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは禁じられており、かわりに「中国東北部」が使われています。遼寧省・吉林省・黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部がこれに該当します。

「満州」という言葉を、中国政府が嫌がるのは、かつて、この地に日本が傀儡政権を樹立して、内外にこの名で呼ばしめたためです。侵略者日本が使っていた国名を、新たな国家となったこの国で使いたくない、使わせたくない、というわけです。気持ちはわかります。

ただ、現在でも、満洲里のように一部の地域名で使われており、ここに多数住む住民の民族名も「満族」です。しかし、「満洲族」とか「満州人」と呼ぶことはタブーです。

この満州という場所が、どこからどこを指していたのかがわかる、という人は意外と少ないのではないでしょうか。





おおざっぱにいえば、これはおおむね、「万里の長城」から北、ということになります。言わずと知れた世界遺産で、北京の北方に東西に連なる遺構です。

南では、鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接しています。また、北方は、ロシアとの国境までがその範疇ですが、ここにはロシア名でスタノヴォイ山脈という山塊があって、ここには人はほとんど住んでいません。

この山脈を源流としてアムール川が東へ流れ、太平洋に注いでいます。これ以北がほぼロシアです。そのやや南側に松花江という大河が東西にながれており、その中流域にあるのが佳木斯であって、旧満州における中都市でした。

この満州の歴史を語ると、長い話になります。しかし、筆者の独断でばっさりと要約してみましょう。

そもそもこの地に住む満州民族というのは、北方民族や、モンゴル系、朝鮮系の民族で構成される民族で、これらが混血して形成されたものです。これを「女真族」という一族が統一してできた国が、「金」です。12~13世紀のことですから、日本では平安時代の後期にあたります。

この金を滅ぼして、新たな国を創ったのが、ヌルハチこと、チンギス・ハーンであり、金を継承したことから、時代区分としてのこの国は「後金」と呼ばれます。ヌルハチには子供がおらず、このため配下の有力将軍の中から後継者として選ばれたのが、ホンタイジです。

ホンタイジは、従来あった領土に加え、新たに南モンゴルと、これより南にある明の領土のうち、山海関以北(万里の長城から北側)を征服し、新たな国を打ち立てました。そして、自らが皇帝となり、この国を「清」と呼ぶようになりました。

この清は、その後、万里の長城よりもさらに南にあった、明をも征服し、現在における中国のほぼ全域に相当する広大な国家を成立させることになります。



清朝では、その前身である満州を特別扱いしました。ここに自分たちの源流がある、と考えていたからです。このため、後金時代の皇居である瀋陽故宮のある奉天(現在の瀋陽)を首都と定め、ここに中央省庁である奉天府を置いて統治を始めました。

この奉天府は、のちに東三省総督と名を改め、その支配地としたのが、東三省(奉天・吉林及び黒竜江の3省)であり、これは、現在の「中国東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省)」とほぼ一致します。

以後、清は、少数の満洲人(満州民族)が圧倒的に多い漢人を始めとする多民族と広大な領土を支配する国家となり、繫栄を極めます。対外的には、1689年にロシアと条約(ネルチンスク条約)を締結し、国際的にも満洲全域が正式に清朝の国土と定められました。

しかし、近代の19世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が何度も起きるようになります。ロシア人は、シベリアで枯渇しつつある毛皮を求めて、この地に南下・侵入するようになり、村落を焼いたり捕虜をとったりして植民地化の動きを見せ始めました。

このため、これを追い出そうとしますが、その後もロシアの進出は止まらず、一方では王朝末期で弱体化した清朝はこれを食い止める力を失っていきました。

こうして1860年までには、満洲地域の黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域はロシアに割譲されることとなります。

ただ、このころから清朝はそれまでの政策を転換して、ここに漢族の移住を認め、彼らが得意とする農地開発を進めて、次第に荒野を農地に変化させるようになりました。

その結果、1860年の東三省の人口が320~370万人ほどだったのに対し、1908年には1700万単位にまで人口が増えました。さらにその後の1931年の満洲事変ころには3,000万人、1945年の満洲国崩壊前には熱河省も含めて4500万人まで増加しました。

この間、日本との間では、日清戦争が起こり、これに勝った日本は、清から遼東半島他の領土(遼東半島・台湾・澎湖列島)の割譲を受けます。この遼東半島は三国干渉によって清への返還を余儀なくされますが、続いて1904年から勃発した日露戦争も日本の勝利に終わり、租借権を得るかたちでここを取り戻しました。

また、ロシアからは、彼らが保有していた満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする各種権益の譲渡を受けるところとなりました。これによって、満州への日本の投資は著しく増えると同時に、日本人の移民の数も増えていきました。

日本やロシア、欧州列強の干渉を受け続けて弱体化した清朝は、その後、反政府主義者たちの蜂起によって、1911年の辛亥革命で倒されます。



翌年、アジア発の民主国家として、中華民国が成立しますが、北を制する袁世凱と南から北上してこれを滅せんと欲する孫文との対立から、二分され、と同時に各地域の軍閥による群雄割拠の状態となり、国情は乱れに乱れます。

満洲でも、このころ張作霖が率いる軍閥が台頭するようになり、大部分がその支配下となっていましたが、これに接近したのが日本の関東軍でした。日本(関東軍)は、のちに張作霖を排し、満州国を設立することになりますが、そのための布陣がこのころから既にできつつありました。

一方、このころロシアでもロシア革命に次いで、政府系白軍と共産党赤軍が相乱れて戦うロシア内戦が勃発します。日本はこの混乱に乗じて、シベリア出兵を行い、この地を制覇して傀儡政権を樹立しようとしました。その結果、一時はかなりの地域を占領しました。

しかし、共産党率いる赤軍パルチザンによる激しい反撃に遭い、この計画は頓挫します。遠く離れた酷寒の地であるシベリアへは、派兵もさることながら兵站補給もままならなくなり、ついに1922年にシベリアから正式に撤退、占領は解除されました。

一方、ロシアではようやく内戦が終了し、内戦に勝利した共産党ビエト政権は、次第に力を盛り返してきました。その結果、再び満州に進出しようとしはじめます。

このころ満洲を実効支配していた張学良(張作霖の息子)は、これを迎え撃ちますが、これにソビエトは打ち勝って北満洲を占領、ここに敷設されていた東清鉄道などの権益などを確保することに成功します。

しかし、この頃ドイツとの戦いを前にしていたソビエトはその戦費捻出のためにやがて経済的に行き詰り、その権益を日本に金銭で譲渡するに至ります。

こうした中、日本は柳条湖事件を契機に、満洲全域を侵攻、占領し、1932年に満洲国を建国しました。元首として清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を迎え、満洲国は、独立国家といいながら、事実上日本の支配下に置かれました。

日本は、この地において鉄道や重工業開発を通じて多大な産業投資を行い、また荒野だった場所には工場を建設して開発していきました。また農業においても、品種改良などで不毛の地を豊穣の大地に変えていきました。



かつて満洲は、馬賊や軍閥がわがもの顔で闊歩する物騒な土地柄でしたが、関東軍の進駐によって治安も良くなり、交通が開け、貨幣も統一された結果、経済的に豊かになっていきました。電話線など通信網も張り巡らせられるようになり、奥地にも病院や工場が建設され、また小中学校も建てられて進学率も大幅に向上しました。

農業が順調であったことから、南部の中国民国側から豊かさを求めて多くの移民(多くは漢民族)が流入した結果、人口も爆発的に増えました。

しかし、1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊します。ソ連は満洲を占領して中華民国への返還を遅らせましたが、その後、中国共産党が国共内戦に勝利したため撤退し、満洲は中華人民共和国の領土となり、現在に至っています。

以上が、満州と呼ばれていた時代のこの地域の略歴です。長い歴史をざっくりまとめたものですが、結構、戦乱・争乱あいつぐ、波乱の地であったことがおわかりでしょう。

満州はその後、共産党と国民党軍が入り乱れて争う一時期がありましたが、共産党が勝利して今の国になったあとは、現在に至るまでいたって平和です。

現在の満州 ─中国ではそう呼びませんが─ において、遼寧省・吉林省・黒竜江省の東北三省合わせての総人口は約1億874万人です。これは中国の総人口の約8%にあたります。

この地域の住民は、中国の他の地域とは違い、とりわけ「東北人」としての意識が強いといわれます。

遼寧、吉林、黒竜江、各省の住民であるということ以上に、東北人としての誇りのような感情を持っているようです。これは、この地がそもそも清という国の発祥の地であり、その国を創った優秀な満族の末裔だという自負があるためでしょう。

そうした懐古的な気分と、この地に代々伝わる風俗習慣、そしてこの地域特有の言語が「自分たちは東北人だ」という意識を生み出していると思われます。この地方の方言を北方方言といいます。とくに、東北三省の中心地、ハルビン人が話す言葉が最も標準的な北方方言といわれているようです。

優れた資質を持つ満族の末裔である、現在の彼らもまた優秀です。

文化教育施設、教育普及率と進学率は、国内でも高水準にあり、とくに遼寧省の高等教育の普及率は中国で最高です。ハルビン市、長春市、瀋陽市、大連市には、数多くの科学研究機構があり、このうち、光学機械、冶金、軍需産業のレベルはかなり高いといいます。

1949年10月1日、現在の中華人民共和国が建国されたとき、日本が占領していた旧満州もまた、その統治下にはいりました。以後、改革開放が始まるまでは、戦乱の影響もあって中国経済はかなり低迷しましたが、その中にあって満州は、中国随一の工業地帯として同国の経済を支えたといいます。

ただこれは、満族が優秀だったからというよりも、むしろ、それ以前の満州国であった時代に、日本が導入した数多くの工業インフラがここにあったからにほかなりません。

そして、満州国時代、その礎を築いたのは、満鉄こと、南満州鉄道であった、とはよく言われることです。

この半官半民の国策会社は、そもそも、日露戦争で勝った日本が、ロシアから獲得した「東清鉄道」をもとに設立されものです。

同社はこれをベースに、満洲国内の隅々まで鉄道網を敷くとともに、航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えて、役場、ホテル、図書館、学校などの数々の箱モノ的インフラストラクチャーの整備を行いました。

日露戦争中に、参謀本部次長だった児玉源太郎が、政府に対して献策した「満洲経営梗概」には、「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」とあります。

鉄道会社の「仮面」をかぶりながら「百般の施設」とつくることで日本の植民地の経営を完成させよ、という内容であり、満鉄はそれを具体化していくための組織でした。

その結果、満鉄は単なる鉄道会社としての存在にとどまらず、数多くの事業を併合した巨大企業に成長しました。

最盛期には日本の国家予算の半分規模の資本金、80余りの関連企業をもつ一大コンツェルンとなり、鉄道総延長は1万キロ、社員数は40万人に達したほか、鉱工業をはじめとする多くの産業部門に進出し、日本の植民地支配に大きく貢献しました。

満鉄線の各駅一帯には、広大な附属地があり、ここでは満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばず、満鉄自身がこれらの行政まで行っていました。首都の新京特別市(現在の長春市)や奉天市(現在の瀋陽市)など主要都市の新市街地も大半が満鉄附属地でした。

都市在住の日本人の多くは、この満鉄附属地に住み、日本企業も附属地を拠点として治外法権などの特権を享受し続けました。ただ、行き過ぎた特権の蔓延が、満洲国の自立を阻害するまでになったため、1937年には、満鉄附属地の行政権を満洲国へ帰属させました。しかし形だけのことであり、満鉄の権威はその後も揺るぎのないものでした。

満鉄は、その本来の姿である、鉄道会社としても高い技術を持っていました。新京〜大連・旅順間がその本線でしたが、ここからさらに各地に支線を延ばしており、これらの間に「超特急」とも呼ばれるような高速列車を走らせていました。

「パシナ形」と呼ばれる流線形の蒸気機関車を牽引車として、これと専用の豪華客車で構成される特急列車「あじあ」には、当時の日本としては最高の鉄道技術が投入されました。これは世界的に見てもかなり高いレベルにあったといわれています。

満鉄はまた、航空会社も経営していました。1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立されたそれは、「満洲航空」といいました。

ある特定の国を代表し、対外的にも一番知名度が高い航空会社や船舶会社を指して、「フラッグ・キャリア」といいますが、満州航空は、まさに満州国のそれでした。現在の日本でいえば、日本航空がそれにあたるでしょうか(最近あまり元気がないようではありますが)。

満州航空は、新京飛行場を拠点に満洲国内と、朝鮮半島、日本を結ぶ定期路線を運航しており、満洲国内の主都市を結んでいたほか、新京とベルリンを結ぶ超長距離路線を運航する国際航空会社でもありました(国際線は結局成功しなかったようですが)。

満洲航空はまた、単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客輸送以外にも、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行っていました。

これらの多岐にわたる業務に携わるため、数多くの航空機を保有していましたが、これらの中には、自社の工場で開発、製造を行なったMT-1といった航空機もありました。

三菱 MC-20という飛行機も保有しており、これは三菱重工業が開発・製造したもので、当時の日本における国産輸送機の代表的機種です。九七式重爆撃機一型(キ21-I)をベースに改造して輸送機として開発され、当時の日本の輸送機中でも特に優れた性能を持っていたことで知られています。

輸送用として以外にも、旅客機としてほかのいろいろなバリエーションのものが作られましたが、それらを合わせて通算507機が製造されました。この製造数は当時の日本の輸送機のなかでは最多です。

旅客機としての乗客数はわずか11名にすぎませんでしたが、三菱はその技術を戦後も継承し、YS-11の開発につなげ、現在もMRJなどの国産航空機の開発においてそのノウハウが生かされています。

M-20

満州航空は、1945年8月の終戦と満洲国の滅亡に伴い消滅し、現在その痕跡はほとんど何も残っていません。満鉄が残した遺構もあまり残ってはいませんが、学校やホテルなどの一部の建築物は、今も満州各所に残っており、多くが修復されながら現在も使われています。

たとえば、満鉄大連本社は、現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所として使われているほか、同じく大連にある、旧ヤマトホテル(複数)は、大連賓館や遼寧賓館の名で営業を続けています。鉄道では、満鉄各線で運行されていた車両の一部が、ボロボロながらも現在も現地で稼働しているそうです。

私もこのコロナ騒ぎがなければ、帰国前にでもそうした遺構を見学したいところなのですが、隔離されていては、いかんとも仕方がありません。また、解放されても、なかなか自由にこの国のあちこちを見て回るというわけにはいかないようです。

この佳木斯にもいくつかそうした施設が残っているようです。ここにいる間にもし、可能性があれば、そうしたものを見聞し、またご報告したいと思います。

ここでの隔離期間もあと2週間弱となりました。早く外へ出て、旧満州国の澄んだ空気を思いきり吸い込みたいところですが、まずは体調を崩さないことです。私ももう若くはありません。

とくに体重増加が心配です。隔離生活は人をブロイラーにしてしまいがちです。太りすぎないよう、ダイエットしつつ、次のブログを書くのに備えたいと思います。

大連にて

3月中ばから中国へ来ています。

この1月以降、ブログへ書き込みができなかったのは、その準備のために忙殺されていたためです。ここへきてようやく落ち着いてきたので、これから中国通信、ということで折につけ、このブログも更新していこうと思います。

今、私がいるところは、大連というところです。最終目的地は、さらに北の黒竜江省にある佳木斯(ジャムス)という町なのですが、ここに滞在しているのはそこへ入るための隔離期間を過ごすためです。

現在、中国では再び全国的にコロナの猛威が振るおうとしており、政府当局は外国人の入国を極端に制限しています。私たちも本来ならば、入国はできないのですが、今回の仕事が中国政府の息のかかった事業ということで、許されてここにいるわけです。

大連に来るのは初めてです。なのであちこち見て回りたいところなのですが、なにぶんホテルに缶詰めになっているため、市内を歩き回るわけにもいきません。これまでのわずかな見聞は、空港からホテルまでのバスの中からのものだけです。

約30分ほどのショートトリップでしたが、それでもこの町の雰囲気をなんとなく掴むことができました。

3年ほど前にも中国へ来たことがあり、そのときの滞在地も佳木斯でした。この町についてはかなり詳しくあちこちを見ることができました。

それとこの大連を比べると、街路や行きかう人の様子についてはかなり違うなという印象を受けます。

いろいろあるのですが、ひとつには道行く人々の立ち姿がごくごく自然だということ。佳木斯の人々もそれなりに清潔感があったのですが、全体的にちょっとちぐはぐだな、という印象をよく受けたものです。

着ているもののせいでしょうか。どこかその身なりに統一感がなく、とくに若者や若年層を中心に派手な服装をしている人も多かったように思います。佳木斯の町は継ぎ足しで開発された経緯があって雑然とした街並みを持っており、人々もそれに合わせているような感じさえします。

では大連はどうかというと、みんなごく自然の立ち振る舞いをしており、何と言いうか落ち着いた感じがあります。この町の歴史の長いことと関係があるのでしょうか。少なくともどぎついファッションや派手な衣装はまったく見られませんでした。

もし夜の大連を出歩くことができたならまた印象も違ってくるのかもしれませんが、少なくとも昼間のこの町を見る限りでは、ごく普通の人々があたりまえの生活を背伸びせずに送っているな、という感じを受けました。

無論、短い時間の間の私の先入観が入った穿った観察です。町の様子によってその見え方が違う、という一例と捉えていただければよろしいかと思います。

そう、つまりは町の雰囲気が全然違うのです。大連は、中国において日本が最も早くから統治していた町です。空港を出たとたん、町の雰囲気がなんとなく日本に似ているなと感じたのはおそらくそのためで、ホテルに至るまでのおよそ15kmの道のりの間ずっとそういう感じを受けていました。

宿に入ったあと地図を調べてみると、町の北にある大連周水子国際空港から、今私がいるホテルまでのルートは、ほぼ町の中心街を通っており、この町の代表的な街並みだということがわかりました。また、現在私がいる場所は、大連駅から西へ5kmの場所であり、町の中心のようです。

何分、隔離されているのでこれ以上の町の雰囲気を伝えることができないのが残念ですが、幸い、私の部屋は見通しがよく、下の写真はホテルから北東の大連の町を見渡したものです。




高層住宅街が多いなとお気づきでしょうが、これはここだけでなく、大連郊外でも同じです。飛行機で空港に降り立つ前に見た際も、郊外の丘や谷にびっしりとアパートや高層住宅が立ち並んでいました。

なるほど、日本の十倍以上の人口を持つ国の大都市はこれほどのものか、と至極感心したものです。3年前に中国に来たときは、北京空港に降り立ったのですが、北京の町もここと同じようなもので、やはり高層住宅街が立ち並んでいました。

ただ、大連が北京と違うのは、ここが港湾都市だということです。

大連は、日露戦争後の1905年(明治38年)、ポーツマス条約の締結によって、日本の租借地になりました。このとき、中国語の古地名「大連湾」からとった「大連」を都市名として採用しましたが、これはそれまでのロシア名のダルニーと発音が似たものを採用したともいわれています。

これはロシア語で 「遠い」を意味しています。この当時のロシアの首都はサンクトペテルブルクです。彼らからすれば、この間にあるシベリアを遥かに超えて、気の遠くなるほど遠く離れたこの町をそう表現したのでしょう。

大連湾は、中国東北部にあります。緯度は北朝鮮の平壌とほぼ同じで、Ω型の大連湾を囲むように背後にあるのが遼東半島です。そしてその西端付近にあるのが大連です。平壌から西へわずか350kmほどという位置関係です。

この地域は、戦前の日本にとっては朝鮮半島と同様に裏庭のような存在でした。直線的には福岡~青森間よりも近く、快速船でならば2日ほどもあればたどり着けます。今回我々が利用した航空機では、わずか2時間半で到着しました

その南側には黄海が広がっており、これは広義には東シナ海の一部です。黄海の北西側には、遼東半島と山東半島があって、この二つの半島に囲まれる形でさらに西側に膠州湾があります。

大連は、遼東半島南東の海岸線沿いに発展した町です。陸域では、北、西、南の三方を山で囲まれていて、湾の入口には大小3つの島があり天然の防波堤になっています。かつ深い水深を有する天然の良港です。

1月から3月のはじめごろまでは一部の浅い場所が結氷しますが、基本的に不凍港です。
真冬でも凍結しない港はこの緯度では貴重であり、日清戦争後、三国干渉でこの地を清から租借したロシアは、巨額の資金を投入して鉄道を建設し、港の整備を行いました。

三国干渉というのは、日清戦争後に締結された下関条約により日本が勝ち得た遼東半島の領有を独仏露の三国がクレームを入れて阻止したものです。

この三国は中国大陸への進出への強い野望を持っていましたが、お互いにけん制しあって遠慮をしていました。そこへ戦争に勝った日本が出てきて、目のまえにあった人参をかっさろうとしたわけです。当然強い反発を感じ、強引にこれを妨害する行動を起こしました。そしてそれに成功します。

その見返りとして、ロシアは清国から満洲北部の鉄道敷設権を得ることを許されました。
その中でロシアは、軟弱地盤のために建設困難なアムール川沿いの路線ではなく、バイカル湖東のチタから満洲北部を横断しウラジオストクに至る最短路線の鉄道の敷設を特に優先することにしました。

そして、1896年(明治29年)に「中国東方鉄道株式会社」という鉄道会社を設立しました。清国側の名称は「大清東省鉄路」であり、通称として「東清鉄道」と呼ばれました。表向きは露清合弁の鉄道でしたが、ロシアの発言権が強く、清国は経営に直接関与できませんでした。

翌年にはルートが選定され、中国人労働者(苦力)が大量に投入されて工事が進められた結果、シベリア鉄道と直結する東西路線が完成します。と同時にその東端から満州全土に支線を敷設し、ほぼ満州全土をカバーする鉄道網が完成しました。

この満州内に敷き終わった鉄道、東清鉄道は、日露戦争後、日本がその所有権を得、名前を「南満州鉄道」と変えて運営を始めました。いわゆる、「満鉄」です。

続いてロシアは、三国干渉で租借権を得た大連の開発に着手しました。ロシアが統治していた時代の大連は、鉄道の建設が終わったばかりで港は整備中、町の整備も港を中心に一部の建築物ができた程度で、人口は4万人ほどでした。

日露戦争で日本が勝利してここを接収してのちは、日本政府がさらにここに手を加えました。大連を中国大陸における拠点とすべく、ここを貿易都市として発展させようとしたのです。

このため、遼東半島全体に関東都督府という行政機関を敷き、また南満州鉄道に鉄道だけでなく市街地のインフラの整備も行わせるとともに、港湾施設の拡張にも力を入れました。

またロシアがその基盤を作った町づくりを踏襲し、西洋風の建築物が立ち並ぶ街路の形成しました。さらに市電を建設し、1920年代には現在の大連駅とその駅前一帯が整備され、中心市街がほぼ現在の形になりました。

その街並みは当時の日本のそれをまねており、これが最初にこの町に来た時に私日本と似ている、という感じたゆえんでしょう。




その後大連はさらに発展を遂げ、1940年代の大連の人口は60万人を超え、日本政府が目指したとおり、アジア有数の貿易港となりました。この当時の日本人居住者は約20万人で、日本人は支配層と見られていました。

その後日本は戦争に負け、大連は再びロシアが占拠するところとなりましたが、1951年に返還され、この年に遼東半島先端にある旅順市を合併して、旅大と改称しました。しかし、1981年に元の大連に名前を戻して現在に至っています。1990年代の改革開放経済のもと、中国東北部の中でも特に目覚しい経済的発展を遂げており、日本との交流もさかんです。

現在の大連の人口は約600万人ほどで、その中でも日本人の常駐人口は5000人ほどといわれています。日系企業も多く見られ、日本語を話せる中国人の方も多いというのが大連の特徴です。

こうしてこれを書いているホテルの部屋のテレビでも、NHK(NHKプレミアム)が放映されており、町へ繰り出せば、日本食にありつくのも難しくないとのことです。残念ながら私にそれはできませんが、毎日三食部屋に運ばれてくる食事には日本食も多く、昨夜はなんと鰻丼(!)が出ました。

話は戻りますが、かつての遼東半島への干渉からもわかるように、ロシアはその領土獲得に関してきわめて貪欲な民族です。ヨーロッパでもっとも文明開化が遅れた国でありながら、最も侵略的な国のひとつであり、長年、東欧を中心とした近隣諸国の領土を脅かし、実際それを自国領土に取り込んできました。

その矛先はさらに東へとむけられ、シベリア、モンゴル、満州北方へと進み、ついにその東端はオホーツク海に達しました。

これを辿って南下をすればそこは清国、朝鮮であり、その先には日本があります。三国干渉におけるその強引ともいえる主張を見ただけでも、その侵略的な意図は明らかでした。かくして、この当時、朝鮮半島の権益を巡る日清戦争に勝利した日本にとって、最大の仮想敵国はロシアになりました。

こうしてみると、現在のロシアとウクライナの関係がややこれに似ているような気がしないでもありません。無論、地理的な要素も異なりますし、ウクライナと日本ではロシアとのそれまでの歴史的関係がまるで違うわけで、一概に比較の対象にはなりえません。

しかし、武力を背景にした他国への侵略という一点においては、120年前に起こった日露の戦いと様相が似ている気がします。かつての両者の戦いも、そもそもはロシアが一方的に中国の国土の領有に執着し、これに日本が危機感を覚えたことに始まりました。

実は、ウクライナはロシアのルーツともいえる国であり、その成り立ちはロシアそのものといっても過言ではありません。ですから他国を侵略しているというよりは、日本の戊辰戦争のような同胞同士の内戦に近いものといえると思います。

その中において、ウクライナは善戦している、という報がしばしば入ってきます。ロシアの軍事力は強大で形勢が逆転するということはあり得ませんが、もしかしたら軍事的には敗れても、国際世論の支持を得て、政治的にはウクライナが勝利するのかもしれません。

戊辰戦争では圧倒的な戦力を誇った幕府軍が明治政府軍に敗れました。同じようなどんでん返しが起こるのではないか、そんな期待も少し持ちながらこの戦争の行方を見ていこうと思っています。

私の中国の旅はまだまだ続きます。今の予定では夏ごろまでこの地にとどまる予定です。しかしはたしてそれまでにこの戦争は終わるでしょうか。

このブログの続きも、次、いつになるかわかりません。が、折につけ、またこうした思い付きを書いてみたいと思います。

日本ではそろそろ桜が咲く季節ですね。今年はそれが見れないのが残念です。

義時と江間


今、住んでいる修善寺から北へ車で20分ほど走ったところに、「江間」という郷があります。

現在は伊豆の国市に属していますが、その昔は三島などを主とする君沢郡の一部でした。地名の由来はよくわかりませんが、「江」は海や湖が陸地に入り込んだ地形を示す言葉であることから、昔この地は海だったと推察されます。

縄文時代前期には、海面の高さが現在より数m~数10m高い時代があったそうです。全国的に陸地奥部まで海水が浸入しており、その原因は地球全体の温暖化に伴い極地の氷が溶けたことなどのようです。こうした海水面上昇のことを「海進」といいます。

伊豆においても、この海進によって三島や沼津の平野部の大半は海底となり、これより南の長泉町、清水町、伊豆の国市、伊豆市などの低地部でも海水が浸入し、山や台地など標高が高い部分だけが残る複雑な地形が形成されました。

その後、海水面はいったん現在くらいの高さまで戻ったようですが、平安時代ころに再び海進があり、縄文時代ほどではないにせよまた海水面が高くなりました。こちらは平安海進と呼ばれています。

このころ、―平安時代ですが― おそらく江間においても、縄文時代の浅海が残っていたか、あるいは入り込んできた海水が完全には引かずに、湿地帯のような様相を示していたに違いありません。またそこには入江があちこちに存在していたと想像されます。

ここに住んでいた住人は、その海の恩恵を受けながら暮らしていたことでしょう。浅瀬の海は魚介類の採集には最適であり、またすぐ近くには狩野川という大きな川が流れていますから、そこから水を引けば、農耕にも適した土地になります。

こうした豊かな自然を背景にそれなりの文化を築いていたと考えられ、事実、北江間と呼ばれる地域には、古墳が残っています。これは「大師山古墳群」といい、一般には「北江間横穴群」と呼ばれています。

現在の江間にはかつて海だった面影はなく、見渡す限りの田園地帯です。その合間にイチゴ作りのビニールハウスが点在していて、「江間いちご」は久能山の石垣いちごと並んで静岡いちごの代表的ブランドです。

かつてはそこに海水が入り込んで入り江を形成していたと考えられるわけですが、その辺縁は小高い丘に囲まれていて、その中に大師山と呼ばれる丘陵があります。その一角の南斜面に掘られた横穴が北江間横穴群です。







等高線に沿う形で10基ほどのものがあり、これらは平安時代より前の7世紀から8世紀にかけて作られたと考えられています。これすなわち飛鳥時代から奈良時代に相当し、この時代に造られた家形の石棺もいくつか残っています。そのひとつで「若舎人(わかとねり)」と銘が入ったものは、国の重要文化財にもなっています。

この江間のさらに南側には、「北条」と呼ばれる字があります。ここは鎌倉幕府の執権を代々勤めた在地豪族、北条氏が治めていた場所といわれています。

北条家の家紋は、「三つ鱗(ミツウロコ)」と呼ばれ、三つの三角形を重ねたものです。初代執権の北条時政が江の島に参籠した際、弁財天が現われ、非道を行なえば家が滅びると告げたのち、蛇に変化して海中に消えたという伝説が残っています。

そのとき残した3枚の鱗がこの北条家の家紋の所以です。時政がこの鱗を扇に載せ、竜に向かっておしいただく図を、幕末に活躍した浮世絵師、月岡芳年が残しています。

こうした大蛇伝説を持つ氏族は、大和大神氏(おおみわうじ)を先祖に持つ一族ではないかという説があります。これは奈良県の桜井市三輪にある「大神神社」を奉斎した一族で、その始祖は大友大人命(おおともうしのみこと)という神話の世界の人物です。

「日本書紀」では大三輪大友主 (おおみわのおおともぬし)の名で登場し、大神神社のある地「三輪」はここからきています。大和大神氏が「大神氏」というその名を朝廷から授かる前に名乗っていたのも「三輪氏」です。三輪の3と三鱗の3は相通じるものがあります。

さらにこの大和大神氏の先祖は、海人族(かいじんぞく)だったのではないかという説があります。これは弥生文化前期に力を持っていた民族で、航海、漁労など海上において活動し、4世紀以降は海上輸送で財をなした集団です。

だとすれば、大和大神氏の中でもとくに航海技術に優れた者たちが、奈良の地を離れてはるばる海を渡り、伊豆に辿りついて、土着したということも考えられます。

その一部が江間の地に落ち着き、のちに北条を名乗るようになったのかもしれません。今も残る横穴群は、北条氏の先祖でもある大和大神氏がその親族が亡くなる度にその亡骸を埋葬したものと考えることもできます。

江間の地には、かつて北条氏の一族がここを治めていた痕跡がいくつか残っています。江間を東西に走る「いちご街道」と韮山伊豆長岡修善寺線との交差点付近にある石徳髙神社(豆塚神社)もそのひとつで、北条氏が大明神として崇敬していた神様をここに祀ったものだと伝えられています。







ただ、江間の地は、遠く山並みが見えるあたりまですべからく田畑が広がるという土地柄であり、まとまった集落は少なくまた豆塚神社以外には神社仏閣もほとんどありません。

鎌倉幕府を率いた執権北条氏の根拠地とするにはあまりにもさみしい場所であることから、これ以外の場所が中心地だったと考えるのが妥当です。

江間の東側すぐには、狩野川が流れており、これを挟んで対岸には守山という小高い山を中心にした郷があります。江間の南に位置する北条の地もどちらかといえば閑散としており、この守山のほうが賑やかなことから、おそらく北条氏の先祖は北条に土着したのち、すぐ対岸にあるこちらへ本拠地を移したと考えられます。

守山の頂上にはかつて砦があっとされ、またその麓には、初代執権の北条時政の館であったとされる遺構も見つかっているほか、願成就院や真珠院、守山八幡宮といった北条氏にまつわる寺社が固まって存在します。また、室町時代に鎌倉公方として下向した足利政知がここに館を構えたとされる「堀越御所」の跡地もここにあります。

江間の地はそうした場所から少し離れています。その昔は湿地帯もしくは海であって、住居を構えるには適しておらず、所領としても小さなものだったでしょう。このことから、ここは北条氏の本家ではなく分家筋にあたる豪族が治めていたと考えられます。

その名も江間家という部族だったようで、のちに鎌倉幕府の第二代執権となる武将もまた若いころは江間四郎あるいは江間小四郎と称していました。

その名も北条義時といいます。もうおわかりでしょうが、義時といえば、今年のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」の主人公です。

のちに北条姓を名乗ることになりますが、そもそもは江間家の初代だったという説もあり、その屋敷は、江間と北条の地のちょうど境あたりにありました。現在ここは、江間公園という広場になっており、かつてここから大陸由来の陶器などが発掘されたそうです。

それでは、簡単にこの江間小四郎こと北条義時の生涯を振り返ってみましょう。

上述のとおり、義時は元は江間姓を名乗っていました。二男として生まれたためであり、跡取りではなく、北条家の分家としてこの姓を名乗るようになりました。源氏将軍が断絶したあとは父、時政の執権職を継ぎ、当時の社会の実質的な指導者となりました。

姉は源頼朝の妻である北条政子であり、父時政は頼朝の舅ということになります。頼朝は平家を壇ノ浦で滅ぼしてからは京の天皇家とは一線を画し、鎌倉に将軍をヘッドとする武家組織、幕府を開きました。

しかし、頼朝は早死にし、その異母弟の義経、範頼も生前の頼朝に疎まれて謀殺されました。さらに頼朝は政子との間に二人の男児を設けましたが、そのうちの長子である頼家もまた頼朝の将軍職を継いだのちに暗殺されています。







頼家は独裁色が強い将軍だったようで、第2代鎌倉殿となったものの、御家人たちの反感を買っていたようです。そこで彼を押さえるために作られたのが、御家人十三人による合議制です。これが今年の大河ドラマのタイトル「鎌倉殿の十三人」の由来です。

頼家の独裁を阻止するため、上がってきた訴訟などは、時政や義時を含めた宿老13人が合議によって取り計らいました。直接頼家へ取り次がせないようにすることで、平等化が図られそれまで不遇をかこっていた御家人たちも救済されるようになりました。

しかしこれによって頼家は孤立します。その後もなんとか独裁を続けようとしますが、十三人とこれをとりまとめる北条氏との対立は深まるばかりで、やがて修善寺に幽閉されたのち暗殺されてしまいます。

北条家は、頼家の代に乱れた政治を正すべく、弟の源実朝を第3代将軍に指名しました。ただ、このときまだ十二歳と若かったため、これを補佐する者として、北条時政が初代執権の地位に就きました。実質上、鎌倉幕府の実権を握る代表者です。

しかし、時政もまた独断で物事を動かそうとするタイプであり、また情に流されやすい性格でした。後妻の牧の方を溺愛したことから政治がおろそかになり、そのことで何かと一族の面々と対立するようになります。なかでも正義感の強い、息子の義時との関係がぎくしゃくするようになります。

やがては紛争を起こすことになりますが、そのきっかけは妻の牧の方の娘婿と前妻の娘婿の嫡子との間で起こった言い争いです。この前妻の娘婿は、畠山重忠といい、義時の親友でした。後妻の牧の方を擁護する時政は、重忠を謀反の罪で殺害しました。

さらに、時政は実朝を暗殺して牧の方の娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立しようと画策します。しかし、これに義時は猛烈に反発し、姉・政子と協力してこれを未然に防ぎ、また時政を訴追してついには伊豆国への追放に成功します。

父の時政の執権職を継いで第2代執権となった義時ですが、彼もまた独裁的政治を展開して執権政治の基礎を築いていきます。ただ人望のあった彼は北条家御家人うまくまとめ、強固な武士団を組織することに成功します。

そして、彼らともに幕府創設以来の重鎮や有力武士を次々と滅ぼし、幕府の最も枢要な職を独占するようになりました。こうして義時は、時政に代わる幕府指導者としての地位を固めます。

一方このころ、第3代将軍、鎌倉殿となっていた実朝は、鶴岡八幡宮で、「父の仇」として彼を狙う、頼家の子で僧侶の公暁(くぎょう)に暗殺されてしまいます。しかし、唯一残った源氏の正統である公暁自身もその直後に討ち取られてしまいました。



こうして源家は直系の一族全員が死に絶えてしまい、将軍職を継ぐものがいなくなってしまいました。このため、執権北条家は、頼朝の遠い縁戚である摂関家の藤原頼経を4代将軍として迎え入れることにします。

もっとも、頼経は当時生後1年余の幼児であり、直ちに征夷大将軍に任じられる状況にはありませんでした。このため、政子が尼将軍として頼経の後見となり、空白となっていた鎌倉殿の地位を代行します。また、義時が執権としてこれを補佐して実務面を補うことで実権を握るようになりました。

こうして北条家執権による支配体制はさらに強化されましたが、一歩下がって国家レベルでみるとその体制も盤石とはいえませんでした。西には朝廷という大きな権力団体があり、次第に彼らとの争いが激しくなってきたからです。

とくにこの頃の朝廷の実質上のトップ、後鳥羽上皇とは激しく争うところとなり、朝廷と鎌倉幕府はどんどんと対立を深めていきました。先の将軍後継者問題を巡っては最終的に藤原頼経が選ばれたわけですが、そこに至るまでにはやはり激しいい攻防がありました。

第3代将軍である実朝が暗殺されたころ、幕府は子のない実朝の後継者として後鳥羽上皇の親王(子供)を将軍として東下させることを朝廷に要請しました。しかし、後鳥羽上皇はこれを拒否しました。

自分の息子が将軍になるのですから本来喜ぶべきところですが、幕府の言いなりになっていては朝廷が実権を握れないと考えたからです。反発する後鳥羽上皇は部下を鎌倉に送り、自分の所有する荘園の地頭の撤廃などを条件とするならこれを認める、と返事をしました。

元々後鳥羽上皇は鎌倉幕府から財政的な支援を受けていたわけではありません。その主要な財源は畿内各所にある膨大な荘園群でした。

ところが、これらの荘園の多くに幕府の地頭が置かれるようになったため荘園領主である後鳥羽上皇の収入は激減しました。将軍職を誰に継がせるか、といった後継者問題における対立もさることながら、これが後鳥羽上皇は反幕府色を強めていった主な要因といえます。

地頭の撤廃は幕府の根幹をも揺るがす大問題です。義時はそんなことは許可できない、としてこの朝廷から要請を断固拒否しました。と同時に、これ以上朝廷と寄り添っていくことはできないと判断し、以後、身内から将軍を出そうと決めました。頼朝の遠戚である藤原頼経を新将軍に据えたのはそのためです。

こうして将軍職の後継として天皇家の血を入れるという、朝廷と幕府が和睦するための唯一の機会を失った両者は、その後対立関係をさらに深めていきます。と同時に日本は幕府と朝廷という対立する二つの勢力による二元政治の状態になっていきました。

後鳥羽上皇は、自らが天皇であった時代に長子の土御門にその座を譲って院政を敷き、実質的な朝廷の最高権力者になった人です。以後、一貫して鎌倉幕府に対して強硬な路線を採ってきましたが、土御門天皇が穏和な性格であったため退位を迫り、第三皇子である順徳を天皇に据えるなどしてさらに体制を固めました。

一方、対する鎌倉幕府は、新たな将軍が決まったとはいえ、それまでに相次いた将軍の死によって多分に混乱していました。朝廷との闘いのための体制づくりはまだまだ十分なものとはいえず、東国を中心とした諸国に守護、地頭を設置したものの内紛は絶えず、また箱根以西の西国の支配も充分ではありません。

対する朝廷は畿内を中心として強い軍事力を持っていました。後鳥羽上皇は武芸にも通じており、それまでの北面武士に加えて西面武士を設置し、軍事力の強化を図ってきました。後鳥羽上皇はまた多芸多才な人であり、新古今和歌集を自ら撰するなど文化面でも優れた才能を発揮した人で、そのためもあって西国の武士たちの尊敬を集めていました。

このため、もし朝廷との戦端が開かれたとしたら、多くの武士が朝廷に味方すると考えられ、幕府側が勝利する目途はまったく立っていないという状態でした。京都朝廷・天皇の権威は未だ大きく、幕府にとって容易ならぬ事態といえ、政権を引き継いだ義時は生涯最大の難局に直面する事になります。

朝廷と幕府の緊張は次第に高まり、ついに後鳥羽上皇は義時を討つ意志を固めました。時の天皇、順徳天皇も討幕に積極的であったために巷では討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となっていきました。



こうした中、幕府内では、朝廷に先制攻撃を仕掛けるか、それとも箱根あたりで敵の軍勢が来るのを待って持久戦に持ち込むかについての合議が持たれました。しかし、なかなか結論は出ず、時間ばかりが過ぎていきました。

このころ、幕府には大江広元という古老がいました。はじめは朝廷に仕える下級貴族でしたが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府や公文所の別当を務め、幕府創設に貢献しました。源家が滅亡し北条執権が幕府の主体となってのちも、政子や義時と協調して幕政に参与しており、このころ積極的侵攻を唱えていた政子に同調していました。

広元は朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞し、待っていてはダメだ、いっそ京へ駆けのぼろうと主張します。迷っていた義時も朝廷の内情に詳しい大江がそういうならとこれに賛成し、こうしてようやく上洛が決定されました。

かくして幕府と朝廷の戦端が開かれました。承久の乱と呼ばれるこの戦乱では、後鳥羽上皇はまず、義時追討の宣旨を全国に発布し、諸国の守護人・地頭たちに、上皇の元に馳せ参じるよう命を出しました。鎌倉幕府のおひざ元の関東の守護達にも密使が出されました。

これに義時は即座に反応します。その詔を持った密使たちを、先手を打って次々と暗殺していったのです。こうして内部からの造反を防いだ義時は軍をまとめ、嫡男・泰時を総大将として、東海道、東山道、北陸道と3派に分けて軍勢を京都へ送り出しました。

総勢19万にまで膨れ上がった軍勢は各地で連戦連勝を続け、最終的には木曽川、宇治川における京都防衛線を突破して京都を制圧します。義時追討の宣旨発布からわずか一ヶ月後のことであり、幕府軍の完勝でした。

この勝利により、畿内において幕府に敵対する朝廷勢力は駆逐されました。首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。鎌倉においても、かつて京方についていた旧将軍独裁時代の勢力が一掃されました。

こうして義時の主導する鎌倉政権は、公家政権に対して絶対的支配の地位を持つようになり、朝幕関係は完全に逆転しました。と同時に執権義時の幕府内での最高権力者たる地位も確定しました。京と鎌倉を制した義時の執権政治は、全国的政権としての新たな段階に進む事になります。

しかし、そのわずか2年後に義時は62歳で急死します。死因は脚気といわれていますが、あまりにも急な死であったことから様々な憶測を呼びました。

偉大な幕府指導者として御家人から崇められてきた人物だけに暗殺によるものではなく、後妻の伊賀の方のやきもちで毒殺されたとか、些細なことで恨みを持った近習の小侍に刺し殺されたといった風聞が飛び交いました。



しかし義時の死後も、北条家の執権体制は順調に続いていきました。朝廷から摂家将軍を推戴して迎えるという習慣がその後定着し、将軍の地位は単に形式的なものになりました。政務決裁は事実上のトップである執権がこれを行い、その補佐として合議機関である評定衆を置くなどの集団指導体制が確立されました。

ただ、形式的であっても御家人の主君は将軍であり、北条氏は御家人の第一人者に過ぎません。将軍家とは公称できない立場上、うっぷんを抱え続けた北条家は、以後、自らを得宗(とくそう)家と呼ぶようになりました。

「得宗」とは、実質上の初代執権ともいえる義時の別称、戒名、追号など色々な説がありますが、いずれにせよ将軍に相当する尊称としてこう呼ばせるようになったもののようです。のちの戦国時代に天皇にはなれない豊臣秀吉が自らを摂政関白と称するようになったのと似ているかもしれません。

実際、北条一門の惣領に過ぎないこの得宗家に将軍家さながらにすべての権力が集中していくところとなり、やがて得宗家こそが北条一門の最上位に位置づけられるようになります。そして幕府の公的地位である執権よりもさらに上、と目されるようにもなっていきました。

やがて得宗家の総領は将軍をサポートする執権職を遂行するだけでなく、御内人と呼ばれる直属の親衛隊まで持つようにもなりました。

公文所という文書管理のみならず指揮・命令・政務・財政・徴収・訴訟などを行う実務機関を持ち、さらに諸国の守護職、朝廷を監視する六波羅探題も設置し、幕府の要職の過半を占めるなどの強大な権力を持つようになりました。これはかつて平清盛率いる平家一族が行った時代の治世とよく似ています。

では、本来その得宗家の初代とされるべきだった時政は、その後どうなったのでしょうか。

時政は、畠山重忠謀殺や将軍実朝の暗殺未遂といった事件で晩節を汚したためか、子孫からも疎まれています。得宗家初代を義時として祭祀から外されるなどの仕打ちを受けており、まるで存在しなかったように扱われました。東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げたにもかかわらず、です。

伊豆へ追放されたのちは、義時の死よりも9年早い建保3年(1215年)に腫物のために死去しています。意外に長生きで、享年77でした。

一方、早世した父・義時を継いで第3代得宗家当主になった泰時は、父以上に人格的に優れ、武家や公家の双方からの厚い人望を集めました。

のちには北条家の中興の祖としてあがめられるなど、当時の鎌倉武士の質実剛健な理想を体現化した人物として知られるようになります。「御成敗式目」を制定したのも泰時であり、これは日本における最初の武家法典とされるものです。



北条得宗家の執権政治はその後もさらに充実したものとして発展し、その後第14代執権・北条高時の代まで100余年続きました。しかし最後は、御家人筆頭の足利尊氏らの反乱によって終焉を迎えます。

後醍醐天皇の命により立ち上がった反乱軍が鎌倉に押し寄せ、東勝寺で行われた決戦では北条一族のほとんどが討死、また直後に自害して北条氏はほぼ滅亡しました。

「ほぼ」と書いたのはその後、北条家による執権の世襲は16代の守時のときまで続いたためです。ただ、第15代の貞顕(さだあき)が執権の座に就いたのはわずか10日間にすぎず、また16代の守時も1ヶ月足らずの在職にすぎませんでした。

最後の執権守時は鎌倉中心部で反幕府軍と激戦を繰り広げ、一昼夜の間に65合も斬りあったとされます。しかし、衆寡敵せず、最後は深沢という場所で自刃しました。これは現在の東海道線大船駅に近いところです。享年38。

以後、後醍醐天皇による建武の新政が施かれ、鎌倉時代から続いていた公武の政治体制・法制度が刷新されて人材の淘汰が図られるようになります。しかし、かつては協力者だった足利尊氏が再び反乱を起こして政権は崩壊、尊氏らによる室町幕府が成立します。

やがてその室町幕府も倒されることになるわけで、かくして時代は繰り返される、ということになります。平家の勃興と滅亡、鎌倉幕府の隆盛と消滅、そして室町幕府の終焉と戦国時代の到来というのは、現在に至るまでそれぞれワンセットで語られることの多い歴史物語です。

ただ、北条得宗家はこれで消滅したわけではありませんでした。最後の執権であった守時には妹がおり、これは登子という名でした。この人は足利尊氏の正室として迎えられ、鎌倉幕府滅亡後も生き残りました。従って、尊氏との間に産まれた足利義詮および基氏以降の代々の足利将軍家の家人には北条家の血が流れている、ということになります。

その後も足利の血は耐えることなく、江戸時代まで続きました。赤穂浪士の討ち入りで有名になった吉良氏はこの足利氏の直系です。

北条家を幕府のトップにまで押し上げた功労者、義時の墓は、現在の伊豆の国市北条にあります。その名も北條寺という寺の境内にあり、地元では白い曼殊沙華がたくさん咲くお寺さんとして知られています。

義時の墓は息子の泰時が建てたものと伝えられています。妻とされる阿波局の墓も義時の隣にありますが、この人物についてはよくわかっていません。大河ドラマのほうでもまだ誰が演じるかは発表されていないようです。

すぐ近くを流れる狩野川を挟んで対岸の守山の願成就院には時政の墓もあります。すぐ傍の狩野川の土手沿い、こちらには赤い曼殊沙華が咲き乱れてきれいです。

遠方にいてこのブログを読んでいる方は、大河ドラマがクライマックスを迎えるであろう秋ごろにここを訪れてみてはいかがでしょうか。紅白の曼殊沙華の両方を愛でることができる土地柄というのは他にそれほど多くありませんから。


当たらぬも八卦


今年もあとわずかになりました。

今日が御用納めで明日からは家の大掃除だという人も多いでしょう。その中で、来年はどんな良い年になるだろう、とみなさん期待を膨らませているに違いありません。

では、自分はどうかと振り返ってみたところ、来年のことを思うとワクワクするか、といえばそうでもありません。ああまた歳をとるのか、とどちらかといえばネガティブなほうに目が行ってしまう今日このごろです。

ある占いによれば来年の私の運気は「乱気」だそうで、精神面で不調となりやすいとか。「乱心」で辞書を引いてみると「心が乱れ、心神喪失の状態になること」とあり、仏教用語としては「散乱する心。煩悩などにとらわれて乱れる心」だそうです。

何らかの理由で心乱れることがあるということのようで、あまりいい年ではなさそうなのですが、過去に同じ運気だった年の出来事を振り返ってみると、意外にそうでもありません。

高校に入学した年であったり、最初に勤めた会社を辞めた年、別の組織から離れた年、出向先から戻った年、といったように、どうも何か自らの境遇に変化が起こるという星回りだったようです。

そうした変化を「運が悪い」と受け止めるかどうかですが、当時のことを思い出してみるとそんなことはなく、マンネリ化していたそれまでの人生に向かって新たな風が吹いた、とむしろ歓迎するような気分だったかと思います。

考えてみれば、こうした占いというものは、人の運勢をたかだか10か12ほどのカテゴリーに分けて示しただけのものです。地球上に80憶ほども人がいるというのに、それをわずかこの程度の数で縦割りしていいのでしょうか。かなり乱暴な気がします。

そのほかの占いもそうです。例えば星占いは、その人が生まれた月に空にかかっていた星座が何であったかで占いますが、これも12パターンにすぎません。四柱推命や九星気学も9通りの運勢しかありません。

あるアンケート調査によれば、かなりの数の人々がこうした占いに示されたことを信じ、それに従って行動をしているといいます。毎日のようにテレビや新聞雑誌でいろいろな占いが紹介されていますが、多くの人がこの単純な仕分けの結果を見て一喜一憂します。

しかし、それぞれが違った個性を持っているように、本来なら運命もそれぞれ違っているはずです。

私自身、占いを全く否定しているわけではありませんし、同じようにテレビや雑誌で紹介されているものを見ています。しかし、信じるかどうかといえば半々で、どうせ占うならちゃんとしたもので占いたいなと思っています。

例えば同じ星占いでも、もっと細かい星の配置から運勢を見ることもできます。その人が生まれた時の星々の配置と、占いたい時々の惑星の動きとの関係性をもって運命を占うというもので、いわゆるホロスコープを使った占い方です。

生まれた時の惑星の配置と現在の惑星の配置の組み合わせはそれこそ天文学的ですから、こうした占い方法によれば、まったく同じ運命の人はほぼいない、ということになります。







もともと、理科系志向だった私は、子供のころからこうした星占いには興味がありました。天文学者になりたい、とまでは思いませんでしたが、天文学雑誌を定期購読し、夜空を双眼鏡で毎晩ながめていたりする少年でした。

そして、この夜空の果てにはどんな不思議があるのだろう、それを人類は解き明かすことができるのだろうか、と子供心に思ったりしていたものです。

そもそも、占星術と天文学は深い関係があります。それぞれastrology、astronomy、というようastroが冠詞として付きます。これからもわかるように両者はルーツが同じで、天文学というものの母胎が占星術でした。

天文学はプトレマイオス以来の天動説の宇宙観のもとに発展したもので、この地球を中心に天は動いているという説は占星術から生まれたものです。ケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラーは天文学者・数学者であると同時に、占星術師でもありました。

ところが、コペルニクスが「地動説」を唱え始めたころから、分化が始まりました。それまでは、自然についての考察は「自然哲学」という体系で行われおり、単に星がどのような周期的な動きをするか、ということだけに関心が寄せられていました。

そこに地動説という科学的な視点が出てきました。それまでは占星術と天文学は未分化で混然一体の状態でしたが、それからは別者になっていきました。とくに、1687年にアイザック・ニュートンが「自然哲学の数学的諸原理」を著わしてからは占星術と自然科学の分化は歴然としたものになりました。

占星術専門家が、月の満ち欠けや太陽の位置、惑星と星座の位置関係といった単純な天文現象にだけしか興味を示さなかったのに対し、ニュートンらの新しい考えを持った科学者たちは、近代的な自然科学を用いて、より正確な天体の動きを予測するだけでなく、それぞれが力学的・物理学的に関与し合っているかといったことを紐解くようになりました。

こうした結果、現代では占星術と天文学は、原則として全く別のものになりました。現代の天文学者たちはさらに、天体の配置や動きを予想するだけではなく、それらが生まれた原因を探り、将来にわたってどうなっていくのかを予測するとともに、目に見えない天体についてもその存在の意味を探ろうとしています。

一方、旧来の占星術家たちには新たな探求心はありません。現代自然科学を用いれば、より正確な惑星の位置などを予測することもできるはずですし、また太陽系内外に新たに見つかった小惑星なども取り入れた新たな占いもできるはずです。

しかし、そうしたことにはまるで興味はなく、あいかわらず太陽と月以下、水金地火木土天海冥の星の配置だけを捉え、それだけで人の性格や相性、国家の未来などを予測しています。







このように、占星術と天文学は、現代では目的も手法も、まったく別のものになっています。ただ、若干の例外はあり、微妙な領域の研究で占星術と自然科学が重なる場合があります。

例えば心理学です。フランス、ソルボンヌ大学の心理学者で国立科学統計センターの統計学者でもあるミッシェル・ゴークランという学者は、出生時の惑星の配置と性格を分類する統計研究を行い、両者には相関関係がある、と結論づける論文を発表しました。

しかし、日本の明治大学コミュニケーション研究所の検証結果は、その関係性は有意水準ではあるものの、あまりにも小さすぎて実際に適用する根拠には乏しい、といったものでした。

このほか、パーソナリティ研究の分野で第一人者であるドイツの心理学者ハンス・アイゼンクも、統計学的調査に基づき、様々な観点からの西洋占星術の妥当性を検証しましたが、その答えは否定的なものでした。

占星術者と言われる人たちの中には、これは「統計」によるものと説明する人もいます。確かに星の運行の情報は統計データに基づいて計算することができますが、星の動きと個々の人間の運命との関係性を統計的に立証できた例はありません。

こうした占いが部分的にでも当たったように感じられるのは、バーナム効果だと言う人もいます。誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分、もしくは自分が属する特定の特徴をもつ集団だけに当てはまる性格だと捉えてしまうことです。

例えば、以下のような文章を見た時、自分に当てはまる、と感じる人も多いのではないでしょうか。

・あなたは他人から好かれたい、賞賛してほしいと思っているが、にもかかわらず自己を批判する傾向にある。
・あなたは外見的には規律正しく自制的だが、内心ではくよくよしたり不安になる傾向がある。
・あなたは独自の考えを持っていることを誇りに思い、それゆえに十分な根拠もない他人の意見を聞き入れることがない。

実はこれは、ある星占いの星座ごとの占い結果をまとめて表示したものです。アメリカの心理学者バートラム・フォアという人が行った実験で使われたもので、彼は学生たちに、この分析がどれだけ自分にあてはまっているかを0(まったく異なる)から5(非常に正確)の段階でそれぞれに評価させたところ、その平均点は4.26だったそうです。

いかに人がこうした占いを信じやすいか、を端的に示した結果といえますが、このほかにも確証バイアスというものがあります。これは仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のことです。

その結果として稀な事象の起こる確率を過大評価、または過少評価しがちになりますが、こうした現象は2011年に起こった東日本大震災でもたくさん確認されました。

こんな場所にまで津波はやってこない、あるいはここにいれば津波から身を守ることができる、といった思い込みです。これが例えば星占いの場合だと、あなたは魚座でこうこうこういう性格だ、と一度言われればそれを信じ、他の星座の占い結果などはまったく見なくなります。



このように、占いというものは、元々不確実性が高いもので、また曖昧なものです。このため科学的な視点でものを見ようとする姿勢の人の目には、いかがわしいものとして映ります。占いを信じる、という人は意外に少なく、博報堂がアンケートを使って「占い・おみくじを信じる」と言う人の割合を調べたところ32.5%にすぎなかったそうです。

では、占いというものは、我々にとって全く必要のないものか、といえば、はっきりそうだと割り切れるものでもなさそうです。

たとえば、何かを決断したいけれども、はっきりと決めきれない、といったときに占いの結果に頼ったりはしないでしょうか。

卜(ぼく)、または卜定(ぼくじょう)といいう占いがありますが、何かを決断するときなどに使う事が多く、これは人が関わりあう事柄(事件)を占うものです。

時間、事象、方位など基本にして占いますが、占う事象を占う時期、出た内容などとシンクロニシティさせて結果を観ます。ある意味、偶然性や気運を利用して観る占い方法です。

ちなみに卜の文字は、亀甲占いの割れ目を意味する象形文字を原形としており、「亀卜」と呼ばれていました。21世紀の現代でも宮中行事や各地の神社の儀式で行われており、宮中行事では、大嘗祭で使用するイネと粟の採取地の方角を決定するために用いられています。

かつて明智光秀が信長を本能寺で討つときも、この亀卜でもってその成否を占ったという話もあるようです。結果は凶と出たようですが。

この卜をもっと簡単にしたものが、花占いで、一輪の花を手にとって花びらを一枚一枚摘んで「好き・嫌い」を判断したりします。また、神社では「鳥居へ投石をして、乗るかどうか」で願いが成就するかどうかを占うところもあり、これも卜のひとつといえます。

では「シンクロニシティ」とは何でしょうか。

シンクロニシティ(synchronicity)とは、「意味のある偶然の一致」とされるもので、日本語では「共時性」とか「同時性」「同時発生」と訳されます。

例えば、歩いていて急に靴の紐が切れた、としましょう。ただそれだけはなく、ちょうどその時「病院で祖父が亡くなった」と考えてみましょう。

出来事というのは、単純な物理現象ではありません。例えばこの靴は実は祖父が自分にと贈ってくれたもの(歴史)で、その紐が突然切れた(状況)ことを、自分だけでなく周囲の人たちが不吉に思う(体験)かもしれません。このように出来事というのは、複数の事柄が1つにまとまったものです。

シンクロニシティである場合には、そうした中でも「靴の紐が切れた」という出来事と、「病院で祖父が亡くなった」という出来事が偶然にも重なった場合に起こり、この場合、両者の間には“通常の因果関係がない”、という条件が必要になります。

靴紐が切れたことで祖父が亡くなったわけではありませんし、靴に何等かのバイキンがついていてそれが原因で紐が切れたり祖父が亡くなったわけでもありません。一方が他方の原因になっていたり、共通の原因から両者が派生していたりしない必要があるわけです。

ふたつの出来事は必ずしも同時に起こる必要はありません。1日違いかもしれないし、1週間後かもしれません。ただ、もしほぼ同時、もしくは近い時間に起きたとしたなら、その衝撃は大きなものになります。



これを全くの偶然と考えて因果関係などはないと考えることもできます。しかし、この二つの出来事が共起したことには何か意味があるのだ、その靴は祖父の象徴であり、紐が切れたということで永遠に別れることになったのだ、と考えることで両者の出来事の橋渡しができます。

つまり、シンクロニシティとは、それが起きることで何等かの「意味」が生成されたように捉えること、と定義できます。

心理学者のカール・ユングは、その意味するところを示そうとして、占星術をその傍証に取り上げたそうです。

例えば、あるとき自分の星座に木星が入ったときに、ある偶然で将来の結婚相手が見つかったとしましょう。ふたつの出来事が同時的に起きていることに当初は気づいていませんが、後になってこのとき木星が自分の星座に入っていた、ということを知ります。

遠く離れた場所で客観的な出来事が二つ同時的に起きたと判明したわけですが、このときこれを単に偶然と片付けることもできますが、それについて意味を見出すこともできます。

「将来の結婚相手との出会い」という客観的な出来事が、木星が自分の星座に入ったというタイミングでシンクロ的に起きたのだと確信的に考えることができるとすれば、そこに木星は幸運の星なのだ、という意味が生まれます。

このようにシンクロニシティは、それが起きることで「意味」を生成します。日常におけるシンクロニシティにおいても、そこに何かのサインや意味を見出だすことができたなら、それがその偶然が起きた理由です。

この靴の紐の例は、「虫の知らせ」とも呼ばれます。家族等の生命に危険が迫った際に何等かの予兆を感じるもので、このほか下駄の鼻緒が切れたり、突然棚から花瓶が落ちたりといったことがあるかもしれません。それを「虫の知らせが起きた」と認識し、人の死を悟ります。

このほか、よく知る誰かから何か電話がかかってくるような気がする、と思っていたら実際に電話がかかってきた、といったことはないでしょうか。さらには通勤途中で小銭を拾ったら、その日に宝くじが当たった、ということもあるかもしれません。

このように何か出来事が起こる前に予知できるものもシンクロニシティといえますが、同じようなものに「嫌な予感」というものもあります。

何か今日は車の調子が悪いとか、なんとなく外出したくないといった「いつもと違う」ということを感じたりしますが、そういう時に限って交通事故を起こしたり、外でつまづいて骨折したりといったことが現実になったりします。

人間には元五感を超えた「第六感」とよばれる感覚があるといいます。もともと誰でも持っていたはずですが、文明人になるにしたがって、その働きが弱くなってしまい、現在ではいわゆる霊感が強いと言われる人だけが持つようになった感覚ともいわれます。

超感覚というべきものであり、誰でも持っているものではありますが、普段はあまり表には出てきません。しかし、時にそうした能力をいつも使え、他の人以上超常感覚が優れているといわれる人がいます。



霊感がある人とか、ある種の予知能力を持っている人などがそういう人たちですが、実は彼らの中には占い師が多いようです。

最近、占いをテーマにしたテレビ番組が高視聴率を取っているようですが、ここに登場する人たちは実はそういう特殊能力を持った人たちだと私は思っています。

一応、「占い師」の体裁を保っていますが、実は鋭い第六感を持ち、シンクロニシティの意味を即座に理解して人に伝えることができる人たちであるに違いありません。中には占う相手のオーラを見ることができる人もいるようで、番組ではそうは明かしてはいませがん、私には実際にそれが見えているように思えます。

実は私たち夫婦が良く占ってもらう占い師さんがそういう人で、実はかなりの霊感がある人ですが、表向きには占い師ということで通っています。

かつて広島でその人に占ってもらったときに彼女が言った言葉が印象的でした。「こうした占いの形でも取らないと信じてもらえないんですよね~」

この人は、幼いころにまるまる2年ほど記憶がない時期があるそうで、その時期を過ぎたあとにそういう能力が身に付いたとのことです。無論、オーラを見ることもでき、私の先祖のことまで的確に言い当てました。

最近読んだ本に、我々が普段見ている世界というのは、実は本当の世界の一部にすぎず、実際の世界が100%であるとすれば、そのうちのわずか1%にも満たない世界しか我々は見ていない、と書かれていました。

従来の物理学では、物質の最小単位は原子、素粒子、クォークといった点粒子であると考えられていましたが、さらに研究が進んだ結果、最近ではそれらの存在だけではこの世の成り立ちが説明できないことがわかってきました。

身のまわりの物質はすべて極めて小さな「ひも」が集まってできているというのが、最近の物理学の最先端の理論で、これは「超ひも理論」と呼ばれています。

この理論によると、実はこの世界は、縦・横・高さの「3次元空間」ではなく「9次元空間」だといいます。さらに、私たちが暮らす宇宙とは別に、無数の宇宙が存在する可能性があるそうです。にわかには信じがたいことではありますが、かつては SFの世界と言われていたような世界が現実の世界なのかもしれません。

そうした時代に占いかよ、と言う声も聞こえてきそうですが、そうした超能力を持った占い師さんたちだけが、そうした我々に見ることのできない世界を見ることができるのだとしたら、その言葉を信じてみようかという気にもなります。

この世の中に不思議はまだまだたくさんあります。その不思議の一端を「占い」という我々にもわかりやすい形で見せてくれるのが彼らだとすれば、それを科学的ではない、という理由だけで片付けるはもったいない気がします。十分に理論的であるとされたその科学ですら、その存在があやうくなりつつある時代なのですから。

いつかそうした占い師さんたちの占い結果も理論的に説明できるような時代が来るに違いありません。その中で、来年私に訪れるという「乱気」もきっとその本当の意味がはっきりするのでしょう。

心乱れる年ではなく、12に一度回ってくる千載一遇のターニングポイントだと信じ、そこから人生が大きく変わることを、しかも良い方に転がることを信じたいと思います。

みなさん良いお年を。


影を見る


修善寺に住むようになって、そろそろ10年になります。

温泉街を中心にいつも観光客でにぎわっていますが、田舎といえば田舎です。

しかし、すぐ近くに設備の整った病院や市役所があり、また大きなショッピングモールや飲食店もそれなりにあって、生活するにあたっては至極便利なところです。

ただ、やはり郊外に出ればそのほとんどが田畑か林野です。住宅もまばらで、夜間の交通量も少ないため灯りは多くありません。

とはいえ、夜に外出することはほとんどないので特に不便も感じません。かえって、光害が少ないので、星が良く見えるというメリットがあります。庭先に出ると、晴れた日には満天の星が輝きいています。さすがに天の川を見ることはできませんが、車で20分ほども走って山岳部まで行くと、なんとか目視することができます。

天の川は、英語では“Milky Way”といいます。由来はあるギリシャ神話で、その中でこの白い流れを乳とみなしました。

それは最高位の女神のヘラにまつわる話です。彼女の母乳は飲んだ人間の肉体を不死身に変える力があり、息子であるヘラクレスもこれを飲んだために驚異的な怪力を発揮できるようになりました。

しかし、ヘラクレスの母乳を吸う力があまりにも強かったためヘラは我が子を突き飛ばし、その際に飛び散った母乳が天の川になったと言い伝えられています。

対して東アジアの神話の多くではこの光の帯を川と見立てました。中国・日本など東アジア地域に伝わる七夕伝説では、織女星と牽牛星を隔てて会えなくしている川が天の川です。互いに恋しあっていた二人は天帝に見咎められ、年に一度、七月七日の日のみ、天の川を渡って会うことになりました。

しかし天の川は乳でもなく川でもありません。その実体は膨大な数の恒星の集団であることを知っている人も多いことでしょう。しかし、それが我々が住まう「太陽系」を含めた姿である、ということを知っている人は意外と少ないかもしれません。

地球を含めた惑星群からなるこの太陽系は、数ある銀河のひとつである「天の川銀河」の中にあります。我々はこの銀河を内側から見ているために、この星の集団が帯として見えます。また、天の川のあちこちに中州のように暗い部分があるのは、星がないのではなく、暗黒星雲があって、その向こうの星を隠しているためです。

その中心はというと黄道十二星座のひとつである射手座の方向にあります。銀河系の中心であるため、恒星の密度はこの付近が最も高くなっており、天体望遠鏡で観測すると多くの星雲や星団を視認できます。射手座は夏の星座ですから、夏の夜空を見上げると、天の川のこの部分がとくに濃く見えることがわかるはずです。







ただ、日本では光害のためにほとんどの地域で天の川を見ることはできず、日本人の70%は天の川を見る事ができないといわれています。

どうしても天の川を見たければできるだけ僻地に行くしかありません。あるいは日本を離れて人口の少ない場所へいけば、さらにきれいな天の川を見ることができます。

高い山の上か海の上が理想ですが、砂漠地帯もいいでしょう。日本からも比較的アクセスしやすいオーストラリアの砂漠では光害もなく、夜空の透明度が高いので、天の川の光で地面に自分の影ができるほどだといいます。

ちなみに、地球上の物体に影を生じさせる天体は、この天の川以外では、太陽、月、金星、だけです。このほか稀に地球を訪れる流星の中でも、火球と言われるような明るいものであれば影ができるといいます。

このほか、日食や月食も天体が作り出した影です。日食は、地球の周囲を回っている月が地球と太陽の間に来て、その影が地球上に落ちることによる現象です。我々は、地球に落ちる巨大な月の影の中に入ってこれが太陽を隠すのを見ています。

一方、月食は、地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象であり、月面に映る地球の影を観察しているということになります。

では、この“影”とはそもそも何でしょう。それは言うもでもなく物体によって光が遮られた結果できるものです。大きさや形は影ができる面の角度に応じて異なり、歪んだ像となって見えることもあります。変幻自在のこの影は比喩的な意味でも使われることも多く、文学や心理学の概念としても使用されてきました。

視覚を感覚の中心としている我々人間にとっては、光があってものが見える場合、必ずそこには影があります。また、影は常にそれができる原因となる遮蔽物と対となって存在します。「影の中に入る」ということは、光から遠ざかることを意味しており、このため日常世界から何がしかの距離を置くことを影に例えることもあります。

古代ギリシア語で心や魂を意味する「プシューケー」には、魂の影もしくは人の影という意味があります。「魂の影」が何を意味するかについては色々な解釈がありますが、これを「幽霊」と同一視する向きもあります。

同じ古代ギリシアの哲学者プラトンは、我々の見ている現象世界は、本当の世界の影にすぎない、という意味のことを言っています。影は原像の姿に似た形を持っていますが、原像そのものではありません。しかし、プラトンは我々が住む世界こそが影であり、目で見て把握できない世界は別にあって、それこそが本当の世界だと主張しました。







こうした実像の仮像こそが本物だ、いやその逆だといった宗教的・文化的議論はこれまでにもよくなされ、これによって多くの影に関する神話や暗喩が生まれました。

そうした中から光に対しては闇があるならば光の世界に対しては闇の世界があるといった考え方が出てきましたが、その延長として、光が生命の躍動に満ちた生であり存在なら、闇は死であり無である、といったやや飛躍した考え方が生まれました。

影は、夢や想像に現れる死者などをイメージさせます。このため影の世界に棲む存在を「亡霊」と呼び、時にはその世界を「あの世」あるいは「冥府」と呼んだりするようにもなりました。

また、生きている人間に宿る魂に付随する第二の魂がこの闇の中に棲んでいるという見方も生まれました。人間が持つ魂には表と裏がある、と言う考え方です。

自分自身の姿を客観的に見ることを「自己視」といいます。自己の内面を見つめ、そのことによって自己を人間としてより高い段階へ上昇させようとする行為です。より高い能力、より大きい成功、より充実した生き方、より優れた人格などの獲得を目指すものであって、時に自己啓発と呼ばれたりもします。

この自己視によって、人は真の自分=裏側に隠された自分を見ることができるとされます。ところがその過程で、鏡に映る自分ではなくそこから抜け出した自分とそっくりの姿をした分身を見てしまう場合があるといいます。

つまり自分の影を見ているのであって、こうした現象をドッペルゲンガーといいます。古くから神話・伝説・迷信などで語られてきました。肉体から霊魂が分離・実体化したものとされ、この影は時には第2の自我を持つ場合すらあるといいます。

古代ギリシャの哲学者ピタゴラスは、同日同時刻に遠く離れた別の場所で大勢の人々に目撃されたと言い伝えられています。また、アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーン、帝政ロシア皇帝のエカテリーナ2世、日本の芥川龍之介などの著名人もまた自身のドッペルゲンガーを見た経験を語っています。

医学的には“autoscopy”という名前が付けられており、日本語で「自己像幻視」と呼ばれています。現れる自己像は自分の姿勢や動きを真似することもあるそうです、また普通は、独自のアイデンティティや意図は持ちませんが、自己像と相互交流、つまり対話したりする症例も報告されています。

こうした症状はたいていは短時間で消えますが、人によっては常態化します。このことから、統合失調症と関係している可能性があるといわれています。周りに誰もいないのに命令する声や悪口が聞こえたり(幻聴)、ないはずのものが見えたり(幻視)して、それを現実的な感覚として知覚する病気です。

脳腫瘍ができた患者が自己像幻視を見るケースも報告されています。脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域の機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあるそうです。

しかし、こうした科学的解釈で説明のつかないドッペルゲンガー現象も多数あるようで、上のピタゴラスの例以外では、19世紀のフランス人でエミリー・サジェという女性の例があります。この人は同時に40人以上もの人々によって繰り返し目撃されたそうです。



こうした自分の影を見るというドッペルゲンガー現象は死と結びつけられ、自分自身で自分の影を見るということは「死の前兆」であるとされてきました。

「影の病」「離魂病」とも言われ、ドッペルゲンガーを見ると本人が死ぬだけでなく、その影を見た人も死ぬ、といったことまで言われるようになりました。実際、リンカーン大統領は暗殺されていますし、芥川龍之介以も自殺しています。またピタゴラスも最後は暴徒に襲われて非業の死を遂げています。

しかし、エカテリーナ2世は晩年まで大過なく暮らし、ロシア革命が勃発する前に67歳で病死しています。ドッペルゲンガーを見たからといって実際に当の本人が死んだりそれを見た人が死んだという事例も実際にはあまり多くないようです。

ただ、こうした死の前兆とされるドッペルゲンガー現象は小説家にとっては魅力的な題材となってきました。18世紀末から20世紀にかけて流行した幻想小説作家たちは、好んでこの現象を取り上げ、影は「自己の罪悪感」を投影するものだとして、数多くの作品が生まれています。

例えば、エドガー・アラン・ポーがドッペルゲンガーを主題にした怪奇譚「ウィリアム・ウィルソン(1839年)」は、ポー自身が幼少期を過ごしたロンドンの寄宿学校が舞台になっています。

ここに通う主人公の学生「ウィリアム・ウィルソン」が、突如としてそこに現れた同性同名の自分の分身に振り回されるようになり、最後には自分で自分を殺してしまう、という話です。この第二の自己は主人公を付け回しながら、次第に狂気へといざなっていきますが、実はこの影は主人公の希望を具現化したものでもあった、というのがオチです。

「ウィルソン」は英語で“Wilson”であり、書き下すと“Will son”になります。これを根拠に、この物語で登場する第二の自己は主人公の良心の具現化であるという人もいます。息子(son)は自分自身であり、つまり主人公は穢れのない少年の心を持った生き写しとともに生きることを望んで(Will)いたという解釈です。



こうした自分自身の影をテーマを扱った話は日本にもあります。戦国時代の武将の中には実際に「影武者」を持っていた人物もいるということですが、これを題材にした一つの例が黒澤明の「影武者(1980年)」です。

武田信玄に瓜二つだった盗人の男が、あるとき信玄に助けられたことなどを信義に感じて影武者になることを申し出ます。最後には正体がばれてお役御免となりますが、その後なおも信玄への忠義を守り、長篠の戦いでは小兵として参加します。

槍を拾い上げ、ひとり敵へと突進する中、最後は致命傷を負いますが、喉を潤すべく河に辿り着いたとき、河底に沈む風林火山の御旗を見つけます。その御旗に駆け寄ろうとしますが、そこで力尽きて斃れ、その屍は河に流されていく…というストーリーです。

物語の前半、数々の戦で100万人を殺したとされる武田信玄の影武者となったこの男は、合戦で戦死する兵士や自分の盾となり犠牲になった家来などを目の前にして傷つきます。

その体験を通じて「大悪党」である信玄がいかに苦悩してきたかを悟りますが、その過程で自分も成長し、最後には自分を育ててくれた信玄に殉じて死んでいくという内容であり、「影の魂の成長話」と捉えることもできます。

一方、隆慶一郎の「影武者徳川家康」では、影の方が実像の家康よりも生き生きとして才知に満ちている、といった設定になっています。関ヶ原緒戦で暗殺された家康本人に代わって、影武者となった男が自由な世の中を作るべく、駿府政権の長として大御所政治を推進し、最後は二代将軍の秀忠と戦う、という内容です。

この話では、家康に瓜二つであるだけでなく、知識からものの考え方までもそっくりの主人公の心の内が細かく描かれています。自我と無意識、つまり自分自身と影のあいだの調整を取りつつ生き方を模索し、「道々の者」として自由な世の中を作ろうとするその姿は家康本人を彷彿とさせます。

影が人間にとっていかに重要な存在かということは、ドイツの作家、アーデルベルト・フォン・シャミッソーの「影をなくした男」の物語にも示されています。少し詳しく書いてみましょう。

貧困に悩む主人公ペーター・シュレミールは、金策のためにとある富豪の屋敷を訪れ、そこで灰色の服を着た奇妙な男を目にします。男は上着のポケットから望遠鏡や絨毯、果ては馬を三頭も取り出して見せ、これを見たシュレミールは驚嘆します。しかし、周囲の人々はなぜかそれを見ても気にも留めない風でした。

そのうち男がシュレミールのもとにやってきて、あなたの影が気に入ったので是非いただきたい、と申し出ます。彼は躊躇しますが、「では、望みのままに金貨を引き出せる幸運の金袋はどうでしょう」と男が提示したことから、一年だけ、という期限を設けて自分の影を引き渡してしまいます。

こうして金には困らなくなったシュレミールでしたが、しかし影がないために道行く人という人にから非難を受けるなど、影のない人生が思ったより幸福でないことに気がつき始めます。

男と取引してしまったことを後悔し始めた彼は、召使を雇って灰色の男を何とか探そうとしますが見つけることができず、やがて人に影がないことを知られないように引きこもるようになります。

ある町の温泉街で隠れるようにして日々を過ごすようになりますが、ある時この街に住むミーナという女性に一目惚れします。この恋は成就し、影がないことをうまく隠し通しながら彼女と逢瀬を続けます。

しかし、いざ結婚の申し込みをしようというときになって、召使いの一人の告げ口によって影がないことがばれてしまいます。しかも、こともあろうにミーナはこの裏切り者の召使と駆け落ちしてしまいました。



ちょうどそのころ約束の1年が過ぎました。目の前に現れた例の灰色の男を見たシュレミールは、ここぞとばかりに影を返してくれと頼みます。しかし、男はこれを拒み、影を返して欲しいなら、シュレミールが死んだあとにその魂を引き渡せと要求します。手品師のふりをしていた男は実は悪魔だったのでした。

彼は悩みますが、逡巡したのちにこれを拒みます。灰色の男を振り切り、こうしてシュレミールは幸運の金袋も財産もすべて捨てて独り放浪の旅に出ます。そんな中、ちょうど靴を履きつぶしてしまったことから、なけなしの金で古靴を購入します。すると、この靴はなんと一歩で七里を歩くことができる魔法の靴でした。

シュレミールはこの靴を利用して世界中を飛び回り、「自然研究家」として新たな人生を歩むことを決意する、というところで話は終わります。

この物語は主人公ペーター・シュレミールが友人であるシャミッソーという男に当てて自分の半生を記すという形をとっています。この人物は同姓の原作者そのものであって、実際のシャミッソーも自然研究家を目指していました。そして物語の主人公のシュレミールはその「影」ということになります。

作品の合間にときおり、このシャミッソーへの呼びかけが差し挟まれているのは、筆者であるシャミッソーの自分への問いかけでもあります。物語の最後の部分も、自然研究家として充実した人生を送っていく決意を、影である主人公が直接シャミッソーに言葉で伝える、という形で終わっています。

シュレミールは、無尽蔵に金貨が手に入るという魔法の誘惑に負けて、悪魔に自分の影を売り渡してしまいましたが、富を手に入れたのち、「影」がいかに重要なものだったのかを悟ります。著者は、自分自身の影がいかに自我に影響を与え、かつその存在を支えてきたかをこの物語で伝えたかったのでしょう。

このように、影を題材にした物語には、影と人の生きざまを関連付けるものが多くなっています。多くの宗教で、人の生死には肉体的な意味の生死だけでなく、精神的な意味の生死がある、としています。人の発達と成長は、精神的に未熟な自己、つまり影の部分の死によってこそ得られ、そうした経験を経てこそ新しい自己が生まれます。

心理学者のカール・グスタフ・ユングもまた「影は、その人の意識が抑圧したり十分に発達していない領域を代表するが、また未来の発展可能性も示唆する」と書いています。自らの未熟な部分こそが影として現れてくるのであって、その存在を意識することがより良い未来を見つけるヒントだと言っているのです。

また「影は、その人の生きられなかった反面をイメージ化する力である」とも書き残しています。人生においてはうまくいかないことが多々ありますが、それを否定することがその人の人生に影を落とします。うまくいかなかった理由を深く分析し、それを反面教師として学ぶことによって自分を成長させることができるのです。

影を無意識の世界に追いやるのではなく、むしろそれとしっかり向き合いましょう。影は自分自身の否定的側面、欠如側面ではありますが、自己の形成においては不可欠なものです。

自分の欠点が何であるか、どこにそれが形成された原因があったかをよく考えてみましょう。そうすれば、必ずその欠点を長所に変えるヒントが見つかるはずです。そしてその発見こそが影を自我に統合するということに繋がります。それによってさらに自我を発達させることができ、ひいては自己実現のための道が開けます。

この年末年始には、少し時間的に余裕のあると言う人も多いでしょう。ゆったりとした気分になって、いま一度自分の影の部分を見つめてみてはいかがでしょうか。