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ルーシーと花子

2014-1397カナダ東部に、プリンス・エドワード島(Prince Edward Island、略称PEI)という島があります。カナダの東海岸、セントローレンス湾に浮かぶ島で、小さいながらもプリンス・エドワード・アイランド州というひとつの州でもあります。

カナダの諸州の中では面積、人口共にもっとも小さく、州都はシャーロットタウンです。総面積5,660km²は、愛媛県とほぼ同じくらいで、ここに約14万弱の人が住まい、これは静岡だと焼津市の人口とほぼ同じです。

島といいながらも、同様にカナダ沿海州であるニューブランズウィック州とはノーサンバーランド海峡を隔てて目と鼻の先であり、ここにはコンフェデレーション橋という橋が架けられ、事実上陸続きです。

カナダが独立する際、カナダ建国会議が開かれたという由緒ある歴史の島という顔も持っています。気候は温暖で、土地は赤土も肥沃。切り立った赤土の崖、しずかな砂浜、なだらかな緑の丘といった風光明媚な場所であるとともに、新鮮なシーフード、独創性あふれる工芸品も有名で、世界トップクラスのゴルフコースもあります。

どれもこの島の魅力を語る上でかかせないものばかりであり、とくに夏場は観光客で賑わいますが、実はそれ以上にこの島は「赤毛のアン」シリーズを書いたL・M・モンゴメリが住んでいた島として高名です。日本でも知名度の高いこの作家の故郷でもあることから、日本人の観光客も多く、その多くは女性だといいます。

ルーシー・モード・モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery)は、カナダでも最も高名な小説家のひとりです。島の西北部にあるクリフトンという場所で生まれましたが、ここは現在、ニューロンドンと呼ばれています。地名からもわかるようにイギリスやスコットランドからの移民が多く、モンゴメリもまたスコットランド系とイギリス系の祖先を持ちます。

28歳のころ、すでに雑誌向けの短編作家としてキャリアを積んでいた彼女は、最初の長編小説「赤毛のアン」を出版し、世界的ベストセラーとなる大成功を収めました。続く11冊の本も、連作「アン・ブックス」として人気を博し、1935年にはフランス芸術院会員となり、また、大英帝国勲位も受けるなど、カナダでも最も有名な作家に上り詰めました。

しかし、その7年後の1942年にトロントで亡くなり、その死因は長い間、「冠状動脈血栓症」とされてきましたが、その後、孫娘のケイト・マクドナルド・バトラーが、うつ病による自殺だったことを明かしました。

この、ルーシー・モード・モンゴメリは1874年11月30日にクリフトンで誕生しました。

カナダ東モンゴメリの父方の祖父は、上院議員だったそうで、このため父の代にも裕福だったようですが、モンゴメリが生まれて間もないころ母が亡くなり、これがきっかけで父がカナダ西部へ出奔。このため、島の北部にあるキャベンディッシュという場所で農場を持っていた母方の祖父母夫妻に引き取られ、二人に厳しく育てられました。

夫婦の名は、アレクサンダー・マーキス・マクニールと、ルーシー・ウールナー・マクニールといいました。このマクニール家は文才に恵まれた一族で、モンゴメリは祖父の詩の朗読をはじめ、叔母たちから多くの物語や思い出話を聞いて育ったといいます。

15歳のとき(1890年)、再婚していた父が、一緒に暮らそうと言ってきたため、カナダ西部のサスカチュワン州にあるこの父と義母が住まう家で一時期暮らしましたが、この継母は11歳しか年が違わないにもかかわらず、彼女に子守りと家事手伝いを命じ、ここでしっかりと腰を落ち着けて勉強がしたいと考えていたモンゴメリは、その夢を打ち砕かれます。

このため、その1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に出戻り、キャベンディッシュの中学校へ通い始めました。多感な時期でもあり、このころから、こうした薄幸の生活の中で感じた悲哀を詩やエッセイに書くようになり、ある時、これが新聞に掲載されたことが彼女が作家を目指すきっかけとなりました。

1893年、キャベンディッシュでの中等教育を終え、プリンス・エドワードアイランド州の州都、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジへ進学しました。2年分の科目を1年で終えるという俊才だったようで、さらにプリンスエドワード州からもほどちかい、ノバスコシア州のダルハウジー大学で聴講生として文学を学びます。

このプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ時代には一級教員の資格も取得しており、大学卒業後、プリンスエドワードやバスコシアのさまざまな学校で教師を務めましたが、24歳のとき祖父が亡くなりました。このため彼女は教師を辞め、未亡人となった祖母と暮らすためにキャベンディッシュに戻りました。

祖父は地元の郵便局長も務めていたため、この仕事をモンゴメリが引き継ぐようになりましたが、単調な郵便局の仕事に嫌気がさし、また気難しい祖母との生活は予想以上に辛いものでした。ちょうどこのころ、こうした彼女の身よりの相談相手となってくれたのが、近所に住む長老派教会の牧師ユーアン・マクドナルドでした。

モンゴメリとマクドナルドは瞬く間に恋に落ち、のちに二人は結婚することになります。

モンゴメリは27歳になってから、ノバスコシア州の州都ハリファックスの新聞社のデイリー・エコー社に記者兼雑用係として勤めるようになります。その後、マクドナルドと結婚するまでの9年間、この会社で短編作家としてとしてのキャリアを積みましたが、その毎日がのちに、赤毛のアンという傑作を完成させることに結びつきました。

モンゴメリは、32歳のとき、ユーアン・マクドナルドと婚約にこぎつけましたが、祖母の面倒を見るというお役目もあったことから、その結婚はその4年後にこの祖母が亡くなったのちの1911年のことでした。

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このときモンゴメリは既に36歳になっていましたが、英国・スコットランドへのユーアンとの新婚旅行は素晴らしいものであり、この後、新規一転ということで、カナダ中部、アメリカと五大湖を介して国境を持つオンタリオ州のリースクデール(現ダラム地域アクスブリッジ)という場所に二人で移り住みました。

こののち、モンゴメリは3人の男子を生みましたが、そのうちの真ん中の子は死産でした。このことは当人にはかなりショックだったようで、また夫のユーアンもまた結婚後8年目に学生時代に患ったうつ病が再発し、この病気は生涯快癒する事はありませんでした。

モンゴメリは世間に夫の病名を隠して看護を続けたといい、晩年はこうした家庭内のことだけでなく、作家としてのありようにも悩んでいたようで、こうした心労が重なり、モンゴメリ自身も神経を病みようになっていきました。

作家としての活躍はその後も続き、61歳のとき、それらの業績を認められ、カナダの元の宗主国、フランスの芸術院会員に推薦され、このとき同時にカナダが多くの移民を受け入れたことからイギリスからも大英帝国勲位を受けました。

しかし、閉ざされた心はそうした栄誉にも満たされず、生活に見切りをつけるためか、一家はカナダ最大の町、トロントへ移り住みましたが、このトロントでも夫婦はうつ病で苦しみ続けました。

この時期の二人については彼女の手記にもあまり記述がなく、詳しい生活の模様は不明ですが、モンゴメリの次男のスチュワート・マクドナルドの娘、つまりモンゴメリの孫にあたるケイト・マクドナルド・バトラーによれば、モンゴメリは、このころうつ病の薬を常用していたようです。

1942年4月24日、旅先の「旅路の果て荘」で死去したとされることから、自宅にいるよりも旅をして回るような生活だったのかもしれず、享年68歳でしたが、その死は冒頭でも述べたように、薬の過剰摂取による自殺だったようです。

5日後の4月29日、愛する故郷のキャベェンディッシュ共同墓地に埋葬されましたが、その追悼式では、彼女作の詩「夜警」と「アンの友だち」が朗読されたといいます。

夫のユーアン・マクドナルドは、この1年8ヶ月あとの1943年12月に死去。モンゴメリと同じこの共同墓地に埋葬されました。ちなみに、モンゴメリの祖父母の墓もこの墓地にあるようです。

彼女は、いつも愛した景色を見晴らせるという理由から、生前、この遠く海を望むこのキャベンディッシュ共同墓地を自分の墓地として選んでいたといい、その亡骸はトロントから約1000kmも離れた故郷に帰りました。

彼女の代表作、「赤毛のアン」は、1908年、モンゴメリが34歳のときに書かれたものですが、この本の成功の後、赤毛のアンはシリーズものとして定着し、これら一連のものは「アン・ブックス」として世界中で読まれました。

モンゴメリはこれらを含め、生涯に20冊の小説と短編集を書きましたが、特に初期のころの作品、「赤毛のアン」は何度も映画化され、40ヶ国語に翻訳されるなどの大成功を収めました。

この「赤毛のアン」は日本では、1952年に翻訳・紹介され、日本の少女たちにも熱狂的に愛読されました。のちに、中学の国語の教科書にも収録され、1979年に「世界名作劇場シリーズ」でテレビアニメとしても放映されたことから、モンゴメリの名を知る人も多く、その生地、プリンス・エドワード島を訪れる日本人観光客は今も多いそうです。

この、赤毛のアンを日本で最初に翻訳したのが、「村岡花子」で、彼女の生涯は現在、NHKの連続テレビ小説として毎朝放映されている、「花子とアン」でも紹介されています。花子自身がこのドラマの主人公であり、ドラマの原作は、村岡花子の義理の娘・みどりの娘、つまり花子の義理の孫にあたる村岡恵理が著わしました。

原案は、「アンのゆりかご」といい、ドラマのほうはこれにNHKがかなりの脚色をして製作し、ヒロインの村岡花子は女優の吉高由里子さんが演じています。結構視聴率が高いようで、先日も本屋さんに行ったら、その関連本が山のように積まれていました。

村岡花子の伝記本も出ているようで、その表紙にあった顔写真を見たところ、結構なべっぴんさんで、吉高由里子さんともどこか通じるような顔立ちであり、キャストしてはなかなか的を得ているな、と思いました。

村岡花子は、1893年(明治26年)に生まれ、1968年(昭和43年)に75歳で没した翻訳家・児童文学者です。とくに児童文学の翻訳として知られ、赤毛のアンはその代表作です。作者のモンゴメリの作品の多くの翻訳を行っていますが、このほか、エレナ・ポーター、オルコットなどの翻訳も手がけています

エレナ・ポーターという作家さんの名前を知らない人も多いと思いますが、ウチのタエさのような往年の美女たちの多くは「ポリアンナシリーズ」の作者と聞いて、あぁあの~、と思い浮かべる人も多いことと思います。

アメリカ人の児童作家さんで、彼の地でも大ヒットしディズニー映画化されたほか、日本でも多くの出版社から翻訳され、1986年には「愛少女ポリアンナ物語」としてアニメ化されたことから、この世代の人には覚えている人も多いことでしょう。

また、ルイーザ・メイ・オルコットは、同じくアメリカの小説化で、「若草物語」(Little Women)の作者として高名です。彼女が姉妹達と一緒にマサチューセッツ州のコンコードで過ごした少女時代をもとにした半自伝的な話ですが、これもアンシリーズのように、「続・若草物語」、「第三若草物語」「第四若草物語」と続編が出ました。

その他、「ジョーおばさんのお話かご」「8人のいとこ」などがあり、この続編「花ざかりのローズ」などもその著作として有名なようですが、その大部分は、多くの支持者を得た「若草物語」と同じ路線をとる内容だということです。

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ちなみに私は子供のころにこの若草物語を読みましたが、男子には少々メルヘンチックな内容であり、あまり好みではありませんでした。

が、女性は一般にこういうものが大好きなようで、村岡花子もその一人だったようです。彼女がこうした海外の児童文学、少女小説の翻訳に目覚めたのは、10歳で給費生として入学した、東洋英和女学校に在学中のことだといわれています。

NHKの朝ドラには彼女が文学者として成長していく姿がうまく描かれているのですが、これを毎日見ていた人は、彼女がこの女学校に入学したいきさつについてもだいたいおわかりだと思います。が、ドラマでは少々脚色しすぎていて、実際とは異なっている部分も多いようです。

なので、以下では、ドラマとの違いも意識しながらその生涯を辿ってみたいと思います。

村岡花子は、1893年(明治26年)6月21日に山梨県甲府市において、父安中逸平・てつ夫妻の長女として生まれました(ドラマ中は「安東家」となっている)。本名は「はな」であり、のちにペンネームの花子をそのまま本名として使うようになったという点はドラマのほうも忠実にその通り描いています。

が、ドラマでは父がクリスチャンであったという事実は描かれておらず、実際は花子自身も、この父の希望により、カナダ・メソジスト派の甲府教会において2歳で幼児洗礼を受けています。

父の逸平は甲府の人ではなく、駿府(静岡県)の小さな茶商の家に生まれ、茶の行商中にカナダ・メソジスト派教会に出入りするようになり、熱心なクリスチャンとなりました。布教の流れで甲府に移り住むようになり、そこで出会ったのが花子の母のてつであり、結婚してその実家に住むようになりました。

教会での交流で新しい文化の影響を受けた逸平は、利発な長女の花子(はな)に過剰なほどの期待をかけたといい、常識にとらわれず商売そっちのけで理想を追い求める逸平は、妻の実家や親戚と揉め事が絶えなかったといいます。

しかし、花子が5歳の時、逸平はついに家族を押し切り、それまでのしがらみを断って一家で上京し、南品川で葉茶屋を営むようになります。「葉茶屋(はぢゃや)」というのは、茶の葉を売る店のことで、店先では、縁台に緋毛氈や赤い布を掛け、赤い野点傘を差してあり、試供品のお茶を往来の人に振る舞ったりしていました。

花子は、こうした葉茶屋の少ない収入から尋常小学校に通わせてもらっていましたが、このころから心象風景を短歌で表現し句作をして詠んでは楽しむといったふうがあり、幼少期から文学の才能があったようです。

ちょうどこのころ、逸平は社会主義活動に加わるようになり、その活動の中では特に教育の機会均等を訴えるようになりました。このため、娘の才能も伸ばすためには良い学校に入学させたいと考えるようになり、奔走の結果、信仰上のつながりから東洋英和女学校の創設者と知りあいになります。

そして、この知己の紹介で、1903年(明治36年)、10歳の花子をここの給費生としての編入させることに成功しました。

しかし、逸平本人はその後も社会運動にのめり込み、商売に身を入れなかったことから、この当時の安中家の生活は非常に困窮しており、他の弟妹は次女と三女を残して皆養子や奉公などで家を出されました。

このため、8人兄妹のうち、高い教育を受けたのは結局長女の花子のみとなり、彼女のその後の栄達は、弟妹たちの犠牲の上に成されたものであったともいえます。

東洋英和女学校(ドラマでは「修和女学校」という設定)では、カナダ人、イザベラ・ブラックモーア宣教師から英語を学ぶ傍ら、古典文学も学びました。

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同級生の紹介で古典文学者で、歌人としても有名だった佐佐木信綱からも万葉集などについての講義を受けており、この佐佐木を紹介したのが、柳原白蓮で、この人はNHKドラマのほうでは、「腹心の友」として登場してきます。

ドラマのほうでは伯爵家の娘「葉山蓮子」という設定になっていますが、この柳原白蓮は実際もこの当時のいわゆる「華族」であり、大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、大正天皇の従妹にあたり、今でいえば皇族です。

大正三美人の1人ともされるたいそうな美人だったようで、ドラマでも筑豊の資産家と結婚するという設定になっていますが、これは事実です、しかし、後に「白蓮事件」という駆け落ち事件を起し、華族を除籍されるなど波乱万丈の人生を送りました。この話も面白そうなのですが、今日は花子の生涯がメインなので、また後日詳しく書いてみましょう。

この東洋英和女学校の校長のイザベラ・ブラックモーアという人は、奇遇ですがモンゴメリも住んでいたことのあるノバスコシア州のオンスロー出身です。

1889年教育宣教師として来日後、東洋英和女学校の英語科教員になりました。2年後に山梨英和女学校に移籍しますが、1895年12月に東洋英和女学校に校長として復職し、その後三期にわたり校長を務めており、無論、花子が在籍していたころも校長でした。

その後、1918年(大正7年)には、東京女子大学の理事長にも就任し、カナダ・メソジスト婦人伝道会日本総理なども務めて日本におけるキリスト教の布教にも努めるかたわら、孤児院を設立するなど多くの社会事業に携わりましたが、1925年(大正14年)に三期目の校長を終えるとカナダに帰国しました。

在日中は、「厳しい中に自由がある」という教育理念の元に、徹底したピューリタン的信仰による教育を行ったそうで、NHKドラマの中でもあるように、女学校寄宿舎で日常生活を送る生徒にも厳しい教育を施し、規則に違反する者には厳しい罰を課しました。

校長在任中のエピソードとして、礼拝中に鼻をすすった生徒に対し、ハンカチで、鼻が真っ赤になるまで鼻をかませたとか、廊下を走った生徒に対し、30分もの間廊下を何往復も歩かせたとか、廊下でふざけていた生徒に対し、反省文を80回書かせたとかいった話が残っています。

寄宿生に The Sixty Sentences という、朝起きてから夜床につくまでの日常生活の行動を書いた60の英文を暗誦させたともいい、時折抜き打ちで校長が疑問文や否定文などで唱えさせ、英語力を鍛えさせることもあり、ドラマ中でもあるよう素行の悪い生徒には、Go to bed!を繰り返したと言います。

これは、「部屋で静かに目を閉じて反省しなさい」の意味で、彼女にとっては一番厳しい懲戒処分のひとつでした。

卒業式の日に、「学生時代が一番幸せな時代だった」との感想を述べた生徒に対し、「楽しかった、と心感じるようなら、私の教育が失敗だったと言わなければならない、最上のものは過去にはなく、将来にある。旅路の最後まで希望と理想を持ち続けて、進んでいくように」と語ったといいますが、NHKドラマのほうもこの部分は忠実に再現していました。

こうした厳しい指導もあり、花子の英語力はめきめきと上がっていきましたが、この頃からペンネームとして安中花子を名乗るようになり、翻訳活動も始めるようになっていました。また、この頃知り合った翻訳家の「片山広子」の勧めで日本語で童話も執筆するようになりました。

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この片山広子という人は、芥川龍之介の晩年の恋人とも知られています。花子よりも15歳年上で、知り合ったいきさつは不明ですが、同じ東洋英和女学校卒であることから、同級生に広子の姉妹か友人の知り合いでもいたのでしょう。

女学校卒業後、「松村みね子」のペンネームで歌人として活躍する傍ら、アイルランド文学を中心に翻訳も行っており、芥川龍之介晩年の作品「或阿呆の一生」の37章では「才力の上にも格闘できる女性」と書かれ、恋愛を詠んだ「相聞」という詩においても「君」と歌われたのはこの片山広子のことだと言われています。

堀辰雄の「聖家族」の「細木夫人」、「菜穂子」の「三村夫人」のモデルとも言われており、晩年の随筆集「燈火節」では、1954年度の日本エッセイスト・クラブ賞も受賞しています。NHKドラマの中では、ともさかりえさんが演ずる「富山タキ」という名前の英語教師兼、校長の通訳が出てきますが、おそらくは、この片山広子がモデルでしょう。

花子は1914年に21歳で東洋英和女学院高等科を卒業すると、英語教師として山梨英和女学校に赴任しましたが、このあたりは、小学校の教諭として赴任した、という設定になっているドラマのほうとは少々違います。

同年、友人と共に歌集「さくら貝」を刊行。この時期、甲府でのキリスト教の夏季講座にも頻繁に出かけており、このとき、婦人運動家として活躍していた、のちの参議院議員、市川房枝とも出会っています。

市川房枝は愛知県の出身で大学卒業後に県内で小学校教員などをやっていましたが、体調を崩して退職しており、このころは甲府で療養生活などを送っていたようです。市川はその後、花子に婦人運動への参加を勧めるなど、その後の彼女の生涯にも関わっていきます。

花子は、24歳のとき、東京銀座のキリスト教出版社である教文館に女性向け・子供向け雑誌の編集者として勤務するようになり、このとき、福音印刷合資会社の経営者で既婚者でもあった「村岡儆三」と出会いました(以下は敬三と表記)。

不倫の末、1919年(大正8年)、26歳で結婚し、村岡姓となりましたが、ドラマのほうでも、この夫は印刷屋の御曹司ということになっており、一致しています。ちょうど今、そのあたりのシーンをテレビで放映していますが、果たして不倫という形で描かれるのかどうかは現時点では不明です(今日の放送分を私はまだ見ていません)。

この結婚の翌年には長男をも受けましたが、この子は6歳で亡くなっています。このことが、彼女を英語児童文学の翻訳紹介の道に入らせた要因と思われ、息子を亡くした翌年、前述の片山広子の勧めにより、マーク・トウェインの”Prince and Pauper”を「王子と乞食」の邦題で翻訳し、これを平凡社から公刊して、初の翻訳家デビューを果たしました。

ちなみに、ドラマでは彼女が童話「みみずの女王」を書いたことで雑誌社の賞を貰う、というシーンがありますが、この受賞こそは架空のものと思われるものの、「みみずの女王」ほか、「たんぽぽの目」「黄金の網」という童話三作を後年著しており、若いころから童話作家としても活躍していた、というのは事実のようです。

39歳になった、1932年から1941年11月までの9年間は、NHKのラジオ番組「子供の時間」の一コーナーである、「コドモの新聞」にも出演、「ラジオのおばさん」として人気を博し、寄席芸人や漫談家に物真似されるほどだったといいます。この頃、翻訳作品を自ら朗読したSPレコードもいくつか発売されているそうです。

花子が、モンゴメリの「赤毛のアン」の原書と出会ったのは1939年のことです。すぐにその内容に惹きこまれ翻訳を決意しますが、この2年後に日本はアメリカとの泥沼の戦争に突入していくことになります。戦争に突入していく暗い世相の中、村岡は黙々と翻訳に取り組み、開戦後も灯火管制のもとこれに励み、終戦の頃にようやく訳し終えました。

のちに、1952年に三笠書房から出版されたこの「赤毛のアン」は日本の読者にも広く受け入れられるとともに、戦後これはアニメにまでなり、多くの少女たちを魅了したのは前述のとおりです。

しかし、童話作家、少女文学の翻訳家として著名になったこともあり、第二次世界大戦中は戦争の喧伝にも利用され、大政翼賛会後援の大東亜文学者大会に参加するなど、意図とはしていなかったかもしれませんが、戦争遂行には協力的な姿勢を取りました。

戦後は、先にも述べたとおり、市川房枝の勧めに婦選獲得同盟に加わり、婦人参政権獲得運動に協力するなど、女性運動家としても活躍しました。

その他、文部省嘱託や行政監察委員会委員、女流文学者協会理事、公明選挙連盟理事、家庭文庫研究会会長、キリスト教文化協会婦人部委員などを歴任。1960年、児童文学に対する貢献によって藍綬褒章を受けましたが、1968年、脳血栓で死去。満75歳でした。

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病死した男児以外は子供に恵まれず、このため直系の子孫は存在しませんが、後に、妹・梅子の長女である、上述のみどり(1932年生)を養女としました。この妹、梅子は、おそらくドラマでは「安東かよ」と描かれている人物で、演じているのは、今年のはじめに「小さいおうち」でベルリン国際映画祭最優秀女優賞した「黒木華」さんです。

この梅子の娘、みどりの娘で花子の義理の孫にあたる「村岡恵理」は、NHKドラマの原作者であると同時に、現在、東京大田区にある「赤毛のアン記念館館」の館長を務めています。

が、ホームページを見る限り、この記念館は現在どうやら休館中のようです。この記念館には花子の作品の多くが所蔵されているようですが、花子は赤毛のアンの翻訳以後も、アンシリーズ、エミリーシリーズ、丘の家のジェーン、果樹園のセレナーデ、パットお嬢さんなどなど、モンゴメリの作品のほとんどを翻訳しています。

村岡の最後の翻訳作品となった「エミリーの求めるもの」は、彼女の没後、1969年に出版されました。その没する前年には、アメリカを訪れており、彼の地でかつての東洋英和女学院時代に知り合った外国人とも再会したかもしれません。が、残念ながらこの時すでにカナダのプリンス・エドワード島にまで行くほどの体力はなかったようです。

ちなみに、夫の村岡敬三は戦中から戦後へと続く時代を、花子とともに生き抜きましたが、花子の死の5年前の1963年に自宅での夕食後、心臓麻痺で死去しています。75歳没。

この村岡敬三のお父さんは、平吉といい、戦前から聖書印刷で有名で「バイブルの村岡さん」と言われていたそうです。若いころ、上海に渡って印刷術を修め、帰国後に横浜を基盤として、聖書、讃美歌などのキリスト教書類の印刷する、「福音印刷合資会社」を設立しました。

その後、銀座に移転し、社主として活躍しましたが、敬三はこの父の事業を助け銀座進出後には同社の、銀座支店の責任者となっています。1915年(大正4年)に結婚して長男をもうけましたが、その後妻が結核を発病し、別居を余儀なくされました。

後に村岡花子(当時は安中姓)の翻訳原稿を読んで興味を抱き、花子の翻訳書の印刷人を務めた縁で1919年(大正8年)4月8日に花子と出逢い、やがて恋に落ちました。花子との出逢いの当時はまだ先妻と籍を入れたままであり、妻帯者の身での禁断の恋でした。

花子との往復書簡の文面にも、彼女に対する激情と、病気に伏せる妻への愛情との葛藤が現れているといい、その数は花子との出会いから結婚までの半年間で70通以上に昇ったといいます。

2人を引き合わせるきっかけとなった花子の訳本が残っており、この本、「モーセが修学せし國」の奥付には発行人の名を挟んで「訳者 安中花子」「印刷人 村岡儆三」と2人の名前が並んでいるそうです。

その横には花子の自筆で「大正八年五月二十五日 魂の住家みいでし記念すべき日に 花子」と記されているそうで、この「記念すべき日」の意味は、彼等がやりとりした手紙から、どうやら2人が初めてキスをかわした日付と推定されるそうです。

ちなみに、ドラマのほうでは二人を結びつけるきっかけになったのは、英語の辞書、あるいは、敬三に勧められて翻訳した「王子と乞食」という設定になっていますが、このあたりのことなど、事実とは微妙に時期や内容が違っています。

とまれ、二人は結婚し、東京の大森新井宿(現在の東京都大田区大森)を新居としましたが、おそらくこのころには先妻はこのころ亡くなっていたと思われます。「妻は3歩下がって夫に従う」といわれた時代にあって、結婚後も敬三と花子は2人連れ添っての外出が多かったそうで、おしどり夫婦として評判でした。

近所の人々は、当時周辺に出没していた浮浪者夫婦「おしゃれ乞食」を引き合いにだし、「この界隈で肩を並べて歩くのは「おしゃれ乞食」と村岡さんのところぐらい」と噂していたといいます。

敬三は花子の文学業の多忙さには理解を示し、資力を生かして洗濯機の購入、台所の改修などで家事の軽減を図ったそうですが、彼自身も多忙であり、1922年(大正11年)に福音印刷創業25周年を機に、父の平吉から社の経営を引き継ぎいで以降は、社の拡大のために奔走し続けました。

しかし、間もなく平吉が死去したため、自身が専務取締役となり、弟の斎が常務取締役となって兄弟で父の遺志を継いで社を営もうとした矢先、翌1923年(大正12年)の関東大震災で福音印刷が倒壊してしまいます。

この地震では、弟の斎ががれきの下敷きになって死亡し、その悲しみを乗り越えて会社の再興をはかろうとしたところ、社の役員の裏切りに遭い、その復興もかなわなくなり、やむなく倒産に至ります。裏切りの内容はよくわかりませんが、使い込みではないでしょうか。

この地震で敬三は、先妻との間に設け、別の家へ養子にやっていた子供も失っており、経済的にも精神的にも大きな打撃を被りましたが、そんな敬三を献身的に支えたのはやはり花子でした。

こうした花子の内助の功により、印刷業での再起を志そうと決意した敬三は、1926年(大正15年)、花子の友人である片山広子や翻訳家仲間などの支援を受け、自宅に小規模ながら出版社兼印刷所「青蘭社書房」を創業しました。

女性と子供のための本を安価に提供することを趣意とし、花子と二人三脚での運営を始め、花子の翻訳した書籍の出版を主力として活動を再開し、1930年(昭和5年)には同社の機関誌「家庭」(後に「青蘭」に改題)を創刊。生活に基調を置いた「生活派」の文学を提唱し、子供も大人も楽しめる家庭文学に、花子とともに希望を込めて取り組みました。

夫としてのみならず、英語、ドイツ語、ラテン語に通じ、キリスト教徒として聖書にも詳しかったといい、花子の翻訳家としての良き相談相手でもあり、ほんとうに仲の良い夫婦だったようです。

敬三と花子の墓地は、横浜市西区の久保山墓地にあるそうで、ここには父の平吉の墓所もあるということで、おそらく今日この頃は、NHKの朝ドラの影響でこの墓所も賑わっているのではないでしょうか。こういうことを書くとなおさら、参拝客が増えるかもしれませんが……。

ちなみに、先日の6月20日は、我々夫婦の6年目の結婚記念日でした。二人で、伊豆仁田のおしゃれなカフェでお茶をし、その後なぜか回転寿司を食べて帰ってきましたが、平凡ではあるものの幸せな一日でした。これからもモンゴメリ夫婦や村岡夫婦のように仲の良い夫婦であり続けたいと願う次第です。

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そうだ、火星へ行こう

2014-2477先日、BS・NHKの科学番組で、火星への有人探査を特集しており、こうした宇宙モノが大好きな私としては見逃すことなく、じっくり見ておりました。

現在、アメリカ航空宇宙局NASAでは、火星探査も視野に入れた次世代型のロケットを開発していますが、火星までの往復と滞在期間の合計は1年強から3年弱という長い月日がかかることが予想されることから、この間の宇宙飛行士たちの健康管理やメンタル面での問題解決に向けて真剣に取り組んでいるということでした。

また、火星へのロケットには、長距離飛行になるため多量の燃料や食料を積み込む必要があり、これまでになく大型になることが予想され、このため、火星への着陸にあたってもかなりの困難が想定されます。

しかし、着陸にあたっては、現在火星表面の探査を行っている大型の探査機「キュリオシティ」を着陸させた実績があり、その応用によってなんとか成功させることができるのではないかと目されているようです。

ところが、火星探査を終えて、いざ地球に還ろうとする際、いったいどうやって火星の重力を抜け、大気圏外へ抜け出るかについては、いまもって最良の方法が見つかっていないといいます。

せっかく月まで行っても、そこで死んでしまってはおしまいであり、生きて帰ってこそ探査といえるわけですから、この火星からの脱出については何が何でも解決しなければなりません。

火星の地表での重力の強さは地球の40%ほどしかなく、このため大気も希薄で、地表での大気圧は約750Paと地球での平均値の約0.75%に過ぎないことから、火星表面からロケットを打ち上げるのは地球に比べれば比較的容易だと思われます。が、とはいえ、まさかそのためのロケットまでを探査船に積み込むことはできません。

この番組では、この問題に対しての答えがなく、今後の大きな課題である、だけで終わってしまったので、大変がっかりしたのですが、それなら、ということでいろいろネットで調べてみたところ、火星からの帰還計画というのは、NASAを初めとして、いろいろな機関で研究されていることがわかりました。

その先駆けとして、1990年に発表された「マーズ・ダイレクト」という計画があり、これは火星の大気から帰還用燃料を製造する無人工場を先行して送り込み、有人宇宙船は往路分のみの燃料で火星に到達し、探査後に無人工場で製造されていた燃料で帰還するというプランです。

これは1990年、航空宇宙技術者で作家のロバート・ズブリンという人が提唱したもので、1990年代のロケット技術のみで比較的低コストで実現可能な案として提案され、かなり具体性があるとNASAなども高い評価をしたようです。

この計画では、まず化学工場と小型の原子炉、水素を積んだ無人の地球帰還船(ERV)を、大型のブースター(ロケット)で打ち上げ、火星に送り込みます。このブースターは、スペースシャトルのエンジンやブースターを流用したもので、アポロ計画で使用されたサターンVに匹敵する輸送力を持ちます。

8ヶ月ほどでERVは火星に到着します。そこでは、比較的簡単な化学反応により、ERVで運んだ少量の水素と火星大気の二酸化炭素を反応させて、112tのメタンと酸素を生産することができます。

このうち96tは、ミッション最後のERVの地球帰還で使用します。この燃料製造プロセスは10ヶ月ほどで完了しますが、これと並行して、ERVに搭載された無人車で周囲を調査し、有人機の着陸に適した場所を探します。

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次に、ERVの打ち上げから26ヵ月後、2隻目の宇宙船を地球から打ち上げます。こちらは火星居住ユニット、「ハブ」であり、これで4名のクルーを火星に運びます。この宇宙船は6ヶ月ほどで火星に到着し、旅行の間は、ハブと打ち上げで使用したブースターを紐で結び、中心で回転させることにより遠心力による人工重力を発生させます。

これによって、飛行中の飛行士たちは重力を得ることができ、地球にいる環境に近い環境を保つことができるため、筋力の低下を防ぐことができるとともに、食事や睡眠なども適度な重力下で行えるため、精神的なバランスも保つことができます。

火星到着時、使用済みブースター等を放棄し、ハブは空力ブレーキによりERVの近くに着陸します。着陸後、クルーは火星上に17ヶ月滞在し、持ち込んだ機材で科学研究を行い、与圧キャビン付きの地上車によって移動します。燃料にはERVが生産した余剰メタンを使用します。

地球帰還の際は、ハブは後の探検家が使用できるようにそのまま残し、ERVを使用します。離陸の際に使用されるERVのブースターは、地球への帰還のための6ヶ月間、往路と同じように人工重力を発生させる際のカウンターバランスとして使用することができ、往路の飛行士の負担もまた軽減されます。

このマーズ・ダイレクトの初期費用は、当時開発費を含め200億ドル(現在の300~350億ドル相当)と比較的リーズナブルに済むと見積もられました。

またこの計画では、万が一の安全対策も具体的に考慮されているのが特徴的です。このため、ハブとは別に2機目の地球帰還船(ERV2)をほぼ同時期に打ち上げるものとしており、このERV2はハブの着陸がうまくいくかどうかを見極めた上で、臨機応変に着陸させます。

というのも、最初はERV1の近くに着陸することを目標としますが、大気圏への突入状態によっては、ERV1より遠く離れた場所に着陸してしまうかもしれません。しかし、着陸がうまくいき、ハブが無事ERV1の近くに着陸した場合、これを見極めたのち、ERV2はここからできるだけ近くに着陸させます(目安は800km以内といわれている)。

そして火星でのミッション終了後に帰還の際には、仮にこのERV1に不具合が生じたとしても、ハブに搭載されている地上車で着陸地点が数百kmは離れた、ERV2まで辿り着き、こちらを利用できます。

が、もし、ハブの着陸をERV1の近くにすることができず、1,000km以上もずれてしまったような場合には、ERV2をハブの近くに着陸させます。これにより、ERV1は利用できなくなる可能性はありますが、少なくともERV2に故障がなければ無事帰還できます。

また、万々が一ERV2が故障の場合でも、なんとか1000km離れたERV1へ辿り着くこともけっして不可能ではないでしょう。

このように、マーズ・ダイレクトは、「地球への帰還」を前提に、常にバックアップを用意しておく、というのが計画の特徴であるとともに、この最初の計画が終了後、次々と新しい飛行士たちを火星に送り込み、計画を継続させることも可能であり、使わなかったERVを次のミッションで再利用できます。

ハブとERV2の打ち上げからさらに26ヶ月後にはハブ2とERV3を打ち上げ、ハブ2はERV1またはERV2の近くに着陸します。こうして26ヶ月ごとにハブとERVが送り込まれ、隣り合った地域の調査が進められていきます。

計画は継続的に行われるため、コストパフォーマンスに優れ、ハブとERVのセットは、最終的に1組あたり20億ドル(初期案当時の試算)程度で打ち上げられるようになるといいます。

こうして恒久的基地を築くのに適した場所が決まると、それ以降のハブとERVは常にそこに着陸させるようにします。ハブ同士を気密式のチューブで繋げば仮設の基地になりますし、その後、現地資源を用いた建物や都市の建設、火星大気の改造を行っていくこともできます。

と、このように「マーズ・ダイレクト」は、火星での永住をも視野に入れた計画になっています。サイズ的には地球よりかなり小さい火星は、人類移住の候補として注目を浴びており、その質量や半径などの点でも地球によく似た惑星であり、地球に万一のことがあった場合の移住先としては最有力候補といわれています。

火星は大気を持っており、これは地球大気の0.7%と薄いものですが、多少なりとも存在しているおかげで、太陽からの放射線や宇宙線を和らげてくれる上、宇宙船が着陸するときにはこの大気との摩擦を空力ブレーキとして使うことができます。

ただし、生理学的に見れば、火星の薄い大気は真空同然であり、宇宙服などで保護されていない生身の人間であれば、火星の表面ではわずか20秒で失神状態に陥り、1分たりとも生存できないと考えられています。

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しかし火星の環境は、灼熱の水星や金星、極低温の木星、さらに遠い軌道を巡る外惑星、真空の月や小惑星と比べればはるかに住みやすい環境だとも言えます。

既に地球上にも、火星と類似した自然環境があるといわれており、例えば、地球において、有人気球が到達した最高高度は、1961年5月に記録された34,668m(113,740フィート)で、この高度での気圧は火星表面と同じぐらいです。

また南極の最低気温はマイナス90度ほどであり、火星の平均気温よりも少し低い程度です。さらに、地球の砂漠も火星の地形と類似しており、こうして考えると移住は不可能ではないように思えてきます。

このほか、火星の1日は地球の1日に非常に近いもので、火星の太陽日は24時間39分35.244秒です。また、火星の表面積は地球の28.4%で、地球の陸地面積の29.2%と比べてわずかに少ない程度です。

ただし、火星の直径は地球の半分ほどあり、その質量は地球の約 1/10 に過ぎないため、火星の地表での重力の強さは地球の40%ほどしかありません。が、わずか17%の月に比べれば居住可能と思わせるだけの重力はあるといえます。

ただ、この低重力下で、ヒトの健康上の問題が発生しないかどうかはよく分かっていません。しかし、この問題については、これまでも各国の宇宙船における長期間の宇宙滞在の経験から多くのことが明らかになってきています。

例えば、旧ソ連では、ワレリー・ポリャコフという宇宙飛行士が。1994年1月8日から、437.7日間ものあいだ、宇宙に滞在したという記録があります。

また、ロシアは1989年9月5日のソユーズTM-8の打ち上げから、1999年8月28日のソユーズTM-29の着陸まで、3,644日に渡って宇宙に人間を滞在させ続けた最長期間記録を保持しているほか、国際宇宙ステーション(ISS)では既にこれ以上の記録を出しています。

2000年10月31日にソユーズTM-31でドッキングのために有人宇宙船を打ち上げて以来、国際共同による宇宙空間での滞在を維持しており、現在までこの滞在は13年以上に達しており、こうした宇宙での滞在経験により、健康問題に対処する知識はかなり蓄積されているといえ、これらの知見が火星でも役に立てることができるということがいわれています。

さらに火星の赤道傾斜角は25.19°で地球の23.44°にかなり近いことがわかっています。このため、火星には、「季節」があり、地球とよく似ています。ただし、火星の1年は地球の1.88年相当であるため、各季節は2倍近い期間続くことになります。

このほか、火星の大気は薄いものの、主成分は二酸化炭素であるため、火星表面でのCO2の分圧は地球の52倍にもなります。これはデメリットのようにも思えますが、逆に考えると、この濃い二酸化炭素は、火星上で植物を育てる際には大きなメリットになるのではないかということもいわれています。

ただ、火星は太陽から遠いため、表面に届く太陽のエネルギーの量が少ないため、植物が光合成を行う上においてこの点はデメリットになります。また、地球や月に届く量の半分程度でしかなく、火星の軌道は地球のそれよりも潰れた楕円であるため、太陽との距離の変化が大きく、温度や太陽からのエネルギーの量の変化を激化させます。

とはいえ、このエネルギー量に適した植物を持ち込めばすむ話であり、また人間が生活する上においては、地球でも北欧や北極圏に近い人々は、火星に近い太陽エネルギー量で生活しており、彼等の生活ぶりが参考にできると考えられています。

南極においても同様で、白夜が何ヵ月も続いたり、逆に太陽が昇らず、十分な太陽エネルギーを得ることができないような生活の中でも生きていける術をすでに人類は会得しており、各国の観測基地でいろいろな研究成果が出ています。

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人類が火星に住む上においてのこのほかの問題点としては、火星は地球に見られるような全惑星規模の強い地磁気を持っておらず、このため、太陽からの放射線を十分に防ぐことができません。薄い大気と相まって火星表面に到達する太陽からの電離放射線の量は地球のそれと比べてかなり大きいものです。

2001年にNASAが送った火星探査マーズ・オデッセイは、搭載された火星放射線環境測定機器によって人間への危険がどの程度かを測定した結果、火星周回軌道上は国際宇宙ステーションと比べて放射線のレベルは2.5倍も高いことがわかりました。

3年間このレベルの放射線に晒された場合、現在NASAが採用している安全基準の限界付近まで到達するといいます。

ただ、薄いとはいえ大気があることによってこれが放射線を吸収してくれるため放射線レベルは多少低くなりますし、高度やその地方に固有な磁場によっては、大きな地域差が生じている可能性もあります。

このため、地磁気の強い場所を選んだ上で、地表に設置される住居や作業場は火星の土を使って保護すれば、屋内で過ごしている間は被曝を大きく減らすことができると考えられています。

しかし、放射線の問題以上に大きな問題はやはり水です。人の体は約60%が水でできているといわれており、これがなければ火星では生きていけません。

これについては、21世紀初頭のNASAのマーズ・エクスプロレーション・ローバーやフェニックスや、ESA(欧州宇宙機関)のマーズ・エクスプレスなどによる観測により、火星にも水が存在することが裏付けられています。

このほかにも火星には地球型の生命を支えるのに必要な元素がかなりの量存在している可能性が高いとされ、これらも火星の水を摂取することによって体内に取り込むことができるのではないかといわれています。

ただ、現時点では火星表面に液体としての水の存在は確認されていません。ただし、2004年に、メリディアニ平原という場所に、NASAが投入した火星探査車、オポチュニティの観測結果からは、この平原では過去に液体の水が断続的に存在し、地表の下が水で満たされていた時代が何回かあったことが確認されました。

このため、火星の過去における歴史においては、メリディアニ平原のように生命の存在可能な環境が何度となく作られ、似たような場所があちこちにあったと推測されており、このほか、火星の北極には氷の湖があるのではないかと推測されています。

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2005年、イギリスの国営放送局BBCは、火星の北極地方のクレーターで氷の湖が発見されたと報じました。

欧州宇宙機関(ESA)のマーズ・エクスプレス探査機に搭載された高解像度ステレオカメラで撮影されたこのクレーターの画像には、北緯70.5度に位置し火星北極域の大半を占めるボレアリス平野にあるクレーターの底に平らな氷が広がっている様子がはっきりと写っていました。

計測したところ、このクレーターは直径35kmで深さ約2kmであることがわかりましたが、ただ、BBCの報道ではこの大きさがやや誇張されている可能性があるほか、ESAもこれが本当に「湖」であるかどうかについては何も公表していません。

火星の数多くの他の場所に見られるものと同様に、この円板状の氷は暗く低温の砂丘の頂上(高度約200m)に薄い層状の霜が凝結してクレーターの底に広がったものにすぎないのではないかという意見もあり、湖というのは少々言い過ぎだというわけです。ただ、湖ではないとしても、水(氷)が存在していることには間違いありません。

とはいえ、この場所は、霜のいくらかが一年中残りうるほど高緯度にあるため、氷が存在するのであって、他の緯度が低い場所ではまだこうした氷は確認されていません。火星の赤道付近では日中20℃を越すこともあり、氷は存在できません。

火星の大気は希薄で、水蒸気圧が小さいため、ほとんどの地域ではすぐ蒸発してしまい、存在できないのです。つまり、液体の水が存在できるのは極地などの限られた場所のみです。しかも温度が低いので氷です。ただ氷とはいえ、水であることには間違いなく、これを溶かして使えば良いのであり、こうした場所から氷を運んで飲用にすることは可能です。

こうして考えてくると、火星へ住むということに関する問題点の多くは解決できそうなことばかりであり、火星への移住ということも不可能ではないような気がしてきます。

地球と火星の通信についても、既に火星を周回している探査機があるため、現時点でもこれを火星との通信衛星として使えます。ただし、太陽が火星と地球の間に入り一直線になる前後の約2週間は、直接通信は困難になり、このため、地球とのリアルタイムな音声会話は不可能です。

しかし、こうした期間においても、他のコミュニケーション手段、例えばEメールや音声メールを用いることは、若干の不便を伴うにしても可能だといい、このため、地球とは隔離されていてひとりぼっち、という悲哀は感じなくても済みそうです。

さらには、火星上においては、普通のトランシーバーの電波でも見通し距離以上に届くはずだといい、また火星には電離層があるため、火星表面の遠く離れた地点で電離層を使った長距離の短波通信ができると考えられています。

それでは、実際の植民候補地としてはどこが適切かということを考えていくと、現時点ではやはりその最有力候補は、氷の湖が発見された極地域だろうといわれています。

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火星の北極・南極は、地球からの望遠鏡による長期間にわたる観測により、季節ごとに変化する万年雪に覆われていると考えらえており、前述のとおり北極付近には巨大な水塊が発見されています。

しかし、逆にこの発見により、より低緯度の地域にも水が存在する可能性が示されたため、入植地としての極地域の利点は減少したという見方もされているようです。地球と同様、火星の極でも夏の間は白夜、冬の間は極夜となり、できればこうした寒くて長い夜があるところには住みたくないものです。

このため、こうした極地に近い場所から氷を運んでくることを前提にするならば、中緯度地域でも良いということになり、その候補地はグンと増えてきます。火星表面の探検はまだ進行中ではありますが、これまでの火星表面の探査機の調査結果からは、火星の環境が場所によって非常に変化に富んでいることがわかっています。

従って、地球でも赤道から進むにしたがって季節による様々な気候の変化があるように、火星にも素晴らしい変化があると考えられており、それらの中から一番適した場所を選択していけばいい、ということになります。

例えば、火星のグランド・キャニオンと呼ばれるマリネリス峡谷は、長さ3,000km以上、深さ平均8kmにも達する巨大な峡谷地帯です。こうした非常に大きな落差を持っているため、この峡谷の深い谷底の気圧は火星の地表面の平均が0.7kPaに対して0.9kPaと、25%ほど高いとされています。つまり、それだけ大気が濃いということです。

峡谷はほぼ東西に走っているため、谷の断崖が落とす影のせいで太陽エネルギーの収集が酷く妨げられることも無く、またこの峡谷の川の流れのような跡は、かつての洪水によって形成されたのではないかと考えられています。

ということは、谷底にままだ水が残っている可能性もあり、また、峡谷の剥き出しの壁面は、地球のグランド・キャニオンの壁面のように、火星の地質学的な歴史を研究するのに役にたつと考えられています。

このほか、火星は二つの衛星、フォボスとダイモスを持っています。この二つの衛星は地球の月と比べてはるかに小さいく距離も火星に近いそうです。

このため、これらの衛星には火星表面から比較的アクセスを取りやすく、地球へ帰る際には一度ここへ移動してから再度ここから飛び出せば、重力が小さいために、地球帰還軌道へ移るためには、それほど大きな速度の変化を加える必要がありません。

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つまり、大幅に燃料を節約できる可能性があり、また、もしかして水などのロケットの推進剤の材料に使用できる物質がこれらの衛星に存在したとしたならば、一石二鳥となります。

もし水以外にも有用な物質が発見されたとすれば、これら衛星は火星から地球へ帰還する宇宙船の燃料補給拠点として活用され、推進剤やその他の物質を定期的に地球から火星へ運ぶ際の中継点とすることができ、経済的にも大きなメリットが生まれます。

火星に永住するにあたっては、さらにその環境をテラフォーミング(terraforming)によって、人為的に変化させ、人類の住める星に改造すればいい、という意見もあります。テラフォーミングは、「地球化」、「惑星改造」、「惑星地球化計画」とも言われ、アメリカのSF作家、ジャック・ウィリアムスンがその作品の中で用いた造語です。

SFの世界では一般的なアイデアですが、現実の科学においても、1961年に天文学者カール・セーガンが金星の環境改造に関する論文「惑星金星」をサイエンス誌に発表した事をきっかけに、世界中の研究者が研究を開始し、1976年には、テラフォーミングをテーマとしたNASAによるシンポジウムも開催されています。

1991年にはネイチャー誌に、NASAが火星のテラフォーミング計画に関する論文を発表しており、これによれば、太陽との距離がより大きい火星を地球のような惑星に作り変えるためには、まず、希薄な大気をある程度厚くして気温を上昇させることが重要な条件としています。

具体的な方法としては、メタンなどの、温室効果を発生させる炭化水素の気体を直接散布するといったものや、火星の軌道上に、フィルムにアルミニウムを蒸着した巨大なミラーを建造し、太陽光を南極・北極に当てるといったものがあります。

火星の極冠には、上述のとおり、氷やドライアイスがたくさんあるため、これが溶け始める温度まで気温が上昇すれば、大気中に二酸化炭素と水蒸気が放出され、気温の上昇が速まります。

そして、次のステップとしては黒い藻類を繁殖させます。また黒い炭素物質の粉を地表に散布するなどして、火星で太陽から受け取れるエネルギーの量を増やします。

もし火星の地下に永久凍土として水が埋もれているならば、これらがエネルギーの増大によって溶け、海ができます。海ができれば、雲ができ、雨が降り川も流れ、地球とよく似た惑星となりうるというわけです。

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テラフォーミングの研究はすなわち地球環境の研究でもあり、地球の環境破壊の修復にテラフォーミングの技術を応用する事も考えられています。例えば、温暖化対策として、北極や南極の地表を鏡あるいは白い布などで大規模で覆えば、太陽光を反射してこれらの地域の氷雪が融けることを防ぐことができるといわれています。

地球上の全ての建物を白く塗るだけでも効果があると言われており、実際、アメリカのカリフォルニア州では条例によって、商業建物は反射率の高い色で塗ることを義務付けています。また将来的には一般家庭でも同様の義務化、さらに反射効率の良い特殊コーティングの義務化、黒色の車の販売を禁止するなどの案も検討されています。

火星ではこれと逆のことをすればいいわけで、太陽光をもっと取り入れることができるようにすれば、地球のように大気や海が形成されて居住が可能になるかもしれない、というわけです。

が、こうした人為的な環境変化や地球人の入植によって、火星の環境が汚染されてしまうのではないか、と心配するむきもあります。火星にかつて生命が存在した、または現在も存在しているかについては、まだ決着がついていませんが、もし生命が存在しているとしたら、この生命へも大きな影響を与えることになります。

さらには、それほど多大なリスクを犯してまで、はたして火星に人を送り込む必要があるのか、という根本論の問題があります。

地球から火星間へ宇宙船で向かう際には、非常に高レベルの放射線を浴びることになり、また火星表面での長期居住においても、多くの放射線被ばくの可能性も高く、これらは人体における癌発生のリスクを上昇させます。また、地球環境とは異なる環境での出産においては、奇形児が生まれる可能性も高くなります。

火星への移住は新しい国家の誕生に等しいことであり、これと地球の国々は果たして「国交」を結ぶことになるのだろうかといった政治的な問題もあるほか、将来的には地球の国々との軍事衝突、つまり、スターウォーズが起こらないとも限りません。

こうしたことから、テラフォーミングまでやって何が何でも人類が住めるようにする環境にする必要はない、という意見も強く、当面はロボットによる火星探査だけをやっていればその方が経済的にも良いのではないかという人もかなり多いようです。

どんな植民活動を行うにしても、ロボットを送り込んで、まず知見を得てからのほうが良いという慎重論であり、もっともなことです。ほかにも、火星より月の方がずっと近く、人類の居住に適した環境をつくるならこちらのほうがより合理的であり、将来の有人火星ミッションの足がかりとしても使用できるだろうという意見もあります。

とはいえ、月には生命の生存に必要な元素、特に水素、窒素、炭素がほとんどないという現実があり、重力もほとんどないに等しいことから、やはり火星のほうが、という振出し論にいつも戻ってしまうようです。

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ただ、既に火星への移住計画は始まっています。

すでにオランダでは、2011年に「マーズワン(Mars One)」という民間非営利団体が設立されており、ノーベル物理学賞受賞者のヘーラルト・トホーフトも「アンバサダー」として加わっているそうで、この組織では2025年までに火星に人類初の永住地を作ることを目的としているそうです。

オランダの実業家でバス・ランスドルプという人が提唱している計画で、その宇宙飛行計画は2012年に発表され、既に4人の宇宙飛行士を送ることも決まっています。

昨年の12月、約20万人の移住希望者の中から日本人10人を含む1058人の候補者を選んだことが発表されており、この日本人10人には、59歳の男性会社社長や30代の女性医学博士などが含まれていると報じられています。

最終的に24人を選び、2025年には最初の4人が火星に住み始め、その後は、2年ごとに4人ずつ増やしていくことを予定しています。火星から地球に戻ることは現在の技術および資金的に不可能なので、移住者は技術の進歩に伴い地球帰還の手段を得られない限り、火星に永住することになります。

ランスドルプ氏は、この計画を推進するための財源は、寄付金のほか、訓練や飛行や移住の様子を24時間リアリティー番組で放送する番組の放映権料などによって賄うと主張しており、最初の4人を火星に送るコストを約60億ドルと見込んでいるそうです。

また、ランスドルプ氏は、夏季オリンピックはその開催期間に40億ドルを稼ぎだしていることをあげ、このことから60億ドルの調達は十分に可能だとしています。

さらに、2023年ころまでには地球のインターネット人口が40億人に達するという予想もあり、この人口が人類史上最大のショーを見たいと考えるならば、彼等から莫大な収入を得ることが可能としています。

有人飛行に先立ち、2018年5月に無人火星探査機を打ち上げ、水分の採取方法の研究を行うといい、このミッションにおいては、既に民間ロケットの打ち上げに成功し、自前の宇宙船のISSへのドッキングまで成功させている、アメリカのスペース・エクスプロレーション・テクノロジーズ社(スペースX)との共同なども視野に入れているということです。

ただ、1989年にアメリカ航空宇宙局(NASA)が試算した、火星への有人飛行の費用は4500億ドルとされていて、ランスドルプ氏の主張する60億ドルとは大きな隔たりがあります。しかし、NASAの試算は過大すぎるという意見もあり、上述の「マーズ・ダイレクト」における試算額も300~350億ドル程度です。

しかし、だとしてもこの額は、2013年のNASAの年間予算180億ドルとの倍近いものであり、本当にたった60億ドルで実現可能かぁ~?という意見も多いようです。

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ただ、この計画は、火星へ人間を送るだけで、地球へ帰還する手段がないことを前提とした「片道方式」です。このため、地球に還って来れないこと自体、「非人道的」だという批判もある一方で、往復の費用が必要ないならば、60億ドルで十分だという意見もあるようです。

また、火星上での永住にあたっては、水、食料、燃料の確保といった多くの問題もありますが、地球からそれらだけを運搬するコストは、人間を火星へ送り込んだり、戻すよりもはるかに安くつくと予想されます。

仮に火星上で食糧や水が生産できないとしても、物資を火星へ輸送するだけなら、放射線防御壁や人類移住空間などの施設が全く必要でない単純なかたちの無人宇宙船で賄うことができ、安価ですむ可能性があります。

実際、NASAは既に火星に無人探査機を「比較的に安価に」送ることに成功しており、こうしたことからこの計画の実現性は高いとする意見も多いようです。

また、現実問題として、今現在人類が持っている技術で火星へ人間を送る上においては、地球への帰還は極めて難しく、「片道切符」の方法による植民地方式しかありません。

人道的な立場からそのような政策を一国の政府が国民の税金を使って施行することはまずありえませんが、民間人ならそれが可能であり、人類はその可能性を捨てるべきではないという意見もあります。

歴史を見ても欧州からアメリカ大陸などの未知の大陸への植民を夢見て旅立った者たちは「片道切符」で死ぬ覚悟でいったわけであり、こうした人類最大のプロジェクトに命をかけてもいいという志願者は少なくないはずです。

実際、上述のように多くの希望者がおり、彼らはこの計画が片道切符だと十分に理解しているはずです。

さて、あなたなら、どうしますか?もし、たとえ片道切符であっても、火星へ住む権利が得られたら、火星で楽しく一生を暮しますか?それとも、温暖化や大災害で滅亡してしまうかもしれない、地球に暮らし続けますか?

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望東尼と雅子と文さんと

2014-1030242ここ伊豆に住むようになってから時々思うのですが、ここの景色は郷里の山口によく似ています。とくに山間の田園地帯などをクルマで走っているときなど、ふと、もしかしてここは本当は山口の田舎ではないかと思えるようなことがよくあります。

伊豆にはあまり高い山がなく、一番高いのは万三郎岳など天城山の1000m級の山々であり、山口もまた1300mほどの寂地(じゃくち)山が最高峰です。ほかは数百メートルの低い山々ばかりであり、これらの低山の合間を縫って里が切り開かれるため、あまり広大な田畑は存在しません。

従って、山口には棚田が多く、ここ伊豆でも低山と狭い田畑の組み合わせがいたるところに見られ、こうしたことが似たような風景を形成しているのではないかと思われます。

似ているといえば、変わった地名が多いことも似ているように思います。伊豆では、修善寺もそうですが、そのまま読めば「しゅうぜんじ」のはずなのに、なぜか「しゅぜんじ」であり、このほか、田牛(とうじ)、八幡(はつま)、原保(わらぼ)といった、なぜそう読ませるのか首をかしげてしまうものがたくさんあります。

山口もまたそうで、柳井市の伊陸(いかち)や、周南市の金峰(みたけ)、下関市の特牛(こっとい)、豊田町の八道(やじ)、長門の向津具(むかつく)などなど、本当にムカつくほど難解な読み方であり、素直に読ませてはくれません。

実家のある山口市内からほど近い街である、防府に(ほうふ)もそうで、普通に読めば「ぼうふ」なのに、なぜ「ほう」と読むようになったのかよくわかりません。

この防府の町の中心にある防府駅の北口を出て、商店街の中を歩いてさらに北へ1kmほど歩くと、そこには防府天満宮の赤いお社が見えてきます。防府天満宮は、菅原道真を祀る学問の神様であり、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と並び日本三天神と称されており、また、日本でもっとも古い天満宮でもあります。

この防府はその昔、三田尻(みたじり)もしくは松崎と呼ばれていました。菅原道真は、大宰府に左遷される際、ここ三田尻港から流刑地である福岡に出港予定でしたが、時化のため数日をこの地で過ごしました。その際、この地がことのほか気に入ったと伝えられており、これがご縁で、道真の死後、ここに天満宮が祀られるようになりました。
 
三田尻と呼ばれていた時代にはまだ防府という呼び方はされておらず、幕末の頃の防府天満宮は、「松崎天満宮」あるいは「宮市天満宮」と呼ばれていました。勤皇の志士たちによって篤く信仰され、中でも維新の立役者として知られる高杉晋作もまた、熱心なこの天神の信者であり、頻繁に参拝していたようです。

晋作は、その晩年肺結核を患い、慶応3年(1867年)5月17日、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去りました。享年若干27。臨終には、父・母・妻と息子がかけつけ、このとき、晋作ら勤皇の志士を助けていた野村望東尼にみとられて亡くなったと伝えられています。

野村望東尼は、長州の人ではなく、福岡藩の人です。福岡藩士・野村新三郎清貫と結婚しましたが、すぐにこの夫が亡くなり、剃髪して受戒。その後、福岡の南側の山村(現・福岡市中央区平尾)にあった自分の山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりして幕末の志士たちの活動に貢献しました。
 
望東尼は、勤王の歌人でもあり、勤王の志士を多く匿った罪で、今の福岡県糸島郡の沖にある「姫島」に流され投獄されたこともありました。そのことを知った高杉晋作は、福岡藩脱藩の志士6名を送り込んで彼女を救出し、下関の白石正一郎邸に匿いました。

白石正一郎というのは、下関で万問屋を営んでいた豪商で、尊皇攘夷の志に強い影響を受け、高杉晋作などの長州藩の志士たちを資金面で援助していた徳人でした。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていたことがあります。

晋作は、世に名高い奇兵隊を組織するとともに、第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として長州軍を指揮するなど活躍しましたが、その直後に肺結核のため療養生活を余儀なくされ、下関の北にある桜山という場所に小さな家を建て、野村望東尼や、愛人 おうのの看病による療養生活を送りました。

しかし、日に日に病状は悪化し、ついに死に瀕したとき、有名な辞世の句、「面白きこともなき世を(に)おもしろく」を詠みましたがそこで力尽き、代わりに東尼がこの下の句を引き継いで、「すみなすものはこころなりけり」と詠みました。

晋作はこの下の句を聞いていたかどうかもわからないほど衰弱していましたが、望東尼がこれを詠んだあと、「おもしろいのぉ~」といいながら亡くなったと伝えらえています。

望東尼は、晋作の死を看取ったのち、一年後、薩長倒幕軍の船出を見送るために、桜山からここ三田尻の地に移住しました。その際に、必勝「王政復古」を祈願し、天満宮に断食しながら7日間参拝しました。望東尼はまた、この7日間の参拝の際、天満宮に一日一首歌を奉納したといい、この歌の碑文が同天満宮の境内にあります。

「もののふの あたに勝坂越えつつも 祈るねぎごと うけさせ給え」

ところが、望東尼は、この7日間の参拝と断食による無理がたたり、病死してしまいます(慶応三年 1867年)。61歳でした。防府駅の南東側に県立の防府高校という学校がありますが、この学校のすぐ南側に野村望東尼終焉の地であることを示す記念碑があります。

道路を挟んで丁度その向かい側には、大正時代に移設された望東尼の終焉の宅も移設されて残っており、「史跡 野村望東尼終焉の室」という表示がなされています。

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この望東尼の終焉の地や終焉の宅がある場所のすぐ西側には、「桑山」という小高い丘があり、公園として整備されていて、防府市民の憩いの場となっています。ここからは三田尻港が遠望でき、なかなか眺めの良いところです。

望東尼の墓は、この桑山の南麓にあり、その東側の山麓から少し離れたところが終焉の地という位置関係です。この終焉の地から桑山方面に向かって少し歩いて上るとお地蔵さんがたくさん並ぶ道があり、ここに大楽寺というお寺さんがあります。

この寺の案内板には、「望東尼香華所」という表示があり、境内には墓所こそないものの、本堂に望東尼の位牌が安置されていて、「防府望東尼会」の主催で毎年供養が行われているそうで、この寺をはじめ、この地域の人々が望東尼を当地の偉人として大切に扱っていることがわかります。

実は、この寺の墓所には、30年ほど前に亡くなった女優の夏目雅子さんの墓があります。

えっなぜ?と意外に思う人も多いと思いますが、これはご主人であった伊集院静氏が防府市出身であり、彼の家の菩提寺がこの大楽寺だったためです。

この伊集院静という名前を本名だと思っている人も多いかもしれませんが、これは作家としてのペンネームです。実は伊集院さんは、日本に帰化した韓国人2世であり、帰化前の名前は、「趙 忠來(チョ・チュンレ、조 충래)」といいます。

1950年に防府市で生まれ、のち日本に帰化した際、本名を西山忠来(にしやまただき)に変え、その後作家として有名になったため、ペンネームのほうが広く知られるようになりました。

前述の山口県立防府高等学校を卒業しており、その後進んだ立教大学では、文学部に所属して日本文学を学び、卒業後は広告代理店に勤め、その後CMディレクターになりました。広告代理店時代に最初の夫人と結婚し、二児をもうけていますが、1980年に離婚。

その翌年の1981年、「小説現代」に「皐月」を発表し「伊集院静」の名前で作家デビュー。しかし、このペンネームは実は自分で決めたのではなく、勤めていた広告代理店に入社予定になっていた別の女性ライターにつけられるはずの名前を与えられたものでした。

入社後、本人は元の名である「趙」で作家活動を続けていくつもりでしたが、ある時、スポンサーへのプレゼンテーション時にこの「趙」の名を使おうとしたところ、この広告代理店の社長が「いや、それではダメです。これでやってください」と渡された名刺に印刷してあったのが「伊集院静」でした。

この社長は、新人が入ってくるたびに、本名では仕事をさせないという妙なポリシーを持っていたといい、この「伊集院」という名前の元ネタは、大和和紀作の漫画「はいからさんが通る」の登場人物からとったものでした。ただし、原作では「静」ではなく、伊集院「忍」であり、これはこの漫画のヒロインの許婚の少尉の名前でした。

その後、「機関車先生」などのヒット作に恵まれ、故郷の防府市を舞台とした自伝性の強い「海峡」なども著しました。1984年、かつてカネボウ化粧品の「クッキーフェイス」のCMキャンペーンガールとして人気を博していた夏目雅子さんと一緒に仕事する機会があり、これをきっかけに交際を始め、7年後に再婚。

しかし、夏目さんはその後急性骨髄性白血病を発病し、1985年9月11日に27歳の若さで亡くなり、この地に埋葬されたというわけです。

この夏目さんの墓のある大楽寺の墓所また眺めの良い場所であり、ここからも防府市街が見通せます。墓には、戒名として「雅月院梨園妙薫大姉」という名が刻まれ、その脇に本名である、西山雅子とともに、「芸名夏目雅子二十七才」とも刻まれており、今でもファンだった人が東京などからわざわざ墓参するため、いつも花が絶えないといいます。

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伊集院さんはその後1992年、「受け月」で直木賞を受賞し、同年8月に現在の夫人の女優篠ひろ子さんと再婚。現在は仙台市妻と共に在住のようですが、仕事柄、東京でホテル住まいのことも多く、また取材での国外滞在も頻繁にあるため、仙台にいるのが1年のうち1ヶ月位の年もあるといいます。

自らのエッセイには、東京は生涯のほとんどを過ごしているにもかかわらずなぜかなじめず、また故郷・防府に対しても「安堵はない」と書き、また仙台に至っては、犬が中心の家の片隅で仕事と競輪をやっているだけと書いているそうです。

こうした放浪癖のある人であるためか、結婚前も仕事をするための住処として、鎌倉にほどちかい「逗子なぎさホテル」を下宿先としていたそうで、ここは、後の妻・夏目雅子さんとの愛をはぐくんだ場所でもあり、結婚前の7年間をここで共に過ごしています。

夏目さんの死後、伊集院さんはしばらく表舞台から姿を消し、喧嘩やギャンブル、酒におぼれる生活を送ったといいますが、同じく一番身近だった人をなくしている私にもその悲しみはよくわかります。

ところで、この夏目雅子さんが眠る大楽寺には、野村望東尼が高杉晋作の死後防府で過ごした際に、並々ならぬ加護を加えたある人物と、その妻の墓もあります。

楫取素彦(かとりもとひこ)といい、明治時代に活躍した官僚、政治家でもあり、晩年その功績を認められて男爵の爵位を授かっています。初代の三田尻宰判管事(市長)も務めており、明治9年には、初代群馬県令(県知事)となり群馬県の発展の礎を築きました。望東尼の墓の建立にも尽力しており、お墓の裏には、楫取素彦の撰文が刻まれています。

楫取は幕末には、維新の志士でもあり、山口では、望東尼を自宅に住まわせたこともあり、その活動の中で知り得た薩長連合倒幕軍の情報を望東尼に教えたりもしていました。望東尼を福岡から防府の地に導いたのも楫取だといわれています。

楫取はまた、一つ年下だった吉田松陰とも無二の親友だったといわれています。松下村塾の創立にも関わっており、こうした深い関係から、松陰の2番目の妹「寿(ひさ)」を貰って結婚しており、この寿と死別後は、さらに寿の妹であり、松陰の末妹でもある「文」と再婚しています。

実は、この文こそ、来年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインのモデルです。「花燃ゆ」は、大河ドラマとしては、第54作であり、昨年末の2013年12月にその制作発表が行われました。

吉田松陰の吉田の性は、婿養子として入った先の家の苗字であり、元々は「杉寅之助」と言いました(通称は寅次郎)。このため、妹も本名は「杉文」ということになりますがが、のちに久坂玄瑞と結婚して久坂姓を名乗ることになり、その後さらに、楫取素彦と再婚後は改名して「楫取美和子」と称したため、生涯で3つの名前を持ったことになります。

久坂玄瑞の名は知っている人も多いと思います。松下村塾における松陰の高弟のひとりであり、のちに尊王攘夷運動を牽引しますが、禁門の変(蛤御門の変)で、会津と薩摩連合運に敗れ、自刃しました。

この玄瑞の妻である文役を務めるのは、大河ドラマ初出演となる井上真央さんで、兄である松陰役は伊勢谷友介、久坂玄瑞は東出昌大、楫取素彦役は大沢たかお、という豪華キャストです。

無論、高杉晋作も物語に登場し、その役を担うのは高良健吾ということで、こうしたメインキャストのすべてがこれまでに放送されたNHKドラマの主演・副主演経験者ばかりという、NHKとしても相当気合いの入ったドラマになるようです。

こうした登場人物に加え、伊藤俊輔、桂小五郎、品川弥二郎など松下村塾の弟子たちの人間模様を織り交ぜながら、幕末から明治維新へ向けた激動の時代を描いていくといいますが、現在までのところ、まだこの伊藤以下のキャストははっきりとは決まっていないようです。

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この杉文は、二番目の夫、楫取素彦の妻となったあと、今も防府市内にある華浦幼稚園(現・鞠生(まりふ)幼稚園)の創立のため夫とともに奮闘しており、また後年、素彦が貞宮多喜子内親王の御養育主任を命じられた際、美和子もともに貞宮御付となっており、後半生は夫と二人三脚での「教育」がテーマだったようです。

ほかにもその生涯をみると山あり谷ありであり、かなり激しい一生を送っており、なぜこの人物にNHKが目をつけたのか、その理由がよくわかります。

ただ、吉田松陰の妹というわりには、そのかなりのネームバリューにも関わらずこれまではほとんど知られておらず、また、再婚相手である、楫取素彦もあまり知られていません。おそらくはこの人が群馬県令(県知事)になったということを、群馬県民でも知っている人は少ないのではないでしょうか。

ところがこの楫取素彦が群馬県令に在任中には、今年世界遺産登録が決まっている、富岡製糸場が完成しており、楫取はその建設とその後ここに勤めることになる女工たちの教育にも深くかかわっており、このほか現在の東京大学農学部、筑波大である「駒場農学校」などの旧制教育機関の設立にも尽力するなど、かなりの活躍をしています。

おそらくNHKとしては、ドラマ前半には松陰ゆかりの人物たちをとりまぜながら、維新のドラマティックな時代変遷をとりあげつつも、後半ではこうした明治という新しい時代における創成期の教育界における数々のエピソードを取り上げていこうと考えているに違いありません。

富岡製糸場の世界遺産登録が決まったことも、このドラマの企画を後押ししたに違いありません。、

毎年前半では高視聴率を稼ぐものの、回が進むにつれて尻すぼみになりがちな大河ドラマにおいては、後半までいかに視聴者の興味を惹きつけていくかが重要なポイントであり、この楫取美和子という、誰も知らないような地味なヒロインを選んだのも、NHKとしてはそれなりの戦略があってのことでしょう。

美和子が53歳のときには、実姉であり、夫の先妻でもある寿子の息子(つまり美和子にとっては甥であり、義子でもある)「楫取道明」が、日本統治時代の台湾に設立された小学校、芝山巌学堂において、抗日事件により殺害される、という事件も起こっており、こうした教育界における大事件もまたドラマの主筋の中に盛り込まれていくに違いありません。

ただ、松陰の実家の杉家や楫取家、玄瑞の久坂家などの諸家の交わりは非常に複雑で、このあたりの説明が過剰になると娯楽番組としての楽しみがスポイルされる可能性もあるため注意が必要です。

ここでもこのあたりの人間関係のことが少々わかりにくいので、少し整理しておくこととしましょう。まず杉文は、杉寅之助、すなわち、吉田松陰の末妹になりますが。この杉家には7人の子供がいました。

杉家というのは、萩に長らく続いた一族ですが、長州藩での家格は「無給通組」であり、これはかなりの下級武士で、石高も26石という極貧の武士でした。1石=1両と言われており、だいたい1両=2~3万円くらいといわれていますから、年収はわずか50~80万円にすぎなかったことになります。

当然武士業だけでは食っていけないため、農業もしながら生計を立てて7人の子供を養っており、おまけに三男の敏三郎は発声が不自由でした。その兄妹構成は、修道(民治)、松陰、千代、寿、文(美和子)、敏三郎、艶の順であり、艶は文の生後すぐに夭折したため、実際には文が末妹ということになり、これらを更に整理すると以下のようになります。

修道(民治) →長男、杉家を相続 1828?
松陰 →吉田家に養子として出、幕府により斬刑で死亡 1830年生
千代 →長州藩士、児玉祐之と結婚 1832年生
寿(ひさ)→楫取素彦と結婚するも、早逝 1838年生
文(美和子) →久坂玄瑞と結婚するも死別し、楫取素彦と再婚 1843年生
敏三郎 →障害があり、生涯独身だったと思われる 生年不肖
艶 →幼いころ夭逝 生年不肖

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一家の主は、杉常道といい、通称は百合之助。無給通組士の杉常徳(七兵衛)の子として生まれ、文政7年(1824年)に家督を相続し、翌年に同じ萩の下級武士、児玉太兵衛の養女、瀧子を娶りました。

この児玉家というのはもともと杉家と関係の深かった家のようで、細かく調べていないので本当かどうかはわかりませんが、のちに長女の千代が結婚する児玉祐之という人物もこの児玉家の人かもしれません。ただ、山口には児玉姓の人は非常に多く、ほかにも明治の陸軍大将で日露戦争で活躍した児玉源太郎などがいます。

妻をめとって家督も相続した常道は、農業をやりつつも武士としての務めも真面目にこなす人物だったようで、公的には記録御次番役を拝領し、その後呉服方なども務めています。記録番は下級の事務官であり、呉服方は役人のユニフォームを商人から買い入れる役目であり、いずれにせよ、上級官僚ではありません。

この常道には大助という弟がいましたが、常道が家督を継いだことから、この弟は他家へ養子に出されました。ところが、この大助は若くして死去してしまい、山鹿流兵学師範家でもあったこの養家の吉田家(家禄57石)の家督を継ぐものがいなくなったことから、これを次男の寅之助(松陰)が相続することになりした。

このとき、松陰はわずか5歳でしたが、このときから杉寅之助ではなく、吉田寅之助と名乗ることになります。また、常道には、大助の下にもうひとり弟がおり、これを文之進といいましたが、彼もまた、大助と同様に養子に出されていました。

ただし、入った家は、家格では杉家より上にあたる大組士で、40石取りの玉木正路(十右衛門)が主でした。文之進はこの玉木家の養子となって家督を継ぎ、玉木文之進と称するようになりました。

松陰が相続した吉田家は代々山鹿流師範家でしたが、実の叔父にあたるこの玉木文之進が相続した玉木家も山鹿流兵学に熱心で、このため文之進も兵法に非常に明るい人でした。

実は、のちに高名となる松下村塾は、この玉木文之進が創始者であり、のちにこの塾を引き継ぐことになる幼少期の松蔭に山鹿流兵法だけでなく、その他の学問についても厳しく伝授しました。

その教育方法は、かなりのスパルタ教育だったようで、その厳しさについては、司馬遼太郎さんの「世に棲む日々」に細かく描かれていますが、一例としては、松陰が膝を揃えて文之進の講義を聞いていたとき、頬に蚊が止まったのを払おうとしただけで、文之進に思いきり殴り飛ばされたといったエピソードなどがあります。

剣術の稽古などでも、松陰が失神するまで、徹底的にその技を鍛えこんだといい、そのあまりに厳しい教育に、母の瀧子が、「寅(松陰のこと)、いっそのこと死んでおしまい」と言ったといったことなども司馬さんの小説に書かれています。

そこまでして玉木文之進は松陰に「私利私欲を捨てさせる」ことを徹底したために、後に多くの維新の志士たちに影響力のある人物に成長したのだ、と言った意味のことを司馬さんは書いておられます。

こうした厳しい教育の成果もあり、松陰は若干11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義ができるほどの英才として成長します。

この講義の出来栄えが見事であったことにより、その後長州藩内でもその天才ぶりが評判となり栄進するとともに、その後過激な尊王攘夷運動に邁進していきますが、子ども時代の松陰の生活は叔父の厳しい指導はあったものの、その日々は父や兄とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読をするという穏やかなものだったようです。

このほか、農作業のあいまに頼山陽の詩などを父が音読し、後から兄弟が復唱していたというエピソードも残っており、夜も仕事しながら兄弟に書を授け本を読ませていたといい、貧しいながらも教育熱心な一家だったことがわかります。

夏の御用門

ちなみに末妹の文は松陰より13歳も年下であり、松陰が玉木文之進からスパルタ教育を受けているころにはまだ生は受けていません。のちに松陰が物心がついたころ、常道の四女として誕生しましたが、その名付け親は松陰の師でもあった玉木文之進で、「文」という名前も玉木が自分の名からとって彼女につけたものです。

その後、長女の千代は児玉祐之に嫁ぎ、次女の寿はこのときまだ小田村伊之助と名乗っていた楫取素彦のもとへそれぞれ嫁ぎます。寿は文より5歳年上で、千代は1832年生まれで松陰より2つ年下でした。

その後、松陰は尊王攘夷を実現させるべく奮闘しますが、下田沖で黒船に密航しようとしたところを幕府廷吏に捕えられ、安政元年(1855年)から生家預かりとなり、常道宅に蟄居する事となりました。

このとき松陰は父や近親者に「孟子」や「武教全書」講じたりして過ごしましたが、その翌年の安政2年(1856年)は処分が一旦解け、このとき、叔父の文之進から松下村塾の主宰の座を譲り受け、その後ここで多くの維新の志士たちを育てていくことになります。

その翌年の安政4年(1857年)の12月、文も久坂玄瑞と結婚します。時に玄瑞18歳、文15歳でした。当初は「人間到る処青山有り」の漢詩で有名な、勤王の僧侶・月性が文を桂小五郎の妻に推したこともあったそうですが、兄の松陰が玄瑞の才を高く評価していたため、最終的にはこの松陰の強い勧めにより縁談がまとまりました。

このとき、この縁談を玄瑞に持ち込んだのは松下村塾の年長者であった中谷正亮という人で、玄瑞は文のことを「好みの容姿ではない」と断ろうとしました。これに対して中谷はそれに立腹して「見損なった、君は色で妻を選ぶのか」と詰め寄り、その勢いに押され、玄瑞はやむを得ず縁談を承諾したといいます。

このことから、この文ことのちの楫取美和子は、平凡な容貌の女性だったのではないかと思われ、現存する明治時代になってからの晩年の写真からも往時の美形を想像させるような面影はありません。なので、美人さんの評判の高い井上真央さんがこの美和子を演じるというのは、ちょっと歴史考証的には無理があるといえるかもしれません。

この文の結婚2年後の、安政6年5月(1859年)、松陰の罪が確定して江戸護送となると、父の常道もその責を問われて藩職を罷免され、その直後松陰は斬刑に処されました。享年30(満29歳没)。

辞世の句は「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」であり、これもまた高杉晋作の辞世の句とともにかなり有名です。

常道は本来松陰に家を継がせるつもりだったようですが、この処刑により翌年、長男の修道に杉家の家督を譲っています。ところが、悲劇は更に続きます。このころ文の夫となった久坂玄瑞は、京都を拠点に江戸や各地で尊皇攘夷運動を続けていましたが、元治元年(1864年)、禁門の変(蛤御門の変)において自害してしまいます。

文と玄瑞の間には子供がいなかったため、姉の寿と、このころまだ「小田村伊之助」と呼ばれていた楫取素彦の子、すなわち文にとっては姉の寿の子で、甥にあたる粂次郎(のちの道明)が久坂家に入り、養子となって久坂家を継ぐことになりました。

そしてこのあと、未亡人となった文は、長州藩最後の藩主となった毛利元徳の長男興丸(後の毛利元昭)の守役などを勤めていましたが、楫取素彦に嫁いでいた姉の寿が亡くなったことから、素彦と再婚しています。

この再婚話もなぜそうなったのかについては、興味深いところですが、NHKの「花燃ゆ」では、この謎解きも含めてその後の改革の時代をこの二人が力強く生き抜いていく、というストーリーになるはずです。

ちなみに、文の名付け親の玉木文之進は、明治9年(1876年)、前原一誠による萩の乱において、養子の玉木正誼や門弟の多くが参加したため、その責任を取る形で自害しており、おそらくはそのあたりのことも、このドラマの中で描かれていくことでしょう。

このほかにも、この吉田松陰の一族に関しては色々面白いエピソードがあるのですが、今日はもう紙面もかなり進んできたことから、これらについてはまた別の機会に書くことにしましょう。

そろそろ、下田公園のあじさいが満開かと思われます。みなさんもこんな私のブログなど読んでいないで、ぜひこちらにもお出かけください。

夏の朝

メーソンと自由の女神

2014-2893梅雨の晴れ間が続いています。外へ出ると暑いのは暑いのですが、日陰に入ると心地良いそよ風が頬を撫でます。

この上天気に誘われて、先週末からは、伊豆西部を中心に撮影行脚三昧だったのですが、その反動もあって昨日の午後あたりからは少々疲れが出て、ぐったりしておりました。

お天気が良いからと精力的に動くのもいいのですが、そろそろ齢も考えんといかんかな、とか、妙に年寄臭いことを考えてしまう、今日このごろです。

さて、1885年の今日あった出来事を調べてみると、自由の女神像がフランスからニューヨークに届いた、という事実があったようです。

私は若いころ、アメリカのあちこちを旅して回ったことがあり、仕事でも行ったことがあるのですが、なぜかニューヨークだけにはご縁がなく、一度も行ったことがありません。

その昔のニューヨークはまだまだ人種間対立などがあって治安も悪く、犯罪の巣窟とまで言われた時代がありましたが、1990年代までには人種問題もかなり緩和され、犯罪率は劇的に下落していました。

が、私が頻繁にアメリカを訪れていたころにはまだ少々治安に問題があり、ここに行くのがためらわれた、というのがこれまで行ったことのない主な理由です。2001年9月11日には、同時多発テロ事件もあり、ワールドトレードセンターの倒壊で、3000人近くの人が命を落としたことなども思いおこされ、何かと怖い街というイメージがあります。

とはいえ、この同時多発テロは、このことをきっかけに、逆にニューヨークの治安をよくし、その後この街の安全性は飛躍的に高くなってきているようです。

ワールドトレードセンタビルの跡地には、新しいオフィスタワーが建設されており、この地区には、記念博物館も建てられる予定であるそうで、こうした「復興」ムードと安全性の高まりを背景にアジアやラテンアメリカからの新しい移民の波が訪れており、シリコン・アリーのような新しい産業部門も興り、街は活気づいているといいます。

シリコン・アリーというのは、インターネット上の新たなアプリケーションサービス・プロバイダー(ASP)を核としたネットビジネス産業をさします。世界的なインターネット利用者の急増に伴い、電子商取引、音楽配信、ソフトウェア流通 などインターネットを利用した様々なアプリケーションサービスが増えています。

今後、インターネット接続の次のステップとなるインターネット応用フェーズでの事業展開には、ビジネスや生活シーンあらゆる局面において国際性が要求されますが、ニューヨークはその基盤となるすべてが整っている街、というわけです。

こうしたこともあってアメリカ国内でも多くの人がニューヨークを目指しており、ニューヨークの人口は、2000年の国勢調査で史上最高に達した以降も増え続けているようです。

自由の女神像は、そんなニューヨークの象徴として、アメリカ合衆国の独立100周年にあたる1886年に完成して以降、世界各地からやってくる移民にとっては、新天地を象徴するものであり続けてきました。

そもそもは、この独立運動を支援していたフランス人達の募金によって、ニューヨーク市に贈呈されたもので、フランスの法学者のエドゥアール・ド・ラブライエという人が南北戦争後の混乱に苦しんでいたアメリカに対し、両国の友情の証となりうるモニュメントを寄贈しようと提案し、これに対しては多く人が賛同し、多額の寄付が寄せられました。

その設計の依頼は、1874年にラブライエからフランスの彫刻家である、フレデリク・バルトルディに対してなされました。

このバルトルディという人は、自由の女神像以外にはあまり、世界的に有名な作品はあまり多くないようで、日本でもほとんど知られていません。

フランスでもあまり知っている人は多くないと思われますが、その代表作といわれるのは、フランスの中央高地の都市、クレルモン=フェランの中央広場に置かれているフランスの伝承の英雄「ウェルキンゲトリクス」の銅像、あるいは、フランス南東部、リヨン市内西部に位置する「リヨン歴史地区」にあるテロー広場の彫刻の噴水などです。

このほか、自由の女神の構造的な部分の設計にはエッフェル塔で知られるギュスターブ・エッフェルも関わったそうで、像のデザインはウジェーヌ・ドラクロワの絵「民衆を導く自由の女神」をモデルにしたものだといわれています。

が、バルトルディはフランスの象徴ともいわれる「マリアンヌ」をイメージしたのではないか、ということもいわれているそうです。これは実在の人物ではなく、フランス共和国を象徴する女性像のことで、フランス共和国の擬人化されたイメージです。

フランス革命の際には、「サン・キュロット」とよばれる手工業者、職人、小店主、賃金労働者などの貧困層が革命の推進力となりましたが、サン・キュロットとは「キュロットをはかないひと」という意味で、キュロットとは当時貴族の一般的なボトムスであった半ズボンのことです。

このサン・キュロットたちを代表するイメージとして、マリアンヌという偶像が創出されたわけですが、しかし、バルトルディが自由の女神のデザインを作った当時はまだ、このマリアンヌの具体的なイメージはフランス国内で定まっていませんでした。

マリアンヌといえばなんとなく女性というイメージですが、サンキュロットの代表としてのマリアンヌは当初は性別すらはっきりときまっていなかったようで、無論、どういった顔をしているかということもイメージされておらず、マリアンヌの顔の具体的なイメージ像は最近になってようやく作られました。

「フランスの顔」とも言える美しい女性の著名人の顔を合成してつくられたそうで、それらの中には、ブリジット・バルドーやカトリーヌ・ドヌーヴといった女優さんや、このほかの有名歌手やファッションモデルさんが含まれています。

その顔は、パリの共和国広場に設置されているマリアンヌ像でみることができ、この像は右手高くかかげて手に月桂樹の枝を持ち、頭にも月桂樹の冠のようなものをかぶっていて、逆にニューヨークの自由の女神をモデルに創作されたことがわかります。

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しかし、バルトルディが自由の女神のデザインをしたときにはまだ、こうしたイメージは固まっておらず、このため、彼は自分の母親をモデルにしたといわれています。ウィキペディアなどに掲載されているバルトルディの顔写真をみると、なるほどその目元などが自由の女神の顔は彼に似ているようです。

ところが、です。このバルトルディは、フリーメイソンのメンバーだったそうで、自由の女神のモデルは、実はフリーメイソンが崇拝している魔女、メデューサがではなかったかとする説もあるようです。

メドゥーサというのは、ギリシア神話に登場する怪物だということは多くの人が知っているでしょう。

元々美少女であったメドゥーサは、海神ポセイドーンと交わった際、その場所が美の女神アテーナーの神殿であったことからアテーナーの怒りをかい、醜い怪物にされてしまいます。この怪物は石のように輝く目を持ち、見たものを恐怖で石のように硬直させてしまいますが、ペルセウスによって首を切り落とされ退治されてしまいます。

もともとは、メドゥーサが「自分の髪はアテーナーの髪より美しい」と自慢したことが、アテーナーの怒りを買ったともいわれており、その美貌は身の毛のよだつような醜さに変えられ、讃えられるほどの美しい髪はその一本一本を蛇に変えられてしまいました。

しかし、この蛇の髪の毛が、自由の女神のあのとげとげの王冠の元デザインだ、というのは少々無理があるので、やはりそのモデルはバルトルディの母親だったか、あるいはドラクロアの絵からモチーフを得たというのが正しいのかもしれません。

ところが、このドラクロアの描いた自由の女神をみると、たしかに右手をあげてそこに旗を持っている姿は確かに似ているのは似ているのですが、ほかには着ている衣装がちょっと似ているくらいであり、モデルというには少々違うのではないかな、という気がします。

一方では、同じくギリシア神話には、ヘカテーという女神がおり、自由の女神像はどちらかといえばこちらに似ています。このヘカテーは「死の女神」と呼ばれ、他にも「女魔術師の保護者」、「霊の先導者」、「ラミアーの母」、「死者達の王女」、「無敵の女王」等の別名で呼ばれており、いずれにせよあまりいいイメージの女神ではありません。

「三相一体」といわれ3つの体を持ち、頭も三つあって、それぞれの方向に睨みを利かせた姿でよく現されますが、現存するギリシャ彫刻などを見ると、その姿は自由の女神とそっくりです。同じくとげとげがついた冠をかぶっており、その表情は死の女神だけに少々こわもてですが、これが自由の女神のモデルといわれるとなるほど、とうなづけそうです。

ギリシャ神話では、松明を持って地獄の猛犬を連れ、夜の十字路や三叉路などに現われるそうで、この十字路や三叉路というのは、二つの道が交わる場所であり、これはすなわちあの世とこの世が交わる場所です。

ヘカテーが、三つの体を持つのも、その力が天上、地上、地下の三世界に及ぶことを表しており、これはまた、新月、半月、満月という「月の三相」を意味します。または処女、婦人、老婆という女性の三相や、過去、現在、未来という時の三相を表しているといいます。

中世には、魔術の女神として黒魔術の本尊ともされ、密かに魔女や魔術師達によって崇拝されたといいますから、フリーメーソンのメンバーであったバルトルディは、むしろこちらをモデルとして選んだのではないかと想像されます。

さて、自由の女神のモデルが、ドラクロアの絵なのかメドゥーサなのか、あるいは、ヘカテーなのか、はたまたバルトルディの母親だったのか、については諸説あるものの、ともかくバルトルディがデザインしたものは、最初にその頭部だけがフランスで造られました。

この像を作るためには、資金集めのため「記念像建造キャンペーン」が代々的に催され、ここで得られた寄付と、宝くじによる収入なども合わせて約40万ドルの資金が集まり1878年にパリで開かれた万国博覧会のために製作が進められ、1884年になってようやくその完成を見ました。

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そのときの写真が残っているのですが、頭部と肩のやや上のほうの部分だけが台座に載ったもので、その台座の部分にはトンネル状の入口が設けられ、現在ニューヨークにあるものと同様、頭部の中に階段が作られていて、冠の部分に相当する一番上まで上がると、そこに窓があって、外を見渡せる、というものでした。

現在ニューヨークに設置されているものも、頭部の冠部分は展望台になっており、まったく同じものだということがわかります。その後、パリ万博は終了しましたが、このとき首の部分はいったん解体されました。

首から下の部分は万博には間に合いませんでしたが、その後こちらも部分部分で製作されました。ただし、その後アメリカに搬送されることが決まっていたために組立ては行われず、仮組みで完成され、これでバルトルディがデザインした頭部から足元までの全体ができました。

そして、214個のパーツに分解された女神像はフランス海軍の軍用輸送船を用いてアメリカに運びこまれ、ニューヨークで再度組み立てられることになりました。ところが女神の本体は到着したものの、到着した当時、この像にはまだ台座の部分がありませんでした。

しかも、本体の組み立てのための足場の調達にも事欠き、台座製作のための資金も足りず、このため、台座の部分は改めてアメリカで寄付を募ろうということになりました。

この建設資金集めのキャンペーンは、「ニューヨーク・ワールド」紙社主だった、ジョセフ・ピューリッツァーが音頭をとって行なわれ、この結果、多くのアメリカ国民からの寄付が集められました。

この台座部分の設計はアメリカの建築家、リチャード・ハントによって行われ、その設計図をもとにおよそ1年かけて台座が完成。そしてその上にフランスから持ち込んだパーツを組み立てていき、最終的に自由の女神像の除幕式が行われたのが、1886年10月28日でした。

当日はあいにくの雨でしたが、この当時の大統領、グロバー・クリーブランド大統領をはじめ100万人以上の観衆が集まり、顔にかけられたフランス国旗を製作者のバルトルディが除幕したそうです。

この女神像が置かれることになったリバティ島は、この当時はベドロー島と呼ばれていたそうです。ニューヨーク中心部を流れるハドソン川の河口部に近い部分のど真ん中にあり、左岸側のロウワーマンハッタンやブルックリンや、右岸側のジャージーシティー側からも大変よく見える位置です。

像の内部は空洞ですが、その外部は銅製で、緑青(りょくしょう)化しているため、緑色に見えます。像の頭の部分までの高さは約34メートル、台座からたいまつ(トーチ)までの高さは約46メートル、台座の高さは47メートルであり、台座部分も含めた全体の高さは93メートルにもなります。また、総重量は225トンもあるそうです。

右手には炎がメラメラ燃えるたいまつを空高く掲げ、この炎の部分は純金でコーティングされています。また、左手に持っている本のようなものはアメリカ合衆国の独立記念日である「1776年7月4日」とフランス革命勃発の日である「1789年7月14日」と、ローマ数字で刻印された銘板です。

さらに足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、これを女神が踏みつけており、これは全ての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることを象徴しています。女神がかぶっている冠には7つの突起がありますが、これは、7つの大陸と7つの海に自由が広がるという意味を持つといいます。

あらためて、ギリシャに残っているヘカテー像の頭にあるとげとげをみると、5本しかないようで、バルトルディがこれをモデルにしたとすれば、あとの2本の追加は彼の創作ということになります。

台座部分にはエレベータが設置されていて、エレベータの最上階は10階です。10階からは像の中のらせん階段を上って王冠部分の展望台に登ることができます。2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件後は安全のため、同展望台は閉鎖されていましたが、2009年7月4日、独立記念日に合わせて約8年ぶりに再開されました。

ただ、再開後は、同展望台に入場できる人数が1時間あたり30人まで、1日240人までと制限されたほか、入場には予約が必要となったそうです。

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この台座部分の内部はアメリカの移民の歴史について展示する博物館になっており、エマ・ラザラスという詩人が書いた「新しい巨像」という題の14行詩を浮き彫りにしたブロンズ製銘板が設置されています。

このエマ・ラザラスという人はあまり著名な人ではありませんが、ドイツ系ユダヤ人であり、19世紀末のロシアにおけるユダヤ人迫害から脱し、難民を受け入れるアメリカへやってきたようです。

詩の内容は、「あなたの国の貧困や疲労で息苦しい人たちを私のところに連れてきなさい。
私は黄金の扉のそばでランプを掲げています」といったもので、アメリカを訪れる移民たちの歓迎の光としてランプをとりあげ、これを象徴としたものです。

実際には自由の女神は、ランプではなくたいまつを掲げていますが、実はこの松明の中には灯台のランプが仕込まれる予定だったそうです。しかし、ランプの光が雲に反射して逆に船舶運航の妨げになるということでこの計画は中止になりました。

灯台として使われる予定だったという証拠に、女神像は南側のハドソン川河口にあるニューヨーク港を向いています。

ところで、この女神像の造作は、前述のとおりフランスの法学者のエドゥアール・ド・ラブライエがアメリカとフランスの友情の証となりうるモニュメントを寄贈したという「美談」で語られることが多いようですが、実際には、フランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物なのだということもいわれています。

その証拠に、この自由像をデザインしたのもフリーメーソンのメンバーだったバルトルディであり、また台座の記念盤には以下の文言が刻まれています。

「この地にて1884年8月5日、「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石は、ニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター、ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。

グランド・ロッジの構成員ら、合衆国およびフランスの政府の代表ら、陸軍および海軍の将校ら、諸外国の使節団の構成員ら、ならびに名高い市民らが参列した。この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。」

このフリーメーソンという組織については、謎が多く、この紙面を借りてそのすべてを描き出すことは不可能です。かつその起源についても諸説が存在していて、説明しようとすると煩雑この上ないのですが、いずれの説でも言えることは、300年以上前から欧州にフリーメーソンの支部が存在しており、かなり古い組織であることは間違いないようです。

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一般的に言われている「フリーメーソン」という言葉は略称で正式名称はフリー・アンド・アクセプテッド・メーソンであり、「メーソン」とは「集団としてのフリーメーソンリーに属する構成員」のことを指します。

フリーメーソンは世界各国に会員が600万人以上いると言われており、フリーメーソンに加入するにはフリーメーソン関係者の紹介やフリーメーソンの審査を通過する必要があるようです。

世界中にいるフリーメーソンのリーダーは、会員を管理するために「ロッジ」と呼ばれる支部を世界中に設置しており、さらに、ロッジの上にはグランドロッジがあり、グランドロッジが各地のロッジを管理しています。

フリーメーソンの存在において特に重要なことは、フリーメーソンの歴代会員には歴史上の重要人物が勢揃いしているという点です。アメリカの建国の父である初代のジョージ・ワシントンをはじめ、米国大統領にはメーソンのメンバーは少なくありません。

リンカーンもセオドア・ルーズベルトもフランクリン・ルーズベルトもトルーマンも、最近ではフォードもそうだったといわれており、確認されているだけで、歴代の米国大統領のうち、15人がメーソンだそうです。

アメリカだけでなく、ヨーロッパでも多く、イギリスでは、古くはジョージ4世やエドワード7世、アーサー・コナン・ドイル、ウィンストン・チャーチルなどがおり、このほかウィーン古典派三大巨匠の一人であるモーツァルトなどなど、歴史に詳しい人なら驚くようなメンツが揃っています。

このように多くの著名人が会員となった背景には、フリーメーソンの秘匿性というメリットがあったからだと推測されます。元々はフリーメーソンは宗教的な秘密集会場だったようで、情報の秘匿は徹底していました。このため、時代時代の権力者が秘密の相談や会議をする際にフリーメーソンを利用していたと言われています。

フリーメーソンの会員にはこうした権力者や上流階級や貴族階級の人だけでなく、フリーメーソンに集まっているこうした人達と繋がりを持ちたいがゆえに入会した人も多いようで、いずれもフリーメーソンの秘匿性を利用しようとした人が次々に集い、やがては大きな組織に発展していったようです。

日本でも、戦後の一時期、首相をつとめたこともある皇族の東久邇宮さんがそうだったといわれており、自民党初代総裁の鳩山一郎元首相も会員でした。ほかにも元幕臣で明治時代初期の啓蒙思想家の西周(にしあまね)や、ピューリッツァー賞受賞の写真家、沢田恭一もメーソンだったそうです。

アメリカ独立と建国の歴史そのものが、フリーメーソンリーにサポートされてきたといわれており、だとすれば歴代の大統領の多くがフリーメーソン出身であるということにも何ら不思議はなく、このようにみると、アメリカの象徴そのものである自由の女神がフランスのフリーメーソンによって贈られたというのもまた不思議ではありません。

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自由の女神は、1984年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

世界遺産センター公表の登録基準である、「人類の創造的才能を表現する傑作」「 顕著で普遍的な意義を有する芸術的作品」といった基準に該当したためですが、フリーメーソンのような秘密結社が関わってできたものを世界遺産に登録してしまって本当にそれでいいのだろうか、とちょっと考えてしまいます。

自由の女神の話題はともかく、このフリーメーソンについては、もう少し書いてみたい気がしたのですが、今日はもうだいぶ紙面が進んだので、またの機会に譲りたいと思います。

さて、天気は今週半ばから次第に下り坂のようで、今朝まで見えていた富士山も今は厚い雲に覆われてきました。空気も少し湿ってきたような気さえします。

いまのところ空梅雨の予報はないようなので、これからまた雨の季節に戻っていくのでしょう。昨日負けてしまったサッカー日本代表のギリシャ戦での奮起も期待したいところですが、私としては、9連敗で2位に陥落してしまった広島カープの動向が気になります。

来週のいまごろまでには、サッカーも野球もその行方がかなりはっきりしているでしょう。が、スポーツは観戦するばかりではなく、自分でもやるもの。必ずしも純粋なスポーツとはいえませんが、私も最近遠ざかっているジョギングやサイクリングでも再開して体力をつけ、この後にくる暑い夏に備えることにしましょう。

皆さんはいかがでしょうか。最近スポーツしてますか?

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はやぶさの失敗

2014-2375梅雨だというのに上天気です。サッカーのワールドカップが始まりましたが、それどころではありません。お出かけして、さんさんと降り注ぐ太陽の光を浴び、緑を満喫しましょう。

さて、4年前の今日、小惑星探査機「はやぶさ」が7年ぶりに地球に帰還してきました。

宇宙航空研究開発機構(JAXA)が打ち上げた小惑星探査機で、惑星間移動の切り札として期待される新型イオンエンジンの実証試験を行いながら2005年夏にアポロ群の小惑星イトカワに到達。その表面を詳しく観測し、サンプル採集を試みた後、のべ60億 kmの旅を終え、地球に大気圏再突入しました。

正確な大気圏への突入時間は、2010年6月13日22時51分で、その5分後、管制室でカプセルからの電波信号(ビーコン)が受信され、パラシュートが開いたことが確認されました。

カプセルは23時8分頃にオーストラリア南部の砂漠に着陸したと推定され、着陸予想地点の周囲に展開していたJAXAの探測班は、ビーコンの方向から落下位置を推定し、発熱による赤外線を頼りにヘリコプターによる捜索を行い、オーストリア南部の「ウーメラ」という町の北西約200キロで地球に帰ってきたカプセルを発見しました。

このウーメラ近郊には、127,000平方キロメートルという途方もない広さを持ち、世界最大の地上軍実験・演習施設および航空宇宙施設である、「ウーメラ立入制限区域」があります。
ウーメラ自体もここで実験を行う人達の利便のために造られた町であり、立入制限区域内にはロケットの部品や発射体および不発弾があちこちにころがっている、という場所です。

「はやぶさ」のカプセル帰着の際には、この制限区域内への誘導が画策され、大気圏突入前には制限区域内の道路が2時間にわたり封鎖されましたが、結局はやぶさはここへは落ちませんでした。

はやぶさが落ちた場所は砂漠地帯であり、また、先住民アボリジニーの聖地でもありました。このため、彼等に配慮し、翌14日午前中に改めてアボリジニーの代表をヘリに乗せて再度現場を視察し、了解を得た後、宇宙機構のチームが地上からクルマでカプセル回収に向かいました。

回収にあたっては、カプセルに付いている火薬などの危険物が安全な状態かどうかを調べるなど手間がかかり、この収納作業には約4時間を要しました。そして安全が確認されたのち、無事カプセルは専用のコンテナで現地の拠点施設まで移送され、その後厳重に管理されながら、日本に移送されました。

これ以前にも日本の宇宙機が自力で大気圏再突入に耐えた例はいくつかありますが、回収まで予定通りに成功したのは、このはやぶさ以外では、2003年に回収されたUSERSカプセルだけでした。7年ぶり2度目のことであり、打ち上げ当時はISASと呼ばれていたJAXAが機構変更後に回収した衛星・探査機としては初のものとなりました。

なお、USERSというのは、“Unmanned Space Experiment Recovery System”の略で、地球周回軌道上から 宇宙実験成果物を帰還回収させることができる、日本で初めて実用化された無人の宇宙船です。

宇宙船といっても、小型の衛星サイズであり、USERSとは、この飛行体を宇宙から地球に無事に帰還させるソフトや地上の装置を合わせたシステムの総称です。

その内部にある実験スペースを使用して、一般の企業、大学の研究者が宇宙実験を行うことが可能であり、これにより日本は、宇宙ステーション等の外国の手段に頼らない独自の宇宙実験システムを有し、かつ宇宙実験の成果物を無人で地上に持ち帰ることを可能にしました。

USERS初号機では、宇宙の微小重力環境を利用して、地上では実施することが難しい超電導材料製造の実験が行われました。

その打ち上げは2002年9月であり、H-IIA3号機で軌道上約500kmに打ち上げられ、約8ヶ月後の2003年5月、超電導材料製造実験により得られた成果物を乗せ、大気圏の過酷な環境をくぐり抜けて小笠原東方沖の海域に無事着水し、これまで未知であった超電導材料製作手法の知見を得ることができました。

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はやぶさの成功はこれ以来になりますが、今回の回収では海ではなく、陸上になったのは貴重なサンプルが入ったカプセルを確実に回収するためです。海上では場合によっては時化などによってカプセルが失われてしまう可能性があります。

また、落下地点がオーストラリアの砂漠になったのは、はやぶさを地球外縁部(高度約630 km)への精密誘導した際、その後の軌道修正によって最終的に落下させる地点を、周囲にビルなどの人工構造物が多い地域、あるいは湿地帯やジャングルのようなアクセスが困難な場所にしたくなかったためです。

発見されたカプセルは、オーストラリアのラボに持ち込まれ、クリーンルームで爆発の危険性がある装置と電子回路を取り除いた後、窒素を満たしたポリエチレンの袋に入れた上で内箱に収納。さらに衝撃吸収用のボールを並べた免震箱に入れて熱シールドと共にチャーター機で日本に輸送され、17日深夜に羽田空港に到着しました。

さらに18日にトラックでJAXAの相模原キャンパスの研究棟に搬送された後、カプセルは、CTスキャンによる精密検査が行われ、容器に亀裂などがないことが確認されたのち、昼夜連続で念入りに清掃が行われ、22日に開封されました。

ここまで念入りに清掃をしたのは、カプセル外についているゴミなどの地球上にある物質と、イトカワから持ち帰られたかもしれない貴重なサンプルと混同されないようにするためです。

サンプルが収納されていたコンテナはA・Bの二つがあり、まずサンプル容器室Aが開封されました。この結果、7月5日、JAXAはカプセル内のサンプルコンテナから肉眼で確認できる直径1ミリメートルほどの微粒子十数個と、容器室A内壁から直径10マイクロメートルほどの微粒子2個を顕微鏡で確認したことを発表しました。

その後、カプセル内の内側を舐めるように調べていったところ、発見された粒子の数も増えていきました。さらに電子顕微鏡で観察できるサイズの特殊なテフロン製ヘラを開発し、容器の壁面をこすって微粒子を採取するようにしたところ、さらに10マイクロメートル以下の微粒子を約3,000個ほどを回収することができました。

11月16日までには、A室内から回収した微粒子のうち約1,500個が岩石質であることが判明。ただ、これらの微粒子が地球上で混入したものなのか、本当にイトカワ由来なのかは研究室内での簡易分析だけでは判断できないと思われ、もっと詳細な分析ができる本格的なラボに持ち込む必要性があると考えられました。

ところが、簡易的なX線分光分析の結果だけでも、この持ち帰られた物質の組成が地球上の岩石では見られないものであることがわかり、この物質のスペクトルは「コンドライト」の組成と一致しました。

コンドライトとは、「コンドリュール」と呼ばれる物質を含む岩石質の隕石のことで、コンドリュールは多くの隕石中に見られます。コンドリュールを含む隕石を「コンドライト隕石」と呼び、含まれるコンドリュールの大きさや、含有量でさらにコンドライト隕石は分類されます。

コンドリュールは1500℃から1900℃に達する急な加熱の後、急速に冷却されたことによってできたと考えられており、これらの微粒子同士がくっついて、隕石の母天体である小惑星に成長する以前に、宇宙空間で形成されていた物質と考えられています。

こうした結果から、このサンプルは間違いなくイトカワから持ち帰られたものと確認がとれ、また、これまでも光学観測からイトカワの組成はこうしたコンドライトと近い物質であると推定されていたことが実証されました。この結果は同日に公表され、世間を大いに沸かせました。

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その後、12月7日には、さらにサンプル容器B室が開封されました。サンプルコンテナAでの実績では、テフロン製ヘラによる採取では、微粒子がヘラに付着して取れなくなってしまうということもあったころから、今回は、サンプルキャッチャーをひっくり返して振動を与え、石英ガラス製の円盤に粒子を落下させるという方法が試されました。

この結果、今度は大きなもので300マイクロメートルを超える粒子を回収することができ、翌年の2013年3月15日までには、さらに400個ほどの粒子が回収されました。

回収された粒子は初期分析のため国内の各研究機関に配付された他、NASAや公募によって決まった各国の研究機関にも提供されることが決まり、さらに一部のサンプルは将来、もっと分析技術が進歩したときに改めて分析をすることになり、手つかずのまま保存されることになりました。

結局、各研究機関における粒子の初期分析はその年一杯かかり、翌年の1月になってようやく「SPring-8」での本格的な分析が始められました。SPring-8(スプリングエイト)とは、兵庫県の播磨科学公園都市内にある大型の「放射光分析施設」です。

輝度・エネルギー・指向性などの点で世界最高クラスの放射光を発生させることができ、これをイトカワから得られた微粒子にぶつけて、X線領域の光や、よりエネルギーの低い赤外線を発生させ、これを分析することによって、より詳しい組成を調べることができます。

こうした科学分析だけでなく、一般の犯罪捜査などに使われることもあり、最近では和歌山毒物カレー事件での毒物分析に使われたことがあり、またオウム真理教の事件では警察庁長官狙撃事件の重要人物とされる巡査長のコートやメガネの付着物分析に使用されました

このスプリングエイトによる分析はいまだ続けられており、昨年3月にアメリカで開かれた第42回月惑星科学会議でその分析結果の中間報告が発表されましたが、最終的な報告書上程はまだまだ先になるようです。

しかし、いずれにせよ、はやぶさが地球重力圏外にある天体の固体表面に着陸し、ここからサンプルを持ち帰ったことは間違いなく、これは大きな偉業であるとして、JAXAは内外に喧伝しています。

ただ、地球重力圏外にある遠くの天体から世界で初めて、サンプルリターンに成功したのは、2006年にカプセルを帰還させたアメリカの彗星探査機スターダストです。とはいえ、スターダストは、天体の固体表面に着陸したわけではなく、宇宙空間に漂うチリを捕獲したもので、はやぶさのように天体着陸はしていません。

また、スターダストの探査は氷の粒をまき散らしながら消えゆく彗星対象でしたが、はやぶさのミッションは、たとえ小さくても「惑星」対象であり、小惑星といえどもここに直接着陸・離陸し、地球に還ってきたというのは、確かにすごいことです。

しかもイトカワは平均半径が約160メートル、長径500メートルあまりしかない小天体であり、これは、従来の惑星探査機が探査を行った中で最も小さな天体であり、地球を50mのガスタンクに例えると、イトカワは1.3mmの仁丹サイズにすぎません。

またイトカワは楕円軌道を持っていますが、近日点では1億4256万kmも離れており、遠日点で2億5356万kmものはるかかなたにある天体であり、これにピンポイントで着陸を成功させるというのは、ちょっと考えただけでもすごいことだということがわかります。

もっとも、こうした小惑星へのチャレンジは1990年代から始まっており、初の小惑星探査機は1991年にガスプラという小惑星を探査した、アメリカのガリレオでした。また1996年打ち上げの同じくアメリカ発のリニアシューメーカーも小惑星を周回し、軟着陸を成功させました。が、いずれもはやぶさのように帰還はしていません。

従って、小惑星に着陸後、離陸・帰還したということになると、世界初の探査機はやはり、はやぶさということになります。

しかし、です。世界に誇る宇宙開発技術、と文部科学省が胸を張るほど、このはやぶさは大成功を収めたとは言えないのではないか、という批判があります。実際、はやぶさはそのミッションにおいて多くの失敗を重ねており、それを乗り越えての帰還は評価されるべきものですが、サンプルリターンはそのおまけ、と酷評する人もいます。

はるかかなたの天体にピンポイントで探査機を着陸させ、しかも戻ってこれたというのは、確かにすごいことではあるのですが、その過程においては数々の致命的なミスを犯しており、サンプルを持ち帰ることができたのも、怪我の功名ではないか、といわれます。

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たとえば、着陸着陸といいますが、そもそもはやぶさのイトカワへの着陸は予定されていたものではありませんでした。はやぶさには、火薬で弾丸を発射し、これをイトカワに高速で打ち込んで、舞い上がる粉塵を吸い上げる機能が付いていました。

これを行ったのち、すぐにイトカワを離れることになっていため、これは、「タッチ&ゴー」にすぎず、着陸というよりは「タッチダウン」と呼ぶべきものでした。

また、はやぶさは、イトカワに2度も、タッチダウンしているにも関わらず、最初のタッチダウンでは何も回収できていません。

この最初のタッチダウンでは、後の分析でわかったことですが、30分もの間、イトカワにどっしりと座っていたことがわかっています。

意図としての出来事ではなく、これを果たして着陸と言えるのかどうかもありますが、ましてやそれよりも、この間何も動作していなかったことがわかっており、ちゃんと仕事せんかーい、と突っ込みたくもなってしまいます。

最初のタッチダウンの際、はやぶさはまず、ターゲットマーカーを分離しました。ターゲットマーカーというのは、はやぶさへの接近を安全に行うために、着陸地点となるイトカワ上にポトリと落す物体で、重力の小さなイトカワ上で弾まずに確実に定着するよう、薄いアルミ製の袋にフィルム材料を粒状にしたものを中に納めています。

お手玉サイズの構造体で、転がり防止用の4つのとげが付けられており、これをはやぶさが空中から広角カメラでフラッシュ撮影し、その反射光を確認しながら、正確位置を計算し、ピンポイントでそこに着陸させます。

ターゲットマーカーを先に着陸地点となるイトカワ上に落としておき、ゆっくり接近しながら、フラッシュで照らした画像から自分の位置を内蔵コンピュータで計算し、姿勢制御するしくみですが、イトカワはこの処理を複数回行って、予定通り1回目のタッチダウンに挑戦しました。

この最初のタッチダウンでは、その後の解析によって、「はやぶさ」はなんと小惑星への「着陸に成功」していたことが分かりました。ただしこのときは、サンプルを吸い上げるための筒である、「サンプラーホーン」が小惑星の表面に接触する前に、コンピュータがイトカワ表面の何かを障害物として検出してしまい、「危ないので逃げよう」と判断しました。

前述のとおり、タッチダウンの際、はやぶさに火薬で弾丸を発射し、これをイトカワに高速で打ち込む予定でしたが、タッチダウン中止指令の中には、この弾丸の発射中止の命令も入っていましたので、このときは弾丸を撃ちませんでした。

ところが、タッチダウンの指令が送られたのに、なぜかその後「はやぶさ」は小惑星を離脱せずに、そのまま小惑星に降下し続けました。原因はよくわかっていないようですが、このため最初にホーンの先端が表面に接触し、2回バウンドした後に、コテンと小惑星の表面に倒れて、30分ほどその場に居座ってしまったのです。

はやぶさには、地球との通信を行うアンテナは3種備わっており、これらのアンテナははやぶさの制御装置と地球の地上局との間を電波通信によって接続するのに用いられていました。また、探査機の姿勢や電力状況によって3種のアンテナは切り替えられ、いずれか1つが常に地球との通信を維持するようになっていました。

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間の悪いことに、ちょうどこのときは、このアンテナの受信状態を切り替えるときで、はやぶさは地球からの、「どうしたんだ、何をやっているんだ?」という問いかけを受信できず、その返事を寄こさなかったため、地上局側は着陸の事実を把握できませんでした。

その後アンテナの切り変えが終ったのにもかかわらず、通信途絶が長すぎることを不審に思った管制室は緊急指令で上昇を命じ、ハッと我に返ったはやぶさは離陸を開始しました。

ところが、管制室側ではまさかはやぶさが着陸を果たしているとはつゆ知らず、しかしそれを知らなかったとはいえ、月以外の天体においていったん着陸した探査機が再び離陸を成し遂げたというのは奇しくも世界初の出来事となりました。

タッチダウン中止モードが解除されないまま降下してしまったはやぶさからは、この離陸の際にも当然弾丸は発射されませんでした。しかし、のちにはこのときの「不時着」の衝撃でイトカワの埃が舞い上がり、回収された可能性もあると考えられました。

2回目のタッチダウンは、この最初のタッチダウンの失敗を反省して、3度のリハーサルを終えたのちに開始されました。このときは、それまでの降下リハーサルの成果を発揮して、サンプラーホーンの先端が約1秒間だけ小惑星の表面に接触して、すぐに上昇するという、予定通りのタッチ&ゴーができました。

ところが、弾丸を撃つために必要な着地信号が正しく検出されたことも確認できたにもかかわらず、実際に弾丸発射の火薬が爆発したかどうかだけは確認できませんでした。

この火薬の爆発を確認する情報は、「はやぶさ」のメモリーに書き込まれます。しかし、小惑星表面から上昇して地球に通信を送り始めた頃、「はやぶさ」は燃料漏れを起こして姿勢を崩し、数日間、地球との通信が不通になってしまいました。

その後、通信は回復しましたが、地球との通信が途絶えた間に「はやぶさ」は一度凍りつき、もし発火したなら一時的なメモリーに書かれていたはずの火薬爆発の記録は失われてしまっていました。

しかし結局、その後残された情報から周辺状況を調査すると、弾丸はやはり発射されなかった可能性が高いことがわかりました。そしてもし、2回目のタッチダウンでも弾丸が撃たれていなかったら、当初の予定通り1秒ほどしか小惑星に接触していなかったので、サンプルはほとんど採れていないと考えらえました。

その後、はやぶさからは試料採取のための弾丸発射の火工品制御装置の記録が取得でき、それによれば、正常に弾丸が発射されたことを示すデータはやはり確認できず、弾丸は発射されなかった可能性が高いことがわかりました。

弾丸が撃ち込まれた衝撃で飛散するであろう「岩石のかけら」のような大きなものは採取できなかったわけですが、ただし、2回もタッチダウンしていることから、その衝撃で少量ながらも塵のようなものは採取できている可能性はあるとされました。

この想像は当たっており、地球に帰還したカプセルからは、岩石のような大きなものは発見されず、上述のような塵以下のサイズのものが回収されました。しかし、正常に弾丸が発射されていれば、もっとイトカワの組成がわかるような重要なサンプルが得られていたかもしれません。

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こうした点が、はやぶさの成功は怪我の功名だと批判されるゆえんですが、それ以上に、はやぶさはもうひとつ大きな失敗をしています。実は、はやぶさにはイトカワの表面を走り回るための、ローバーが搭載されていました。

MINERVA(ミネルバ)といい、これは、”MIcro/Nano Experimental Robot Vehicle for Asteroid” の略です。当初はアメリカ航空宇宙局 (NASA)が開発中だったローバーの搭載が予定されていたのですが、これがキャンセルされたため、それまで日本でのんびりと開発されていたものが、急遽準備されるようになったものです。

NASAが開発していたローバーは岩石組成を測定するために、赤外線とX線の分光器を搭載するなどの高度な性能を持っており、NASAはこれに約25億円をつぎ込み開発していました。が、近年の財政縮小によって、宇宙開発の事業費が削られ、このローバーの開発も中止となりました。

一方、JAXAのはやぶさ本体の開発コストは127億円でした。このNASAのローバーは、これだけでもこのはやぶさ開発費の1/5の値段であり、アメリカと同じく財政縮小が求められていた日本でも新たにこれと同じ費用をつぎ込むのはかなり難しい状況でした。

このため、はやぶさ打ち上げ事業には、「ミネルバ開発費」という予算は計上されず、正式なプロジェクトとしては扱われないことになりました。このため、開発費は技術研究費用からなんとか捻出されることになり、民生品や宇宙仕様品の廃棄部位の使用、宇宙用品の御用達メーカーによる無償提供などで開発コストが大幅に削減されました。

その費用は公表されていないのでよくわかりませんが、せいぜい1~2億円でできたのではないか、ともいわれているようです。

急遽搭載が決まったローバーであり、しかももともとは予定されていなかったために、ミネルバは当初、カウンターバランスの代わりになればいいさ、程度に考えられていたようです。

あまり期待されていなかった装置ではあるのですが、しかし、せっかくなら最小限の装備を載せようと、ミネルバには表面から突き出たピンに内蔵された6つの温度センサーが取り付けられ、これ以外にも、3つのカメラなどが搭載されるなど、それなりに智恵を絞った機能が搭載されました。

カメラは3つとも同じものであり、2つのカメラは同一方向に向けて隣同士に設置され、近くをステレオ視可能であり、これは主に小惑星表面を撮影する予定で、残り一つのカメラは2台のカメラと反対側に据え付けられ、はやぶさのタッチダウン時に上空から小惑星を撮影することを主目的とされました。

つまり、NASAのローバーのような岩石組成を分析できるような高度な機能はありませんでしたが、今まで誰も目視したことのない、小惑星の表面の様子を詳細に撮影できる装置であり、また着陸に成功していれば、小惑星を走破した世界初のローバーとしての栄冠を得ることができるはずでした。ところが、はやぶさはこのミネルバ放出にも失敗しました。

ミネルバは、着陸のために行われた3回のリハーサルのうちの、3回目で放出されました。本番ではなくリハーサルでミネルバの放出を行うことになった理由は、はやぶさ本体による小惑星からのサンプルリターンを目的とする本番時に、ミネルバ放出を同時に行う余裕はないと判断されたためでした。

そもそもこのプロジェクトは、はやぶさによるサンプル回収というミッションが主目的であり、その完遂を求められていた状況では、残された燃料は少なく、ミネルバを安全に着陸するためだけにリハーサルをもう一回追加する時間的余裕はありませんでした。

実は、はやぶさの2回目のタッチダウンを確実に成功させるためには、近距離レーザー距離計という自分の位置を特定する装置を作動させることが必要とされました。ところが、既に一回タッチダウンに失敗して燃料を消費してしまっているため、改めてこの装置の事前試験をするためのリハーサルの機会は残り1回しかありませんでした。

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つまり、近距離レーザー距離計の試験を行ってその安全を確かめたあとに、ミネルバ自体がその機能を使って着陸することは許されず、ミネルバ自体の着陸の安全性は無視せざるを得なくなりました。

このため、近距離レーザー装置の試験リハーサルとミネルバの放出は同時に行われることになり、ミネルバの放出は、地上から電波による指令で行うことになりました。これは、ミネルバが持っている自律機能を使った自動着陸ではなく、いわば「手動」放出を行うことと等しいものです。

地球とイトカワ間の通信に片道約16分かかるため、はやぶさからのデータを見ながら、往復分である約32分後のはやぶさの位置と速度を予測しながらミネルバの放出を決定することになります。

こうして、11月12日15時8分、地上からミネルバ放出のコマンドが送信されました。ミネルバはイトカワ上空70メートル、イトカワとの相対速度は秒速5センチ以下で放出される予定でしたが、果たしてミネルバの放出は失敗しました。

このリハーサルでは、イトカワに接近し、近距離レーザー装置の試験は無事完遂しました。ところが、リハーサルを終えて、ミネルバ放出するコマンドを送るより前に、はやぶさに対して上昇するよう指示するコマンドが先に送られるという、考えられないような人為的ミスが発生しました。

その直後に放出のコマンドが送られ、ミネルバははやぶさから放出されたものの、このときはやぶさは既にイトカワから秒速15センチで離脱上昇しつつあり、その高度は約200メートルにも達していました。結局ミネルバはイトカワに着地することなく、宇宙を漂うハメになり、イトカワとともに地球重力圏外を回る、「史上最小の人工惑星」となりました。

人工惑星は人工衛星とは違います。人口衛星が惑星の周回軌道を廻る衛星軌道にあるのに対して、これは太陽・恒星を周回する公転軌道上にあるものを指します。太陽を観測する探査機やフライバイ観測を終了した惑星探査機がそのまま人工惑星となる例もたくさんありますが、これほど小さいものはこれまではありませんでした。

しかし、ミネルバははやぶさから分離後、約18時間に渡って通信を継続しました。もし無時に着地していれば、イトカワの自転周期から考えて3時間前後で夜間となるため、いったん通信が途絶するはずでした。しかし継続して通信できたことからも、ミネルバはイトカワに着地することなく、人工惑星として宇宙空間を漂っていたことがわかりました。

その後、はやぶさは2度目のタッチダウンを成功させましたが、上述のとおり弾丸を発射できなかった可能性が高く、サンプルを無事回収できたかどうかもわからないまま、地球に帰還しました。しかし、その途中に何度もトラブルを起こし、時には完全に通信も途絶えて、帰還が絶望視されるといったこともありました。

それだけに、世間でも最初はそれほど「はやぶさ」への関心が大きかったわけではありませんでした。はやぶさの着陸失敗のほうがは非常に大きく取り上げられ、その後実は着陸していたことが取り上げられたにもかかわらず、電波を捉えられなくなり、帰還が危ぶまれるようになるとほとんど報道されないようになりました。

ところがマスメディアが関心を失っていく一方、インターネット上でははやぶさに関する話題の盛り上がりがあり、次第に注目を集めていきました。2010年6月13日の地球帰還が近付くにつれてニュースやワイドショーで取り上げられる機会も増え、NHKも「傷だらけの帰還 探査機はやぶさの大航海」を放送しました。

NHKはオーストラリアに取材班を送り、大気圏再突入の模様をハイビジョンで撮影して翌14日未明から定時ニュースの冒頭で繰り返し放送しましたが、にもかかわらずなぜかこの模様の生中継を行わず、民放も同じく生中継しなかったため、失望の声も上がりました。

JAXA自身もマスコミへの情報提供にはかなり消極的であったようで、正確な突入時刻などを公表しておらず、もしこれが公表されていれば、生中継を企画できた放送局も多かったのではないかという批判がなされました。

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ところが、翌日14日の朝刊各誌が1面トップに写真付ではやぶさ突入の記事を掲載すると、民放各局もはやぶさの帰還を報道し始めるなど、急にこの話題が熱狂的に取り上げられるようになり、国民的な関心も高まっていきました。

やがてはやぶさのカプセル帰還成功には各界からは絶賛する発言が相次ぎ、複数の技術的なトラブルに見舞われ帰還を絶望視されつつも、それを乗り越えて地球への帰還を目指すはやぶさの旅程は、多くの日本人に「美談」として受け止められました。

はやぶさに対する反響の一環として、模型や書籍、果ては日本酒といったグッズも出され、無人探査機を扱った商品としては例外的な売れ行きを示しました。たとえば、プラモデルメーカーの青島文化教材社から発売されたプラモデルは、同社における通常のヒット商品と比べて約4 ~5倍もの受注があり、初回製造分が数日で売り切れました。

はやぶさの困難な旅程を叙情的に描いたプラネタリウム番組が公開され、ふだんプラネタリウムなど見向きもしない人たちの足を博物館に向かわせ、異例の人気を博しました。

しかし、この「はやぶさブーム」をリードしたのはやはり当初からのインターネット上での盛り上がりでした。実は、JAXAは、はやぶさの打ち上げに際して、「星の王子さまに会いに行きませんか」というキャンペーンを実施し、これによって国内外から88万人の署名を集め、これをターゲットマーカーに入れていました。

はやぶさが最初にイトカワへの着陸を試みたとき、このターゲットマーカーが無事イトカワに着地したことだけで、この投下成功のニュースがネットに氾濫するようになり、多くの励ましのメールがJAXAに届けられました。

これに気をよくしたJAXAは、さらに本番のイトカワ着陸の際には、管制室のインターネット中継や、ブログによる実況をOKしました。

2度目の着陸の際には、管制官たちが徹夜の監視体制の際に飲む「リポビタンD」の空き瓶が管制室の机にどんどん増えていく様子がブログを通して紹介され話題になり、後にこのブログを書いた人のもとには大正製薬からリポビタンDが2カートン贈られたといいます。

こうした人気を受けてJAXAのwebサイトでは、ミッションの経過を絵本仕立てで紹介した「はやぶさ君の冒険日誌」が公開されるようになりました。また、音楽家、福間創が、はやぶさの地球への無事帰還を願って作曲した、「swingby」という楽曲を相模原のJAXA宇宙科学研究本部の一般公開イベントにおいてBGMとして正式に採用しました。

地球帰還に向けて最後の軌道修正に入った2010年4月には特設ページをつくり、プロジェクトマネージャーの川口淳一郎を始めとする関係者たちのメッセージが掲載されたほか、ブログやTwitterで状況が報告されました。

Twitterでは「はやぶさ君」“本人”がつぶやいたり、「あかつきくん」や「イカロス君」と会話することもありました。リアルタイムで多くの情報が公開されたことによりネットでの注目を集め、はやぶさを擬人化したキャラクターや、はやぶさをテーマにしたフラッシュ・MADムービー・楽曲などが作られました。

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2010年6月13日の大気圏再突入の際には、前述のように生中継を行った放送局が皆無であったのに対し、動画配信サイトでは現地からのインターネット中継が行われ、ニコニコ生放送に延べ21万人、JAXAの配信に36万アクセス、和歌山大学の配信に63万アクセスが殺到し、それぞれ視聴者数が制限されたり回線が繋がりにくくなりました。

Twitterでは、再突入を捉えた動画や画像が公開された頃を中心に、10分間辺り最大で27,000件を上回る発言がはやぶさの話題に費やされ、これは翌日の同時間帯に放送された2010 FIFAワールドカップにおいて、日本対カメルーン戦でゴールを決めた本田圭佑に対する、10分間最大16,000件の発言を圧倒的に上回りました。

さらにはやぶさの帰還後、今上天皇も、天皇誕生日に先立つ2010年12月20日の記者会見で、はやぶさを賛辞する発言をされ、また皇后は、はやぶさが大気圏に突入したことを和歌に詠まれており、これは「その帰路に己れを焼きしはやぶさの光輝かに明かるかりしと」というものでした。

こうしたはやぶさ人気を受け、この当時はまだ民主党が政権を握っていましたが、このときの総理大臣だった、菅直人首相は参議院本会議で、後継機「はやぶさ2」の開発を推進する考えを示し、当時の文部科学大臣川端達夫や、福山哲郎官房副長官もはやぶさの後継機開発について「来年度予算での扱いを検討したい」と述べました。

また、事業仕分けで「どうして2番じゃいけないんですか?」という発言で有名になった蓮舫行政刷新担当相も「国民の様々な声は次期予算編成に当然反映されるべきだ」と語り、これら一連の発言に対して、読売新聞は鳩山政権下ではやぶさ後継機の予算が削減されていたことを指摘し、「現金すぎ」と民主党政権を批判しました。

かつて司馬遼太郎さんは、「日本人ほどミーハーな国民は、世界的にみても稀有である」といった意味のこことを書いておられましたが、まったくその通りだと私も思います。

数々の失敗を重ねたのにもかかわらず、一定の人々が賛同し始めると、とたんそれらの失敗を忘れ、逆に試練を乗り越えて帰還したヒーローに祭り上げ、皆がその「美談」に酔いしれるようになっていくというのは、ミーハー以外の何物でもありません。

最初はまったく興味もなかったものに対しても、次第に大勢がシンパシーを感じるようになっていく、というのは、単一民族で構成されている日本人の癖のようなものかもしれませんが、言い方を変えれば個性のようなものかもしれず、皆が皆でお祭りに酔いしれることができるというのは、ある意味幸せかもしれません。

おめでたい、という言い方もありますが……

とはいえ、人は失敗を重ねて成長していくものです。現在計画されているはやぶさ2では、
先代での失敗を教訓にして、今度こそは怪我の功名ではなく、世界に胸を張って成功と言えるようなしっかりとした成果を得てほしいものです。

この「はやぶさ2」ですが、「はやぶさ」のときもそうでしたが、当初よりインターネットによりその開発を支持する声が高まっており、初代のはやぶさが帰還したその翌日には、早くもオンライン署名サイトで「はやぶさ2予算増額の嘆願署名」が掲載されたそうです。

はやぶさ2については、JAXAも既に開発がかなり進んでいることを表明しており、順調に開発が進めば、今年度中(2014年度中)にもH-IIAロケットで打ち上げられることになるようです。

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今度は、イトカワと同じ地球近傍小惑星である、「(162173) 1999 JU3」への着陸およびサンプルリターンが計画されているということで、基本設計は初代「はやぶさ」と同一ではあるものの、イオンエンジンの推力も向上させるとともに「はやぶさ」の運用を通じて明らかになった問題点を改良した準同型機となる予定です。

サンプル採取方式は「はやぶさ」と同じく「タッチ・アンド・ゴー」方式ですが、事前に爆発によって衝突体を突入させて直径数メートルのクレーターを作ることによって深部の試料を採取できるようにするなど、グレードアップしているということで、着陸機の「ミネルバ2」も搭載されます。

また、粘りのあるシリコンで砂を採取する方法も考えられており、これら二つの方法を用意することでより確実に試料を取るようになり、さらには魚眼レンズを装備したカメラが搭載され、サンプリングの際の撮影と巻き上げられた粒子の光学観測も行われます。

先代が航行途中にトラブルに見舞われたため、安定航行を目的としてさまざまな変更がおこなわれているということで、ミネルバの着陸失敗の原因にもなった通信システムを見直し、「はやぶさ」のようなパラボラアンテナに代わって新型のアレイアンテナを使用し、破損があった燃料配管や御装置などにも信頼性向上などの改良も行われているそうです。

ターゲットとされる「(162173) 1999 JU3」という小惑星からのサンプルリターンは、新たな生命の起源の論説をもたらす可能性もあるそうです。

このJU3はC型小惑星と呼ばれる主として炭素でできた小惑星で、アミノ酸のような有機物が存在する可能性があります。水や有機物など、昔からそれほど変質せずに残っているより始原的な物質を含んでいるとされる小惑星で、こうした有機物を含んだ石がここから離れ、隕石として地球に落ちたとすれば、ここが生命の起源と考えることができます。

とくにアミノ酸は、上述のアメリカの探査機スターダストのミッションにおいても彗星の尾から採取されていますが、(162173) 1999 JU3にも存在している可能性が高いといわれています。

また、観測により「含水シリケイト」という、水を含んだ鉱物の存在が推定されており、実際に存在するかどうかは不確定ですが、その表面での存在が期待されます。また、JU3は大きさもイトカワより大きく、表面は一様ではないため、このほかにもいろいろな物質が存在する可能性もあります。

これまでの国内外の観測から、自転周期は約7時間半で、これは、約12時間の自転周期を持つイトカワよりも速く、形はイトカワとは異なり、割と球状に近い形をしており、とはいえ多少いびつで、サトイモに近い形だそうです。

直径は約920メートで最大540メートルのイトカワよりも若干大きめですが、それでも探査対象としてはかなり小さい天体であることには変わりはありません。

2014年度中に打ち上げられた場合、2018年にもはやぶさ2は1999 JU3に到着する予定で、うまくいけば、2020年に地球へ帰還することができるそうです。

東京オリンピックの年でもあり、楽しみではあります。今度は恥じることなく全国民がミーハーになれることを期待しましょう。

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