緯度1度の距離

佐原は、霞ヶ浦の東端から南へ10kmほど行ったところにあります。すぐ北側2kmほどのところに利根川が流れており、その支流の小野川は運河として機能するよう、底ざらいや岸壁が整備されており、これを通じてかつては、あたり一帯で獲れた豊富な穀物を江戸へ、あるいは外港の鹿島へ運び出していました。

この小野川沿いは、古き時代を思い出す懐かしい町並みが江戸時代そのままに保存されています。文化財でもある銀行や書店、呉服屋、乾物屋などなどの古めかしいお店が立ち並んでおり、東京からもほど近い人気の観光スポット。6月のあやめの時期には、小野川を中心とした周辺の運河を通って舟にゆられながら水郷を見物できるほか、7月と10月の大祭には豪華な山車(だし)も引き出されて、より一層観光客で賑わいます。

私も利根川の環境調査をしていた時期があり、この佐原には何回か行ったことがあります。佐原市民の方には大変失礼ですが、佐原の駅前はひなびたというか、ごく平凡な街並みなのに、この小野川沿いの街並み保存地区に入るいなや、いきなり時代を遡ったような感覚におそわれるほど、風景が一変。

両側に柳の木が並ぶ石造りの運河の中には、昔ながらの手漕ぎの和船などもあって、もし観光客がいなければ、本当にタイムスリップしてしまったのではないかと思えるほど、江戸時代そのままの町並みが残っていて大変風情のある風景でした。

伊能忠敬の旧宅は、この街並みからややはずれた場所にあり、忠敬自身が設計したという母屋と店がその当時のまま保存され、公開されています。忠敬は江戸の八丁堀亀島町(現日本橋茅場町)の自宅で晩年を過ごし、ここで亡くなったため、この佐原の自宅には戻ってきませんでしたが、この佐原の観福寺にも遺髪をおさめた参り墓があるそうです。ちなみに、遺骨は上野の源空寺に埋葬されました。

その忠敬は、50才で隠居して、この旧宅を離れ、その年齢で新たに暦学を学ぶという希望に燃えて、江戸にやってきました。

そして、そのころちょうど、幕府の暦局に招へいされていた天文学者の高橋至時に弟子入りします。また、高橋と同じく大阪の麻田剛立の高弟であり、高橋とともに暦局に入った間重富という知己も得ながら研鑽を重ね、やがて忠敬は、天体の観測や測量の技術にかけては、師匠の至時以上の技術を持っているとまで評されるようになっていました。

緯度1度の距離

その当時、高橋至時らの暦学者の間では、緯度1度の長さが実際にはどれくらいあるかが学問上の大きな話題になっていました。緯度1度の南北の距離については、30里とも32里ともいろんな説が入り乱れていましたが、いずれも実測に基づいた結果はなく、検証することはできません。

緯度1度の長さが確定しなければ、地球の大きさも測れないわけで、これは暦学上の大きな問題でありました。忠敬もこれに強い関心を持ち、浅草の暦局と黒江町の自宅が3キロメートルほど離れていたところから、この両地点の距離を計測し、その緯度の差と比較して緯度1度の長さを算出しようと試みました。

暦局と黒江町の緯度差は約1分半であり、この測定値に忠敬は自信を持っていましたが、問題はどうやってその距離を測定するかです。これを正確に測るには、間縄などの道具が必要になります。間縄は、現在の巻尺に相当するもので、1間ごとに目盛を付けた全長60間(約11m)の縄で、使い勝手のよさを考え、軽くて丈夫な麻縄が用いられたようです。

この間縄を使って、暦局と黒江町の長さを計測しようというのですが、しかしいざ、これを使って地上の長さを計ろうとすると、建屋が込み入った江戸の町では、思うように縄がはれず、直線距離を測ることは至難のわざでした。直線で縄を張ろうとすると、家々の屋根の上に上がらねばならず、そんなことを幕府が簡単に許すわけがありません。

しかたなく、忠敬は暦局と黒江町の間を何回も歩いて歩測を繰り返し、さらには磁石を使って南北の距離を出してみましたが、どうしても正確な測定ができません。そこで至時に相談したところ、至時は「たとえ距離を精密に測定することができたとしても、そんなに小さい緯度の差や距離から、緯度1度の長さを計算したのでは、信用のおける数値を得ることは無理だろう。」と答えました。

実は至時は、忠敬から相談を受けた時、既に緊迫する政治情勢をにらみながら、その後忠敬によって実現する蝦夷地測量の計画を自らも考えていました。

18世紀の後半には、鎖国日本の近海にしばしば外国の艦船があらわれ、水や食料の補給の要請ばかりでなく、通商まで求めるようになっており、鎖国をポリシーとしていた幕府の悩みの種になりつつありました。

1792年(寛政4年)には、帝政ロシアのラクスマンが根室港に入港し、日本人漂流民を送り届けるのを口実に、あからさまに通商を要求してきました。

このとき、幕府は通商は拒否しましたが、長崎への入港許可証ををラクスマンに与えました。その後、ロシアは、1804年(文化元年)にその許可証を持って長崎に来航し、再度交易を求めていますが、この1800年前後のころというのは、ロシアだけでなく、アメリカやフランスの艦船が蝦夷地や紀伊大島などの住民と接触するという事件が相次いだ時期であり、幕府としても迫りくる諸外国の圧力をひしひしと感じ始めていた時期でもありました。

このため、幕府は、蝦夷地探検や調査団の派遣を実施し、幕府の直轄領とするために番屋を置くなどの対策も講じ始めました。沿海測量も実施し、蝦夷地の広さを確認しようとしましたが、測量技術が稚拙であったため、絵地図程度のものしか出来上がってきません。

幕府の天文方であり、国内の測量部門を統括する責任者でもあった高橋至時のもとには、こうした情報が集められており、早晩、自分が計画して蝦夷地の測量を行ない、幕府が欲しがっている精密な地図を作る必要性を感じていました。

そして、まずその皮切りとして、忠敬が確認したがっていた、「緯度1度の長さ」の実測を実現しようとし始めます。

至時は、その実務担当者として忠敬が適任と考えていたようです。自分が教えたその測量技術の技量は今や自分の技量をはるかに超えており、佐原の造り酒屋の頭領として、人を見る目や人を率いる手腕も優れています。

さらに優れた筆記能力があり、測地測量という膨大なデータを処理するための記録能力も申し分なく、しかも自分のように天文方という職務に縛られない隠居の身でもありました。

しかし、高橋至時が最も忠敬に期待したのは、その財力でした。幕府は蝦夷地などの精密な測量が必要としながらも、その測量をするための十分な資金を用意するにあたっては幕閣があまりいい顔をしませんでした。幕府は、江戸時代半ばから物価の高騰や、安定しない米中心財政の行き詰まりに悩まされていたためです。

従って、測量のための蝦夷遠征を実現するにあたっては、当面、幕府からの財政援助はあてにできず、自費を前提にしてでなければ、その許可を得ることが難しかったのです。

その費用は莫大なものであったと考えられますが、忠敬は、至時からこの計画について相談を受けた時、これを喜んで引き受けました。

しかし、忠敬には忠敬の考えがありました。資金難から、至時が当面はこの計画を主として緯度1度の長さを測定するだけにとどめようと考えたのに対し、忠敬は蝦夷地の実測地図作成までを目標としたいと考えたのです。

当然、忠敬が長年佐原で蓄えた銭の大半がそれによって失われることになりますが、忠敬自身の心はもうすでに老境に入っていたのでしょう。老い先短いのに金を大量に残しておく必要はない、と考えたに違いありません。

幕府当局へ提出された蝦夷測量嘆願の書状には、「後世に残るような」地図を作成したい旨の決意が述べられていたといいます。

蝦夷測量

至時は、1799年(寛政11年)の末から、幕府に蝦夷地測量の許可が早くおりるように精力的に働きかけ、それが効して翌年2月には幕府から内定の裁可を得ることができます。

しかし、本裁可にあたっては問題一つありました。それは幕府の許可が、人員も器城も船で運ぶこと、となっていたことです。至時や忠敬の蝦夷行の目的のひとつは、できるだけ正確な緯度1度の長さを確定することであり、そのためにはできるだけ長い距離を陸路で測定することが必要です。船で蝦夷地へ行ったのでは、せっかくの陸地測量ができなくなってしまいます。

このため、至時は、陸路で奥州から蝦夷地へ向かうという行程に変更してもらうよう、幕府と交渉しました。しかし、幕府としては、陸路を通れば、忠敬らの奥州の諸藩との接触は避けられず、欧米の知識の豊富な忠敬らが彼らに無用の影響を与えることは避けたい考えでした。

またこの当時は測量術は最新技術のひとつであり、いわばトップシークレットであったため、その技術の内容を幕府に先んじて奥州諸藩に知られたくなかったのです。

至時の粘り強い説得により、ようやく幕府は陸路は承認します。しかし、自らが言い出したとはいえ、陸路の移動であるがために、船のように大量の荷物を運搬することはできず、携行する器械の数は絞らなければならないというジレンマを抱えることになりました。その機器の選定や、危機不足を補うための工夫のために、忠敬たちはかなりの苦労を余儀なくされました。

やがて幕府の本裁可下り、「浪人 伊能勘解由 その方、かねがね心願の通り、測量試みのため、蝦夷地へ差し遺わされる。入念に努力せよ」との書状が忠敬の元へ送られてきました。「測量試みのため」という表現からもうかがえるように、幕府は忠敬の測量成果に大した期待を持っていなかったことがわかります。

そして、1800年4月、忠敬を筆頭として、門倉隼人・平山宗平・伊能秀蔵らを従えた一行6名が江戸の町を出発しました。忠敬の測量日記「蝦夷于役志」によれば、奥州街道を北上していたときには、一日に9里から10里、時には13里以上も歩いたといいます。一里は約4kmですから、13里といえば50km以上の道のりです。かなりの強行軍といえます。

しかも、夜には寝る間を惜しんで天体観測を行っていたといいますから、彼らのタフネスぶりがうかがわれます。

こうした「快進撃」の結果、一行は江戸出発から早くも30日目には津軽海峡を船で渡り、5月22に蝦夷地に足を踏み入れています。箱館(現函館)の蝦夷会所に顔を出し蝦夷測量の手続きを取ったあと、測量隊は室蘭、襟裳(えりも)岬、釧路と蝦夷地の東南岸を測量し続けます。

そして、根室の少し手前にある別海(現野付郡別海町)に8月7日に到着。別海の仮宿で天体観測を行い、2日間滞在したと記録に残っています。

ちなみに、忠敬の歩測の歩幅は江戸の町で訓練し、69センチと決まっていたそうで、自分の歩幅まで測量器具にしていたというところが、すごいなあと思います。この当時の蝦夷は、本州ほど道が整備されているわけではなく、当然難路ばかりであり、1日に歩ける距離もせいぜい4~5里程度でした。

道路の曲がり角では小方位盤で方位を測り、夜の天体観測は、北極星だけではなく、大熊座、小熊座など多い時には一晩に20個くらいの恒星を観測したといいます。

実は、今回の蝦夷測量には、幕府が決めた期限がありました。往路も考えると十分な時間もなくなってきたため、忠敬らは、蝦夷全土の測量を断念し、やむなく蝦夷東側だけの測量を終え、帰路につきました。

ちなみに、忠敬らが測量できなかった西蝦夷地の測量は、その後、忠敬の弟子の間宮林蔵によって行われ、この師弟の実測によって、蝦夷地全体の輪郭が初めて科学的で正確なものとなりました。

忠敬らが行った奥州・蝦夷を中心とするこの第一次測量では、宿泊日数は180日、天体観測日数は81日に及んでいます。帰路は、福島城下と二本松城下、白河城下などを通過し、10月21日に無事、江戸に帰ってきました。

測量の途中で下僕1人が暇を取った以外、他の5人は1日も病気もせず、元気であったといいます。

幕府は、この忠敬らの奥州蝦夷地測量の結果を見て、初めて忠敬の測量技術の高さに驚嘆します。この測量結果により、忠敬は、緯度1度の距離を、二十八・二里と算出し、天文方であり、師匠の高橋至時に提出しました。1里=3.9273Kmとして、110.75Kmが、忠敬らが算出した緯度一度の長さです。

現在の測量技術をもって算出されている長さとの誤差は、わずか約0.2パーセントでした……

旅鳥

最近、庭に野鳥の餌付け台をとりつけ、インコ用の餌を盛っていたところ、頻繁にシジュウカラやヤマガラがやってくるようになりました。どちらも昆虫や木の実をエサにする留鳥で一年中みられるそうです。いまのところ、この二種以外には訪問者はありませんが、これから秋冬と寒くなるにつけ、野外ではエサが少なくなってきますので、ほかの鳥たちも増えてくるかもしれません。楽しみです。

鳥には、一年中同じ地域にとどまって生活する留鳥のほか、春に南の越冬地から日本にやってきて繁殖し、秋になるお再び南の越冬地に去っていく夏鳥、そしてその逆に秋に北の繁殖地から渡来して越冬し、春にまた北へ帰る冬鳥がいます。また、北の繁殖地と南の繁殖地を行ったり来たりしていて、その途中で日本に立ち寄り、あちこちで姿を見せる鳥のことを「旅鳥」といいます。

江戸時代に、日本全国を歩きまわり、西洋人も感嘆するほど正確無比な地図を作った「伊能忠敬」の人生もまた、この旅鳥のようでした。足かけ17年をかけて全国を測量し大日本沿海輿地全図を完成させ、日本国の歴史上はじめて国土の正確な姿を明らかにし、その名を日本だけでなく全世界に知らしめた人物です。

教科書には必ず出てくるこの人の名は誰もが知っていると思いますが、もともとは商人で、しかも測量学を学び始めたのは、隠居した50歳以降という事実は、意外と知られていないと思います。よく知っているようでどんな人物だったのかは私もよくわかっていなかったので、今日はその伊能忠敬の生涯について、書いてみようと思います。

少年時代

忠敬が生まれたのは、1745年(延享2年)の江戸中期のころ。場所は上総国山辺郡小関村(現:千葉県山武郡九十九里町)で、「神保貞恒」の次男として生を受けました。

この神保家は、戦国末期に、小田原の北条氏の部下であった坂田城主の井田氏の宿老だった家系で、1590年(天正18年)に北条氏が滅亡したあと、井田氏は常陸(現茨城県)に逃れましたが、神保家は、この後土着、帰農したということです。

その末裔の神保貞恒は、小関村(現九十九里町)のいわし漁の網元、小関家に入婿となり、小関家の娘、ミネとの間に忠敬等三人の子供をもうけました。

次男の忠敬の幼名は「三治郎」。6歳の時、お母さんのミネが亡くなり、婿養子だった父は兄と姉を連れ実家の武射郡小堤村(現・千葉県横芝光町小堤)の神保家に戻りますが、三治郎は小関家の祖父母の元に残ります。その後、三治郎が10歳の時に父の元に引き取られましたが、この父の実家も小関家に劣らぬ名門で、酒造業を営んでいる大地主でした。

三治郎は、小さい時から学問が好きで、特に算術に優れていたそうです。干鰯(ほしいわし)の産地であった九十九里の村々は、昔から商人の出入りが多く、網元の小関家もこれらの商人と深くつきあっていたため、三治郎も自然と金勘定を学ぶようになったためと思われます。

また、上総・下総の人々は昔から勤勉な人が多いといわれており、三治郎が育った農村でも寺子屋で読み書きや和算を学ぶのが普通、という環境でした。父の貞恒も、分家してから寺子屋を開いていたそうで、かなりの教養人であったと伝わっています。三治郎もこの父からも学問の基本を教わりましたが、この素養があってこそ、のちの測量術の大家、伊能忠敬があるのです。

三治郎は13才の時から、算術を学ぶために常陸土浦(茨城県土浦市)の寺に通うようになり、16才になったときに、「佐忠太」と名乗るようになります。このころから、土浦の医師のもとでも経学(儒学の経典を素とする学問)の中にある医療技術も学んだと伝えられており、生まれつきの勤勉さから、このように幅広い教養を身につけながら成長していきました。

1762年(宝暦12年)、佐忠太こと忠敬が17歳になった年の夏、近隣の郷で土地改良事業をやろうという声があがり、佐忠太は算術の知識を見込まれ、その若さで現場監督を頼まれました。

この時の仕事ぶりが評判になり、神保家と伊能家の両家と深い親戚関係にあった平山藤左衛門という人物の目に留まり、佐原村(現佐原市)の伊能家へ養子として入るという話が持ち上がりました。伊能家は、佐原村の名門といわれており、父の貞恒も忠敬が次男であることから依存はなく、こうして忠敬は伊能家に婿入りすることが決定されました。

伊能家の当主として

この伊能家は、佐原の小野川の東側に広大な屋敷を持ち、代々この地域の名主をつとめていました。名主として佐原村の用水工事のような大工事でも重要な役割を果たしていましたが、一家の主人が2代も続いて若死するという不運が続いており、もともとの家業である米穀売買や酒造は衰運に向かっていました。

佐忠太は伊能家に入ると、まず、家業であったその酒造と販路の拡大につとめました。伊能家に入ってすぐ、名前を「源六」に変えましたが、後に三郎右衛門と改め、さらにその後、名を忠敬と改めました。

忠敬が、伊能家の主人となって18年目の32才のころには、努力の甲斐もあり、傾いていた家業も順調に伸び、江戸に出店までできるようになっていました。伊能家は「千石造り」といわれる大酒造家になっており、奉公人も常時20人以上、酒造りの間は50人以上にもなったそうです。忠敬も人を見る目、人を使う手腕もさらに鍛えられ、佐原の造り酒屋の大店の主人としての風格を備えるようになっていました。

江戸時代の佐原村は、関東一円の中でも有数の大村でした。1768年(明和5年)の記録では、家数1,322戸、人口も5,085人を数え、村といいながらも実質は町のような存在でした。佐原村民が先に作った佐原村用水と利根川の水運が、佐原村に一層の繁栄をもたらし、伊能家も存分にその恩恵を受けることができました。

江戸時代中期以降、佐原村やその近付から、多くの学者や文化人があらわれたのも、江戸との水運と、その繁栄による豊かさによると思われます。忠敬をはじめとして、佐原村が生んだ学者・文化人の多くは、名主などの地位につき、村政に深くかかわった人たちでした。

1784年(天明元年)、忠敬は36才のとき、佐原村の本宿組の名主となりました。それから2年後の1786年(天明6年)、佐原村が利根川の大洪水で大きな打撃を受けたとき、忠敬は家業で得た収益の相当の部分を村民のために使用し、このため佐原村では一人の餓死者も出ませんでした。この功績によって、忠敬は佐原の領主・津田氏から苗字帯刀を許されました。

隠居志願

しかし、ちょうどこのころ、忠敬は永年連れ添った妻ミチを失いました。その後しばらくして再婚し、二男一女をもうけましたが、40才を既に超えており、先妻を失った悲しみもあり、そのまま家業を続けていく情熱を失いつつあったようです。そして「伊能家の当主としてなすべき事は終わった。そろそろ隠居してもよいではないか。」と思いはじめます。

祖父は45才、父は44才で隠居しており、長男の景敬は、もう20才を過ぎていました。自分が17才で伊能家を背負ったことを考えれば、もう家を継がせても良い年齢です。

そのころ、忠敬が興味を持っていたのは暦学でした。これまでも測量術と算術については相当な研鑽を重ねてきていましたが、暦学についてはまだ十分な知識を得ていないと感じていました。また、この当時、日本の暦学は中国の暦から西洋の暦学へ移行する転機を迎えようとしており、幕府天文方の改暦の動きと、大坂の町医、麻田剛立一門の西洋暦研究などが有識者の関心を集めていました。

忠敬が酒屋の家業にせいを出していたころ、1774年には、杉田玄白・前野良沢らがオランダの医学書を訳してして「解体新書」として刊行、平賀源内は蘭学全般を学び、1776年にエレキテルの修理や寒暖計などを発明。伊勢の商人の大黒屋光太夫は1782年に漂流してアリューシャン列島からロシアへ渡りました。10数年を経て帰国を果たし、その豊富な海外知識を桂川甫周が「北槎聞略」としてまとめて出版されました。

このように、このころは暦学以外にも、「蘭学」という新しい学問の波が我が国にも押し寄せており、江戸に識者の有人の多い忠敬はそのうねりをひしひしと身近に感じていました。

そして、1790年(寛政2年)に、45才になった忠敬はついに隠居を決意し、地頭所に願い出ます。しかし、領主の津田氏は息子の景敬が家督を継いたばかりであり、力不足とみて忠敬の隠居をなかなか許可してくれません。しかし、忠敬は、景敬に家業の全てを任せるように仕向け、暦学の書を読み、機器を買い入れて天体観測を行なうなど、隠居が許可される日を目指して独学の日々を始めます。

この間、1793年(寛政5年)には、忠敬は伊勢参宮の旅に出かけ、江戸から東海道沿いの名所旧跡を訪ね、参宮の目的を果たしてから、奈良・吉野・堺・大坂・兵庫を回り、京都とその近郊を見物し、3ヶ月以上の長旅をしています。

忠敬はこの旅で、測量・観測の記事もある旅行記を残しており、この時同行した津宮村の名主、「久保木清淵」と知り合っています。17才も年下でしたが、和漢の学問に通じ、漢学にかけては、近隣に並ぶ者がない程の学識を備えており、のちに忠敬の日本地図作製を補佐する重要なパートナーのひとりになります。

この旅の翌年、忠敬が49才になった1794年(寛政6年)、彼は幕府の改暦事業についての噂を耳にします。大坂の麻田剛立(ごうりゅう)の高弟、高橋至時(よしとき)と間重富(はざましげとみ)の二人が、近々江戸に迎えられ改暦に当たるというのです。

麻田剛立は、豊後国杵築藩(現・大分県杵築市)の漢学者の家に生まれ、幼い頃から天体に興味を持ち、独学で天文学・医学を学び、その後、国を脱藩して大阪で医師を生業としながら天文学の研究を続けた人物です。

望遠鏡・反射鏡などの観測装置を改良し、理論を実測で確認するなど、近代的な手法で天文学・測量学にアプローチした人で、無論、この当時にあってはその道の第一人者でした。その後幕府の天文方となる、高橋至時や間重富もこの麻田剛立から天文学と測量学を学んでおり、高橋至時から測量学を学んだ伊能忠敬の師匠の師匠ということになります。

改暦の話を聞いた忠敬は、興味を持っていた暦学を深めるためには、ぜひ江戸へ出てその事業に自分も携わりたいと考え、再度、隠居願いを地頭所に提出します。これまで何度も願いを出しては断られていた隠居ですが、今度は許可がおり、ようやく家業から解放されるときがきました。

そして、この隠居を境に、名前を伊能家の代々の隠居名である勘解由(かげゆ)に改名。息子や親戚の同意も得て、ようやく江戸へ出向き、好きな道にまい進できる環境が整いました。1795年(寛永7年)、忠敬50才のときのことです。

江戸へ

忠敬が本格的に暦学の研究に進もうとしていたこの時代は、それまでオランダからの知識だけで形成されていた蘭学に加え、オランダ以外の国からの知識も導入され、「洋学」と呼ばれる学問が勃興し始めていた時期であり、日本においてもようやく西洋の近代科学が根付こうとしている時期でもありました。

多くの民間の研究者たちが、この新しい学問に身を投じるようになり、天文暦学の分野でとくに名声が高かったのは、大坂の麻田剛立を中心とする民間の研究者グループでした。剛立は母国の杵築藩で医学を極めて藩医にまでとりたてられていましたが、自由に天文暦学を研究したいと望み、脱藩して大坂に住むようになっていました。そして、町医者として生計をたてながら研究を深め、「先事館」という塾を開いて多くの弟子たちを養成してい
ました。

この弟子たちの中にいたのが、高橋至時と間重富の二人でした。高橋至時は定番同心という身分の低い役人で、間重富は大坂の大きな質屋の主人でしたが、二人とも極めて優秀な生徒で麻田にも大変かわいがられていました。

麻田の先事館では実証が重んじられ、盛んに天体の観測を行なうとともに、度々観測器械の改良や考案を行なっていましたが、間重富は特に関心が深く、質屋として蓄えた莫大な財力を投入して職人に色々な観測器械を作らせ、天文暦学の発達に大いに貢献しました。

このころ、幕府は中国の暦から西洋の暦学へ移行する、いわゆる「寛政の改暦」を計画していましたが、従来の天文方の実力がおぼつかないので、大坂から麻田剛立を呼び寄せ、これに当たらせようとしました。しかし、麻田は高齢を理由にことわり、代わりに最も信頼していた高橋至時と間重合を幕府に推薦したのでした。

こうして、高橋至時と間重富は、幕府の暦局に入ることになりました。二人ははじめ、測量御用手伝いという身分でしたが、高橋の方は武士であったため、まもなく天文方に任ぜられました。二人が江戸へ来たのは1795年(寛政7年)の夏で、忠敬が隠居して江戸へ出たのが、同じ寛政7年の5月でしたから、忠敬は念願の暦学を実地で学ぶ絶好の機会に恵まれたというわけです。

忠敬は、江戸へ出ると、江戸深川黒江町(江東区)に隠宅を構え、高橋至時が江戸へ来ると早速その門をたたき、その弟子となることを願い出て許されます。高橋至時は忠敬よりも19才も年下でしたが、田舎の佐原で独学で測量学を学んでいた忠敬にとっては、その若い師の教えは最新の知識に基づいたものであり、その内容の緻密さに驚かされます。

忠敬は至時から西洋の暦法を教示される一方で、この師から日本全土の測量の必要性を教えられます。忠敬は熱心な生徒だったようで、定例の講義日での教義にあきたらず、随時文書で至時に質問していたそうです。また至時が長期の出張中も、暦局に残っていた間重富を師匠として指導を頼んだほどでした。

こうして忠敬はこの当時としては最新・最高の暦学理論を学ぶとともに、異常な熱心さで天体観測や測量の実習に励み、みるみるその実力をつけていきます。間重富も観測に必要な器械を京・大坂から取り寄せ、ときには自ら大金を投じて江戸の職人に作らせるなどして、忠敬の旺盛な知識欲に答えました。

こうして、入門後4~5年の間に、忠敬の黒江町の自宅にはいろいろな観測器械が整備されるようになり、幕府の司天文台にある機器と比べても見劣りがしないほどになりました。忠敬はこの自宅の天文台にこもり、日々、昼には主として太陽を、夜には恒星が子午線を通る時の水平高度やその時刻を測定したといいます。

そして、研鑽を極めた洋暦法の理論や計算の精密さは粋を極め、観測の成果と相まってその確かさを忠敬自身が確信していくようになります。やがて忠敬は、天体の観測や測量の技術にかけては、至時の門下で第一に推されるようになり、師匠以上の技術を持っているとまで評されるようになっていきました……

今日は、伊能忠敬の生涯に焦点を当てて書いてきました。実は、今日は伊能忠敬がその生涯の最後に携わった「大日本沿海実測全図」が幕府に納められ、それが公表された日ということで、たくさんある伊能忠敬の記念日の中でも特別の日ということのようです。全国の博物館で「伊能図」と呼ばれた「大日本沿海実測全図」の原図やコピーが公開されるのもこの日を中心としたまとまった期間になることが多いようです。

その緻密さは「目を見張る」ほどだといいますが、残念ながら本物を私はまだ見たことがありません。佐原にいけば、伊能忠敬記念館でそれが見れるようですが、機会があればぜひ訪れてみたいものです。

本日の分量は予定量を大幅に超過してしまったので、続きはまた明日以降にしたいと思います。「旅鳥」としての忠敬の足跡はかなりストイックなものだったようです。またご興味があればこのページにお越しください。

テラフォーミング

8月末から雨の降る日が多くなってきました。修善寺はおとといの夜、かなり激しい雨が降りましたが、昨夜も雨で、今日も夕方からは雨の予報です。さすが「長月」というかんじですが、これからは雨ととともにだんだんと涼しくなっていくのでしょう。

暑かった夏も終わり……とはいえ、今年はこの立地のおかげでずいぶんと暑さをしのぐことができ、助かりました。来年の夏以降も同じであってほしいものです。

バイキング

さて、今日は、1976年にバイキング2号が火星に着陸した日だそうです。バイキング計画は、アメリカ航空宇宙局(NASA)が1970年代に行った火星探査計画で、バイキング1号とバイキング2号の2機の火星探査機が火星への着陸に成功しました。

この2機は、ほぼ同じ型をした双子機で、母船である「オービタ」と着陸船の「ランダー」によって構成されていました。火星の上空まで、オービタとランダーはくっついた状態で運ばれていき、着陸予定地点付近の火星軌道上でランダーはオービタから切り離され、地表に着陸します。

ランダーのほうは、地上の観測をする一方で、母船のオービタはそのまま火星軌道上に残って、火星を空から撮影するとともに、いろんな装置を使って火星を観測し、地球に数々の貴重なデータを送ってきました。

バイキング1、2号とも当初は、着陸後90日間の探査を計画していましたが、ランダー、オービタ共に設計寿命を大幅に越えて稼動し、火星探査を続けました。バイキング1号は1975年8月20日に打ち上げられ、1976年7月20日に着陸。人類が初めて目にした火星の映像では、火星の空は本来のピンク色ではなく水色でしたが、これは送られてきた画像の波長を適切に補正していなかったことがあとからわかりました。

その後、着陸した北緯23度付近にある、クリュセ平原と名付けられた付近を走り回り、1982年11月13日までのなんと、6年あまり、2245日間も働き続け、後続のバイキング1号の稼働期間を2年以上も上回る活躍をしました。

一方、バイキング2号は1975年9月9日に打ち上げられ、1976年9月3日、バイキング1号よりもかなり北寄りの北緯48度付近にある、「ユートピア平原」に着陸。私が、まだ高校生のころのことですが、新聞一面に赤茶けた平原の写真が掲載されたのをみて、すごい!と驚いたのを覚えています。
このバイキング2号のランダーも予想を超えて、1980年4月までの1281日間働き続け、1980年4月11日に機能を停止しました。

バイキング1号、2号があげた成果は、その後のアメリカを中心とする火星探査計画のために大きな利益をもたらし、その後も実施され続けた、マーズ・グローバル・サーベイヤー、マーズ・パスファインダー、2001マーズ・オデッセイなどの火星探査計画へつながる貴重な基礎データを蓄積することに成功しました。

火星の水

そして、現在、アメリカで進行中の最新の火星探査計画は、「マーズ・サイエンス・ラボラトリー(Mars Science Laboratory、略称:MSL)」です。ついこの間終了した、ロンドンオリンピックが開催されている真っ最中の8月6日、その地上探査機「キュリオシティ」が北緯47度地点にある、「ゲールクレーター」の中にある高さ3マイル、直径96マイルの山のふもとに着陸したのは記憶に新しいところです。

キュリオシティは、2004年に火星に降り立った地上探査機マーズ・エクスプロレーション・ローバーの5倍の重量があり、10倍の重量の科学探査機器を搭載しています。火星に着陸後、キュリオシティは火星表面の土と岩石をすくい取り、内部を解析する予定で、最低でも、1火星年(2.2地球年)は活動することができるそうです。

これまでの地上探査機よりも、より広い範囲を探索し、過去と現在の火星における、生命の存在の発見に期待がかかっています。

こうした、火星探査は、アメリカによって行われてきただけでなく、ソ連やヨーロッパ、日本によって、これまでにも多くの軌道探査機、固定着陸機、自走探査機が火星に送り込まれてきています。

しかし、火星を目指した探査機のうち、約三分の二がミッション完了前に、またはミッション開始直後に何らかの失敗を起こしており、その失敗の原因は、多くが技術上の問題によるものと考えられます。しかし、特に考えられる原因がないまま失敗したり交信が途絶えたりしたものも多く、研究者の中には地球と火星間の間に「バミューダトライアングル」があると言う人もあり、火星探査機を食べて暮らしている宇宙悪霊がいるといったジョークもあるようです。

しかし、これまでで最も成功したミッションといわれているのは、なんといっても、1996年11月7日の探査機打ち上げで始まった、マーズ・グローバル・サーベイヤーで、これは、同時期に打ち上げられ軟着陸を行ったマーズ・パスファインダーと同じく、アメリカが 20年ぶりに再開した火星探査計画です。

サーベイヤーの初期ミッションは2001年1月に完了し、その後も延長ミッションを続けましたが、3度目の延長ミッション中の2006年11月に通信を絶ったため翌年ミッションは終了しています。

マーズ・グローバル・サーベイヤー計画によるその観測では、火星内上でもとくに特徴的な地形である峡谷や土石流のあとと思われる場所などが探索されましたが、それらを撮影した写真の中に、その昔、液体の水が流れる水源があったのではないかと思われる地形が発見されました。火星の地表または地表近くに水が存在している可能性がはじめて発見されたわけで、この発見は、世界中にセンセーションをひきおこしました。

さらにその後の2001マーズ・オデッセイでは、火星の南緯60度以南の南極地方の地下約3m以内の表土には大量の水の氷が堆積していることを発見。先の発見に次ぎ、世紀の大発見といわれました。

この「火星上にある水」の発見は、2003年に欧州宇宙機関(ESA)が送った探査機、マーズ・エクスプレス・オービタによっても確認されました。火星軌道上を回る、マーズ・エクスプレス・オービタが、その観測により火星の南極に水と二酸化炭素の氷が存在することを確認したのです。

NASAもそれ以前に北極について、同様の氷が存在することを確認していましたが、2003年にスピリット、オポチュニティと命名された2機のマーズ・エクスプロレーション・ローバー(地上探査機)を送り込み、2機とも2004年1月に無事に着陸に成功。そして、両方の着陸地点で過去のある時期に、明らかに液体の水が存在した証拠を発見しました。

こうして、火星には過去に少なくとも水があった、あるいは現在もあるかもしれない、という事実が次々と明らかになるにつれ、これまでは夢物語とされていた火星への有人探査や、その先にある「火星への移住」が視野に入ってきたといわれます。

テラフォーム

しかし、火星への移住?そんなの無理じゃないの~。どうせ僕らが生きている間には実現しっこないよ~という人が多いようですが、移住はともかく、案外と火星へ人間が行けるのはそう遠い将来ではない、というのが専門家のもっぱらの観測のようです。

それにしても、地球から最大で4億km弱もあるという星まで、まずどうやって行くの?というお話ですが、まず、現在実用化されている技術では、太陽の周りの楕円軌道を回っている火星が地球に最も近付いたとき(約5400km)を狙えば、現在の化学燃料ロケットを使って2年で到着することが可能といいます。

この場合、その間の食糧は?水は?空気は?というところは、やっぱり一番心配なところですが、これらの問題については日々の研究でだんだんクリアーになってきているところです。しかし実際で最も大きな問題は、こうした人間が生きるために摂取するものの確保ではなく、この片道2年、往復4年にも及ぶミッションの間のクルーの精神的安定や、クルー同士の感情のぶつかり合いの可能姓などが問題なのだそうです。

そりゃあそうですよね。逃げ場のない狭い空間に片道だけでも2年間も押し込められて精神がいかれちゃわない人って、よほど強靭な精神力を持った人でないとだめでしょう。また、クルー同士が、男性同士でも問題ありますが、男性と女性の組み合わせにもいろいろありそうで、なんだか、考えただけでもうんざりしそう。へんな話、SEXの問題とかどうするんでしょう。

しかし、化学燃料ロケットもその改良により、飛行時間を数ヶ月程度まで短縮が可能ではないかといわれており、また、新技術として、「比推力可変型プラズマ推進機」や原子力ロケットの開発などが成功すれば、2週間程度まで短縮することが出来るのだそうです。

原子力ロケットはわかるけど、なんちゃらプラズマ推進機って何だ?ということなんですが、私も詳しいことはよくわかりません。しかし、ちょっと調べてみたところ、どうやらロケット燃料にもなる、推進剤を電気によって分解し(電離)てできるプラズマを利用する技術みたいです。燃料を電離して、全体的に温度が低い「プラズマ」の状態になったものに、さらに放電を加えることによって、より高いエネルギーを持ったプラズマができるらしく、これを推進力にして、ロケットを加速させようという技術のようです。

「プラズマ」というのは、「プラズマテレビ」のほか「プラズマクラスター」なんてのもあるようで、聞いたことのある人も多いと思いますが、固体・液体・気体につづく物質の第四の状態の名称であって、「電気によって分解された気体」と考えればわかりやすいでしょう。また、こども向けの科学館などで、落雷の実験をみたことがある人もいるでしょう。実験室内での真空放電で再現することもでき、これをオブジェにした「プラズマボール」なんてのも見たことのある人がいるかもしれません。

1950年代以降にエネルギー源としての原子核融合や、宇宙物理学、さまざまな工学的応用などに使えるのではないかとしてその研究が進展し、いまや宇宙ロケットへの応用もさかんに研究されていますから、我々が生きている間には実用化するかもしれません。

しかし、火星までなんとか短時間で行けるようになったとして、そこにどうやって住むの?ということですが、この方面の研究も最近かなり活発になっているようです。

テラフォーミング(Terraforming)という言葉を聞いたことがある人もいるかと思います。これは、火星などの地球に似た星の環境を、人間を含めたさまざまな生物がそのまま居住可能なように改造することです。

火星の一日(自転周期)は地球と同じくほぼ24時間であり、赤道傾斜角が25度と地球の角度と近いため四季も存在します。これらのことから、火星は最も地球に近い惑星であるとされていて、その環境を人間が住みやすいようにするのは、案外と簡単かもしれない、という見方があるのです。

太陽との距離がより大きい火星を地球のような惑星に作り変えるためには、まず、火星の希薄な大気を、ある程度厚くして気温を上昇させることが重要になります。具体的な方法としては、以下のようなものが提案されています。

・メタンなどの、温室効果を発生させる炭化水素の気体を直接散布する。

・火星の軌道上に、ポリエチレンでできたフィルムにアルミニウムを蒸着した巨大なミラーを浮かばせ、太陽光を火星の南極や北極に当てる。これにより、火星の極冠にあるドライアイスと氷が溶け、気温が上昇すれば、大気中に二酸化炭素と水蒸気が放出され、気温の上昇が速まる。

・黒い藻類を繁殖させる、黒い炭素物質の粉を地表に散布するなどして、火星の外部からの入射光に対する、反射光を増幅させる。これにより、平均表面温度は-43℃、最低温度は-140℃という地表面温度をあげる。

このほか、火星の地下には永久凍土として水が埋もれているという説が有力なので、これが溶けて海ができれば、雲ができ、雨が降り川も流れ、地球とよく似た惑星となりうるといわれます。

ほんとにそんなことができるの?ということですが、これに対して疑問符を投げかける学者さんもたくさんいて、その中でも説得力のある意見としては、火星の引力が小さいため(火星の表面重力は地球の1/3)、居住可能な大気を維持し続けるのは困難であるという意見。また、火星は地球のように強い地磁気を持っていなので、火星表面に到達する宇宙放射線を十分に防ぐことができないのでは、という意見もあります。

これまでの研究によると、火星周回軌道上は国際宇宙ステーションと比べて放射線のレベルが2.5倍も高いそうで、3年間このレベルの放射線に晒された場合、現在NASAが採用している安全基準の限界付近まで到達するのだとか。

ただし、現在薄い大気しかない火星表面でより分厚い大気ができるようになれば、これによって放射線レベルは多少低くなるだろうといわれており、地表に設置される住居や作業場は火星の土を使って保護することができ、屋内で過ごしている間は被曝を大きく減らすことができるのではないかともいわれています。

また、火星の大気は薄いけれども、主成分は二酸化炭素のため、火星表面でのCO2の分圧は地球の52倍にもなります。しかし、これが幸いして火星上で植物は生育可能かもしれないとも言われており、もし十分な水があり、植物が二酸化炭素を吸収して酸素を大量に放出してくれるようになればしめたものです。

それにしても、火星の環境は、灼熱の水星や金星、極低温の木星、さらに遠い軌道を回っている土星や冥王星に比べればはるかに地球に近く、もっとも地球に近い天体である真空の月や小惑星などに比べてもはるかに住みやすい環境を持っています。

現在、我々が暮らしている地球上には、火星と似たような自然環境も存在しており、南極の最低気温はマイナス90度ほどであり、火星の平均気温よりも少し低いくらいです。また、地球の砂漠も火星の地形と類似しているそうで、このほか、有人気球が到達した最高高度は、34,668mですが(1961年5月に記録)、この高度での気圧は火星表面と同じぐらいということです。

こういうふうに考えてくると、我々の世代ではちょっと難しいかもしれないけれども、次の世代か次の次の世代くらいまでには、火星へちょっと旅行へ行って、「地球見」をしながら、火星で育ったおいしい果物を食べて帰ってくる、なーんてことも可能になっているのかも。

火星の植民地化による、「惑星の汚染」なるものを気の早いひとは心配しはじめているようですが、その前に、まずは、有人火星探査によって、そこに生命がほんとうにいるかどうか、というところをしっかり確認してほしいもの。もし生命がいた場合には、その痕跡を地球に持ち込むことで、逆に地球が汚染されてしまう可能性もあるのですから。

そうそう、そういえばバイキング1号が撮った写真に「火星の人面石」なるものがありましたっけ。その後、マーズ・グローバル・サーベイヤーのミッションで、ただの岩山であることが確認されましたが、もしかしたら、ほかにも「人工」の遺跡があるかも。そしてその遺跡は、映画エイリアンのような凶悪な火星人の住処のあとだったりして……

火星への移住は私が生きている間には実現しそうもありませんが、もしかしたら月旅行ぐらいは生きている間に行けるかも。今月末には再び満月の夜があるようですから、お団子を食べながら、その妄想にふけることにしましょう。まだまだ遠い火星ですが、もしかしたら火星人は我々に先んじて、既に月あたりまで来ているかもしれません……

セーマン・ドーマン

9月になりました。夜が長くなるので「夜長月」の月を略して、「長月」というそうですが、また、秋の長雨のシーズンが到来する季節でもあることから、そう呼ぶという説もあります。

9月の「草木花」とされているのは、蓮、菊、桔梗、ススキ、コスモスなどですが、なるほど秋を感じさせる涼しげな植物ばかりです。この中で、私が一番好きなのが「桔梗」。庭に植えていても、とくに強い主張はないのですが、その立ち姿が凛としていて、清楚というよりは力強さも感じられ、いつも手元に置いておきたい形です。

そういうふうに感じるのは私ばかりでないようで、古くから武士にも愛され、その武士の家紋としてよく使われていた「桔梗紋」はこの花がモチーフになりました。美濃の山県氏、土岐氏などの一族が桔梗紋を使っていたことがよく知られており、土岐士の一族であった明智光秀も桔梗紋を用いていました。また、この明智家の末裔である坂本竜馬もまた、桔梗紋を使っています。

五芒星

このほか、平安時代の陰陽師(おんみょうじ)、安倍晴明が使用した「五芒星」は、別名「桔梗印」と呼んでいて、現在も続く晴明神社では神紋とされています。

五芒星は、一筆書きで書くことができ、5つの要素を一度に表現できる図形として、洋の東西を問わず使われています。また、安倍晴明が五行(中国の自然哲学)のシンボルとして使ったように、世界中で魔術の記号として使われてきました。上下を逆向きにすると、悪魔の象徴とされることもあり、悪魔の象徴として使われる際には、デビルスターと呼ばれます。

五芒星は、陰陽道(おんみょうどう)では魔除けの呪符として伝えられており、印にこめられたその意味は、五行、すなわち木・火・土・金・水の5つの元素の働きの相克を表しているといわれています。晴明が桔梗の花を図案化して生み出したため、「晴明桔梗(せいめいききょう)」とも言われ、家紋として現在使用されているものの多くは、この清明桔梗のデザインが元であるといわれています。

また、三重県の志摩地方の海女(あま)さんが身につける魔除けも、この清明桔梗から来ているといわれ、この地方では、五芒星と格子状の印を合わせて、「セーマンドーマン」と呼び、魔除け、「魔おどし」として使っています。

陰陽道との関係ははっきりしていませんが、星形の印は晴明桔梗、格子状の印は「九字紋」と同じ形状です。九字紋の九字(くじ)とは、中国に伝わる呪力を持つとされた9つの漢字のことで、「天・元・行・躰・神・変・神・通・力(てん・げん・ぎょう・たい・しん・ぺん・じん・つう・りき)などが代表例ですが、ほかにもいろいろな文字があてられています。

陰陽道だけでなく、密教や修験道等でも主に護身の為の呪文として使われてきましたが、この文句を唱えながら、手で印を結ぶか指を剣になぞらえて空中に線を描くことで、災いから身を守ると信じられてきました。「九字護身法」ともいうようです。

これを縦四本、横五本の棒で一文字にしたものが「九字紋」で、清明桔梗のことを、「セーマン」、九字紋のことを「ドーマン」と呼び、合わせてセーマンドーマンと呼ぶようになったとか。このセーマンは安倍晴明、ドーマンは蘆屋道満(あしやどうまん、清明と同じく平安時代の呪術師)の名に由来するともいわれます。

伊勢志摩の海女さんたちは、手拭や襦袢などに、このセーマンとドーマンを貝からとれる紫色の汁で描くか、または黒糸で刺繍し、海での安全を祈願するそうです。アワビをはがすのに使う磯鑿(イソノミ)や、磯ジャツ(上着)、磯メガネなどなど、商売道具すべてにこの印をつけ、また、海女さんだけでなく、男性の漁師さんもおまじないとして、この印を褌(ふんどし)につけ、着用することもあるとか。

言い伝えによれば、星形は一筆書きで元の位置に戻り始めも終わりもないことから魔物の入り込む余地がなく、格子は多くの目で魔物を見張るという意味を持っているといいます。また、星形は一筆書きで元の場所に戻ることから「無事に戻ってこれるように」との祈りがこめられているそうです。



海の魔物

では、その海女さんたちがそんなにまでして恐れる海の魔物とはどんなものなのでしょうか。

代表的なものとしては「トモカヅキ」、「尻コボシ」、「龍宮のおむかえ」、「山椒ビラシ」、「ボーシン(船幽霊)」、「引モーレン(海の亡者霊)」、などがあるようですが、名前だけ聞くとどんなもんやらさっぱりわかりませんね。

「トモカツギ」というのは、「共(友)」が「潜く(かづく)」と書き、ようするに海女さんとそっくりの恰好をした身なりの「モノ」が、ふっと気がつくといつのまにか海女さんのすぐそばにいるということで、シンプルなだけに、ちょっと怖いですね~。

この妖怪に遭遇するのは曇天の日に限るといわれ、ほかの海女と違って頭に巻いた鉢巻の結び目の尻尾を長く伸ばしているので、それがトモカツギだとわかるのだとか。

海女が海底に潜って行くとどこからか自分とそっくりの容姿の海女がニタニタ笑いながら近づいてきます。それだけでも、十分気味が悪いのですが、その海女は、時にはアワビなどをくれるそうで、そして、手を引いて深い海底に誘い込もうとします。

アワビがたくさん採れる場所に連れて行ってくれるのかと思ってついて行くと、かなりの深みまで連れていかれ、そのままだと息が切れてしまうので、手を振りほどいて逃れます。海上に浮き上がり、今一緒だった海女を探すのですが、それらしき人影は見えません。不思議に思ってふたたび潜っていると、どこからか再びすりよって来て……

そういうときは、後ろ手にしてアワビを貰えば良いといわれていますが、ある海女さんがその通りにしたところ、そのおまじないが効かず、逆に蚊帳のようなものを被せられて苦しみ出し、無我夢中で持っていた鑿でこの蚊帳を破って助かったという話もあります。

トモカヅキに遭った海女はそれ以降、ほとんど海に潜る仕事はしないそうで、それどころか、その話を聞いただけの近隣の村の海女ですら、「日待ち」といって数日は海に潜らないようです。それほど、トモカツギは、海女さんたちが恐れる海の魔物のナンバーワンのようです。

「尻コボシ」も海女さんたちが怖がる海の魔物だそうです。「尻こぼし」とは、「尻を破壊する、削り取る者」という意味で、「こぼす」とは「壊す、破壊する」「剃り取る、削り取る」を意味する古語で、また「こぼし」は小法師、子法師を指しているともいわれます。

海にもぐる海女を突然襲い、河童のように人間のお尻から手を入れて、「尻子玉」を抜き取るといわれる妖怪で、これに襲われた死体は必ず尻の穴が開いているといいます。海で人をびっくりさせてショック死させるとも言われているので、海で突然心臓麻痺で亡くなった海女さんがいて、そういう者はお尻から心臓を抜き取られたものと考えられたため、こういう伝承ができたのでしょう。

鉄が大嫌いで、海中に鉄を落とすとこの妖怪の祟りに遭うともいわれているので、海女さんたちは鉄製の漁具などを落とさないように気をつけるそうです。

また、牛頭天王(ごずてんのう)を祀る「天王社」という神社のお祭りの日に、海に入ると尻こぼしに生き胆を奪われてしまうと言い伝えられていますが、その日にテングサ採りなどでどうしても海に入らなければならない日が天王祭と重なってしまったときには、山椒の枝を糸でまとめて首にかけるとよいとか。

海で危険な仕事をする海女さんにとっては、ちょっとしたおまじないが安心につながるのです。

「竜宮のおむかえ」というのは、おそらく昔話の浦島太郎が海でおぼれたときにカメが助けてくれたというお話からきているのではないかと思います。要するに「あの世からのお迎え」ということで、これも海で漁をしているときに急に足がつって泳げなくなったり、潜水病にかかったりといった急な症状のことを言うのではないでしょうか。

「山椒ビラシ」は、「体をちくちくさす妖怪」ということで、これはおそらく、クラゲとかエイなどのように毒を持った海洋生物に刺されたとき、昔の海女さんたちはそれを妖怪だと思ったのでしょう。私も昔、山口の海で泳いでいるとき、いつのまにかクラゲに刺されていて、足がみみず腫れになっていることがよくありました。姿がみえないので、何に刺されたのだろう、と不思議でしたが、あとで調べてみると毒クラゲだったことがわかりました。

船幽霊

こわいのは、「ボーシン(船幽霊)」と「引モーレン(海の亡者霊)」です。ボーシンも引モーレンも志摩地方の方言だと思います。船幽霊も海の亡者も同じような妖怪だと思われますが、志摩地方だけではなく、全国にいろんな話があって、怖がっているのは志摩の海女さんだけではありません。

船幽霊の出没する日は、風雨の激しい夜に多いと言われます。最初は、ふわふわと海上に漂っていた白いもや状のものが、やがて人の顔のような形となり、そして数十の幽鬼となって海上に出現します。

そして、いつしか波のざわめきが人の声のようになり、やがてその声は恨み抱くような口調で口々に叫び出し、その声は、まるで船人を自分たちの世界に引きずり込もうとするかのように聞こえるといいます。

やがて幽鬼たちが船べりに手をかけるので、この声を聞いた船主たちの船はやがて止まってしまい、中には船の上まであがって来ようとする者も出できます。幽鬼たちは、口々に「シャク貸せぇー!シャク貸せぇー!」と海の底から聞こえるような、重重しい声で叫びます。その昔、嵐で船とともに海に沈んだ人たちが、必死で船に浸水した水をかき出すために使った柄杓(ひしゃく)を貸せ~と叫ぶのです。

しかし、この時、うっかり底のある柄杓を渡そうものなら、幽鬼どもは、それで力の限り水を汲み入れて船を沈めてしまうことになります。このため、こういうときは、底の抜けた柄杓を渡します。幽鬼たちは、底の抜けた柄杓で船を沈めようとひたすら水をすくいますが、いくら汲んでも汲んでも水が逃げてしまうので、そのうちあきらめて退散してしまうといいます。

また、舟幽霊は、沖でかがり火を焚いて舟人の心を惑わすともいわれています。その昔、雨風の強い夜には、陸の高い場所で、船の目印にするために、かがり火が焚かれました。そんなとき、舟幽霊もまた沖の方から、ゆらゆらと火を起こして、船乗りの目を迷わせるというのです。偽のかがり火で、船を危険な所に誘い込み、転覆させようとするわけです。

ほんものの陸のかがり火は、同じ場所にあって動くことはありませんが、舟幽霊のつくり出した鬼火は、ゆらゆらと左右上下に揺れ動きます。どちらが、本物のかがり火でどちらが船幽霊の鬼火なのか、と迷っているうちに航路を見失い、あちこち波に漂っているうちにやがて暗礁に乗り上げ、船は転覆してみんな溺死してしまうといいます。

さらに、舟幽霊は船の幻影を見せることもあります。海を航行していると、遠くで数十の船が帆を上げて走っている幻影を見ることがあります。これに従って行けば、海中に引き込まれてしまうといわれています。慣れた船人はそれに惑わされることはありませんが、海に出てまもない船人などは、闇夜や雨の降る海上で慌てふためき、その手に乗ってしまうことがあるといいます。

海の亡者

海の亡者のお話としては、次のようなものがあります。

ある日、船人が漁の帰りに、その行く手の海の上に無数に火が燃えているのを目撃します。ただ燃え上がっているだけでなく、人々が騒々しく動き回っている気配がするので、船火事でも起こしたのかと思って近づいていくと、その火は一斉に消え、もとの静寂な暗闇に戻ってしまいます……

これは、海で遭難して死んだ亡者が乗っている船が怪事を起こすのだといわれ、「亡者船」といわれて恐れられています。海で死んだ人が、亡者となって夜の海をさまよいいろいろ人をたぶらかすのです。

また、盆の夜に沖から櫂を漕ぐ音が聞こえるので、村人が浜辺で着くのを待っていたら、いくら待っても音がするだけで一向に近づいて来なかったという話があります。同様に、海で誰かが泳いでおり、それが岸に向かって泳いでくる音がするのに、いつ誰も岸にあがってこないという話もよく聞きます。もっともポピュラーな海の亡者です。

このほか、伊豆七島のひとつ、大島の泉津村(せんずむら)には「海難法師」というお話が残っています。その昔、この村だけでなく、伊豆の島々の住人を苦しめている非常に悪どい代官がいました。村人はいつもこの悪代官のためにひどい目に合わされていたので、みんなで相談の結果、村の若者25人ほどが代表となり、この悪代官を殺してしまいおうということになりました。

いくら悪い代官といえども殺せば重罪に問われてしまいます。しかし、長年募った恨みを晴らすべく、ついに25人は、暴風雨の夜にそれを決行し、悪代官を殺してしまいます。そして丸木舟をつくって島から逃げ出し、別の島へ逃げようとしました。ところが、行く先々の島のどこの住人も、重罪人をかくまって罪に問われるのが嫌なため、どこの島へ上陸することもできません。

やがて、海の上で食糧も水もつきかけ、疲れ果てた25人を乗せた船は、大波に飲み込まれて転覆し、乗っていた全員は波に飲み込まれ溺れ死んでしまいました。

そして、その夜が1月24日であったことから、毎年、その日になると、25人の亡霊が丸木船に乗り、その船のマストに「五色の旗」を翻しながら、沖からやってくるといいます。

いまも伊豆七島には、島々の人々のためを思って悪代官退治を決行した25人が、逆に冷たい裏切りに合った恨みが残っているといわれ、この世に残した怨念が怨霊となって海を漂うといい、これを「海難法師」と呼んでいます。

その後村人は、この夜だけは明かりが外に漏れないようにして厳重に戸締まりをして、物音を立てず、ひっそりとやり過ごし、自分たちの家の戸が海難法師の目に留まらぬようにひたすら祈るようになったそうです。

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今日は、桔梗にまつわる話を書いていたらいつのまにか、海の魔物の話になってしまいました。こういう脱線はいつものことですが、さらに書き続けていると、どこへ行ってしまうかわからないので、今日のところはこの辺でやめておきましょう。

でも、最後は伊豆のお話にもたどりつき、めでたしめでたし?……ということで締めくくりたいと思います。みなさん良いご週末を!