神宮の杜


世間さまでは、三連休ということのようです。昨日、沼津へ出る用事があったので、国道136号を北上していましたが、その道すがらすれ違い、南に向かう車のおよそ半分は他県ナンバーでした。この連休を利用して、伊豆の海山を満喫しようという人達なのでしょう。

いったいどこへ行くのだろう、と考えてみましたが、行くところはいくらでもあります。下田あり、伊東あり、西伊豆あり、天城山あり……です。いつも自分たちが行っているところではあるのですが、こうして人さまが観光に出かけているのをみると、伊豆に住んでいるというのに、なんだかとてもうらやましくなってしまうのが不思議……

しかし、それにしてもまだ7月の中旬。しかも夏休みも前だというのに、この人出はなんなのでしょう。梅雨が明けてお天気が良いせいもあるのでしょうが、そのおかげで今度は太平洋高気圧が頑張りすぎてしまい、連日30度越えの日が続いています。いったいこの先、この夏はどうなっていくのでしょう。

暑いので、北側の富士山が見える側の窓を開けてぼんやりと外を眺めていると、目の前にある電線には、今年もたくさんのツバメがたむろしています。今年4月ごろに最初の一羽をみかけてからは、あれよあれよと街中を飛び回るようになり、今は繁殖活動も終えたのか、巣立った子供たちともども、暑い日本の夏空を満喫しているのでしょう。

前にもツバメについては書いたことがありますが、改めてその産卵形態を確認してみると、産卵期は4~7月ごろ。一腹卵数は3~7個で、主にメスが抱卵します。抱卵日数は13~17日、その後の巣内での育雛日数は20~24日ということですから、卵としてこの世に出てきてから、最短1か月ほどで巣立つことになります。

従って、4月に南の国フィリピンやインドネシアから越冬を終えて帰ってきてすぐにその親元で生まれた子達は、もうすでに生後2か月あまりということになります。

1回目の繁殖で子供が成功裏に巣立つ確率は、おおむね5割だといいますから、繁殖率は高いほうだといえそうです。1回目の繁殖で子供がうまく巣立ちできなかったとしても、多くのつがいが2回目の子育て、あるいはやり直しの繁殖をするのだそうで、繁殖意欲もかなり旺盛なようです。

しかし、ツバメの繁殖率が高いのは、人間と共生しているためでもあります。ご存知のとおり、ツバメはその巣を民家の軒先などにかけますが、これは、人の出入りがあるために、天敵であるカラスなどが近寄りにくいからだと考えられています。

ところが、最近では、都会を中心にそのカラスが異常に増えているため、巣が襲われる確率も高くなっているといいます。実は先日もタエさんと買い物に出かけた際、立ち寄ったドラッグストアのすぐそばの民家の下にあったツバメの巣に、カラスが突入しているのをみかけました。

私ははっきりとは見なかったのですが、タエさんの話によれば、いきなり、巣に突入するやいなや雛らしいものを咥えたらしく、何かを口にして飛び去る様子が私にも確認でき、これにはびっくりしました。

結構ショッキングな出来事です。生物淘汰のための詮方ないことではありますが、我々の目からみれば、人間との共生の道を選んだツバメはいわば「お友達」であり、その友達関係の間に無理やり入ってきて乱暴をするカラスは赦せない、どうしてもそんな気持ちになってしまいます。

日本では、ツバメは水田の稲の害虫を食べてくれる益鳥として古くから大切にされてきており、ツバメを殺したり巣や雛にいたずらをすることは、タブーとされてきました。また、江戸時代にはツバメの糞は雑草の駆除に役立つと考えられていたそうです。が、無論、そんなことはあるわけありません。

この糞を嫌がる家も多いと聞きますが、最近は田畑の減少で餌になる虫などを得る食餌環境も悪化していることから、ツバメの数もかなり減ってきているといい、なので、子育てが終わる数か月のことでもあり、少々我慢してあげてほしいもの。

下に糞が散らばるようにするためには、ビニール傘をさかさまに吊るしておくのが有効だそうで、先日訪れた農協さんでは、軒下に段ボール箱をくくりつけていらっしゃいました。

このツバメが巣をかけるというのは、たいていが人の出入りの多い家といわれており、人の出入りが頻繁ということは、商売繁盛にもつながる、といことで古くから商家でもツバメは大事にされてきています。

むしろ、巣をつくってくれることがラッキーと考える人も多いようで、商売をやっている人などでは、巣立っていった後の巣を、再度使ってもらえるかもしれないからと、大切に残していることも多いようです。

スワローズ

ところで、話は変わりますが、ツバメといえば、スポーツが好きな人ではすぐに思い浮かべるのが、「ヤクルトスワローズ」でしょう。

東京新宿の明治神宮野球場を本拠地としている球団であり、「スワローズ」の名称はその前身である「国鉄スワローズ」を継承したものです。

今年は、我が広島カープ同様、あまり元気がないようですが、旧国鉄から経営権がヤクルトの手に移ってからは、1990年代にリーグ優勝6回、日本一5回に輝くなど、一時期は一世を風靡しました。

前身の国鉄スワローズは、1950年に財団法人鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社(現・JTB)などの企業によって、株式会社国鉄球団として結成された球団です。セントラル・リーグに加盟し、初代監督には西垣徳雄が就任しました。

球団設立後の成績は芳しくありませんでしたが、スワローズとしての産声を上げたその年に、高校を中退して入団してきた「金田正一」選手がその後大活躍し、セリーグを盛り上げました。

金田投手は1958年には、投手部門三冠王(最多勝、防御率、三冠王)と沢村賞を獲得。1962年には、米メジャーリーグ、ウォルター・ジョンソンの記録を抜く通算3509奪三振を達成し、1963年の対大洋戦(後楽園)では300勝を達成。

さらに、入団2年目から1964年に至るまで、14年連続となるシーズン20勝を達成するなどスワローズの一員として、球団の創世に大いに貢献しました。しかし、この年、10年選手制度(プロ入りから10シーズン以上現役選手として同一球団に在籍した者は「自由選手」として所属球団を自由に移籍する権利)の特権を行使して巨人に移籍。

金田を失ったことは、彼を中心としたチーム作りを目指していた球団経営陣の意欲を削ぎ、このころ鉄道経営の赤字問題も大きくクローズアップされるようになっていたことなどもあり、国鉄は球団経営の権利をフジサンケイグループへ全て譲渡して経営から撤退することになりました。

これにより、1965年、球団の経営権はサンケイ新聞とフジテレビに譲渡されることになり、同年5月、球団名称がサンケイスワローズ(sankei Swallows)に改称。

しかし、漫画家の手塚治虫が球団後援会副会長に就任したこともあって、この翌年からは「鉄腕アトム」をペットマークとして使うようになり、このとき、チーム名もサンケイアトムズ(sankei Atoms)に改称。そしてこの年、かねてからフジサンケイグループとは提携関係にあった飲料メーカーのヤクルトが球団株式を取得して球団運営に参加。

しかし、その後チームは振るわず、1969年、球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の水野成夫が病に倒れると、この後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行い、その結果プロ野球球団経営を不採算とみなして撤退することに決定。

資本関係のみの継続を決めたものの実質の球団経営はヤクルトが握るようになり、球団名も単に「アトムズ(Atoms)」と改称。しかし、その後も球団成績はふるわず、1973年、チームは2年連続の4位に終わり三原は監督を辞任。

同年、手塚治虫の虫プロダクションの倒産に伴い、鉄腕アトムのキャラクター使用を中止し、このときから、球団名を株式会社「ヤクルト球団」、チーム名も「ヤクルトスワローズ(Yakult Swallows)」に変更。

そして、キャラクターも、ツバメをモチーフにしたものに変更し、現代に至るまでの40年間、「ツバメ軍団」として親しまれてきました。

そして、その拠点球場は神宮外苑球場、ということになっていますが、実は、この神宮球場はもとからヤクルトスワローズの拠点球場ではない、ということは意外に知られていません。

国鉄スワローズ時代でもその拠点球場ではなく、ではどこのチームのものだったかといえば、プロ野球チームのものではなく、大学野球連盟のものでした。

そもそもこの神宮外苑球場は、東京六大学野球連盟のリーグ戦を開催する「アマチュア専用球場」として1926年(大正15年)に開設されたものです。大学野球の主要球場として建設されたものであり、今日もなお、六大学野球のほか東都大学野球1部リーグおよび入れ替え戦を中心にプロ野球と併用して使用され続けています。

プロ野球にも使用されるようになったいきさつについて説明する前に、そもそもこの神宮外苑とはなんぞや、というところを説明しておきましょう。

神宮外苑

そもそも神宮外苑とは、「明治天皇の業績を後世までに残そう」という趣旨で建設された「洋風庭園」です。エーッ「庭園」だったの?という人も多いに違いありません。

「外苑」の「苑」というのは「庭」、すなわち庭園を意味し、代々木にある明治神宮の敷地のことを、「内苑」と呼ぶのに対して、その外側にあるので外苑と呼ばれるようになりました。

法定上は、神社の敷地の一画と見なされており、その所有者は無論、「明治神宮」という宗教法人になります。

内苑である明治神宮は神社建築を基調としている「和風」であるのに対して、外苑は「洋風」を基調としているのが特徴です。「明治神宮外苑」が正式な呼び方ですが、略して「神宮外苑」または「外苑」と呼ばれることが多く、「神宮の杜(もり)」と呼ばれることもあります。

明治天皇崩御後に建設が計画されたのち、明治天皇大喪儀に際しては、青山練兵場跡地で葬場殿の儀が行われましたが、このとき全国からの寄付金を集め、ボランティアの手によって1926年(昭和元年)にこの練兵場跡地に完成したのがこの神宮外苑です。

敷地内には明治神宮造営局により銀杏並木が設計され、これは東京を代表する並木道として有名です。

また、このすぐ側にある聖徳記念絵画館を中心として、明治記念館、運動場が作られ、神宮野球場もこのときに整備されました。ただ、戦後、銀杏並木の道路用地は東京都に移管され、運動場は東京オリンピック開催の際に国立競技場として文部科学省に移管・改築されています。

これを除けば、明治神宮外苑の全体はいまだに明治神宮が管理しており、すべて無料で開放され、都心における貴重な緑とオープンスペースになっています。

なぜこれほどの広大な庭園が作られたか、しかもボランティアによって。それは、明治天皇がこの時代の人に絶大に愛されたからというのがひとつの大きな理由のようです。

明治天皇は倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者、象徴、絶対君主として国民から畏敬された人であり、その盛名により戦前・戦中には明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝とまで称されました。

ところが、その私生活においては常に質素を旨としていたといい、どんなに寒い日でも暖房は火鉢1つだけとするなど、自己を律することに関してはかなり峻厳な規律を己に課していたそうです。他方、毅然とした態度を保ちつつも常に配下の者には気を配る心優しい人物であったとも伝えられています。

記憶力も抜群だったといい、書類には必ず目を通したあと朱筆で疑問点を書きいれ、内容をすべて暗記して次の書類と違いがあると必ず注意し、よく前言との違いで叱責された伊藤博文などは、「ごまかしが効かない」と困っていたそうです。

乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでおり、一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたといいます。

私生活では、日本酒を好み、夜は女官たちと楽しそうに宴会をすることが多く、当時の最新の技術であったレコードをよくかけ、唱歌や詩吟、琵琶歌などを好んでいたといいます。

また、在位中に勃発した対外戦争を通じても兵たちと苦楽を共にするという信念を持っていたといい、たとえば日清戦争で広島大本営に移った際、暖炉も使わず、殺風景な部屋で執務を続けるといった具合でした。

こうした公務だけでなく、私生活における厳然とした生き方は晩年に自身の体調が悪化した後も崩れることがなかったといい、そうした宮中での様子などは新聞などによって当然庶民にも伝わり、このため国民には絶大なる人気を誇った天皇だったといえます。

このように一般国民からは絶大なる支持を得ていた天皇であっただけに、その崩御にあたっては、「殉死」をする人も多く、その中でも最も有名なのは、日露戦争後に明治天皇の命により学習院院長就任も命じられた陸軍大将の乃木希典などでしょう。

それほどまでに国民に愛された天皇であり、それだけでなく立憲君主国家としては初の君主であっただけに、当然政府としてもその崩御にあたっては、国家事業として何等かの記念行事をすることを事前に考えてはいたようです。

実は明治天皇のご生前には既に、「即位50周年記念式典」が予定されていて、それに付随する行事として銅像の設立のほか、帝国議会場、博物館などの建設と、さまざまな案があり、これらに付随する庭園なども検討されていました。

しかし、その検討中に明治天皇が崩御されたため、当然記念式典はとりやめとなり、しかも続いてその3年後の1914年(大正3年)には皇后であった昭憲皇太后が崩御されました。

このため、政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けた上で、1915年(大正4年)に「官幣大社明治神宮」を創建し、ここにこのお二人を祀ることを発表。

こうして内苑(明治神宮敷地内)として現在の明治神宮が建設されることになり、その敷地には、日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられました。献木は、無論タダですが、その運搬費や植樹のための費用は当然、国費によるものです。

このとき、その植樹にあたってはきちんとした「植林計画」が立案され、これは「明治神宮御境内林苑計画」というもので、その内容はこの当時としては斬新なものでしたが、現在でも通用するかなり学術的にも高度な計画でした。

というのも、現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこのとき既にこの計画に盛り込まれており、これは、実際の植樹においては多種多様な樹種が植栽されますが、これが年月を経て、およそ100年後にどのような形態の森になるかを「予測」して植樹するというものでした。

こうして完成させる予定の森は、広葉樹を中心とした「極相林」と呼ばれるもので、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることが補償される、いわば森としては最高品位、「クライマックス」の形態を持ったものといえます。

こうした造園がこの時代にあって科学的に予測され実行されたというのは驚異的なことだといえ、この技術はその後日本の造園科学の嚆矢となり、日本における近代造園学の創始を飾る技術であるともいわれています。

植林事業そのものは1915年(大正4年)に開始されましたが、1970年(昭和45年)の調査時には247種17万本となり、98年とほぼ100年が経過した2013年現在ではほぼ完成形といえ、都心部の貴重な緑地として親しまれています。

最近、人工林を意図的に自然林化したものとして、注目されるようになり、最近の環境ばやりでさかんにメディアなどでも取り上げられているので、こうした番組をご覧になった方ももしかしたらいらっしゃるかもしれません。

ところが、一方の明治神宮外苑のほうは、政府事業として造営されたものではありません。無論敷地は政府に提供されたものでしたが、その造園にあたっては民間有志により結成された「明治神宮奉賛会」が広く国民より寄付を募り、全国にある「青年団」が勤労奉仕を行うことによって事にあたりました。

青年団とは、日本の各地域ごとに居住する20~30歳代の青年男女により組織される団体です。そのルーツは室町時代あるいはそれ以前までさかのぼると言われ、江戸時代には各村落ごとに若者組、若連中、若衆組などと呼ばれ、村落における祭礼行事や自警団的活動など村の生活組織と密着した自然発生的な集団でした。

明治維新により近代国家の建設と共に自給自足的な村落が解体する中で伝統的な若者制度も消えていきましたが、自由民権運動の影響を受ける世の中で、各地で「青年会」ができるようになり、やがて全国へ青年組織の結成が広まっていきました。

明治天皇の崩御に伴って持ち上がった明治神宮の造営の動きに対しても、この青年会は敏感に反応し、内務省の呼びかけもあったことから、日本中より280団体、15000人の青年団員が動員されることになり、外苑建設も彼らの手によって行われることになったのです。

これを契機に、全国の青年団を一つに結びつける組織、「大日本連合青年団」が結成されましたが、今も明治神宮外苑内の神宮球場のとなりにある「日本青年館」は、このときに結成された青年団本部の名残になります。

全国青年団員の一円拠金活動により1925年(大正14年)に建てられたものであり、現在は増改築され、結婚式なども行われるホールになっています。現在でもここに本部が置かれ、日本の約半数の市町村にある青年団を統括しており、この青年団員は全国に約10万人もいるそうです。

ちなみに、この日本青年館から数百メートル離れた「キラー通り」というところに、大学を卒業してすぐに私が就職したかつての職場があり、この日本青年館前の広場にはお昼休みなどにはよく散歩に出かけていました。

日本青年館の周辺だけでなく、周囲の神宮外苑の園地もよく歩き回ったことが思い出され、外苑、青年館、というキーワードを聞いただけで若かりしころに仕事や恋で悩んでいたことなどがフラッシュバックされ、ちょっと切ないかんじにもなったりします。

この神宮外苑の敷地は現在の東京都新宿区と港区にわたり、聖徳記念絵画館を中心に、明治神宮外苑競技場(現在の国立霞ヶ丘陸上競技場)、明治神宮水泳場、そして本日の話題の中心、明治神宮野球場などがあります。

さらにちなみに……ですが、かつてこの外苑には明治神宮の北側には表参道ならぬ「裏参道」があり、ここから千駄ヶ谷を通って明治神宮外苑・外苑橋まで続く道路には、これに沿って乗馬道が整備されていたそうです。しかしながら戦後には遊歩道となり、現在は首都高速道路4号新宿線に変わっています。

神宮外苑球場の完成

前述のとおり、この明治神宮外苑は、民間有志により結成された「明治神宮奉賛会」が、「大日本連合青年団」のメンバーを募り、彼らが勤労奉仕を行うことによって完成されましたが、神宮外苑球場もまた彼らの奉仕によって建設されました。

この神宮外苑全体が陸軍の練兵場であったことは前述したとおりですが、この神宮野球場の建設地に限っていえば、江戸時代には、江戸幕府に使えた甲賀者の「百人組」が住んでいたそうです。その居住地も「青山甲賀町」と呼ばれ、与力、同心の屋敷、鉄砲射撃場などがあったといいます。

その総工費の9割方もまた「明治神宮奉賛会」によって出費されました。ただ、その工事費のうち、5パーセントほどは、1925年(大正14年)に結成された「東京六大学野球連盟」から寄付されたものでした。これが、この神宮外苑にある。神宮球場の運営において、現在でもプロ野球組織よりも、学生野球連盟のほうが強い発言権を持っている理由です。

敷地造成工事に着手したのも、「東京六大学野球連盟」が結成された大正14年の12月で、翌大正15年10月に竣功式が行われ、摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)と閑院宮載仁親王が臨席し、初試合として東京対横浜の中等学校代表および東京六大学選抜紅白試合が行われました。

東京六大学はこの年の秋季よりリーグ戦での使用を開始し、1927年(昭和2年)からはこの球場を会場として都市対抗野球大会も始められています。

その後、早慶戦などで収容能力に不足が見られたため1931年(昭和6年)に改修、公称収容人数は31,000人から58,000人に増えました。東京六大学はこの年からリーグ戦の全試合を神宮球場で開催するようになり、1932年(昭和7年)には東都大学野球連盟のリーグ戦も開催され始めました。

このように大学野球連盟が建設に関与し、明治神宮が管理運営するというスタイルから、戦前は「アマチュア野球の聖地」とされ、そもそもこの球場でプロの選手がプレーするのは論外という雰囲気があったようです。

ところが、読売新聞社長の正力松太郎が、「将来プロにする」ということを伏せ、後に読売ジャイアンツとなる、「全日本チーム」を組織し、1934年(昭和9年)にアメリカメジャーリーグを招待し、その選抜チームとの交流試合をこの神宮球場で無理やりに開催させました。

すると、「読売がアメリカの商業野球チームを招き神聖な神宮球場を使った」ということで、世論の反発を招き、この結果、正力はその翌年2月に右翼に切りつけられるという事件に見舞われています。

犯人はアマチュア野球ファンを装ってはいましたが、天皇機関説(天皇を最高指揮官として国家運営を行う)を支持していたともいわれ、国粋主義の右翼だったともいわれているようです。

必ずしも純粋な野球ファンがおこした事件ではありませんでしたが、正力が襲われたことについては快哉を叫ぶ声もあがったようで、このように戦前の神宮球場はアマチュア野球のメッカとみなされる雰囲気が強く、日本国内では阪神甲子園球場とならんで「野球の聖地」とうたわれた野球場でした。

しかし、日中戦争勃発後の1938年(昭和13年)には都市対抗野球大会が完成直後の後楽園球場に会場を移し、さらに1943年(昭和18年)には太平洋戦争の激化により文部省からの通達で、東京六大学と東都野球リーグは共に解散となってしまいました。

1945年(昭和20年)5月には、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)によって神宮球場も被災。火災によって一部が崩れ落ちるなどの被害も出ましたが、なんとか元の形は保ったまま終戦を迎えます。

敗戦後には、米軍により接収され、連合国軍専用球場として 「Stateside Park(ステイトサイド・パーク)」の名称で使用されるようになりました。

それでも日本人の使用にも開放されることもあり、1945年(昭和20年)には東京六大学OB紅白試合、オール早慶戦、職業野球東西対抗戦などが行われ、このうちの「東西対抗戦」は1936年(昭和11年)に発足したプロ野球リーグ(日本職業野球連盟、のちに日本野球連盟→日本野球報国会に改名)が、初めて神宮球場で開催した商業試合でした。

1946年(昭和21年)からは東京六大学と東都リーグが復活しましたが、米軍は春季の使用を認めず、秋季からの一部の試合だけで使用が許されました。

東京六大学の中には、東京大学が含まれており、帝国主義者を養成してきたこの大学には球場を使用させない、というのが理由だったそうで、結局大学野球が完全に自由に行われるようになるのは、米軍が完全撤収した1952年(昭和27年)以降のことでした。

とはいえ、野球の発祥地であるアメリカからやってきた米軍もこの球場の復旧には尽力を惜しまず、1946年(昭和21年)5月から6月にかけては修復工事を行い、これによって照明設備が新たに設置され内野にも天然芝が敷かれています。

こうして、1948年(昭和23年)、プロ野球公式戦初試合となる、金星スターズ対中日ドラゴンズ戦が行われ、また全日本大学野球選手権大会の前身である大学野球王座決定戦なども開催されました。

東京六大学は上井草球場などと併用してリーグ戦を行っていましたが、1950年(昭和25年)には、秋季から全試合での開催を認められています。連合国軍による接収が解除されて、その運営権が元の明治神宮に返還されたのは、サンフランシスコ条約の発効間近である1952年(昭和27年)3月のことでした。

こうして連合国軍による接収が解除された後は、内野天然芝と照明が撤去され、バックネット裏前列に1953年(昭和28年)から放送が開始されたテレビ放送席が新設され、さらに1962年(昭和37年)には相撲場跡地に「神宮球場第2球場」が完成しました。

プロ野球の拠点球場として

1962年(昭和37年)からは閉鎖される駒澤野球場の代わりとして東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)が使用を開始。次いで1964年(昭和39年)からは、それまで後楽園球場を本拠地にしていた国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)が、東映と入れ替わるように移転してきました。

これらの動きには学生野球界は強く反対したものの、プロ野球の参入は一般市民にも歓迎されたため阻止できず、結局はなしくずし的にその使用が認められていきました。

東映フライヤーズが神宮に移ってきた背景としては、その前年の1961年(昭和36年)、フライヤーズの本拠だった駒澤野球場が、東京オリンピック(1964年)の開催に伴い東京都から用地返還を求められたため閉鎖されることになったことがあります。

東映は次の本拠を探す中で、1962年(昭和37年)明治神宮側へ、この当時まだ神宮球場の隣に建設中だった第2球場の使用を願い出ましたが、これを知った学生野球界から強い反対が出、このためいったん明治神宮はこの申し出を断ります。

しかし、東映はあきらめず、駒沢を追い出される原因を作った都に仲介を持ちかけ、結局、この年にこれを認めてもらうことに成功。

ただし、学生野球の試合が開催される場合それを優先すること、6月から9月にナイターで試合を行うことなどを条件に神宮球場の使用が認められました。あくまでも仮の処置であり、後楽園球場(現東京スタジアム)と併用する形でしたが、それでも全試合数の約半数が神宮で行われるようになりました。

こうして、神宮球場は事実上、東映フライヤーズの拠点球場となり、この年、パ・リーグ優勝を果たした東映は日本シリーズ・阪神タイガース戦の主催3試合中第3、4戦の2試合も神宮で開催させてもらっています。

第5戦は学生野球優先の取り決めもあり、後楽園球場で開催されましたが、翌年の1963年(昭和38年)には東京オリンピックの協賛チャリティーというサブタイトルでオールスターゲームも初開催されるなどの既成事実が重ねられていった結果、次第に一般でも神宮球場はプロ野球が行われる球場としての認識が高くなっていきました。

かつてのアマチュア野球の殿堂も、次第にプロ野球が行われる場としての人々の記憶が際立つようになり、ファンの間からももっとプロ野球での使用を容認しても良いのではないかとする空気ができてきました。

この結果、1964年(昭和39年)からは、それまで後楽園球場を本拠地としていた国鉄スワローズもまた神宮球場を正式に専用球場としたいと表明します。

一方の東映は、これとは反対に国鉄スワローズが拠点にしていた後楽園球場を自分たちの本拠地にしようと考え始めました。このため、その年から日程の余裕がある限りは後楽園球場で主に試合を開催するようになり、神宮での試合数はおよそ3割に抑えるようになりました。

そして、翌1965年(昭和40年)からは正式に後楽園球場は東映の専用球場とすることに決定されることになり、神宮球場は「準本拠地」という扱いになりました。

こうして結果的には、後楽園と神宮それぞれを本拠地とする両球団が入れ替わるかたちになりました。が、両者がそれまでに本拠としていた球場を併用する形式はその後1980年(昭和55年)まで続き、国鉄は後楽園を、東映は神宮をそれぞれ「準本拠地」として使用するという不規則な形がその後もしばらく続きました。

とはいえ、国鉄スワローズはプロ野球球団としては初めて、それまではアマチュアのメッカとされていた神宮球場を専用球場とし、ここを「本拠地」とすることができるようになりました。

しかし、東映と同様に学生野球を優先することを求められており、このためヤクルトスワローズとなった現在でも神宮でのデーゲームは例年、学生野球の行われない4月上旬・6月下旬・9月上旬などに限定されています。

また、一般的にプロ野球では試合前の練習自分の本拠地の球場のグラウンドで行いますが、神宮球場では日中に学生野球の試合が行われる際には、外野側場外にある軟式野球場や屋内練習場を使って行われています。

1974年に国鉄スワローズがヤクルトスワローズに改称になって以降、1978年(昭和53年)には、初めてリーグ優勝したものの、シーズン中には常に東京六大学が優先され、対阪急戦の日本シリーズは後楽園球場で振り替え開催されるということもありました。

その後、1992年と翌1993年の日本シリーズ(いずれもヤクルト-西武戦)では、東京六大学、東都大学両野球連盟との調整により、初めてヤクルトのホームゲームが神宮球場で開催され、以降、日本シリーズのヤクルト主管試合は全て神宮での開催となりました。

ところが、このうちの1992年の日本シリーズでは、表彰式終了直後に六大学野球の試合が行われたため、普段よりはるかに多い観客が日本シリーズと六大学の両方の試合を観戦したというエピソードが残っています。

このように、いまだに大学野球との併用運営を行っている関係からか、神宮球場はヤクルトの本拠地であるにも関わらず、昔からビジターチームのファンが多いことで有名です。

レフトスタンドは大抵の試合でビジターチームのファンで埋まり、特に読売ジャイアンツ・阪神タイガース戦の際にはライトスタンドを除いて巨人・阪神ファンが大半を占めることも珍しくないといいます。

おそらくは、大学野球で活躍した選手たちの多くが、その後プロに転向し、これらの人気チームに流れているためでしょう。かつては大学野球ファンとして神宮で応援し、その名残としてプロ野球も神宮球場に見にやってくるものの、お目当てはヤクルトの選手ではなく、相手チームの選手というわけです。

加えてヤクルトは1990年代には何度も日本一になったりして人気球団でしたが、近年の成績低迷でファンが減少したこともあるでしょう。かつて古田敦也が監督就任時には「東京」ヤクルトスワローズへの改称やユニフォームの一新を求めたそうですが、「神宮をヤクルトファンで満員にしよう」の合言葉の実現は今年もかなり難しそうです……

さてと、かなりの分量になったので、突然ですがやめます。この三連休はどこへ移行にも観光客ばかりなので、外出は控えようかなと思ったりしています。

それにしても天気はよさそうです。がまんできるでしょうか……