芙蓉の人

駿河湾に浮かぶ

今日は、「富士山測候所記念日」ということになっているようです。

この測候所は、明治のなかばに初めて富士山頂に設けられた測候所ですが、気象庁が作ったものではなく、一民間人によって建てられてました。

野中到という人物がその人であり、妻の千代子夫人との共同作業によって世界で初めて富士山頂のような高所での冬期観測が試みられましたが、過酷な自然の中、残念ながら道半ばで二人とも測候を断念しています。

これが明治25年(1895年)のことであり、このころはまだ観測機器も極寒の地で耐えられるようなものもなく、またそもそもがそれまでの気象データがないわけですから、観測を始めたとしてもどんな不測の事態が起こるかもわかりません。

このため気象庁は、その後もここに観測所を建てるのには躊躇していたようで、結局、官による正式な測候所の発足は、この野中夫妻の観測所が設置されてから、37年も経った昭和7年(1932年)のことになりました。

ただ、この気象庁による新測候所もあくまで臨時のものだったそうで、その後の本格的な施設を建設する前の試験的なものだったようです。場所もその後の本格運用の測候所が富士山の最高位にある剣ヶ峰に建設されたのに対し、この臨時測候所は外輪山南東の東安河原に建設されました。

臨時とはいえ観測内容だけは本格的であり、このときから通年測候が行われるようになり、現在でもこのころからの気象データは貴重なものとなっています。ちなみに、その観測結果は超短波無線機で気象庁に送られたそうです。

しかし施設そのものが仮のものだったため、職員が山頂で観測を続けるための物資などを蓄えておくことはできず、このため、支援拠点としての事務所が麓の御殿場に昭和16年(1941年)に開設されました。

冬期には長期間の滞在ができないため、富士山測候所職員は、数日あるいは多くても一週間程度滞在したあと交代で「通勤」していたようであり、これとは別に食糧などの物資が強力によって搬送され、その登山道としては御殿場口登山道が使われていました。

現在でも、御殿場口登山道沿いには、このころの測候所職員が冬季の登下山に使った鉄製の手すりや避難小屋が残っているといいますから、今度この方面から富士山に登る人は気にかけてみてください。

その後、本格的な測候所が、建設されたのは、1936年(昭和11年)のことでした。日本最高峰の剣ヶ峯に建設されたのですが、これはここが最も高いからという理由からではなく、頂上付近の風の観測条件を考え、周囲に障壁がない場所としてここが選ばれたようです。

こうして、当時世界最高所にある常設気象観測所となった富士山測候所は、主に高山気象観測を目的とした気象観測を行い、これによって、日本上空を流れる偏西風の謎の解明につながるデータや高山気象における基礎的データが収集されるようになりました。

その後、この観測所は戦中戦後も機能し続け、この間も気象庁の職員の手により貴重な気象データが観測し続けられましたが、1964年(昭和39年)に富士山レーダードームが完成すると、その観測内容には台風などの低気圧の予測なども加えられるなど、よりその存在は重要になっていきました。

しかし、やがて気象衛星などが打ちあげられるようになり、富士山の山頂からよりもより広範囲で正確な気象データが得られるようになったことから、レーダードームもろとも富士山測候所は廃止されることになります。

1999年(平成11年)にはレーダー観測が取りやめられ、その後しばらくは職員によって気象観測が行われていましたが、2004年(平成16年)には自動観測装置が設置され無人施設となり、現在では気温、気圧、日照時間(夏季のみ)の気象観測が継続して行われています。

なお、それまで行われていた風向・風速の観測については、観測装置のメンテナンスが困難であることを理由に廃止されることになり、それまでNHKラジオ第2放送などの気象通報で放送されていた富士山頂の風向・風速は放送されなくなりました。

こうして現在の富士山頂に、気象庁の職員が足を向けることはほとんどなくなっており、行くとすれば自動観測機器のメンテナンスだけという状態となっています。

まあ、冬季の富士山の自然の厳しさを考えればこんなところに常駐するなんてのはどだい当然無理なことはわかります。しかし、なんでもかんでも自動化されていくんだなーとついつい文明の進む速度のことを考えてしまい、そういえば先日打ち上げ中止になったイプシロンロケットの打ち上げもほぼ全自動だそうです。

ところで、そんな自動観測装置など夢のまた夢のような明治の時代に、富士山で測候所を開設しようとした野中到という人はどんな人だったのでしょうか。

実は、この野中夫婦の物語は、「芙蓉の人」というタイトルの小説として1970年に新田次郎を作者として刊行されており、これにも先立つ1896年(明治29年)に劇化されて演劇公演されています。また、同じ年に、実際の登山記録をもとにした実録小説「高嶺の雪」が落合直文という人により作品化されています。

生前の至はこの「高嶺の雪」を比較的事実に近いものとしてある程度は評価していたといいます。現在ではこの小説は絶版になっていると思われますが、到が評価していただけに、そこには何故富士山頂に測候所を作ろうとしたのかという動機づけなども書いてあったのではないかと思われます。

しかし、さすがに古いものなので、現在は入手できないようです。が、新田次郎は、「芙蓉の人」の執筆にあたってこれには目を通しており、そこから読み取ったらしい動機を、その作品中で野中到自身のことばとして次のように表現しています。

「天気予報が当たらないのは、高層気象観測所がないからなのだ。天気は高い空から変わってくるだろう。・・・中略・・・富士山は3776メートルある。その山頂に気象観測所を設置して、そこで一年中、気象観測を続ければ、天気予報は必ず当たるようになる。だが、国として、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建てることは出来ない。まず民間の誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測をして、その可能性を実証しないかぎり、実現は不可能である」。

ウィキペディアによる野中到の紹介は、さりげなく、その前半生は、1867年(慶応3年)筑前国早良郡鳥飼村(現福岡市)に生まれ、1889年(明治22年)に大学予備門(東大教養学部の前身)を中退した、とだけ書いてあります。

大学を中退した野中青年が何をめざそうとしていたのかについては詳しい言及がないのですが、大学を止めたあとはどうやら気象学者としての道を歩みたかったらしく、野中到というキーワードで探してみると、やたらと、「気象学者」という肩書が出てきます。

ただ、富士山頂に測候所を作ろうと決意したころにはまだ28歳くらいだったはずであり、大学もしっかりと出ていないような人物が果たして世間に「学者」として認められていたかいうと少々疑問です。しかし、そんな到を実家の野中家は認めて支援していたといい、また中央気象台も彼を援助していたといいます。

普通の予備門中退者であればそこまで認められることはなかったのではなかったと思われ、おそらくは大学中退とはいえ、気象学についてはそれなりの博識を持っていたのでしょう。

また、この国の人のために、気象観測の近代化を進めたいという、強い意志をもっていたことでしょう。その後の過酷ともいえる測候所建設にそこまで情熱を燃やしたのはそれほどこの「気象観測」という道に惚れ込んでいたに違いありません。

さらに、この頃の日本は清国に大勝、世界列強に負けじと国民意識が高まっている時代であり、野中到もまた、その自らの前人未到の試みが大衆の関心に答えるものだと感じていたのでしょう。

明治の半ばの時代であり、このころの若者は日本の将来を見据え、その中で自分をいかに昇華させていくか、という点に情熱を燃やす人物が多かったのではないかと思われます。このあたり、何かと軟弱な現在の若者とはえらい違いです(かつての私も含めて)。見習ってほしいところです。

さて、そんな到は、大学を中退後25歳のときに母方の従妹である、同じ福岡藩の出身の喜多流能楽師の娘、千代子と結婚します。

千代子はその後、52歳という若さで亡くなっていますが、至との間に早世した娘・園子のほかにも6人もの子をなしたそうです。

到が、富士山頂での通年の気象観測が成功すれば、正確な天気予報が実現して、国民の利益となり、世界に日本の名を高めることにもなる、と考えるようになったのが、この結婚前だったのかあとだったのかよくわかりません。

が、結婚後3年の間にその気持ちはかなり高まっていたようで、28歳になった明治28(1895年)1月には、富士山頂の気象状況を自らの目で確かめるべく、厳冬の富士山に登り、さらにはこれに続いて2月にも登頂に成功しています。そしてこの登山により、富士山頂の冬期滞在が不可能ではないという確信を持ったようです。

しかし、厳冬の富士山に登るのがどれほど危険なのかについては、登山のための機材などの発達した現在に至ってもいまだに冬期の登山が禁止されていることがそれを物語っています。

それを十分な登山道具もない明治期に二度も成功させたというのは、不可能を可能にしたともいえる大記録であり、登山史に刻まれるものとも言って良いでしょう。

ところが、到はさらにここに冬季の観測所を作ろうとしました。これはほとんど正気の沙汰とは思えません。真冬の富士山頂の気温は最も低い2月には、平均でマイナス38度にもおよび、また富士山は独立峰であるため、低気圧が日本付近を通過中は、猛烈な強風となり、そこでの風速は台風なみの風速20m/s以上となることもあります。

しかも高所にあるため高山病とは常に背中合わせであり、一度体調を崩すと命取りになりかねません。

本当にそこまで理解していたかどうかは今となってはわかりませんが、ともかくも冬の富士山測候をやりたいという情熱は、実際の状況の厳しさを上まわるほどのものだったのでしょう。こうして野中到は冬季の富士山頂観測という事業に命を燃やしはじめます。

この夫の決意に強く同調したのが妻の千代子でした。いとこ同士であり、幼い頃からお互いをよく知っていたこともあるでしょうが、明治時代の女性というのは、夫の夢をかなえることが自分の生きる目的と思っているような人物が多く、この人もそうだったのでしょう。

千代子の生家は能楽師とはいえ、九州黒田藩の武家であり、武家といえばその家に生まれた子供は男であれば切腹の作法を教えられ、娘は自害の際見苦しい死に様を見せぬようにもがいても着崩れしない足の縛り方を教えられます。

当然千代子もそうした教育を受けたと思われ、夫になった男には武家の娘として生涯を尽くすことが習いである以上、夫の決意にはどこまでもついていく、と考えたのでしょう。

しかし、単独で観測しようとする夫の計画を知り、聡明だった彼女は、それはあまりにも無謀な計画であることを知ります。しかし、夫への愛情からそれを告げず、自らはいざというときのためにと、夫に黙って山登りのための基礎トレーニングをはじめます。

1895年(明治28年)8月30日、富士山頂に野中によって投じられた私財によって日本最初の富士気象観測所が完成しました。その広さはたった六坪だったといい、これは12畳に相当しますが、観測機器などを置くスペースを考えれば居住空間などないに等しいものだったでしょう。

そして、10月1日、到は単独で富士山頂に登り、気象観測を開始します。やがて冬季に入り、吹き荒ぶ風雪の中のたった六坪の観測小屋の中、到はたった一人で冬期高層気象観測をはじめました。

ところが、自然の猛威は容赦なく、野中測候所を襲い、ひとりでの観測は睡眠時間を圧迫し、日に日に状況は悪化していきます。

ところが、そんな中、妻の千代子がなんと、女ながらも夫を追いかけて富士を登り、野中測候所へやってきたのです。驚いた到に対し、千代子はものおじもせず、一緒に観測をしたいと申し出ます。到の登山から10日遅れの10月11日のことでした。

突然訪れた妻に驚いた到ですが、当然最初は反対し、千代子を返そうとします。が、ついには千代子の熱意に負け、これを受け入れ、夫婦で協力して気象観測を行うことになりました。

ところが用意周到、自信満々で観測に望んだはずの到は、こと自分自身の身体に関してはまったくといって考えていませんでした。例えば食事のことについては考慮が足らず、どうやって高所で飯を炊くかについても十分な知識を持っていませんでした。トイレのない居住空間もその最たるものでした。

こうした無謀ともいえる「生活」に対する不備を千代子は的確に指摘し、また自らが準備してきた食材やその機転によって到は救われることになります。そして一日12回の気象観測など常人には到底無理ですが、一人では無理でも二人ならなんとか補えることを到は千代子の存在により気づいていきます。

千代子には気象の知識はほとんどなかったと思われますが、普段から夫の無鉄砲さは知っており、到がやがて生命の危機に直面するに違いないことはことを本能的に感じとっていたのでしょう。ともあれ、彼女がいなければ到が生還することはなかったでしょう。

しかし、自然の猛威はさらに激しくなり、やがて二人に死の危険が迫っていきます。寒さが厳しくなっていく中、貴重な観測機材が次々と壊れていき、到が起き上がれなくなることもありましたが、そうした時は千代子が補い、冬期連続観測の「記録の鎖」を二人で必死で繋いでいきました。

とはいえ、何もかもが凍りつく中、高山病が体力を奪い、次第に二人の健康を蝕んでいきました。寝不足と栄養不足が追い討ちをかける中、その後も交代で仮眠をとり観測を続けましたが、ある日とうとう千代子が風邪をこじらせ扁桃腺が腫れて呼吸ができなくなるという事態が発生します。

このとき、なんと到は、真っ赤に焼いたノミで千代子の扁桃腺を切り、膿を出して助け、この荒療治が功を奏し千代子は元気になりました。

しかし長引く観測に二人の体力はさらに落ちていきます。そんな中、極寒の富士山頂に慰問に訪れる支援者達もいたといいますが、到はそんな支援者たちにも「「野中夫妻は元気だったと云えてくれ」と懇願したといいます。

慰問者がここを訪問者が訪れたのは一度だけではなかったようで、何度目かの訪問者がきたときには、夫妻は生死をさまようほどの状態だったようです。

そんな彼らに訪問者は下山を促しましたが、頑として首を縦にふろうとしない夫妻に対し、ある訪問が、愛娘が亡くなったことを伝えました。実は二人の間には、園子という長女がおり、登山中は福岡の実家に預けていたものが肺炎で亡くなっていたのでした。

それまでの訪問者たちは、夫妻の頑張りに支障が出るからと口止めされていたのですが、夫妻の惨状を目の当たりにし、彼らを救うためには事実を告げるしかないと判断したのでしょう。

このときの二人の心情は計り知れませんが、このときですらまだ、二人は目指していた連続観測の記録を閉ざすことをやめることはありませんでした。

しかし、やがて12月に入り、沼津に向けて週1回の頻度で鏡の反射によって信号を送り、自分たちの生存を知らせていた習慣をも途絶えました。ふもとの住人はこのため、12月12日、夫妻の様子を見るため登頂しましたが、観測小屋に入った者達は二人の状態を見て息を呑みました。

二人はほとんど飲み食いをしていない状態で寝たきりのままといってもよく、特に到は瀕死状態であったといい、そんな中でも観測を続けていたのです。

このままでは二人とも死んでしまうと判断した彼らはいったん下山すると、救助隊を編成して再度登頂し、そして12月22日、ついに夫妻を強制下山させました。下山の決断がなければ、おそらく生命を落としていたことでしょう。

がんばり続けた富士山頂観測の記録はこうして82日間で途切れることになりました。

救助隊によって救出される夫妻の思いは、想像だに悔しさでいっぱいだったことでしょう。しかも、そんな彼らには亡くなったばかりの一人娘の元にかけつけるという悲しい役割がまだ残っていました。

その後、二人は再び健康の回復を取り戻し、長女に次いで6人の子供を設けました。しかし到は、富士山頂への再度の挑戦をまだ夢見つづけており、成長の著しい子供たちの世話に忙しい千代子もまた、その気持ちをわかっていました。

そして、最初の登頂から25年あまりの時がたっていましたが、子供たちがある程度成長したのを見計らい、二人はふたたび富士山への登頂のための準備を始めます。到は既にもう56歳にもなっていました。

ところがそんな中、インフルエンザの流行に罹り、千代子が52歳であっけなく急逝してしまいます。1923年2月のことでした。

それまでは妻を相手に、冬期富士山頂観測について熱く語り、友人たちにも再度の挑戦を吹聴していましたが、夫人の死とともに到はそうした情熱についてはぱたりと触れなくなっといい、やがてその顔から笑いが消えていったといいます。

千代子夫人が亡くなったあと9年後の1932年には、前述の富士山臨時測候所が建設され、到はこのときに至って既に自分の出番は亡くなったことを知ります。

そして戦後10年ほど経った1955年、その後の富士山レーダーの完成をみることもなく、到は亡くなりました。享年88歳。晩年は亡くなるまで、ほとんど富士山頂観測所設置、冬期観測に触れることはなかったといいます。

その晩年の到にはこんなエピソードもあります。

戦後のまもないころに、冬季気象観測の功績で褒章の話が上がったときのこと、到はあの仕事は、私一人でやったのではなく千代子と二人でやったものですと云って、結局、その栄誉は受けずに終わったそうです。

また、かつて自分たちが情熱を燃やした富士山測候所建設について書かれた小説についても不満を漏らしていたといい、その理由は自分の功績ばかりについて書かれていて、夫人の千代子のことが書かれていなかったためだといいます。

ただ、新田次郎の「芙蓉の人」は彼の死後に書かれたため、到はこれには目を通していません。

しかし、到本人よりも千代子夫人のエピソードがふんだんに盛り込まれたこの小説を到が読んだらさぞかし喜んだことでしょう。この小説のタイトルの「芙蓉」も、夫人が残した日記の題だったそうで、このことも喜んだに違いありません。

この日記は夫人の死後、報知新聞に掲載されていたそうで、新田次郎もこれを呼んで自作のタイトルにしたようです。

ちなみに、芙蓉はアオイ科の落葉低木で夏から秋にかけて白い花をつけるものもありますが、新田次郎自身も白い花が好きだったそうで、「白い花が好きだ」というタイトルの随筆を残しています。

日本が誇る名峰・富士はその姿から芙蓉峰と形容されてきており、新田次郎は千代子の生きざまを、まさに芙蓉のごとくであったと思ったに違いありません。

富士山における世界初の冬季観測というのは、確かに無謀な観測であり、失敗に終わっても不思議ではなかったといっても良いと思います。

しかし、それを未完とはいえ80日以上も継続させることに成功したのは、その裏側で支えた千代子夫人のおかげと言っても良いでしょう。彼女の助けがなければ到はどうなっていたのだろうかとついつい考えさせられてしまいます。

無謀な夫の行為に対して、あくまで冷静に判断し、夫の反対を押し切ってまで自らも冬期の富士に上るという、極めて冷静な判断はいったいどこからきたものなのでしょうか。

どこまでも夫である到の目指す目標を達成させるために自分の持てる力を発揮しようとする献身的な姿は人として素晴らしい生き方であり、女性のみならず、多くの人が見習いたいと感じると思います。

しかし、到自身も、自らの目標のためにその能力を伸ばし、努力を積み重ねていったその姿は素晴らしく、自分自身の可能性を信じて努力を持続すること、自分で限界を設けないことの大切さを感じる人も多いに違いありません。

……と書いてきてふと思い出したのが、最近テレビを賑やかしているドラマの「半沢直樹」です。実は私自身はほとんど見ていないのですが、いろんなマスコミ報道でその内容はだいたい把握しているつもりで、このドラマの中でも劇中の夫婦がお互いを信じ合い、ひとつの方向を向いて歩む姿が描かれていると聞いています。

野中夫妻が歩んだような、自らが誓った目的のために生死をかけて挑む、というほど厳しいものでないかもしれませんが、現在の日本のように離婚率の高く殺伐とした結婚砂漠が広がる国では、案外とこうした夫婦愛こそが最も求められており、それがこのドラマのヒットを支えているサブストーリーなのかもしれません。

新田次郎は、芙蓉の人のあとがきにこう書いています。

現在の世に、野中千代子ほどの情熱と気概と勇気と忍耐を持った女性が果たしているだろうか。私は野中千代子を書いていながら明治の女に郷愁を覚え、明治の女をここに再現すべく懸命に書いた。

「野中千代子は明治の女の代表であった」とも。さて、我が妻は、平成の女の代表になれるでしょうか……!?

夏休みももうすぐ終わりです

夕暮れの湖畔A

8月も終わろうとしています。

世の子供たちは夏休みの宿題の仕上げで大忙しといったところでしょうか。かくいう私も小学校のころには、計画的に宿題をやるのが苦手で、よく貯めこんだ課題を残る一週間ぐらいであわててこなしていたものです。

が、毎日やることが課題になっているモノ、例えばラジオ体操への出席とか朝顔の観察とかは、さすがに捏造はできないため、ほとんど空白のままのラジオ体操出席表をみつめたまま、あーぁまた怒られるんだろーなーと、観念したものです。

まさかラジオ体操の欠席ぐらいでは叱責は受けないでしょうが、クラスの他の子達が普通にやってできていることが、自分にはできなかったというところは情けなかったのでしょう。人ができることがなぜ自分にはできないのだろう、と自分ながらに情けなく自分で自分を責めたのを思い出します。

このように私はどちらかといえば些細なことを気に病むことが多い、神経質な子供でした。そのせいか、あまり友達も多くなく、どちらかといえば一人でいることも多い少年でした。

しかし、かといってひどいいじめに遭う、というようなこともありませんでしたが、小学生時代のことを思い出すと、とくに楽しかったというようなことをあまり思い出しません。

それでも自分が幼年時代を過ごした場所というのはいくつになっても懐かしいもので、何年か前に、およそ何十年ぶりくらいに彼の地を再訪問したことがあります。

が、木造だった校舎は立派な鉄筋コンクリート製に建て替わり、通い慣れた小学校までの道の周辺も大幅に変わり、以前は学校のすぐ側をドブ川が流れていたのですが、これは綺麗に埋め立てられて道路になっていました。

この学校の裏手門のところに、一本の柳があり、私が在校していたところにももう既にかなりくたびれて枯れかけているようにみえました。

さすがにもう枯れ果てて朽ちてしまっているだろうと予想していたのですが、懐かしい校内をのぞこうと、真新しい裏門から母校の校庭を眺めたところ、なんと、かなりボロボロながらもいまだ現役でこの木は生き残っていました。

実はこの柳は、いわゆる「出る」ということで有名であり、その登場人物のことを我々はその当時「赤チンくれ幽霊」と呼んでいました。

この学校に長い間伝えられている有名なはなしであり、それによると、この柳の横になっている太い幹の上に、白い服を着た女が座り、夜な夜な通りがかる人に向かって、「赤チンくれー、赤チンくれー」と恨めしそうに呼びかけるというのです。

ご存知のとおり、広島は終戦直前の1945年8月6日に米軍による原爆の投下を受けて壊滅状態となりましたが、市内でも一番東にあるこの私の母校付近ではこの爆弾による直撃は受けず、わずかに校舎が損壊しただけで、ほとんど無事だったようです。

このため、校内は臨時の被災者収容施設になり、多くの被災者の救護活動がここで行われたといい、しかし、その甲斐もなく亡くなった方も多かったといいます。こうして死んだ人達は、校庭に穴を掘って埋葬された、とも伝えられており、こうした事実から「赤チンくれー幽霊」の伝説が生み出されたのではないかと思われます。

無論、私もこの目でみたこともないので本当に出るのかどうかはわかりませんし、この幽霊さんが現役かどうかはわかりません。ただおそらくは、柳といえば幽霊ということで落語にもなっていることから、この被ばく柳を題材にそうした幽霊話が創作されたものと思われ、本当はそうした幽霊など出ないのでしょう。

それにしても、今思えばこの小学校には不気味な場所が多かったことを子供心によく覚えていて、そのひとつには、「開かずの図書館」というものがありました。

私が通っていたころのこの小学校には、さきほどの原爆当時のままの木造二階建ての校舎がそのまま残っており、「くの字」形に立てられたこの校舎のちょうど折れ曲がった部分には、階段スペースがありました。そしてこの階段の踊り場のような、中二階のようなところにはひとつの小部屋がありました。

普段はいつも通いなれた教室と自宅との行き帰りだけであり、そうした場所にはめったに行かないのですが、運動会や学芸会といった特別の行事があるときなどには、待ち時間をもてあますこともあり、こうした人気のない場所へもひとりで行くことがありました。

この場所は薄暗い階段の踊り場からまた少し低いところに、まるで隠し部屋のように設えてあり、なぜこんな場所に部屋を造ったのだろうと誰もが不思議がるようなところでした。入口には「図書室」と小さな黒板に白文字の表札が架かっており、これをみると、ああ図書室だったのか、とわかるのですが、この表札がなければどうみても倉庫です。

入口は古い木製の引き戸で、表からは鍵がかかっていないようだったので、何度かその扉を開けようとしてみたのですが、内側かどこかに鍵がかかっているらしく、中には入れませんでした。

鍵穴すらないのになぜどうやって閉めてあるのかも不思議でしたが、学校の施設というのはだいたいがオープン施設のはずであり、ましてや図書館なのになぜいつも閉っているのかが不思議でした。

こうしたことから、この「開かずの図書館」は次第に生徒の間でも有名となり、学内ではやれあれは亡くなった人達のお骨が治めれれている部屋だとか、亡くなった人達の着ていた服や血にまみれた包帯が保管さえている部屋だとかいうあらぬ噂が立つようになりました。

結局、この噂の真相は確かめることもできずに卒業したのでしたが、その後の卒業生の間でもこの開かずの間についてはいろんな憶測を呼んだようで、ある時期なんのホームページであるか忘れましたが、広島市内でも有名な話になっていると書かれているのを読んだことがあります。

ある夕景

このほかにもこの古い校舎には不気味な場所が多く、そのひとつは理科室でした。入口のすぐ脇の廊下には、陳列棚が置いてあり、その棚の中には不気味なものがいろいろ飾ってあり、今もそれを良く覚えているのですが、そのひとつは小さな子供の猿らしいホルマリン漬けでした。

現在の子供たちが見たら悲鳴でもあげそうですが、こうしたものがごく当たり前のようにその棚には陳列してあり、ヘビらしいものや何かの臓器らしいものもありました。どうやらいろんな生物の様態を教えるための教材として戦前に使われたもののようでしたが、それにしても小学生にとっては不気味なことこの上ありません。

しかもこの理科室には、中央の黒板のすぐ脇の床に跳ね上げ式の扉があり、ここを開けると地下室への階段がありました。ここもふだんは鍵がかかっているのですが、年末の大掃除の時か何かで、一度この扉が開けられ、扉の周りと階段だけを綺麗に箒で掃くように教師に命じられたため、初めてその中へ入ることができたのでした。

階段を下りて、クラスメートと一緒におそるおそる地下室の中をのぞきこみましたが、奥には灯りがなく、真っ暗で何が置いてあるのかよく見えません。

なにか棚のようなものがあったのは覚えていますが、黴臭い臭いが充満しており、ともかくそのお役目をさっさと切り上げて地上に生還することばかりを考えていたので、結局奥がどうなっているのか、何があるのかさえも確認できませんでした。

ここに降りたのは私と数人だけでしたが、誰しもが無言のまま作業を終えました。先生はその報告を聞くと黙って扉の鍵をかけ、こうして開かずのドアは再び閉められ、二度とこの地下室を見ることはありませんでした。

このとき、誰かがそこに何が置いてあるのかを先生に尋ねたと思いましたが、古いものなので先生もよく知らないというのがその回答だったと記憶しています……

こうして開かずの図書室や、真っ暗な理科室の地下という謎をかかえたまま私は卒業していきましたが、風の便りに、高校か大学のころ、この校舎も老朽化したため、ついに立て壊されたと聞きました。

いったい何がこれらの部屋には保管されていたのだろう、といまだに思うのですが、この古い校舎が建てられたころの関係者には亡くなっている方も多く、また私たちに階段の掃除を命じた教師のように原爆当時のことは何も聞かされていない人も多かったと思われることから、今後とも実際には何が保管されていたかを確認できる可能性は低いでしょう。

この学校にはもうひとつ、私の苦手な場所がありました。それはこの学校の東側の端に立てられていた体育館の裏でした。とくに何があるというわけではなく、この体育館自体は戦後に立てられたらしいコンクリート製であり、前述の木造の校舎のような謎の場所はありません。

この体育館の裏側にも、普段使わない机とか、いらない機材が積み上げられているだけであり、特段怪しい場所でもないのですが、なぜか私はこの場所がきらいであり、なるべく避けていました。

その理由はうまく説明できないのですが、どうもここへ行くと重苦しい気持ちになるためであり、一人で行くのは怖く、校内でかくれんぼをするときなどでも絶対に隠れ場所としては選ばない場所のひとつでした。

ところが、これも年に一度か二度ほどのことですが、全校の大掃除があり、こうした体育館の裏側も掃除をしなければならなくなりました。私がいたクラスもまたここの掃除の割り当てを受け、こうした時にはいやでも参加せざるを得ません。

そしていやいやながらも、ここを掃除をする羽目になったのですが、その最中、またしてもあのいやーなかんじがし、額からは冷や汗が出るほどになり、いたたまれなくなりました。

友達は怪訝そうな顔をして、どうしたの?と聞くのですが、私がいやなんでもないというので、その後は声をかけてもらうことはなく、私も我慢しながらもなんとかその掃除を終えました。

これはその後に聞いた話ですが、実はこの場所は原爆による被災者が押し寄せた当時、この学校の中でも一番多くの遺体が埋葬された場所だったそうです。

校庭のど真ん中に埋めるとその後どこに埋めたかわからなくなるため、なるべく敷地内の端っこに埋葬することになったのですが、戦後の混乱から結局そこは掘り返されることもなく、後年そこに新たな体育館が建てられたということのようです。

その話を聞いたときには驚いたというよりも、ああやっぱりそうだったか、という気持ちになりました。私が抱いたいやーなかんじというのは、つまり、そういうことだったということなのでしょう。はっきりとは言いませんが。

山伏峠からの駿河湾

また、このことについては後日別の話を聞きました。

私の母はこの学校のPTA副会長を務めており、先生方とも懇意にしていました。話というのはこの母が先日我が家に来たときに話してくたことなのですが、母の言うには、この体育館裏はやはりその当時から怪異現象が起こる場所ということで先生方の間では有名な場所だったそうです。

宿直か何かで学校に寝泊まりする際、構内見回りの時か何かにこうした現象がよく起こっていたといい、それがどういうものだったかはよくわかりません。

が、母の話では前述の柳と同じく先生の間では有名な場所だったということで、それを一倍怖がりな私に話し聞かせるのはやめておいたほうがいいだろうとこの当時は思ったというのです。

こうした私の母校にまつわる話というのは、他愛ない幽霊話といえばそれまでなのですが、噂だけでなく実際にみたという卒業生も多いようです。

母校だけでなく、広島市内にはこうした学校も多く、また学校だけでなく戦前に建てられ、被災を免れた建物はたいてい避難場所として使われていたためかこういう奇談が多いようで、そうした話を集めただけでも一冊の本ができそうです。

無論、興味本位からそうしたものを作るのは原爆で亡くなった多くの方の霊に対して大変失礼なことでもあり、面白おかしく人に吹聴するものではないでしょう。が、いまだにこの地には浮かばれない霊も多いだろうとうことは想像でき、そうした霊たちがさまよっていたとしても不思議ではありません。

そういえば以前、こんなこともありました。

今の家内、タエさんと結婚する前のこと、彼女はこのころはまだ広島市内に住んでおり、その友人宅に二人で招かれたか何かのときに、帰りがかなり遅くなり、少しアルコールも入っていたことから酔いざましに歩こうかということになりました。

会合のあった場所は、市内の一番賑やかな繁華街にあり、そこから原爆ドームのある平和記念公園まではものの5分もあれば歩いて行けます。

現在の広島は、今や世界遺産となった原爆ドーム以外には原爆当時の面影を残すようなものはほとんどなく、ドームのすぐ側を流れる元安川のほとりなどには瀟洒なレストランもでき、川を見下ろすことのできるバーなどもあります。

そのどこかに入ろうかと探しながら二人して歩いていたのでしたが、時間もやや遅かったことから既に店じまいを始めているところが多く、結局散歩だけで終わり、切り上げて帰ろうかということになりました。

初秋のころだったと思いますが、そよそよと風が吹き、川沿いの散策路には気持ちのよい川風も吹き、酔いに任せてあるくのは快適でした。町の中心街であり、こうした歩道の各所には街灯もあって明るく、寂しい場所ではありません。

ところが、何かの拍子に川面をふっとみたところ、そこは真っ黒な漆黒の闇に見え、底にあるはずの水面が見えないではありませんか。おかしいな、こんなに明るいのだからさざ波ぐらい見えるはずだ、と目をこらしてみるのですが、そこには相変わらず暗い真っ黒い淵にしかみえない川があるのです。

不思議なことがあるものだとタエさんに聞いたところ、彼女には普通の川面に見えるらしく、その答えも怪訝そう。しかし私には相変わらず暗い淵のように見えるだけで、結局その状態はその場を離れるまで変わりませんでした。

実はこの原爆ドームの周辺の場所というのは、爆弾が投下された当時はほとんどの建物が崩壊しています。多くの建物は爆弾の直撃を受けて倒壊しましたが、その倒壊した建物から出火し、周囲は火の海になっていたといい、火災に飲み込まれたた人々の多くは生き場を失ったため川に飛び込みました。

このために溺れ死んだ人も多かったといいますが、また焼けつくような空気を吸って水を求める人も多く、水を求めて川に入りました。ところが、気道が焼けただれた状態での水分の摂取はショック死を起こすそうで、このため市内の川面はしばらくの間、こうして溺死したりショック死したりして亡くなった方の死体で埋め尽くされていたといいます。

だとすれば、私がみたあの漆黒の闇はそうした人達の魂だったのか、と今も思うのですが、多少アルコールも入っていたこともあり、酔っぱらっていたためではないか、と言われればそれまでです。しかし、実は私はアルコールはかなり強いほうで、しかもこのときは知人に呼ばれての席のことですから、泥酔するほど飲んではいません。

従って、幻影を見るほど酔っぱらっていたということはなく、考えようによっては心霊体験ではないかとも思うのですが、そうした例はあまり聞いたこともありません。多少酔っていたための錯覚だったかもしれないと思いかえしてみたりもするのですが、結局この時のことは未だになんの決着もついていません。

が、先の小学校での出来事と同様、いまもこの広島の町には多くの浮かばれない霊が彷徨っているとすれば、私が見たと思ったものもそれら魂の集合体だったと考えてもおかしくはありません。

文字通り「浮かばれない」まま、今も広島の川の中にはこうした霊たちがひしめいているのかもしれません。

夕暮れの沼津

ところで、最近、ニュースでこの原爆の悲惨さを描いた漫画家さんの本を自由に閲覧できないようにしていた教育者たちが批判を浴びていますが、こうした人達をこれらさまよう霊たちが知ったらどう思うことでしょう。

教育者たるもの正しい歴史認識を持ち、たとえ悲惨な歴史であったとしても正しくそれを次世代に伝えていくのが勤めでしょう。

起こったことを正直に伝えるのは時にむごい印象を子供たちに与えることもありますが、正しいことも悪いことも、実際におこったことであるとして教え、これを善であるか悪であるかを子供たちに判断させるようにするのが学校の役割です。

ただ単に描写が残虐であるからとか、子供たちのトラウマになるのが怖いとか言っている親たち、そしてそうした親たちをたしなめるどころか肩入れする教育関係者はこうした役割を放棄しているということが言えると思います。

広島にはそれを教える教材がたくさんあります。広島で実際に起こったことをもっと具体的によく知り、それがどれほど悲惨であったかを教育者たるもの、もっと真剣に勉強するべきではないでしょうか。

無論、同じ体験をすることは不可能です。しかし広島に来て、広島の原爆教育を知り、可能ならば原爆資料館なりを見てさらに詳しく学び、そしてそれすらも難しいのならば、漫画を読むだけでもある程度それは可能になります。

そうした良材であるからこそ学校で購入したはずであり、税金で購入したこうした本を鍵のかかった書庫にしまいこんで自分たちですら閲覧できないようにしてしまうという感覚自体が私には理解できません。

実は私は個人的にはこの漫画の絵があまり好きではありませんし、広島に育っただけに他にももっと良い材料があるのも知っています。が、目を通したことがあり、世界中で読まれているというこの漫画にはなるほどな、と思えるような力があると思いました。

漫画という媒体であるがゆえに、大人たちが理解するだけでなく、年齢のいかない子供たちへもその悲惨さが伝えやすいというメリットもあるはずです。

この漫画の作者はそれでもむごたらしい描写を極力控えめにし、戦争の悲惨さを何とか伝えようと工夫をこらしたといいますが、そうした努力すら否定するような世の中ならば、ほかにこうした悲惨さを伝える手段として他にどんなものがあるというのでしょうか。逆にそうした人達に聞いてみたいものです。

さて、今日は私の昔話になってしまいました。私が小学生だった昭和30年代にはまだ戦争の傷跡が広島市内の各地に残っており、私たち広島の少年少女はそれを見て育ったといっても過言ではありません。

従ってこうした戦時中の悲惨な出来事を見たり聞かされたりすることに関してはかなりの「免疫」があるといってよく、それは戦争が悪いものであることを知らず知らずに理解することにもつながっているように思います。

なので、長い夏休みのことです。他県の子供たちを夏の間の一時期だけ広島に送り込み、原爆教育を通じて正しい歴史認識ができる子供に育てるような仕組みがあればいいのではないかと思います。夏休み短期広島留学……です。

今の小学生がどんな夏休みの宿題を貰っているか知りませんが、ほかのどんな宿題よりも役に立つように思います。

文部科学省さん、少しはそういうことも考えてくれませんか。

夕暮れの光景B

世界一周旅行はいかが?

矢車草02

昨日おとといと、夜間気温はぐっと下がり、ここしばらく続いていた熱帯夜ともようやくおさらばです。

ただ、今年の夏はまだまだ残暑が続くかもしれないとの予報でもあり、日中はいましばらくはまだ汗をぬぐうタオルが手放せそうもありません。

しかしその一方で日はどんどん短くなっており、ちょっと前には朝の4時半くらいから陽射しに恵まれていたものが、今はもう5時過ぎが日の出の時刻になっています。日没も早くなり、夕方の早い時間から虫が鳴くようになり、秋の気配が感じられる今日この頃です。

さて、先日小泉八雲のことを書いていた中で、エリザベス・ビスランドとネリー・ブライという二人の女性記者が、世界一周をどちらが早く達成するかという勝負を行ったということを書きました。

結果としては、ネリー・ブライが勝利したのでしたが、エリザベス・ビスランドが敗れた理由としては予測もできないような不運が重なったためでもありました。その事態とは、荷物の紛失や、税関での足止め、船への乗り遅れ、などなどであり、旅先ではよくある、といってはなんですが、誰でも一度は経験したことがあるようなものばかりです。

もし、これらがなければ世界初の女性世界一周の栄誉はビスランドが獲得していたでしょうが、そうはならなかったところが、人生の面白いところです。しかし、この戦いに敗れたビスランドがその後不幸になったかといえばそうではなく、大富豪と結婚し、裕福な生活を送ったようです。

また戦いに勝ったブライもまた、富豪と結婚しており、これは二人とも類まれな美貌を持っていたことと無関係ではないでしょう。ネットで探してこの二人の写真をみるとお分かりになると思いますが、かなりのべっぴんさんであることを誰もが認めると思います。

ちなみに、ネリー・ブライは57歳という若さで亡くなっており、一方のビスランドもけっして長生きとはいえませんが、その後68歳で亡くなっています。これより先に夫が亡くなっていたためその財産を継承し、晩年までその豊かな暮らしぶりは続いていたようですが、ただ、子供には恵まれませんでした。ネリー・ブライも同様です。

日本へ帰化したラフカディオ・ハーンとは、結婚後しばらく音信不通だったようですが、その後文通を再開し、彼の著作をアメリカに紹介するとともに、ハーンの息子のアメリカ留学の世話をしたり、ハーン自身をコーネル大学へ招聘することなどにも奔走したようです。しかし結局この話は実現しませんでした。

自身も、世界一周のとき日本を訪れていますが、このときはった一日でした。しかし、ハーンが亡くなった後に再び日本を訪れており、その後も何回も来日しているようです。ハーンの死の直後、書簡も含めて編集される「公式な伝記」の出版を実現し、これは「Life and Letters of Lafcadio Hearn 」として出版され、ハーンの公式な伝記とされています。

ところで、女性で世界一周を初めて実現したのがネリー・ブライだとして、日本女性としてこれを実現したのは誰だろうと思いついたので調べてみました。

そうしたところ、明治よりも前の時代では女性が海外へ行ったという記録すら明確なものはみつかりませんでした。

おそらくは江戸期以前の朱印船貿易の時代に、下働きか何かの形で東南アジア諸国へ渡った女性などがいるのではないかと思われますが、少なくともネット上ではこうした人物に触れている記述をみつけることはできませんでした。

明治以降では、明治4年(1871年)に津田塾大学を創設したことで有名な津田梅子がアメリカに留学しており、これが日本女性による初の海外渡航かどうかはわかりませんが、おそらくは女性としての初めての留学生であることには間違いないでしょう。

この留学は、このころ北海道開拓使次官であり、女子教育にも関心をもっていた黒田清隆によって企画されたものであり、明治4~6年にかけて、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された、岩倉具視を正使とするいわゆる「岩倉使節団」の一員として子女を海外へ派遣しようという試みでした。

岩倉使節団は、政府首脳陣や梅子のような留学生を含む総勢107名で構成されており、このうちの梅子は、留学生5人のうちの最年少であり、わずか満6歳であったといいます。梅子らはその後、サンフランシスコを経て、同年中にワシントンへ到着。

この5人の留学生は、ワシントンのジョージタウンで日本弁務官書記であり、画家でもあったチャールズ・ランマン (Charles Lanman) 夫妻の家に預けられましたが、翌年にはこのうちの2名が帰国し、残ったのは梅子と、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)の3女性でした。

この3人はその後も、生涯親しく交わったということで、梅子がのちに「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する際にもこの二人が援助しています。二人のうち、永井繁子はその後一定の語学力を得ると帰国したようですが、その後梅子と山川捨松はアメリカに残り、このうちの梅子はその後も十数年の年月をランマン家で過ごしています。

この間、英語は無論のこと、ピアノなどを学びはじめ、日本へ宛てる手紙も英文で書くようになったといい、やがてキリスト教への信仰も芽生え、9歳のときにフィラデルフィアの独立教会で洗礼を受けています。

その後、私立の女学校であるアーチャー・インスティチュートへ山川捨松とともに14歳で進学。ラテン語、フランス語などの語学や英文学のほか、自然科学や心理学、芸術などを学ぶ傍ら、学校が休みになると、ランマン夫妻に連れ添ってアメリカ各地を旅行しています。

1881年(明治14年)には開拓使からは帰国命令が出ますが、在学中であった山川捨松と梅子は延長を申請し、1882年(明治15年)7月に卒業。同じ年に17歳で二人とも日本へ帰国しています。

その後の梅子は、津田塾大学(当時は女子英学塾)の創設者としての道を颯爽と歩んでいくことになりますが、その生涯を追うのは今日のこの項の本質ではないため、これ以上はやめておきます。

ミツバチと花

津田梅子がそうであったように、明治維新によって外国人との交流が増えるにつけ、この頃にはクリスチャンとなることを契機として教育者になった女性が多かったようであり、それらの中には海外留学を志した人も多かったようです。

明治17年(1884年)に港区に設立された東洋英和学院の卒業者の中からもまた、その後多くの海外渡航経験者が出ています。

その一人に、「野村みち」という女性がおり、おそらくは、この人が明治のころに日本女性として初めて世界一周をした一人ではなかったかと思われます。

その世界一周旅行は明治41年のことであり、津田梅子の帰国から20数年がたっていますから、この間にも海外渡航をした経験のある女性は多かったと思われます。が、世界一周というのはおそらくなかったのではないかと推察されます。

実はこの旅行は、朝日新聞社が主催した「世界一周会」というツアーであり、一般人が参加する民間の海外団体旅行としては、日本で初めてのものであったといわれています。

ツアーといっても、現在のように数十万もあれば行けてしまえるようなものではなく、その費用は2340円だったそうで、当時の大卒初任給が40円程度であったことから推算すると、現代ならおそらくは1200万円相当という途方もない豪華旅行ということになります。

ところが、こうした高額のツアーであるにもかかわらず、50人の募集に対して80人近い申し込みがあったといい、主催の朝日新聞社もこれには驚いたようです。しかし使う交通手段の制約などから、50人の募集枠は変更することができず、このため、参加者には選考が課せられました。

ツアーに参加するのに選考があるというのは現在では考えられないことですが、このときには申込者の「地位、職業、身体健康状態、教育等」を選ぶ条件にしたようで、結局、50名を僅かばかり上回る54名の参加者が選ばれ、これに2名の新聞社社員が随行役として同行し、この56人が世界一周旅行をすることになりました。

野村みち以外にも女性は二人いたようであり、そうした意味では彼女が日本初の女性による世界一周旅行者というわけではありません。しかし、彼女の名前だけがのちの世に記録されているのは、彼女がこの旅行から帰国後、その詳細な見聞録を書き残しているためです。

野村みちは、外国人相手の古美術店「サムライ商会」を営んでいた野村洋三氏の妻でした。明治27年横浜で開業して成功し、その後大正・昭和に渡って活躍した実業家です。

大正15年には、ホテル・ニューグランド設立と同時に取締役を務め、昭和13年会長となり、その後も横浜商工会議所会頭などを務めました。

みち夫人もまた良家の出身だったらしく、母親から厳しい「良妻賢母」の教育を受けたといい、前述の東洋英和女学校でも良家の子女が受けるべき教育として英語の学習が命ぜられ、これに加えて本人の意思によりキリスト教学も選択したようです。

夫が成功した実業者であったことから、選考基準である地位、職業については問題なく、またかなりの才女であったようで英語も堪能であり、もうひとつの選考基準である「教育」においても朝日新聞社の審査員は申し分ないと考えたようです。

温泉街に咲く

こうして、明治41(1908)年3月18日、横浜港を「モンゴリア号」という客船で出発した一行は、ハワイ・ホノルル→サンフランシスコ→ソルトレイク→シカゴ→デトロイト→ボストン→ワシントン→ニューヨークと、アメリカ国内を旅したあと、ニューヨーク港からは「セドリック号」という船に乗り換え、イギリスのリバプールに入港しました。

イギリスではロンドンに立ち寄り、その後フランス、イタリア、スイス、ドイツなどのヨーロッパ諸国を歴訪後、ロシアに渡ってモスクワを訪問、シベリア鉄道に乗車し、途中、中国東北部通過後に、ウラジオストックへ辿りつきました。

こうして6月21日に、敦賀に帰着。費やした日数は延べ96日間でした。

女性として世界で初めて世界一周をなしとげたネリー・ブライの72日の記録には遠く及びませんが、それだけ時間が余計にかかったのは、ツアー旅行とはいえ、この旅行は各国への表敬訪問も兼ねており、途中立ち寄った各国の都市では歓迎式典などもが催され、これらに参加するために時間を費やしたためです。

各都市では、昼間は公式訪問や視察もあり、夜には必ず大使館や在留邦人の晩さん会があり、歓迎音楽会、観劇などもあったそうで、無論、現代のツアーのように自由時間などはありません。

この野村みちによる世界一周旅行記は、「ある明治女性の世界一周日記-日本初の海外団体旅行」というタイトルで、神奈川新聞社から出版されています。

実は私もまだ読んでいないのですが、多くの人がこれを呼んでその感想などをブログに書かれており、それによると、この野村みちは、江戸時代の封建社会の名残がまだ色濃く残っていた明治期の女性としては、かなり先進的な考え方を持っていたようです。

とくにこのころから頻繁に日本人が海外旅行をするようになっていく中、そのマナーについての批判なども行っており、また、アメリカなどに移住する日本人労働者などについても、相当な覚悟をもって移住すべき、というようなことを書いているようです。

曰く、「わずかな貯金ができるや否や帰国してしまうようでは、到底大きな成功は望めません。(中略)貯蓄ができたら帰国するのではなく、土地を買うでしょう。次第に買い増し、十年、十五年が経てば、この地に骨を埋める覚悟もできるはず。そのくらいでなければどうして成功などできましょうや」

といった具合であり、このころから爆発的に増えた海外移民に対して批判めいた激励を送っています。また、海外へ積極的に出ていこうとしない青年たちにも厳しい言葉を投げかけており、それは例えば、

「学問の素養がある人間こそ結局は永遠の成功者となれるのに、そのことを知らずに狭苦しい日本であくせくし、生活難を嘆いています。実に愚かの極みではないでしょうか。天は限りなく高く、地は広いのです。「人間至る所青山あり」、男子たるもの、この心意気あってこそ成功できるのです」

というもので、これはまるで、就職難であることを嘆きながらも、あいかわらず大会社への就職ばかりを夢みつつ、さらに海外へ出て行こうともしない内向きな最近の若者に向けて発せられたかのような言葉です。

私自身も留学経験があるので多少エラそうなことを言わせてもらうのですが、最近の大学生は暇さえあればアルバイトをしているくせに、その使い道はといえば、国内消費ばかりのようです。

とはいえ、耐久消費財として残るようなものには投資せず、国内旅行や映画・演劇鑑賞といった一過性のものへの浪費?が多いようで、同じ残らないものならば海外にでも行けばいいのに、と思うのですが、語学そのものにもどうやら自信がないらしく、海外旅行へ行く学生は年々減っているそうです。

確かに海外へ行っても言葉が通じないというのはつらいものがありますが、だからこそ味わえる経験も多数あるはずであり、それを嫌がるというのはつまり、未知への経験を不安がるひ弱な一面があるということなのでしょう。

……と前にも同じようなことを書いたことがあり、愚痴めいてきたのでもうやめにしましょう。ネコに小判。ウマの耳に念仏……です。

アネモネ

さて、世界一周というテーマで今日は書いてきたので、ちなみに、ということで、現在ではどんな形ならば可能なのか、という観点で改めて調べてみました。

まず、時間が潤沢にあるという場合では、昔ながらの船旅が最右翼でしょう。世界一周の定義もいろいろあるでしょうが、世界を回る、という観点から南北両半球を経験するとし、赤道を越えてすべての経線を同じ向きで通過後、出発地と同じ港に戻るための航路としては、およそ40,000km以上が必要なようです。

南半球の風向きは西風が支配的であるため、東を目指すルートよりも西を目指すルートの方が難易度が高いそうです。なので、日本を出て、ハワイ経由で、中米あたりまで行き、パナマ運河を超えて大西洋に入る、というルートが船旅の場合一般的なようです。

かつて「ラコニア」というイギリス船籍の旅客船があり、1920年代にこのルートの世界一周旅行を企画し、これに応募した数千人の人が、船旅で世界一周を達成したそうです。

「キュナード・ライン」というのがこの船の親会社であり、このほかにも、ブリタニア、カルパチア(タイタニック遭難事件で生存者の救助にあたった)、クイーン・メリー、クイーン・エリザベス(Ⅰ、Ⅱ)、クイーン・ヴィクトリアなどの数々の名船を就航させ、現在も「クイーン・エリザベス」が就航中です。

一方、日本の旅客船はどうかというと、「飛鳥Ⅱ」「にっぽん丸」などが世界一周旅行を行っているようで、例えば「飛鳥Ⅱ」によって2014年度に企画されている世界一周旅行は、のべ113日間のクルーズのようです。

気になる値段ですが、一番安い「K:ステート」では、「早期全額支払割引」を使っても430万円ほどであり、これでも高級車一台分になります。一番豪華な「S:ロイヤルスイート」ともなると2400万円台となり、こちらは家一軒分になります。

それでも乗ってみたいですか?と聞かれてイエスといえる人は結構いるかもしれませんが、さすがに私たちのような庶民にはちと(かなり)厳しい値段でしょう。

ならば時間のかからない飛行機であれば宿泊代もかからないし、もっと安いのでは……ということで調べてみたところ、確かにこちらのほうが現実的なようです。

現在までに、何万もの人が空路での世界一周を達成しているということであり、単一の航空会社による乗り継ぎ路線(世界一周路線)や、単一の航空会社または航空連合による乗り継ぎ航空券(世界一周航空券)の形で一般の旅行客にも提供されていて、今日では割と簡単に世界旅行に出ることが可能なようです。

単一会社による世界一周路線には、かつてはパンアメリカン航空のものがあり、ボーイング707、ボーイング747などの機材で1980年代まで1日1便運航されていたそうです。これはニューヨークを発し、ロンドンなどのヨーロッパと、バンコク・マニラ、上海・東京などの東洋を結び、ホノルル~サンフランシスコ、ニューヨークへと帰着するというものでした。

最近少し経営は持ち直ししたもの、相変わらず低空飛行を続けている日本航空もかつては世界一周路線を持っており、これは、東京から、香港=バンコク=ニューデリー=テヘラン=カイロ=ローマ=フランクフルト、パリ=ロンドン=ニューヨーク=サンフランシスコ=ホノルル=東京というルートでした。

無論、国際路線はもとより国内路線でも四苦八苦している日本航空では、現在はこの路線は閉鎖中です。

現在では、今年の前半ぐらいまで、ニュージーランド航空とシンガポール航空が似たような世界一周路線を持っていたようですが、2013年後半の現時点では、両航空会社ともその途中路線が運休されたり、別会社の運営になっていたりするため、現在のところ、単一航空会社便の乗り換えによる世界一周は不可能な状況です。

が、単一航空会社にこだわらなければ、飛行機による世界一周旅行は無論可能であり、ANAなどが加入するスターアライアンスなどのアライアンスに加盟している航空会社の路線を組み合わせた世界一周航空券が実際に発売されています。また、シンガポール航空同様の航空券を販売しているそうです。

ただし、有効期限や最低旅行日数が設けられているらしく、この最低旅行日数は10日程度が基本であり、この日数は観光旅行以外たとえば商用などで航空券を使用されることを防ぐ目的で設定されているようです。また有効期限は普通運賃のそれと同様に1年程度ということです。

さらには、世界旅行ということになると、ストップオーバー(途中降機)は当然となりますが、これを頻繁にやられると元がとれないということで、利用上限回数も課されているそうで、かつては、価格の安い航空券の利用上限回数は、従来ではだいたい20~24区間だったそうです。

が、最近はこうした航空機の発券も電子化され、この処理件数を少なくしたいためか、多くのものが上限16区間程度になっているそうで、このため立ち寄れる国の数もかなり制約を受けることになりました。

ちなみに、スターアライアンスの世界一周航空券の運賃は、一番安いもので、エコノミークラスの341,800円ですが、これはトータルの搭乗マイルが29,000マイルの場合であり、これより多くの利用上限回数を希望する場合、例えば39,000マイルコースを選ぶと460,500円に跳ね上がります。

また、同じ29,000マイルの場合でも、ビジネスクラスでは661,700円と倍近くになり、さらにはファーストクラスの場合では、100万円を超え、 1,071,600円だそうです。

それでも、船旅よりもはるかに格安であり、エコノミーで我慢するならば、学生さんでもなんとかアルバイトでお金を貯めての世界一蹴旅行も可能な金額といえそうです。

さすがに私はもう、世界一周旅行をするほど若くないので、短期間であちこちをあくせく回るこうした旅行にはちょっと躊躇してしまいますが、逆にお金があれば、ゆったりとした船旅はしてみたいかも。もしかして遠い将来に小金が貯まるようならば考えてみましょう。

下田にて

ちなみに、私の奥様は、この世界一周旅行経験者です。

といっても、私費での旅行ではなく、若かりしころにコピーライターをしていた関係から、大手の釣り具メーカーからお声がかかり、そのレポート記事を書くことを条件に実現した企画だったようです。

仕事とはいえ、タダですから、なんともうらやましい限りですが、今後はそうした執筆活動で鍛えた能力でベストセラー本でも書いて、それで儲けたお金で私も連れて行ってほしいものです。

その結果を「ムシャ&タエの世界旅行」などというブログにすれば人気が出るのでしょうが、いまのところ毎日グータラ寝ているばかりなので、当分は無理でしょう。

……などと書いていると叱られそうなので、今日はこのあたりでやめにしたいと思います。

若い諸君! ぜひとも世界一周旅行を実現しましょう!

スカンジナビア ~沼津市

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少し暑さが和らいできたかな、というかんじはするのですが、依然、日々の日中最高気温は30度越えを繰り返しています。しかも本州のど真ん中に前線が居座っているためか、湿った空気が入ってきて、伊豆半島はどんよりした空気感です。

しかし、今日は朝から富士山が良く見えており、この時期としてはまずまずの眺望コンディションといえるでしょう。

しかし、そんな富士山への入山ももうすぐ閉鎖になるはずであり、今頃はその前に登ってしまおうという登山客でごった返しているに違いありません。

この富士山が見える場所ですが、伊豆半島の中ではどこが最南端だろうかと調べてみたところ、どうやらこれは天城連山の万三郎岳あたりのようです。これより南側の河津や下田方面まで行くと逆に天城山が邪魔になって富士山の眺望は得られません。

また、伊豆半島の西側の海岸沿いでは、黄金崎あたりが南端のようで、これより南側ではここから南東に回り込む海岸線のため、やはり富士山は見えなくなります。

それではこの西海岸のどこが一番富士山がきれいにみえるかというと、これはおそらく沼津市南端にあたる三津(みと)港あたりから、大瀬崎(おせざき)あたりまでの海岸線でしょう。この区間ではちょうど、東西に県道が伸びる形になっており、各所で駿河湾越しに左右シンメトリーの美しい富士山をみることができます。

この三津港から西に1kmほど行ったところに、西浦木負(にしうらきしょう)という場所がありますが、ここからの富士山の眺めも抜群で、少し湾奥にあるため、波も静かであり、美しい富士山の撮影をすることができます。

実は私はこの場所には学生時代以来、行ったことがありません。なので記憶をたどってのことなのですが、ネットなどで調べたところ、その景観を妨げるような建物などは現在までも建設されておらず、昔のままの美しい入り江がそのまま残っているようです。

じゃあ、学生時代にここに何をしに行ったのよ、ということなのですが、これは実は一隻の船を見るためでした。

正確には船というよりも、係留されたままホテルとして使われていたものであり、その名を「スカンジナビア号」といいました。旧西部グループの土地開発ディベロッパー、「コクド」の傘下にあった伊豆箱根鉄道が所有・管理していたもので、ホテル兼レストラン「フローティングホテル・スカンジナビア」として利用されていたものです。

湘南海岸C

スカンジナビア号は、1927年建造のヨット型クルーズ客船であり、当初クルーズ客船「ステラ・ポラリス(Stella Polaris、北極星の意)」として運営されていました。

1926年11月、スウェーデン南西部のヨーテボリ造船所にて建造され、翌1927年2月23日に進水。その3日後の2月26日の処女航海の目的地はイギリスのロンドンであったといいます。

その優雅な姿から「七つの海の白い女王」と呼ばれ、その後は富裕層を対象にしたクルーズ事業向け客船として世界中を航海し、流線型の美しい船型は世界中の人達から絶賛されていました。

その後沼津に曳航されてホテルとして使われるようになったわけですが、そのころまだ学生だった私が、こんな豪華ホテルに泊まれるわけはありません。

しかし、私はこのころからもう既に大の船好きであり、見るだけならタダというわけで、一度ぜひその姿だけでも拝んでおきたいと思い、友達の車に便乗してわざわざ沼津市内から見学に出かけたのでした。

初めてみたその姿は噂通り美しく、富士山をバックに西浦に優雅に浮かぶその姿は、確かに貴婦人といえるほどのものでした。無論、中には入れませんでしたが、あとでカフェ利用だけなら一時乗船もできたと聞き、それならばお茶だけでもしておけばよかったと悔いたものです。が、後の祭りです。

進水後はクルーズ船として世界中を旅してまわったステラ・ポラリスですが、その後、第二次世界大戦が勃発すると、1940年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党政権下のドイツによるノルウェー侵略により、ドイツ軍に接収されていた時代があります。

しかし戦時下でも戦災には巻き込まれることもなく、戦後の1945年、ノルウェーの元の所有者であるベルゲンライン社に無事に返還されました。

ただ、接収されていたときのドイツ人の扱いは荒く、Uボート乗組員などが憂さ晴らしなどのために船内をかなり荒らしたそうです。従ってこの間の船体の整備も必ずしも良好でなく、調度品などには相当なダメージを受けたため、戦後の1946年、故郷ノルウェーの建造されたヨーテボリ港に回航され、大規模な修復が施されました。

この時、船歴は既に20年を経過しており、構造的にもやや古い技術で造られた船であったため、ブリッジの密閉化などの近代化改修もあわせて行われました。

1947年、修復と改修を終えたステラ・ポラリスは、このころはまだ第二次世界大戦後の混乱が続く中でしたが、いち早くクルーズ船としての営業を開始しました。

この頃は既に航空機時代となっており、飛行機との競争で独自色を出す必要が出てきたクルーズ専用船にとって、この改修されたステラ・ポラリスは先駆的な手本となりました。

後に建造されることになる数々の豪華客船、例えばクイーン・メリー号(1936~1967)やクイーン・エリザベス号(1969~ 2004)、ユナイテッド・ステーツ号(1952~1969)などの内装や設備は、このステラ・ポリスを参考にして決められたともいわれています。

1959年、船歴も30年を超えたステラ・ポリスは、同じスウェーデンの船会社クリッパーライン社に売却されましたが、このときは船体構造などの近代化は行われず、むしろベルゲンライン社が保有していた時代の良さを残す形の修復が行われただけでした。

こうして修復されたとはいえ、むしろレトロな雰囲気を残したステラ・ポリスのクルーズ船としての運用は好調であり、その後も20年以上にわたって、世界中の海で活躍しました。

湘南海岸F

ところが、このころになると世界的にも二次大戦の痛手もおさまり、こうした客船を利用してのんびりとした船旅をしたいという向きも増えてきたことから、増える一方の船客の安全を守るため、従来あったSOLAS条約をより強化しようという動きが出てきました。

SOLAS条約とは、「海上における人命の安全のための国際条約」の通称であり、1912年のタイタニック号海難事故を契機として、当初は船舶の安全確保のため救命艇や無線装置の装備等の規則だけを定めるため、1914年に締結された条約です。

しかし、第一次世界大戦の影響ですぐには発効には至らず、その後こうした付属施設の規則を定めるだけでなく、船体構造などに対する新たな安全規制を追加するなどの修正を加えたのち、1933年に発効されました。

そして、戦後の1948年、1960年再度修正された上、1974年に再度改定されることになり、このときの改定内容は船体の復元性や機関構造、電気設備などに及び、また防火対策などについても厳しい規制が加えられることになりました。

この改正は、既に船歴も40年以上ともなるステラ・ポラリスにとっては致命的なものであり、大規模な改修を行って存続させるか、就航終了させるかが迫られる厳しい宣告となりました。

この結果、改定条約施行まではある程度の猶予期間はあったものの、結局これを機に豪華客船としてのステラ・ポラリスの歴史は終わることになります。

こうして1969年、就航40年以上を経過したステラ・ポラリスの処置についてクリッパーライン社は、クルーズ客船としての維持修復に多額の投資を続けるよりも売却の道を選択しました。

ちょうどこのころ、日本は高度経済成長を迎えており、そんななか、ホテル事業などを核に快進撃を続ける西武グループなどのレジャー産業企業は絶好調でした。そしてこの西部グループ全体のリゾート開発を一手に握っていたのが、国土開発(コクド)でした。

このため、ステラ・ポラリスの売却の話が出るや否やその買収にも手をあげ、グループの傘下企業の伊豆箱根鉄道を通じて、これを沿線リゾート開発事業として使う「ホテルシップ構想」を表明しました。

クリッパーライン社との交渉の結果、その買収価格は5億円と決まり、こうしてステラ・ポリスの日本への売却が正式に決定されました。ただし、契約条項に「ステラ・ポラリスとしての継続使用は認めない」という内容が含まれており、これはすなわち外洋を航行する客船としての利用はできないという意味でした。

このため、買収後の名称も「スカンジナビア」と変更され、正式名称は「フローティングホテル・スカンジナビア」と呼ぶようになったのでした。

やがて外洋客船としての艤装は解体され、日本に曳航されてきて沼津市西浦木負沖に投碇。そして「海上ホテル」としての内装に手が加えられた結果、1970年7月25日から営業が開始されました。

実は当初、この西浦木負の地では、スカンジナビア号を中心として水族館などを併設したテーマパークを建設する構想がありました。

しかし、停泊地周辺の用地の買収難航などによりこの計画は頓挫し、現在も三津港すぐ脇にある三津天然水族館、現在の「三津シーパラダイス」から長井崎を挟んで2kmほども離れた西浦木負に開業することになったのでした。

このため、テーマパークとしての水族館との連携を図るため、この距離を遊覧船を就航させることで補いましたが、観光地としての連続性に欠けるものとなり、その価値はやや低下することとなりました。

しかし、この頃の西部グループは絶好調であり、ホテル業界の旗手とまでもいわれた、グループ傘下の「プリンスホテル」が持つサービステクニックなどを最大限に生かした経営が行われました。またレストラン部門も充実させることなどにもよって好評を博し、やがて数多くの利用客に親しまれるようになりました。

その後、伊豆といえば、まず「三津」へといわれるほどリゾート地としての人気を長年にわたり維持しましたが、その評価については、この項の冒頭でも述べたように、その背景に富士山を擁する美しい風景があったこととは切り離して考えることはできないでしょう。

無論、スカンジナビア号の気品ある姿と内装の素晴らしさも評判を呼び、ホテルとしての付加価値・魅力に対しても大きな賞賛の声があったことは間違いありません。バブルピークの1990年度には、船内のレストランだけで年間約6万人が利用があったといい、この年だけで約10億3000万円の売り上げを記録したといいます。

しかし、その後1990年代の後半になると、バブル景気は休息にしぼんでいき、1999年のバブル終了後には、消費低迷やリゾート不況が襲ってきます。その影響下にあって、王国とまで言われた西部グループもまた斜陽化していき、旗艦であったプリンスホテルでさえも人員削減をはじめとしたリストラなどの経費節減を実施するようになりました。

スカンジナビア号もまた客室稼働率が著しく低下するようになり、こうした結果ついにホテル部門を継続することができないほど業績が悪化。ついには営業終了を発表し、ホテル主体の事業からレストランのみを専業とする業態への変更を余儀なくされるようになりました。

2005年、このころには「コクド」へと名称変更していた国土開発をはじめとした西武鉄道グループの事業再編が始まり、この中ではスカンジナビアも事業見直しの対象となりました。

この際、建造後70年以上をも経過し、老朽化の激しい船体の維持管理に掛かる莫大なコストが問題視され、不採算事業であるとされたため、ついにはレストラン部門も閉鎖し、船体そのものを売却する方針が発表されます。

湘南海岸H

このとき、スカンジナビアが西浦にやってきて既に35年が経過しており、地域住民にとってはスカンジナビア号の雄姿は西浦の景色の一部にほかならないものとなっていました。

このため、「海洋文化財としてこのまま地元に残すべき」などといった声も多く集まり、シンポジウム開催や保存を要望する署名活動まで行われ、その結果は所有者の伊豆箱根鉄道へ持参されて陳情が繰り返されるなどの保存運動が行われました。

しかし、伊豆箱根鉄道は、2005年3月31日をもってレストラン営業を終了することを宣言。そして、海洋クルーズ運航事業を行う、イギリスの「ランティー社(イギリス領ヴァージン諸島が本拠)」との間にその船体の売買交渉が持たれるに至りました。

この交渉は2006年まで継続されましたが、売買価格で折り合いがつかなかったためか、結局売却は成立しませんでした。しかし、ランティー社との売買交渉が不成立となったあと、今度はスウェーデンが本社の「ペトロ・ファースト社」との売買交渉が浮上し、その結果として、正式に同社へのスカンジナビア号の譲渡が決定されました。

その売却価格については明らかにされておらず、スカンジナビア号の保存陳情を行っていた団体が伊豆箱根鉄道に対して公開質問を行い、いくらで売却したのかを明らかにしようとする動きなどもあったようですが、結局、西武グループ側はこれを公表していません。

いずれにせよ、スウェーデン側への売却が決まり、こうしてスカンジナビアはその生涯のほぼ半分もの期間を過ごした沼津の地を離れることとなりました。

2006年8月31日、伊豆箱根鉄道社長のほか、沼津市長らも参加して出航式が行われました。スカンジナビアは自力では航行できるような状態ではなかったため、その船出は別の船によって曳航される形でした。

この後、9月7日ころに上海に寄港し、ここで改修工事が加えられたのち、故郷であるスウェーデンに帰り、再びホテル兼レストランとして営業する予定だったといいます。

ところが、沼津港を出た翌日の9月1日の夜間21時ごろ、和歌山県沖を曳航中の船体に浸水が発生し、徐々に左傾しはじめました。このため、同日23時30分頃にはいったん状態確認のため、近くの串本町潮岬西側の入江に退避しました。

しかしその後も傾斜はおさまらずさらに浸水が増し、船体は沈み始めました。このとき、ここで座礁してしまえば、後の引き上げも可能だったと思われますが、なぜか曳航者はスカンジナビアの沖出しを決行しました。おそらくは入江内の浅瀬での着底は、油の流出などによりその後漁業関係者による訴追を免れないと考えたのでしょう。

日付が変わって2日となった午前1時30分頃、再び沖合に舳先を向けて沖出しさせていたところ、この間にさらに傾斜がひどくなります。そして徐々にひどくなる浸水の状況を改善させることもできず、午前2時頃、ついに和歌山県潮岬沖約3kmほどの場所でスカンジナビア号は沈没しました。

のちに調査が行われ、水没地点が確認されたところ、この位置の水深は72m程度だったといい、この水深にある船を現在のサルベージ技術で引上げることはけっして不可能ではないと思われます。

しかし、36年間にも及ぶ係留で船体は傷み、強度はほとんどなかったともいわれ、沈没の原因となった浸水もこの老朽化が原因と考えられました。このため、その後の引き上げもついに断念されるに至ります。

Skandinavia20060831曳航され海上を進むスカンジナビア号 (2006年8月31日)

沈没原因については本当に浸水だけが原因だったかどうかなど未だにいろいろ取沙汰されているようですが、かなり老朽化していたことは間違いなく、「沈没は想定の範囲内」であったという指摘もあります。「曳航ではなく台船に積載して運搬する方法もあったのではなかったか」という意見も後に出たようです。

その後の調査で音波探査なども行われ、その結果スカンジナビア号は大きな損傷もなく着底したことがわかっています。海上に浮かんでいるのと同じ状態で着底しており、その姿が三次元の画像で記録などもされています。船尾より沈没したようで、砂の上に船体を引きずったようなくぼみ跡も確認されています。

買い手の「ペトロ・ファースト社」もその後浮上させることを検討したようですが、この沈没地点は、最大で4ノットにも及ぶ黒潮が流れており、台船の固定が難しいなどの理由も浮上し、結局引きあげは実現しませんでした。

水深70mというのはダイビング可能な水深を大幅に超えており、このためその後も沈没したスカンジナビアを直接撮影した映像などはないようです。

貴重な貴金属とかが積まれていたならば、その回収のために引き上げをしようという動きもあったでしょうが、船内にはサルベージ費用をまかなえるほどの貴重なものは残っていなかったようです。

ただ、船内には木製のレリーフや美しいガラス彫刻などの美術品も残っていたそうです。
このガラス彫刻は、スウェーデン国王の歴史を彫り込んだ物だったそうで、スウェーデンでも有数のガラス工房で製作され、その作業には有名な彫刻家も参画し、一枚のレリーフを完成させるには、数人のクラフトマンが数ヵ月の時間を費やしたといいます。

また、船内のダイニングにあったスカイライト(天窓)などにも、こうしたガラス彫刻が施されていたそうで、この彫刻を行ったのもノルウェーの高名な彫刻家であり、このスカンジナビアにあったガラス彫刻はそうした彫刻家の最後の作品とも言われているといいます。

これらの美しい船内装飾品もさることながら、その美しい船体そのものが永遠に失われてしまったことはかえすがえすも残念なことです。

実は私はこの船が既に失われていることは知らず、昨年までの伊豆への転居が決まった時には、ここを再訪するのを楽しみしていました。

風の便りに、ホテルやレストランの営業は停止していると聞いて知っていましたが、ボロボロになりながらも船体だけはまだ係留されているとばかり思っていましたが、まさか海の藻屑と消えていたとは……

2005年のレストラン閉鎖前には、北欧料理のバイキング形式での提供する「グリル北欧」というレストランの運営がまだ行われていたそうです。隣接する三津シーパラダイスでは、「ドルフィンウエディング」と称して、イルカ達とともに結婚式を行い、スカンジナビア号船上でウェディングパーティを開催する企画まであったそうです。

広い船内スペースを活用したパーティなどのイベントもまだ行われていたといい、そうしたことももうできなくなってしまったとは本当に残念です。

せめて何かの名残は残っていないのかな、と改めて調べてみたところ、かつてスカンジナビアを係留していた桟橋は残されているらしく、現在、さらにその近くには資料館らしいものが作られているとか。

資料館とはいいながら、レストラン兼喫茶も兼ねており、こちらのほうがメインのようですが、スカンジナビア号をいまだに懐かしむ人達が良く利用しているといいます。

何分私も行ったことがないので、この資料館がどんな形態なのかよくわかりませんが、写真や航海日誌など貴重でもうどこへ行っても手に入らない品々が展示されているといいます。

自宅からはそう遠くないので、富士山の撮影もかねて、天気の良い日にでもまた行ってみたいと思います。

美しい船は失われてしまいましたが、その背景の駿河湾上に浮かぶ富士山は健在でしょう。ぜひおよそ40年ぶりとなるその景色を再び見てみたいものです。

夕暮れの黄金崎01

八雲のこと

渚のシルエットA

昨日の夜の伊豆は久々に雨となり、しかも雷を伴う激しいものでした。

残念なことに、この雨で麓の修禅寺温泉街で行われていた花火大会も途中で中止になったようです。が、今朝がたからポンポンと空砲花火が上がっているところをみると、今晩その仕切り直しがあるのかもしれません。

この花火大会が終われば、もう夏も終わりといったかんじでしょうか。しかし、もうすぐ秋になろうかというこの時期に、ホラー映画の「貞子」の新作が封切られるようで、テレビなどでさかんにその番宣をやっています。

個人的には、こうした造りものの映画にはまるで興味がなく、見たいとも思わないのですが、いったいぜんたいこうした恐怖映画の何に人はひきつけられるのでしょうか。

調べてみたところ、怖いもの見たさ、痛みに対する共感、現実逃避、ストレス発散の手段などの意見があるようですが、どうもあまりすっきりした説明になっていません。

もっと科学的な説明はないのかとさらに調べてみたところ、どうも人が恐怖を感じる裏側には、脳の中にある、「小脳扁桃」というものが関係しているのでなないかという研究結果があるようです。

科学者らによると、恐怖映画を観たり、怖いゲームをしているとき、目や耳から入った情報は、脳の正面中央にあるアーモンド型の「小脳扁桃」というニューロン群に送られますが、この小脳扁桃は、特に愛や快感といった感情を瞬時に処理するために不可欠な器官なのだそうです。

ラットを使った実験から、小脳扁桃に損傷を受けると恐怖を感じる能力が妨げられることなどが明らかにされており、この器官が司る快感と恐怖という一見正反対の感情には共通部分があることなども明らかになっているとか。

ゾンビがドアから押し入ったり、殺人鬼がクローゼットから飛び出てきたりすると、小脳扁桃が刺激されて、脳と身体を活性化するさまざまなホルモンを分泌し、これが恐怖として感じられます。

しかしその一方で、こうした恐怖を味わうと、危険を意識的に判断する脳の部位である前頭葉皮質にも情報が伝達され、この前頭葉皮質には、映画は映画でしかないことが告げられ、危険がないことが確認されます。

この前頭葉皮質への伝達作用がなければ、怖い映画をみたあとも、現実との区別はなくなってしまい、見た映画を好ましく思い出すことなどなく、恐怖映画はそのまま恐怖体験そのものとして残ります。

従って、恐怖を感じるというのは、その恐怖感が小脳扁桃によって活性化されることで引き起こされる現象ですが、前頭葉皮質のおかげでその恐怖感には実は現実味がなく、実際には危険がないことを脳が理解するため、怖い映画をみてもおびえず、逆にそれに対して満足感を味わえる、ということのようです。

「怖いものみたさ」の裏側には、恐怖を味わうことへの期待とその恐怖をうまく打ち消す両方の作用が脳によって司られているわけです。

さて、これで安心して怖い映画を見れる、ということになるわけですが、私個人としては最近のSFX技術を駆使してできあがった作りモノのホラー映画などよりもむしろ、古典的な怪談話のほうが興味があります。

怪談としてすぐに思い浮かぶのは、四谷怪談や番町皿屋敷のように歌舞伎の題材にまで取り上げられているようなものがありますが、片や落語にも怪談噺(怪談咄)があり、初代林屋正蔵はじめとして、多くの有名な落語家が創作・演出に工夫を凝らし、伝承に力を尽くしてきました。

演目として有名なのは、「牡丹灯籠」「お菊の皿」「真景累ヶ淵」などなどですが、私もよく知らないものもたくさんあります。ここ修善寺でも夏になると、麓の修禅寺などで落語家を呼んでこうした怪談噺をする会が開かれているようです。

しかし一方、「怪談」といえば、「小泉八雲」の名前を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。本名は、パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)といい、このミドルネームの「ラフカディオ」をファーストネームだと思っている人が多いようですが、実はこれは間違いです。

本当のファーストネームのパトリックは、敬虔なカトリック信者だった父親がアイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んでつけた名前でしたが、ハーン自身が長じるにつれ、このキリスト教の教義に懐疑的となっていったため、その後半生ではこの名をあえて使用しなかったともいわれています。

このほかにも小泉八雲について調べてみると意外と知っているようで知らないことがあまりにも多く、ちょっとびっくりしてしまいました。なので、今日はそれらのことについて少し書いていきたいと思います。

光景B

ハーンのお父さんはアイルランド人の軍医でチャールズ・ブッシュ・ハーンといい、ハーンが生まれたとき、この当時はイギリス領であった、ギリシャのレフガタ島という島に軍医少佐として赴任していました。

また母親はレフカダ島と同じイオニア諸島にあるキティラ島出身のギリシャ人でローザ・カシマティといい、裕福なギリシャ人名士の娘でした。

母のローザはこのころレフガタ島に住んでおり、この島に赴任してきた父のチャールズと恋仲になり結婚することになったようで、ハーンは、この二人の間に1850年に誕生しました。そして生まれた場所であるレフカダ島にちなみ、「ラフカディオ」というミドルネームが付けられました。

ハーンが2歳になった1852年、両親とともに父の家があるダブリンに移住したため、ハーンは物心ついたころの生活舞台はアイルランドでした。従ってギリシャ時代の記憶はないようです。

その後、父が今度は西インドに赴任することになり、そのさなかの1854年ころから、母親が精神を病むようになり、その療養のためにギリシアへ帰国してしまいます。

間もなく離婚が成立し(父が母を離縁)、以後、ハーンは両親にはほとんど会うことなく、父方の大叔母サラ・ブレナンに育てられることになりました。この大叔母は非常に厳格なカトリック教徒だったといい、ハーンもこの厳格なカトリック文化の中で育てられました。

この経験が原因でやがて少年ハーンはキリスト教嫌いになり、やがてケルト原教のドルイド教に傾倒するようになっていきました。

少年時代のハーンにはさらなる試練が待ち受けていました。この大叔母が事業に失敗して破産してしまい、またインドへ行っていた父は帰国途中に病死してしまったのです。

ハーン自身もまた、このころ通っていた学校の寄宿舎で不運に見舞われました。この寄宿学校にあった回転ブランコで遊んでいる最中に、ロープの結び目が左目に当たって怪我をし、これが原因となって失明してしまいます。

以後、隻眼となり、白濁した左目を嫌悪し、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかするようになり、決して失明した左眼が写らないポーズをとっています。

大叔母が破産したため、その学校生活も続けられなくなったハーンは、寄宿学校を退学し、1867年、17歳でロンドンに行き、ここで職を得て金を貯めます。そして2年後の1869年、アメリカ合衆国へ移民することを決意し、リヴァプールからニューヨーク行きの移民船でアメリカに渡り、五大湖の南のオハイオ州のシンシナティに行きました。

シンシナティでは、トレード・リスト紙という新聞社に入りました。ハーンはフランス語が得意だったといい、この語学の才能を活かし、20代前半からジャーナリストとして頭角を顕し始め、文芸評論から事件報道まで広範な著述よって好評を博すようになります。

このころの彼につけられたあだ名は、「オールド・セミコロン(Old Semicolon)」というもので、これは直訳すると「古風な句読点」ということになります。つまり、句読点一つであっても一切手を加えさせないというほど自分の文章にこだわりを持っていたためであり、このころから彼の書く文章は妥協のないものだったようです。

やがて、彼はトレード・リスト紙の副主筆にまで上り詰めますが、その2年後は、別の会社に引き抜かれて退社。新しく入ったのは、インクワイアラー社という出版社でしたが、これを気に、結婚。25歳のときでした。

このお相手は、マティ・フォリーという人でしたが、なんと、黒人でした。この当時のオハイオ州では、黒人との結婚は違法であったため、インクワイアラー社の上層部からは叱責を受けるところとなり、これを不服として同社を退社。

そして、インクワイアラー社のライバル会社だった、シンシナティ・コマーシャル社に入社しますが、結婚相手だったマティとは、結婚二年目にして破局。27歳になったハーンは、離婚後、シンシナティの公害による目への悪影響を理由のひとつとして、シンシナティ・コマーシャル社も退職して南部のニューオーリンズへ移住を決意します。

ニューオリンズでは、アイテム社という新聞社に入り、ここの編集助手などをしながら、「不景気屋」という食堂も経営するようになりました。

ところが、もともと物書である人間が商売などできるわけもなく、やがて食堂経営は行き詰まり、アイテム社の仕事ひとつに絞らざるを得なくなります。

1882年、5年間務めたアイテム社を退社し、今度はタイムズ・デモクラット社に入り、ここの文芸部長になりますが、ちょうどこのころ、ニューオーリンズで開催された万国博覧会の会場で、彼は一人の日本人と出会いました。

農商務省官僚の「服部一三」という人物であり、ニューオーリンズで開催されていたこの万国工業博覧会、兼綿百年期博覧会の御用掛に任命され、参列していたのでした。

この服部一三は、その後彼が来日したあとに英語教師を務めることになった、島根県松江尋常中学校での教職を斡旋した人物です。

とくにその後の経歴で大きな業績を残すような人物ではありませんでしたが、幕末から明治のはじめまで長崎で英語を学び、その後、アメリカ合衆国へ渡りラトガース大学で学んで理学士(B.S.)の学位を取得しており、帰国後は元長州藩士でもあったことから重用され、文部省に入省後は出世街道を歩んでいます。

その後、東京英語学校長の校長、大阪専門学校綜理、東京大学法学部・理学部・文学部綜理兼同予備門長などを歴任し、東京大学幹事を経たあと、ニューオリンズ万博における事実情の日本代表に抜擢されたのでした。

ちなみに万博後は、文部省参事官、同省普通学務局長を務めあと、岩手県知事、広島県知事、長崎県知事、兵庫県知事などを歴任。兵庫県知事在任中の52歳のときに貴族院勅選議員に任命され、これを13年間も勤めたあと、78歳で亡くなっています。

群れA

さて、この服部一三との出会いによって日本への興味を持ったハーンは、ちょうど同じころ、女性ジャーナリストとして名を馳せるようになっていた「エリザベス・ビスランド」という人物と知り合いになります。

一説によると恋仲ではなかったかと言われているようですが、どうやら一方的に恋心を持っていたのはハーンのほうであり、エリザベスのほうは親しい友人として彼を扱い、他人にもそう説明していたようです。

ビスランドは、南部ルイジアナ州の片田舎の生まれで、10代のころから詩を書いてニューオリンズの新聞社に送り、それが新聞に掲載されたのがきっかけでジャーナリストを志すようになりました。

18歳になったとき、ハーンがこのころ勤めていたアイテム社の新聞、「アイテム」に掲載されていた小説を読み、なぜかそれを書いた作者に会いたくなったといい、彼女はわざわざミシシッピーの田舎町からニューオリンズまで出て行き、その小説の作者であるハーンを訪問したといいます。

小説のタイトルは「死者の愛」といい、ハーンはビスランドより11歳も年上でしたが、これをきっかけとして二人はその後も長く続く友人関係となっていきます。

やがて彼女は、ニューオリンズに出て、ハーンと同じアイテム社に入社し、ハーンと同僚になります。その後、ビスランドはさらなる飛躍を望み、ニューヨークに出ます。美人で優雅、若く社交的なビスランドの周囲にはたくさんの人が集まり、記者としての才覚もあったため、やがて美人ジャーナリストとしてもてはやされるようになりました。

そんなニューヨークで彼女は、「ニューヨーク・ザ・ワールド」という新聞社に務め、忙しくジャーナリストとして活躍していました。そんなある日、彼女は急に会社から「今すぐ、世界一周の旅に出よ」という命令を受けます。

エッ、世界一周!? なぜ…??と彼女も思ったでしょう。

このころ、ジュール・ベルヌが出版した「八十日間世界一周」が出版されてからそろそろ16年が経過しており、鉄道・船舶はより便利に発達していて、世界一周には80日もかからないだろうといわれていました。

しかし、実際にそれを試した者はおらず、それならそれで1889年時点の現在、実際には何日で世界一周が可能なのかを試してみようという企画を考えた人物がおり、しかもこの世界一周旅行を、女性として実践してみようと言いだしたのでした。

「ネリー・ブライ」という女性であり、彼女は、ビスランド以上に人気のある女性ジャーナリストでした。「女闘士」のような記者だったといい、生まれ育ったピッツバーグではすでにジャーナリストとして活躍していたブライは、23歳のとき自信満々でニューヨークに出てきて、ここでもその才能をいかんなく発揮するようになります。

ネリーは、いわゆる「暴露報道」でその名を馳せた記者であり、そのひとつである「ブラックウェルズ島の精神病院潜入レポート」では、この悪名高き精神病院に患者のふりをして一週間潜入するという企画でした。

そしてこの記事を掲載した彼女が所属する会社の雑誌「コスモポリタン」は大成功、彼女はニューヨークで最も有名な女性記者となったというわけであり、世界一周もまたその後ブライが次々と打ち出した企画のひとつでした。

しかし、ただ一人だけ世界一周しても面白くない、というわけで、ライバル社であったビスネルの勤めていたニューヨーク・ザ・ワールドに彼女への名指しで挑戦状を突き付けてきたのでした。

このときブライ25歳、ビスランド28歳だったそうで、どちらが早く世界一周できるか勝負だ、というわけでビスネルの勤めていた会社もまた、面白い企画だ、乗ろう!ということになったのでした。

「世界一周早まわり競争」、これに成功すればだれもが知っているスター記者になるだろうとブライは考えたのでしょう。

ビスランドはいったんはこの企画を断ったといいますが、編集長の説得に押し切られ、とうとうビスランドは「勝負」を受けることとなります。その日のうちにニューヨークを出る汽車に乗り、サンフランシスコに向かい、サンフランシスコからはさらに汽船ホワイト・スター号に乗り、太平洋を渡り、日本へ向かいました。

この競争は当然一般にも公表されたため、ネリー・ブライとエリザベス・ビスランドという人気ジャーナリストのどちらが先にニューヨークに帰ってくるか、ということでニューヨーク市内ではどこへ行ってもこの話題でもちきりでした。

日本へやってきたビスランドは、次の船の出航までの間、横浜と東京でわずかばかりの観光を楽しみましたが、日本に到着したその翌日には、香港行きの汽船に乗り、世界一周を達成すべくその先の旅を急ぎました。

この二人の競争については、さらに詳しく書きたいところですが、これはまたの機会にしましょう。

結果として、エリザベス・ビスランドがニューヨークに帰りついたのは、1890年1月30日でした。対するネリー・ブライは、その5日前の1月25日に到着し、世界一周「72日と6時間11分14秒」の世界記録をつくり、また単独世界一周旅行を行った最初の女性となりました。

ただし、この記録は数カ月後、62日で世界一周を成し遂げたジョージ・フランシス・トレインによって破られています。

ビスランドがニューヨークに到着したとき、待っていたのは数人の友人たちだけだったといい、傷ついたビスランドはその後イギリスに渡り、その後再度アメリカに戻ったあと、鉄道などいくつかの会社を経営する富豪と結婚し、このとき女流記者としてのキャリアを捨てました。

しかし、このイギリス滞在の間、及びアメリカへ帰国後もハーンとの交流は続いていたようで、ハーンもこのとき彼女から、世界一周旅行の帰国報告を受けました。ビスランドはさらに後年ハーンが日本に行ってからも、彼が執筆した本のアメリカなどでの出版の手助けをしています。

世界一周から帰ってきた直後、ビスランドはたった一日しか日本に滞在しなかったにもかかわらず、いかに日本は清潔で美しく人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であったかをハーンに語ったといいます。

ビスランドは年下ながらも長年恋慕してきた女性であり、その生涯を通し憧れ続けた人物だっただけに、このビスランドの発言に激しく心を動かされ、ハーンは急遽日本に行くことを決意することになります。

漁船

こうして1890年(明治23年)、アメリカ合衆国の出版社、「ハーバー・マガジン」の通信員としてニューヨークからカナダのバンクーバー経由で、ハーンは横浜港に着きました。

4月のことであり、この数か月後に、ハーンはかつてアメリカで知り合った服部一三(この当時は文部省普通学務局長)を訪問しています。

このハーンに対して服部は、島根県の松江での英語教師の口を紹介しました。こうしてハーンは、松江尋常中学校(現・島根県立松江北高等学校)と島根県尋常師範学校(現・島根大学)の英語教師に迎えられることとなり、同年8月に松江に到着しました。

この時点でハーバー・マガジン社との契約を破棄し、その後死ぬまで日本で英語教師として教鞭を執るようになりました。

そしてその翌年(1891年)、松江尋常中学の教頭であった西田千太郎のすすめにより、松江の士族で小泉湊在住の娘・小泉節子(もしくはセツ)と結婚しました。節子は1868年生まれであり、ハーンとは18歳も年の違う結婚相手でした。

このころ、ちょうど同じく旧松江藩士であった根岸干夫という人物が郡長となって官舎住まいとなり、その居宅が空き家となったため、二人はここを借用して新婚生活を始めることになりました。ちなみに、この根岸家は、1940年に国の史跡に指定されており、現在もハーンゆかりの場所として、松江の観光名所となっています。

しかし松江での生活は長続きせず、結婚後10か月ほどたった11月、今度は熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身校。校長は嘉納治五郎)の英語教師への就任要請があり、ハーンはこれを受諾します。

松江を捨てて熊本に移り住むことを決意した理由は、ちょうどこのころ長男の一雄が誕生したこともあり、扶養家族が増えたためであり、より高給であった熊本五高の教師となる道を選んだのでした。

長男も誕生し、日本の家族との絆も強まっていったことから、このころからハーンは日本へ永住帰化を考えるようになっていたようです。しかし、赴任していった熊本という土地柄にはどうも馴染めなかったようです。

このため、3年ほどここで勤めたあと、1894年(明治27年)、外国人居留地のある神戸に移り住むことを決め、ここの地元英字新聞社「神戸クロニクル」の記者となりました。

しかしここでの生活も2年ほどで切り上げ、1896年には、東京帝国大学文科大学の英文学講師に就職。一家をあげて上京しますが、これを機会に日本に帰化することを決め、このころから「小泉八雲」と名乗るようになりました。

この「八雲」というネーミングは、日本神話においてスサノオが詠んだという日本初の和歌、「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」からとったものと考えられます。この歌にある、「八雲立つ」は出雲にかかる枕詞となっており、八雲は出雲国を象徴する言葉です。

愛する妻が生まれ、自分が初めて教職を持った町であり、松江には特別な感情があったのでしょう。

ただ、「八雲」は、音読みにすると「ハウン」になるため、これと「ハーン」を掛け合わせたのではないかと指摘されることが多いようです。しかし、これについてはハーンの教え子のひとりが、「八雲がハウンに通じるという考えは彼には少しもなかった」と明言しています。

東京では、牛込区市谷富久町(現・新宿区)に住み、その後1902年の春までここに住んでいます。この場所は、JR中央線の市ヶ谷駅近くにあり、現在はその建物は残っていませんが、そこがハーンの居住地であった碑だけが建てられているということです。

この家に移り住んだ翌年には、次男の巌が誕生、さらにその二年後には、三男の清も誕生し、小泉家は5人の住む賑やかな家になりました。

このため市ヶ谷の家は手狭となり、1902年、一家は西大久保に転居します。翌年の1903年には東京帝国大学を辞職した彼は、翌年早稲田大学の職を得ましたが、幸運にもこの場所は早稲田から非常に近い場所でした。その翌年の1904年に八雲はこの家で世を去りましたが、この家も今はなく、碑だけが残っています。

当時の大久保は静かなところだったでしょうが、現在は商店街のある賑やかな街であり、韓国人を中心として外国人が多く住んでおり、ハングル文字の看板なども見られるエキゾチックな雰囲気の街に様変わりしています。

死の直前の1903年には、長女の寿々子が誕生していますが、無論彼女は父の顔を覚えていないでしょう。ハーンの死因は狭心症だったそうで、享年は54歳ということになります。

亡くなる直前まで、子供たちと冗談を言い合ったりして笑っていたそうですが、しばらくして、一人で節子のそばに来て、発作が起きたことを淋しそうに告げた後、妻のすすめで横になり、そして、その夜のうちに亡くなったそうです。

「少しの苦痛もないように、口のほとりに少し笑みを含んで居りました」とは後年節子の述懐であり、「長く看病をして、あきらめのつくまで居てほしかった」と彼女はその著著の「思ひ出の記」の中で最愛の夫を失った無念の気持ちを綴っています。

墓は早稲田大学の北にある雑司ヶ谷霊園で、ここは、階級を刻んだ大きな軍人の墓や他にも有名な文人の墓もある歴史ある墓所です。

そんな中にあって、ハーンの墓は名前を刻んだだけのシンプルな目立たないものであり、墓石の右側には、彼の戒名「正覚院殿浄華八雲居士」とその英訳である長いアルファベットが刻まれています。この英文は八雲の友人であった雨森信成の訳だということです。

このハーンの日本における業績ですが、日本各地で教鞭をとっていた14年間に13冊の本を書いており、その代表作は言うまでもなく、「怪談(kwaidan)」でしょう。

ほかにどんなものがあるかというと、「知られざる日本の面影 (Glimpses of Unfamiliar Japan)」、「東の国より (Out of the East)」、「心 (Kokoro)」「異国風物と回想 (Exotics and Retrospectives)」、「霊の日本にて (In Ghostly Japan)」といった日本人の心や生活様式について書いた随筆が多いようです。

しかし「怪談」のように日本古来の怪異な物語を集めたものも多く、「仏陀の国の落穂 (Gleanings in Buddha-Fields)」や「影 (Shadowings)」、「日本雑録 (A Japanese Miscellany)」、「骨董 (Kotto)」といった物語集があり、いずれもその緻密な描写によって現代に至るまで高い評価を得ています。

ハーンはドナルド・キーンやアーネスト・フェノロサなどとならび、著名な日本・日本文化紹介者の一人であり、その作品もまた日本人にとっては祖国の文化を顧る際の重要なよすがとなっており、三島由紀夫や川端康成も、その著著の引用をしばしば行っているといいます。

おさかなA

ところが、私は小泉八雲といえば日本語がペラペラで、その作品も日本語で書かれたものが多いと勘違いしていましたが、実はそうではないようです。

妻の節子との会話はともかく、日本の古典文学を原文で読みこなせるほどの能力はなかったのではないかと思われ、松江市にある小泉八雲記念館に残されている妻節子宛ての手紙などは、カタカナだらけであり、しかもかなり稚拙な日本語です。

例えば、「パパサマ、アナタ、シンセツ、ママニ、マイニチ、カワイノ、テガミ、ヤリマス、ナンボ、ヨロコブ、イフ、ムスカシイ、デス」といった具合であり、おそらく晩年にはもう少しマシになっていたのかもしれませんが、日本語で日本のことを描写するというのはほとんどできなかったと思われます。

この手紙は、ハーンが子供たちと避暑で静岡の焼津などに滞在していている間、あとに残った妻セツに毎日書き送った手紙のようで、同様のものが多数残されているそうです。

ハーンは日本語がわからず妻は英語がわからないため、夫妻の間だけで通じる特殊な仮名言葉が公用語であったといい、上記の手紙もそのひとつでしょう。

節子は日本語が読めない夫のリクエストに応じて日本の民話・伝説を語り聞かせるため、普段からそれらの資料収集に努めていたともいい、「怪談」のもととなった「雨月物語」なども、ハーンが理解できるレベルの日本語で妻が読み聞かせたといわれており、妻の節子はハーンにとってなくてはならない秘書ともいるような存在だったようです。

これ以外にも彼女以外の家族・使用人・近隣住民、また旅先で出会った人々の話を題材にするため、懸命に書き留めていたそうですが、無論英語でのことです。

その節子は、その後30年近く生き、昭和7年に65歳で亡くなりました。その生前、前述の「思ひ出の記」を出版しており、この内容は長男の一雄との共著のかたちで、「小泉八雲 思い出の記・父「八雲」を憶う」として、恒文社から1976年に出版されています。

長男の一雄は、生前のハーンからかなり英語の手ほどきを受けたといいますが、結局父のように教職には就かず、早大卒業後、拓殖大学の教務員となり、その後横浜グランドホテルになどに勤務しています。

のちに父の遺稿を整理し、書簡集の編集などにたずさわり、昭和40年に71歳で死去。著作には上述の「父八雲を憶う」のほかにも「父小泉八雲」があります。

また次男の巌は、母節子の養家であった稲垣家を継ぎ、稲垣巌として、京都府立桃山中学校の英語科教員となりましたが、1937年(昭和12年)に40歳の若さで死去。

三男の清は、画家になりましたが、1962年にガス自殺で亡くなっています。

一人娘の寿々子については、その後の境遇について何を調べても出てきません。が、その姪らしい人が「ヘルンと私」という著著の中で、この叔母のことについて記述しているということです。なので他家へ嫁ぎ、ある程度の年齢までは元気で生きていたのでしょう。

しゃぼん03

さて、実は、小泉八雲は、静岡とも縁があった人です。

東京へ移った翌年から、毎年の夏を焼津で過ごすようになり、その時身を寄せていたのが、焼津の町の魚屋、「山口乙吉」の家でした。八雲の作品の中には「乙吉の達磨」「焼津にて」など焼津を題材とした小説があり、水泳が得意だった八雲は、夏休みを海で過ごそうと、子供を連れてたびたび静岡を訪れていました。

東海道線は、1928年(昭和3年)には、東京~熱海駅間の電化が完成し、それまでの蒸気機関車に代わる電気機関車の運用も開始されており、また、1934年(昭和9年)には丹那トンネルが開業しており、この当時は東京~静岡間のアクセスは相当に改善されいました。

都会の喧騒を避け、避暑をするためには静岡は最適な場所だったのでしょう。

最初のころハーン一行は、浜名湖の西側にある舞阪の海を訪れていたようですが、ここは海が遠浅で海水浴には適していますが、水泳には適さないと本人は気に入りませんでした。

その後、海の見える駅で降りては、順番に見て行くということを繰り返していたようですが、その中でも焼津の深くて荒い海が気に入ったハーンは、海岸通りの魚商人・山口乙吉の家の2階を借りました。

以後、1899(明治32)年、1900(明治33)年、1901(明治34)年、1902(明治35)年、1904(明治37)年と、亡くなるまでほとんどの夏を焼津で過ごしています。

実はこの魚屋の建物は、岐阜にある「明治村」に移築されて残っています。明治初年に建てられたこの家は、間口5.5m、奥行13.2mの町屋で、本屋は軒の低い二階建、前面に一間程の庇を出して店構えとし、内部片側に通り土間を通す形式は、当時の町屋の典型的な形です。

東京では普段はひたすら机に向って物書きに専念していハーンは、焼津に来ると必ずここに滞在し、一緒に来ることの最も多かった長男・一雄に水泳を教えたり、乙吉たちと散歩に出かけてトンボを捕まえたり、お祭りを眺めて大喜びしたりとのんびりと楽しい一時を過ごしたといいます。

作家・小泉八雲ではなく、家族を持つ父親としての様子が今もこの当時を知る人達によって語り継がれています。

ハーンが焼津を訪れるようになったのは、焼津の海が気に入ったことのほか、夏の間滞在していた家の主、山口乙吉と非常にウマがあったことも大きな理由だったようです。純粋で、開けっ広げで、正直者、そんな焼津の気質を象徴するような乙吉をハーンは“神様のような人”と語っていたそうです。

この音吉の家の神棚の下に、ひとつの達磨が置いてあったそうで、ハーンはこの達磨のことをその後もたびたび引き合いに出し、この焼津での楽しい夏のことを綴っています。

乙吉はハーンを”先生様”と呼び、片やハーンは乙吉を “乙吉サーマ”とお互い親しく呼びあっていたそうで、この当時の二人の会話について、自著の「乙吉のだるま」に書いています(原文は英語)。

「……乙吉さん、このだるまさんが片目なのは、子どもたちが、だるまさまの左目を叩きだしたためですか」

これに対して乙吉は、「へぇ、へぇ」と含み笑いをすると、「こんど大吉の日がありましたら、そのときに、もう片方の目も入れてやりますよ」と答えたといいます。

隻眼だったハーンのことを達磨に例えての会話であり、その暗黙の了解がこの会話からはうかがわれ、二人の親密ぶりを示すエピソードです。

こうした焼津におけるハーンの暮らしぶりやその当時の史料については、焼津駅近くの焼津文化センター内に、「小泉八雲記念館」というものがあり、この中に展示されているそうです。

ハーンの遺品や直筆草稿などが展示されているそうで、この中には彼が愛用したキセルやコップといった身の回り品のほかに、ハーンが焼津滞在中、東京で留守番をしていた節子に宛てた例のカタカナ書きの手紙もあるそうです。八雲が焼津からセツ夫人に出した手紙は全部で21葉あり、そのうち7葉がこの焼津小泉八雲記念館で展示されているとか。

焼津は、ここ伊豆からだと車で2時間近くかかる場所ですが、今度この方面へ行くことがあれば、私もぜひ訪れてみたいと思います。

さて、この項も長くなったのでそろそろ終わりにしたいと思います。が、最後にひとつだけエピソードを加えましょう。

ハーンが東京帝国大学で教鞭を取っているときの学生からの信望は非常に厚かったそうで、その教え子の一人で、英文学者から宗教家、心霊研究家へと転身した浅野和三郎は、そのハーンの講義の様子を次のように書いています。

「出づる言葉に露よどみたる所なく、洵に整然として珠玉をなし、既にして興動き、熱加はり、滔々として数千語、身辺風を生じ、坐右幽玄の別乾坤を現出するに及びて、余等は全然その魔力の為めに魅せられぬ」

多少誇張のある表現だと思いますが、それほど彼の講義は人気があったようで、東大を解任されることが決まったときには、激しい留任運動が起きたといいます。

また別の教え子のひとりは、「ヘルン先生(ハーンのこと)のいない文科で学ぶことはない」といって法科に転科したといいます。

このハーンの講義の「魔力性」については、そのほかの多数の教え子も同様の述懐をしており、のちに日本を代表する哲学者となり、京都大学教授、名誉教授にもなった西田幾太郎もその一人です。

彼は、その後ハーンの伝記を執筆しており、その序文の中で、「ヘルン氏は万象の背後に心霊の活動を見るといふ様な一種深い神秘思想を抱いた文学者であつた」と書いています。

「氏の眼には、この世界は固定せる物体の世界ではない、過去の過去から未来の未来に亙る霊的進化の世界である」とも述べており、ハーンの神秘主義は、ある種のスピリチュアリズムから来ているのではないかといったことも指摘してます。

54歳という若さで亡くなったため、その最晩年にそうしたものについての著作はありませんが、生きていればあるいは、そうした作品も生まれていたかもしれません。残念です。

実は、この東京帝国大学のハーンの後任は、あの夏目漱石でした。ハーンの解任の理由はよくわかりませんが、漱石もこのころは颯爽たる英文学者に成長しており、東京帝大の教授としては日本人のほうが望ましいと考える向きがあったのかもしれません。

こうしてハーンの後任として教鞭を執ることになった夏目漱石でしたが、その就任後も学生による八雲留任運動が続いていたといい、いかにも漱石的な分析的で硬い講義はかなり不評であったといいます。

そうした中、漱石はやがて神経衰弱になり、妻とも約2か月別居することになったといい、このころ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため漱石が執筆したのが、彼の処女作であり、かつ後の世で最も有名な作品となった「吾輩は猫である」でした。

この名作の誕生の裏に、小泉八雲の存在があったということでもあり、そのハーンはかの文豪をも凌駕する人気を学生から博していたというのも面白い事実です。この二人の大家がこうした形で歴史の上で交錯していたというのもまた歴史の面白さでもあります。

さて、長くなりました。終りにしましょう。

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