スカンジナビア ~沼津市

sea-1080587

少し暑さが和らいできたかな、というかんじはするのですが、依然、日々の日中最高気温は30度越えを繰り返しています。しかも本州のど真ん中に前線が居座っているためか、湿った空気が入ってきて、伊豆半島はどんよりした空気感です。

しかし、今日は朝から富士山が良く見えており、この時期としてはまずまずの眺望コンディションといえるでしょう。

しかし、そんな富士山への入山ももうすぐ閉鎖になるはずであり、今頃はその前に登ってしまおうという登山客でごった返しているに違いありません。

この富士山が見える場所ですが、伊豆半島の中ではどこが最南端だろうかと調べてみたところ、どうやらこれは天城連山の万三郎岳あたりのようです。これより南側の河津や下田方面まで行くと逆に天城山が邪魔になって富士山の眺望は得られません。

また、伊豆半島の西側の海岸沿いでは、黄金崎あたりが南端のようで、これより南側ではここから南東に回り込む海岸線のため、やはり富士山は見えなくなります。

それではこの西海岸のどこが一番富士山がきれいにみえるかというと、これはおそらく沼津市南端にあたる三津(みと)港あたりから、大瀬崎(おせざき)あたりまでの海岸線でしょう。この区間ではちょうど、東西に県道が伸びる形になっており、各所で駿河湾越しに左右シンメトリーの美しい富士山をみることができます。

この三津港から西に1kmほど行ったところに、西浦木負(にしうらきしょう)という場所がありますが、ここからの富士山の眺めも抜群で、少し湾奥にあるため、波も静かであり、美しい富士山の撮影をすることができます。

実は私はこの場所には学生時代以来、行ったことがありません。なので記憶をたどってのことなのですが、ネットなどで調べたところ、その景観を妨げるような建物などは現在までも建設されておらず、昔のままの美しい入り江がそのまま残っているようです。

じゃあ、学生時代にここに何をしに行ったのよ、ということなのですが、これは実は一隻の船を見るためでした。

正確には船というよりも、係留されたままホテルとして使われていたものであり、その名を「スカンジナビア号」といいました。旧西部グループの土地開発ディベロッパー、「コクド」の傘下にあった伊豆箱根鉄道が所有・管理していたもので、ホテル兼レストラン「フローティングホテル・スカンジナビア」として利用されていたものです。

湘南海岸C

スカンジナビア号は、1927年建造のヨット型クルーズ客船であり、当初クルーズ客船「ステラ・ポラリス(Stella Polaris、北極星の意)」として運営されていました。

1926年11月、スウェーデン南西部のヨーテボリ造船所にて建造され、翌1927年2月23日に進水。その3日後の2月26日の処女航海の目的地はイギリスのロンドンであったといいます。

その優雅な姿から「七つの海の白い女王」と呼ばれ、その後は富裕層を対象にしたクルーズ事業向け客船として世界中を航海し、流線型の美しい船型は世界中の人達から絶賛されていました。

その後沼津に曳航されてホテルとして使われるようになったわけですが、そのころまだ学生だった私が、こんな豪華ホテルに泊まれるわけはありません。

しかし、私はこのころからもう既に大の船好きであり、見るだけならタダというわけで、一度ぜひその姿だけでも拝んでおきたいと思い、友達の車に便乗してわざわざ沼津市内から見学に出かけたのでした。

初めてみたその姿は噂通り美しく、富士山をバックに西浦に優雅に浮かぶその姿は、確かに貴婦人といえるほどのものでした。無論、中には入れませんでしたが、あとでカフェ利用だけなら一時乗船もできたと聞き、それならばお茶だけでもしておけばよかったと悔いたものです。が、後の祭りです。

進水後はクルーズ船として世界中を旅してまわったステラ・ポラリスですが、その後、第二次世界大戦が勃発すると、1940年、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党政権下のドイツによるノルウェー侵略により、ドイツ軍に接収されていた時代があります。

しかし戦時下でも戦災には巻き込まれることもなく、戦後の1945年、ノルウェーの元の所有者であるベルゲンライン社に無事に返還されました。

ただ、接収されていたときのドイツ人の扱いは荒く、Uボート乗組員などが憂さ晴らしなどのために船内をかなり荒らしたそうです。従ってこの間の船体の整備も必ずしも良好でなく、調度品などには相当なダメージを受けたため、戦後の1946年、故郷ノルウェーの建造されたヨーテボリ港に回航され、大規模な修復が施されました。

この時、船歴は既に20年を経過しており、構造的にもやや古い技術で造られた船であったため、ブリッジの密閉化などの近代化改修もあわせて行われました。

1947年、修復と改修を終えたステラ・ポラリスは、このころはまだ第二次世界大戦後の混乱が続く中でしたが、いち早くクルーズ船としての営業を開始しました。

この頃は既に航空機時代となっており、飛行機との競争で独自色を出す必要が出てきたクルーズ専用船にとって、この改修されたステラ・ポラリスは先駆的な手本となりました。

後に建造されることになる数々の豪華客船、例えばクイーン・メリー号(1936~1967)やクイーン・エリザベス号(1969~ 2004)、ユナイテッド・ステーツ号(1952~1969)などの内装や設備は、このステラ・ポリスを参考にして決められたともいわれています。

1959年、船歴も30年を超えたステラ・ポリスは、同じスウェーデンの船会社クリッパーライン社に売却されましたが、このときは船体構造などの近代化は行われず、むしろベルゲンライン社が保有していた時代の良さを残す形の修復が行われただけでした。

こうして修復されたとはいえ、むしろレトロな雰囲気を残したステラ・ポリスのクルーズ船としての運用は好調であり、その後も20年以上にわたって、世界中の海で活躍しました。

湘南海岸F

ところが、このころになると世界的にも二次大戦の痛手もおさまり、こうした客船を利用してのんびりとした船旅をしたいという向きも増えてきたことから、増える一方の船客の安全を守るため、従来あったSOLAS条約をより強化しようという動きが出てきました。

SOLAS条約とは、「海上における人命の安全のための国際条約」の通称であり、1912年のタイタニック号海難事故を契機として、当初は船舶の安全確保のため救命艇や無線装置の装備等の規則だけを定めるため、1914年に締結された条約です。

しかし、第一次世界大戦の影響ですぐには発効には至らず、その後こうした付属施設の規則を定めるだけでなく、船体構造などに対する新たな安全規制を追加するなどの修正を加えたのち、1933年に発効されました。

そして、戦後の1948年、1960年再度修正された上、1974年に再度改定されることになり、このときの改定内容は船体の復元性や機関構造、電気設備などに及び、また防火対策などについても厳しい規制が加えられることになりました。

この改正は、既に船歴も40年以上ともなるステラ・ポラリスにとっては致命的なものであり、大規模な改修を行って存続させるか、就航終了させるかが迫られる厳しい宣告となりました。

この結果、改定条約施行まではある程度の猶予期間はあったものの、結局これを機に豪華客船としてのステラ・ポラリスの歴史は終わることになります。

こうして1969年、就航40年以上を経過したステラ・ポラリスの処置についてクリッパーライン社は、クルーズ客船としての維持修復に多額の投資を続けるよりも売却の道を選択しました。

ちょうどこのころ、日本は高度経済成長を迎えており、そんななか、ホテル事業などを核に快進撃を続ける西武グループなどのレジャー産業企業は絶好調でした。そしてこの西部グループ全体のリゾート開発を一手に握っていたのが、国土開発(コクド)でした。

このため、ステラ・ポラリスの売却の話が出るや否やその買収にも手をあげ、グループの傘下企業の伊豆箱根鉄道を通じて、これを沿線リゾート開発事業として使う「ホテルシップ構想」を表明しました。

クリッパーライン社との交渉の結果、その買収価格は5億円と決まり、こうしてステラ・ポリスの日本への売却が正式に決定されました。ただし、契約条項に「ステラ・ポラリスとしての継続使用は認めない」という内容が含まれており、これはすなわち外洋を航行する客船としての利用はできないという意味でした。

このため、買収後の名称も「スカンジナビア」と変更され、正式名称は「フローティングホテル・スカンジナビア」と呼ぶようになったのでした。

やがて外洋客船としての艤装は解体され、日本に曳航されてきて沼津市西浦木負沖に投碇。そして「海上ホテル」としての内装に手が加えられた結果、1970年7月25日から営業が開始されました。

実は当初、この西浦木負の地では、スカンジナビア号を中心として水族館などを併設したテーマパークを建設する構想がありました。

しかし、停泊地周辺の用地の買収難航などによりこの計画は頓挫し、現在も三津港すぐ脇にある三津天然水族館、現在の「三津シーパラダイス」から長井崎を挟んで2kmほども離れた西浦木負に開業することになったのでした。

このため、テーマパークとしての水族館との連携を図るため、この距離を遊覧船を就航させることで補いましたが、観光地としての連続性に欠けるものとなり、その価値はやや低下することとなりました。

しかし、この頃の西部グループは絶好調であり、ホテル業界の旗手とまでもいわれた、グループ傘下の「プリンスホテル」が持つサービステクニックなどを最大限に生かした経営が行われました。またレストラン部門も充実させることなどにもよって好評を博し、やがて数多くの利用客に親しまれるようになりました。

その後、伊豆といえば、まず「三津」へといわれるほどリゾート地としての人気を長年にわたり維持しましたが、その評価については、この項の冒頭でも述べたように、その背景に富士山を擁する美しい風景があったこととは切り離して考えることはできないでしょう。

無論、スカンジナビア号の気品ある姿と内装の素晴らしさも評判を呼び、ホテルとしての付加価値・魅力に対しても大きな賞賛の声があったことは間違いありません。バブルピークの1990年度には、船内のレストランだけで年間約6万人が利用があったといい、この年だけで約10億3000万円の売り上げを記録したといいます。

しかし、その後1990年代の後半になると、バブル景気は休息にしぼんでいき、1999年のバブル終了後には、消費低迷やリゾート不況が襲ってきます。その影響下にあって、王国とまで言われた西部グループもまた斜陽化していき、旗艦であったプリンスホテルでさえも人員削減をはじめとしたリストラなどの経費節減を実施するようになりました。

スカンジナビア号もまた客室稼働率が著しく低下するようになり、こうした結果ついにホテル部門を継続することができないほど業績が悪化。ついには営業終了を発表し、ホテル主体の事業からレストランのみを専業とする業態への変更を余儀なくされるようになりました。

2005年、このころには「コクド」へと名称変更していた国土開発をはじめとした西武鉄道グループの事業再編が始まり、この中ではスカンジナビアも事業見直しの対象となりました。

この際、建造後70年以上をも経過し、老朽化の激しい船体の維持管理に掛かる莫大なコストが問題視され、不採算事業であるとされたため、ついにはレストラン部門も閉鎖し、船体そのものを売却する方針が発表されます。

湘南海岸H

このとき、スカンジナビアが西浦にやってきて既に35年が経過しており、地域住民にとってはスカンジナビア号の雄姿は西浦の景色の一部にほかならないものとなっていました。

このため、「海洋文化財としてこのまま地元に残すべき」などといった声も多く集まり、シンポジウム開催や保存を要望する署名活動まで行われ、その結果は所有者の伊豆箱根鉄道へ持参されて陳情が繰り返されるなどの保存運動が行われました。

しかし、伊豆箱根鉄道は、2005年3月31日をもってレストラン営業を終了することを宣言。そして、海洋クルーズ運航事業を行う、イギリスの「ランティー社(イギリス領ヴァージン諸島が本拠)」との間にその船体の売買交渉が持たれるに至りました。

この交渉は2006年まで継続されましたが、売買価格で折り合いがつかなかったためか、結局売却は成立しませんでした。しかし、ランティー社との売買交渉が不成立となったあと、今度はスウェーデンが本社の「ペトロ・ファースト社」との売買交渉が浮上し、その結果として、正式に同社へのスカンジナビア号の譲渡が決定されました。

その売却価格については明らかにされておらず、スカンジナビア号の保存陳情を行っていた団体が伊豆箱根鉄道に対して公開質問を行い、いくらで売却したのかを明らかにしようとする動きなどもあったようですが、結局、西武グループ側はこれを公表していません。

いずれにせよ、スウェーデン側への売却が決まり、こうしてスカンジナビアはその生涯のほぼ半分もの期間を過ごした沼津の地を離れることとなりました。

2006年8月31日、伊豆箱根鉄道社長のほか、沼津市長らも参加して出航式が行われました。スカンジナビアは自力では航行できるような状態ではなかったため、その船出は別の船によって曳航される形でした。

この後、9月7日ころに上海に寄港し、ここで改修工事が加えられたのち、故郷であるスウェーデンに帰り、再びホテル兼レストランとして営業する予定だったといいます。

ところが、沼津港を出た翌日の9月1日の夜間21時ごろ、和歌山県沖を曳航中の船体に浸水が発生し、徐々に左傾しはじめました。このため、同日23時30分頃にはいったん状態確認のため、近くの串本町潮岬西側の入江に退避しました。

しかしその後も傾斜はおさまらずさらに浸水が増し、船体は沈み始めました。このとき、ここで座礁してしまえば、後の引き上げも可能だったと思われますが、なぜか曳航者はスカンジナビアの沖出しを決行しました。おそらくは入江内の浅瀬での着底は、油の流出などによりその後漁業関係者による訴追を免れないと考えたのでしょう。

日付が変わって2日となった午前1時30分頃、再び沖合に舳先を向けて沖出しさせていたところ、この間にさらに傾斜がひどくなります。そして徐々にひどくなる浸水の状況を改善させることもできず、午前2時頃、ついに和歌山県潮岬沖約3kmほどの場所でスカンジナビア号は沈没しました。

のちに調査が行われ、水没地点が確認されたところ、この位置の水深は72m程度だったといい、この水深にある船を現在のサルベージ技術で引上げることはけっして不可能ではないと思われます。

しかし、36年間にも及ぶ係留で船体は傷み、強度はほとんどなかったともいわれ、沈没の原因となった浸水もこの老朽化が原因と考えられました。このため、その後の引き上げもついに断念されるに至ります。

Skandinavia20060831曳航され海上を進むスカンジナビア号 (2006年8月31日)

沈没原因については本当に浸水だけが原因だったかどうかなど未だにいろいろ取沙汰されているようですが、かなり老朽化していたことは間違いなく、「沈没は想定の範囲内」であったという指摘もあります。「曳航ではなく台船に積載して運搬する方法もあったのではなかったか」という意見も後に出たようです。

その後の調査で音波探査なども行われ、その結果スカンジナビア号は大きな損傷もなく着底したことがわかっています。海上に浮かんでいるのと同じ状態で着底しており、その姿が三次元の画像で記録などもされています。船尾より沈没したようで、砂の上に船体を引きずったようなくぼみ跡も確認されています。

買い手の「ペトロ・ファースト社」もその後浮上させることを検討したようですが、この沈没地点は、最大で4ノットにも及ぶ黒潮が流れており、台船の固定が難しいなどの理由も浮上し、結局引きあげは実現しませんでした。

水深70mというのはダイビング可能な水深を大幅に超えており、このためその後も沈没したスカンジナビアを直接撮影した映像などはないようです。

貴重な貴金属とかが積まれていたならば、その回収のために引き上げをしようという動きもあったでしょうが、船内にはサルベージ費用をまかなえるほどの貴重なものは残っていなかったようです。

ただ、船内には木製のレリーフや美しいガラス彫刻などの美術品も残っていたそうです。
このガラス彫刻は、スウェーデン国王の歴史を彫り込んだ物だったそうで、スウェーデンでも有数のガラス工房で製作され、その作業には有名な彫刻家も参画し、一枚のレリーフを完成させるには、数人のクラフトマンが数ヵ月の時間を費やしたといいます。

また、船内のダイニングにあったスカイライト(天窓)などにも、こうしたガラス彫刻が施されていたそうで、この彫刻を行ったのもノルウェーの高名な彫刻家であり、このスカンジナビアにあったガラス彫刻はそうした彫刻家の最後の作品とも言われているといいます。

これらの美しい船内装飾品もさることながら、その美しい船体そのものが永遠に失われてしまったことはかえすがえすも残念なことです。

実は私はこの船が既に失われていることは知らず、昨年までの伊豆への転居が決まった時には、ここを再訪するのを楽しみしていました。

風の便りに、ホテルやレストランの営業は停止していると聞いて知っていましたが、ボロボロになりながらも船体だけはまだ係留されているとばかり思っていましたが、まさか海の藻屑と消えていたとは……

2005年のレストラン閉鎖前には、北欧料理のバイキング形式での提供する「グリル北欧」というレストランの運営がまだ行われていたそうです。隣接する三津シーパラダイスでは、「ドルフィンウエディング」と称して、イルカ達とともに結婚式を行い、スカンジナビア号船上でウェディングパーティを開催する企画まであったそうです。

広い船内スペースを活用したパーティなどのイベントもまだ行われていたといい、そうしたことももうできなくなってしまったとは本当に残念です。

せめて何かの名残は残っていないのかな、と改めて調べてみたところ、かつてスカンジナビアを係留していた桟橋は残されているらしく、現在、さらにその近くには資料館らしいものが作られているとか。

資料館とはいいながら、レストラン兼喫茶も兼ねており、こちらのほうがメインのようですが、スカンジナビア号をいまだに懐かしむ人達が良く利用しているといいます。

何分私も行ったことがないので、この資料館がどんな形態なのかよくわかりませんが、写真や航海日誌など貴重でもうどこへ行っても手に入らない品々が展示されているといいます。

自宅からはそう遠くないので、富士山の撮影もかねて、天気の良い日にでもまた行ってみたいと思います。

美しい船は失われてしまいましたが、その背景の駿河湾上に浮かぶ富士山は健在でしょう。ぜひおよそ40年ぶりとなるその景色を再び見てみたいものです。

夕暮れの黄金崎01