夏休みももうすぐ終わりです

夕暮れの湖畔A

8月も終わろうとしています。

世の子供たちは夏休みの宿題の仕上げで大忙しといったところでしょうか。かくいう私も小学校のころには、計画的に宿題をやるのが苦手で、よく貯めこんだ課題を残る一週間ぐらいであわててこなしていたものです。

が、毎日やることが課題になっているモノ、例えばラジオ体操への出席とか朝顔の観察とかは、さすがに捏造はできないため、ほとんど空白のままのラジオ体操出席表をみつめたまま、あーぁまた怒られるんだろーなーと、観念したものです。

まさかラジオ体操の欠席ぐらいでは叱責は受けないでしょうが、クラスの他の子達が普通にやってできていることが、自分にはできなかったというところは情けなかったのでしょう。人ができることがなぜ自分にはできないのだろう、と自分ながらに情けなく自分で自分を責めたのを思い出します。

このように私はどちらかといえば些細なことを気に病むことが多い、神経質な子供でした。そのせいか、あまり友達も多くなく、どちらかといえば一人でいることも多い少年でした。

しかし、かといってひどいいじめに遭う、というようなこともありませんでしたが、小学生時代のことを思い出すと、とくに楽しかったというようなことをあまり思い出しません。

それでも自分が幼年時代を過ごした場所というのはいくつになっても懐かしいもので、何年か前に、およそ何十年ぶりくらいに彼の地を再訪問したことがあります。

が、木造だった校舎は立派な鉄筋コンクリート製に建て替わり、通い慣れた小学校までの道の周辺も大幅に変わり、以前は学校のすぐ側をドブ川が流れていたのですが、これは綺麗に埋め立てられて道路になっていました。

この学校の裏手門のところに、一本の柳があり、私が在校していたところにももう既にかなりくたびれて枯れかけているようにみえました。

さすがにもう枯れ果てて朽ちてしまっているだろうと予想していたのですが、懐かしい校内をのぞこうと、真新しい裏門から母校の校庭を眺めたところ、なんと、かなりボロボロながらもいまだ現役でこの木は生き残っていました。

実はこの柳は、いわゆる「出る」ということで有名であり、その登場人物のことを我々はその当時「赤チンくれ幽霊」と呼んでいました。

この学校に長い間伝えられている有名なはなしであり、それによると、この柳の横になっている太い幹の上に、白い服を着た女が座り、夜な夜な通りがかる人に向かって、「赤チンくれー、赤チンくれー」と恨めしそうに呼びかけるというのです。

ご存知のとおり、広島は終戦直前の1945年8月6日に米軍による原爆の投下を受けて壊滅状態となりましたが、市内でも一番東にあるこの私の母校付近ではこの爆弾による直撃は受けず、わずかに校舎が損壊しただけで、ほとんど無事だったようです。

このため、校内は臨時の被災者収容施設になり、多くの被災者の救護活動がここで行われたといい、しかし、その甲斐もなく亡くなった方も多かったといいます。こうして死んだ人達は、校庭に穴を掘って埋葬された、とも伝えられており、こうした事実から「赤チンくれー幽霊」の伝説が生み出されたのではないかと思われます。

無論、私もこの目でみたこともないので本当に出るのかどうかはわかりませんし、この幽霊さんが現役かどうかはわかりません。ただおそらくは、柳といえば幽霊ということで落語にもなっていることから、この被ばく柳を題材にそうした幽霊話が創作されたものと思われ、本当はそうした幽霊など出ないのでしょう。

それにしても、今思えばこの小学校には不気味な場所が多かったことを子供心によく覚えていて、そのひとつには、「開かずの図書館」というものがありました。

私が通っていたころのこの小学校には、さきほどの原爆当時のままの木造二階建ての校舎がそのまま残っており、「くの字」形に立てられたこの校舎のちょうど折れ曲がった部分には、階段スペースがありました。そしてこの階段の踊り場のような、中二階のようなところにはひとつの小部屋がありました。

普段はいつも通いなれた教室と自宅との行き帰りだけであり、そうした場所にはめったに行かないのですが、運動会や学芸会といった特別の行事があるときなどには、待ち時間をもてあますこともあり、こうした人気のない場所へもひとりで行くことがありました。

この場所は薄暗い階段の踊り場からまた少し低いところに、まるで隠し部屋のように設えてあり、なぜこんな場所に部屋を造ったのだろうと誰もが不思議がるようなところでした。入口には「図書室」と小さな黒板に白文字の表札が架かっており、これをみると、ああ図書室だったのか、とわかるのですが、この表札がなければどうみても倉庫です。

入口は古い木製の引き戸で、表からは鍵がかかっていないようだったので、何度かその扉を開けようとしてみたのですが、内側かどこかに鍵がかかっているらしく、中には入れませんでした。

鍵穴すらないのになぜどうやって閉めてあるのかも不思議でしたが、学校の施設というのはだいたいがオープン施設のはずであり、ましてや図書館なのになぜいつも閉っているのかが不思議でした。

こうしたことから、この「開かずの図書館」は次第に生徒の間でも有名となり、学内ではやれあれは亡くなった人達のお骨が治めれれている部屋だとか、亡くなった人達の着ていた服や血にまみれた包帯が保管さえている部屋だとかいうあらぬ噂が立つようになりました。

結局、この噂の真相は確かめることもできずに卒業したのでしたが、その後の卒業生の間でもこの開かずの間についてはいろんな憶測を呼んだようで、ある時期なんのホームページであるか忘れましたが、広島市内でも有名な話になっていると書かれているのを読んだことがあります。

ある夕景

このほかにもこの古い校舎には不気味な場所が多く、そのひとつは理科室でした。入口のすぐ脇の廊下には、陳列棚が置いてあり、その棚の中には不気味なものがいろいろ飾ってあり、今もそれを良く覚えているのですが、そのひとつは小さな子供の猿らしいホルマリン漬けでした。

現在の子供たちが見たら悲鳴でもあげそうですが、こうしたものがごく当たり前のようにその棚には陳列してあり、ヘビらしいものや何かの臓器らしいものもありました。どうやらいろんな生物の様態を教えるための教材として戦前に使われたもののようでしたが、それにしても小学生にとっては不気味なことこの上ありません。

しかもこの理科室には、中央の黒板のすぐ脇の床に跳ね上げ式の扉があり、ここを開けると地下室への階段がありました。ここもふだんは鍵がかかっているのですが、年末の大掃除の時か何かで、一度この扉が開けられ、扉の周りと階段だけを綺麗に箒で掃くように教師に命じられたため、初めてその中へ入ることができたのでした。

階段を下りて、クラスメートと一緒におそるおそる地下室の中をのぞきこみましたが、奥には灯りがなく、真っ暗で何が置いてあるのかよく見えません。

なにか棚のようなものがあったのは覚えていますが、黴臭い臭いが充満しており、ともかくそのお役目をさっさと切り上げて地上に生還することばかりを考えていたので、結局奥がどうなっているのか、何があるのかさえも確認できませんでした。

ここに降りたのは私と数人だけでしたが、誰しもが無言のまま作業を終えました。先生はその報告を聞くと黙って扉の鍵をかけ、こうして開かずのドアは再び閉められ、二度とこの地下室を見ることはありませんでした。

このとき、誰かがそこに何が置いてあるのかを先生に尋ねたと思いましたが、古いものなので先生もよく知らないというのがその回答だったと記憶しています……

こうして開かずの図書室や、真っ暗な理科室の地下という謎をかかえたまま私は卒業していきましたが、風の便りに、高校か大学のころ、この校舎も老朽化したため、ついに立て壊されたと聞きました。

いったい何がこれらの部屋には保管されていたのだろう、といまだに思うのですが、この古い校舎が建てられたころの関係者には亡くなっている方も多く、また私たちに階段の掃除を命じた教師のように原爆当時のことは何も聞かされていない人も多かったと思われることから、今後とも実際には何が保管されていたかを確認できる可能性は低いでしょう。

この学校にはもうひとつ、私の苦手な場所がありました。それはこの学校の東側の端に立てられていた体育館の裏でした。とくに何があるというわけではなく、この体育館自体は戦後に立てられたらしいコンクリート製であり、前述の木造の校舎のような謎の場所はありません。

この体育館の裏側にも、普段使わない机とか、いらない機材が積み上げられているだけであり、特段怪しい場所でもないのですが、なぜか私はこの場所がきらいであり、なるべく避けていました。

その理由はうまく説明できないのですが、どうもここへ行くと重苦しい気持ちになるためであり、一人で行くのは怖く、校内でかくれんぼをするときなどでも絶対に隠れ場所としては選ばない場所のひとつでした。

ところが、これも年に一度か二度ほどのことですが、全校の大掃除があり、こうした体育館の裏側も掃除をしなければならなくなりました。私がいたクラスもまたここの掃除の割り当てを受け、こうした時にはいやでも参加せざるを得ません。

そしていやいやながらも、ここを掃除をする羽目になったのですが、その最中、またしてもあのいやーなかんじがし、額からは冷や汗が出るほどになり、いたたまれなくなりました。

友達は怪訝そうな顔をして、どうしたの?と聞くのですが、私がいやなんでもないというので、その後は声をかけてもらうことはなく、私も我慢しながらもなんとかその掃除を終えました。

これはその後に聞いた話ですが、実はこの場所は原爆による被災者が押し寄せた当時、この学校の中でも一番多くの遺体が埋葬された場所だったそうです。

校庭のど真ん中に埋めるとその後どこに埋めたかわからなくなるため、なるべく敷地内の端っこに埋葬することになったのですが、戦後の混乱から結局そこは掘り返されることもなく、後年そこに新たな体育館が建てられたということのようです。

その話を聞いたときには驚いたというよりも、ああやっぱりそうだったか、という気持ちになりました。私が抱いたいやーなかんじというのは、つまり、そういうことだったということなのでしょう。はっきりとは言いませんが。

山伏峠からの駿河湾

また、このことについては後日別の話を聞きました。

私の母はこの学校のPTA副会長を務めており、先生方とも懇意にしていました。話というのはこの母が先日我が家に来たときに話してくたことなのですが、母の言うには、この体育館裏はやはりその当時から怪異現象が起こる場所ということで先生方の間では有名な場所だったそうです。

宿直か何かで学校に寝泊まりする際、構内見回りの時か何かにこうした現象がよく起こっていたといい、それがどういうものだったかはよくわかりません。

が、母の話では前述の柳と同じく先生の間では有名な場所だったということで、それを一倍怖がりな私に話し聞かせるのはやめておいたほうがいいだろうとこの当時は思ったというのです。

こうした私の母校にまつわる話というのは、他愛ない幽霊話といえばそれまでなのですが、噂だけでなく実際にみたという卒業生も多いようです。

母校だけでなく、広島市内にはこうした学校も多く、また学校だけでなく戦前に建てられ、被災を免れた建物はたいてい避難場所として使われていたためかこういう奇談が多いようで、そうした話を集めただけでも一冊の本ができそうです。

無論、興味本位からそうしたものを作るのは原爆で亡くなった多くの方の霊に対して大変失礼なことでもあり、面白おかしく人に吹聴するものではないでしょう。が、いまだにこの地には浮かばれない霊も多いだろうとうことは想像でき、そうした霊たちがさまよっていたとしても不思議ではありません。

そういえば以前、こんなこともありました。

今の家内、タエさんと結婚する前のこと、彼女はこのころはまだ広島市内に住んでおり、その友人宅に二人で招かれたか何かのときに、帰りがかなり遅くなり、少しアルコールも入っていたことから酔いざましに歩こうかということになりました。

会合のあった場所は、市内の一番賑やかな繁華街にあり、そこから原爆ドームのある平和記念公園まではものの5分もあれば歩いて行けます。

現在の広島は、今や世界遺産となった原爆ドーム以外には原爆当時の面影を残すようなものはほとんどなく、ドームのすぐ側を流れる元安川のほとりなどには瀟洒なレストランもでき、川を見下ろすことのできるバーなどもあります。

そのどこかに入ろうかと探しながら二人して歩いていたのでしたが、時間もやや遅かったことから既に店じまいを始めているところが多く、結局散歩だけで終わり、切り上げて帰ろうかということになりました。

初秋のころだったと思いますが、そよそよと風が吹き、川沿いの散策路には気持ちのよい川風も吹き、酔いに任せてあるくのは快適でした。町の中心街であり、こうした歩道の各所には街灯もあって明るく、寂しい場所ではありません。

ところが、何かの拍子に川面をふっとみたところ、そこは真っ黒な漆黒の闇に見え、底にあるはずの水面が見えないではありませんか。おかしいな、こんなに明るいのだからさざ波ぐらい見えるはずだ、と目をこらしてみるのですが、そこには相変わらず暗い真っ黒い淵にしかみえない川があるのです。

不思議なことがあるものだとタエさんに聞いたところ、彼女には普通の川面に見えるらしく、その答えも怪訝そう。しかし私には相変わらず暗い淵のように見えるだけで、結局その状態はその場を離れるまで変わりませんでした。

実はこの原爆ドームの周辺の場所というのは、爆弾が投下された当時はほとんどの建物が崩壊しています。多くの建物は爆弾の直撃を受けて倒壊しましたが、その倒壊した建物から出火し、周囲は火の海になっていたといい、火災に飲み込まれたた人々の多くは生き場を失ったため川に飛び込みました。

このために溺れ死んだ人も多かったといいますが、また焼けつくような空気を吸って水を求める人も多く、水を求めて川に入りました。ところが、気道が焼けただれた状態での水分の摂取はショック死を起こすそうで、このため市内の川面はしばらくの間、こうして溺死したりショック死したりして亡くなった方の死体で埋め尽くされていたといいます。

だとすれば、私がみたあの漆黒の闇はそうした人達の魂だったのか、と今も思うのですが、多少アルコールも入っていたこともあり、酔っぱらっていたためではないか、と言われればそれまでです。しかし、実は私はアルコールはかなり強いほうで、しかもこのときは知人に呼ばれての席のことですから、泥酔するほど飲んではいません。

従って、幻影を見るほど酔っぱらっていたということはなく、考えようによっては心霊体験ではないかとも思うのですが、そうした例はあまり聞いたこともありません。多少酔っていたための錯覚だったかもしれないと思いかえしてみたりもするのですが、結局この時のことは未だになんの決着もついていません。

が、先の小学校での出来事と同様、いまもこの広島の町には多くの浮かばれない霊が彷徨っているとすれば、私が見たと思ったものもそれら魂の集合体だったと考えてもおかしくはありません。

文字通り「浮かばれない」まま、今も広島の川の中にはこうした霊たちがひしめいているのかもしれません。

夕暮れの沼津

ところで、最近、ニュースでこの原爆の悲惨さを描いた漫画家さんの本を自由に閲覧できないようにしていた教育者たちが批判を浴びていますが、こうした人達をこれらさまよう霊たちが知ったらどう思うことでしょう。

教育者たるもの正しい歴史認識を持ち、たとえ悲惨な歴史であったとしても正しくそれを次世代に伝えていくのが勤めでしょう。

起こったことを正直に伝えるのは時にむごい印象を子供たちに与えることもありますが、正しいことも悪いことも、実際におこったことであるとして教え、これを善であるか悪であるかを子供たちに判断させるようにするのが学校の役割です。

ただ単に描写が残虐であるからとか、子供たちのトラウマになるのが怖いとか言っている親たち、そしてそうした親たちをたしなめるどころか肩入れする教育関係者はこうした役割を放棄しているということが言えると思います。

広島にはそれを教える教材がたくさんあります。広島で実際に起こったことをもっと具体的によく知り、それがどれほど悲惨であったかを教育者たるもの、もっと真剣に勉強するべきではないでしょうか。

無論、同じ体験をすることは不可能です。しかし広島に来て、広島の原爆教育を知り、可能ならば原爆資料館なりを見てさらに詳しく学び、そしてそれすらも難しいのならば、漫画を読むだけでもある程度それは可能になります。

そうした良材であるからこそ学校で購入したはずであり、税金で購入したこうした本を鍵のかかった書庫にしまいこんで自分たちですら閲覧できないようにしてしまうという感覚自体が私には理解できません。

実は私は個人的にはこの漫画の絵があまり好きではありませんし、広島に育っただけに他にももっと良い材料があるのも知っています。が、目を通したことがあり、世界中で読まれているというこの漫画にはなるほどな、と思えるような力があると思いました。

漫画という媒体であるがゆえに、大人たちが理解するだけでなく、年齢のいかない子供たちへもその悲惨さが伝えやすいというメリットもあるはずです。

この漫画の作者はそれでもむごたらしい描写を極力控えめにし、戦争の悲惨さを何とか伝えようと工夫をこらしたといいますが、そうした努力すら否定するような世の中ならば、ほかにこうした悲惨さを伝える手段として他にどんなものがあるというのでしょうか。逆にそうした人達に聞いてみたいものです。

さて、今日は私の昔話になってしまいました。私が小学生だった昭和30年代にはまだ戦争の傷跡が広島市内の各地に残っており、私たち広島の少年少女はそれを見て育ったといっても過言ではありません。

従ってこうした戦時中の悲惨な出来事を見たり聞かされたりすることに関してはかなりの「免疫」があるといってよく、それは戦争が悪いものであることを知らず知らずに理解することにもつながっているように思います。

なので、長い夏休みのことです。他県の子供たちを夏の間の一時期だけ広島に送り込み、原爆教育を通じて正しい歴史認識ができる子供に育てるような仕組みがあればいいのではないかと思います。夏休み短期広島留学……です。

今の小学生がどんな夏休みの宿題を貰っているか知りませんが、ほかのどんな宿題よりも役に立つように思います。

文部科学省さん、少しはそういうことも考えてくれませんか。

夕暮れの光景B