黒潮と伊豆の関係

お盆の帰省ラッシュが始まったようです。

と同時に、伊豆半島内でも他県ナンバーが急速に増えてきました。今朝、ジョギング途中に、すぐ近くにある、かんぽの宿の前を通ったのですが、ここの駐車場に止まっている車のナンバーをみると、湘南や品川、茨城といった関東地方のものと、名古屋、岐阜といった中部地方のものが多いようです。

伊豆はそのどちらからも中間地点にあり、足を運びやすい手軽な観光地ということなのでしょう。無論、海水浴を目当てに来る方も多いことと思います。

そんな伊豆もさすがに一昨日から猛暑に覆われています。今日の予報をみると、静岡や浜松方面の最高気温が34~35度、同じく三島や沼津の都市部もこれくらいのようです。

これに対して下田などの伊豆南部の沿岸部では32~33度どまりのようで、この違いはやはり海が近く、海洋の水温の影響を受けるためでしょう。夏の間の天気予報をみると、いつ何時でも、静岡県内ではここ伊豆のほうが気温が低い傾向にあるようです。

ご存知のとおり、この伊豆南岸には、黒潮が流れています。赤道の北側を西向きに流れる北赤道海流に起源を持ち、これがフィリピン諸島の東で、北に向かった流れはその後、台湾と石垣島の間を抜け、東シナ海の陸棚斜面上を流れ、九州の南西で方向を東向きに転じトカラ海峡を通って日本南岸に流れ込んでいます。

さらに日本列島の南岸に沿って北上し流れ、房総半島沖からは日本を離れ、東の太平洋のほうへ向かっていきますが、これは途中でUターンして再度日本のほうへ帰ってきて、黒潮のさらに南側を西進する「黒潮再循環流」という流れになります。

この黒潮は、通常の年であれば、四国・本州南岸をほぼ海岸線に沿って並行に流れます。ところが、年によっては紀伊半島や遠州灘沖で南へ大きく蛇行して流れることがあり、この蛇行現象を「黒潮大蛇行」と呼びます。

1930年代ころからこの蛇行現象が知られるようになり、当時は異常現象と考えられましたが、その後の観測と研究によって、これは特別なものではなく、年によっては発生し得る黒潮のひとつのパターンであることが確認されました。

従って、大蛇行しない、通常の年のパターンを「非大蛇行流路」と呼び、一方、紀伊半島・遠州灘沖で南へ大きく蛇行して流れるパターンは「大蛇行流路」と呼ばれ、現時点では黒潮はこの2パターンのいずれかで流れていることが明らかになっています。

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しかし、この大蛇行はここ最近はそれほど頻繁には発生しておらず、1967年以降では5回発生しただけであり、最近では2004年7月~2005年8月に発生しています。昨年の2012年も「非大蛇行流路」の年であり、今年2013年も現時点までは大蛇行は発生していないようです。

また、黒潮がいったん大蛇行流路となると、多くの場合1年以上持続しますが、消滅は比較的短期間に起こるそうで、その発生については予測ができないといいます。

また、なぜこのふたつのパターンが発生するのかについてもまだはっきりしたことはわかっていませんが、流路を決定している要因はどうやら黒潮の流量らしいということだけは最近少しわかってきているそうです。

ところで、この黒潮大蛇行が発生すると、どんな問題があるのでしょうか。

それは、大蛇行が発生することによって、蛇行した黒潮と本州南岸の間に下層の冷たい水が湧き上がり、冷水塊が発生することです。この冷水塊の上昇が漁業へ与える影響は良しあしですが、いかんせんこの冷水塊の発生が漁場の位置に影響を与えることから、漁業関係者はその動向から目が離せなくなります。

黒潮の幅は、日本近海では100km程もあり、その最大流速は最大で4ノット(約7.4km/h)にもなります。また、600-700mの深さでも1~2ノットになることも珍しくないそうです。

時速7kmというと、人が歩く速度がだいたい3km/hくらい、また自転車が11km/hくらいですから、黒潮の流はだいたいこの中間くらいになります。

大した速さでないと思うかもしれませんが、考えてみればこの速度の潮流が幅100kmにもわたって流れるわけであり、黒潮全体で考えるとものすごいエネルギー量であることは、感覚的に誰にでももわかることでしょう。

従って、黒潮が大蛇行するときには、例年とは違ってこのものすごいエネルギーの量の向かう方向が変化することになり、漁業への影響だけでなく、気候変動にも大きな影響があるはずです。

ただ、その影響の度合いが日本本土の気象とどういう相関関係にあるのかについては、定説はなく、現在までのところまだはっきりとはわかっていないというのが現状のようです。

この黒潮が流れ続けるエネルギーがどこから生まれるのか、についてはかなり専門的になるので詳しくは述べませんが、その原因は、偏西風や貿易風といった風によって海水が吹き寄せられ、盛り上がることが原因です。

偏西風や貿易風が年間を通して定常的に吹くために、高水位状態は維持し続けられ、これによって北半球では時計回りの海水の流れが生まれます。この流れは「亜熱帯循環」と呼ばれており、黒潮は北太平洋の中緯度海域を時計回りに流れているこの亜熱帯循環の一部と考えられています。

その全体の正確な流量の見積もりは困難のようです。が、非常にラフな計算をすると一秒間に2000万~5,000万立方メートルの海水が運ばれる計算になるようです。東京ドーム一杯分がだいたい120万立法メートルだそうですから、その20倍から40倍の量の水が、しかも毎秒流れているのです。すごいことです。

この黒潮の表層(200m以浅)の海水温は夏季で30℃近く、冬季でも20℃近くになることがあるそうです。

従って典型的な「暖流」とされていますが、夏場の場合、黒潮の近くの海域の水温やその近辺の大気の気温は逆にこれ以上には上がらないわけであり、このため伊豆半島などでも、大気の温度がこれ以上になったとしても逆にこの黒潮によって冷やされ、あまり気温が上がらないというわけです。

逆に冬場は黒潮の水温のほうが、大気よりも暖かくなります。なので、伊豆が真冬であっても暖かいというのはそういうわけです。

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黒潮の化学的な特徴としては、まず高塩分であることがあげられ、夏季は34‰以下ですが、冬季には34.8‰に達します。溶存酸素量は5ml/l前後であり、栄養塩濃度はほかの海流、例えば千島列島から南下してくる親潮などに比べると1桁も少ないようです。

このため、貧栄養となりプランクトンの生息数も少なく、透明度は高くなりますが、これが黒潮の色を青黒く見せている理由であり、黒潮の名前の由来となっています。

さて、ところで日本人の祖先の一部は、南方からこの黒潮にのってやってきたという説が、その昔さかんに議論されたようです。

が、最近のDNA分析の技術を使った研究では、どうやらその可能性は低いといわれているようです。

最近の研究で有力視されている説としては、最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのはシベリアの狩猟民ではないかといわれており、2~3万年前、シベリアのバイカル湖周辺からアムール川流域およびサハリンを経由して、最終氷期の海面低下により地続きとなっていた北海道に達したという説が有力なようです。

その一部はさらに南下し、北部九州に達したといい、この時代の日本人は細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたこともわかっています。日本にもナウマンゾウがいたなんて信じがたいことですが、実際に化石も多数発見されています。

最初の発見は、明治時代初期に横須賀で発見されたもので、ドイツのお雇い外国人ハインリッヒ・エドムント・ナウマン(1854年-1927年)によって研究、報告されました。無論のこと、ナウマンゾウの語源となった人物です。

その後1921年(大正10年)には、浜名湖北岸の工事現場で牙・臼歯・下顎骨の化石が発見されているほか、後年の1976年(昭和51年)には、なんと東京で発見されています。

東京の地下鉄都営新宿線浜町駅付近の工事中に、地下約22メートルのところから3体のナウマンゾウの頭蓋や下顎骨の化石が発見されたといい、この出土地層は約1万5000年前のものだったそうです。その後もナウマンゾウの化石は、東京都内各所で見つかっており、田端駅、日本銀行本店、明治神宮前駅など20箇所以上も発見されているそうです。

このほか、北海道でも化石が発見されていて、少なくとも35000年ほど前までは、マンモスと入れ替わりながらナウマンゾウが生息していたことがわかっています。

この「日本人バイカル湖畔起源説」は定説になりつつあるようですが、これ以外の日本人の起源は南方ではないかとの説なども以前根強く、考古学者たちは長年その論争を繰り広げ続けているようです。

現在までもその論議は続いているようですが、それにお付き合いをしているほど、私も暇ではありません。

とはいえ、今のところの結論はなんなのよ、と気になるので調べてみたところ、平成17年(2005年)度から21年(2009年)度にかけて、日本学術振興会によって、「日本人の変遷に関する総合的研究」がなされており、その結果が、こうした国家レベルでの研究機関としては一応の結論とされているようです。

研究班員全員の同意が得られるようなシナリオは作れなかったそうですが、日本列島へのヒト渡来経路は現時点ではだいたい次のようになるようです(筆者改訳)。

1.アフリカで形成された人類集団の一部が、5~6万年前までには東南アジアに渡来。その一部はアジア大陸を北上し、また別の一部は東進してオーストラリア先住民などの祖先になった。

2.アジア大陸に進出した集団は、北アジア(シベリア)、北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散。シベリアに向かった集団は、少なくとも2万年前までには、バイカル湖付近にまでに到達し、寒冷地適応を果たした。

3.これによってこの集団は、現在の日本人の特徴ともいえる「北方アジア人的特徴」を得るところとなり、このうち日本列島に上陸した集団が「縄文時代人」の祖先となった。

なお、シベリアで寒冷地適応していた集団のうち、日本に上陸しなかった連中は東進南下し、少なくとも約3000年前までには中国東北部、朝鮮半島、黄河流域、江南地域などに分布したそうです。従ってこれが中国人や韓国人のルーツになった、ということのようです。

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上説では、このシベリアで寒冷地に適応してからやってきた集団の前にも、2万年以上前にアフリカからやってきていた祖先がいたことになっています。ですが、これはおそらく集団としては発展せず、その後にやってきた「縄文時代人」に駆逐されるか、吸収・同化されていったということになるのでしょう。

その後アジアの東側の孤立したこの国で、独自の文明を切り開いていった民族は、やがて大和男(やまとおのこ)や大和撫子(やまとなでしこ)になり、前者は日本男性、後者は日本女性になっていきました。

武士道に代表される武芸に秀で、日本的道徳を蓄養し、教養・芸術、裁縫(和裁)、料理などのいずれをとっても世界的にトップともいわれる高度な技能を備える日本人は、その後2000年の時を経て完成されました。

……と、「完成された」、と書いてはみたものの、本当にこれが最終形か?と問われれば、無論そんなわけはありません。

これまでと同様に、これからも変容していくには違いありませんが、仮にこれまでの変化が「進化」であるとしても、同様の前進がこれからもあるとは限りません。退化していき、やがて滅亡の道を歩む、というシナリオも可能性としてあるわけです。

その性質的なものがどうなっていくかは別として、歴史的には日本人の「形質」は大きく変化してきているそうです。

よくいわれることですが、最近の日本人は足が長くなって身長が高くなり、欧米人に体型が非常に似てきました。しかし、一方、顎が縮小して面長になるなどの変化が著しいそうです。これは、食生活の変化により歯の縮小と永久歯の減少が進んだためといわれており、親知らずが生えない日本人が増えているといいます。

このことが顎の退化を促進させ、歯並びが悪い若者が増えているといい、国立博物館などが中心となって将来的な日本人のモンタージュを作ったところ、逆三角形のおキツネ様のような顔が標準という結果などが得られたようです。

歴史的にみても、江戸時代の徳川将軍家以下、諸大名家にも同じような傾向がみられていたそうで、これは柔らかい食べ物を好んで食べるようになったのが原因と考えられているといいます。

ま、私があと生きていたとしても、せいぜい30~40年でしょう。その間に劇的なほど日本人の容姿や性質が変わっているということはないとは思いますが、その間、これまでは考えもしなかったような天変地異があるやもしれず、また、財政の破たんによって日本という国すら存在しなくなっている可能性もないわけではありません。

進歩していってほしいとは思いつつ、その行く末を思うとつい暗い気分になってしまいます。

アメリカで有名な超能力者、3.11を予言したといわれるロン・バードという人が、三ヶ月以内に日本で何か大きな自然災害が起こる可能性がある、と最近警告を発したそうで、そういう話を聞くと、また更に不安になってしまいます。

何ごともなければよいのですが……

さて、今日はまだ10時過ぎだというのに、手元の温度計は既に32度を越しています。黒潮のおかげで涼しいはずの伊豆も、今日ばかりは猛暑日となるのでしょうか。

気温もあがって思考能力も低下しているので、いつもよりは少し早めですが、今日はもう終わりにしたいと思います。みなさんも、暑さ対策は万全に。体調に気を付けて週末とお盆をお過ごしください。

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