早雲の夢

8月になってからというもの、ここ伊豆では各地で花火大会が続いています。

我が家が山の上にあり、地形的にも下の町からの音が聞こえやすいためか、夜になると麓の各地からは連日のように花火が上がる音が聞こえてきます。

1日は我々も参加した大仁の花火大会だったのですが、その翌日の2日には修善寺駅前の花火大会、昨日は韮山の狩野川まつりの花火大会、そして今晩は長岡温泉の戦国花火大会と続きます。

これらの花火が行われる会場はそれぞれ十数キロしか離れておらず、この至近距離で連日花火大会があるというのは、東京などではなかなか考えにくいことです。名だたる観光地が軒を連ねる伊豆ならではのことでしょう。

詳しく調べてはいませんが、おそらく伊豆の東西の海岸にある町々でも連日花火が上がっているに違いありません。

この伊豆長岡の「戦国」花火大会、というのがどういうものなのかは、よくわかりませんが、戦国をテーマにした花火大会、ということなので、通常ありがちな花火大会とは一線を画し、おそらくは乱れ打ち、といった趣向の激しい花火が上がるのではないでしょうか。

ちょっと興味はそそられるのですが、先日大仁の花火大会に行ったばかりなので、今日はやめておこうと思います。が、もしかしたらこの別荘地の北の端っこへ行けば見えるかもしれないので、今晩ちょっと遠見をしてみようかと考えています。

ところで、戦国時代の伊豆といえば、1493年(明応2年)に北条早雲の「伊豆討入り」があり、これ以降、韮山城を本拠として早雲が伊豆全体を統治するようになっていったようです。

北条早雲といえば、戦国大名となった後北条氏の祖であり、その生涯は関東諸国の成立に大きな影響を与え、また伊豆とは切っても切り離せない人物ですが、このブログではかつてはほとんど書いてきませんでした。

その理由はとくにないのですが、その出自から北条氏の滅亡までを書き始めると、膨大な量になりそうなため、ブログで書き連ねていくのは結構しんどいかな、と少々尻込みしていたのが理由と言えば理由です。

が、せっかくですから、気の向くまま、まずはその出自あたりから書きだしてみようかと思います。気が向けば少し詳しいことも書いていくかもしれません。

その出自の謎

まず、この北条早雲という名前ですが、実際には彼が存命中にこの名が使われたことは一度もないそうです。

最初は、伊勢盛時(もりとき)と称しており、通称は新九郎(しんくろう)でした。ただし、号は早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)であったことから、のちに盛時の嫡男の氏綱が北条姓を名乗るようになったために、死してのちに北条早雲と呼ばれるようになったようです。

また、実は生まれも年齢も不詳だそうです。生まれた年も、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたようですが、最近の研究では康正2年(1456年)説が有力視されつつあるとのこと。

1456年というと、8代将軍足利義政の継嗣争いに端を発して全国的な内乱となった応仁の乱が発生した1467年に遡ること10年ほど前のことであり、室町時代の末期にも近く、戦国時代の象徴ともいえるような下剋上の風潮がそろそろ発生しかけていたころのことになります。

その生まれた場所もはっきりしたことはわかっていないようです。

ただし、早雲の父は「伊勢盛定」という人で、室町幕府の政所執事であった伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいたことが最近の研究でわかってきました。

このため、その生まれた場所も盛定の所領であった、備中荏原荘、すなわち現在の岡山県井原市ではなかったかと考えられており、少なくとも若い頃はここに居住していたようです。

また、早雲はこの伊勢盛定と、京都の伊勢氏当主で政所執事の「伊勢貞国」の娘との間に生まれたこともわかっています。

従って、早雲は一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説がこれまでもまことしやかに吹聴され、彼を扱った多くの史書や小説にもそう書かれていて、通説とされてきましたが、決して身分の低い素浪人ではなかったようです。

現在の井原市の神代町というところにある高越(たかこし)城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられています。

この城は山陽道と小田川を足下に見下ろす高越山(172m)に築かれており、東方面には山陽道を見下ろせ、毛利氏の軍港があった、瀬戸内の笠岡から北上する人馬の行き来を俯瞰することのできる位置関係にあります。

備中における山陽道の要害地であり、山陽道を東上する軍勢だけでなく瀬戸内海を船で下り笠岡の港へ上陸したのちの毛利勢が、備中・備前の境界地点に展開する上で重要な補給基地を果たしたといいます。

無論、このころはまだ毛利氏などは台頭しておらず、この城も備中伊勢氏の傘下にあり、のちにこの備中からは、後北条氏の家臣である、大道寺氏、内藤氏、笠原氏などが出ています。

従って、関東・伊豆の覇者、早雲と後北条氏を語るとき、この備中との関係は切っても切り離せないものといえます。

この早雲の父の伊勢盛定は、この当時、荏原荘の半分を領する領主であり、早雲もこの備中荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力です。「北条早雲生誕の地」の碑が立つ、高越城で生まれたというのもおそらくは間違いないでしょう。

このように地方の有力な豪族の子として生まれた早雲が、その後素浪人になどなるわけはありません。多くの早雲の伝記を書いた小説には、一文無しから身を起こして、下剋上の世をのし上がっていった若き日の早雲が描かれていますが、これは間違いということになります。

私が敬愛する、司馬遼太郎さんも、その著書である「箱根の坂」では、早雲を武士ながらも、備中の身分低い者とし、政所執事伊勢貞親の屋敷に寄宿しながら京で足利義視に仕える設定にしています。

しかし、司馬さんの時代にはまだこれほど早雲の研究は進んでいいなかったためでしょう。上述のようなことは、ごく最近発見された新資料等によって次第に明らかになってきたことのようです。

応仁の乱

さて、早雲が、康正2年(1456年)に生まれたとすれば、「応仁の乱」が起こった応仁元年(1467年)は、彼が11歳のころのことのはずです。

応仁の乱というのは、室町幕府の9代将軍を8代将軍義政の弟(義視(よしみ))にするか、義政の子供(義尚)にするかという、跡継ぎ争いに端を発する内乱です。

足利将軍家8代目、足利義政(在1449年~1473年)には子がなかったため、出家していた弟をわざわざ還俗させて後継者としました(足利義視)が、わずか一年後には夫人(日野富子)が男子を出産(足利義尚)したことで、おきまりの後継者争いが勃発しました。

義視の後見にはかつて管領を務めた実力者の細川勝元がおり、これに対抗するために日野富子は実力者の山名宗全に義尚の後援を依頼します。

一方、この当時幕府の管領家を交代で務めていた斯波家と畠山家の両家でも、やはり相続争いが生じていました。争いの当事者はそれぞれに山名宗全か細川勝元につき、ここに二大勢力が争う基盤が整っていくことになります。

それぞれの勢力は各地の大名・小名を自陣営に引き込み、地方勢力側も自分の利益を守るためにこれに応じ、いわゆる東国の守護大名を中心とする「東軍」と西国中心の「西軍」に分かれます。

1467年1月、ついに対立は発火点に達し、両陣営とも地方から続々と兵力を上洛させました。その兵力は東軍が16万、西軍が11万以上であったといい、無論、歴史的にみても最大級の合戦です。

幕府はこの争いを調停できないまま傍観。両陣営の大兵力は京の東西に布陣し、やがて前哨戦とも言える小競り合いを経て、5月には本格的な合戦が始まりました。が、結局この初戦だけでは勝負がつかず、これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥ります。

長引く戦乱と、これに乗じた盗賊の出没によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃しました。先日取り上げた芥川龍之介が描いた小説、「羅生門」はこの応仁の乱で荒廃した京都の町が舞台になっています。

この戦乱は、さらに上洛していた守護大名の領国にまで拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなっていきます。

かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府での権力も、幕府そのものの権威が著しく失墜したため、もはやこの戦いに勝っても誰も得るものは何もないという状態になっていきました。

やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになりましたが、結局この戦いが終了するのは、両者の間で和睦が成立した、10年後の文明9年(1477年)のことでした。

誕生と若かりしころ

この応仁の乱では、駿河国の守護であった今川義忠は、上洛して東軍に加わりました。実はこの今川家と伊勢家は昔から親交があり、義忠はしばしば備中伊勢家のリーダーである伊勢貞親を訪れており、その仲介役だったのが早雲の父盛定だったといわれています。

早雲には、北川殿という姉がいましたが、こうした両家の縁により、北川殿は、今川義忠と結婚します。無論、備中伊勢氏と今川氏と家格的に遜色なく、北川殿も側室ではなく、正室として今川家に入ったと考えられています。

そして、文明5年(1473年)に北川殿は嫡男龍王丸を生みましたが、これが後の今川氏親であり、あの織田信長に、桶狭間の戦いで破れて死んだ、今川義元のお父さんになります。

このように、伊勢家は室町幕府の中枢部に近い人々で構成された家であり、同じく幕府内に権力を持っていた今川家とも縁を結んでその権力を高めたことから、早雲もその若いころには、将軍義政の弟の義視に仕えるようになります。

幼いころ新九郎と名乗り、元服してからは盛時と名乗るようになった早雲は、文明15年(1483年)に9代将軍足利義尚の申次衆に任命されています。申次衆というのは、将士が将軍に拝謁するために参上したとき、その姓名を将軍に報告して拝謁を取り次ぐ役目であり、現在でいえば大会社の受付役といったところでしょうか。

関連する雑務も処理するという、いわば走り使いに過ぎませんが、それでも受付を任されるというのは、筋目の正しい家柄の者だけだったでしょう。その後の出世の登竜門でもあったはずです。

早雲が1456年生まれだとすると、このとき、27歳になっていたはずです(以後、うっとうしいので、1456年生まれで通します)。

「伊勢新九郎盛時」の名は、これより少し前の文明13年(1481年)から文書に現れてきていますが、それまでの10代や20代前半にはどんな少年、青年だったかを物語るような史料はこれまでのところ見つかっていないようです。

が、お父さんが幕府の重職を務めていたこともあり、当然その跡継ぎとしての教養や武術のたしなみは人並み以上に教育されていたことでしょう。とまれ、こうして京都で将軍のすぐ近くで勤めるようになり、後年、長享元年(1487年)、31歳なったときにはさらに奉公衆の役を任じられています。

奉公衆のほうは、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍する御家人、という役柄です。これとは別に「奉行衆」というのがあり、これは室町幕府の文官官僚でしたが、奉公衆は武官官僚であり、つまりいざ戦が勃発すれば即召集される即戦力でもありました。

こうして、京都で室町幕府に出仕している間、その官務の傍ら、早雲は建仁寺と大徳寺で禅を学んでいたという記録が残っています。早雲はのちに30代の後半で出家していますから、このころ既に僧としての素養を学んでいたことになります。

今川家の家督騒動

早雲が禅を学んでいたころにはもう既に応仁の乱は終息していましたが、伊勢家と縁戚関係にあった今川家では、この応仁の乱に端を発して、お家騒動が勃発していました。

早雲の姉の北川殿の夫、義忠は、応仁の乱の最中の文明8年(1476年)、遠江の「塩買坂の戦い」という戦で遠江の守護、斯波義廉の家臣らの襲撃を受けて討ち死にしています。

残された嫡男の龍王丸(のちの氏親)はまだ幼少であり、このため今川氏の家臣三浦氏、朝比奈氏などが一族の小鹿範満(義忠の従兄弟)を擁立して、家中が二分される家督争いとなったのです。

この争いの際、京都の室町幕府が東国の平定にと向かわせていた堀越公方の「足利政知」と、東国の雄であった扇谷上杉家がそれぞれこのお家騒動に介入します。そして、上杉家からは、主筋の「上杉政憲」とその部下の「太田道灌」がそれぞれ兵を率いて駿河国へ派遣されてきました。

なぜ東国の上杉家がこの争いに介入したかといえば、今川一族の小鹿範満と上杉家の間には血縁があったためです。

堀越公方の「足利政知」のことについては、前にもこのブログの「関東管領」の項で書いたのであまり詳しくは述べませんが、幕府の「鎌倉府」を滅亡させて関東一円に勢力を伸ばしていた関東管領の上杉家を従わせるために、京の室町幕府から派遣された人物です。

しかし、上杉家や京都の幕府と対立する鎌倉府の足利家一派の妨害に会い、結局は関東に入れず、伊豆の長岡にとどまって「堀越公方」と称するようになりました。そしてのちにこの堀越公方は早雲によって滅ぼされることになります。このことは後段で再び述べます。

さて、駿河の国にあってその守護職を京都から任命されていた主筋である龍王丸派は、当然京都から派遣されてきた足利政知、堀越公方を頼ります。

が、もとももと東国にも入れず、伊豆くんだりに押し込められてしまったくらいですから、堀越公方にはこれを守る力などなく、東国からやってきた上杉家の勢力に押され、情勢ははなはだ不利な状況でした。

このとき、この今川家の内紛に割って入り、この調停を成功させたのが誰あろう、早雲でした。早雲は、北川殿の弟であることを理由に駿河へ下り、関東から派遣されてきていた上杉政憲らをうまく説得します。

両者が納得する案として、龍王丸が成人するまでは範満を家督代行とする、という案を提案したところ、なんとか両者の鉾を治めさせ、上杉政憲と太田道灌の勢力を撤兵させることに成功したのです。

このとき、若き早雲が、関東でも名高い武将である太田道灌と直接談判した、というようなまことしやかな話も残っているようです。しかし、ちょうどこのころ、関東では、関東管領上杉氏の有力家臣、長尾景春による関東管領に対する反乱などが生じており、上杉家としては、他国の内乱への介入などやっていられない、という状況になっていたのです。

こうして、両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓い、家督を代行した範満が駿河館に入り、龍王丸は母の北川殿と義忠の部下であった長谷川政宣の居城である、焼津の小川城に身を寄せることになりました。

この早雲による調停成功は、彼の抜群の知略によるものであり、これが後年の立身出世の第一歩とされることも多いようです。

実際にもそれだけのことをやってのけそうな有能な人物であったわけですが、駿河への下向については彼自身の判断というよりも、室町幕府の政所執事であった伊勢家筆頭の伊勢貞親らの命によるものであったという説が有力となっているようです。

駿河守護家今川氏の家督相続介入において自らが談判したという点についても、これが史実だとすればこのころの早雲はまだ、20歳くらいのはずであり、関東でも名高い太田道灌のような有名武将と差しで話し合えたかどうかということに対しては、この話の信憑性に疑問を呈する歴史学者もいるようです。

とまれ、一応史実としては、この今川家の内乱を無事に納めたためか、早雲は京都へ戻り、この功のために9代将軍義尚のほど近くに仕えるようになったようです。申次衆や奉公衆になるのは、さらに後年のことですから、このときはまだ将軍の剣術稽古の相手役ぐらいだったのかもしれません。

今川家の内紛の終息にあたっては、文明11年(1479年)に前将軍義政が龍王丸の家督継承を認めて本領を安堵する内書を出しています。ところが、その後、龍王丸が15歳を過ぎて成人しても範満は家督を戻そうとはしませんでした。

このため、長享元年(1487年)、早雲は再び駿河への下向を命じられ、龍王丸を補佐すると共に石脇城(焼津市)に入って同志を集め始めました。同年11月、早雲は兵を起こし、駿河館を襲撃して範満とその弟小鹿孫五郎を殺害することに成功。

こうして龍王丸は駿河館に入り、2年後には元服して氏親を名乗り正式に今川家当主となりました。

このとき、早雲は伊豆との国境に近い興国寺城(現沼津市)に所領を与えられました。この時点でもうすでに、京都へ帰って将軍職を守る奉公衆として一生を過ごすというバカな人生を歩むつもりはさらさらなかったようです。

ちなみに、早雲が幕府から奉公衆に任ぜられたのは、この年の長享元年(1487年)、31歳のときと記録されており、もしかしたら幕府としては有能な官吏であった早雲を引き留めるために奉公衆の役に任じたのかもしれません。、

さらにちなみに、この興国寺城というのは、私が学生時代に沼津で下宿していたところのすぐ近くにあります。私が学生だったころには、ただの藪山でしたが、近年その発掘調査がかなり進み、沼津市によって整備が進められています。

遠くない将来に一部の施設が復元され、公園などとして一般利用も可能になるという話も聞いており、楽しみです。

こうして駿河へ留まり、今川氏の家臣となった早雲は甥である氏親を補佐するようになり、その能力を存分に発揮していくようになります。本来守護代の出すべき「打渡状」という書類を発行する権限を持たされていたといいますから、駿河守護代相当の地位が与えられていたことになります。

この頃に早雲は幕府奉公衆の「小笠原政清」という人物の娘、「南陽院殿」と結婚しています。早雲が興国寺城を得たと記録されている長享元年(1487年)には、嫡男の氏綱も生まれていることから、領主になったのとほぼ同時に結婚したか、それ以前から婚前交渉があったのでしょう。

伊豆討入り

こうして、事実上駿河国の国主に近い地位を得た早雲は、主君の氏親を盛り立てつつ、次々と自国を強国にすべく手を打っていきました。

まず手始めとして、駿河国に居つくことで事実上、手を切ってしまったことになっている室町幕府の勢力を自領から排除することから始めました。

ちょうどこのころ、関東地方では、鎌倉公方の足利成氏が幕府に叛くようになっており、これを憂えた幕府は、早雲が仕える今川氏に鎌倉を攻めるように命じました。そして今川軍は鎌倉を攻めてここを占領することに成功します。

しかし足利成氏はこの戦いでは死なず、現茨城県の古河市にあった古河城に逃れて古河公方と呼ばれる反対勢力となり、これまた幕府方の関東管領上杉氏と激しく戦うという多方面作戦を展開し始めました(享徳の乱)。

足利成氏が鎌倉を撤退するに先立ち、時の将軍足利義政は成氏に代る鎌倉公方として異母兄の政知を送りました。しかし成氏方の勢力が強く、政知は鎌倉に入ることもできず伊豆長岡に本拠を置き、ここに留まって「堀越公方」と呼ばれるようになっていたというのは前述のとおりです。

しかし、文明14年(1483年)に古河公方となっていた成氏と上杉氏との間に和睦が成立。堀越公方、政知の存在は宙に浮いてしまい、伊豆長岡に引っこんで、空威張りだけをしているという状態に追い込まれていました。

政知には「茶々丸」という長男がいましたが、茶々丸の母親は早くに他界。そののち添えとなった正室の円満院との間には「潤童子」と「清晃」という二人の子が授かりました。

茶々丸は嫡男ではありましたが、素行不良の廉で父・政知の命により土牢に軟禁されるほどの乱暴者だったといわれています。このため堀越公方を継ぐのは弟の潤童子であるとされていました。また、兄の清晃は出家して京にいましたが、政知は勢力挽回のために日野富子や管領細川政元と連携してこの清晃を将軍に擁立しようと図っていました。

しかし、その願いもむなしく、延徳3年(1491年)に政知は病没してしまいます。ところが、彼が死ぬと、長男の茶々丸が円満院と潤童子を殺害して強引に跡目を継ぐという暴挙に出ます。

このあたりのことは、以前のブログ、「茶々丸」に詳しいのでそちらをご参照ください。

このころ、早雲はまだ、「伊勢新九郎」と名乗っていたようですが、その後彼が39歳のころの史料には「早雲庵宗瑞」という法名になっており、どうやら早雲と名乗るようになったのは、この茶々丸騒動の前後のころのことのようです。

この時代の武士の出家には政治的な意味があることが多く、早雲が出家したのも、将軍家の一族である潤童子とその母の円満院の横死の責任を取ったのが理由とするという見解もあるようです。が、彼が出家することとこの堀越公方の奥方らの死との関連性については、あまりうまく説明がつきません。

このため、京から派遣されていた堀越公方を滅亡させる戦いに挑むようになり、この茶々丸事件を境に伊豆乱入に突入していくことに伴い、幕府奉公衆の役柄を返上するために出家したとも言われており、これによってかつての御家人としてのけじめをつけたのではないかとする説もあるようです。

さて、こうして早雲が堀越御殿に乱入しようと考え初めていたころ、室町幕府はかなり末期状態に陥っており、明応2年(1493年)には、幕府管領であった細川政元が、反乱を起こし、10代将軍義材(後に義稙と改名)を追放してしまっていました。

そして、出家していたかの清晃を室町殿に擁立し、事実上の将軍に仕立てます。清晃は還俗して義遐(よしとお)を名乗り、後に義澄と改名。権力の座に就いた義遐は、伊豆で茶々丸に討たれた母と兄の敵討ちを、かつての幕府官僚であった早雲へ命じました。

このあたり、早雲のほうは、出家までして幕府と縁を切ろうとしていたわけですが、混乱する幕府は、いまだ早雲を頼りにしていたということになり、ある種の矛盾があります。

が、まさに伊豆制定を開始しようとしていた早雲にとってはこれは渡りに船の命令であり、これを受けて、同年(1493年)の夏か秋頃には、伊豆長岡の堀越御所の茶々丸を攻撃しました。

この事件を伊豆討入りといい、このとき早雲37歳。血気さかんなころであり、このときから東国における戦国期が始まったと考えられています。

後世の軍記物には、この伊豆討入りに際して、早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたというものもあります。

また、この討入りでは、早雲の手勢200人と氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が10艘の船に乗って清水浦(現清水港)を出港し、駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸したとする史料もあり、西伊豆に上陸した早雲の軍勢を見て、ここの住民たちは海賊の襲来と勘違いし、家財道具を持って山へ逃げれたともいわれています。

その後、早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中に逃げ自害に追い込まれた、とされていますが、実は茶々丸は生きていて、伊豆各地を転戦し、その後も早雲を苦しめたという話も残っています。

近年は茶々丸生存説のほうが正しかったのではないかとする意見のほうが多いようで、だとすると、伊豆長岡の願成就院にある彼の墓は何なの?という話になってしまいますが、ま、この話は今はさておきましょう。この話の詳細も以前のブログのほうをご覧ください。

こうして、早雲は、この堀越公方が拠点としていた伊豆長岡から少しばかり東へ離れた、伊豆国韮山(現伊豆の国市)に新たな居城を作り、伊豆国の統治を始めました。ちなみにこの韮山城は、かつて源頼朝が平家によって配流されていた「蛭ヶ小島」をすぐ見下ろす高台にあります。

「蛭ヶ小島」の場所は本当は、こんな場所ではなく、もっと狩野川に近い位置にあったという説もあるようですが、ともかく、この韮山や長岡といった一帯は、歴史的な大事件がいろいろあった場所であり、その偶然の不思議さをついつい思ってしまいます。

さて、こうして伊豆乱入での成功を収めた早雲は高札を立て、地元の民に対して味方に参じれば本領を安堵すると約束し、一方で参じなければ作物を荒らして住居を破壊すると布告するなどメリハリのついた統治を始めました。

一方では兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施たため、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち早雲に従ってきたといいます。

こうして抵抗する伊豆の豪族たちを平定し、明応7年(1497年)ころまでには南伊豆にまで勢力を伸ばし、ほぼ伊豆を平定したとされています。1497年というと、早雲が41歳のころのことになります。

こうして伊豆の平定をする一方で、早雲は今川氏の武将としての活動も行っており、明応3年(1494年)頃から今川氏の兵を指揮して遠江へ侵攻して、中遠まで制圧しています。

その後も早雲と氏親は連携して領国を拡大していき、やがては関東にも進出していくことになるのですが……

案じていたとおり、この項も、もうすでにかなり長くなってしまいました。

これらのことについては、また明日以降に書いていくことにしましょう。