お盆を前に思う

ブーゲンビリアA

今年も暑い夏が過ぎていきます。

といっても、ここ伊豆では、酷暑といわれた昨日でも最高33度どまりであり、大都市圏などに比べると3~4度も低いようです。また、我が家は山の上にあり、風も通るので、日中はなんとかクーラーなしでもすごすことができ、朝方には毛布が必要なほどです。

ところで、ほんの数年前までは、この時期になると、「帰省」がまず大イベントであり、いつどの時期にどういうルートで、山口に帰るか、という点を実際に移動が始まるまで気にかけていました。

が、昨年から伊豆へ引っ越してきたのを機会に、世間様と同じような集団行動はやめよう、と決めたので、帰省も別にこんなクソ暑いときにしなくても、ということで心配する必要がなくなりました。

帰りたいときに帰ればいいさ、というのは真面目な勤務先を持っていらっしゃる方には少々難しいことなのかもしれませんが、休暇の取り方ひとつにしても、別に他人様と同じ時期に休む必要はなく、ある程度時期をずらして休みをとれるくらいの融通は、今の時代はたいていどこの会社でもあるはずです。

それをあえてせずに、この時期に休みをとるというのは、やはりみんなが休むときだから休みやすい、ということなのでしょう。村社会が浸透してきた日本ならではの悲しい風習。けれども、狭い国土の中の共存社会としては不可欠な慣習でもあるのでしょう。

しかし、今まで固執していたものを、いったん放棄してみると、改めてその意味がわかったりする、というのはよくあることです。

卑近な例では、毎月惰性で買っていた雑誌の購読をやめてしまうと、いままで買い上げても読みもせず、部屋の隅にうずたかく積み重なっているその雑誌のその内容には、実はもうすでに興味がなくなっていたことがわかったりします。

だからといって、今や国民的大イベントであるこのお盆休みをやめてしまえ、などという乱暴なことを言うつもりはありません。この風習があるからこそ、この時期にふだん見ることのできない人に会うこともでき、めったに会えないその人達と過ごす一時期は、人生の上でも大変貴重なものだといえます。

それにしても、お盆という時期に、本当に亡くなった故人たちの霊も本当に地上に帰ってくるのでしょうか。素朴な疑問ですが、誰しもが思うことでしょう。

私個人の理解としては、これに対する答えはイエスでもあり、ノーでもあります。

先日もこのブログでも書いたように、そもそもお盆というのは、仏教という宗教の儀式のひとつとして伝えられたものが一般化したものであり、仏教の教えでは、天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六つの世界で迷っている霊を、精霊迎えと称して各自の家に迎え、供養するという意味があるようです。

この時期に、わざわざお寺からお坊さんを呼んで、お経を上げて頂く家庭も多いでしょうし、また、いつもよりたくさんの果物やお菓子などお供えして、先祖のご冥福を祈る方も多いでしょう。

日本の古くからの伝統行事でもあり、日本人にとっては馴染みの深いものであるがゆえ、なかなかこれをやめようという気にもなれず、毎年のことですから惰性的に行われている向きもあると思います。

だからといって、前述の雑誌のようにやめてしまえば、やはりこれには意味がなかったと気付く、というような軽いものではなく、やめないで続けているのにはそれなりの理由があります。

それは、こうした時期だからこそ、お互いに声をかけあって改めてみんなが集まり、出そろって故人や先祖に対して感謝の意や弔いの意思を示すことができるということです。

普段は学校や仕事に追われ、ともすれば仏壇を拝んだり、お墓詣りに行く機会がないにもかかわらず、こうした特別な時期が設けられているからこそ、仏教に基づいたこのお盆という儀式を通じて、故人や先祖を思うという行為ができるわけです。

過去には必ずしも幸せではなかった霊魂にも救われてほしいと皆で願うことができ、そのことでその魂の救済も果たすことができるかもしれません。

そうした思いに亡くなった人達が答えてくれないわけはなく、あちらの世界にいて、普段は地上に近づく機会もなかった霊の中にも、現生の人達と久々にコンタクトを取りたいと考える魂も多いのではないでしょうか。

従って、お盆の時期になると、そうした現世の人々の思いに答えた故人や先祖たちの霊が帰ってくる、という考え方は基本的には正しい、ということになります。

青空に

ただ勘違いしてはいけないのは、仏教という宗教では、人は死んだあとには「仏に成る」といいますが、最近亡くなった故人のすべてが、あの世で急に、菩薩や如来と言った高度な意識体に生まれ変わるという事は無いということです。

この世でかなりの修業を積み、現生でのお役目をはたしてあの世に帰っていった人達はそうした高度な霊魂になる可能性もあります。またこの世ではあまり修業の成果があがらずにあの世へ帰った霊も、あちらの世界でその後長い時間をかけて修業し、さらに高度な意識体になっているということはあるでしょう。

しかし、最近亡くなったばかりのフツーのじいちゃんばあちゃんが、すぐにこうした高度な霊魂になるかといえば、なかなかそういうことはなく、フツーの人は死んだあとも、その生前の意識と全く変わりが有りません。無論、いきなり特別な霊力を持つわけはありません。

肉体が無くなり幽体を表面の身体としただけで、その意識は生前のじいちゃんばあちゃんのままといえます(ただし、生前から霊性が高いと言われていた人はこの限りではありません。もっともこうした人達は、フツーの人ではないはずですが)。

従って、そうしたまだ霊魂としての修業が進んでいない霊は、現生の人が帰ってきてほしいと願えば、じゃぁ帰ろうかということになります。しかし、お盆だから帰るということではなく、帰ることにどういう意味があるか、をわかっている霊は帰らないかもしれません。

例えば、お盆だからといって、その近親者が、現世で抱えている悩み事を彼らに祈れば、過度に心配してしまう霊もいるかもしれません。

せっかくお盆に呼んでくれたからといって地上に帰ってきたのに、そうして思い悩む妻や夫、子供たちを目の当たりにして、あの世で本来住むべき世界に戻る事が出来なくなる、ということもあるかもしれません。

逆に、呼ばれたからといっても、現生の人たちのためにならない、と考える高度な考え方を持った霊たちは帰ってこないでしょう。そうした霊たちはお盆だからといって必要もないのに軽々と帰ってきたりはせず、あの世において、本当に必要なときに現世の人達に送るためのエネルギーを貯めているに違いありません。

従って、故人を偲び、尊ぶのは人として自然な気持ちですが、お盆だからといって過度な願い事を掛けたり、心配させるような事は避けるべきだと言えます。

お盆に返ってきてほしいと故人に祈る、という行為は、故人が霊魂として熟成した人であったかどうか、あるいは新米で未熟な存在であるかどうかを見極めてするべきであるとも思います。

また、帰ってきてほしい、その意味合いは何なのか、単に頼みごとをするためだけなのか、それともお盆の間だけでも、一緒に過ごして、その生前共に過ごした一時期を分かち合いましょうという気持ちからなのか、よく考えてみるべきなのではないでしょうか。

ただ、現生で生きる人達にはたいてい守護霊さんがいて、この霊達は既に多くの経験を積み、それについている人を救うことで自らが成長したいと考えています。従って、もし何かの悩み事や実現したいことがあれば、こうした霊の助けを乞う、というほうが道理にかなっています。

とはいえ、こうした霊たちは普段から我々の側にいるわけですから、お盆だからといって特別にお祈りをしなければならない、というわけでもありません。

なので、普段あまり感謝をしていないのであれば、お盆くらいはしっかりと感謝の意を述べたい、という気持ちを持てば、その心はしっかりと守護霊さんにも伝わるでしょう。

さて、日本では、お盆といえばまた、故人を成仏させるためと称して、菩提寺などからお坊さんに来ていただき、お経を上げてもらう人も多いと思います。

では、亡くなった故人はこのお経についてどう思っているでしょうか。

これも私の見解ですが、結論からいえば、生前お経の意味が分からなかった人は、死後もその意味は分からないと思います。

お経というものは本来、仏教においてお釈迦様の説かれた教えを「物語り」に仕立て上げたものであり、これを読むことが故人への功徳となり、「成仏」への道につながると信じられてきたものです。

しかし、昔からある古い言葉で書かれた「物語り」ですからその内容がどんなにすばらしいものであっても、その内容が分からなければ、亡くなった人にも意味がありません。

その昔には、このお経を読める日本人も多かったと思いますが、長い時間が経つうちにはこれを読める日本人はいなくなってしまい、現在ではこれが読めるのは古文の先生か歴史学者、もしくは古物商の目利きだけであり、これ以外の最たるものはお坊さんでしょう。

このお坊さんによって抑揚をつけて上げられる読経だけはそのほかの専門家でも真似ができず、また古文でもあるお経の中身を理解して我々にその意を伝えてくれる、という意味では非常に貴重な存在であるには違いありません。

ブーゲンビリアB

しかし、だからといって読経そのものに、呪文のような意味があるかといえばそうではなく、現生でこれを聞いて意味が分からなかった人たちが、その死後に霊魂になって、これに救われると信じられていること自体、ナンセンスだと思います。

ただし、長い間輪廻転生を繰り返した魂の中には、古代の言語を理解しているものも多いでしょうから、こうした霊は地上から聞こえてくるこうしたお経の中身を正しく理解しているかもしれません。

ともあれ、一番大切なのは、故人が生前何らかの形で、霊的に高貴な何かを求め、死後もそういった存在から高級な霊的エネルギーを受け取り、自らの幽体を健全化し成長させることができるかどうかです。

従って故人が生前このお経そのものに、そうした霊的エネルギーを感じていたのなら別ですが、とくによくわからん呪文程度に捉えていたとすれば、死んだのちにお坊さんを呼んでこれをその墓前や仏壇の前で一生懸命捧げるのは、あまり意味があることには思えません。

生前のその人生において、多くの苦しい時期を過ごし、その積み重ねの延長として、あの世へ入り、そこでさらに自分の幽体の霊的状態を高めようとしているのに、それを現世にいる我々が、お経などという遠隔操作で救おうというのは、なかなか容易な事ではないのです。

ましてやそのために、お坊さんという他人の手を借りる、というのはそのお坊さんにそれだけの功徳があれば効果があるかもしれませんが、あまり霊的に高いエネルギーを持っている人でないのであれば、お経をあげてもらうだけ無駄、とまではいいませんが、少なくとも故人の霊的状態を高めるという意味はないでしょう。

ただ、誤解しないでいただきたいのは、私はお坊さんを呼んで読経をしていただくことがすべて無駄と申し上げているわけではありません。そうした儀式を通じて、故人や先祖を今もまだ思っていてくれているのだな、ということが霊たちに伝わるわけであり、その気持ち自体は通じるでしょう。ありがたい、と思ってくれるはずです。

ただし、それ必ずしもが仏教という宗教である必要はありません。キリスト教でもイスラム教でも構いません。ただ感謝の意を表したいならば、こうした宗教に頼らなくても他にもたくさん方法はあるはずです。

我々の魂は、現世だけのものではなく、何十年、何百年、いやもしかしたら何千年も前から死滅と再誕を繰り返し、その中で成長してきたものです。ただ、それでもまだこの世に生まれかわってきたのは、そうして鍛えられてきた幽体であっても、まだ完全なものではなく、そうした長い歴史の中で幽体に染み込んでしまった「穢れ」もあるはずです。

このケガレは簡単には消すことが出来ません。従って穢れすぎて、現生では悪事に手を染めてしまったり、自殺したりして、あの世に帰ったときにさらに苦むようになる先祖の霊もあります。

そうした霊魂にも救われて欲しい、と願う気持ちを伝えるのを、一年に一度お盆と決めたならばそれはそれでよしとしましょう。

そして、そうした魂を救うためには、その霊の子孫である我々自らの幽体が健全であり、すこやかに成長しているべきであり、その魂を磨くことに成功すれば、自分たちの死後、さらに高貴な霊魂とお近づきになることができ、それらの霊と合体することで、そうして穢れてしまった魂を救うことができるのです。

ただ、そうした救いの光も全く届かないあまりにも霊的に低い「地獄界」のような所に、落ちてしまった霊魂の救済は、なかなか困難といえるでしょう。

故人や先祖の中にそうした霊がいないこと祈りたいところですが、人によっては近親者や先祖の中にそうしたところへ行った霊を持っていることもあるかもしれません。

家族や子孫に立派なお葬式を上げて貰い、立派な戒名を付けて貰っても、生前ひどい人生を送ってしまった人が行く死後の世界は空しいものです。死んでしまってから「こんなはずでは無かった・・・」と、後悔してももう遅いだけでなく、その子孫たちもまたその世界に堕ちた霊たちを救うために長いあいだ苦しまなければならなくなります。

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従って、少なくとも自分自身はそうならないよう、努力して生きていくべきでしょう。やはり自分を救うには自分の努力しかなく、生前よりその魂をいかに磨くかに務め、自らの霊的進歩を目指す事が大切であり、そのことがあの世へ行ったあとでも、苦しんでいる霊たちを供養することにつながっていくのです。

こうした霊魂の存在、あるいは輪廻転生といったことを信じる信じないはご自由です。

が、こうしたことを信じないまま、亡くなった人達の霊魂がどうなるか、を例えた寓話をある人が書いたものがあります。多少手を加え、創作していますが、原文の意味は変わっていないはずです。ご一読ください。

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Aさんという霊魂がありました。あの世に来てからは、地上の時間ですでに数十年は経っている霊魂で、通常ならばもうとっくにこの世界に慣れていなければならない時期でした。

ところが、Aさんは霊魂になっても、生きていたころの時代の地上のことばかり気にしており、この新しい世界になかなか溶け込めず、いまだにこの霊魂の世界というものがよく分からない、霊魂としてはかなり未熟な初心者のような存在でした。

そんなAさんがやってきたのは、霊魂の世界ではどちらかというと下の方の世界でした。

霊の世界では、生前の努力やそれまでの生まれ変わりの修業の成果によって行く世界が決まっています。が、残念ながらAさんは、前世では自分の魂を成長させるようなことは特にはせず、漠然と日々を過ごしたまま、再びこの世界に戻ってきたのでした。

Aさんの生前の家は、お寺でした。しかし、Aさんには兄弟がおり、このお寺はお兄さんが継いでいたので、彼は普通のサラリーマンになりました。しかし、何しろお寺の坊さんの息子なので、小さいころからお寺の儀式には慣れ親しんでいました。が、お経などを聞いてもその意味はよくわかっていませんでした。

とはいえ、小さいころから大人になるまでお寺のしきたりには必ず従い、その教義を裏切るような行為は一度もしたことがありませんでした。なので、死んだあとも当然、上の方の世界に行くつもりだったようです。

ところが現実は、逆でした。実は、Aさん、お寺に生まれてその環境には慣れ親しんでいいたものの、日ごろから、霊魂なんていない、と公言しているような人だったのです。

それなのにAさんは、お寺の息子として生まれ、いつもその教義には忠実だったものですから、万に一つ、自分が死んだあとに死後の世界があったとしても、きっと極楽の方へ行けるに違いないと考えていたのでした。

ところが、現実は甘くありませんでした。サラリーマンとして過ごした一生は、淡々としたもので、他人を蹴落とすようなあくどいことこそはしませんでしたが、かといって自分を高め、その人生で努力するようなこともなく、ごくごく平凡に楽しくおかしく生きてきただけでした。

たまに実家のお寺に帰り、家族と共に先祖を供養することはありましたが、なにせ霊魂を信じていないので、その儀式が退屈でたまりません。お兄さんが読むお経の意味も、いくつになっても理解できず、また理解しようという気にもなりませんでした。

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そんなAさんですから、自分が死んだあとも、現生の人が極楽と呼べるような高い次元の世界へなど行けるはずはなかったのです。

Aさんが、ある年のこと、霊魂の世界を抜け出したのは、ちょうどお盆の頃でした。お盆になると、一部の霊魂は地上に帰って行きます。

上の方の世界では、許可の出た霊魂だけなのですが、下の方の世界の場合は、時々、地上に帰る方法を知っている霊魂がいるようで、そうした霊魂に帰る方法を聞いた一部の霊魂達は、許可も必要でないことから、勝手気まままに、地上に戻ることがありました。

Aさんが地上の家を見つけるのは、簡単でした。何しろ、この界隈でもかなり大きなお寺でしたから、地上へ降りてきてもどこにあるかがすぐわかったからです。

Aさんは、久々になつかしい実家に戻ると、ちょうどお盆で帰省してきていた家族に対してあることを必死に訴えました。それは、自分が生前信じていなかった死後の世界が、本当は存在するということでした。

ところが、家族は誰一人気付きません。しかも、そこにいる弟たちは、酒を飲みかわしながら、死後の世界なんかあるはずがないさと笑っているではありませんか。

「このままでは、みんな、自分の二の舞になってしまう」、そう考えたAさんは、とうとう決心しました。

弟や家族たちに、自分の霊魂の存在を気づかせようと、さまざまな細工を始めたのです。

ときには、仏壇に沿えてある花を大きく揺らしてみたり、また別のときには、蝋燭の炎を揺らしてみたりしました。

さらには、幽霊として出現しようとしたのですが、何分あの世での修業が足りないので、幽霊としての出現の仕方もよくわからず、何をやってみても、うまく行かず、結局自分の存在を家族たちに知らせるには何の効果もないのでした。

……そして、とうとうお盆は終わりました。

それでも、Aさんは家を離れませんでした。弟たちは仕事のある都会へ帰っていき、それからまたたくまに数か月が経ちました。

そのころから、この家には、なぜか、悪い事ばかり起こるようになりました。

どうやら、Aさんの自分の霊の存在をどうしても知らせたいという行為がことごとくうまく行かなかったため、結果として、その執着はネガティブなものとなっていったためのようです。

無念の思いが実家を覆うようになり、結果として、Aさんの思念はこの家に強く残るようになり、とうとうあの世に戻ることができなくなってしまいました。

このお寺に悪霊が出る、と近所の人達の間で噂されるようになったのは、それからしばらくしてからのことでした……

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