ドッペルゲンガー

今日で、9月も終わりです。

だというのに、未だ富士山の初冠雪はありません。それだけ今年の残暑は厳しかったということなのでしょうか。

さて、今日9月30日というのは、その数字から、「く(9)」る「み(3)」は「まるい(0)」という語呂合せができるということで、「くるみの日」になっており、これはくるみの名産地、長野県のくるみ愛好家達が制定したそうです。

クルミの原産地はヨーロッパ南西部からアジア西部とされ、北半球の温帯地域に広く分布しますが、日本に自生している胡桃の大半はオニグルミといい、長野県東御市がクルミの生産量日本一です。

ご存知の方も多いと思いますが、その殻はゴツゴツとして非常に硬く、中にあるナッツは非常に取り出しにくいのが特徴です。

このため、かなり昔から様々な形状のくるみ割り器が考案されてきましたが、1735年にドイツのテューリンゲン州ゾンネベルクというところで、「クルミ噛み器」が考案されました。

しかし、現在知られているような兵隊さんのような形に変化し、「くるみ割り人形」と呼ばれるようになったのはその後100年以上も経った1870年代頃のことのようで、ドイツ、ザクセン州のエルツ山地地方のザイフェンという小さな村の木材加工の工房の主が、これを考案しました。

最初のモデルは軽騎兵(兵隊)、消防士、山林監視官であったそうですが、その後、王様、警官なども造られ、その他にも、夜警、キノコ採り、サンタクロースといったものもあるそうです。

そもそもこういうモデルが生まれた背景には、一般庶民達の支配者階級に対する反発心や、ささやかな抵抗によるうっぷん晴らしという側面もあったのではないかという説もあるといいます。

このためか、最初のころは、堅い木の実の殻を口(歯)で砕く苦々しい顔をした男性を形どったものがほとんどだったそうですが、時代と共に、昔のようないかめしい怖い表情のものは少なくなり、現在は優しい表情のデザインのものが多くなっているそうです。

この「くるみ割り人形」は、ロシアの大作曲家、ピョートル・チャイコフスキーの作曲したバレエ音楽としても有名です。

これに「白鳥の湖」、「眠れる森の美女」を加えてチャイコフスキー作の三大バレエともいわれ、初演から100年以上もの間、愛されてきましたがいまだに数多くの改訂版が作られているといいます。

その筋立てはもともと、ドイツ人のE.T.A.ホフマン(エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン)という人の童話に基づいており、これをもとにクラシック・バレエの基礎を築いたことでも知られる、フランス人バレエダンサーのマリウス・プティパが台本を手掛けて創作されました。

その初演は1892年(明治25年)、ロシアのサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で行われました。このときの観客の反応はまずまずであったものの、主題が弱いと考えられたためか大成功とまでは言えず、現在のようなポピュラーな作品となるまでにはやや時間を要したそうです。

全曲の演奏時間の約1時間25分は昔からほとんどかわらず、これは2幕に分かれていますが、バレエの演技を抜きにして録音されたり、演奏会だけのために組曲にしたり、抜粋して演奏されるといったことも多いようです。

その内容はというと、ドイツのある裕福な家庭に生まれた少女クララが、クリスマスにプレゼントされたくるみ割り人形が、彼女の夢の世界に現われ、彼女をはつかねずみの大群から守るために奮戦し、勝利した人形は、凛々しい王子になって二人はお菓子の国で楽しく暮らす……というもの。

この物語の原作者のホフマンは、1776年生まれで、1822年に56歳で没した人です。この人ももともとは作曲家で、音楽評論家として知られていたようですが、その後画家や文学作家としても活躍し、多彩な分野で才能を発揮しました。が、とくに後期ロマン派を代表する幻想文学の奇才として知られているということです。

このホフマン原作のクルミ割り人形のストーリーを知らない方も多いと思いますので、ここで紹介しておきましょう。

物語は、医務参事官である、シュタールバウム家のあるクリスマスの情景からはじまります。

この家には上からルイーゼ、フリッツ、マリーの3人の子供がいました。一番下の娘マリーが7歳の時のクリスマスの日のこと、彼女はたくさんのクリスマスプレゼントのなかから不恰好なくるみ割り人形をみつけ、何を思ったのかこれがすっかり気に入ります。

ところが、これを使って兄のフリッツが大きな胡桃を無理に割ろうとして故障させてしまいます。人形を気の毒に思ったマリーは、その夜、戸棚に飾ってある他の人形のベッドを借りて、このくるみ割り人形を休ませようとします。

するとあたりの様子がもやもやと俄かに変化し、地面から7つの首をもつネズミの王様が軍勢をともなって現われました。そうしたところ、マリーが寝かせたばかりのくるみ割り人形が、むっくりと起き出したではありませんか。しかも人形は立って動き出し、戸棚にあったほかの人形たちを率いて、このネズミの軍を相手に戦争を始めました。

しかし、ねずみ軍団の力は強く、次第に人形たちが劣勢になっていきました。これをみていたマリーは、人形たちの窮地をなんとか救おうとしたのですが、その際中にふっと気を失ってしまいます。

気がつくと彼女は右腕に包帯を巻かれてベッドに寝かされていました。マリーが彼女の母親たちから聞かされた話によれば、マリーは夜中まで人形遊びをしているうちにガラス戸棚に腕を突っ込んで怪我をしてしまい、その拍子に気を失ったのだといいます。

マリーには、叔父が一人おり、彼女の名付け親となってくれたのもこの人でした。ドロッセルマイヤーおじさんといい、彼女は彼のことが大好きでいつも何かと相談に乗ってもらっていました。

なので、このときもおじさんにこの「夢」の中のことを話したところ、おじさんは、ニコニコしながら、彼女に似たような話がある、と言って「ピルリパート姫」というおとぎ話を彼女に話して聞かせ始めました。無論、これはおじさんの即興による物語でした。

この物語は、あるお姫様とねずみの戦いの話でした。姫はネズミの呪いを受けて醜くされてしまうのですが、王室のお抱えの時計師ドロッセルマイヤーとその甥の活躍によってもとの美しさを取り戻すことに成功します。しかしその身代わりに、時計師の甥は醜い姿に変えられてしまうことになったのでした。

この話を聞いたマリーは、それからのこと、彼女のくるみ割りこそがドロッセルマイヤーの甥なのだと妄想しはじめます。そして、それ以降、夜な夜なマリーのもとには、ねずみの王様が現われるようになり、くるみ割り人形の安全と引き換えにマリーのお菓子を要求するようになります。

マリーは仕方なく戸棚の敷居に菓子を置いておくようになりましたが、翌朝になるとネズミによって食い荒らされているのでした。しかもネズミの行為はだんだんとエスカレートし、はさらにマリーの絵本や洋服まで要求するようになります。

マリーはすっかり困ってしまい、くるみ割り人形のドッセルマイヤーに相談したところ、彼は一振りの剣を与えてほしいと答えました。翌朝、マリーは兄フリッツに頼んで兵隊人形のためのおもちゃの剣を一振りもらうことにし、これをそっとくるみ割り人形に持たせました。

こうしてその夜、剣を貰ったくるみ割り人形は、みごとにネズミの王様に打ち勝つことができました。そしてその姿をマリーのもとに現わすと、助けてもらったお礼にマリーを美しい人形の国へ招待したいと申し出ますが、その夜の「夢」はそこで終わってしまいました。

翌朝、自分のベッドで目覚めたマリーは、その夜の夢のような人形の国の情景が忘れられず、家族にそのことを話してまわりますがが、誰からも取り合ってもらえません。

ちょうどその日のこと、ドロッセルマイヤーおじさんが一人の青年を伴ってマリーの家を訪ねてきました。叔父さんによれば彼の隣にいるこの男性こそが、彼の甥だということでした。

叔父さんが「ピルリパート姫」の中でねずみの魔法によって醜くされてしまったと語ったこの甥は、醜いどころかとても感じの良い美青年でした。

叔父さんは、マリーの両親に用事があるからと一人奥の部屋に入っていきました。すると、マリーと二人きりになった途端にその青年がマリーのところに近寄ってきて、耳元でささやくようにこう言いました。

「僕があのとき君に救われたくるみ割り人形だよ。」

そして、彼女がくれた剣のおかげでねずみを退治できたことで、もとの姿に戻れたのだと話しました。彼は今や人形の国の王様となり、マリーを王妃として迎えに来たのでした……。

……と、このくるみわり人形の原作は、現実と夢物語が交錯する、複雑な構成になっています。もともと、作者ホフマンが友人の子供のために即興で作ったものであったそうで、自分の娘を幼くして亡くしていたホフマンはこの子供たちのひとり……これがマリーという名前でしたが……をとくに可愛がっていたということです。

この話はマリーのためのクリスマスプレゼントとして作られたものであったそうで、作中でも不気味な雰囲気を漂わせている、話好きで手先の器用な「ドロッセルマイヤーおじさん」は実はホフマン自身だったともいわれています。

ホフマンの自画像が残っているので見るとわかるのですが、かなりのブ男であり、不気味な小説ばかり書くこの当時彼のことを評して「お化けのホフマン」などと揶揄するひともいたということです。

こうして、この童話はその後、バレエの「くるみ割り人形」の原題にもなりましたが、バレエ版の中では、主人公の少女の名前が違うことをはじめ(マリーではなくクララ)、ホフマンの作品とはかなりその雰囲気には隔たりがあるようです。

このホフマンという人は、ドイツのケーニヒスベルクの法律家の家に生まれ、もともとは自らも法律を学んでおり、のちには裁判官にもなっています。

その傍らで芸術を愛好し詩作や作曲、絵画制作を行なっていったわけですが、1806年にナポレオンの進軍によって官職を失うとバンベルクで劇場監督の職に就くようになり、舞台を手がける傍らで音楽雑誌に小説、音楽評論の寄稿を開始しました。

1814年には判事に復職し、裁判官と作家との二重生活を送り始めましたが、病に倒れるまで旺盛な作家活動を続けました。

このとき彼が書き遺した小説には、上述のような童話風のもののほか、「自動人形」や「ドッペルゲンガー」といった「不気味」の代表ともいえるようなモチーフを用いたものも多く、現実と幻想とが入り混じる特異な文学世界が作り出されました。

自動人形というのは、オートマタ(Automata)とも呼ばれ、主に18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで作られた機械人形のことをさします。

ギリシャ語の「automatos」から来たもので、もともとは「自らの意志で動くもの」という意味合いを持ち、必ずしも機械を指す言葉ではありません。

が、その後18世紀から19世紀にかけてのドイツやスイスの時計技術の革新と、ルネサンス以降のフランスで流行したディレッタンティズム(道楽化・道楽主義)の複合によって、オートマタとはこの「自動機械」のことを指すようになりました。

この自動機械の動力は基本的にはぜんまいばねでした。人形状の形をしていましたが、娯楽のためだけではなく宗教的な儀式などに用いられることもあり、人形や仮面のなかには部分的に可動するものもあります。これは、宗教上の事件を伝承する際、これを操作することにより、よりドラマチックに見せる効果などがあったのではないかといわれています。

つまり、機械的な仕掛けにより自動で動くという演出を付加することで、人形(ひとがた)信仰においてあたかも人形に魂が入っているかのように見せることができるわけです。

人形を作り、それが動く、動かすというテーマはユダヤ教のゴーレム(自分で動く泥人形)やギリシア神話のタロース(クレタ島を守っていた自動人形)の例にもみられ、古代の人々にとっては根源的なテーマでもあり、また創造主としての神への挑戦といった面もあったようです。

こうした自動人形は、単に人形の稼動部分を人間が直接動かすという段階を経た後、古代ギリシアにおいてより洗練されるようになり、その技術はその後のアルキメデスの螺旋、や同時期に発明されたといわれる歯車、サイフォン、水力、滑車などが発明されるきっかけにもなりました。

伊豆にも、伊東市の伊豆高原に、「野坂オートマタ美術館」というオートマタ専門の美術館があり、ここに18世紀から20世紀にかけてのオートマタが60体以上展示されているそうです。私もまだ中に入ったことはないのですが、実際にオートマタがどういう動きをするか説明つきでの実演が行われているといいますから、ご興味のある方は行ってみてください。

一方、「ドッペルゲンガー」というのはドイツ語で、自分とそっくりの姿をした分身のことを指し、または同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象そのものを指す用語です。

自分がもうひとりの自分を見る現象であって、「自己像幻視」や「復体」とも訳されますが、ドイツ語の Doppelgängerを忠実に訳すと、「二重の歩く者」と言う意味だそうです。

自分の姿を第三者が違うところで見る、または、自分が異なった自分自身を見る現象であり、ドッペルゲンガー現象の特徴としては、ドッペルゲンガーとして現れる人物は周囲の人間と会話をせず、必ずその元の本人に関係のある場所だけに出現するのだそうです。

同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象としては、このほかにも「バイロケーション」というのがあります。が、バイロケーションのほうは自分の意思でひき起こされる現象であり、「ドッペルゲンガー」のほうは本人の意思とは無関係におきるという点が違います。

“Bilocation”とは、意思によって一身二ヶ所存在を実現することであり、複所在、同時両所存在、バイロケーション現象ともいわれます。

また、遠隔透視(リモートビューイング)の際に意識が体を離れ、透視対象の傍にあるように感じられるという現象もバイロケーションといわれますが、ドッペルゲンガーと決定的に違うのは、バイロケーションの場合は本人の意思によって分身が図られるため、その分身と本人がじかに接触できる場合もあり、またはかなりの接近が起きうる点です。

その際、本人の間近でお互いに同じような行動をすることが多く、また、場合によっては、ドッペルゲンガーと違い、会話さえも可能であるといいます。ただ、ドッペルゲンガーもバイロケーションも、相手の身体は触ることができず皮膚が突き抜けてしまうといったことなどが特徴として挙げられます。

かつては、「自分のドッペルゲンガーを見ると、しばらくして死ぬ」などと語られることもあって恐れられた現象であり、これは今でも多くの国で信じられています。

超常現象といわれるもののひとつであるわけなのですが、あまりにも頻繁に起こってきたことから、近年では医学的な説明を試みようとした例もあるようです。が、これまでに発生したものの多くは科学によっては説明不能でした。

有名な人に起こったドッペルゲンガー現象の実例としては、アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーンや、日本の芥川龍之介、帝政ロシアのエカテリーナ2世などがあり、この中の芥川龍之介の例は本人が自身のドッペルゲンガーを見たというものです。

またこれらより古い時代でも、古代の哲学者ピュタゴラスは、ある時の同じ日の同じ時刻にイタリア半島のメタポンティオンとクロトンの両所で大勢の人々に目撃されていたといいます。

さらに、19世紀のフランス人でエミリー・サジェという女性が経験した現象は、ドッペルゲンガーとしては最も有名で、この事例では同時に40人以上もの人々によってドッペルゲンガーが目撃されたといわれます。

江戸時代の日本でもドッペルゲンガー現象の記録は割とたくさん残っているようです。日本ではこれは、影の病い、影のわずらいと言われ、「離魂病」と称されていました。近年になってこれらの事例を集めて研究した人がおり、その著述「日本古文献の精神病学的考察」には、離魂病のある事例として次のようなことが記述されています。

北勇治という人が外から帰って来て、居間の戸を開くと、机に向かっている人がいました。自分の留守の間に誰だろう?と見ると、髪の結いよう、衣類、帯に至るまで、自分が常に着ているものと同じではありませんか。

自分の後姿を鏡を使わずに見た事はなかったのですが、その姿は自分と寸分違いないと思われたので、顔をよく見ようと近づいていったところ、その人物は向こうを向いたまま障子の細く開いた所から縁先に出て行ってしまいました。

あわてて後を追ったのですが、外に出るともうその姿は見えません。おかしなこともあるものだと、家族にその話をすると、彼の母親はものもいわず、顔をひそめたといいます。

その後、勇治は病気となり、その年の内に死んでしまいました。実は勇治の祖父・父もともに、この「影の病」により亡くなっており、あまりにも忌しいことであったので、母や家来はその事を言えずにいたのでした。結果として、この家では3代ともこの影の病にて病没してしまったということです。

日本の文芸評論家で、日本文化や日本美術、中国美術の評論を多く書いた吉村貞司という人は、こうしたドッペルゲンガー現象は、古代の日本神話の中にもその名残が見られると主張しています。

その例として、「味耜高彦根命(アヂスキタカヒコネ)」をあげ、これは天若日子(アメノワカヒコ)という別の神様のドッペルゲンガーと見ていい、と彼は主張しています。

アヂスキタカヒコネというのは、農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されている古代の神様で、「古事記」にも登場してきます。

一方、アメノワカヒコは大国主の娘の下照姫命と結婚した神様でしたが、葦原中国(天上の高天原に対する地上の国のこと)を得ようと企んでいたため、寝所で寝ていたところを矢で射ぬかれて死んでしまいました。

その夫はアメノワカヒコの夫人はシタテルヒメという女神でしたが、アメノワカヒコが死んでしまったので悲しみ、葬儀を行いました。その葬儀に訪れたのが彼女の父のアマツクニタマでした。

アマツクニタマが葬儀に訪れると、そこにはアヂスキタカヒコネも既に来ていましたが、その姿をみるとアメノワカヒコとそっくりであったため、アマツクニタマは、彼が生きていたものと勘違いしてアヂスキタカヒコネに抱きついてきました。

これに驚いたアヂスキタカヒコネは、穢わしい死人と一緒にするなと怒り、剣を抜いてアマツクニタマを蹴り飛ばしてしまった、というのがこの古事記の中の記述です。

このように、ドッペルゲンガーと近似する記述は古代から見られ、現在でもドッペルゲンガーと関連するものを見つけてきては比較研究する学者もいるといいます。

最近のテレビ番組でも新たな実例が紹介されることがあり、フジテレビ系列の「奇跡体験アンビリーバボー」でも海外のドッペルゲンガーの最近の事例を紹介したことがあります。これは母と娘が同時にドッペルゲンガーを経験した例でした。ただ、上述のように死んでしまうということもなく、この二人は現象があった後も問題なく生きていたそうです。

一方、医学においては、自分の姿を見る現象(症状)は「オートスコピー(autoscopy)」と呼んでおり、これは脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域に脳腫瘍ができた患者が引き起こす症状であり、彼らの多くが自己像幻視を見るといいます。

この脳の領域は、ボディーイメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあるのだそうです。

その昔放映された、テレビ番組「特命リサーチ200X」ではこのオートスコピーに関する特集が組まれました。

このときには、カナダ・マギル大学の医師がおこなった実験が紹介され、正常な人でもボディーイメージを司る脳の領域に刺激を与えると、肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するように感じられることが確認されている、といった内容が放送されたそうです。

またドイツ・アーヘン大学の医者も、自己像幻視は脳腫瘍に限らず、偏頭痛が発生する原因となる脳内血流の変動によって、脳の一部の機能が低下することでも引き起こされうるとしているそうです。

前述のリンカーンや芥川龍之介も偏頭痛を患っていたそうで、このドイツ人医師は彼らがドッペルゲンガー現象として本人を目撃したとされる事例の多くはこの解釈でもってある程度説明しうる、という見解を示したそうです。つまり、芥川龍之介は脳腫瘍をかこっていたということになります。

しかし、ドッペルゲンガーには、上述の医学上の仮説や解釈で説明のつくものとつかないものがあり、「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」、たとえば数十名によって繰り返し目撃された上述のエミリー・サジェなどの事例は、脳機能障害では説明できないケースのひとつです。

エミリー・サジェは、1800年代のフランス人で、幽体離脱またはドッペルゲンガー現象を起こしたといわれる人物です。1845年、当時32歳のサジェは、ラトビアのリヴォニアにある名門校に教師として赴任しましたが、まもなく生徒たちが「サジェ先生が2人いるように見える」と言い出しました。

教師たちは生徒の空想として取り合わなかったものの、10人以上の生徒がそう言い出したため、集団幻覚か、それとも本当にサジェが2人いるのかと判断しかねる事態になっていきました。

生徒たちの証言によれば、あるときサジェが黒板に字を書いていると分身が現れ、黒板に書く仕草をしていたといい、また別の日にはある生徒がサジェと並んで鏡の前に立つと、鏡にはサジェが2人映っており、この生徒は恐怖のあまり卒倒しました。

後には生徒たち以外の目撃者も現れるようになり、給仕の少女が、食事中のサジェのそばで分身が食事の仕草をしている光景を目の当たりにし、悲鳴を上げたといいます。

この分身はやがてサジェのそばのみならず、サジェから離れた場所でも目撃されるようになっていきます。あるときには、42人もの生徒が同時に分身を目撃する事件も発生しました。

ある日生徒たちのいる教室にサジェがおり、すぐ窓の外の花壇にもサジェがいるという現象も起きました。このときは勇気のある生徒が、どちらが本物のサジェか確かめようとしました。そして室内にいるほうのサジェに触れたところ、柔らかい布のようでまるで手ごたえがなかったといいます。

このとき、花壇にいるサジェはぼんやりとした様子だったといい、しばらくすると室内のサジェは消えてしまい、花壇のサジェは普段通り動き始めたため、花壇のほうがサジェ本人だとわかったといいます。

このような分身の事件は、1年以上にもわたって続いたといい、生徒たちの噂話に困惑した学校の理事たちは、サジェを問いただしましたが、サジェ自身にはまったく分身の自覚がありません。学校側同様に本人もこの現象に悩むばかりで一向に事態は改善しませんでした。

多くの生徒はこの分身の現象をむしろ面白がっていたものの、彼らの父兄は決してそうではなく、このような奇妙な教師のいない別の学校へ転校させる親が続出しました。サジェは教師としては優秀な人物でしたが、学校側としてはこの事態を看過できず、やむなくサジェを解雇することにしました。

その後もサジェの赴任先では同じことが起き、20回近くも職場を転々としたそうですが、そのあげく、とうとう赴任先がなくなったサジェは、義妹のもとへ身を寄せました。そこでも分身は現れ、子供たちが「おばさんが2人いる」と面白がっていたといいます。

前述の芥川龍之介は、その自らの短編「二つの手紙」にドッペルゲンガーのことを書いています。

大学教師の佐々木信一郎を名乗る男が、自身と妻のドッペルゲンガーを三度も目撃してしまい、その苦悩を語る警察署長宛ての二通の手紙が紹介される、という形式の短編です。

芥川龍之介自身がドッペルゲンガーを経験していたらしいとされる記録もあり、芥川はある座談会の場で、ドッペルゲンガーの経験があるかと問われると、「あります。私の二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現れました」と答えたといいます。

錯覚か人違いではないか?との問いに対しては、「そういってもらえれば一番解決がつき易いですがね、なかなかそう言い切れない事があるのです」と述べたといいます。

このように、ドッペルゲンガー現象は、古くから事例は多く、ホフマンや芥川龍之介のようにこれを小説に取り込む試みはかなり多くみられるようです。

ちょっと前の、といっても40年以上も前ですが、「ウルトラQ」という特撮番組の第25話にも「悪魔ッ子リリー」という話があり、これは肉体を離れ、精神体が悪事をするという内容でした。

最近では、杉浦日向子の漫画作品「百物語」にも「死の予兆」を反映させて、なりすました人物を殺害して、周囲の人に知られずにすりかわるというキャラクターが出てきます。

このほか、近年の日本のサイエンス・フィクションやファンタジー小説などにもよく登場し、そこでは、不埒な目的のために、特定の人や生き物になりすます「シェイプシフター“shapeshifter”」なるものもあり、これもドッペルゲンガーの派生と考えることができるでしょう。

この変化妖怪については日本だけでなく、世界中、古今東西広くに分布しており、その正体とされるものは、幽霊であったり、悪魔であったりと地域によっていろいろです。近年では、遺伝子組み換えによって生まれたバイオモンスター、なんてのもあります。

このように、ドッペルゲンガーは、日本においては江戸時代以前では離魂病として恐れられてきましたが、現代では小説やゲームなどの創作物においてはもその存在が脈々と継承されているわけです。

こうした、ドッペルゲンガーは、体外離脱または幽体離脱の一種ではないかという人も多いようです。

芸人さんの「ザ・タッチ」などがネタとして有名になって幽体離脱ですが、これは自分の肉体から抜け出す感覚の体験のことです。

私自身は経験はありませんが、国籍・文化圏にかかわらずこのような感覚はよく見られるようです。根拠はよくわかりませんが、10人に1人程度は生涯に一度は経験はしているのではないかとする人もいるようです。

体外離脱の典型は、自分が肉体の外に「浮かんで」いる、あるいは自分の物理的な肉体を外から見るといったもののようです。ただし、「体外に引っぱり出される」感覚とともに体外離脱体験をする人もいれば、突然体外に出ている状態を体験をする人もおり、その形態はさまざまです。

また、これもよく言われることのようですが、幽体離脱をしているときには、かなり具体的なイメージを持つことができ、かつ明確な自我もあって、鮮明な五感等もあることが多いといいます。あまりにも五感が鮮明なため、体外離脱している事に気づかず、そのまま日常を過ごしてしまったという例もあるといいます。

ただ、体外離脱を体験する時間はさほど長くなく、分単位であることが多いといいますが、体験者の中には、主観的な感覚としては、実際の経過時間よりもはるかに長い時間を過ごしているように思われることを指摘する人もいます。

体外離脱が起こるのは、主に、何かしら危険に遭遇した時、臨死体験をしている最中、あるいは向精神性の薬物を使っている場合などに多いようですが、人によっては、平常時、ごく普通の睡眠中や明晰夢の最中にも起こるようです。

また、こういうときには、いわゆる「金縛り」が起きている場合が多いといいます。

一方では、自らの意思で体外離脱体験をコントロールできるとする人も多く、一部には訓練によって体外離脱体験を起こそうとする試みもなされています。この場合瞑想に近い方法がとられているようです。とくにヨーガの行者などは修行中に体外離脱を起こすことはよく知られています。

こうした体外離脱体験なども含んだ霊界との交わりを体系的にとりまとめようとした人達も昔から多く、近代ヨーロッパでは神智学、人智学といった「学問」が形成されており、その一方では「近代西洋儀式魔術」や「神秘学」に代表されるようなオカルティックなものもあり、さまざまです。

スピリチュアリズムを主張する人達の間では、こうした現象を異次元世界、霊界とコンタクトする為にあるスイッチと考えている人もおり、これを本格的に研究した人としてとくに有名なのがロバート・モンローという人です。

もうこの項もかなり長くなっているので、今日はこれ以上述べませんが、彼が設立したのがロバート・モンロー研究所であり、体外離脱能力者でもあったロバート・モンローは、ヘミシンクと呼ばれる音響技術を開発して、たびたびあちらの世界の人々と交信しています。

ヘミシンクとは左右耳から波長がわずかに異なる音を聞くと右脳と左脳の脳波が同調することであり、ヘッドフォンから聞こえてくる音と瞑想の誘導を使うことでバイロケーション型の体外離脱が達成されるしくみだといいます。

原理はバイノーラルビートという確固たる音響技術に基づいているそうで、この音響技術を使用し、適切な訓練をするとバイロケーション型の体外離脱を体験できるといいます。

これらのことについては、日本では坂本政道さんという人が第一人者といわれています。

東大理学部の物理学科を卒業後、カナダで電子工学の修士をとり、ソニーで半導体素子の開発にあたったほどの俊英ですが、その後アメリカの半導体素子メーカーに引き抜かれて半導体レーザーの研究をしている最中に、「変性意識状態」ということに興味を持つようになります。

やがて、モンロー研究所のヘミシンク技術というものがあることを知り、この技術を使って自らも体外離脱経験をするようになり、それらの体験をつづった「死後体験」と呼ばれる本などを多数出版するようになりました。

この人の話をし始めるとまた長くなりそうなのでやめますが、ウチのタエさんがファン?で、私よりも彼の多数の著書を読んでいるとだけ、今日は書いておきましょう。

さて、今日はクルミの話題に端を発して、なぜか幽体離脱の話にまで飛んできてしまいました。

ここまでの話を信じるか信じないかはご自由ですが、いつもいうように、この世は不思議なことで満ち溢れており、科学的に説明できないからといってすべて否定できるような、この世はそんな単純なものではありません。

救急救命医として大勢の生死の狭間にある患者を診てきた矢作直樹というお医者さんは、臨死体験で幽体離脱した患者の体験を聞いた結果、「見た」出来事と実際の出来事と一致するという事実があることから、幽体離脱は「脳内現象」とは言えないだろうといっています。

そして、「人には、見える部分と見えない部分がある」とも語り、この見える部分というのは、実際にわれわれが見たり触れたりすることができる肉体であり、一方では目には見えないが恐らく肉体よりも大きな何らかの存在があるのだろうとも語っています。

そして、それこそが霊体ともいえるものだろうとし、物質的神経の仕組みを解明しても根本的因果関係を説明しているとは言えず、その背後にある霊的エネルギー体によってそれらの説明ができる、といった意味のことをおっしゃっています。

私自身も元は技術者であり、こういった優れた科学者すらも認める世界があることに疑いの余地はなく、ドッペルゲンガー現象も幽体離脱も実際にある現象だと思います。

また、ヘミシンクについても大変興味があります。なので機会あれば、またこのブログの中でもそのことついて詳しく書いてみましょう。

あなたも幽体離脱してみませんか?

タイタニックの姉妹


その昔、どういうタイミングでだったのかよく覚えていないのですが、都内の映画館で映画「タイタニック」を見ました。

おそらく仕事が早く終わったために余った時間を使ったのだと思いますが、改めて公開された年を調べてみると、1997年といいますから、もう16年も前ということになります。

ジェームズ・キャメロン監督・脚本によるアメリカ映画であり、1912年に実際に起きたタイタニック号沈没事故を基に、貧しい青年と上流階級の娘の悲恋を描いて大ヒットした作品です。

主にSFアクション映画を手掛けてきたキャメロン監督が、一転して挑んだラブロマンス大作ですが、ほぼ実物大のセットまで作って撮影に臨んだということから、細部に至るまでかなりリアリティのある映画で、とくに後半ではパニック映画さながらの緊迫感のある展開で、見る人をぐいぐいと引き込んでいきます。

ラストシーンもまた感動的であり、驚いたのは、周囲の多くの女性のすすり泣きの声が聞こえてきたこと。私もいろんな映画をみていますが、こういうことはめったになく、それほど力のある作品だったということなのでしょう。

それもそのはず、この映画は全米で6億ドル、日本で興収記録262億円、全世界で18億3500万ドルの売り上げを記録し、同監督の「アバター」に抜かれるまで映画史上最高の世界興行収入を記録し、ギネスブックに登録されていたほどの映画でもあります。

また、1998年のアカデミー賞において、作品賞、監督賞、撮影賞、主題歌賞、音楽賞、衣裳デザイン賞、視覚効果賞、音響効果賞、音響賞、編集賞の11部門で受賞するなど、ほとんどを総なめしました。

また、セリーヌ・ディオンが歌う主題歌“My heart will go on”も大ヒットしましたが、私はいまだに毎朝のジョギングに出るときに持って出るウォークマンにこの曲を入れています。

このタイタニック号については、おそらく知らない人はいないでしょう。20世紀初頭に建造された豪華客船であり、処女航海中の1912年(明治45年)4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没しました。

犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人であり、当時世界最悪の海難事故であったことから、この映画だけでなく、何度か映画化され、世界的にその名を知られています。

ところで、この沈没したタイタニックには、これ以外にも、北大西洋航路用に計画された2隻の姉妹船があったということをご存知でしょうか。

意外に知られていないことのようなので、今日はそのことについて少し書いてみようと思います。

タイタニックは、イギリスのホワイト・スター・ライン社(White Star Line)という会社によって建造された3隻のうちの2番船であり、これらの船は総じて「オリンピック級」と呼ばれていました。残る姉妹船とは、一番最初に建造された「オリンピック」と最後に完成した「ブリタニック」の2隻です。

ホワイト・スター・ライン社は、これらの船の建造に遡ること60年以上前の1845年に創業した、イギリスの老舗の海運企業です。「オーシャン・ライナー」といわれる数々の客船を運航させ、同じイギリスの海運企業であるキュナード・ライン社と19世紀後半から20世紀初頭にかけ激しい競争を繰り広げたことでよく知られています。

しかし、タイタニックの沈没を契機として、経営は次第に悪化していき、1934年、ライバルのキュナード・ラインに吸収合併され、その社名も「キュナード・ホワイト・スター・ライン」に変更されました。

その後、これも世に名高い豪華客船として知られる「クイーン・メリー」や「クイーン・エリザベス」などを就航させましたが、1945年には解散、同時にキュナード・ホワイト・スター・ラインはキュナード・ラインに社名を戻したため、「ホワイト・スター」の名前は消滅し、現在その企業的な名残はこの世に存在しません。

タイタニックなどを造船していた当時のホワイト・スター・ラインは、当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、ゆったりと快適な船旅を売り物としていた会社でした。したがって、タイタニックもスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計された船です。

ちなみに、ブルーリボン賞(Blue Riband)とは、大西洋を最速で横断した船舶に与えられる賞であり、大西洋航路の最速船の所有を広報することを目的として、1830年代に複数の大西洋横断航路運航会社の協賛によって設けられた賞です。

東回りと西回りに分かれた2種類の賞があり、当初、ブルーリボン賞を受賞した船舶は細長いブルーのリボンをトップマストに掲揚する栄誉に浴することができました。

「スピードの時代」と呼ばれた1930年代、同賞は各国の海運会社の威信を賭けた競争となり、各船は国の資金や技術協力を得て記録更新に挑みました。ブルーリボンを獲得することは受賞した国や船舶会社にとっての栄誉であるだけでなく、それに乗船する船客にとってもステータスとなったためです。

1935年にイギリスの政治家でありヘイルス・ブラザーズ社のオーナーでもあるハロルド・ケーテス・ヘイルス卿という人が自費でトロフィーを製作し、これはハレス・トロフィー(Hales Trophy)と呼ばれ、以降、世界最速記録を3ヶ月の間保持できた船にはこのトロフィーが贈られました。

しかし、大西洋横断といっても、海上に線が引いてあるわけではなく、その距離は航路によりかなり異なります。

このため、ブルーリボン賞は横断航海の平均速力に基づいて与えられることとなり、基本的には、西側の終着点はカナダ、アメリカ東海岸各港のいずれでも良く、東側の終着点はアイルランド、イギリス、西ヨーロッパのどこでも良いというきまりとなりました。

しかし伝統的に、大西洋横断の記録はニューヨークを出発もしくは目的地とした航海によるものが多く、そのほとんどがニューヨーク港を出発点または帰着点としています。

現在までのところ、西回り航路ではアメリカのユナイテッド・ステーツ・ラインの保有船で、その名も「ユナイテッド・ステーツ」という船が、61年も前の1952年に、3日と12時間12分で達成した34.5ノットが最高です。

一方の東回り航路では、1998年7月20日にオーストラリアのインキャット社によって建造された「キャットリンク5(Cat-Link V)」という船が達成した、2日と20時間9分という記録が最高で、このときの平均速度はなんと41.3 ノットでした。

これは、時速に換算すると、76.5km/hであり、波の荒い外洋をこの速度で運行したというのは天候にも恵まれたということなのでしょうが、驚異的な数字です。この数字は西回り航路でユナイテッド・ステーツが残した記録を優に上回るため、事実情この船が客船としては世界最速ということになります。

しかし、ユナイテッド・ステーツは、試験運転で40ノット以上を出したという記録もあるようで、やはりユナイテッド・ステーツが本当の保持船舶なのではないかという意見もあるようです。が、このあたりのことは本日のこの項にはあまり関係がないので、これ以上触れるのはやめておきましょう。

さて、先述の通り、タイタニックには姉妹船として、オリンピックとブリタニックという二隻の船が存在しましたが、これらの三隻もの大型客船が建造されたのは、この大西洋路線がホワイト・スター・ライン社にとってはドル箱航路だったためです。

キュナード・ラインなどの他社との激しい競争を制するためには、一隻では賄いきれず、最低二隻を常に交互に運行させる必要があったためでもあり、予備船を入れての三隻体制は実に合理的な運行体制でした。

こうして三隻体制の先駆けとして、まず最初に「オリンピック」の造船が開始され、ほぼ同時期に二番船タイタニックの建造も開始され、そして最後に少し遅れて三番船ブリタニックの造船が開始されました。

タイタニックとオリンピックはほぼ同時期に造船が開始されたこともあって、大階段やダイニングルームの装飾、食事のメニューや客室のサービスなど、その外観のみならず全てにおいて瓜二つでした。

しかし、キャメロン監督の映画「タイタニック」では、まるでこの当時の巨大船はタイタニックのみであるような脚色がなされていました。

が、実はタイタニックと同じ船が三隻もあり、これらを総称して「オリンピック級」と呼んでおり、またこの三隻の中では最初に建造された「オリンピック」こそがその代表であり、タイタニックは二番艦にすぎない、という印象でこの時代の人々は受け止めていたようです。

このため、ホワイト・スター・ライン社もその宣伝にはオリンピックのほうを前面に出すことが多く、タイタニックの写真としてもオリンピックのほうの写真が使われるということも度々行われていました。この当時タイタニックはオリンピックの陰に隠れた存在であったというわけです。

とはいえ、オリンピックとタイタニックは姉妹船であるがゆえに、その構造上の差違点はほんの少しでした。

しかし、タイタニックの建造が始まったとき、オリンピックは既に先立って運航されていたため、このオリンピックの問題面や改善点を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックのときから多少変更が加えられました。

その代表としては、海に面してベランダ状に設けられていた一等専用のプロムナードデッキ(遊歩道)が、オリンピックでは吹きさらしになっていたのに対し、タイタニックでは、中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取り付けられ、サンルーム状の半室内にされていたことでした。

このことは映画「タイタニック」をご覧になった方は覚えておられるでしょう。主演のレオナルド・ディカプリオが、映画ではローズ役だったケイト・ウィンスレッドの母親と初めて対峙する場面がこのサンルーム内のプロムナードデッキ上でした。

これは北大西洋の強風や波しぶきから乗客を守るためでしたが、この結果としてタイタニック号はオリンピック号よりも少々すっきりとしたスマートな印象になり、外観上で2つの姉妹船を判断する決定的な要素となりました。

このほかにも、オリンピックではBデッキ(オリンピック級では最上階のAデッキから最低部のEデッキまでのデッキがあった)の窓際全体にもプロムナードデッキが設けられていましたが、タイタニックでこれが廃止され、代わりに窓際全体に一等船室が新たに設けられ、この結果、一等船室の数がオリンピックに比べ大幅に増加しました。

映画の「タイタニック」では、ローズとその婚約者の豪華な居住船室が映し出されていましたが、これはここに増設された一等船室のうちの2部屋あったスイートルームのひとつです。

このほかにも、外観上からはその違いがわかりませんが、タイタニックでは、船体後部に豪華絢爛な一等船客専用レストラン、「アラカルト」が設けられており、オリンピックにはこの部分にはレストランはありません。

こうした違いから、当初両姉妹船の総トン数は同じになるはずでしたが、とくに一等客室の数が増えたために最終的にタイタニックはオリンピックの総トン数45324トンよりも1004総トン大きい46328トンになりました。

従って、厳密な意味で言えば、タイタニックはオリンピックの規模を超えており、またオリンピックには存在しないスイートルームの増設など、当時世界最大で豪華な設備を有した客船であったことになります。しかし、陰に隠れていたタイタニックの知名度が上がるのは皮肉なことにその沈没によってのことでした。

ブリタニック

一方、タイタニックよりも更に後に建造されたブリタニックはタイタニックの沈没によりその悲劇を繰り返してはならないと、安全面が大きく見直され、その再設計のため大幅に造船が遅れました。その結果としてタイタニックが沈没した1912年からおよそ3年後の1915年に就航しています。

建造が遅れた理由のもうひとつは、建造ドックが二つしかなかったためでもあります

この二つのドックでは、オリンピックとタイタニックの建造が先に行われ、1908年に一番船オリンピックの建造が始まり、その1年後の1909年には二番船タイタニックの造船が開始され、そしてオリンピックが進水した1911年になってようやくドックが空いたため、三番船のブリタニックの造船が開始されました。

前述のオリンピックとタイタニックとの違いでも述べたとおり、構造的にはこの二つには大きな相違はなく、これはブリタニックも同様であり、これら三姉妹の最初の基本的な図面は全く同じでした。

しかし、実際先立って乗客を乗せて航海を始めた一番船オリンピックの問題面や改善点を受け、二番船であるタイタニックは若干の仕様が変更されたように、ブリタニックでも運営上の理由から同様の変更が加えられました。

しかもブリタニックでは、タイタニックの沈没を受けて、構造的には大幅な設計変更が加えられることになりました。底部のみだった2重船底を側面まで延長し、さらにはタイタニックではEデッキにしかなかった防水隔壁をBデッキまでかさ上げする処置がとられました。

また、最上部のボート甲板、船尾楼甲板にはクレーン式のボートつり柱の取り付けが行われ、3等船客用の遊歩甲板は標準型救命ボート12隻で埋め尽くされました。

これは、タイタニックの沈没の際、救命ボートが足らず、これが原因で多くの人が海上に投げ出されて死亡する原因となったことを受けての処置でした。

タイタニックの沈没当時、イギリス商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要がなく、このためタイタニックには乗員乗客合わせて2200人以上もの人が乗っていたのにもかかわらず、1178人分のボートしかありませんでした。

このようにタイタニックに少ない数のボートしか搭載されていなかった理由としては、タイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船「リパブリック号」沈没事故も影響していたといわれています。

リパブリック号沈没事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方がこの当時は支配的になっていたのです。

しかし、タイタニックの教訓からブリタニックではこのように多数のボートが搭載されることとなり、しかもクレーンによって短時間で多数のボートを下ろすことが出来るよう改良されていました。

さらに、ホワイト・スター・ライン社はこの新型船の船長の選定にもかなりの気を配りました。

タイタニックの船長であった、エドワード・ジョン・スミスはこの当時、世界で最も経験豊かな船長の一人という名声を築き上げており、このためこの当時世界最大の船であったオリンピック級客船のネームシップでもある、オリンピックの最初の船長としてもその就任を請われることになりました。

その処女航海は、リバプールからニューヨークに向けて行われ、1911年6月に無事終了しましたが、ニューヨーク港に接岸する際、オリンピックは12隻のタグボートのうち1隻を右舷スクリューが発生させた後流によって衝突させてしまいました。タグボートは反転し、巨大なオリンピックの船体に衝突しましたが、この時は大きな事故にはなりませんでした。

ところが、この三か月後の9月、スミス船長が操船するオリンピックは初めて大きな事故を起こします。イギリス海軍の防護巡洋艦ホークと衝突し、この事故でホークは船首を破損し、オリンピックもまた防水区画のうち2つが破壊され、プロペラシャフト1つが折れ曲がりました。

しかし、このとき、オリンピックは幸いにも自力でサウサンプトン港に戻ることができました。

このように、オリンピック、タイタニックの船長を務めたエドワード・ジョン・スミスは、船長としての経験は長かったものの、巨大船に充分慣れていなかったといわれており、ホワイト・スター・ライン社としても、タイタニックの沈没によってそのことを遅まきながら認識したのでした。

このため、ブリタニアの就航にあたっては、当時オリンピック級に匹敵する巨大船、ルシタニア・モーリタニア・アキタニアといった船を保有していたキュナード・ライン社から、こうした大きな船の扱いに熟練したチャールズ・バートレットを引き抜き、彼の指導のもとにブリタニックの艤装工事を完成させました。

そして、ブリタニックが進水すると、そのまま彼を横滑りで船長に就任させました。

このとき、タイタニック沈没以前に内定していた船名ガイガンティック(Gigantic)をブリタニックと改名していますが、実はこのブリタニックという名前の船には先代がありました。

同じくホワイト・スター・ライン社が1874年に建造した客船であり、蒸気船でしたが補助用の帆も備え付けられていたため、快速を誇り、1876年にブルーリボン賞を受賞、その後も30年もの長きに渡って客船として活躍しました。

この船も進水直前に当初の船名「ヘレニック」から「ブリタニック」と改名されており、過去に同社が保有した数々の船の中でも特に優れた船として名を残していることから、どうやらこの二代目の名称変更もそのゲンを担ごうとしたのでしょう。

こうして1914年に進水式を迎えたブリタニックですが、ちょうどこの年に第一次世界大戦が勃発しており、その就航は翌年の1915年に延ばされました。しかし、竣工直後の1915年12月、イギリス海軍省の命により病院船として徴用されることになりました。

このとき、ブリタニックの黒い船体は純白に塗りかえられ、船体には緑のラインと赤十字が描かれることとなりました。

ちなみに、この時、姉妹船のオリンピックもまた軍に徴用され、軍事物質輸送船として戦場に狩り出されており、この船もまた船体に迷彩色が加えられるなどその外見に手が加えられています。

こうして、1916年11月12日14時23分、ブリタニックはギリシアのレムノス島へ向けてサウサンプトンから出航ました。この航海は、ブリタニックにとっては地中海での6度目の航海であり、その航路は馴染のものでもありました。

11月15日夜中にジブラルタル海峡を通過し、11月17日朝には石炭と水の補給のため、イタリアのナポリに到着。しかし、折悪しく嵐が発生しており、このためブリタニックは19日午後までナポリに滞在していました。

が、その後一時的に天候が回復したため、ブリタニックは出航します。心配されていたように、出航後すぐに再び海は荒れ始めましたが、翌朝には嵐は収まり、ブリタニックは、イタリア最南部にあるシチリア島とイタリア本土との間にあるメッシーナ海峡付近を無事に通過しました。

ところが、翌21日の朝、ギリシャ南部の島々のひとつ、ケア島付近にあるケア海峡に入ったところ、突如ブリタニックの船底付近で大きな爆発が生じました。

のちにこれはドイツ軍が敷設した機雷に触雷したためとわかりましたが、このとき、船長チャールズ・バートレットはエンジンを停止し、防水扉を閉じるよう命じました。ところが、なぜか浸水は止まらず、船体はどんどん傾いでいきます。

しかたなくエンジンを再起動してケア島に乗り上げようとその方向に向かおうとしましたが、船体への浸水の勢いは止まらず、たったの50分ほどで沈没することとなりました。

こうしてタイタニックの沈没を教訓として厳重に施された防水対策は何の効果も果たさず、ブリタニックは、ケア海峡付近の海面下120m下に永遠に沈むことになったのでした。

氷山に衝突して沈没したタイタニックは、防水壁の改良などが行われたブリタニックよりも長く浮き続け、2時間40分ほども持ちこたえましたが、このブリタニックの沈没までの時間はその3分の1にも満たないものでした。

しかし、この沈没では死傷者は少なく、死者の21名の大半は、船尾が持ち上がり始めた際にスクリューに巻き込まれた2隻のボートに乗っていた人員でした。

この2隻のボートの唯一の生存者は、タイタニックでも女性客室係を務めていたヴァイオレット・ジェソップという女性でした。このとき彼女は救急看護隊として、たまたまブリタニックに乗船していたもので、この事故のときも看護婦の制服を着ていたといいます。

救命ボートがブリタニックの巨大なスクリューに破壊され始めたとき、幸運なことに彼女はちょうどボートの下に潜りこむ位置にいたため、頭蓋骨折の重傷を負いながらも生き延びることができたのでした。

この2隻のボート以外でブリタニックに乗船していた人たちは、沈没までの時間が少なかったにもかかわらず、タイタニック以降増やされた救命ボートのおかげで、ほとんど救助されています。沈没した場所がギリシャ南部の地中海であり、海水温もそれほど低くなかったことも犠牲者が少なかった理由でした。

オリンピック

一方のオリンピックは、タイタニックの沈没後、未だブリタニックの造船も進んでいない当時、一船体制で大西洋を駆け巡っていました。タイタニックの沈没を受けて、ホワイト・スター・ライン社はオリンピックの船体側面を二重構造化し、救命ボートの数を倍以上に増やすなどの措置を施し、タイタニックの沈没後の乗客の信頼を取り戻すのに必死でした。

就航当時は、タイタニック同様、世界で最も巨大な船であり、それゆえに“絶対に沈没しない”という不沈伝説まで生まれましたが、タイタニックの沈没によってその伝説も海の底に沈んでしまっていました。

前述したとおり、オリンピック自身も、その処女航海で船長を務めたエドワード・ジョン・スミスの不慣れな操船から、タグボートを巻き込みそうになったり、イギリス海軍のエドガー級防護巡洋艦「ホーク」と衝突事故を起したりと、その先行きはタイタニックの悲劇を暗示しているかのようでした。

実は、タイタニックが沈没したとき、このオリンピックもタイタニックからのSOSを受信し救難に向かった船の一隻であったというのは、あまり知られていない事実です。

しかし、このとき、両船は800kmも離れており、沈没現場に到着したのは先に到着したカルパチアが遭難者を救助した後であり、姉妹船を助けることはついにできませんでした。

その後、1914年に勃発した第一次世界大戦において、その当初オリンピックは軍からの徴用を免れていました。ところが、1914年10月、アイルランド北方でイギリスの戦艦オーディシャスがドイツ軍が敷設した機雷に触雷したため、軍からこの曳航を要請されることとなり、初めて軍務につくことになりました。

このとき、既にブリタニアは病院船として軍に徴用されており、オリンピックもまた戦争から逃げることはできなかったのです。

このオーディシャス号の救助ですが、その現場にオリンピックは駆けつけ、牽引ロープを取り付けて曳航を始めたものの、直後の荒天のためにこの曳航綱が切れ、結局、オーディシャスは沈没してしまいました。

この翌年の1915年9月には、オリンピックはイギリス海軍省の命を受け、正式に軍用輸送船として徴用されることになりました。

こうして12ポンド砲と4.7インチ機関銃を取り付け、1915年9月24日に「輸送船2410」と軍艦らしい名前を付けられたオリンピックは、リバプールからトルコ西北部に位置するガリポリに向けて部隊を輸送する任務につき、その後も主に東地中海を中心として輸送任務を続けることになりました。

そんな中、病院船としての徴用を命じられていた姉妹船のブリタニックが、1916年11月にドイツ軍の機雷に触れて沈没してしまいます。このころオリンピックは、カナダ政府の要請に答え、北米カナダ東岸のハリファクスからイギリスへの部隊輸送を行っていました。

ブリタニックの沈没の報に接したことから、1917年からは更に軍備を増強することになり、それまでの装備に加えて6インチ機関銃が装備されるとともに、船体には迷彩塗装が施されました。また、この年にアメリカが参戦すると、オリンピックにはカナダに加えてアメリカからもイギリスへの大量の部隊輸送を行うことが命じられました。

こうして黙々と北米とイギリスの間を往復しながら多くの兵士を運んでいたオリンピックですが、1918年の5月2日、オリンピックは、突如ドイツ潜水艦Uボートから雷撃を受けました。

ドイツ語の「U-Boot(ウーボート)」は「Unterseeboot(ウンターゼーボート、水の下の船)」の略語であり、潜水艦を意味します。第一次世界大戦勃発当時、イギリス海軍の装甲巡洋艦3隻を立て続けに撃沈したのを皮切りに、その後もイギリス戦艦「トライアンフ」と「マジェスティック」を撃沈しており、Uボートの勇名は世界に轟いていました。

これらの戦果に自信を付けたドイツ海軍は、イギリス周辺の海域を交戦海域に指定し、イギリスに向かう商船に対する無制限潜水艦作戦を開始していたのでした。

このときオリンピックを攻撃したのはU-103というコードネームを持ち、この船もまた5回の任務をこなし、8隻の船舶を撃沈した実績を持っていました。

一方のオリンピックのこの時の船長は、バートラム・フォックス・ヘイズという人物で、ホワイト・スター・ライン社の先任船長を長らく勤めた民間人でした。

しかし、のちにイギリス海軍の志願予備員にも登録していることなどからもわかるように、かなり勇猛な男だったようで、このとき、ヘイズ船長はこともあろうに、この巨大船を用いてUボートに反撃を加えようとしました。

Uボートは魚雷を発射してオリンピックを仕留めようとしましたが、この雷撃を回避したオリンピックは、その高速を生かして回頭してUボートの側面につけ、衝角攻撃を試みました。

オリンピックの最大速力は21ノットであり、これに対してUボートの速度は、浮上時でも17ノット程度、潜航時には9ノットにすぎません。

このとき、Uボートは魚雷発射のために半潜航状態であり、速力を出してオリンピックを回避することができなかったのでしょう。このため、このオリンピックの反撃は功を奏し、巨大な船体を体当たりさせて乗り上げたため、U-103はその船体を真っ二つに破断されて沈没しました。

第一次世界大戦中において、商船が軍艦を撃沈したのはこの事例が唯一のことだったそうです。

輸送船が戦闘艦に反撃を加えるというも無謀なこの行為にはこの当時批判もあったといいますが、艦長のヘイズは、この戦績により、アメリカ政府から殊勲十字勲章を授与されています。

その後、第一次世界大戦を通して、オリンピックは34万7千トンもの石炭を消費して、12万人の兵員を輸送し、18万4千マイルを走り、無事に終戦を迎えました。

戦後は再び、客船として就役し、その後20年近く現役の客船として栄光を保ち続け、500回もの大西洋横断をこなし、晩年には「Old Reliable」という愛称で親しまれ、1935年に引退しました。

このオールド・リライアブルという愛称は、「頼もしいおばあちゃん」というような意味合いでしょうが、私はこれを「肝っ玉バアさん」と訳したいと思います。Uボートを撃退し、多くの軍務をこなした上に、長年客船としての実績も積んだこの船には、勲章さえもあげたいほどです。

オリンピックは戦後の民間復帰にあたって、点検を受けたそうです。その際、喫水線の下にへこみが見つかったといい、これを詳しく調査をした結果、この痕跡は不発の魚雷が衝突した痕であることが確認されたといい、これがもし爆発していれば、沈没は免れなかったと考えられます。

おそらくは、Uボートと格闘したときに放たれた魚雷だったと思われ、不運に見舞われたタイタニックやブリタニックとは対照的に、オリンピックには守り神がついていたとしか考えられません。

不幸で短命だった姉妹船のタイタニック、ブリタニックとは異なり、24年におよぶ長い就航期間と、「軍艦」としてのその輝かしい活躍ぶりから、その引退は惜しまれましたが、1935年(昭和10年)には現役を退き、解体されることが決まりました。

ところが、豪華な内装を持つこの船を廃棄するのは惜しいという声があがり、その内装の一部はオークションにかけられました。そしてそのダイニングの内装一式は、イギリスの裕福な夫人によって買い取られ、この人物はこれを屋敷で再利用して使用していたといいます。

夫人の死後、その屋敷もまたオークションに出されていましたが、世界有数の船会社であるロイヤル・カリビアン社が落札。かつてのオリンピックのダイニング内装は再び、この会社の保有船である「ミレニアム」という2000年竣工の豪華客船のレストランに使用されることが決定されました。

この船は現在も現役で就航しており、そのレストランは今も「オリンピック・レストラン」という名で呼ばれ、当時のオリンピックのダイニングがそのまま再現されて利用されているといいます。

オリンピックで使われていた食器類も飾られており、タイタニックとほとんど同じ内装であることから、かつて映画「タイタニック」がヒットして以降、今もこのレストランは連日の人気だということです。

80年目の真実

1985年9月1日、海洋地質学者ロバート・バラードの率いるアメリカのウッズホール海洋研究所とフランス海洋探査協会の調査団は、海底3650mに沈没したタイタニックを発見しました。

この時の調査では、海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでおり、4本あった煙突のうちの第3煙突の真下当たりで引き千切れており、これまでも沈没に際しては海上で船体が2つに折れたのではないかという説が主張されていましたが、これが初めて確実に立証されました。

深海に沈んだタイタニックの船首部分にはいまだ手摺が残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っており、また船内にはシャンデリアを始め多くの備品が未だ存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓が未だ割れずに何枚も輝いているそうです。

客室の一室の洗面台に備え付けられていた水差しとコップ、また別の客室の暖炉に置かれていた置時計は沈没時の衝撃に耐え、現在でも沈没前と全く同じ場所に置かれていることなどから、船首部分は海底に叩きつけられたのではなく、船首の先端から滑る様に海底に接地したと考えられています。

しかし、深海では通常バクテリアの活動が弱いために船体の保存状況は良いのではないかと当初いわれていましたが、運悪くこの地点は他の深海に比べ水温が高い為にバクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上でした。

このため、現在のタイタニックはこれらの鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が酸化されており、2100年頃までに自重に耐え切れず崩壊する見込みだといいます。

一方、病院船として徴用されたまま触雷して沈没したブリタニアも、沈没から80年ぶりの1996年にケア海峡で本格的な探査が行われました。

タイタニックより改良を加えたはずの船がなぜ短時間で沈んだのかは、最近まで謎であり、第一次世界大戦後にも英海軍が調査を行いましたが、その原因については結論がでていませんでした。

沈没当時のチャールズ・バートレット船長は、Uボートの魚雷によるものと考えていたといいますが、戦後のドイツ側の調査で、ブリタニックが触雷する3週間前にUボートの一隻である、U-73がケア海峡に12個の機雷を敷設したという記録が発見されました。

そして、このときのUボート艦長であったグスタフ・ジースもまた戦後にこれが事実であったことを証言しています。

しかし、それにしても厳重な防水対策を施した巨船がたった一発の機雷だけで沈没するとは考えにくく、何等かの別の要因があったのではないかと専門家たちは首をかしげていました。

この時の調査では、120メートルの海底に沈むブリタニアの船体内部に潜水士が入り、機関室やボイラー室なども詳しい調査が行われ、その結果、閉じたはずの防水扉が何箇所か開いていることがわかりました。

ブリタニックの就航当時、敵潜水艦が出没する海域では防水扉を全て閉じることになっていました。が、それでは日々の運行上、不便極まりないため、万一のときには扉の横にある手動レバーで閉じればいいという理由がつけられ、一部の防水扉は開けっぱなしになっていたといいます。

しかし、その他の大部分の防水扉は電動で開閉できるようになっており、これは被雷時には閉まっていたはずでした。ところが、調査によればこれらの自動扉も一部が解放されていました。このため、触雷したときのショックかなにかで電気系統が故障し、開いたままになってしまったのではないかと推定されました。

さらには、規則により全て閉じられていたはずの舷窓が多数開いていたことも分かりました。

ブリタニック号はもともと北大西洋航路用の船であり、冷房はありませんでした。このため、温暖な地中海航路では、ボイラー室の真上にあり、海面にも程近い底部のEデッキなどでは相当蒸し暑かったに違いなく、これはそのために乗員たちが規則違反であることを知りながら、多数の窓を開いていたものと推定されました。

このほか、船腹の鋼鉄を留めているリベットの当時の施工技術にも問題があったのではないかといわれていました。

これを裏付けるように、ボイラーを守っていた2重の外板のうちの一部の鋼板が内側から外へ向かってめくり上がっているのもみつかりました。

これはブリタニアの建造にあたり、現在ではまず使われることのない燃鉄製などの低い品質のリベットが使用されていたこともあり、爆発の衝撃でこれが抜け落ち、結果としてこうした部分から大量の海水の浸水を許す結果となったものとわかりました。

ブリタニアの沈没原因としては長年、その石炭庫で粉塵爆発があったのではないかということも取りざたされていましたが、結局、調査の結果、船体にはそうした痕跡もみとめられませんでした。

これらの結果、ブリタニックは、触雷時にあちこちの扉や船腹に穴が空いたザルのような状態にあったことがわかり、これにより多量の海水が船内に流れ込み、沈没を早めてしまったのだろうと推測されました。

このほかにも、沈没地点の南の海底域に、機雷の基部と思われる物体や本体の破片がソナーで確認され、敷設海域がドイツ側の記録と一致したことから、この沈没はバートレット船長が主張したような魚雷ではなく機雷が起因となったことも明白になりました。

こうして、タイタニックの教訓により大きな改良が施されながらも、その機能が十分に発揮されなかったブリタニアが短時間で沈没した原因は突き止められ、オリンピック級として造られた三姉妹のすべての最後が明らかになりました。

それにしても三隻のうち、沈没を免れ、戦後まで長く生きぬいたのは最後に建造され、数々の改良が加えられたブリタニアではなく、最初に建造されたオリンピックだけであったというのは皮肉なものです。

タイタニックよ永遠に

2013年の今年、オーストラリアの資産家によりタイタニック号のレプリカのタイタニック2号の建造計画が公表されました。タイタニック2号(Titanic II)と言う名称になる予定だといい、これは、沈没したタイタニックのレプリカとして考案・計画されている遠洋定期船です。

この建造プロジェクトは、2012年4月に、オーストラリアの資産家であるクライブ・パーマー氏によって発表されたもので、タイタニック2号は、パーマー氏が所有するクルーズ会社のフラッグシップ客船として位置付けられることも決定されました。

この会社名は、その名も「ブルー・スター・ライン」というそうで、無論、かつての「ホワイト・スター・ライン」を文字ったものでしょう。

設計については、フィンランドのデルタマリン社が担当し、中国の国営造船会社である長江航運集団金陵造船所が建造を請け負うことで、同年に契約締結がなされました。処女航海は、タイタニック号が沈没してから104年後にあたる2016年で、サウサンプトンからニューヨーク間のルートを予定しているといいます。

既にオリンピック級の三姉妹の豪華客船はこの世から姿を消していますが、レプリカとはいえ、我々がまだ生きているうちに再びまたその雄姿を見ることができるということで、船好きの私としてはワクワクしてしまいます。

一方、海底に沈み、朽ちゆくタイタニックは、現在もバクテリアに蝕まれ、徐々にその姿を消していっています。

しかし、最初の発見後には、度々潜水探査船による調査が行われており、特に映画「タイタニック」の製作時には、キャメロン監督によって2台の潜水調査船やリモートコントロール探査機が使用され、詳細な画像が収録されており、このときの記録は永久に残されていくでしょう。

ただ、その一方で、無断で海底の遺品を収拾する行為も広く行われているといい、一部の遺品は利益目的に販売されていることなども発覚しており、非難を集めています。

このため、2004年6月、タイタニックを発見した海洋地質学者ロバート・バラードとNOAAはタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行い、その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまりました。

そして、同年6月18日、アメリカ合衆国がこの条約に正式に署名しました。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることを内容としています。

タイタニックよ永遠にあれ、は現実的には難しそうです。が、だとしても、違法な収集による遺物の散逸を防ぎ、その一方では合法的に遺品を回収して、少しでもその当時の美しい姿を後世に残していってほしいものです。

さて、今日はお気に入りのテーマでもあり、いつもにもまして更に長くなってしまいました。終りにしたいと思います。

斬!


先日、昼寝起きに、ぼんやりとテレビを見ていたら、NHKで過去の大河ドラマのテーマ音楽集を流していました。

あぁこれは懐かしい、とついつい見とれてしまいましたが、惜しむらくは、各テーマとも短くカットされていて、全部を聞くことができないのが残念でした。

しかし、何十年ぶりかに聞いた曲もあり、例えば、その昔大好きだった「国取り物語」などは、ぁーこんな曲だったかな、と今聞くと、かなり記憶とは違った印象であったのには少々驚きました。

改めて時の流れというものは、記憶を曖昧にするものだと気付いたわけなのですが、これが魂レベルになると、何世代も前の前世の記憶が薄いというのも、なんとなくわかるような気がします。

ところで、この番組ではテーマ音楽とともに出演者や製作関係者などのキャストの字幕などもそのまま流れており、今はもう亡くなってしまった有名な俳優さんなどの名前も軒並み出てきました。

例えば、国取り物語では、斎藤道三の愛人のお万阿役をやった池内淳子さんとか(2010年に76歳で死去)、2009年に80歳で没した、金田龍之介さん(道三に国を盗られる土岐頼芸役)、羽柴秀吉の夫人の寧々役の太地喜和子さん(1992年、48歳で事故死)、足利義昭役の伊丹十三さん(1997年64歳没。自殺といわれている)、などなどです。

また、このころはまだ新進気鋭の役者さんたちも多数出演しており、中でも、徳川家康役を寺尾聡さんが演じており、羽柴秀吉役は火野正平さんがやっていたりしていて、改めてこの番組の豪華キャストぶりに目を見張る気がしました。

この国取り物語もそうなのですが、NHKの大河ドラマのオープニングではNHK交響楽団の演奏によるテーマ音楽をバックに出演者などのキャストが文字で紹介されるのが恒例です。このオープニング映像もなかなか毎年趣向が凝らされていて、かなり昔のものであってもそのデザイン性は秀逸です。

この字幕で紹介されるキャストの中には、出演者は無論のこと、演出や舞台装置、撮影や協力者といった人達も含まれており、このほか、「殺陣」というのもあります。そして、この殺陣の担当者として毎年の大河ドラマのオープニングで常連のように名前が現れるのが、「林邦史朗」という人です。

もともとは役者志望だったそうで、都立の向島工業高等学校卒業後に劇団ひまわりに入団し、そのとき講師に来ていた殺陣師の「大内竜生」の影響を受けました。すぐに劇団ひまわりを退団して大内氏の運営していた大内剣友会の門下生となったそうで、このことがその後の殺陣師人生の皮切りでした。

ここで殺陣の技能をマスターしていった林さんは、その後数々のドラマに切られ役とし出演していました。ところが、あるとき、とある番組のディレクターに「斬られ役ばかりやっていると、そういう根性が染み付いて役者として、見てもらえなくなるぞ」というアドバイスを受けます。

これにショックを受けた林さんは、やがて大内剣友会を去り、フリーになりました。

そしてフリーで仕事をしていくうちにNHKのプロデューサー・広江均から「今までの、歌舞伎のような舞踊めいた立ち廻りではなく、リアルな殺陣を林に付けてほしい」との依頼があり、その要望に応えるために1963年、日本初のスタントマングループ「若駒冒険グループ」(現・若駒)を創設します。

その後1965年、大河ドラマ「太閤記」のオープニングから殺陣師として林の名前が初めてクレジットされるようになり、以後、NHKの大河ドラマは無論のこと、多数の民放番組や映画、舞台などで殺陣を振り付けていきました。と同時に数多くの弟子を育て、過去に殺陣を教えた役者は100人以上にのぼり、現在でも80人以上の弟子がいるといいます。

また、大河ドラマの幾つかの作品では殺陣指導だけでなく、自らもゲスト出演することがあり、とくに「竜馬がゆく」「花神」「翔ぶが如く」などの幕末を題材にした司馬遼太郎原作の大河ドラマでは3度にわたり坂本竜馬を暗殺する刺客を演じたそうです。そういえば、私もその昔よく見ていた「花神」で、彼の雄姿を見たような記憶があります。

林さんが20代で殺陣師となった当時、「殺陣師なら本当の武術を学ぼう」との思いから、全国各地の武術家に入門し、柳生新陰流などの剣術の各流派、柔術や琉球古武術、合気道などの日本の武術全般の修行を重ねたそうです。そして、彼はこれらの修行を通じて「強くなることより、自分に勝つことの大切さを学んだ」と語っています。

しかし、殺陣師は、剣術や武術に長けている者だけが就ける仕事だと誤解をされている面がありますが、実際には殺陣師で武術を修めている者は少ないそうで、しかも自分の道場まで持って弟子を育てている殺陣師は、現在でも林さんを含め2人しかいないそうです。

こうした林さんの道場では独自の段位を定め、10年程度で一人前の殺陣師となれるように弟子達に指導を行っているといいます。

ところで、この殺陣は、「たて」と読みますが、もとはそのまま「さつじん」」と呼んでいたようです。かつて、歌舞伎よりもリアルな立ち回りを多用した時代物で一世を風靡した、「新国劇」の座長で、沢田正二郎という人が、ある公演の演目を決める際に冗談で「殺人」という名前にしてほしいと、座付きの作家に相談したそうです。

ところがこの演劇作家さんは、「殺人」というのはさすがに穏やかでないので、「陣」という字を当てることを提案したといい、これが「殺陣」の語源となりました。

この演目は1921年(大正10年)に初めて演じられましたが、このときの読みは「さつじん」でした。その後、この沢田正二郎座長が亡くなり、その七回忌記念公演が1936年(昭和11年)に行われたときから、「殺陣」の読みとして「たて」が使われるようになったということです。

「たて」のもともとの語源としては、目立つようにする、引き立てるという意味の「立てる」ではなかったかという意見や、いやそうではない、「太刀打ち」の太刀が変化したのだという説もあり、さまざまです。が、歌舞伎でも「立ち回り」という言葉があり、これを略した「立ち」が変化したのではないか、という説が有力だそうです。

本来この意味を表すのは、「擬闘」ですが、「ぎとう」では何のことかわからないので「たち」または「たて」と呼ぶようになり、この沢田氏の記念公演以降、「殺陣」と書くようになって、その読み方も「たて」ということで定着していったようです。

その定義はといえば、舞台、映画、テレビドラマなどで披露される、「俳優の肉体または武器を用いた格闘場面ならびに、それにまつわる動作」ということになるでしょうか。ただ、一般的には時代劇において日本刀や槍などの武器を用いた剣戟(けんげき)を指すことが多いようで、広義には、現代劇も含めた格闘場面全般を指すこともあるようです。

この振り付けや指導を行う人を殺陣師(たてし)と呼び、ときには擬闘スタッフなどと難しい呼び方もすることもあるようですが、ハリウッド映画などでは、「アクションスーパーバイザー」などがこれに相当するようです。

それにしても殺陣とはいかにもおどろおどろしい名称です。しかしあくまでも「演技」にすぎず、このため、本当に当たっている、あるいは当てられている「ように見せる」ことが肝要であり、実際には怪我をしない、させない配慮が不可欠です。

これを怠ると殺陣の場面を軸とした作品全体の評価の低下を招いたり、傷害及び死亡事故に発展する場合もあり、そうした意味でも高い技術が必要とされ、であるからこそ、NHKの大河ドラマなどでも、林邦史朗さんのような実力も実績もある人を長年抜擢し続けているのでしょう。

実際、過去には殺陣がうまくいかなかったための事故も起きており、1989年(平成元年)公開の勝新太郎の監督・主演映画「座頭市」の撮影中、俳優が振り回した真剣が殺陣師の首に刺さり死亡する事故が起きました。

これにより、以後は、同じような事故を防止する目的から、日本俳優連合に「殺陣対策委員会」(後のアクション部会)が設立され、この委員会が撮影現場での安全対策や傷害保険加入などの問題解決を図るようになりました。

また、この委員会の肝いりにより、2005年には、「アクションライセンス制度」が設立され、現在では俳優の殺陣技能は段位制になっているそうで、段位の低い役者は難しい殺陣はできないきまりになっているということです。

ところで、多少飛躍するかもしれませんが、こうした実際の演劇にまで使われる「日本刀」というものはいったいどういったものなんだろう、と改めて興味が沸いたので、調べてみることにしました。

そもそも、「日本刀」という呼称が正式にあるのか、ということから調べてみたのですが、すると、平安時代以前の古い時代には「刀(かたな)」、もしくは「剣(つるぎ)」と呼び、「日本刀」という呼称は使われていなかったそうです。

「日本刀」という呼称は、中国の北宋の時代(960~1127年)の政治家で、詩人だった欧陽脩(おうようしゅう)という人が、「日本刀歌」という詩の中でこれを使ったのが最も古い記述だといい、この詩の中では、越(華南)の商人が当時既に宝刀と呼ばれていた日本刀を日本まで買い付けに行く、といったことが描かれているそうです。

この日本刀の姿かたちの美しさなどの美術的な観点もまたこの詩の中で歌われているといい、従って「日本刀」という言葉が定着しはじめたのは、このころからのことのようであり、この当時既にその美しさが海外の好事家などにも認められ、日本の重要な輸出品の1つになっていたのでしょう。

この北宋の時代というのは、日本では、794~1185(もしくは1192年内外)の平安時代とギャップしています。しかし、中国ではそう呼ばれていたものの、日本国内ではこのころまだその呼称は「刀」、もしくは「剣」であり、「日本刀」という名称は一般的に使われていません。これが一般的名称として広まったのは幕末以降のことだそうです。

「刀」、「剣」以外にも「打刀(うちがたな)」や「太刀(たち)」といった呼び方もありますが、実はこれは「刀を」更に小分類する呼び方です。これについては後述します。

以上のことから、平安時代より以前の例えば古墳時代などに製作されていたものを日本刀と呼べるかというとそうではないことがわかります。また、一般に日本刀と呼ばれるものは、平安時代末期に出現してそれ以降主流となった「反り」があり片刃の刀剣のことを指すようです。

その美しい反りと、日本固有の鍛冶製法によって作られた荘厳ともいえるような表情ゆえに、中国でも美術品として扱われたものであり、平安時代以前の直刀や両刃の鉄剣もしくは青銅製の剣などは、一般的には日本刀とは呼びません。

従って、日本刀は、武器としての役割を持つと共に、美術品としても評価の高いその美しい姿を持つものを指します。そして、その象徴的な美により、平安の昔から続く血統では権威の証としても尊ばれました。また、のちの、鎌倉時代以降の武家政権を背景とする時代に至っては、「武士の魂」として精神文化の支柱ともされるようになりました。

その大きな特徴をあげると、「折り返し鍛錬法」で鍛え上げられた鋼を素材とするという点と、刀身と茎(なかご、中心。刀身の柄に被われる部分)が一体となった構造であるということです。

茎は、いわゆる「柄」の部分に相当する部位であり、「砥ぎ」の対象にはなりません。なかごには、刀身を目釘で柄に固定する目的で、孔(目釘孔)が設けられていますが、奉納用の刀などで目釘孔がないものもあります。

諸外国の刀剣類と根本的に異なるのは、外国の剣などでは鞘などの外装(日本では拵え(こしらえ)という)なども珍重されますが、日本では、刀身自体が最大の美術的価値を持っている点が特徴です。

著名な日本刀としては、国宝の「大包平(おおかねひら)」を初めとして、妖刀「村正」、「雷切」などのほか、豊臣秀吉の愛刀の「一期一振」、佐々木小次郎の愛刀「備前長船長光」などがあります。

このほかにも、「天下五剣」と称される5つの名刀があり、これは同じく国宝「童子切」、「三日月宗近」、「大典太」の三点と、重要文化財の「数珠丸」、および御物「鬼丸国綱」です。

……と書いたところで、文章ではその美しさはなかなか伝わってきません。

では、貨幣価値にすれば多少はその良し悪しが分かるだろうということで調べてみたところ、例えば国宝の「大包平」は、江戸時代に岡山藩主の池田家に代々伝わっていたもので、1967年(昭和42年)に文部省(当時)がこれを池田家から6500万円で買い上げており、現在であれば、優に億を超える値段がつくでしょう。

この「大包平」は現在も東京国立博物館に収蔵されていて、時々公開されているそうなので、実際に目で見てその価値を確かめてみたいという方は東京までお越しください。

また、豊臣秀吉の愛刀の「一期一振」は、尾張藩主・徳川茂徳より孝明天皇に献上され、以後、皇室に伝えられて皇室御物となっているほか、その他の名刀も徳川幕府所蔵の品々であるなど、いずれもその価値は莫大なものと考えられます。

国宝の「童子切」は、平安時代の伯耆国の名刀工・安綱作の作品であり、また「三日月宗近」、「大典太」なども平安時代後期から伝えられているもので、これらの名作には平安時代に造られたものが多く、かなり大きな「反り」があるのが特徴です。

平安時代後期からこうした刀が作られるようになった背景には、ちょうどこのころから武家の勢力が増大してきたことがあげられ、このころ戦は馬上決戦を中心に考えられていたため、振り回しやすいように反りを持たせた片刃の太刀が発達したものです。

その生産地としては、良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域(現・鳥取県米子市と島根県安来市一帯)や備前国(現・岡山県南部)と、政治文化の中心である山城国・大和国(現・京都~奈良)などが有名であり、これらの地に刀工の各流派が現れました。

そもそも、日本刀は、寸法により刀(太刀・打刀)と、脇差(脇指)、短刀に分類されますが、広義には、長巻、薙刀、剣、槍なども含まれます。

室町時代中期以降、日本刀は刃を下向きにして腰に佩(は)く「太刀」から、刃を上向きにして腰に差す「打刀(うちがたな)」に変わってきますが、この平安時代にはまだ下向きの「太刀」が主流でした。

なお、太刀・打刀とも、身に付けた時に外側になる面が刀身の「表」だそうで、その面に刀工銘を切るのが普通だといいます。したがって、銘を切る位置によって太刀と打刀の区別がつく場合が多いそうです(ただし、ときには裏に銘に切る刀工もいるとか)。

その後時代が下って、鎌倉時代になっても日本刀の姿は平安時代末期とあまりかわらない姿をしていましたが、鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、「刀剣界」といえるほどの創作集団が確立されるようになっていきます。

後鳥羽上皇は「御番鍛冶」を設置し、月ごとに刀工を召して鍛刀させ、上皇自らも焼刃を施したといわれ、積極的に作刀を奨励しました。また、鎌倉幕府では、作刀研究推進のため、各地から名工を招聘しており、これらは主に山城国や備前国からの刀工です。

鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、日本刀も身幅が広く元幅と先幅の差も少なくなり、平肉がよくついたゴツイものに代わってきます。「鋒」と呼ばれる背の部分も幅が広くなり、刀身もやや短くなって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がでてきました。また、この頃から太刀ばかりではなく、短刀の制作も活発になってきます。

さらに鎌倉時代末期になると、2度の元寇や政治体制の崩壊などの動乱により、作刀はさらに活気づいていきます。この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をさらに豪快にしたものに変わっていき、身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒幅もさらに増えます。短刀やその他の刀剣も太刀と同じような傾向です。

その後、室町時代(南北朝時代)の刀剣は、大振りなものが多く造られるようになります。またこの時代の太刀の中には、元来長寸の大太刀(刃が下向き)であったものを磨上げてスリムにするとともに長さを調整し、刃が上向きの打刀に造り直されているものが多くなってきました。

天正年間に織田信長などの戦国武将が、秘蔵の太刀を多く磨上させており、これらの中には後世で名刀と言われるものも多いということです。

また、この時代には小太刀も多く造られるようになり、播磨・備前・美作の守護赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した、嘉吉の乱(かきつのらん)などが勃発すると、
室内戦闘用に短い刀が求められるようになり、この時代から「脇差」の製作がさかんに行われるようになりました。

それまでの太刀だけ一本を腰に差すというスタイルから、打刀・脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期です。この時代に作られた備前の2尺3寸(約66cm)前後の打刀や、1尺5寸(約45cm)前後の脇差は非常に姿が良く、のちの江戸時代に大名が美しい拵えを作る参考にするために珍重したといいます。

また、この室町時代には、製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置である、鞴(ふいご)を使った製鉄技術が発達し、ふいごは、別名「たたら(踏鞴)」と呼ばれていたため、こうした製法を「たたら製鉄」と呼ぶようになり、製刀のための鉄を得るための大規模なたたら製鉄場も造られるようになっていきました。

しかし、室町幕府の統制により平和な時代となったため、刀剣の国内需要は一時的に低下しました。とはいえ、このころにも日本刀は明などの諸外国への重要な貿易品として生産されつづけおり、廃れるということはありませんでした。

そして、8代将軍足利義政の継嗣争いなどによって有力守護大名が争い、全国的な内乱となった応仁の乱が勃発し、やがて戦乱の世が始まると、膨大な需要に応えるために再び刀剣製造はさかんになっていきます。

足軽など農民兵用に貸し出す「お貸し刀」と呼ばれる粗悪な刀が大量に出回るようになり、再び刀剣生産が各地で活発に行われるようになりました。

また備前(現岡山県)の長船派(おさふねは)という刀工の流派の鍛えた刀がもてはやされるようになり、この中から多数の名匠が生み出されました。長船派を名乗る刀工だけでもこの当時60名もいたといい、このほかでは、美濃国(現岐阜県)が生産拠点の双璧でした。

この時代、合戦に明け暮れる武将は、己が命運を託する刀剣をこれら諸国の名工に特注することも多く、これら「注文打ち」の中には、のちの世にも名刀として伝えられたものも少なくありません。

やがて、戦国末期になると、南蛮貿易によって鉄砲が伝来します。これによって、合戦の形態や刀剣の姿は急速に変わっていき、鉄砲に対抗するため甲冑が強化されるようになり、このためより強靭な日本刀が求められるようになります。

また、大規模な合戦が増えたため、長時間の戦闘に耐えるべく、従来の片手打ちから両手で柄を握る姿となり、これらのことから身幅が広くて重ね(刀の厚みのこと)も厚いものが増え、また切先も大きいというのがこの時代の日本刀の特徴です。

この姿は豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、これら豪壮な刀はのちの江戸時代の慶長年間にまで引き継がれたことから「慶長新刀」と呼ばれるようになりました。

ところが、安土桃山時代がちょうど終りに近づくころ、長らく名刀工を数多く生み出していた備前の長船一派の製造所が、度重なる吉井川の氾濫で壊滅状態になります。これによって備前鍛冶の伝統は一時休眠状態となり、このため各地の大名は量産体制のある美濃の鍛冶をこぞってお抱え刀工に採用しました。

刀剣史では、江戸初期の慶長年間(徳川家康、秀忠の時代)以降の作刀を「新刀」として、それ以前を「古刀」として区別していますが、この新刀と古刀の区別の違いには、この備前の長船一派の衰退による影響によるところが大きいそうです。

しかも江戸時代に入ってからは、刀を鍛えるために使用する「地鉄(じがね)」の品質も変わってきました。日本刀は折返し鍛錬の結果、刀身の表面に美しい地紋が現われますが、この鉄の肌模様を地肌と称し、その下地となる素地の様子を「地鉄」といいます。

従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われていたのですが、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったのです。

このため、この時代以降の「新刀」と呼ばれるものに使われている地鉄は基本的に「綺麗」だといいます。

また、江戸時代に入り、朱子学の発想に基づく風紀取締りを目的として、武家の大小差し(打刀、脇差)の差し料の寸法、町人などの差し料の寸法などが制定されました。

特に江戸時代に入ってすぐのころは、この寸法設定に伴う武家の大小差しの新規需要が多く、寛永から寛文、延宝にかけて各地の刀鍛冶は繁栄し、これに伴って技術水準も向上しました。一方でこれ以降の幕末までの間、脇差よりもさらに短い短刀の作刀は急激に減りました。

江戸初期には島原の乱などの大規模な内乱も起きましたが、その後は平和な時代が続き、剣術も竹刀稽古中心となった影響で、まっすぐな竹刀に近い、反りが浅くて切先も小さい刀のほうが人気が出るようになりました。

こうした刀が、ちょうど1661年から1672年までの寛文年間ころから流行るようになったことから、この姿を「寛文新刀」と呼び、江戸時代の刀剣の代表的なものといわれています。

一方、商業の中心地となった大坂では、紀州などの近郊から刀工が次第に集まってきており、これらの刀工集団の作は「大坂新刀」と呼ばれ、新刀の中でも特に区別されています。

その特徴は地鉄の美しさであり、しかも地鉄の上の華やかな刃文の美しさは数ある新刀の内でも群を抜くといいます。その背景には大坂の商業力によって優れた刀工が集まったことと、古来より鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨が近かったことがあげられます。

一方、江戸時代では全体的にみれば平和になった分、刀剣の需要は衰退する一方であり、これに対して、刀等の付属品である、鐔(つば)や小柄(こづか)、目貫(めぬき)、笄(こうがい)といった刀装具の装飾が発達しました。

装剣金工の分野では熊本の肥後鐔工のほか、京都の京透かし鐔工、愛知の尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工などが有名であり、多くの金工職人の中から独創的な名品が生まれました。

これら刀装具は各々時代の流行に合わせて変化していきましたが、片や刀装具の繁栄に対して、鍛刀界は反比例するかのように衰退していきました。

幕末動乱期になると、度重なる飢饉、貨幣社会の台頭による商人の肥大化などにより、武家の衰退が顕著となり、また黒船の来航もあって、社会の変革の風を人々は感じ始めます。

この幕末の時期に、出羽国(現秋田・山形)から江戸へ上り、鍛刀技術を磨いた優れた刀工が現れ、これは藤原正秀、または水心子正秀(すいしんしまさひで)という人物でした。

この藤原正秀の鍛えた刀の特徴としては、地鉄がほとんど無地に見えることであり、これは製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったためでもありました。その作風の後期には洋鉄精錬技術も取り入れられてさらに無地風の地鉄が作られるようになり、これらは総称して「新々刀」と区分されています。

正秀の弟子は全国各地へ散り、新々刀期の刀工のうち、正秀の影響を受けていないものは皆無と言って良いほどだそうで、著名な弟子たちは正秀と同様、さらに多くの門人を育てました。

また、幕末には、姿は各国でまちまちですが、総じて身幅が広くて切先を伸ばし、反りの大きい古作の写しものともいわれるようなものも造られました。

実用刀剣の復古、即ち鎌倉時代・南北朝時代の刀剣への復古を唱えた刀工も多くなり、こうした復古運動は、後の勤王思想が盛んになりつつある社会情勢と響きあい、こうした復古主義者たちが各地の鍛冶と交流することが、勤皇思想が全国に広がるきっかけともなりました。

やがて幕末の動乱はピークを迎え、水戸勤皇派による天狗党の乱が起き、大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変が勃発し、諸国でも佐幕派と倒幕派が入り乱れて闘争が行われるようになると、時代環境に合わせてこれまであまり作られることのなかった短刀の需要が増え、また長大な刀を好む武士も増えました。

こうして、日本刀の作刀が再び繁栄を始めたかと思われたところで、時代は一気に明治維新へと突入していきました。新たな刀の需要は殆どなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失い、また、多くの名刀が海外に流出しました。

このため、明治政府は「帝室技芸員」の職を設け、伝統的な作刀技術の保存に努めるとともに、明治6年(1873年)には、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品することなどで、国際社会に日本人の技術と精神を示そうとします。

しかしこの年には、同時に「仇討ち禁止令」が出され、明治9年(1876年)には廃刀令が発布されるともに、大礼服着用者・軍人・警察官以外は帯刀を禁止されたことにより、日本刀の作刀は急速に衰退してしまいました。

一方、新生大日本帝国の国軍として創建された日本軍(陸軍・海軍)は1875年(明治8年)の太政官布告において将校准士官の軍装品として「軍刀」を採用し、またこの軍刀とは別に、正装時に用いる「正剣」を採用しました。

「正剣」のほうはのちに廃止されましたが、軍刀のほうは以後、第二次世界大戦に至るまでの将校准士官の標準装具となりました。しかし、明治初期のその様式は日本刀ではなく、「サーベル」であり、拵え・刀身ともに洋式のものでした。

ところが、その後勃発した西南戦争において、警視隊の中から選抜して臨時に編成された白兵戦部隊である「抜刀隊」が活躍したことなどから、次第に外見はサーベル様式ながらも、中身には日本刀を仕込むことが普通となりました。

さらには日露戦争における白兵戦で、近代戦の武器としての刀剣類の有効性が再評価され、こうした軍刀需要の中で日本刀は復権をとげます。

さらに昭和時代には国粋主義的気運が高まったことと、満州事変や第一次上海事変において日本刀が国威の象徴として使われるといったことなどもあり、陸海軍ともにサーベル様式に代わって、鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、「将校軍刀拵え」が登場しました。これはより江戸時代以前の昔の日本刀の拵えに近いものです。

また、同時期には下士官兵用の官給軍刀でも太刀拵え・日本刀々身が採用され、これは「九五式軍刀」と称されました。しかしこの官給刀はあまり人気がなく、それぞれの家に伝わる個人所有の日本刀のほうが使われることが多かったため、軍刀として出陣した古今の数多くの日本刀の名品が戦地で失われることにもなりました。

大正時代以降では、日本軍における下士官兵(騎兵・輜重兵・憲兵など帯刀本分者)は軍刀を所持するように義務付けられるようになりましたが、こうした軍刀そのものは1875年の太政官布告以降、一貫して「服装」の扱いであり、「兵器」ではなくあくまで軍服などと同じ「軍装品」ともいえるものでした。

しかも、軍刀を含む将校准士官が使用する大半の軍装品は自弁調達が原則であり、たとえ官製のものを購入していても「私物」という規定でした。

こうして多くの古来からの日本刀が戦場に持ち込まれ、戦闘が勃発するたびに失われていきました。が、その喪失の理由は戦闘によるもののみではなく、従来の日本刀は中国や朝鮮といった北方の極寒の中では簡単に折れやすいという性質を持っていたためでした。

このためこうした実用品としての軍刀の強度が問題となり、官製のものに対してはとくに改良の要望があがり、とくに海軍では海上で使うことも多いことから、錆の問題に対しての対処の声が高まっていました。

これに対して、陸海軍の造兵廠(工廠)は帝国大学など各機関の研究者の助力も得ながら、拵えだけでなく刀身においても実戦装備としてさらに優秀な日本刀の可能性を求めるようになり、とくに昭和に入っての満州事変以後はその改良が加速しました。

こうして、官給軍刀の刀身をベースにした陸軍造兵廠の「造兵刀」や、満州産出の鋼を用いた南満州鉄道の「興亜一心刀(満鉄刀)」、北支・北満や北方方面の厳寒に対応した「振武刀」、海軍が主に使用した塩害に強いステンレス鋼使用の「不錆刀」などなど、各種の刀身が研究開発されました。

日本刀の材料・製法を一部変更したものから、日本刀の形態を模した工業刀に至るまで様々な刀身が試作・量産され、「昭和刀」「昭和新刀」「新村田刀」「新日本刀」などと呼称されたものが製作されました。

これら特殊軍刀々身は、近代科学技術の力をもって開発されたものであるため、物によっては従来の日本刀よりも武器としての資質においてはるかに勝るものも数多くあったといいます。

そしてこれらの日本刀は、従来の日本刀に比べて手入れが少なく切れ味が持続するという圧倒的に優れた性能を持ち、安価で惜しげなく使える刀身として重宝されました。

あいかわらず軍刀は私物という規定は変わっていませんでしたが、下士官兵には事実上官給の軍刀の刀身が支給されて実戦投入されるようになり、第二次大戦終戦まで大量に使用されました。

ただし、これらの各特殊軍刀々身は、実用性に於いては究められたものの、刃紋を有しないなど見た目の美的要素は二の次な物が多く、今日では製造方法の上からも、狭義の意味での日本刀の範疇には含まれないことにはなっています。

従ってこれらの工業刀や満鉄刀は日本刀、鑑賞用の美術品としては「所有」登録することもできず、登録が取れなかった場合は銃刀法にも違反するということで切断するしかない、といったケースも多々あるそうです。

しかし、近年では刀剣界では今まで見向きもされなかったこれらの軍刀にも人気が出てきており、同時に研究家や収集家の中では再評価の声が高くなってきています。

昨今の軍刀人気は中国にも飛火し、軍刀を所有することが一種のステータスとなっているそうで、中国人ブローカーが日本国内の軍刀を買い漁るという現象まで起きているそうで、日本の刀剣愛好家の間では、これら中国人バイヤーから軍刀海外流出を防ぐことが今後の課題になっているといいます。

また、このように戦中には大量生産された工業刀を含む日本刀は、太平洋戦争終結後、日本刀を武器であると見なした連合国軍司令部(GHQ)により「刀狩」が行われた結果、数多くの刀が遺棄・散逸の憂き目にあいました。

「刀があるとGHQが金属探知機で探しに来る」との流言まで飛び交ったそうで、土中に隠匿して、その結果刀を朽ちさせて駄目にしてしまったり、回収基準の長さ以下になるように折って小刀としたり、日常生活に使えるよう鍛冶屋に持ち込み鉈や鎌、その他日常用の刃物に改造したりと日本刀の価値をおとしめた例は枚挙にいとまがないそうです。

GHQに没収された刀の多くは赤羽にあった米軍の倉庫に保管され、占領の解除と共に日本政府に返還されましたが、元の所有者が殆ど不明のため、所有権は政府に移り、刀剣愛好家の間でこれらの刀剣は「赤羽刀」と呼ばれています。

一時は日本刀そのものの存続が危ぶまれましたが、日本側の必死の努力により、GHQ支配下でも登録制による所有が可能となりました。この制度は現在までも引き継がれていますが、日本刀自体に登録を義務付ける制度であり、登録がなされていない刀は、警察に届け出た後審査を受ける必要があります。

また、その「所持(携帯、持ち歩き)」に関しては銃刀法による制限を受けます。ただ、自宅に保管し眺めて楽しむだけの「所有」については許可などは必要なく、誰でも保有が可能です。ただし、購入などの際には、登録証記載の各都道府県教育委員会への名義変更届が必要だそうです。

今日、新しく日本刀を作る場合の規定ですが、憲法に武器放棄までうたっている今日では日本刀は「武器ではなく」、居合道・抜刀道といった武道用の道具、絵画や陶器と同格の「美術品」であり、その目的でのみ製作・所有が認められています。

ただし、現代刀に関しては、刀匠1人当たり年に生産してよい本数の割り当てを決めているそうで、これにより粗製濫造による作品の質の低下を防いでいるといいます。

しかしその一方で、作刀需要が少ないため、一部の刀匠を除き多くの刀匠は本業(刀鍛冶)だけでは生活が難しく、かと言って上述の本数制限もあり無銘刀は作刀できず、武道家向けに数を多く安く作って、その分の利ザヤを稼ぐといったこともできません。

このため、他の伝統工芸の職人と同じくその存続の危機の問題を抱えており、こうした状況下でも現代の刀匠たちは、美術品としての日本刀の作刀技術を極め、古来から伝わるもの以上の逸品を創作しようと努力しているのです。

現在でもそこまでして造られる日本刀は、世界の刀剣の中でも美術品としての価値が高く、前述のように、国内の古いものでは国宝、重要文化財、重要美術品に指定されたものもあります。が、新しいものの評価はむしろ海外で高いようです。

日本刀の鑑賞の歴史は千年以上の歴史があり、その評価基準もまた外国人に理解できる形で伝えられるようになっているためであり、新しいものももちろん、千年以上の時を経ても健全な形で残っている名刀などは、これをひと目みようとそれだけで日本にやってくる愛好家も多いということです。

ちなみに、「折れず、曲がらず、よく切れる」といった3つの相反する性質を同時に達成したこの優れた武器としての性能もまた、外国人を魅了するようです。

「折れず、曲がらず」というのは材料工学においては強度と靭性の両立であり、両者の均衡を保つためには極めて高度な技術が必要です。また「よく切れる」と「折れず」の両立も極めて難しいといわれ、とりわけこの日本刀の「切れ味」については、様々なところで語られます。

その昔、放映されていた「トリビアの泉」では、2004年(平成16年)の夏頃、日本刀に向けて拳銃から垂直に弾丸を撃ち込むという乱暴な実験を行ったそうですが、このとき弾丸は両断され、全く刃こぼれしなかったといいます。

また、日本刀に垂直に、水圧の刃ともいわれる「ウォータージェット」を吹き付けたときも、キズ一つ無く通過したといい、同じ条件下では通常の包丁は両断されたといいます。

さらには、日本刀に向けて、重機関銃を使用して一般的な自動小銃弾の10倍以上の質量を持つ対機械車両用の大口径弾を撃ち込んだところ、6発まではこの銃弾を切断したそうです。

ただ、弾丸が当たるにつれ刃こぼれが深くなり、7発目で耐え切れずに折れたそうですが、このとき、安全のため後ろに置かれていたコンクリートの壁はほとんど完全に粉砕されていたといいます。

このように、金属の結晶の理論や相変化の理論が解明されていない時代において、刀工たちが連綿と工夫を重ねた結果が、科学的にも優れた刃物の到達点ともいえる日本刀を生み出したのであり、その工学的な性質については、現在も世界中の科学者によって関心がもたれているといいます。

いわんや、その美しさの秘密にもまた科学のメスが入ろうとしているといわれおり、理論や言語にならない、見た目の変化、手触り、においなどといった、この美しい武器の「ブラックボックス」をいかに解明するかが今後の課題ともいわれます。

すべてが、欧米社会から導入された技術で出来上がってしまったような現在の日本において、こうした武器を超えた美術的かつ工学的な価値を持つ古来からの宝物を今一度見直してみる時期かもしれません。

さて、かなり長くなりました。今日の項はこれで終わりにしたいと思います。

黒と黄


先月の初めごろ、「黒潮と伊豆の関係」というタイトル記事で、伊豆の気候が黒潮によってかなり左右されている、といったことを書きました。

この黒潮は、通常の年であれば、四国・本州南岸をほぼ海岸線に沿って一直線に東に向かって流れていますが、この大蛇行しない通常の年のパターンを「非大蛇行流」と呼び、これが普通の状態です。

ところが、記録がとられるようになってから過去には5回ほど、紀伊半島・遠州灘沖で南へ大きく蛇行して流れたことがあり、これは「大蛇行流」といい、「黒潮大蛇行」とも呼ばれています。

直近では2005年がこの大蛇行の年だったのですが、先日の気象庁の報道によると、今年の黒潮は7月下旬ごろから紀伊半島~伊豆半島付近で大きく南に蛇行し、陸地から最大数百キロ離れるまでになっているそうで、これは明らかに黒潮大蛇行での兆候です。

これまでも小さな蛇行は時折ありましたが、定着しなかったようで、これに比べると今回の蛇行はかなりの長い間続いていて、どうやら「本物」となりそうです。が、気象庁としては、大蛇行に発展するかどうかはもうしばらく監視する必要がある、と慎重な姿勢を崩していません。

黒潮がいったん大蛇行流路となると、多くの場合1年以上持続します。このため、この間の日本列島全体の気候に与える影響は甚大です。

というのも、黒潮の幅は、日本近海では100km程もあり、その最大流速は最大で4ノットにもなります。また、600~700mの深さでも1~2ノットにもなります。

4ノットというのは、時速に換算すると、だいたい7km/hちょっとほどで、自転車よりも少々遅いくらいの速度です。が、この速度の潮流が幅100km、深さ600m以上にもわたって流れるわけであり、黒潮全体で考えるとものすごいエネルギー量になります。

従って、黒潮が大蛇行するときには、例年とは違ってこの膨大なエネルギーの量の向かう方向が変化することになり、気候変動にも大きな影響があるわけです。

黒潮は南方洋にその起源があります。従って典型的な暖流であり、海面から水深数百メートルまで、その北側の海に比べて水温が5度以上も高い領域が帯状に広がっています。このため、黒潮付近では温められた空気が常に温められて上昇気流が起きており、黒潮の上空には高温の気流塊が帯状に維持された状態となっています。

この黒潮上空の帯状の大気は、熱帯の海の上の大気と同じで、常に不安定な状態です。この不安定な大気の場所に前線が近づいてくると、さらに暖かく湿った空気が倍化されることとなり、周囲に比べて積乱雲が発達しやすくなります。

この積乱雲の下には当然雨が降りやすくなります。これが黒潮に沿って連続して発生すると、これはいわば「レイン・バンド」ともいえるものになります。黒潮大蛇行が起これば、当然このレインバンドも移動しますから、日本本土に降る雨域もこれによる影響を大きく受けることになります。

どのような影響を受けるかは、前線の種類によっても異なり、前線といっても夏の梅雨前線や秋雨前線、また通常の前線などいろいろなものがあるため、一概にはいえません。

が、今年のように日本海側で激しい雨が降ることが多かったのは、この黒潮大蛇行によって南側のほうへこのレインバンドが移動したため、梅雨前線や秋雨前線に影響を与えたのではなかったか、と考える向きもあるようです。

無論、まだ専門家の間でも結論づけられたわけではなさそうですが、これだけ今年の豪雨が顕著に日本海側に集中したのは、黒潮大蛇行と無関係ではない、と多くの人が考えるのは当然であり、しかもこの大蛇行がまだまだ続くとすれば、今後はどんな影響があるか、ということもまた気になるところです。

今朝のニュースでは、岩手県沖で例年はたくさん獲れるサンマやサケがさっぱりとれず、南洋種のカツオが大量に揚がり、これにシイラといった暖かい海の魚なども多数混じっているという報道がなされていましたが、これも黒潮大蛇行と何等かの関係があるかもしれません。

また、先日の日経新聞に載っていた記事によれば、鹿児島大学の先生が、1969年から2007年までの冬の低気圧の経路を詳しく調べ、大蛇行との関係を分析したところ、大蛇行があった年には東京で雪が降りやすくなることをつきとめたそうです。

大蛇行発生の年には、一日に30ミリ以上の比較的強い降水が58回もあり、その21%にあたる12回には降雪があったといいます。また、黒潮が蛇行せずに直進している通常の年は、一日30ミリ以上の降水は25回しかなく、しかも雪はゼロだったそうです。

黒潮大蛇行のときに雪が降りやすくなるのは、南岸を通る低気圧の経路が直進時に比べて100キロメートル程度南にずれるからであり、関東地方に換気を伴う北寄りの風が入りやすくなり、気温が下がるためです。蛇行した黒潮に取り囲まれた部分に冷水が溜まりやすいこともあり、海からの風が温まりにくいことも一因のようです。

従って今年の冬は関東地方では大雪になるのではないか、と予想されますし、ここ伊豆でも雪が降りやすくなるかもしれません。今年の1月、ここ伊豆でも珍しくまとまった降雪があり、私も真っ白になった達磨山の雪景色の向こうに富士山が見えるという珍しい写真を撮ることができました。

たった一日のことでしたが、だとすると、今度の冬はもっとこうした風景を見ることができるのでしょうか。

こうした気象変動を巻き起こす黒潮大蛇行の発生メカニズムはまだ未解明な点が多いそうですが、気象を左右する上空の偏西風や海上を吹く風、太平洋の海流・海面水温の10年程度の周期変動と関係があるのではないか、ということが言われているようです。

90年代以降は、大蛇行の発生することが少ない時期が続いていただけに、今年のような発生が今後は頻繁になるようであれば、地球全体の気象が大きく変わる兆候になるかもしれないという観測もあります。黒潮が流れている場所にごくごく近いところに住んでいる我々だけでなく、日本中の誰もが今後のその動向が気になるところでしょう。

さて、この黒潮は、その昔、紀州以西では上り潮(のぼりしお)、以東では下り潮(くだりしお)と呼ばれており、これは京都を中心にして流向を表現したものでした。このほかにも、西日本の沿岸漁民の間では、真潮(ましお)、本潮(ほんじお)などと呼ばれ、これは漁における黒潮の重要性を端的に表現したものです。

このほかにも東北地方で桔梗水(ききようみず)、上紺水(じょうこんすい)、宮崎で日の本潮(ひのもとしお)、上の沖潮(うえのおきしお)、三陸地方で北沖潮(きたのおきしお)、伊豆七島で落潮(おとしお)などと呼ばれ、それぞれの地域での呼名が存在していました。

このように黒潮の存在自体は古くから知られていたわけですが、その科学的調査が行われたのはごくごく最近であり、これを最初に行ったのは、黒船によって鎖国を終わらせたアメリカであり、またほぼ同時期に極東に活路を求めてきた帝政ロシアによっても観測が行われました。

日本が独自に海洋観測にのり出し始めたのはさらにその後であり、これは明治も中頃になってからのことです。しかしその後は、海軍を中心として軍備を拡張していく中、黒潮は艦隊の運営に影響を与えるため重要な調査対象となり、大規模な観測網がしかれるようになりました。

とくに昭和の初めの1930年頃から第二次世界大戦までには、当時の農林省水産試験場を中心として一斉観測が行われ、黒潮の大要と変動を把握するのに大いに貢献しました。

その後、1938年(昭和13年)から1940年(昭和15年)には、「海軍水路部」が頻繁に観測し、この観測は1935年から10年間も続き、当時も話題となった黒潮大蛇行の状況をよく捉えることができ、また、このころには艦船の航海のために海流予報まで行っていました。

この海軍水路部の役割は、第二次大戦後は長崎海洋気象台、神戸海洋気象台などが引き継ぎ、現在は気象庁と海上保安庁水路部の共同によって観測が継続され、現在、その業務は海上保安庁海洋情報部が掌握しています。

ところで、この海軍水路部というのは、旧日本海軍の組織の一つで、明治に創設された海軍省の外局であり、海図製作・海洋測量・海象気象天体観測を所掌していた部局です。

明治2年(1869年)7月、兵部省の兵部大丞であった川村純義(のち海軍大将)は、柳楢悦(やなぎならよし)と伊藤雋吉(いとうとしよし)を兵部省御用掛とし水路事業を進めるよう命じました。

柳楢悦は、江戸生まれの津藩の下級武士であり、若き日より和算に熟達し、長崎海軍伝習所でオランダ式の航海術と測量術を習得し、明治になってからはイギリス海軍と共同で海洋測量の経験を積み、海洋測量術の技術向上を目指しました。

柳は海軍での測量事業の創業当時より、日本人による測量を強く念頭に置き、他国の援助やお雇い外国人などを極力用いない方針を貫いたといい、日本における海洋測量の第一人者として測量体制を整備・統率し、日本各地の沿岸・港を測量し、海図を作成しました。その功績から「日本水路測量の父」「海の伊能忠敬」と称されています。

また、伊藤雋吉は、丹後田辺藩の藩士の嫡男として現京都府舞鶴市に生まれました。幼児から和漢書を読み解き、特に数学に堪能だったといい、やがて藩命により江戸へ出て、長州の軍学者、大村益次郎の門下で蘭学・兵学・数学を学びました。

明治になってからは、海軍で活躍し、「春日」、「日進」、「筑波」等の艦長を歴任した後、1878年(明治11年)には回航されたばかりの最新鋭艦「金剛」の艦長に就任。この間、水路測量でも大きな功績をあげ、その結果、海軍兵学校長、海軍次官、海軍参謀部長などを歴任。最後は海軍中将まで昇進し、その後は政界に転じて貴族院勅選議員にもなりました。

こうした二人の努力によって、海軍省内部に測量部隊が立ちあげられ、まず手始めに、イギリス海軍からも指導を得ながら、「シルビア号」(HMS Sylvia、750トン、150馬力)というイギリス艦とともに「第一丁卯(だいいちていぼう)」という艦を用いて協同測量を開始しました。これが、明治3年(1870年)のことです。

そしてその翌年の明治4年(1871年)、兵部省に海軍部が設置され、「海軍部水路局」が設けられました。

その所管事業は、水路測量、浮桶(浮標)、瀬印(立標)、灯明台(灯台)に関するものでした。そして明治5年(1872年)、海軍省が設置されると、兵部省にあった水路局はそのまま海軍省に横滑りし、「海軍“省”水路局」となり、正式に海軍卿直轄、海軍省の外局となりました。

水路局が海軍の直轄になった当初も、海洋測量の主役は、「第一丁卯」でしたが、この軍艦は、もともとは、長州藩がイギリスに発注して購入した三檣(マスト)を持つ、スクーナー型木造汽船でした。

その発注は幕末の慶応3年(1867年)のことであり、このときイギリスで建造されたのはこの「第一丁卯」のほかにももうひとつあり、これはのちに「第二丁卯」と呼ばれました。同一年の建造の姉妹艦だったため、第一と第二を付加して区別したようです。

「丁卯」というのはヘンな名前ですが、これは、干支(えと)の組み合わせの4番目の年
のことで、西暦年を60で割って7が余る年が丁卯の年となります。建造された1867年を60で割ると7となるため、こうしたネーミングがなされたのでしょう。「ていぼう」と読みますが、「ひのとう」と読むこともできます。

第一丁卯のほうは、もともとはその艦名を「丁卯丸」と呼ばれており、幕末の慶応5年には、寺泊沖海戦で旧幕府輸送艦「順動丸」を自沈に追い込むなどの活躍をし、また翌年の箱館湾海戦に参加しており、数々の戦績をあげています。

明治になってからは、長州から新政府に譲渡され兵部省所管となり、このとき「第一丁卯」と改名されました。測量業務には1873年(明治6年)の1月から従事するようになり、その後しばらくは海洋測量をこなす測量船として徴用されていました。

しかし、その後は海洋監視船として使われるようになり、1875年(明治8年)にラッコの密漁取り締まりの為に択捉島に派遣されていたところ、濃霧のため針路を誤り、同島西岬に座礁して沈没しました。

一方の第二丁卯艦のほうも、明治政府に引き取られ、これにより兵部省所管となりました。建造時には仮称で「アソンタ」と呼ばれていましたが、このとき「第二丁卯艦」と改名され、こちらも明治5年の2月ごろから翌年1月まで測量任務に従事していました。

明治3年になって日本に廻航されてきたことから、第一丁卯のように、幕末の動乱に駆り出されることはありませんでしたが、1877年(明治10年)に勃発した西南戦争では下関の警備などにも従事しました。1885年(明治18年)に明治天皇の福岡行幸の護衛艦として神戸港に回航中、三重県安乗崎で座礁し、その後廃棄処分されました。

第二丁卯 第一丁卯もほぼ同型

この第二丁卯の歴代艦長の中には、のちの元帥で、日露戦争当時の連合艦隊司令長官だった東郷平八郎も含まれており、東郷は1883年(明治16年)の3月から約1年あまりをこの船の上で過ごしています。

また、第一丁卯のほうの艦長も、有名な軍人が艦長を務めています。測量艦として活躍を始める前この艦長だったのが、「伊東祐亨(すけゆき)」です。東郷平八郎ほど有名ではありませんが、初代連合艦隊司令長官を務めた人であり、日清戦争での功が認められてのちに海軍大将となり、華族にも列せられた人物です。

元薩摩藩士であり、実家は日向飫肥の藩主、伊東氏に連なる名門の出身です。

ちなみに、この日向飫肥藩の伊東氏は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、ここ伊豆国の田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)を本拠地としていた豪族を先祖とする一族です。この伊東一族の中に、のちに鎌倉幕府の御家人になった工藤祐経(すけつね)という人物がおり、その子孫が日向国へ下向して戦国大名の日向伊東氏・飫肥藩藩主となりました。

伊豆国の伊東氏は、ほかにも源頼朝と敵対していた、伊東祐親(すけちか)がおり、その子孫もまた尾張国岩倉に移り住んで備中岡田藩主となって伊東姓をこの地に残しています。

この伊東祐親は、平清盛からの信頼を受け、平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任されていた人物として知られています。このブログでも、以前取り上げて詳しく書いたと思うので、あまり繰り返しませんが、その後頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、頼朝の敵方に回り、石橋山の戦いなどで散々頼朝を苦しめています。

しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、後に捕えられました。が、頼朝の妻・北条政子らの北条一族による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されます。しかし、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害しています。

この伊東氏は、もともとは、伊豆国の大見・宇佐見・伊東からなる久須見荘を所領としていた工藤氏の一族から出た家であり、このため、この両家は古くは平安時代にまでその発祥を遡ることのできる、全国的にも名門の家系といえます。

伊東祐亨は、こうした名家の流れを汲む、薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれました。

長じてからは、江戸幕府の洋学教育研究機関である、「開成所」において、イギリスの学問を学びましたが、この当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このとき、祐亨は海軍に興味を持ったと言われています。

さらには、ここ伊豆韮山の代官で、この当時の幕府における軍学の第一人者、江川英龍(太郎左衛門)のもとでは砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学んでいます。

江川英龍のこともまたこのブログでも何度も取り上げていますので、ご存知のことと思います。

伊東祐亨はその後、薩英戦争にも従軍し、戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍しましたが、明治維新後は、海軍に入り、明治4年(1871年)に海軍大尉に任官。明治10年(1877年)には「日進」の艦長に補せられました。

その後、明治15年(1882年)には海軍大佐に任官、「龍驤」、「扶桑」、「比叡」などの明治海軍の第一線級の軍艦の艦長を歴任後、明治18年(1885年)には、横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長に補せられ、明治19年(1886年)に海軍少将に進みます。

のち、海軍省第一局長兼海軍大学校校長を経て、明治25年(1892年)には海軍中将に任官、横須賀鎮守府長官を拝命後、明治26年(1893年)に常備艦隊長官を拝命。そして、明治27年(1894年)に勃発した日清戦争の最中には、初代連合艦隊司令長官に任命されました。

やがて朝鮮の覇権を巡って中国側との関係が悪化していく中、1894年(明治27年)、朝鮮国内の甲午農民戦争をきっかけとして朝鮮に出兵した清国に対抗して日本も出兵し、日清両国は交戦状態に入ります。

その結果として、近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍に対し、陸上では終始優勢に戦局を進め、遼東半島などを占領しました。

一方、海の上においても戦闘が勃発しており、日本の連合艦隊と清国の北洋水師(中国北洋艦隊)との間で、海戦が行われたのは、明治27年(1894年)9月17日のことでした。この場所が黄海上で行われたことから、この海戦はのちに「黄海海戦」と呼ばれるようになります。

黄海(こうかい)とは、朝鮮半島の西側に広がる水域で、そのさらに西にある中国大陸との間にある海のことです。黄河から運ばれる黄土により黄濁している部分があることから黄海と呼ばれています。

この当時、清軍が保有していた「北洋艦隊」は、アジア最強といわれ、装甲艦である「定遠」「鎮遠」といった大型艦をはじめとし、装甲巡洋艦2隻、防護巡洋艦6隻、巡洋艦3隻、砲艦6隻からなる大艦隊でした。

中でも巡洋艦としてイギリスのアームストロング社に発注していた「超勇」「揚威」などは最新鋭の艦であり、日本海軍にとっては大きな脅威となっていました。

また装甲艦でも、日本側の旗艦「松島」の4217トンに対し、清国側の旗艦「定遠」は7220トンと倍近い差があり、このころはまだ、のちの日露戦争時代ほどの軍備の拡張が終わっていない日本にとってはこの海戦は大変不利なものであるといわれていました。

ところが、蓋をあけると、戦前の予想を覆し、日本海軍は清国側の大型主力艦を撃破し、黄海の制海権を確保しました。

9月17日午前10時過ぎ、索敵中の連合艦隊は、北洋艦隊の煙を発見。即座に連合艦隊は、第一遊撃隊司令官坪井航三海軍少将率いる4隻が前に出、連合艦隊司令長官となっていた伊東祐亨海軍中将率いる本隊6隻が後ろになる「単縦陣」をとります。

12時50分、横陣をとる北洋艦隊の旗艦「定遠」の30.5センチ砲が火を噴き、距離6,000mで、戦端が開かれました。この交戦の結果、連合艦隊は無装甲艦が多く、全艦が被弾したほか、旗艦「松島」など4隻が大・中破しました。

また、「赤城」の艦長坂元八郎太海軍少佐をはじめ戦死90人、197人が負傷するなど多くの犠牲者を出しました。これはのちの日本海海戦のときの戦死117名にも匹敵する被害でした。

ただ、全艦隊の被弾数は134発にもおよんだものの、船体を貫通しただけの命中弾が多く、被弾数の割には少ないダメージで済みました。これは北洋艦隊の使用していた砲弾が旧式のものであったのに加え、清国海軍の砲手の錬度が日本海軍のそれよりも低かったためだといわれています。

一方の北洋艦隊のほうはといえば、装甲艦を主力としていたにもかかわらず、連合艦隊の6倍以上の艦船が被弾し、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「揚威」「広甲」が擱座しました。また、この時「済遠」と「広甲」が戦場から遁走し、旅順に帰還しており、これは近代の海戦において唯一の軍艦敵前逃亡事件といわれています。

この海戦は、およそ4時間ほどで終了しましたが、この敵前逃亡の例にもみられるように清国海軍の士気はかなり低かったと思われ、これが短時間の間で圧倒的な勝利を日本海軍にもたらした理由のひとつのようです。

このあと、旅順港に逃げた北洋艦隊は、陸側から旅順を攻囲される形勢となり、更にそこを撤退し、近くの威海衛湾に逃げ込みましたが、日本軍の水雷艇による攻撃と地上からの攻撃とにより全軍降伏しました。

この戦闘の結果、北洋艦隊側の戦死者は700名以上にものぼり、日本側の被害を大きく上回りました。また日本の連合艦隊司令長官に該当する提督で最高責任者であった、丁汝昌(ていじょしょう)は要員の助命を条件に降伏に応じ、自身は「鎮遠」の艦内でそのまま服毒自決を遂げました。

この日本海軍の圧勝には、清国海軍の兵士の士気の低さや砲術の錬度の低さが大きく影響したことは間違いないようですが、一方、戦術面において、日本側がこの海戦に用いた、「単縦陣」による戦闘態勢もまたその勝利の一因であったといわれています。

この単縦陣という戦法は、速射砲を多数有することを特徴としていた連合艦隊に最も適していた砲撃戦術であったともいわれており、黄海海戦以降、この戦法の有効性が世界にも広まり、海戦の基本として定着していくようになりました。

実は、この戦法を考え出したのもまた、第一丁卯の艦長を務めたことのある人物でした。

連合艦隊の第一遊撃隊司令官であった、「坪井航三」という人であり、彼が第一丁卯の艦長を務めたのは、この船が択捉島に派遣されて擱座沈没したときであり、つまり最後の艦長ということになります。

坪井航三は、周防国三田尻(山口県防府市)の出身であり、長州人です。医師の二男として生まれ、藩医・坪井信道の養子となり、この家を継ぐ予定でしたが、ちょうど物心つくころに幕末の動乱に巻き込まれ、20歳のとき、長州藩が自力で建造した西洋帆船、庚申丸に乗り、外国船の砲撃に参加しました。

その後も遊撃隊士として戊辰戦争に従軍し、明治維新後の日本海軍の発足後には、このころ最新かつ最強といわれた最新鋭艦「甲鉄」の副長をも務めています。

1871年(明治4年)には、米国海軍アジア艦隊司令長官ジョン・ロジャーズの下で、旗艦コロラドに乗艦して実習を積み、その後も離任し帰国するロジェーズ少将に従い渡米し、ワシントンD.C.にあるコロンビアン・カレッジ付属中学校(現在のジョージ・ワシントン大学)に進んでいいます。

1873年(明治6年)12月の官費海外留学生の一斉帰国命令に従い、1874年(明治7年)7月、帰国。そして帰国後初めて就いた任務が、第一丁卯艦長でした。

前述のように、第一丁卯は択捉島西沖で、濃霧のため座礁していますが、初めての任務でこの失態は坪井の自尊心を大きく傷つけたことでしょう。しかし、その後はそれ以前にもまして軍務に励むようになり、日清戦争に至るころまでには、第一遊撃隊司令官を務めるまでになります。

そして司令官を務めるかたわら、過去における各国の海戦を研究しはじめ、その中で単縦陣戦法が機動力のある日本海軍には最も適しているという結論を得ます。

単縦陣とは言うまでもなく、艦隊の各艦が縦一列に並ぶ陣形のことですが、基本的に2番目以降の艦は前の艦の後について動けばいいため、艦隊運動がやりやすいという利点があります。

また、砲撃戦にも有利な戦法ですが、一方では相手が単縦陣形に対して直角に突入してきたときには不利になりますし、敵に横腹を見せる形になるため、砲撃を受けやすくなります。。

このため、この当時、世界的にみても海戦のセオリーは各艦が並列に並んで進行する、横陣のほうが有利とさており、単縦陣で実戦に挑むのは大変勇気がいることでした。しかし、坪井は単縦陣にこだわり、率いる第一遊撃隊では戦闘のみでなく偵察、航行の時も単縦陣の陣系を崩さなかったそうです。

また、日清戦争が始まるまでは、日本海軍は来たる海戦に備えて連日訓練を繰り返しており、時には二手に分かれて模擬海戦をすることもありましたが、この単縦陣と横陣の二手に分けての模擬海戦では、坪井の主張する単縦陣がいつも勝ったといいます。

こうして、黄海海戦でも坪井は、実際に単縦陣戦法で望み、黄海海戦の前哨戦であった豊島沖海戦(日清戦争の嚆矢となった海戦。宣戦布告直前に遭遇して起き、朝鮮半島西岸沖の豊島沖で日本海軍が圧勝した)でも勝利し、その後の黄海海戦においてもこの単縦陣で勝利したのでした。

とくに黄海海戦では単縦陣の先頭に立って指揮し、優速を利して北洋艦隊の背後に回りこみ、海戦の主導権を握ることに成功しており、このときの様子を清国海軍の軍艦に乗って観戦していたアメリカのマッギフィン少佐は「日本海軍は終始整然と単縦陣を守り、快速を利して有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に値する」と伝えています。

以後、単縦陣は海戦のセオリーとなり、日本海軍の単縦陣が高く評価されるとともに、坪井の名もまた世界に知られるようになり、「ミスター単縦陣」のあだ名で呼ばれるほどになりました。

その後、日本海軍では高速・速射主体の部隊(第一遊撃隊)と低速・重火力主体の部隊(連合艦隊本隊)とに分けて運用する形がこの海戦以降の基本形となりました。

そして、この陣形は日本帝国海軍が消滅する1945年まで受け継がれ、海外でも第一次世界大戦で英独両国が戦艦部隊と高速の巡洋戦艦部隊とに分けて運用したりするなど、その影響は世界に及びました。

黄海海戦の日本海軍の勝利により、日本は制海権をほぼ掌握することができ、その後の大陸への派兵がスムーズに進むようになり、以後の作戦行動も順調に進むところとなりました。

従って、この黄海海戦は日清戦争の展開を日本に有利にする重大な転回点であったといえ、その連合艦隊司令長官を務めた伊東祐亨の名声もまたいやがおうにも上がりました。

北洋艦隊提督の丁汝昌が服毒死を遂げたとき、伊東は没収した艦船の中からわざわざ商船「康済号」を外し、丁汝昌の遺体を送らせたといい、こうした伊東の礼節もまた世界中をも驚嘆せしめ、畏敬を集めた要因でもありました。

こうした功もあり、伊東はこの戦後、子爵に叙せられ、軍令部長を務め、明治31年(1898年)には海軍大将に進みました。しかし、その後勃発した日露戦争では出陣せず、軍令部長として大本営で裏方に徹しています。

明治38年(1905年)の終戦の後は元帥に任じられましたが、明治時代に海軍出身で元帥まで登りつめたのは、伊東祐亨以外には、西郷従道と井上良馨だけです(東郷平八郎は、大正2年叙勲)。

政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うしたといい、明治40年(1907年)には伯爵に叙せられ、従一位、功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章を授与されましたが、大正3年(1914年)、72歳で死去しました。

同じくかつて第一丁卯の艦長を務めた坪井航三もまた、死ぬまで軍人でした。明治31年(1898年)に55歳で亡くなっており、その前年に横須賀鎮守府司令長官に就任したばかりのときでした。さらにその前年の明治29年(1896年)には、海軍中将にまで上り詰めていますが、これが最後の階級となりました。

それぞれが薩摩と長州という明治維新を牽引したこの二つの藩出身の二人が、黄海海戦という同じ場において活躍したというのもまた、何か因縁めいたものを感じますし、ましてやかつて同じ艦の艦長をも勤めていたというのも、単なる偶然を通して魂レベルでの何らかのつながりを感じさせます。

もしかしたら、墓地が一緒?などとたわいもないことを考えて調べてみましたが、坪井航三氏の墓所は、港区白金台の瑞聖寺、伊東祐亨のほうは、品川区の海晏寺ということでした。同じ東京という以外は共通点はないようです。

が、おそらくはあの世において、二人してまた同じ船に乗っているに違いありません。

さて、今日は黒潮の話に端を発し、妙な方向に来てしまいましたが、このブログを読みなれている方には別に珍しいことではないかもしれません。

また、次回の更新でも突拍子もない方向へ行くかもしれませんが、また読んでいただけることを願いつつ、今日のところは終わりにしたいと思います。

疏水

先日、世界文化遺産の2015年登録に向けた今年の政府推薦候補が、「日本の近代化産業遺産群−−九州・山口及び関連地域(産業遺産群)」に決まったとの報道がありました。

これは、内閣官房が中心となって検討していたものであり、実は、これとは別に文化庁が推していた「長崎の教会群とキリスト教関連遺産(教会群)」という案もあり、2件がせめぎ合った結果、「産業遺産群」のほうが採用されるという結果になりました。

いずれも長崎県が保有する遺産群が含まれており、例えば「産業遺産群」のほうには軍艦島や長崎造船所が、また「教会群」のほうはほとんどが長崎県の案件ですが、熊本の天草の教会集落が1件含まれています。

このため、長崎県の関係者は、当初からどちらを推薦する側に付くか悩んだようですが、結果的にはキリスト教関連遺産のほうを優先する姿勢を明確にしていたようです。

文化庁は今年の4月、世界文化遺産への登録を待つ10候補の準備状況などを評価した結果を文化審議会に報告し、その中でも教会群が最も「推薦可能」と判定しており、一方、これとは別に内閣官房も別途の観点から産業遺産群を選定し、こちらもこのほうがより推薦に向いていると政府に報告して、それぞれが争う形になっていました。

これまで、こうした世界遺産の推薦案件は、事実上、文化庁のみでその候補を決めていたのですが、昨年5月の閣議決定で、産業遺産群のように稼働中の工場や港湾などを含む場合、内閣官房が事務局を務める有識者会議で推薦できるようになりました。

しかしこの閣議決定では、今回のように文化庁や内閣官房などの異なる政府機関が違った候補を推薦した場合対立が避けられないため、こういう場合には関係閣僚会議で調整するという決まりも定められていました。

そして今回がその初の適用となり、閣議決定による調整が行われ、近代産業遺産群のほうに軍配が上がったというわけです。

長崎県が教会群の登録を強く推していたのは、2015年という年が、潜伏キリシタンが大浦天主堂で信仰を告白した「信徒発見」の年から数えてちょうど150周年という節目の年だったからだそうです。しかも、この教会群は、昨年2012年の登録に向けた政府推薦を巡って「富岡製糸場」(群馬県)に競り負けた経緯があります。

今回はこの2015年に向け、時間的余裕がない再挑戦だけに「今年の政府推薦は譲れない」と長崎県幹部はずいぶんと力を入れこんでいたそうなので、その落胆は尋常ではないでしょう。

しかし、前述のとおり、同県は長崎市の軍艦島(端島)などを含む産業遺産群の推薦書にも名を連ねており、今回もまた教会群が推薦から漏れたとはいえ、「負けてもなおおいしい」といったところはあるはずであり、今後新たな観光遺産が増えると、ひそかに喜んでいるに違いありません。

また、世界遺産への政府推薦はこれで終わりというわけではないはずなので、今後の頑張り具合によってはいずれ日の目を見る機会もあることでしょう。世界遺産になる案件が増えるというのは国民にとってもうれしいことには違いないので、これに懲りずに引き続き頑張っていってもらいたいものです。

政府は、このあと、14年2月までに国連教育科学文化機関(ユネスコ)にこの産業遺産群を推薦し、最終審査は2015年にユネスコで実施されるそうです。ただし、今回の政府推薦は、あくまで世界遺産の認定にさきだつユネスコの「暫定リスト」に掲載されるだけのことで、まだ世界遺産の認定は先のことです。

とはいえ、このリストに掲載されない限りは審査は行われない決まりになっているため、そこまでこぎつけたということは大きな前進になります。ちなみに、既に政府推薦が終り、リストに掲載されている「富岡製糸場と絹産業遺産群」のユネスコ本部による登録審査は、来年2014年の夏だそうです。

この「九州・山口の近代化産業遺産群」は、広範囲に点在する複数の物件をまとめて一つの遺産としており、これらは9つのエリア、全30資産により構成されています。

タイトルにあるとおり、主には九州と山口を主体として9つのテーマ別にストーリー構成されているのですが、このほかにも、佐賀県佐賀市の「三重津海軍所跡」や岩手県釜石市の「橋野高炉跡」などが追加されており、我が静岡県の伊豆の国市にある「韮山反射炉」もその対象です。

この韮山反射炉については、このブログにおける「伊豆の人物と歴史」→「人物」→「江川英龍(太郎左衛門)」の項でも多少詳しく述べているので、ご興味があればそちらものぞいてみてください。

ところで、この「九州・山口の近代化産業遺産群」は、経済産業省が認定している文化遺産の近代化産業遺産のごく一部に過ぎません。経産省は、2007年11月に33件の「近代化産業遺産群」と575件の個々の認定遺産を公表し、さらに2009年2月にもこの「続編」として「近代化産業遺産群・続33」を発表しており、新たに33件の近代化産業遺産群と540件の認定遺産が追加されています。

従って現時点においては、66のカテゴリー1115件もの膨大な産業遺産群が認定されていることになります。

これらの産業遺産には、幕末・明治維新から戦前にかけての工場跡や炭鉱跡等の建造物、画期的製造品、製造品の製造に用いられた機器や教育マニュアル等が含まれており、そのすべてが日本の産業近代化に貢献した産業遺産としての大きな価値を持っています。

また、中には従来その価値が理解されにくく、単なる一昔前の産業設備として破却されてしまう可能性があったものもあり、これらを保護し、まさに構成への「遺産」として保護することがこの産業遺産群への登録の目的のひとつでもあるようです。

「九州・山口の近代化産業遺産群」はこれらの中でもとりわけ貴重と内閣官房が考えたものを抽出し、これらをうまく組み合わせて世界遺産候補として練り上げたものということになります。が、しかしこのほかにも世界遺産クラスの貴重なものもまだまだ多数あります。

例えば「赤煉瓦建造物」にカテゴライズされている東京駅や、横浜赤レンガ倉庫・横浜税関・氷川丸といった一連の横浜における産業遺産群、黒部ダム・大井ダムなどの電源開発に関する遺産群、といった土木建築物があり、このほか個々には、トヨダ・AA型乗用車、零式艦上戦闘機・三式戦闘機(飛燕)、松下二股ソケットなんてのもあります。

こうしたものが世界遺産として認められるということは、すなわち日本がかつて歩んで来た産業化の道が世界に認められるほどに素晴らしかったと認めてもらうということにほかならず、日本人そのものの評価が世界で高まることでもあります。

それゆえに、これらをいかにまとめてユネスコへの推薦に値するような世界遺産にするか、できるかが、文化庁や内閣府で高給を食んでいる役人に求められている力量であるといえます。

が、今回はその結果として二つの官僚組織が争う形で一方が登録されたというのは、一般の我々からみるとまた縦割り行政の弊害か、と少々乱雑にみえてしまいます。

最初から調整し、一本化した上で政府推薦に至るというのが本来望ましい形であり、もしその調整がなされていたならば、「教会群」のほうも取り込んだ形でもっと広範囲の産業遺産群を世界遺産登録リストに送りこめたかもしれません。

当然その場合の推薦内容や推薦名も変わってくることになりますが、それをどういったものにするかを考えるのが役人の仕事です。2015年以降の推薦枠については、ぜひとも官僚組織の垣根を越えた共闘で望み、できるだけ多くの国民の遺産を世界登録していってほしいものです。

ところで、こうした近代化産業遺産といわれるものの中にほかにどんなものがあるのだろうと調べていたとき、東京駅や黒部ダムのようなかなり有名なものに並んで、これらにも匹敵するような優れた遺産であるにもかかわらず、あまり知られていないものをいくつか見つけました。

琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた琵琶湖疏水(びわこそすい)もその一つであり、これは明治の中期に造られたものです。

なぜ水路といわずに「疏水」というかというと、疏水とはそもそも我が国の二千年にわたる歴史において営々と各地に築かれてきた農業用水路のことをさします。水源から水を引く、という意味もあり、舟運のために造られる運河とは区別するためにこの用語が作られたようです。

琵琶湖疏水は、1890年(明治23年)に完成した第1疏水と、これに並行して建設され、1912年(明治45年)に完成した第2疏水を総称したものです。

現在では両疏水を合わせ、毎秒24トンを琵琶湖で取水しており、その内訳は、水道用水約13トン(毎秒)、それ以外の11トンを水力発電、灌漑、工業用水などに使っています。

水力発電は第1疏水の通水の翌年に運転が開始され、これは営業用として日本初のものです。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献しました。

また、疏水を利用した水運も行なわれ、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見・宇治川を結びました。しかし、疏水の途中には落差の大きい箇所が何ヶ所かあり、そのうちの最大の難所であった蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動されました。

水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されましたが、蹴上では一部の設備が静態保存されており、これも遺構としては重要なものです。

このほか、山縣有朋の別邸で名庭師として知られた小川治兵衛が作庭したという「無鄰菴(京都市左京区)」にも疏水の水が引かれており、平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園にも利用されるなど、疏水は現在の京都観光にも一役買っています。

なお、無鄰菴が水を引いているのは、京都市の左京区にある南禅寺境内にある琵琶湖疏水の一部である「水路閣」からであり、この煉瓦造りの美しい水道橋は、テレビドラマの撮影舞台として使われることも多く、京都の新名所としても定着しています。

しかし、建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声もあがったといい、その一方で、建設が決まると、南禅寺の三門にはこれをひと目見ようと見物人が殺到したといいます。

ちなみに、この南禅寺では、先日の台風18号による大雨の影響で、三門(重要文化財)や参道周辺に土砂や泥水があふれ、その撤去作業のため拝観を停止するなどの被害が出ていますが、水路閣とともにその構造自体に大きな被害はなかったようです。

さらに、疏水の水は京都御所や東本願寺の防火用水としても使われており、一部の区間は国の史跡に指定されていて、琵琶湖疏水全体は、日本に数ある疏水の中でも「疏水百選」の一つに選ばれています。

このように、飲料水や電力の供給といった今や京都市民にとってはなくてはならないライフラインを提供してくれている琵琶湖疏水ですが、その第一疏水の工事は、明治の初期の工事ということもあり、現在のような優れた建設機械もなく、その多くが手作業によったため、著しい難工事でした。

とくに比叡山の下をくりぬいて作られた、第一トンネルはその延長が2436メートルもあり、これをくり抜くには長い時間と労力がかかりました。

このため工期を短縮するため、トンネルの中央部に竪穴を開け、ここから垂直に穴を掘って水路位置まで達し、ここから両サイドに掘り進めるという工法がとられました。これによりトンネルの出入り口とここからの合計4カ所からの掘削が行われ、かなり工期が短縮できました。しかし、片やこの竪穴を掘るためだけに17人もの犠牲者を出しました。

しかし、難工事はこれだけでなく、トンネルのほか開水路も含めた総延長は、19307mにもおよび、この延長距離の中には、上述の第1トンネルを含めたトンネル3、船溜り6、橋梁28、暗渠10、閘門2、水越場(越流堰)5、放水場4という大規模なものでした。

そもそもなぜこうした大規模な疏水が作られるようになったかといえば、その背景には明治維新にともなう、東京遷都がありました。

東京遷都とは、明治維新のとき江戸が東京とされ、都として定められたことで、慶応4年7月14日(1868年9月3日)に江戸が東京と改称され、同時に都が京都から東京に移されたことをいいます。同年9月に元号が明治に改められ、同年10月に天皇が東京に入り、明治2年(1869年)から東京は正式に日本の国都になりました。

そもそも東京遷都の話は、慶応4年(1868年)大木喬任(軍務官判事)と江藤新平(東征大総督府監軍)が、京都と東京の両方を都とする「東西両都」の建白書を岩倉に提出したことに始まります。

これは、数千年もの間、王化の行き届かない東日本を治めるためには江戸を東京とし、ここを拠点にして人心を捉えることが重要であると主張したもので、江藤らはゆくゆくは東京と京都の東西両京を鉄道で結び、これにより安定した国政を実現できると考えたのでした。

その結果この案は採用され、天皇は、政情の激しい移り変わりにより遅れていた即位の礼を執り行うという理由で、明治元年9月に京都を出発して、その年の暮れまで東京に行幸しました。これがいわゆる「東幸」といわれるものです。

このときの行幸は、副総裁・岩倉具視を初めとし、議定・中山忠能、外国官知事・伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の兵隊を含め、その総数は3300人にも及んだといいます。

こうして天皇の江戸城到着後、ここはその日のうちに東幸の皇居と定められ東京城と改称されましたが、このとき、東京の市民はこの東幸を盛大に祝ったといいます。

その後、天皇はひとまず京都に再び帰りましたが、この還幸にあたり、東京市民に不安を与えないよう再び東京に行幸することと、旧本丸跡に宮殿を造営することが発表されました。

天皇が京都に帰ったのは明治2年(1869年)3月のことでしたが、この翌年の3月に天皇はここで大嘗祭(おおにえのまつり、天皇が即位の礼の後、初めて行う大祭)を行うことが予定されており、その前に、天皇の再びの東幸が行われることが決まりました。

こうして、翌年の明治3年3月28日、天皇は再び東京城に入り、このとき、ここに滞在した東京城を「皇城」と称することが発表されました。

このとき「天皇は東京滞在中」という名目で「太政官」も東京に移され、京都には留守官が設置されました。太政官(だいじょうかん)とは、内閣制度が発足する前の司法・行政・立法を司る最高国家機関を指し、これを移すということは、たとえ一時期であったとしても都が東京に移ったことを示します。

同年10月には皇后も東京に移り、こうしてこれ以降、天皇は東京を拠点に活動することになりました。

このころ天皇・皇后の東京への行幸啓のたびに、公卿・諸藩主・京都の政府役人・京都市民などから行幸啓の中止・反対の声があがりました。

このため政府は「これからも四方へ天皇陛下の行幸があるだろうが、京都は千有余年の帝城で大切に思っておられるから心配はいらない」とする諭告(告諭大意)を京都府から出させ、人心の動揺を鎮めることに努めたといいます。

ところが、その後京都では、東北の平定が未だに行き届かないこと、諸国の凶作、国費の欠乏など諸々の理由で京都への還幸を延期することが京都市民に発表されました。

やがて京都御所を後に残して、明治4年(1871年)までに刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が次々に廃され、中央行政機関が消えていきました。また留守官も京都府から宮中に移され、京都の宮内省に合併、完全に廃され、こうして東京への首都機能の移転は完了しました。

こうしてこの年、とうとう大嘗祭は東京で行うことが発表され、京都で実施されるはずであったこの大祭も東京で行なわれました。

こうして、東京に天皇と都という地位を奪われた京都は、その後活気を失い、多くの産業もまた東京へ転出していったため産業の地盤沈下を起こしました。また皇居出入りの多くの伝統産業もまた大きな打撃を受け、一時はその人口も四分の三ほどにまで低下しました。

ちょうどこのころ第3代京都府知事となった北垣国道は、明治維新による東京遷都のため沈みきった京都になんとか活力を呼び戻そうと考え、そこで考えだされたのが琵琶湖疏水の建設でした。

北垣知事は灌漑、上水道を目的とした琵琶湖疏水を計画し、また水車などの導入による水力で新しい工場を興し、さらには舟で物資の行き来を盛んにしようと考えました。

実は京都には、こうしたことを実現するために江戸時代から琵琶湖から水を引く試みは何度かあり、その実現は昔からの夢でした。しかし、なにぶん古い時代のことであり、十分な土木技術も計画もなく、実現したものはありませんでした。

しかし、明治になり、欧米の優れた科学技術が導入されると同時に、これらを教える場が数多くでき、そのひとつに、工部省が管轄した教育機関で工部大学校というものがありました。

この学校は、現在の東京大学工学部の前身のひとつであり、予科、専門科、実地科(いずれも2年)の3期6年制を採用し、土木、機械、造家(建築)、電信、化学、冶金、鉱山、造船の各科を持っていました。

同時代の理工系高等教育機関には、これとは別に東京大学工芸学部があり、こちらは学術理論に重きが置かれていました。一方、この工部大学校では実地教育が重点視され、そのため工部大は実務応用に秀で、東大と争うように各分野や業界における実践的な先覚者を多数輩出しました。

その一人が「田邉朔郎」であり、1861年(万延元年)、高島秋帆門下の洋式砲術家である田辺孫次郎の長男として江戸に生まれ、1883年に21歳で工部大学校を卒業しました。卒業論文は、「隧道建築編」であったそうで、これからもわかるようにその専門はトンネル掘削でした。

しかもこの卒業論文にはもうひとつ、「琵琶湖疏水工事編」というものもあり、これを見た北垣国道京都府知事が、わずか21歳にすぎなかった彼を抜擢したといわれており、こうして田邉は請われて京都府御用掛となり、琵琶湖疏水工事に主任技術者として従事することになったのです。

こうして、田邉の監督指導のもと、第1疏水は1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成しました。

第1疏水(大津-鴨川合流点間)と疏水分線の建設には総額125万円の費用を要し、その財源には産業基立金、京都府、国費、市債や寄付金などのほか、市民に対しての目的税も充てられました。

この琵琶湖疏水の工事は、安積疏水など先行する近代水路がオランダ人などのお雇い外国人の指導に依ったのに対し、設計から施工まですべて日本人のみで完成されたのが特徴的であり、まさに日本が世界に誇ることのできる産業遺産といっても良いでしょう。

日本で初めての技術も多数取り入れられており、それらは近代化遺産としても非常に価値が高く、例えば前述した完成当時日本最長の第1トンネルに用いられた、竪坑(シャフト)工法もまた鉱山以外のトンネルとしては日本初のものでした。

これによって切羽の数を増やし工期短縮と完成後の通風も兼ねることができましたが、第1竪坑の工事は乏しい光源の下で、竪坑の大きさ故に2~3人しか人が入れなかったといい、しかも小規模ながらダイナマイトも使用されたものの、ほとんどの工事は手掘りのみで進められました。

しかし、想定以上の岩盤の硬さと、たびたびの出水にも悩まされ、この湧水をも人力で汲み上げねばならず、ほとんどの工事を人力に頼らざるを得ませんでした。このため、こうした過酷な重労働と出水事故などにより、犠牲者が続出しました。のみならず、ポンプ主任の自殺などもあったそうで、結局、殉職者の合計は17人もおよびました。

しかし、この数字の中には病死者や、下請けの人足の数は含まれておらず、おそらくは20人以上の人がこの工事で命を失ったと考えられています。しかし、これらの尊い犠牲の甲斐もあり竪坑はようやく完成しました。しかし、その深さはわずか47mに過ぎなかったのに対し、費やされた日数は196日という膨大なものでした。

工事主任であった田邉朔郎は、自分が計画した実行に移されたこの工事で、多数の命が失われたことを生涯気に病んでいたそうで、現在も残る琵琶湖疏水の蹴上の舟溜場横の公園には、田邉自身の私費で建てられた殉職者への慰霊碑が立てられています。

琵琶湖疏水では、水力発電は当初は計画されなかったそうです。しかし工事が完了する2年前の1888年、田邉は渡米して水力発電所などを視察しています。その結果、この視察結果に基づくアイデアを取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設することが決定されました。

こうして疏水完成翌年の1891年(明治24年)には蹴上発電所が完成し、11月からは京都市内に送電が開始されました。この電力を用いて、1895年(明治28年)には京都・伏見間で日本初となる電気鉄道である京都電気鉄道(京電)の運転が始まり、以来、1942年(昭和17年)まで市営の発電所として機能し続けました。

これらの施設は戦後、関西電力に譲渡され、現在も同電力所有の無人発電所となって発電をつづけており、京都の街並みを明るく照らし続けています。

一方、舟運についても、開通から十数年は客貨とも大いに利用されました。貨物では、大津からの下りは米・砂利・薪炭・木材・煉瓦など、伏見からの上りは薪炭などでしたが、鉄道などの競合陸運の発展により衰退し、伏見行き下りは1935年にゼロとなり、大津行き上り貨物は1936年以降なくなりました。

その当時は旅客便もあったそうで、1891年(明治24年)に大津-蹴上の下りが1時間22分30秒で4銭、上りが2時間20分で5銭でした。1銭は現在の貨幣価値で100円ほどですから、だいたい4~500円といったところです。

これと並行する鉄道の京都~馬場間の運賃が、上等50銭、中等30銭、下等15銭だったといいますから、これよりはるかに安く、このためこの争いには馬車も参戦し、8銭を6銭に値下げして船便と競争したという話も残っています。

1911年(明治44年)には、渡航数もおよそ13万人を数えたそうですが、翌年の京津電気軌道(現京阪京津線)の開業でおよそ4万7千人に減少しました。

さらに1915年(大正4年)の京阪本線五条~三条の延長により電車で大津~京都市内~伏見が直結されると3万人台になり、このころには唯一の渡航船会社であった、「京近曳船」もついに廃業しました。

戦後1951年(昭和26年)に新会社が設立され屋形船が姿を現しましたが、同年冬の第1疏水取入口改造工事のため運航を停止。さらに1959年(昭和34年)に伏見インクラインが、また翌年には蹴上インクラインから電気設備が撤去され、水運の機能は実質的に失われました。

以後は生洲船や屋形船をつかった料亭が見られましたが、現在は観光目的の船が時折水面に浮かぶのみとなっています。

上水道としての利用のほうですが、現在、琵琶湖疏水を通して、上水利用に年間2億トンの琵琶湖の湖水が滋賀県側から京都に流れています。このため、京都市から「疏水感謝金」として年間およそ2億2千万円が滋賀県へ支払われているそうですが、これは大正時代までは「発電用水利使用料」として徴収されていたそうです。

しかし、国から「収入の少ない地方公共団体から使用料を徴収しないように」との通達が滋賀県にあり、このため、使用料が寄付金となったものです。この「疏水感謝金」という名前になったのは1947年からのことからであり、この年その名目での契約が滋賀県と京都市の間で結ばれました。

ただ、これは法的な根拠のない、あくまでも感謝金であり、滋賀県も「山の植林・間伐・林道整備など、水源地となる山の保護事業に使っている」としています。感謝金額の査定は10年ごとに物価変動を考慮して滋賀県と京都市が相談して決定されているそうで、現行契約は消費税が8パーセントに上る予定の2014年までとなっているとのことです。

こうした一見善意のやりとりとも見えるような金の流れにも「消費税」なるものが関わってくること自体が不思議でしょうがないのですが、このあたりのことにも本音と建て前をうまく使い分ける関西人の特質がよく出ていて、面白いなと思います。

さて、今日は伊豆から遥かに遠い滋賀・京都の産業以降の話になってしまいました。

振り返ってみると、ここ静岡でも冒頭で書いた韮山反射炉(江川代官所による事業の関連遺産)を初めとして、戸田村のヘダ号設計図 ディアナ号模型(幕末の戸田村における事業の関連遺産)、清水灯台などが産業遺産として認定されています。

そうしたことについてももう少し書こうかと思ったのですが、今日もやはり度が過ぎているようなので、またの機会にしたいと思います。

今日から三連休という方も多いと思います。今、韮山の反射炉周辺は曼珠沙華で一杯のはずです。ぜひ見に来てください。