ガル

先日のこと、以前このブログでも紹介したことのある宮崎駿監督のアニメ作品、「風立ちぬ」を見に行ってきました。

そろそろ興行も終わりになろうかというこの時期になんでいまさら、と思われるでしょうが、学校が夏休みである8月中では観覧する人も多かろうということで、人ごみの嫌いな私としてはこの時期に見に行くのは敬遠したかったのです。

ちょうどつい先日には宮崎駿さんの引退宣言があったばかりであり、タイミング的にもぴったりですが、これが宮崎アニメの見納めかと思うと、少々寂しくもありました。

が、宮崎監督が作り上げたスタジオジブリそのものがなくなってしまうわけでもなく、ご子息の宮崎吾朗や高畑勲といった実力者もまだ控えていて、ジブリ作品そのものはこれからもまだまだ楽しんでいけるでしょう。

宮崎駿さん自身も、長編映画からは手は引いたものの、おそらくは短編ものなどは手掛けられるのではないでしょうか。まだまだお若い……といってももう御年72ですが……まあ日本人男性の平均年齢にはまだまだ程遠いわけですから、引退などといわずにこれからも何等かの活動をしていってほしいものです。

さて、この「風立ちぬ」の出来栄えについての感想については、またのちほど述べるとして、この劇中に出てきたいくつかの飛行機について、映画の中では何ら詳しい説明がなかったので、改めて調べてみました。

まず、主人公である堀越二郎が、作品中で設計した新鋭の飛行機のことですが、これは左右の翼が途中から「跳ね上がる」というちょっと変わった形をしており、いかにも新しい時代の飛行機、というかんじのものです。

いったいどういう経緯で造られたものなのかな、と調べてみたところ、これは「九試単座戦闘機」と呼ばれる飛行機であり、後に海軍によって「九六式艦上戦闘機」として採用された単座戦闘機の試作機だったようです。

いかにも軍事オタクの宮崎監督が登場させそうな飛行機ですが、設計者の堀越二郎の代表作としてはこれよりも「零式艦上戦闘機」つまり、ゼロ戦のほうが有名です。

なのに、なぜこの飛行機のほうをクローズアップさせたのかな、思ったのですが、映画のストーリーをみると、そのわけがわかります。

映画を見た人はご存知かと思いますが、この飛行機は、堀越二郎がその設計技師としての長い人生の中で、最初にヒットを飛ばした会心作ともいって良い飛行機であり、宮崎監督も堀越二郎のその「最初の成功」の喜びをこの作品の中で描きたかったのでしょう。

この飛行機は、1934年(昭和9年)、海軍から三菱航空機と中島飛行機の両社に試作指示が出され、1935年(昭和10年)に試作機が完成。審査の結果から、この三菱機が正式採用されることとなり、「九試単座戦闘機」と名付けらました。

このひとつ前のタイプ海軍の主力戦闘機、「九五式艦上戦闘機」などの戦闘機はまだ大正時代の色濃く、そのほとんどが翼が二段になっている複葉機であったのに対し、この「九試単座戦闘機」は単葉戦闘機でした。単葉の採用は日本海軍初であり、しかも九五式が機体の一部に木材を使うなどしていたのに対して、全金属製となり、これも日本初でした。

その性能も九五式と比較すると、速度は50km/hほども速く、平面での旋回性能は同等でしたが、垂直面での旋回性能はとくに良好だったといい、高速で運動性の良い機体だったといいます。

この「九試単座戦闘機」は試作品にすぎませんでしたが、その性能の素晴らしさが認められ、のちに「九六式艦上戦闘機」として量産されるようになり、その後に勃発した日中戦争で中国に送られた機体は、アメリカ製のボーイングやカーチスホークなどを主力としていた中国軍戦闘機を空中戦で圧倒しました。

「風立ちぬ」の中ではこの傑作機の成功に先立ち、堀越二郎が設計した別の飛行機が失速し、墜落することで、堀越二郎が思い悩むというシーンが描かれていますが、この飛行機は「七試艦上戦闘機」といいました。

1933年から1934年ころにかけて、欧米各国では軍用・民間用を問わず 単葉の高速機が順次開発されていましたが、日本海軍では航空母艦への着艦と空戦時の旋回性を重視し、単葉への切り替えが遅れていました。

1935年に制式採用された九五式艦上戦闘機も複葉で、速度は352km/時という低速でした。このため、この性能では将来の戦闘は戦えないと判断した海軍当局は、このころの国内における二大軍用飛行機メーカー、三菱内燃機製造と中島飛行機に新しい次世代型の飛行機の試作を命じました。

ちょうどこのころ、三菱内燃機製造の名古屋工場に入社したのが堀越二郎でした。堀越二郎のことは以前にもこのブログで少し触れましたが、群馬県藤岡市出身で、地元の藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科のそれぞれ首席で卒業するという英才であり、のちの三菱重工業となるこのころの三菱内燃機製造にも鳴物入りで入社してきました。

この堀越二郎が、三菱内燃機に入って最初に手掛けた本格的な戦闘機が、前述の「七試艦上戦闘機」でしたが、完成したその機体は海軍が要求する高水準には達せず、結局同じく海軍より試作を命じられていた中島飛行機の試作機とともにボツとなりました。

このため、海軍は1934年の次期艦上戦闘機の設計から方針を変え、あえて艦上機としての性能を要求せず、近代的高速機を求めることにしました。後述しますがこの方針を定めたのは世に名高い、のちの山本五十六少将です。

要求仕様の性能を抑え気味に変更したのは、これに先立って堀越二郎が設計した七試艦上戦闘機などが、高性能を要求し過ぎて失敗に終わった事への反省もあったためと思われます。

こうして、新たな戦闘機の試作の指示が再び中島飛行機と三菱内燃機に下り、再度その設計に携わることになったのも堀越でした。彼は、従前の失敗に終わった七試艦上戦闘機の反省も踏まえて技術革新を促すため、海軍からの要求事項のうちでも、さらに速度や上昇力など戦闘機に不可欠なもののみに重点を絞った設計を行うことを決意します。

この設計方針は、当時航空本部部長だった、のちの山本五十六海軍少将も支持し、その他の条件は極力緩和するから自分の考えを貫け、と後押ししたといい、艦上戦闘機としての性能すらも要求もしないから、自由な発想を試せ、とまで言ったといわれています。

それゆえに、のちに完成した試作機の名称も「単座」戦闘機であり、「艦上」戦闘機ではなく、この試作機をもとに、のちに大量生産された九六式艦上戦闘機で初めて艦載機としての機能が付加されました。

戦闘機としての飛行機の性能は、速度や上昇力などの機動力がやはり最優先されるべきであり、軍機としての性能はこの基本性能を満足してから追加すればいい、という山本五十六の合理的な思考から実現した方針であり、のちの世にも優れた指導者としてその先進性なども含めて高い評価を得た山本の人柄を見るようなエピソードです。

この、まずは基本性能を重視するという設計方針は、結果的に見事に功を奏し、堀越二郎が設計したこの機体は、競争相手の中島飛行機が制作した試作機を大きく上回る高性能を示し、関係者を驚かせることになります。

その性能試験においてこの九試単戦は、海軍の要求を20ノット上回る243ノットを発揮したといい、このとき試験の臨検として立ち会った横須賀海軍航空隊の士官達は、試験が行われた岐阜県の各務ヶ原の空は「空気の密度が小さいのではないか」と疑ったという逸話まで残っています。

ところで、この飛行機は特徴的な翼の形状をもっており、これは「逆ガル翼」と呼ばれています。

「逆ギレ」ではありません……

「ガル」とはカモメのことであり、その飛ぶ姿を見たことがある人は分かると思いますが、カモメはその翼を下へ折り曲げたような恰好で飛びます。「ガルウィング」つまりガル翼とはこれからつけられた名称であり、堀越二郎が設計した飛行機はその翼の形状が逆形状であったためにこう呼ばれたわけです。

この試作機第一号は、エンジン出力増加を活かせるよう直径の大きなプロペラを採用しており、このためある程度座高の高い機体を作る必要がありました。

しかし一方では爆弾取り付の作業性を向上させるためには胴体を地面から離しつつ、主脚を短く設計する必要などもあり、これらの理由から、翼をいったん下へ向けて伸ばし、途中からは逆に上へ折り曲げる「逆ガル」を採用することで、機体中央部の座高を高くすることができ、かつ爆弾の取り付けもしやすい形状が実現したのです。

従って、翼を上に折り曲げることによってなんとなく近代的なカッコよい雰囲気が醸し出されているように見えますが、この形状は空力的な性能の向上にはあまり関係がなかったようです。

機動性を最優先していい、とはいわれたものの、結局軍用機である以上、その使用目的を無視した飛行機を作ることは無意味です。軍おかかえの三菱内燃機という軍事産業に勤務していた堀越もそうしたことをさすがに考慮しないわけにはいかなかったのでしょう。

しかし、この九試の試作機は都合6機製作されましたが、この逆ガル型の主翼を持っていたのは、最初の試作一号機だけだったそうです。その後の試作機やのちに量産された九六式艦上戦闘機ではそれほど翼が反り返っていません。つまり、実質的にその後の九六艦戦の原型となったのは逆ガル翼を廃した、試作二号機ということになります。

宮崎アニメで悠々と空を飛び回った逆ガル翼の九試は、実はたった一機だけだったということになるわけですが、宮崎監督は、この二号機よりも逆ガルウィングの一号機のほうが格好エーと思ったのでしょう。

ただ、この飛行機の素晴らしさはそうした外見だけにあったわけではなく、日本初の単葉全金属製の機体を初めとする数々の技術革新にありました。例えば、この九試では、日本で初めて全面的に「沈頭鋲」と呼ばれるものが採用されました。

現在ではごく普通の技術ですが、これは、それまで金属板の締結に使っていた従来のリベット(鋲)を廃し、リベットでは金属板表面に頭が突出していたものを無くし、鋲の頭を機体の中に埋め込む、つまり「枕頭」させるという技術でした。

リベットは、それまで高速で飛ぶ航空機における重大な空気抵抗の原因となっており、これに対して沈頭鋲は加締めの際に皿頭が金属板を凹ませながら締結するという施行方法をとるため、機体表面を平滑に仕上げることが可能となります。

ただ、最初の九試単戦では、職工たちもこの作業に慣れておらず、鋲打ち作業で出来た表面には刺子様の窪みができていたそうで、これをパテで埋めて灰緑色塗料を厚めに塗った後に磨きを掛けたといいます。

ちなみに、この沈頭鋲の原型を取り付けて世界に先駆けて空を飛んだのは、ドイツの「ハインケルHe70」という飛行機で、この飛行機はドイツのハインケル社で開発、製造された郵便、旅客、連絡、練習、爆撃などの多用途目的で開発されたものでした。

要求される速度性能を満たすために、機体表面を滑らかに仕上げる皿リベットを世界で初めて採用し、これが沈頭鋲の元となりました。1933年初めに8つの世界速度記録を樹立するなど素晴らしい飛行機だったといいますが、戦闘用の機体としては早々と時代遅れになったために大きな成功は収めなかったそうです。

その初飛行は、九試の初飛行のわずか3ヶ月前のことだったといい、もし開発がもう少し急ピッチに進められていれば、沈頭鋲を用いた飛行機としては世界初の栄誉を勝ち取っていたことでしょう。

映画の風立ちぬでも描かれていますが、堀越二郎はこの九試の設計の前に、ドイツなどのヨーロッパの飛行機メーカーの視察を三菱から命じられており、この沈頭鋲のアイデアなども、この視察旅行の際にドイツなどで仕入れたものでしょう。

こうして、のちに九六式艦上戦闘機として量産されることになる九試でしたが、最初のころにはその性能を疑問視する声もあったようです。

1935年(昭和10年)6月に試作二号機のテストをおこなった横須賀航空隊の源田実海軍大尉(のちの自衛隊の初代航空総隊司令、ブルーインパルス創設者として知られ、参議院議員を4期24年務めた政治家としても知られる)もそのひとりでした。

源田は、九試の上昇力・速力に問題はないとしつつも、射撃性能・着艦性能は「特に勝れているとも感ぜられなかった」とし、さらに舵の効きも問題視して格闘性能に疑問があるとしました。

さらには、その後の採用会議で源田は単葉機の旋回性能の悪さを指摘し、「複葉機の九五式艦上戦闘機の方が優秀ではないか」といい、この意見を横須賀空教頭であった大西瀧治郎も支持し、中央当局は単に机上の空論に頼ることなく、もっと実際に身をもって飛ぶ人の披見を尊重して方針を定められたい」とまで言い放ちました。

このため海軍上層部では、再試験によって源田らの意見の真否を問うこととし、さっそくその翌日に九試と、九五式などの従来機による模擬空戦が行われ、源田自らもその判定を任されることになりました。

その結果、九試は他の僚機の性能を圧倒し、この模擬戦によって格闘性能にも優れていることが証明され、源田は三菱側に自身の発言を詫びたといいます。

源田実は、その後は堀越二郎の熱烈な支持者になったといい、山本五十六といい源田実といい、こうしたエピソードからもこのころの海軍の現場には自らの不明をすぐに正すことのできる優れた人材が数多くいたことがうかがわれます。

ただ、このように軍部に高性能を示すことのできた九試でしたが、着陸時のバルーニング(バウンドしながら着地する性能)や、大きく回転飛行する場合などの不安定性、大型の発動機を利用することからその選定などに手間取り、その後の九六式艦上戦闘機部隊への配備までには試作開始から丸3年という日時を要することとなりました。

しかし、逆に開発に時間をかけたこともあって制式後には大きな不具合は発生しておらず、その優れた性能はそのまま後継機である、零式艦上戦闘機に引き継がれていくことになります。

こうしてこの九試は、欧米各国の模倣を脱して、日本独自で確立された設計思想の下に制作された最初の機体ながらも優れた性能を持つものとして広く知られるようになり、その設計者である堀越二郎の名声も否が応でも高まっていきました。

この九試の設計に際し、堀越はとくに高速と空戦時の運動性に重点を置いていたといい、そのためには高い空気力学的に洗練されと形状と、重量軽減が追求されました。

「風立ちぬ」では、堀越二郎が昼飯時にいつも「サバ定食」を食べるというシーンがありますが、そのサバの中からでてくる「骨」を堀越技師は「美しい」と思い、その形状を飛行機の設計にも応用した、というふうに描かれています。

こうした発想は、この当時、それまでの複葉機を中心に主流となっていた「張り線」を多用した構造様式を採らず、高速時の空気抵抗減少のために構造材を金属板で覆う形式の翼を採用することに反映されました。これによって主翼外形は曲線を繋いだ美しい楕円翼となり、かつ重量軽減にも大きく貢献しました。

また、国産実用機として初めてフラップを採用することでさらに運動性能がアップしました。

サバの骨を参考にしたというのが事実なのかどうかはよくわかりませんが、そうした流線型の形状を持つ合理的な機体を求めた結果が九試の美しい形状と性能に反映されたわけであり、堀越二郎自身も戦後の談話の中で、この九試は後の零式艦上戦闘機よりも快心の作であったと語っています。

この飛行機には、枕頭鋲のほかにも数々の「日本初」が採用されていました。例えば、主脚は構造重量の増大や未舗装の飛行場での運用想定を勘案して引き込み式とはせずにできる限り小形とした固定脚とし、空気抵抗を抑えるため流線型の「スパッツ」で覆ってあります。

これらの技術を盛り込んだ結果、量産型の九六式艦上戦闘機では、海軍が課した高度3,200m、正規重量での正式飛行試験において、当時の固定脚機の水準をはるかに超える、最高速度450km/hもの速度を発揮するに至りました。

この結果、旧型の九五式艦上戦闘機と比較すると、その速度は50km/hも速くなり、平面での旋回性能に優れ、垂直面での宙返りでさえも軽々とこなし、高速で運動性の良いこの戦闘機は、日中戦争においてアメリカ機を主力としていた中国軍戦闘機を圧倒しました。

その初戦は、日華事変初期のころの1937年(昭和12年)9月4日に、空母加賀が上海方面へ派遣された際に搭載された、九六式一号艦戦による戦闘でした。加賀飛行分隊長の中島正海軍大尉指揮による、九六式艦戦2機がカーチスホーク3機を撃墜し、これが96式艦戦の初戦果となりました。

この戦いは艦上戦闘機が陸上戦闘機と同等以上の性能を有するといわれるようになった発端となり、その後もこの九六式艦戦は、日本軍の上海近郊への進出の足がかりをつくり、さらに南京方面の中国空軍を駆逐するようになりました。

ただ、この過程で、九六式艦戦の行動半径400kmという距離は、重慶他の中国奥地への長距離爆撃行に用いるには少々無理があることが明らかになり、この結果としてより航続距離の長い機体が求められるようになります。

この問題はその後、後継機の零式艦上戦闘機の開発によって実現し、更なる航続距離が獲得できるようになり、これがさらに後年、航空母艦から発艦して長距離を飛びハワイを奇襲するという、零戦を主体として実施された真珠湾攻撃にもつながっていくことになります。

九六式艦戦は、その後の活躍を同じく堀越二郎が設計したこの零戦に譲っていくことになりますが、太平洋戦争序盤の1942年(昭和17年)ころにはまだ、後継の零戦の配備が間に合わず、鳳翔・龍驤・祥鳳・瑞鳳・大鷹などの各空母に搭載されていました。

また内南洋や後方の基地航空隊に配備されていましたが、1942年末ころからは第一線から退き、以降は練習機として終戦まで運用されていました。

しかし、零戦が活躍するようになるまでは、海軍の主力戦闘機であり、多くの派生型も造られ、「九六式二号一型艦上戦闘機」と呼ばれた型では、プロペラを3翅としたものも造られました。

一番たくさん生産されたのは、「九六式四号艦戦」という機体であり、名古屋の三菱工場の他に佐世保工廠、九州飛行機などでも生産され、その総数は合計約 1,000機にもなりました。

大戦中の連合軍による九六式のコードネームは「クロード(Claude)」だったそうで、調べてみたのですが、これが何を意味するのかよくわかりません。ただ、大画家のモネは、本名Claude Monet といいますから、もしかしたらこの画家名を冠したのかもしれません。

モネは印象画家として有名な画家であり、美しい形状を持つ九六式艦上戦闘機を、その美しい作品になぞらえたのかもしれません。

現存する機体があるかどうかも調べてみたのですが、戦争の初期に使われたためか、現存物はないようで、残っているのは写真ばかりのようです。が、堀越二郎の設計した飛行機は、零銭のほか雷電などが、主にアメリカ各地の博物館で保存されているようです。

その堀越二郎の若かりしころを描いた宮崎駿監督の最後の作品、「風立ちぬ」をみた感想ですが、正直なところ、私としては以前の作品ほどの感銘は受けませんでした。

その前半部分にはファンタジーの要素が多く取り入れられ、その背景描写の美しさもあいまって、さすが宮崎駿!と思わせるものがあったのですが、後半になるとこれが、主人公と婚約者の悲恋物語に様変わりし、主役のはずであった「飛行機」がどこかへ「飛んで行ってしまった」感があるのが、私としては不満でした。

ラブストーリーとして完成させるなら、もっと別の造りこみをしてほしかったな、と思い、また従来の宮崎監督のファンタジー作品に見られたような、次にどんなことが起こるのだろう、というワクワク感も感じられなかったのが残念です。とくにその後半戦では、ワクワク感が次第に失望感へと変わっていきました。

無論、私の主観であり、この映画を推奨する人も多いでしょう。専門家の間では評価が高いといいます。が、私個人としての評価は低い部類に入る映画です。

とはいえ、設計技師、堀越二郎の若き日の姿を描いた作品としてはそれなりの魅力があり、国産の九試単座戦闘機や九六式艦上戦闘機の描写はもとより、ドイツやその他の国の飛行機、さらに夢の中の創造の乗り物の描き方も、さすが宮崎駿だと思わせるものがありました。

映画作品の完成度としての不満はあるものの、そうした「オタク少年」宮崎駿の最後の作品としては、記憶にとどめておくべきものである、とだけ付け加えておくことにしましょう。

ちなみに、作品中には世界的に著名な飛行機製作者として、イタリア人の「カプローニ」という人物が夢の中で堀越二郎と邂逅するシーンが出てきます。このカプローニが設計したという巨大な飛行機が映画の中で登場するのですが、これも宮崎監督の創作だと思っていたら、実在した飛行機があったことを知り、びっくりしました。

そのことについても今日書いて行こうかと思ったのですが、もうすでにかなり度を超しているのでまた今度の機会にしたいと思います。

皆さんは「風立ちぬ」ご覧になりましたか?