その昔、どういうタイミングでだったのかよく覚えていないのですが、都内の映画館で映画「タイタニック」を見ました。
おそらく仕事が早く終わったために余った時間を使ったのだと思いますが、改めて公開された年を調べてみると、1997年といいますから、もう16年も前ということになります。
ジェームズ・キャメロン監督・脚本によるアメリカ映画であり、1912年に実際に起きたタイタニック号沈没事故を基に、貧しい青年と上流階級の娘の悲恋を描いて大ヒットした作品です。
主にSFアクション映画を手掛けてきたキャメロン監督が、一転して挑んだラブロマンス大作ですが、ほぼ実物大のセットまで作って撮影に臨んだということから、細部に至るまでかなりリアリティのある映画で、とくに後半ではパニック映画さながらの緊迫感のある展開で、見る人をぐいぐいと引き込んでいきます。
ラストシーンもまた感動的であり、驚いたのは、周囲の多くの女性のすすり泣きの声が聞こえてきたこと。私もいろんな映画をみていますが、こういうことはめったになく、それほど力のある作品だったということなのでしょう。
それもそのはず、この映画は全米で6億ドル、日本で興収記録262億円、全世界で18億3500万ドルの売り上げを記録し、同監督の「アバター」に抜かれるまで映画史上最高の世界興行収入を記録し、ギネスブックに登録されていたほどの映画でもあります。
また、1998年のアカデミー賞において、作品賞、監督賞、撮影賞、主題歌賞、音楽賞、衣裳デザイン賞、視覚効果賞、音響効果賞、音響賞、編集賞の11部門で受賞するなど、ほとんどを総なめしました。
また、セリーヌ・ディオンが歌う主題歌“My heart will go on”も大ヒットしましたが、私はいまだに毎朝のジョギングに出るときに持って出るウォークマンにこの曲を入れています。
このタイタニック号については、おそらく知らない人はいないでしょう。20世紀初頭に建造された豪華客船であり、処女航海中の1912年(明治45年)4月14日深夜、北大西洋上で氷山に接触、翌日未明にかけて沈没しました。
犠牲者数は乗員乗客合わせて1,513人であり、当時世界最悪の海難事故であったことから、この映画だけでなく、何度か映画化され、世界的にその名を知られています。
ところで、この沈没したタイタニックには、これ以外にも、北大西洋航路用に計画された2隻の姉妹船があったということをご存知でしょうか。
意外に知られていないことのようなので、今日はそのことについて少し書いてみようと思います。
タイタニックは、イギリスのホワイト・スター・ライン社(White Star Line)という会社によって建造された3隻のうちの2番船であり、これらの船は総じて「オリンピック級」と呼ばれていました。残る姉妹船とは、一番最初に建造された「オリンピック」と最後に完成した「ブリタニック」の2隻です。
ホワイト・スター・ライン社は、これらの船の建造に遡ること60年以上前の1845年に創業した、イギリスの老舗の海運企業です。「オーシャン・ライナー」といわれる数々の客船を運航させ、同じイギリスの海運企業であるキュナード・ライン社と19世紀後半から20世紀初頭にかけ激しい競争を繰り広げたことでよく知られています。
しかし、タイタニックの沈没を契機として、経営は次第に悪化していき、1934年、ライバルのキュナード・ラインに吸収合併され、その社名も「キュナード・ホワイト・スター・ライン」に変更されました。
その後、これも世に名高い豪華客船として知られる「クイーン・メリー」や「クイーン・エリザベス」などを就航させましたが、1945年には解散、同時にキュナード・ホワイト・スター・ラインはキュナード・ラインに社名を戻したため、「ホワイト・スター」の名前は消滅し、現在その企業的な名残はこの世に存在しません。
タイタニックなどを造船していた当時のホワイト・スター・ラインは、当時白熱していた北大西洋航路における「ブルーリボン賞」と呼ばれるスピード競争にはあまり関心を示さず、ゆったりと快適な船旅を売り物としていた会社でした。したがって、タイタニックもスピードより設備の豪華さに重点を置いて設計された船です。
ちなみに、ブルーリボン賞(Blue Riband)とは、大西洋を最速で横断した船舶に与えられる賞であり、大西洋航路の最速船の所有を広報することを目的として、1830年代に複数の大西洋横断航路運航会社の協賛によって設けられた賞です。
東回りと西回りに分かれた2種類の賞があり、当初、ブルーリボン賞を受賞した船舶は細長いブルーのリボンをトップマストに掲揚する栄誉に浴することができました。
「スピードの時代」と呼ばれた1930年代、同賞は各国の海運会社の威信を賭けた競争となり、各船は国の資金や技術協力を得て記録更新に挑みました。ブルーリボンを獲得することは受賞した国や船舶会社にとっての栄誉であるだけでなく、それに乗船する船客にとってもステータスとなったためです。
1935年にイギリスの政治家でありヘイルス・ブラザーズ社のオーナーでもあるハロルド・ケーテス・ヘイルス卿という人が自費でトロフィーを製作し、これはハレス・トロフィー(Hales Trophy)と呼ばれ、以降、世界最速記録を3ヶ月の間保持できた船にはこのトロフィーが贈られました。
しかし、大西洋横断といっても、海上に線が引いてあるわけではなく、その距離は航路によりかなり異なります。
このため、ブルーリボン賞は横断航海の平均速力に基づいて与えられることとなり、基本的には、西側の終着点はカナダ、アメリカ東海岸各港のいずれでも良く、東側の終着点はアイルランド、イギリス、西ヨーロッパのどこでも良いというきまりとなりました。
しかし伝統的に、大西洋横断の記録はニューヨークを出発もしくは目的地とした航海によるものが多く、そのほとんどがニューヨーク港を出発点または帰着点としています。
現在までのところ、西回り航路ではアメリカのユナイテッド・ステーツ・ラインの保有船で、その名も「ユナイテッド・ステーツ」という船が、61年も前の1952年に、3日と12時間12分で達成した34.5ノットが最高です。
一方の東回り航路では、1998年7月20日にオーストラリアのインキャット社によって建造された「キャットリンク5(Cat-Link V)」という船が達成した、2日と20時間9分という記録が最高で、このときの平均速度はなんと41.3 ノットでした。
これは、時速に換算すると、76.5km/hであり、波の荒い外洋をこの速度で運行したというのは天候にも恵まれたということなのでしょうが、驚異的な数字です。この数字は西回り航路でユナイテッド・ステーツが残した記録を優に上回るため、事実情この船が客船としては世界最速ということになります。
しかし、ユナイテッド・ステーツは、試験運転で40ノット以上を出したという記録もあるようで、やはりユナイテッド・ステーツが本当の保持船舶なのではないかという意見もあるようです。が、このあたりのことは本日のこの項にはあまり関係がないので、これ以上触れるのはやめておきましょう。
さて、先述の通り、タイタニックには姉妹船として、オリンピックとブリタニックという二隻の船が存在しましたが、これらの三隻もの大型客船が建造されたのは、この大西洋路線がホワイト・スター・ライン社にとってはドル箱航路だったためです。
キュナード・ラインなどの他社との激しい競争を制するためには、一隻では賄いきれず、最低二隻を常に交互に運行させる必要があったためでもあり、予備船を入れての三隻体制は実に合理的な運行体制でした。
こうして三隻体制の先駆けとして、まず最初に「オリンピック」の造船が開始され、ほぼ同時期に二番船タイタニックの建造も開始され、そして最後に少し遅れて三番船ブリタニックの造船が開始されました。
タイタニックとオリンピックはほぼ同時期に造船が開始されたこともあって、大階段やダイニングルームの装飾、食事のメニューや客室のサービスなど、その外観のみならず全てにおいて瓜二つでした。
しかし、キャメロン監督の映画「タイタニック」では、まるでこの当時の巨大船はタイタニックのみであるような脚色がなされていました。
が、実はタイタニックと同じ船が三隻もあり、これらを総称して「オリンピック級」と呼んでおり、またこの三隻の中では最初に建造された「オリンピック」こそがその代表であり、タイタニックは二番艦にすぎない、という印象でこの時代の人々は受け止めていたようです。
このため、ホワイト・スター・ライン社もその宣伝にはオリンピックのほうを前面に出すことが多く、タイタニックの写真としてもオリンピックのほうの写真が使われるということも度々行われていました。この当時タイタニックはオリンピックの陰に隠れた存在であったというわけです。
とはいえ、オリンピックとタイタニックは姉妹船であるがゆえに、その構造上の差違点はほんの少しでした。
しかし、タイタニックの建造が始まったとき、オリンピックは既に先立って運航されていたため、このオリンピックの問題面や改善点を受けてタイタニックの設計は多少変更され、外観もオリンピックのときから多少変更が加えられました。
その代表としては、海に面してベランダ状に設けられていた一等専用のプロムナードデッキ(遊歩道)が、オリンピックでは吹きさらしになっていたのに対し、タイタニックでは、中央部分から船首側の前半部分にガラス窓を取り付けられ、サンルーム状の半室内にされていたことでした。
このことは映画「タイタニック」をご覧になった方は覚えておられるでしょう。主演のレオナルド・ディカプリオが、映画ではローズ役だったケイト・ウィンスレッドの母親と初めて対峙する場面がこのサンルーム内のプロムナードデッキ上でした。
これは北大西洋の強風や波しぶきから乗客を守るためでしたが、この結果としてタイタニック号はオリンピック号よりも少々すっきりとしたスマートな印象になり、外観上で2つの姉妹船を判断する決定的な要素となりました。
このほかにも、オリンピックではBデッキ(オリンピック級では最上階のAデッキから最低部のEデッキまでのデッキがあった)の窓際全体にもプロムナードデッキが設けられていましたが、タイタニックでこれが廃止され、代わりに窓際全体に一等船室が新たに設けられ、この結果、一等船室の数がオリンピックに比べ大幅に増加しました。
映画の「タイタニック」では、ローズとその婚約者の豪華な居住船室が映し出されていましたが、これはここに増設された一等船室のうちの2部屋あったスイートルームのひとつです。
このほかにも、外観上からはその違いがわかりませんが、タイタニックでは、船体後部に豪華絢爛な一等船客専用レストラン、「アラカルト」が設けられており、オリンピックにはこの部分にはレストランはありません。
こうした違いから、当初両姉妹船の総トン数は同じになるはずでしたが、とくに一等客室の数が増えたために最終的にタイタニックはオリンピックの総トン数45324トンよりも1004総トン大きい46328トンになりました。
従って、厳密な意味で言えば、タイタニックはオリンピックの規模を超えており、またオリンピックには存在しないスイートルームの増設など、当時世界最大で豪華な設備を有した客船であったことになります。しかし、陰に隠れていたタイタニックの知名度が上がるのは皮肉なことにその沈没によってのことでした。
ブリタニック
一方、タイタニックよりも更に後に建造されたブリタニックはタイタニックの沈没によりその悲劇を繰り返してはならないと、安全面が大きく見直され、その再設計のため大幅に造船が遅れました。その結果としてタイタニックが沈没した1912年からおよそ3年後の1915年に就航しています。
建造が遅れた理由のもうひとつは、建造ドックが二つしかなかったためでもあります
この二つのドックでは、オリンピックとタイタニックの建造が先に行われ、1908年に一番船オリンピックの建造が始まり、その1年後の1909年には二番船タイタニックの造船が開始され、そしてオリンピックが進水した1911年になってようやくドックが空いたため、三番船のブリタニックの造船が開始されました。
前述のオリンピックとタイタニックとの違いでも述べたとおり、構造的にはこの二つには大きな相違はなく、これはブリタニックも同様であり、これら三姉妹の最初の基本的な図面は全く同じでした。
しかし、実際先立って乗客を乗せて航海を始めた一番船オリンピックの問題面や改善点を受け、二番船であるタイタニックは若干の仕様が変更されたように、ブリタニックでも運営上の理由から同様の変更が加えられました。
しかもブリタニックでは、タイタニックの沈没を受けて、構造的には大幅な設計変更が加えられることになりました。底部のみだった2重船底を側面まで延長し、さらにはタイタニックではEデッキにしかなかった防水隔壁をBデッキまでかさ上げする処置がとられました。
また、最上部のボート甲板、船尾楼甲板にはクレーン式のボートつり柱の取り付けが行われ、3等船客用の遊歩甲板は標準型救命ボート12隻で埋め尽くされました。
これは、タイタニックの沈没の際、救命ボートが足らず、これが原因で多くの人が海上に投げ出されて死亡する原因となったことを受けての処置でした。
タイタニックの沈没当時、イギリス商務省の規定では定員分の救命ボートを備える必要がなく、このためタイタニックには乗員乗客合わせて2200人以上もの人が乗っていたのにもかかわらず、1178人分のボートしかありませんでした。
このようにタイタニックに少ない数のボートしか搭載されていなかった理由としては、タイタニック起工直前の1909年1月に起こった大型客船「リパブリック号」沈没事故も影響していたといわれています。
リパブリック号沈没事故では、他船との衝突から沈没まで38時間もの余裕があり、その間に乗客乗員のほとんどが無事救出されたことから、大型客船は短時間で沈没しないものであり、救命ボートは救援船への移乗手段であれば足りるという見方がこの当時は支配的になっていたのです。
しかし、タイタニックの教訓からブリタニックではこのように多数のボートが搭載されることとなり、しかもクレーンによって短時間で多数のボートを下ろすことが出来るよう改良されていました。
さらに、ホワイト・スター・ライン社はこの新型船の船長の選定にもかなりの気を配りました。
タイタニックの船長であった、エドワード・ジョン・スミスはこの当時、世界で最も経験豊かな船長の一人という名声を築き上げており、このためこの当時世界最大の船であったオリンピック級客船のネームシップでもある、オリンピックの最初の船長としてもその就任を請われることになりました。
その処女航海は、リバプールからニューヨークに向けて行われ、1911年6月に無事終了しましたが、ニューヨーク港に接岸する際、オリンピックは12隻のタグボートのうち1隻を右舷スクリューが発生させた後流によって衝突させてしまいました。タグボートは反転し、巨大なオリンピックの船体に衝突しましたが、この時は大きな事故にはなりませんでした。
ところが、この三か月後の9月、スミス船長が操船するオリンピックは初めて大きな事故を起こします。イギリス海軍の防護巡洋艦ホークと衝突し、この事故でホークは船首を破損し、オリンピックもまた防水区画のうち2つが破壊され、プロペラシャフト1つが折れ曲がりました。
しかし、このとき、オリンピックは幸いにも自力でサウサンプトン港に戻ることができました。
このように、オリンピック、タイタニックの船長を務めたエドワード・ジョン・スミスは、船長としての経験は長かったものの、巨大船に充分慣れていなかったといわれており、ホワイト・スター・ライン社としても、タイタニックの沈没によってそのことを遅まきながら認識したのでした。
このため、ブリタニアの就航にあたっては、当時オリンピック級に匹敵する巨大船、ルシタニア・モーリタニア・アキタニアといった船を保有していたキュナード・ライン社から、こうした大きな船の扱いに熟練したチャールズ・バートレットを引き抜き、彼の指導のもとにブリタニックの艤装工事を完成させました。
そして、ブリタニックが進水すると、そのまま彼を横滑りで船長に就任させました。
このとき、タイタニック沈没以前に内定していた船名ガイガンティック(Gigantic)をブリタニックと改名していますが、実はこのブリタニックという名前の船には先代がありました。
同じくホワイト・スター・ライン社が1874年に建造した客船であり、蒸気船でしたが補助用の帆も備え付けられていたため、快速を誇り、1876年にブルーリボン賞を受賞、その後も30年もの長きに渡って客船として活躍しました。
この船も進水直前に当初の船名「ヘレニック」から「ブリタニック」と改名されており、過去に同社が保有した数々の船の中でも特に優れた船として名を残していることから、どうやらこの二代目の名称変更もそのゲンを担ごうとしたのでしょう。
こうして1914年に進水式を迎えたブリタニックですが、ちょうどこの年に第一次世界大戦が勃発しており、その就航は翌年の1915年に延ばされました。しかし、竣工直後の1915年12月、イギリス海軍省の命により病院船として徴用されることになりました。
このとき、ブリタニックの黒い船体は純白に塗りかえられ、船体には緑のラインと赤十字が描かれることとなりました。
ちなみに、この時、姉妹船のオリンピックもまた軍に徴用され、軍事物質輸送船として戦場に狩り出されており、この船もまた船体に迷彩色が加えられるなどその外見に手が加えられています。
こうして、1916年11月12日14時23分、ブリタニックはギリシアのレムノス島へ向けてサウサンプトンから出航ました。この航海は、ブリタニックにとっては地中海での6度目の航海であり、その航路は馴染のものでもありました。
11月15日夜中にジブラルタル海峡を通過し、11月17日朝には石炭と水の補給のため、イタリアのナポリに到着。しかし、折悪しく嵐が発生しており、このためブリタニックは19日午後までナポリに滞在していました。
が、その後一時的に天候が回復したため、ブリタニックは出航します。心配されていたように、出航後すぐに再び海は荒れ始めましたが、翌朝には嵐は収まり、ブリタニックは、イタリア最南部にあるシチリア島とイタリア本土との間にあるメッシーナ海峡付近を無事に通過しました。
ところが、翌21日の朝、ギリシャ南部の島々のひとつ、ケア島付近にあるケア海峡に入ったところ、突如ブリタニックの船底付近で大きな爆発が生じました。
のちにこれはドイツ軍が敷設した機雷に触雷したためとわかりましたが、このとき、船長チャールズ・バートレットはエンジンを停止し、防水扉を閉じるよう命じました。ところが、なぜか浸水は止まらず、船体はどんどん傾いでいきます。
しかたなくエンジンを再起動してケア島に乗り上げようとその方向に向かおうとしましたが、船体への浸水の勢いは止まらず、たったの50分ほどで沈没することとなりました。
こうしてタイタニックの沈没を教訓として厳重に施された防水対策は何の効果も果たさず、ブリタニックは、ケア海峡付近の海面下120m下に永遠に沈むことになったのでした。
氷山に衝突して沈没したタイタニックは、防水壁の改良などが行われたブリタニックよりも長く浮き続け、2時間40分ほども持ちこたえましたが、このブリタニックの沈没までの時間はその3分の1にも満たないものでした。
しかし、この沈没では死傷者は少なく、死者の21名の大半は、船尾が持ち上がり始めた際にスクリューに巻き込まれた2隻のボートに乗っていた人員でした。
この2隻のボートの唯一の生存者は、タイタニックでも女性客室係を務めていたヴァイオレット・ジェソップという女性でした。このとき彼女は救急看護隊として、たまたまブリタニックに乗船していたもので、この事故のときも看護婦の制服を着ていたといいます。
救命ボートがブリタニックの巨大なスクリューに破壊され始めたとき、幸運なことに彼女はちょうどボートの下に潜りこむ位置にいたため、頭蓋骨折の重傷を負いながらも生き延びることができたのでした。
この2隻のボート以外でブリタニックに乗船していた人たちは、沈没までの時間が少なかったにもかかわらず、タイタニック以降増やされた救命ボートのおかげで、ほとんど救助されています。沈没した場所がギリシャ南部の地中海であり、海水温もそれほど低くなかったことも犠牲者が少なかった理由でした。
オリンピック
一方のオリンピックは、タイタニックの沈没後、未だブリタニックの造船も進んでいない当時、一船体制で大西洋を駆け巡っていました。タイタニックの沈没を受けて、ホワイト・スター・ライン社はオリンピックの船体側面を二重構造化し、救命ボートの数を倍以上に増やすなどの措置を施し、タイタニックの沈没後の乗客の信頼を取り戻すのに必死でした。
就航当時は、タイタニック同様、世界で最も巨大な船であり、それゆえに“絶対に沈没しない”という不沈伝説まで生まれましたが、タイタニックの沈没によってその伝説も海の底に沈んでしまっていました。
前述したとおり、オリンピック自身も、その処女航海で船長を務めたエドワード・ジョン・スミスの不慣れな操船から、タグボートを巻き込みそうになったり、イギリス海軍のエドガー級防護巡洋艦「ホーク」と衝突事故を起したりと、その先行きはタイタニックの悲劇を暗示しているかのようでした。
実は、タイタニックが沈没したとき、このオリンピックもタイタニックからのSOSを受信し救難に向かった船の一隻であったというのは、あまり知られていない事実です。
しかし、このとき、両船は800kmも離れており、沈没現場に到着したのは先に到着したカルパチアが遭難者を救助した後であり、姉妹船を助けることはついにできませんでした。
その後、1914年に勃発した第一次世界大戦において、その当初オリンピックは軍からの徴用を免れていました。ところが、1914年10月、アイルランド北方でイギリスの戦艦オーディシャスがドイツ軍が敷設した機雷に触雷したため、軍からこの曳航を要請されることとなり、初めて軍務につくことになりました。
このとき、既にブリタニアは病院船として軍に徴用されており、オリンピックもまた戦争から逃げることはできなかったのです。
このオーディシャス号の救助ですが、その現場にオリンピックは駆けつけ、牽引ロープを取り付けて曳航を始めたものの、直後の荒天のためにこの曳航綱が切れ、結局、オーディシャスは沈没してしまいました。
この翌年の1915年9月には、オリンピックはイギリス海軍省の命を受け、正式に軍用輸送船として徴用されることになりました。
こうして12ポンド砲と4.7インチ機関銃を取り付け、1915年9月24日に「輸送船2410」と軍艦らしい名前を付けられたオリンピックは、リバプールからトルコ西北部に位置するガリポリに向けて部隊を輸送する任務につき、その後も主に東地中海を中心として輸送任務を続けることになりました。
そんな中、病院船としての徴用を命じられていた姉妹船のブリタニックが、1916年11月にドイツ軍の機雷に触れて沈没してしまいます。このころオリンピックは、カナダ政府の要請に答え、北米カナダ東岸のハリファクスからイギリスへの部隊輸送を行っていました。
ブリタニックの沈没の報に接したことから、1917年からは更に軍備を増強することになり、それまでの装備に加えて6インチ機関銃が装備されるとともに、船体には迷彩塗装が施されました。また、この年にアメリカが参戦すると、オリンピックにはカナダに加えてアメリカからもイギリスへの大量の部隊輸送を行うことが命じられました。
こうして黙々と北米とイギリスの間を往復しながら多くの兵士を運んでいたオリンピックですが、1918年の5月2日、オリンピックは、突如ドイツ潜水艦Uボートから雷撃を受けました。
ドイツ語の「U-Boot(ウーボート)」は「Unterseeboot(ウンターゼーボート、水の下の船)」の略語であり、潜水艦を意味します。第一次世界大戦勃発当時、イギリス海軍の装甲巡洋艦3隻を立て続けに撃沈したのを皮切りに、その後もイギリス戦艦「トライアンフ」と「マジェスティック」を撃沈しており、Uボートの勇名は世界に轟いていました。
これらの戦果に自信を付けたドイツ海軍は、イギリス周辺の海域を交戦海域に指定し、イギリスに向かう商船に対する無制限潜水艦作戦を開始していたのでした。
このときオリンピックを攻撃したのはU-103というコードネームを持ち、この船もまた5回の任務をこなし、8隻の船舶を撃沈した実績を持っていました。
一方のオリンピックのこの時の船長は、バートラム・フォックス・ヘイズという人物で、ホワイト・スター・ライン社の先任船長を長らく勤めた民間人でした。
しかし、のちにイギリス海軍の志願予備員にも登録していることなどからもわかるように、かなり勇猛な男だったようで、このとき、ヘイズ船長はこともあろうに、この巨大船を用いてUボートに反撃を加えようとしました。
Uボートは魚雷を発射してオリンピックを仕留めようとしましたが、この雷撃を回避したオリンピックは、その高速を生かして回頭してUボートの側面につけ、衝角攻撃を試みました。
オリンピックの最大速力は21ノットであり、これに対してUボートの速度は、浮上時でも17ノット程度、潜航時には9ノットにすぎません。
このとき、Uボートは魚雷発射のために半潜航状態であり、速力を出してオリンピックを回避することができなかったのでしょう。このため、このオリンピックの反撃は功を奏し、巨大な船体を体当たりさせて乗り上げたため、U-103はその船体を真っ二つに破断されて沈没しました。
第一次世界大戦中において、商船が軍艦を撃沈したのはこの事例が唯一のことだったそうです。
輸送船が戦闘艦に反撃を加えるというも無謀なこの行為にはこの当時批判もあったといいますが、艦長のヘイズは、この戦績により、アメリカ政府から殊勲十字勲章を授与されています。
その後、第一次世界大戦を通して、オリンピックは34万7千トンもの石炭を消費して、12万人の兵員を輸送し、18万4千マイルを走り、無事に終戦を迎えました。
戦後は再び、客船として就役し、その後20年近く現役の客船として栄光を保ち続け、500回もの大西洋横断をこなし、晩年には「Old Reliable」という愛称で親しまれ、1935年に引退しました。
このオールド・リライアブルという愛称は、「頼もしいおばあちゃん」というような意味合いでしょうが、私はこれを「肝っ玉バアさん」と訳したいと思います。Uボートを撃退し、多くの軍務をこなした上に、長年客船としての実績も積んだこの船には、勲章さえもあげたいほどです。
オリンピックは戦後の民間復帰にあたって、点検を受けたそうです。その際、喫水線の下にへこみが見つかったといい、これを詳しく調査をした結果、この痕跡は不発の魚雷が衝突した痕であることが確認されたといい、これがもし爆発していれば、沈没は免れなかったと考えられます。
おそらくは、Uボートと格闘したときに放たれた魚雷だったと思われ、不運に見舞われたタイタニックやブリタニックとは対照的に、オリンピックには守り神がついていたとしか考えられません。
不幸で短命だった姉妹船のタイタニック、ブリタニックとは異なり、24年におよぶ長い就航期間と、「軍艦」としてのその輝かしい活躍ぶりから、その引退は惜しまれましたが、1935年(昭和10年)には現役を退き、解体されることが決まりました。
ところが、豪華な内装を持つこの船を廃棄するのは惜しいという声があがり、その内装の一部はオークションにかけられました。そしてそのダイニングの内装一式は、イギリスの裕福な夫人によって買い取られ、この人物はこれを屋敷で再利用して使用していたといいます。
夫人の死後、その屋敷もまたオークションに出されていましたが、世界有数の船会社であるロイヤル・カリビアン社が落札。かつてのオリンピックのダイニング内装は再び、この会社の保有船である「ミレニアム」という2000年竣工の豪華客船のレストランに使用されることが決定されました。
この船は現在も現役で就航しており、そのレストランは今も「オリンピック・レストラン」という名で呼ばれ、当時のオリンピックのダイニングがそのまま再現されて利用されているといいます。
オリンピックで使われていた食器類も飾られており、タイタニックとほとんど同じ内装であることから、かつて映画「タイタニック」がヒットして以降、今もこのレストランは連日の人気だということです。
80年目の真実
1985年9月1日、海洋地質学者ロバート・バラードの率いるアメリカのウッズホール海洋研究所とフランス海洋探査協会の調査団は、海底3650mに沈没したタイタニックを発見しました。
この時の調査では、海底のタイタニックは横転などはしておらず、船底を下にして沈んでおり、4本あった煙突のうちの第3煙突の真下当たりで引き千切れており、これまでも沈没に際しては海上で船体が2つに折れたのではないかという説が主張されていましたが、これが初めて確実に立証されました。
深海に沈んだタイタニックの船首部分にはいまだ手摺が残り、航海士室の窓ガラスも完璧な状態で残っており、また船内にはシャンデリアを始め多くの備品が未だ存在し、Dデッキのダイニングルームには豪華な装飾で飾られた大窓が未だ割れずに何枚も輝いているそうです。
客室の一室の洗面台に備え付けられていた水差しとコップ、また別の客室の暖炉に置かれていた置時計は沈没時の衝撃に耐え、現在でも沈没前と全く同じ場所に置かれていることなどから、船首部分は海底に叩きつけられたのではなく、船首の先端から滑る様に海底に接地したと考えられています。
しかし、深海では通常バクテリアの活動が弱いために船体の保存状況は良いのではないかと当初いわれていましたが、運悪くこの地点は他の深海に比べ水温が高い為にバクテリアの活動が活発で船の傷みは予想以上でした。
このため、現在のタイタニックはこれらの鉄を消費するバクテリアにより既に鉄材の20%が酸化されており、2100年頃までに自重に耐え切れず崩壊する見込みだといいます。
一方、病院船として徴用されたまま触雷して沈没したブリタニアも、沈没から80年ぶりの1996年にケア海峡で本格的な探査が行われました。
タイタニックより改良を加えたはずの船がなぜ短時間で沈んだのかは、最近まで謎であり、第一次世界大戦後にも英海軍が調査を行いましたが、その原因については結論がでていませんでした。
沈没当時のチャールズ・バートレット船長は、Uボートの魚雷によるものと考えていたといいますが、戦後のドイツ側の調査で、ブリタニックが触雷する3週間前にUボートの一隻である、U-73がケア海峡に12個の機雷を敷設したという記録が発見されました。
そして、このときのUボート艦長であったグスタフ・ジースもまた戦後にこれが事実であったことを証言しています。
しかし、それにしても厳重な防水対策を施した巨船がたった一発の機雷だけで沈没するとは考えにくく、何等かの別の要因があったのではないかと専門家たちは首をかしげていました。
この時の調査では、120メートルの海底に沈むブリタニアの船体内部に潜水士が入り、機関室やボイラー室なども詳しい調査が行われ、その結果、閉じたはずの防水扉が何箇所か開いていることがわかりました。
ブリタニックの就航当時、敵潜水艦が出没する海域では防水扉を全て閉じることになっていました。が、それでは日々の運行上、不便極まりないため、万一のときには扉の横にある手動レバーで閉じればいいという理由がつけられ、一部の防水扉は開けっぱなしになっていたといいます。
しかし、その他の大部分の防水扉は電動で開閉できるようになっており、これは被雷時には閉まっていたはずでした。ところが、調査によればこれらの自動扉も一部が解放されていました。このため、触雷したときのショックかなにかで電気系統が故障し、開いたままになってしまったのではないかと推定されました。
さらには、規則により全て閉じられていたはずの舷窓が多数開いていたことも分かりました。
ブリタニック号はもともと北大西洋航路用の船であり、冷房はありませんでした。このため、温暖な地中海航路では、ボイラー室の真上にあり、海面にも程近い底部のEデッキなどでは相当蒸し暑かったに違いなく、これはそのために乗員たちが規則違反であることを知りながら、多数の窓を開いていたものと推定されました。
このほか、船腹の鋼鉄を留めているリベットの当時の施工技術にも問題があったのではないかといわれていました。
これを裏付けるように、ボイラーを守っていた2重の外板のうちの一部の鋼板が内側から外へ向かってめくり上がっているのもみつかりました。
これはブリタニアの建造にあたり、現在ではまず使われることのない燃鉄製などの低い品質のリベットが使用されていたこともあり、爆発の衝撃でこれが抜け落ち、結果としてこうした部分から大量の海水の浸水を許す結果となったものとわかりました。
ブリタニアの沈没原因としては長年、その石炭庫で粉塵爆発があったのではないかということも取りざたされていましたが、結局、調査の結果、船体にはそうした痕跡もみとめられませんでした。
これらの結果、ブリタニックは、触雷時にあちこちの扉や船腹に穴が空いたザルのような状態にあったことがわかり、これにより多量の海水が船内に流れ込み、沈没を早めてしまったのだろうと推測されました。
このほかにも、沈没地点の南の海底域に、機雷の基部と思われる物体や本体の破片がソナーで確認され、敷設海域がドイツ側の記録と一致したことから、この沈没はバートレット船長が主張したような魚雷ではなく機雷が起因となったことも明白になりました。
こうして、タイタニックの教訓により大きな改良が施されながらも、その機能が十分に発揮されなかったブリタニアが短時間で沈没した原因は突き止められ、オリンピック級として造られた三姉妹のすべての最後が明らかになりました。
それにしても三隻のうち、沈没を免れ、戦後まで長く生きぬいたのは最後に建造され、数々の改良が加えられたブリタニアではなく、最初に建造されたオリンピックだけであったというのは皮肉なものです。
タイタニックよ永遠に
2013年の今年、オーストラリアの資産家によりタイタニック号のレプリカのタイタニック2号の建造計画が公表されました。タイタニック2号(Titanic II)と言う名称になる予定だといい、これは、沈没したタイタニックのレプリカとして考案・計画されている遠洋定期船です。
この建造プロジェクトは、2012年4月に、オーストラリアの資産家であるクライブ・パーマー氏によって発表されたもので、タイタニック2号は、パーマー氏が所有するクルーズ会社のフラッグシップ客船として位置付けられることも決定されました。
この会社名は、その名も「ブルー・スター・ライン」というそうで、無論、かつての「ホワイト・スター・ライン」を文字ったものでしょう。
設計については、フィンランドのデルタマリン社が担当し、中国の国営造船会社である長江航運集団金陵造船所が建造を請け負うことで、同年に契約締結がなされました。処女航海は、タイタニック号が沈没してから104年後にあたる2016年で、サウサンプトンからニューヨーク間のルートを予定しているといいます。
既にオリンピック級の三姉妹の豪華客船はこの世から姿を消していますが、レプリカとはいえ、我々がまだ生きているうちに再びまたその雄姿を見ることができるということで、船好きの私としてはワクワクしてしまいます。
一方、海底に沈み、朽ちゆくタイタニックは、現在もバクテリアに蝕まれ、徐々にその姿を消していっています。
しかし、最初の発見後には、度々潜水探査船による調査が行われており、特に映画「タイタニック」の製作時には、キャメロン監督によって2台の潜水調査船やリモートコントロール探査機が使用され、詳細な画像が収録されており、このときの記録は永久に残されていくでしょう。
ただ、その一方で、無断で海底の遺品を収拾する行為も広く行われているといい、一部の遺品は利益目的に販売されていることなども発覚しており、非難を集めています。
このため、2004年6月、タイタニックを発見した海洋地質学者ロバート・バラードとNOAAはタイタニックの損傷状態を調査する目的で探査プロジェクトを行い、その後、バラードの呼びかけにより「タイタニック国際保護条約」がまとまりました。
そして、同年6月18日、アメリカ合衆国がこの条約に正式に署名しました。この条約はタイタニックを保存対象に指定し、遺物の劣化を防ぎ、違法な遺品回収行為から守ることを内容としています。
タイタニックよ永遠にあれ、は現実的には難しそうです。が、だとしても、違法な収集による遺物の散逸を防ぎ、その一方では合法的に遺品を回収して、少しでもその当時の美しい姿を後世に残していってほしいものです。
さて、今日はお気に入りのテーマでもあり、いつもにもまして更に長くなってしまいました。終りにしたいと思います。